源氏将軍断絶』第二章第一節2021年5月PHP新書頁96~9で、坂井孝一氏は、公卿の生母辻殿は第2代将軍源頼衛の正室と、主張しています。『吾妻鏡』承元4年(1210)7月8日条に、「金吾将軍の室〈辻殿と号す。善哉公の母なり。〉」、とあるのを根拠としています。そして、同承久元年(1219)正月27日条に、「(頼家)御息、母は賀茂六郎重長の女〈為朝の孫娘なり。〉」、とあることから、母は賀茂重長の娘としています。次いで、重長の出自を考察して、重長は満政流の後裔で、満政曽孫の重宗が佐渡守に任官した京武者で、この孫の重成が『平治物語』の記す佐渡式部大夫と兄弟の重貞と共に諸大夫としています。姻戚関係では2人の兄重遠は源義家の娘を妻とし、重遠の孫の重長が源為義の孫娘、すなわち為朝の娘を妻にしているとしています。以上から、家格的に頼家との結婚に不自然はないとします。結論として、「建久八,九年頃、頼朝は父祖の義家、叔父の為朝、父の義朝と関係が深く、若狭局より家格が高い重長の娘を頼家の正室に選んだ。これは鎌倉殿を継承する頼朝家の嫡流を、頼家とその子孫に確定する構想構想といえる」、としています。
この主張には正当性があるでしょうか。確かに、重長の姻戚関係は上述の示す通りであり、この点には問題はありません。しかし、「(比企能員娘)若狭局より家格が高い重長の娘」は正しいでしょうか。確かに、重長4代祖父重宗や祖叔父重成等は諸大夫級の京武者でありました。この点では源義家・為義・義朝と同格です。しかし、重長を含めてその後の子孫はどうでしょうか。改めて『尊卑分脉』第三篇頁62以下を見てみましょう。重宗の子、重遠の子、重直の傍注は、「又佐渡孫太郎と号す 山田太郎と号す 浦野太郎」、と父重遠の「浦野と号す」を継承していますが、単に孫太郎とあって無位無官といえます。弟の重頼は「葦敷二郎」、重房は「小河三郎」、重弘は「山田六郎」といずれも無位無官といえます。重直の子、重満は「山田太郎」、弟重親は「彦坂冠者」、重宗は「高田三郎」、重義は「白川四郎」、重衡は「小島五郎」、そして重長は「足助 賀茂六郎 右兵衛尉」とあり、重長のみが「右兵衛尉」の官の傍注がありますが、他はすべて無位無官といえます。なお、重長の本貫地は「足助」とあることから三河国賀茂郡足助荘となります。
『尊卑分脉』の記す重長の右兵衛尉が事実なら、『吾妻鏡』は何で単に「賀茂六郎」とだけに記したのでしょうか。祖父の代から見ると重長のみに官があるのは不自然です。重長の傍注に「平家のために討たれおわんぬ」とあるのは、おそらく元暦元年(1181)春の平家反攻で濃尾源氏が敗退した時に戦死したといえましょう、そうならば、これ以前に任官していたとは思えないので、この点からもこの記載は不自然で、『吾妻鏡』の記載が正しく、やはり重長も無位無官とするのが妥当です。すなわち、祖父の代までの諸大夫の地位を失い、家格を二段下げた無位の侍となっていたのです。
比企氏を見ると、『吾妻鏡』の記載では、頼朝乳母の比企の尼夫は比企掃部允、その子朝宗は比企藤内、養子で甥の能員は比企左衛門尉とあり、いずれも有位の侍です。賀茂氏と比企氏ではどちらが家格が高いかでしょうか、比企氏が有位の侍、賀茂氏が無位の侍と、比企氏が上なのは明白です。
以上、坂井氏の主張は明らかに間違いです。この間違いに立った正室選定の主張も根拠を失ったとことになります。平賀氏は河内源氏であり、賀茂氏に比して遙かに頼朝に血縁が近く、源氏での家格からいえば、諸大夫門葉筆頭であり、賀茂氏は問題になりません。後に3代将軍実朝の最初の正室候補とされたのは周知のように足利義兼の娘であり、同様といえます。すでに、頼朝自身は権大納言兼右近衛大将と清華家に準じる家格を手に入れており、頼家に至っては摂関家庶子に準じる待遇を受けていました(2021年5月2日付「鎌倉幕府第2代将軍源頼家は何時元服したのか―歴史雑感〔65〕―」参照)。頼朝と直接的な関係もない濃尾源氏で三河国足助荘を本貫とする無位の侍の賀茂氏(足助)から正室を迎える必然があるでしょうか。否としかいえません。ただ『吾妻鏡』がなぜ「室」と記したかは不明ですが。いずれにしても坂井氏の主張する、賀茂重長の娘が頼家の正室であることは誤りです。重長の娘は比企能員の娘若狭局と同様に側室といわざるをえません。
頼朝は結局頼家の正室を定めることなく正治元年(1199)に死去したことになります。従って、頼朝の構想は不明なのです。
(2022.03.14)