鎌倉上道と武蔵武士史跡(下)―歴史雑感〔80〕―

 2022年10月29日(土)午後、「国史跡鎌倉街道上道と武蔵武士ゆかりの史跡を巡る」を続けます。北上した最初の地が笛吹峠(比企郡鳩山町須江)です。正平7年(1352)に宗良親王を奉じた新田義宗が峠に陣して足利尊氏と合戦を行っています。写真1は、戦前に県が立てた「史蹟笛吹峠」石碑です。実際の鎌倉街道上道の峠は道路の東に行った将軍沢の谷間であり、現在は廃道となっています。

 さらに北上して、写真2の、大蔵館跡(比企郡嵐山町大蔵522)に至ります。大蔵神社となっています。源義賢の館跡とされており、現存の遺構から東西170m、南北220m、面積4万㎡の規模を持つ土塁と堀を巡らした方形館です。現存する大館と発掘調査で確認された方70mの小館(北西面)からなっています。発掘調査により12~15世紀にかけて活動していたことが確認されます。場所的には東約100mに鎌倉街道が南北に走り、北に都幾川の河川交通の交わる大蔵宿がありました。ここは、久寿2年(1155)8月、源義朝の長男義平が攻撃し、叔父義賢と養君とした秩父重隆を討取った大蔵合戦の地です。これにより義平は悪源太の威名を轟かします。

 写真3は、大蔵神社内から見た西南角の土塁跡です。西南角は一段と高く、館の中心と考えられます。

 写真4は、大蔵館跡の東に位置する源義賢墓(比企郡嵐山町大蔵66)の五輪塔です。火輪・水輪部のみ現存し、風輪部は欠損し、空輪・地輪部は後から補ったものです。県内最古の部類に属します。コンクリートの覆堂内にあります。左側から撮ったものです。

写真5は、右側上から撮ったものです。

 菅谷館跡(比企郡嵐山町菅谷757)へと移動し、写真6は、二郭土塁上にある畠山重忠像です。本館跡は武蔵国最大の武士団である秩父一族の長男流の畠山重忠の居館とされた地です。ただ、発掘調査では鎌倉期の遺構等は確認されておらず、現遺構は戦国時代の城跡といえます。写真6は、畠山重忠像です。

 時間の関係で本郭、一ノ郭、二ノ郭、西ノ郭、南ノ郭からなる館跡全体を見学することはできず、写真7の、本郭のみです。門土橋前から右へと土塁と空堀を撮りました。

 写真8は、本郭南部から北へと土塁を撮りました。

 次いで、写真9は、三門館跡(比企郡滑川町和泉1237)です。源頼朝の乳母比企尼の夫比企遠宗の館との伝承のある所です。北西と南東を丘陵で囲まれた地で、発掘調査で北西丘陵上に南北に180mの空堀が認められ、北端から東に50mほど延びています。空堀の両側には土塁が認められます。但し、平地ではなく東西の丘陵地に土塁・空堀を設けた館は例がなく、極めて特異な館跡といえます。西の丘陵上で撮ったものです。。

 さらに進み、写真10は、曹洞宗扇谷山宗悟寺山門(東松山市大谷400)です。本寺は当地を知行した旗本森川氏の菩提寺です。比企尼の居宅があったとの伝承のある、寺西北の比丘尼山にあった大谷山寿福寺を天正20年(1592)に移転し寺号を変えました。

 写真11は、本堂です。

 写真12は、源頼家の妾比企能員の娘若狭局が逃れて持ち帰ったと伝承のある源頼家位牌です。本堂本仏の右前脇にあります。3行にわたって、「鎌倉二世源姓頼家」「長福寺殿當寺開基大相国公一品寿福義仁大居士」「元久元年甲子七月一八日」、記されています。明らかに江戸時代のものと思われます。

 写真13は、左前脇のある蛇苦止観音像です。若狭局が夫頼家を失った苦しみから逃れるために祀ったとの伝承のあるものです。なお、比企尼が若狭局の悲しみを去らせるため、頼家形見の櫛を沼に沈めさせたとの伝承のある串引き沼が本寺の北、比丘尼山の北東に接してあります。

 写真14は、本堂左前に立つ「比企一族顕彰碑」です。1994年建立です。

 写真15は、宗悟寺に入る道から見た比丘尼山で、右の奥の丘陵です。

 坂東十一番札所の吉見観音として親しまれている真言宗智山派岩殿山安楽寺(比企郡吉見町御所374)に移動しました。源範頼が本寺で幼少期を過ごしたとの伝承があります。写真16は、仁王門です。本寺は天文6年(1537)の上杉憲政と北条氏康との松山城合戦で全山消失しています。元禄15年(1703)に再建されました。

 写真17は、本堂です。寛文元年(1661)に再建されたものです。本堂と次の三重塔は範頼が建立したと伝えられています。

 写真18は、三重塔です。寛永年間(1624~8)の再建で、現存する最も古い建築物で、総高24.3mです。

 最後の訪問地は真言宗智山派清月山金剛寺(比企郡川島町中山1198)です。本寺は比企左馬助政員・則員親子が中興しました。則員は比企能員の孫員茂の子孫と称していて、旗本となりました。これによりこの地は比企氏館跡とされています。写真19は、本堂の右に入った所にある比企氏の位牌堂である大日堂です。

 最後の写真20は、大日堂の裏にある比企氏の墓地です。左から3番目が比企則員墓(1557~1616)です。

(2022.11.02)

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鎌倉上道と武蔵武士史跡(上)―歴史雑感〔79〕―

 2022年10月29日(土)、武蔵野文化協会主催の「国史跡鎌倉街道上道と武蔵武士ゆかりの史跡を巡る」に参加して埼玉県を巡りました。東武東上線坂戸駅北口に集合して、9時35分にバスで出発しました。

 最初の訪問地は、大類古墳群1号墳の苦林古墳(入間郡毛呂山町川角2238)です。現在の長約23mの前方後円墳で、写真1は、後円部から撮ったものです。頂部に石碑が見えます。

 写真2は、1931年に立てられた「苦林野古戦場之遺蹟」碑です。ここは貞治2年(1362)6月に鎌倉公方足利基氏と宇都宮氏綱重臣芳賀禅阿子息との合戦地です。

 写真3は、奥の前方部に立つ文化10年(1813)銘のある千手観音石仏像です。苦林野合戦の戦死者供養のため里人が建立したものです。

 次に訪問地は十社神社(入間郡毛呂山町大類29)です。写真4は、神社入口から奥に社殿です。本神社は苦林野合戦で芳賀軍の武将岡本信濃守と刺し違い戦死した基氏軍の金井新佐衛門等の10名の戦死者の慰霊のため祀ったもので、当初は十首神社と呼ばれていました。

 写真5は、社殿です。社殿右奥の盛り上がった所は古墳です。「神社境内を含めこの周辺には古墳が群集しており大類古墳群です。、

 次いで写真6の、大類寺(入間郡毛呂山町大類112)です。越生町の新義真言宗の報恩寺の末寺です。

 写真7は、本寺墓地にある板碑です。この他に随所に板碑があります。

 写真8は、宝篋印塔です。上から相輪・傘・塔身・基礎・反花座と揃っています。

 写真9は、寺から南に撮ったものです。寺の辺りは児玉党の大類氏館跡とされています。大類氏は上野国群馬郡大類を名乗りの地とされる小武士です。

 毛呂山町歴史民俗資料館を見学後、学芸員の案内で発掘調査がされ国史跡に指定予定の毛呂山町の鎌倉街道上道(毛呂山町大類)を巡ります。写真10は、発掘調査で石畳があったことが確認された所で、現在は埋め戻されています。

 写真11は、これから少し行った所にある案内標識から見た延宝4年(1676)建立の庚申塚で、川角古墳群の円墳上に立っています。

 街道から離れ左に入ると、写真12の、川角古墳群(入間郡毛呂山町川角)です。

 写真13は、川角古墳群内に立つ延慶の板碑です。延慶3年(1310)の銘があり、約3mの大型板碑で、朝妻氏夫妻の供養塔とみられます。

 写真14は、川角古墳群の地は崇徳寺跡です。この地からは多量の板碑等が発掘された、他の発掘物からも、この地が中世の墓地であったことが確認できます。

 写真15は、毛呂山町大類グランド(入間郡毛呂山町大類717)の立つ堂山下遺跡説明板です。ここらは街道の越辺川渡河点の苦林宿でした。

 最後の写真16は、昼食の場としたおしゃもじ山公園(比企郡鳩山町赤沼2430)の展望台から南に撮ったものです。写真中間に越辺川が左右に流れているのが見えます。西方の山麓を鎌倉街道上道が通っていました。

(2022.10.31)

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第三代将軍源実朝の元服式

 第2代将軍の源頼家が死去し後継に弟三幡との申請により、建仁3年(1203)9月7日、後鳥羽上皇が童の千幡に諱実朝を与え、従5位下征夷大将軍に補任しました。そこで、幕府は、10月8日、実朝の元服式を執り行いました。

 『吾妻鏡』同日条に元服式の記事が記載されています。戌刻(20時)に北条時政の名越邸で儀式が行われました。中原広元、小山朝政、安達景盛、和田義盛、中条家長以下の百人余が侍座に着しました。理髪役が時政、そして加冠役が平賀義信です。陪膳が江間義時・源親広、役走が結城朝光、・和田常盛・同重茂・東重胤・波多野経朝・桜井光高で、鎧等を奉じたのが佐々木広綱・千葉常秀です。以上が儀式に参加したと記述されている面々です。

 ここで将軍の元服式ではありませんが、北条頼時(泰時)元服式の『吾妻鏡』建久5年(1195)2月2日条の記載を見てみましょう。夜に大倉幕府で行われました。侍座に着いたのは、一方に平賀義信、足利義兼、山名義範、加々美遠光、大内惟義、江間義時、藤原重弘、八田知家、葛西清重、加藤景廉、佐々木盛綱、一方に千葉常胤、畠山重忠、千葉胤正、三浦義澄、梶原景時、土屋宗遠、和田義盛、藤盛長、三浦義連、大須賀通信、梶原朝景、一方に北条時政、小山朝政、下河辺行平、結城朝光、宇都宮頼綱、岡崎義実、宇佐美祐茂、榛谷重朝、比企能員、足立遠元、江戸重長、比企朝宗です。加冠は源頼朝が行い、介添えが平賀義信・千葉常胤です。

 頼時には当時の諸大夫門葉全員の義信・義兼・義範・遠光・惟義が、武士御家人のトップファイブである、千葉常胤・三浦義澄・小山朝政・畠山重忠・宇都宮義綱の惣領全員が参席しており、これに準じる有力武士御家人の八田知家・葛西清重・梶原景時・和田義盛・藤盛長・比企能員・足立遠元等も参席しています。これに対して、実朝ではトップファイブの内千葉胤正、三浦義村、畠山重忠、宇都宮頼綱の4人の惣領の名は見えませんし、百人が参席したとしながら、有力武士御家人の名として安達景盛・和田義盛等の他は見えません。ただ、頼時では見えなかった文士御家人では筆頭の広元が名を載せています。

 こうしてみると、本来祝福されるべき第3代将軍実朝の元服式において百人もの参席者がいるとしながら、後に評定衆になるとはいえこの時点では武蔵七党の横山党出自でせいぜい中級御家人であった中条家長を含めても、武士御家人が4人しか記載されていないことは、頼時の元服式と比較して、如何にも寂しいものがあります。このことは頼家排除が実際には北条時政・中原広元との共闘によるクーデターであることは御家人達に知られており、これへの反感が底流にあったことの反映ではないでしょうか。千葉氏等の有力御家人は惣領欠席でこのこと暗に示そうとしたのでしょう。このように考えると『吾妻鏡』に主要参席者の多くが記されていないことが理解できましょう。参席者を多く記することで有力御家人の惣領級が欠席していることがあからさまになることが分かるからです。

(2022.09.26)

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前期鎌倉幕府における武蔵国支配―〔77〕―

一、頼朝期

 伊豆国で反乱蹶起した源頼朝は、治承4年(1180)9月5日、武蔵国府に入り、武蔵国の支配圏を掌握しました。もちろんこれは朝廷の公認によるものではなく、反乱による実力支配です。いわば武蔵国支配の簒奪です。

 元暦元年(1184)に頼朝は知行国として武蔵・駿河両国を給わり、6月5日、義光流信濃源氏の平賀義信が守に補任されました。もちろん頼朝の推挙によるものです。これにより、武蔵国支配は、知行国主源頼朝、武蔵守平賀義信、在庁官人というラインとなりました。そして、武蔵国は幕府滅亡まで関東御分国(将軍知行国)でした。

 ここで、守の業務たる国務はどのような内容を有していたのでしょうか。簡略にいうと下のようになります。

1.所務沙汰 イ所課沙汰(徴税権)ロ訴訟沙汰(裁判権)ハ所司沙汰(人事・公領処分権)ニ雑事沙汰(その他)

2.検断沙汰(警察権)

3.国侍催促(軍事権)

 2と3は表裏一体の権能であり、その意味からいうと1は狭義の国務といえ、すなわち守の権能は国務と検断といってもいいでしょう。守護は以上の守の職能の内、検断、すなわち検断沙汰・国侍催促を権能とし、ここで国侍催促は実際には御家人催促となります。守の権能としては狭義の国務である所務沙汰が残されることになります。

 さて、関東御分国において狭義の国務は政所の管掌となります。すると、検断は守護の管掌となるのですが、東国15か国(遠江・信濃・越後国以東)では前期において基本的に守護はまだ設置されていませんでした。『吾妻鏡』建久6年(1195)7月16日条に、

武蔵国務の事、義信朝臣の成敗、もっとも民庶の雅意に叶うの由、聞こし召し及ぶにつき、今日御感の御書を下される〈うんぬん〉。向後の国司おいては、この時を守るべきの趣、壁書において府疔に置かれられる〈うんぬん〉。

とあるように、普通は知行国の守は国務を掌握しない名目的な守、すなわち名国司ですが、武蔵国は例外的に守義信も国務に関与しました。では、政所と守義信との管掌はどうなっているのでしょうか。完全には解明できませんが、所課・訴訟沙汰は政所、所司・雑事沙汰は両者が分掌していたといえます。そして、政所の下で執行する国務沙汰人=国奉行人として比企能員がいました(『吾妻鏡』同年10月1日条)。御家人催促については上野国と共に侍所の管掌です(『吾妻鏡』文治5年〔1189〕7月17日条)。検断が守義信となります。在庁官人としてはトップたる総検校職の畠山重忠がいますが、検断の一部を管掌〈『吾妻鏡』建久4年〔1193〕2月9日条〉していましたが、他の権能に関しては不明です。以上、頼朝期の武蔵国支配は、政所が所課・訴訟沙汰を管掌し、この下に国奉行人としての比企能員がおり、所司・雑事沙汰を政所と守義信とが分掌し、検断沙汰は基本的に守義信が管掌していましたが、検断の一部を在庁総検校職の重忠が分掌し、御家人催促は侍所の管掌という事になります。

 ところで、義信の正室は頼朝の乳母比企尼の三女です。能員は比企尼甥で養子です。重忠の正室は武蔵国の有力御家人足立遠元の娘であり、遠元の叔父藤九郎盛長の正室は比企尼長女です。このように武蔵国支配に関わる面々は比企尼関係者で、いわば比企ファミリーというべき存在です。すなわち武蔵国支配は比企ファミリーに担われていたのです。ただ、比企尼は文治年間には死去したようなので。建久年間の頼朝期には比企ファミリーは格を失っていた事になります。

二、頼家期

 正治元年(1199)正月13日、初代所軍源頼朝が死去し、嫡男頼家が第2代将軍となりました。当然ながら知行国主は頼家が継承します。武蔵守義信はこれを機に出家し、守を辞任したといえます。補任日時は不明ながら、義信子の朝雅が守を継承しました。守は交代しましたが、基本的に頼朝期と同様な支配体制が継続した事になります。ただ、朝雅は20歳には満たない若年と思われるので、実務に関しては父義信の支えをえたと思われます。以上、頼家期の武蔵国支配は頼朝期の継続でした。、しかし、建仁3年(1203)9月2日に比企氏が滅亡し、事態は大きく転換します。

三、実朝期

 いわゆる「比企氏の乱」により、将軍頼家は引きずり下ろされ、弟の実朝が第3代将軍となります。武蔵国支配では知行国主が実朝に代わり、国奉行人の比企能員が消えます。では、新たな国奉行人は存在したのでしょうか。残念ながらこの存在を示す明確な史料はなく、不明としかいえません。そして、建仁3年10月3日、武蔵守平賀朝雅が京都守護のため鎌倉を離れます。ここに関東に武蔵守は不在となったのです。

 『吾妻鏡』同年10月27日条に、

武蔵国諸家の輩、遠州に対し弐存ずべからずの旨、ことに仰せ含められる。左衛門尉義盛奉行たる、

とあります。ここで「遠州」は北条時政、義盛は侍所別当和田義盛です。このことは時政が検断沙汰と御家人催促を掌握した事を示しています。守の権能の一部と従来侍所の権能を移管された事になります。とすれば、時政は政所別当に就任している以上、政所が管掌している所課・訴訟沙汰と、政所と守とが分掌している所司・雑事沙汰をも移管される事が可能といえます。以上見ると、時政は不在の守朝雅の代理として、守以上の権能を行使しえたといえます。これは総検校職畠山重忠の権能を侵すともいえます。

 元久2年(1205)6月22日、二俣川合戦で畠山重忠は討伐軍により戦死し、続いて、閏7月19日、いわゆる牧の方の変で北条時政は出家して失脚します。さらに、26日、与党として京都で守平賀朝雅が誅戮されます。ここに、守朝雅と守代行時政と総検校職重忠とが消えます。8月9日、武蔵守に足利義氏、遠江守に北条時房が補任されます。ここに、知行国主源実朝、守足利義氏の武蔵国支配の新体制が発足します。ただ義氏は17歳と若年であり、朝雅が京都守護として不在の時、時政が守代行を勤めたように、同様な存在が必要であったのではないかと考えます。すると、これに相応しいのは、失脚した父時政に代わり、幕府を主導する地位に就いた相模守北条義時でしょう。すなわち、新体制は知行国主実朝、守義氏、守代行義時となります。ただ、義時の権能は父時政が余りに強い権能を占めて、反発を買い失脚に経ったことを鑑み、平賀氏期の守の権能を代行するのに止めたのではないかと考えます。

 義氏が任期の4年を終えて、承元4年(1210)2月14日、駿河守から武蔵守に北条時房が遷任します。ここに初めて北条氏が守となったのです。すでに相模守に兄義時が補任されており、幕府枢要の武相両国の守を北条氏が独占した事(なお、頼朝期には平賀氏が独占)になります。ただし、『吾妻鏡』承元元年2月20日条に、「国務の事、故武蔵守義信入道の例に任せ、沙汰せられるべきの旨、仰せ下される」、とあります。このことは時房の守としての権能が義信の時と同様なものであることを示しています。これにより守時房は所司・雑事沙汰を政所と分掌し、検断沙汰(重忠の戦死により、彼の権能は守に吸収)を管掌した事になります。政所は所課・訴訟沙汰を管掌し、侍所は御家人催促を管掌した事になります。比企能員滅亡後に確認できなかった国奉行に遠江守大江親広(広元嫡男)の存在が建保元年に確認できます(『鎌倉遺文』2027号)。さらに、目代藤原某の存在も確認できます(『鎌倉遺文』2028号)。この国奉行人と目代が何時任命されたか不明です。以上、武蔵国支配体制は、知行国主実朝、守時房、国奉行人親広、目代某となり、国奉行人と目代は政所の管掌下にあるといえます。なお、時房は政所の命で荒野開発を行ったり、図田帳作成を行ったりする等、積極的に守としての業務を行いました。ただ、時房が郷司等の補任をしたのに対して、義時長男の泰時が不満をならしたのに対して、義信の先例に従うべきとの裁定が下ります(『吾妻鏡』建暦2年〔1212〕2月14日条)。このことは所司を分掌していた政所、すなわち別当義時が武蔵国の権能の拡大を図ろうとした現れではないでしょうか。

 建保5年(1217)12月12日、武蔵守北条時房は相模守に遷任します。そして、承久元年(1219)11月13日、駿河守北条泰時が武蔵守に遷任します。この間の武蔵守は誰でしょうか。これは民部権少輔大江親広です。国奉行人から守に昇格したのです。。ただ、親広は実朝暗殺後の翌正月28日に出家していますから、ここで辞任した事になります。この親広の武蔵守は、父陸奥守大江広元が病気により建保5年11月に出家して辞任し、この代わりに同年12月12日に北条義時が右京権大夫に陸奥守を兼任しましたから、いわば北条・大江両家の連帯を固持する人事といえましょう。そして、実朝暗殺に伴う親広辞任から泰時補任まで10か月も待たされたのは、いわば後鳥羽上皇の幕府に対する立場を示していましょう。この後、武蔵守は北条氏の独占となり、基本的に執権・連署が座る守となります。

(以上の論述には、

金澤正大、「十三世紀初頭に於ける武蔵国国衙支配」『政治経済史学』第222号1985年1月

伊藤邦彦『鎌倉幕府守護の基礎的研究【国別論証編】』2010年4月岩田書院

を参照しています)

(2022.09.10)

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北条政子は源頼朝の正室に何時なったのか―歴史雑感〔76〕―

 貴族社会では男子が複数の妻を娶るのは普通のことでした。複数の妻の内正妻が正室と呼ばれました。では、正室はどのように選ばれるのでしょうか。一般的にいえば、単に愛情の大小ではなく妻の門地が大事でした。複数の妻の内で最高の門地の妻が正室となるのが普通でした。例えば、藤原道長の妻は左大臣源雅信の娘倫子、左大臣源高明の娘、中納言源重光の娘が知られていますが、高明は政変で失脚しており、倫子が正室、すなわち御台所となっています。道長と倫子は大臣家と門地は同格といってもいいのです。このように、妻の中で最高の門地、いわば同格の門地の妻が正室となるのです。もちろん、格下の門地の妻が正室の場合もあります。摂関家九条家の祖兼実の御台所は従3位藤原季行の娘でした。

 12世後期には家業の継続を目的とする日本的家制度が成立していました。その頂点が天皇家で、順に大臣(後の摂家・清華家)、公卿(後の羽林家・名家・半家)、諸大夫(4・5位)、侍(6位)が基本的ランク(家格)で、以上がいわゆる支配階層になります。

 以上のことを頭に入れて、改めて源頼朝の正室、すなわち御台所を考えてみましょう。関幸彦氏『北条政子』2004年ミネルヴァ日本評伝選で、頼朝の治承4年(1180)12月12日の大倉新御御所移徙の儀をもって、北条政子が御台所、すなわち正室となったと述べています。この儀は後に鎌倉幕府に発展する鎌倉政権最初の儀式ですから、政子は幕府発足から頼朝正室(御台所)であったということになります。要するに最初から政子は頼朝正室であったということです。この見方は普通です。そこで、この見方は妥当なのか改めて検討してみましょう。

 寿永元年(1182)8月12日、北条政子は頼朝長男万寿を出産しました。後の頼家です。11月10日、亀の前が居る伏見広綱宅を政子の命令により牧宗親が破却しました。これを知った頼朝は翌日宗親を呼び出して髷を切り落としました。ところが、時政はこれに怒り伊豆へ帰ってしまいました。頼朝は、義時の所在を確かめたところ、鎌倉に留まったと知り、激賞しました。亀の前は良橋入道の娘で伊豆流人の時から親しく、鎌倉に招き寵愛していた女性です。これはいわゆる後妻打ちとして、政子の悋気の強さを表すものとして知られています。

 当時の貴族にとって複数の妻を持つことは一般的でした。政子の出産の近づいた7月、新田義重が頼朝の勘気を蒙りました。義重の娘で異母兄義平の未亡人に頼朝が結婚を申し出たのを義重が断ったからである。頼朝は従5位下左兵衛権佐、義重は従5位下大炊助と、両人とも家格的に諸大夫であり釣り合っています。北条時政は無位無官の家格的には侍と、諸大夫・侍(6位)・侍(無位)の家格順からは義重と比較にならない下位でありました。とするなら、頼朝と義重の娘との結婚は正室を意図したものといえます。このことは政子に子供がいたとしても、頼朝はまだ政子を正室扱いしていなかったこと、すなわち側室であると思っていたことになります。それなら亀の前を側室とするのも当然なのです。亀の前への寵愛はその後も続き、頼朝の妻は政子と亀前の2人であったのです。

 以上から、政子は亀の前を頼朝の妻の座を巡る競争相手として危機感を持っていたことになります。これがいわゆる後妻打ちの挙に出たことになります。時政も同様な思いでしたでしょう。しかし、頼朝の反応は時政舅宗親の髷を切るという最大限の恥辱を与えました。時政は面目を潰され、政子の妻の座をも否定しかねないと、抗議のストライキ的行為として伊豆に帰国したことになります。時政が何時頼朝との関係を修復し鎌倉に戻ったかは不明ですが、長ければ平家滅亡後となるでしょうか。この亀の前事件を巡っては、永井晋氏(『北条政子、義時の謀略』2022年ベストブック)も、政子と亀の前は共に妻であり、、まだ正室ではなかったとします。

 10月24日、父源義朝廟地となる勝長寿院落慶供養が頼朝の主催で行われました。堂前の左仮屋に頼朝、右仮屋に一条能保正室(頼朝同母妹)と北条政子が座しました。このことは政子が正室として処遇されたことを示していましょう。すでに従2位に昇叙され散位とはいえ、公卿の家格に上昇した頼朝に取って家格見合った正室なら、京都の公家から娶るしかありません。しかし、そうはせず政子を正室に据えたことは、北条時政が内乱での功績により新恩給与されたとしても、本来の小武士から大幅な勢力拡大をなしたとはいえず、無位無官の侍であり、家格の高い公家や諸大夫の河内源氏(平賀・足利氏等)と異なり、頼朝から見れば外戚権を頼りに容喙されることはない、と判断したからといえます。

 以上、政子は当初から正室ではなく、単なる妻の一人でしかありませんでした。平家が滅び内乱が治まり、頼朝の家格も上昇して公卿となり、公的にも正室を定めることが必要とされたでしょう。そこで、無位の侍の北条氏出身の政子なら、外戚の干渉を受けることがなく、すでに政子所生の長男万寿が成長しつつあり、万寿を嫡子とするにも正室と政子を定めることは意味があるでしょう。従って、勝長寿院落慶供養の場を政子を正室とするお披露目の場ともしたといえます。

(2022.07.26)

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伊勢神宮(3)伊勢神宮内宮・金剛證寺・朝熊山展望台

 2022年5月27日(金)、7時58分にホテルを出発し、九時55分、伊勢神宮内宮に到着しました。内宮参拝では案内人が付きました。写真1は、宇治橋です。ご覧のように修学旅行生が渡っています。高校・中学校・小学校と複数の修学旅行生を見かけました。コロナの旅行規制がなくなり、旅行が回復傾向な印でしょう。

 写真2は、五十鈴川の強水時に宇治橋を保護する漂流物止めです。

 写真3は、宇治橋の擬宝珠です。

 写真4は、第一鳥居です。

 写真5は、五十鈴川御手洗場です。前日の雨のため閉鎖されていました。

 写真6は、正宮です。

 写真7は、正宮手間の道を上がっていたところにある外幣殿です。

 写真8は、正宮の裏口から撮ったものです。奥の一段と高いところが古殿地です。

 写真9は、奥にある荒祭宮です。

 写真10は、右が荒祭宮で左が古殿地です。

 参道に戻り、第二鳥居手前ので、道を左に取ると、写真11の、風日祈宮橋です。橋を渡ってるのは神宮衛士です。

 写真12は、古殿地からの風日祈宮です。

 写真13は、風日祈宮です。

 帰路を進み日除橋の先に見えるのが、写真14の、御厩です。

 御厩には神馬が飼われていました。写真15が、そうです。神社の御厩で神馬がいるのは珍しいです。以上で内宮参拝は終わりです。おかげ横丁での自由昼食です。12時5分に出発しました。

1 2時23分、勝峰山金剛證寺に着きました。写真16は、仁王門です。

 写真17は、連間の池と奥に連珠橋です。

 写真18は、本堂です。本尊は福威智満虚空蔵大菩薩です。

 写真19は、奥之院への極楽門です。

 奥之院への参道の山側が墓地となっており、ここに、写真20の、九鬼嘉隆(1542~1600年)の墓があります。嘉隆は志摩を本拠とする水軍大名で、関ヶ原合戦の時に西軍に付き戦後自害します。

 写真21は、勝峰山呑海院(金剛證寺奥之院)です。

 戻り、写真22は、明星堂です。

 写真23は、開山堂です。13時1分に出発しました。

 本ツアー最後の訪問地の朝熊山展望台に、13時4分に到着しました。写真24は、朝熊山展望台石碑を写し込んだものです。

 写真25は、東に鳥羽市市街へと撮ったものです。中央左が答志島(九鬼水軍本拠地)、右が菅島、奥が渥美半島です。

 写真26は、南に志摩市街へとです。

 最後の写真27は、答志島と鳥羽市市街です。15時23分、出発し豊橋駅に、17時2分、到着しました。18時9分発の新幹線で帰路でツアーは終わりです。

(2022.06.04)

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伊勢神宮(2)伊勢神宮外宮・横山展望台

 2022年5月26日(木)、9時にホテルを出発し、9時55分、伊勢神宮外宮に到着しました。写真1の、表参道日除橋から外宮に入ります。

 一の鳥居を過ぎ、写真2は、二の鳥居です。

 写真3は、古殿地(式年遷宮予定地)からの本宮です。

 写真4は、古殿地です。

 写真5は、本宮正面です。ここから入り参拝です。

 写真6は、出口からの本宮です。

 写真7は、本宮の南にある別宮の多賀宮です。山の頂にあるので古くから高宮と呼ばれていました。

 写真8は、多賀宮にも古殿地があり、これからの宮です。

 戻って左手に入ると谷間に、写真9の、下御井神社です。

 戻りさらに左手にあるのが、写真10の、土宮です。

 写真11は、土宮の古殿地を入れて撮ったものです。

 土宮の反対側は、写真12の、風宮です。

 写真13は、風宮の古殿地です。

 写真14は、手前が九丈殿、奥が五丈殿です。

 写真15は、北に進んだところにある御厩です。

 写真16は、北参道の日除橋です。

 写真17は、せんぐう館(式年遷宮資料館)から見た勾玉池です。以上で外宮参拝は終わりで、外宮参道での自由昼食です。12時18分、出発しました。

 13時24分、横山展望台(三重県志摩市浜島町迫子)駐車場に到着しました。雨模様で上り5分余りで展望台です。写真18は、展望台から英虞湾を俯瞰したものです。幸いに雨は上がりましたが、曇天なので海の色は冴えませんが。

 写真19は、左(東)に志摩市街を入れたものです。

 写真20は、英虞湾を少し拡大したものです。14時5分に出発しました。

 14時34分、本日最後の訪問地、神明神社(三重県鳥羽市相差町)駐車場に着きました。写真21は、神社鳥居です。奥に本殿が見えます。

 写真22は、右に本殿、左に楠が納められている長寿の館です。

 最後の写真23は、神木の楠です。現在は枯れています。以上で本日の観光は終わりで、15時32分に出発し、15時48分、ホテルに戻りました。夕食はフレンチでした。

(2022.06.02)

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伊勢神宮(1)二見浦・猿田彦神社

 2022年5月25日(水)~27日(金)、クラブ・ツーリズム主催の「伊勢神宮と絶景伊勢志摩巡り3日間」で旅行をしました。観光地旅程は、

1日目 二見浦・夫婦岩(二見興玉神社)、猿田彦神社 ホテル&リゾーツ伊勢志摩泊

2日目 伊勢神宮・外宮、横山展望台、神明神社 同泊

3日目 伊瀬神宮・内宮、おかげ横丁、朝熊岳・金剛證寺、朝熊山展望台

です。

 11時39分、新幹線の豊橋駅で下車し、バス移動で観光開始です。伊勢神宮参拝の順路は二見浦(立入浜)での沐浴ということで、最初の訪問地は二見浦です。現在は実際の沐浴は行わず、当地の二見興玉神社参拝で始めます。13時25分、到着です。写真1は、夫婦岩です。鳥居のある大きい岩が男岩(高9m)で、小さい岩が女岩(高4m)です。二つの岩を結ぶ大注連縄は長35m、男岩に16m、女岩10m巻かれて、岩間が9mです。夫婦岩間の日の出は5~7月頃が見頃です。

 さらに進んだところにあるのが、写真2の、二見興玉神社で、南に夫婦岩が見えます。

 写真3は、少し進んだところからの夫婦岩です。

 写真4は、先の突端部からの夫婦岩です。

 写真5は、戻り夫婦岩を望む鳥居脇のカエルから撮ったものです。

 写真6は、帰る前に今までと逆面から夫婦岩を撮ったものです。

 16時10分に出発し、本日最後の訪問地猿田彦神社に16時28分に到着しました。写真7は、神社正面から鳥居と奥に本殿を撮ったものです。

 写真8は、本殿で祭神は猿田彦大神です。

 写真9は、横からの本殿です。

 最後の写真10は、本殿奥にある後神田です。5月5日、御田祭が執り行われ、田植えが行われ、その際の植方・囃方の装束は桃山時代を模したものです。

 16時59分、出発し、勢乃國屋で伊勢エビと松阪牛の郷土料理の夕食後、18時55分、志摩のホテル&リゾーツ伊勢志摩にて宿泊です。

(2022.05.31)

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奥州合戦の藤九郎盛長―歴史雑感〔75〕―

 武蔵武士足立遠元の年少の叔父藤九郎盛長は周知のように伊豆流人時代から源頼朝に近侍して側近でした。治承・寿永の内乱当初には頼朝の使者として味方集めに奔走しましたが、石橋山合戦は別として戦場に出ることはありませんでした。

 『吾妻鏡』文治5年7月19日条に見るように、奥州合戦に出陣する中軍総帥源頼朝の鎌倉進発行列交名で、武士御家人として先頭の三浦一族、次いで小山一族、畠山一族に続いて、藤九郎盛長と足立遠元が土肥一族に挿まれて所見するのです。ここに足立一族の一員として盛長も奥州合戦に出陣したのです。

 8月10日、奥州藤原氏の防御線の阿津賀志山を突破した中軍は、12日、陸奥国府の多賀城に入り、さらに進軍を続けました。14日、物見岡(宮城県富谷市三ノ関)を小山朝政・下河辺行平等の小山一族が攻撃し敗退させた(『吾妻鏡』文治五年八月十四日条)。

 本合戦について、『吾妻鏡』同月18日条に、

藤九郎盛長預り囚人筑前房良心、盛長相い具し下向す。しこうして去る十四日、於物見岡において合戦の間、討泰衡良従等を討つ。仍て其功を募り、令厚免せしむの由仰せ出る。これ刑部卿忠盛朝臣の四代孫、筑前守時房の男なり。屋嶋内府誅戮の後、召し預けられるところなり。僧たるといえども、武芸に達せしむの間、今度これを相い伴うとうんぬん。

とあります。すなわち、盛長の所に召し預けていた平家囚人の筑前房良心は物見岡合戦で泰衡郎従を討った戦功で赦免されたのです。盛長は良心が僧ですが武芸達者なので従軍させたのです。このように、囚人が奥州合戦に参戦した例は、藤原親能預りの長井斎藤実盛外甥の宮六傔丈国平があり、親能は初陣となる猶子の大友能直に付けて阿津賀志山合戦に参戦させています。(『吾妻鏡』文治5年8月9日条)このように、奥州合戦は全国動員をかけると共に、囚人といえども利用できる戦力は惜しみなく投入したのです。

 本合戦で筑前房良心が単独で戦闘に参加したわけではなく、盛長勢の一員、ひいては足立氏勢の一員として参戦したとするのが当然なのです。『吾妻鏡』同月18日条から盛長、ひいては足立氏が実際の戦闘に参加したしたことが理解できます。足立氏にとっては、治承・寿永の内乱では頼朝の親衛隊的立場から鎌倉に拘置されていたのに対して、奥州合戦では本格的に戦闘に参加したことになります。そして、良心の戦功は預主の盛長の戦功ということになり、奥州合戦での武功により陸奥国安達郡と出羽国大曽根荘を新恩として獲得したとの推定を裏付けることになるのです。そして、盛長から安達郡は弥九郎景盛、大曽根荘は藤次時長に分与され、それぞれが安達氏、大曽根氏となるのです。

(2022.05.06)

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2022年小田原城の桜

 2022年4月2日(土)昼、小田原城の桜を観賞しました。満開宣言直後でした。東から西へと巡りました。

 まず、後北条氏小田原城の東曲輪跡に上り、天守閣を見下ろしました。写真Ⅰは、天守閣と下に桜です。

 写真2は、北入口から入り、緩い坂の途上で天守閣と坂の桜並木を撮ったものです。

 写真3は、天守閣下から見上げたものです。

 写真4は、さらに進み天守閣南西角から撮ったものです。

 写真5は、ちょっと位置を変えて撮ったものです。

 写真6は、さらに進み天守閣入口階段から全景を写し込んだものです。

 写真7は、本丸に入り、南東から天守閣を撮ったものです。

  写真8は、東から天守閣を撮ったものです。

 写真9は、同じく東から天守閣全景を撮ったものです。

 写真10は、常盤木門外の本丸東堀土手の桜拡大です。

 写真11は、同じく桜拡大です。

 写真12は、本丸東堀土手の桜です。

 写真13は、常盤木門外の本丸東堀土手の桜です。

 写真14は、二の丸の桜並木です。

 写真15は、同じく桜並木です。

 写真16は、学橋から馬出門土橋への堀の桜並木です。

 写真17は、馬出門前の桜です。

 写真18は、馬出門土橋から南の堀の桜並木です。

 写真19は、馬出門土橋から学橋への堀の桜並木です。

 最後の写真20は、堀越の天守閣、常盤木門と桜です。

(2022.04.12)

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後北条氏小田原城早川口遺構―歴史雑感〔74〕―

 2022年4月2日(土)午前、石橋山城遺址から小田原市街に向かう途中で、後北条氏小田原城早川口遺構に立ち寄りました。後北条氏は豊臣秀吉の来襲に備えて、城下町全体を取囲む約9kmの総構を天正18年()までに構築しました。その遺構の一つが南口であり箱根路への出発点である早川口です。二重戸張という二重の堀と土塁で防備を固めたのが早川口です。アクセスは早川口バス停下車で、市街へと北に少し行ったところの信号に、「史跡小田原城早川口遺構入口」の案内表示があります。

 写真1は、遺構に入り東へと撮ったものです。公園となっており、窪んだところが堀跡で、両側に土塁がありました。

 写真2は、奥に入り土塁上から西へと撮ったものです。

 最後の写真3は、外側の土塁を撮ったののです。

(2022.04.10)

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石垣山城遺址―歴史雑感〔73〕―

 2022年4月2日(土)ごぜん、石橋山城遺址を公園化した石橋山一夜城歴史公園を訪れました。よく知られてるように石垣山城は天正18年(1590)の豊臣秀吉の後北条氏小田原城攻めの際に築かれました。山の木を一斉に切り払って、一夜で城が完成したように見せたとの伝説を生み、「石垣山一夜城」とも称せられています。土日(祝日)は小田原宿観光回遊バス「うめまる号」が運行され、小田原駅東口・一夜城歴史公園間を1時間に1本程度で循環します。運賃は乗り降り自由で500円です。徒歩だとJR早川駅から約2.3km(標高差約200m)です。

 写真1は、城入口前に立つ「石橋山城」案内板です。

 写真2は、東登城口旧城路です。本丸への正面道となります。

 写真3は、南曲輪を経て本丸に至る虎口です。現在は石垣が崩れ歩行困難となっています。

 虎口前で路を右に取り、東曲輪の下を通ると、写真4の、二の丸(馬屋曲輪)です。左奥が本丸です。

 写真5は、二の丸から奥に本丸を見たものです。

 写真6は、東から西へと二の丸と撮ったものです。左のところが本丸北門への虎口となっています。上がり左に折れます。右の高まったところは櫓台です。

 二の丸から西へと本丸下を通り、案内板に従い左に下ると、写真7の、南曲輪です。

 写真8は、南曲輪の虎口です。写真3に続くものです。

 路を戻りさらに西に行くと、写真9の、西曲輪です。

 写真10は、西曲輪からの本丸天守台です。

 写真11は、西曲輪から本丸です。

 写真12は、本丸東門への上りです。ここからは見えませんが右への折の虎口となっています。

 写真13は、本丸から下に二の丸を経て小田原市街を遠望したものです。

 写真14は、天守台です。本丸南西隅に位置します。

 写真15は、天守台上からの本丸です。

 写真16は、東門脇の物見台です。

 写真17は、北門の虎口です。左に折れていて北門に至ります。

 写真18は、二の丸から北門への虎口です。

 写真19は、北門虎口を二の丸から撮ったものです。

 写真20は、二の丸を北へと撮ったものです。

 写真21は、二の丸からの本丸です。

 写真22は、二の丸北側の櫓台です。

 写真23は、二の丸北端の腰曲輪から見た井戸曲輪です。

 写真24は、井戸曲輪に下り、井戸を撮ったものです。

 写真25は、腰曲輪北端の展望台からの箱根連山です。

 最後の写真26は、腰曲輪から二の丸櫓台で、そこから井戸曲輪と三ノ丸に下る虎口があります。

(2022.04.08)

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公暁の生母は源頼家の正室か―歴史雑感〔72〕―

 源氏将軍断絶』第二章第一節2021年5月PHP新書頁96~9で、坂井孝一氏は、公卿の生母辻殿は第2代将軍源頼衛の正室と、主張しています。『吾妻鏡』承元4年(1210)7月8日条に、「金吾将軍の室〈辻殿と号す。善哉公の母なり。〉」、とあるのを根拠としています。そして、同承久元年(1219)正月27日条に、「(頼家)御息、母は賀茂六郎重長の女〈為朝の孫娘なり。〉」、とあることから、母は賀茂重長の娘としています。次いで、重長の出自を考察して、重長は満政流の後裔で、満政曽孫の重宗が佐渡守に任官した京武者で、この孫の重成が『平治物語』の記す佐渡式部大夫と兄弟の重貞と共に諸大夫としています。姻戚関係では2人の兄重遠は源義家の娘を妻とし、重遠の孫の重長が源為義の孫娘、すなわち為朝の娘を妻にしているとしています。以上から、家格的に頼家との結婚に不自然はないとします。結論として、「建久八,九年頃、頼朝は父祖の義家、叔父の為朝、父の義朝と関係が深く、若狭局より家格が高い重長の娘を頼家の正室に選んだ。これは鎌倉殿を継承する頼朝家の嫡流を、頼家とその子孫に確定する構想構想といえる」、としています。

 この主張には正当性があるでしょうか。確かに、重長の姻戚関係は上述の示す通りであり、この点には問題はありません。しかし、「(比企能員娘)若狭局より家格が高い重長の娘」は正しいでしょうか。確かに、重長4代祖父重宗や祖叔父重成等は諸大夫級の京武者でありました。この点では源義家・為義・義朝と同格です。しかし、重長を含めてその後の子孫はどうでしょうか。改めて『尊卑分脉』第三篇頁62以下を見てみましょう。重宗の子、重遠の子、重直の傍注は、「又佐渡孫太郎と号す 山田太郎と号す 浦野太郎」、と父重遠の「浦野と号す」を継承していますが、単に孫太郎とあって無位無官といえます。弟の重頼は「葦敷二郎」、重房は「小河三郎」、重弘は「山田六郎」といずれも無位無官といえます。重直の子、重満は「山田太郎」、弟重親は「彦坂冠者」、重宗は「高田三郎」、重義は「白川四郎」、重衡は「小島五郎」、そして重長は「足助 賀茂六郎 右兵衛尉」とあり、重長のみが「右兵衛尉」の官の傍注がありますが、他はすべて無位無官といえます。なお、重長の本貫地は「足助」とあることから三河国賀茂郡足助荘となります。

 『尊卑分脉』の記す重長の右兵衛尉が事実なら、『吾妻鏡』は何で単に「賀茂六郎」とだけに記したのでしょうか。祖父の代から見ると重長のみに官があるのは不自然です。重長の傍注に「平家のために討たれおわんぬ」とあるのは、おそらく元暦元年(1181)春の平家反攻で濃尾源氏が敗退した時に戦死したといえましょう、そうならば、これ以前に任官していたとは思えないので、この点からもこの記載は不自然で、『吾妻鏡』の記載が正しく、やはり重長も無位無官とするのが妥当です。すなわち、祖父の代までの諸大夫の地位を失い、家格を二段下げた無位の侍となっていたのです。

 比企氏を見ると、『吾妻鏡』の記載では、頼朝乳母の比企の尼夫は比企掃部允、その子朝宗は比企藤内、養子で甥の能員は比企左衛門尉とあり、いずれも有位の侍です。賀茂氏と比企氏ではどちらが家格が高いかでしょうか、比企氏が有位の侍、賀茂氏が無位の侍と、比企氏が上なのは明白です。

 以上、坂井氏の主張は明らかに間違いです。この間違いに立った正室選定の主張も根拠を失ったとことになります。平賀氏は河内源氏であり、賀茂氏に比して遙かに頼朝に血縁が近く、源氏での家格からいえば、諸大夫門葉筆頭であり、賀茂氏は問題になりません。後に3代将軍実朝の最初の正室候補とされたのは周知のように足利義兼の娘であり、同様といえます。すでに、頼朝自身は権大納言兼右近衛大将と清華家に準じる家格を手に入れており、頼家に至っては摂関家庶子に準じる待遇を受けていました(2021年5月2日付「鎌倉幕府第2代将軍源頼家は何時元服したのか―歴史雑感〔65〕―」参照)。頼朝と直接的な関係もない濃尾源氏で三河国足助荘を本貫とする無位の侍の賀茂氏(足助)から正室を迎える必然があるでしょうか。否としかいえません。ただ『吾妻鏡』がなぜ「室」と記したかは不明ですが。いずれにしても坂井氏の主張する、賀茂重長の娘が頼家の正室であることは誤りです。重長の娘は比企能員の娘若狭局と同様に側室といわざるをえません。

 頼朝は結局頼家の正室を定めることなく正治元年(1199)に死去したことになります。従って、頼朝の構想は不明なのです。

(2022.03.14)

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2022年大倉山梅林

 2022年3月9日午前、大倉山公園梅林に出かけました。そこで、まだごく少数ながら蕾の梅もありますが、色々な梅の花弁を主体とした写真をお見せします。

〈白加賀〉

〈白玉梅〉

〈野梅〉

〈八重木紅〉

〈冬至梅〉

〈月影〉

〈玉厳〉

〈無頼絞り〉

〈花香実〉

〈見驚〉

〈月宮殿〉

〈杉田〉

〈田子の浦〉

〈蓬美〉

〈玉垣〉

〈美児島紅〉

〈八重旭〉

〈紅千鳥〉

〈古今集〉

最後は垂れ桜の〈淡路枝垂れ〉全景です。

(2022.03.10)

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江間小四郎義時―歴史雑感〔71〕―

 本年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主人公は北条小四郎義時です。義時はこれからのドラマでは「北条」ではなく「江間」でも登場するでしょう。当時の名字の過半が居所(地名)に由緒するのは知っての通りです。「江間」は、北条氏の本貫伊豆国田方郡北条(静岡県伊豆の国市寺家等)とは狩野川を挟んだ対岸を北に少し行ったところに位置する江間荘(静岡県伊豆の国市南江間・北江間等)です。伊豆の国市南江間862には義時館跡とする地があり江間公園となっています。北条氏館跡(円成寺跡・同市寺家13)からはほぼ北に約800mです。さて、本来は北条であった義時は何時から江間と称したのでしょうか。その根拠は義時が江間荘を所有したことによることは間違いないですが。

 『吾妻鏡』に於ける義時の表記で、「江間」が初見するのは養和元年(1181)4月7日条で、「江間四郎」とあります。これ以前は「同四郎」と北条一族としてのものです。本条は鎌倉殿源頼朝の寝所警護役11人を選定した記事です。続いて、所謂亀の前事件で北条時政が伊豆に無断帰国した、寿永元年(1182)11月14日条で、これを知った頼朝は、「江間は穏便の存念あり」として、尋ねたところ、義時が帰国していないことを知って、安堵激賞した記事です。これらを見ると、すでに養和元年段階で江間と称したことになります。

 しかるに、元暦元年(1184)8月8日条の、平家追討使源範頼軍の一員として鎌倉を進発した記事では、「北条小四郎」、と北条に戻っており、これは翌文治元年(1185)10月24日条の勝長寿院落慶供養記事まで継続します。そして、文治2年(1186)7月19日条で「江間四郎」となり、以後は「北条」と「江間」表記が相互に見られて一定しません。建久2年(1191)正月5日条から、頼朝期を越えて実朝期の元久元年(1204)3月6日に相模守に補任された後の、同年月24日条以後は「相州」表記となり、「江間」表記が終ります。

 亀の前事件で頼朝が「江間は穏便」と言ったことから、これ以前、すなわち初見の養和元年以前にすでに江間と称したと考えることが出来ます。するとこれまでに江間荘を新恩として給与されたと考えられます。時期的には富士川合戦後、相模国府で行われた勲功賞となりますが、『吾妻鏡』治承4年10月23日条には、記されている25人中の筆頭に「北条殿」、すなわち父時政は記載されていますが、義時の記載はありません。そこで、『曽我物語』等での伊東祐親の娘(所謂八重姫)と頼朝との悲哀説話では、八重姫が頼朝と分かれさせられた後に江間次郎に嫁がされたことになっています。これが事実なら江間荘を本貫とする江間氏が存在し、極めて伊東祐親に近い存在といえます。頼朝反乱に祐親が敵対した時、江間氏もこれに加わり、これにより本荘を没収されて、北条に近接していることから、北条氏に新恩として給付されたとするのは自然といえます。しかし、義時は記載されていません。基本的に家の惣領に勲功賞がなされるのであり、まだ惣領でない義時が単独で勲功賞を受けるのは自然とはいえないでしょう。『吾妻鏡』に記載された時政に新恩として給付されたとするが自然です。すなわち、養和元年時点で義時が江間と称したのは不自然なのです。ただ、時政が江間荘の管理を義時に任せたとして、「北条江間小四郎」と称されたことまでは否定できませんが。

 石橋山合戦で兄の三郎宗時が戦死し、後の時房は幼児であり、時政の後継成人男子は四郎義時ただ一人となっていました。このためもあるのでしょうか、平家追討の範頼軍関係で『吾妻鏡』に記載される義時の表記はすべて「北条」であり、「江間」はありません。これは勝長寿院落慶供養交名でも同じです。このことはこの時点では義時が基本的に北条氏であることを示しています。その後、建久元年に至るまでは「北条」「江間」表記が混在しています。しかし、建久二年以後は「江間」表記のみとなり、北条氏ではなく江間氏であることを示しています。

 北条時政の後妻牧の方所生の男子、後の政範は『吾妻鏡』元久元年(1204)11月5日条で、16歳で死去しているので、文治五年(1189)生まれです。従って、建久二年には3歳となっています。この時点で赤ん坊期を脱し、ようやく成長の目処が付いたといえます。そこで、父時政として愛妻牧の方所生の幼児を将来の北条家の継承者と考えたとしても不思議ではありません。この布石が江間荘を義時に譲与することで独立した家、すなわち別家させようとしたと考えることが出来ます。この別家が『吾妻鏡』の「江間」表記のみという事態を生じさせたと考えられます。以上、建久二年段階で義時は正式に北条家から独利した別家の「江間家」となったことになります。

(2022.02.08)

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富士山と初詣(5)山中城跡―歴史雑感〔70〕―

 2022年1月2日(日)、12時50分前に最後の訪問地、山中城跡に着きました。本城は永禄年間に後北条氏が対武田戦の西の境目の城として築いたとされています。豊臣氏との緊張関係が高まった天正15年(1587)頃から改修工事が始まり、開戦前の17年(1589)に南北に東海道を扼する尾根に出丸、岱崎出丸が築かれます。そして、18年(1590)3月28日、豊臣軍先鋒の豊臣秀次を総大将とする約3万5千の大軍が玉縄城主北条氏勝を総大将とする後北条軍約4千と激突します。第一陣に一柳直末が大手口、中村一氏が岱崎出丸攻略担当となり、第二陣に山内一豊が続行します。この予備隊として堀尾吉晴と田中吉政が控えました。一方、搦手に当たる西櫓・西ノ丸には徳川家康が攻略を担当しました。早朝より開始された攻撃に対して、後北条軍は凄まじい射撃で応え、攻撃は一字頓挫し、一柳直末は銃弾に当たり戦死しました。中村隊の先鋒侍大将の渡辺勘兵衛了が一番乗りを果たし、これを突破口に中村隊は岱崎出丸を占領します。ここで中村隊の攻撃は頓挫します。一方、徳川隊は西櫓・西ノ丸の西斜面(堀)を登り占領に成功します。これにより、戦闘の勝利はないと判断し北条氏勝を脱出させたことで、城兵は動揺し、渡辺勘兵衛等は三ノ丸に突入します。また、徳川勢も元西櫓、二ノ丸と突入し、両勢はほぼ同時に本丸に突入し城は申下刻(16時)頃に陥落します。こうして豊臣軍は初戦において力攻めをかけ、後北条氏の箱根山防衛最前線である山中城を陥落せました。これにより、本城で豊臣軍を拘束し時間を稼ぎ、その間で小田原本城の主力軍を箱根山に布陣させ、箱根山決戦を行うという後北条氏の戦略が破綻したことになります。この結果、豊臣軍主力は抵抗なく小田原城へと進撃したのです。以上、山中城攻防戦は後北条氏攻略のエポックとなった戦闘です。

 写真1は、国道1号線(東海道)脇の広場に設置された山中城跡案内図です。

 まず城南部地域の岱崎出丸から見学します。写真2は、国道右(東)から出丸に入ったところで、岱崎出丸を南へと撮ったものです。

 写真3は、進んで逆に岱崎出丸を北に撮ったものです。

 写真4は、御馬場曲輪と西側の土塁です。

 写真5は、御馬場曲輪南端から南に撮ったものです。前面に堀が巡らせてあり、右の土塁の先に角張ったところが城最南端の擂鉢曲輪見張り台です。

 写真6は、御馬場曲輪南堀です。

 写真7は、御馬場曲輪を下り、岱崎出丸南地区です。

 写真8は、出丸の西側を防備する、復元整備された一の堀です。堀底から土塁まで高18~20m・斜度70度の空堀で、写真のように堀底に畝傍を残して侵入兵の左右の移動を妨害します。

 写真9は、一の堀を南へと撮ったものです。急峻なことが分かります。

 写真10は、擂鉢曲輪からの富士山です。

 写真11は、擂鉢曲輪です。地面を掘り下げて擂鉢状にしたことからこの名称となりました。

 写真12は、岱崎出丸南地区からの御馬場曲輪です。

 国道へと戻り、本城の北地域に向かいます。まず、三ノ丸堀があります。写真13は、北の先端から南に国道側へと撮ったものです。当時の東海道は岱崎出丸北に接した三ノ丸を通過して箱根山に至ります。すなわち、三ノ丸を抜かない限り東海道は通れないのです。三ノ丸地区は人家等があり、発掘復元が出来ません。

 写真14は、左が西ノ丸土橋、奥が西ノ丸、右が元西櫓下の堀です。

 写真15は、西ノ丸です。

 写真16は、西ノ丸西側土塁です。

 写真17は、西ノ丸見張り台からの富士山です。

 写真18は、西ノ丸・西櫓間の四角に障壁を設けた障子堀です。

 写真19は、出撃地点となる西櫓(角馬出)です。

 写真20は、西櫓の堀で、ご覧のように畝傍造りとなっています。

 写真21は、西ノ丸・西櫓間の障子堀です。

 写真22は、西ノ丸・本丸下を北に進んだところにある北ノ丸です。

 写真23は、本丸北西隅の天守櫓跡です。

 写真24は、本丸です。

 写真25は、本丸・二ノ丸間の堀です。

 写真26は、二ノ丸です。

 写真27は、二ノ丸上からの元西櫓、西ノ丸です。

 写真28は、二ノ丸架橋です。これで本城見学は終わりです。

 最後の写真29は、三ノ丸に位置する宋閑寺内にある一柳直末墓です。傍らには後北条氏の松田康長等の墓もあり、敵味方が同所に葬られているのです。以上で訪問地は終わりで、14時50分に出発し、横浜に予定より30分早く17時に到着し、ツァーを終えました。

 なお。フォト・アルバム「山中城跡」はhttps://1drv.ms/u/s!AruGzfkJTqxng719e5QyryDXs0xVsQ?e=fHHc7iです。

(2022.01.14)

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富士山と初詣(4)富士山本宮浅間大社と三嶋大社

 2022年1月2日〈日〉、8時に出発し、神社初詣です。8時20分に富士山本宮浅間大社に到着しました。写真1は、第一鳥居です。奥に雲がかかっていますが、富士山が見えます。

 写真2は、石鳥居です。

 写真3は、楼門(間口4間・奥行2間半・高6間半、2階入母屋造)です。

 写真4は、拝殿です。

 写真5は、拝殿での参拝です。

 写真6は、左に国宝本殿(二重の楼閣造・棟高45尺、2階は間口3間・奥行2間・桧皮葺)、間に幣殿(間口5間・奥行3間)、右に拝殿(間口5間・奥行5間)です。以上、徳川家康の寄造営です。

 写真7は、拝殿右から本殿2階を見ます。

 写真8は、本殿2階です。

 東脇門を出ると、写真9の、涌玉池です。富士山噴火の溶岩流の末端に位置し、湧水の池です。

 写真10は、溶岩流の末端部の涌玉池で、段となった奥から大量の湧水が出ます。写真のように池には鴨が飼われています。

 写真11は、やはり涌玉池です。以上で浅間大社は終わりで、9時10分に出発しました。

 9時50分に三嶋大社に着きました。写真12は、大鳥居です。

 写真13は、神池です。石橋の上からです。

 写真14は、総門です。

 写真15は、神門です。

 写真16は、舞殿です。

 写真17は、慶応2年(1866)竣功の重要文化財の拝殿です。

 写真18は、拝殿の参拝です。

 写真19は、拝殿、奥に本殿です。

 写真20は、舞殿右手前の樹齢約12000年と推定される金木犀です。

 写真21は、神門右手前の神馬舎前の源頼朝(左)・北条政子(右)の腰掛け石と伝えるものです。

 写真22は、芸能殿です。元の総門を移築したものです。

 芸能殿のさらに右奥が、写真23の、神鹿園です。

 最後の写真24は神池の脇に並ぶ屋台のテントです。11時20分に出発し、お食事処松韻で昼食です。

(20022.01.12)

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富士山と初詣(3)日本平と三保の松原

 2022年1月1日(土)、久能山東照宮からロープウェイで日本平に10時45分過ぎに移動してきました。日本平夢テラスの展望回廊に上り、時計回りで富士山を展望します。写真1は、広角で前に静岡市清水区、後に富士山から箱根山への遠望です。

 写真2は、望遠での富士山です。

 写真3は、望遠いっぱい(35mm換算450mm相当)での富士山です。

 写真4は、展望回廊を写し込んで、下に清水港、奥に富士山です。

 写真5は、望遠での宝永火口側の富士山です。

 写真6は、逆側の富士山です。

 写真7は、望遠気味の富士山全景です。

 写真8は、静岡市街から西へです。

 写真9は、遠く白く見えるのが南アルプスです。

 写真10は、展望回廊上からの富士山全景です。

 写真11は、日本平ロープウェイです。以上で、日本平は終わりで、12時半、昼食の日本平の日月星に移動です。13時20分、次の観光地三保の松原に移動です。

 13時40分に東海大学自然史博物館前駐車場に着きました。これから三保の松原散策です。、写真12は、三保真崎海水浴場からの広角での富士山遠望です。

 写真13は、船が清水港を出港するところを富士山と共に撮ったものです。

 写真14は、望遠気味にして撮った富士山です。

 写真15は、望遠いっぱいでの富士山です。

 写真16は、富士山全景です。

 写真17は、三保灯台通りからの清水港です。

 写真18は、両側に松を入れての富士山です。

 写真19は、三保飛行場海岸からの富士山と箱根山です。

 写真20は、同じく望遠いっぱいの富士山です。

 写真21は、清水灯台です。

 写真22は、清水灯台を取り込んだ富士山です。

 写真23は、松林と富士山です。

 写真24は、三保松原海岸からの富士山です。

 写真25は、羽衣の松です。手前は羽車神社です。

 写真26は、羽衣の松です。

 最後の写真27は、エレーヌ・ジュグラリス夫人の「羽衣の碑」です。以上で三保の松原散策は終わり、神の道を経た御穂神社手前の左先(西)の駐車場から15時50分に出発し、17時50分に宿に戻りました。

(2022.01.10)

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富士山と初詣(2)田貫湖(御来光)と久能山東照宮

 2022年1月1日、5時50分に出発し、富士山麓の田貫湖での御来光です。6時25分に着き、6時52分の日の出を待ちます。写真1は、姿を見せた太陽です。7時4分で、遠くの山陰から上るため少し遅いです。

 写真2は、広角いっぱいにして富士裾野を入れて撮ったものです。

 写真3は、ほぼ上ったところで撮ったものです。

 写真4は、広角気味して撮ったものです。

 写真5は、完全に上ったところです。

 写真6は田貫湖を前にした富士山全景です。本朝は雲一つない快晴です。、

 写真7は、望遠気味で撮った富士山です。以上で田貫湖は終わり、ホテルに戻り朝食です。

 8時40分に出発し久能山東照宮に向かい、9時40分到着しました。写真8は、一ノ鳥居です。ここから表参道石段1159段を上ります。

 写真9は、表参道石段の途上から見下ろして撮ったものです。

 写真10は、一ノ門です。武田氏の久能山城の大手門に当たります。

 写真11は、一ノ門前からの伊豆半島遠望です。

 写真12は、一ノ門を入ったところからの遠州御前崎への遠望です。

 写真13は、楼門です。

 写真14は、本殿への唐門右にある、徳川家光が建立した五重塔礎石(明治維新の神仏分離で破壊)です。

 写真15は、唐門とその前の唐灯籠です。左に初詣客が並びます。

 写真16は、国宝の拝殿前で参拝します。

 写真17は、拝殿です。

 写真18は、本殿です。

 写真19は、神廟(徳川家康墓)です。

 写真20は、同じく神廟です。

 写真21は、裏面からの神廟です。

 写真22は、奥左からの神廟です。

 写真23は、神廟の左にある家康の逸話による「金の成る木」(楠)です。

 最後の写真24は、重要文化財の日枝神社拝殿です。次いで、10時40分過ぎにロープウェイで日本平に移動します。

(2022.01.08)

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富士山と初詣(1)大室山と伊豆の国パノラマパーク

 2021年12月31日(金)から2022年1月2日(日)まで、クラブツーリズム主催の「『伊豆・駿河』6つの富士と新春初詣三社参りウォーキング3日間」で富士山観望と初詣を行いました。基本旅程は、

31日(金) 大室山、伊豆の国パノラマパーク(葛城山) 富士宮富嶽温泉泊

1日(土) 田貫湖(御来光)、久能山東照宮、日本平、三保の松原 同泊

2日(日) 富士山本宮浅間大社、三嶋大社、山中城跡

です。

 本ツァーは新宿駅西口発ですが、横浜駅東口から乗車し9時半に出発しました。12時前に最初の観光地大室山に着き、リフトで山上に上がりました。山上に来ると、強風により立って歩行するも困難でしたが、少し治まり時計回りに歩き出し撮ったのが写真1です。伊豆七島が遠望でき、これは大島です。

 写真2は、少し進み、大島と右に利島を入れたものです。

 写真3は、大室山山頂(標高579.6m)に設置してある三角点の案内板です。

 写真4は、山頂付近からの南への伊豆半島です。

 写真5は、西からの大室山火口です。

 写真6は、北からの富士山と箱根山遠望です。少し切れましたが山頂は雲がかかっています。

 写真7は、同じく富士山です。14時過ぎに出発しました。

 14時50分頃、伊豆の国パノラマパーク(葛城山)に到着し、ロープウェイで上がり、撮ったのが写真8の、富士山す。

 写真9は、伊豆の国市の淡島です。

 写真10は、箱根山の遠望です。下の街は長岡温泉です。

 写真11は、淡島、沼津市街、富士山です。

 写真12は、葛城山山頂(452m)からの富士山です。

 写真13は、ロープウェイ山上駅です。

 最後の写真14は、足湯で、富士山を遠望できます。以上で本日の観光を終え16時20分過ぎに出発し、沼津で寿司夕食後、18時40分に本日の宿富士宮富嶽温泉に着きました。

(2022.01.06)

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