2026年河津桜

 2026年2月25日(木)午前、下田温泉の帰り河津桜を見に行きました。残炎なことに今年は少し早く咲き見頃は過ぎていました。それでも下に河津桜の写真をお見せします。

(2026.03.03)

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鎌倉幕府公事奉行人藤原親能の出自―歴史雑感〔102〕―

 鎌倉幕府公事奉行人の一人親能は「正五位下行掃部頭藤原朝臣親能法師」として『吾妻鏡』承元2年12月18日条に66歳で卒したとの記事が見えます。『吾妻鏡』での親能の所見は死後も含め80か日に達しています。この内で氏名を明記してあるのは4か日です(御家人制研究会編『吾妻鏡人名索引』1971年吉川弘文館では、文治3年10月29日条所収の源頼朝家政所下文の署判筆頭の「中原」を親能に比定しています。しかし、署判最後が中原広元、この前が藤原行政であることから、序列的に親能ではありえなく別人とすべきです。また、建久3年6月20日条所収の将軍家政所下文の別当歴名最後の「散位中原朝臣」を親能に比定しています。しかし、他の政所下文に「散位中原朝臣」なる歴名はなく、錯誤による追加と見るべきで、カウントすべきものではありません)。

 まず氏名が最初に見える元暦元年(1184)10月6日条の公文所吉書始で、寄人の一人として「斎院次官中原親能」とあります。少し早く、『玉葉』同年2月1日条に、「斎院次官親能者、前明法博士広季子、頼朝之近習者、」とあり、この広季は中原広季のことである故、親能も中原氏という事になり、『吾妻鏡』と氏名が一致するのです。すなわち、元暦年間には親能は中原氏を名乗っていた事になるのです。

 次は、文治4年(1188)6月28日条で、所載の文治4年6月11日付親能請文に、「散位藤原朝臣親能」の署名があります。本文書案は内容からして、地の文で頼朝が親能の弁を認めた事から、偽文書とは思えず信用して良いのです。とすると、文治4年段階までに親能は中原氏から藤原氏に改めた事になるのです。

 このことは続く建久2年(1191)正月15日条の政所吉書始記事で、公事奉行人の一人として、「前掃部頭藤原朝臣親能」と見えていることで、これを裏付けており、確かに中原親能ではなく、藤原親能なのです。そして、上述の卒去記事に於いても藤原親能であり、藤原氏として卒去したのです。

 ここで改めて親能の系譜を考えてみましょう。

 まず、『尊卑分脉』第四篇・中原略頁一六三に、広季の子として。

親能 〈十士 彳四下 掃了頭 正五下〉   

とあります。これは上述の『玉葉』と同様に、親能の父は局務を家職とする中原広季であることも記載されています。

ところが、『大友系図』(『続群書類従』第六輯上系図部頁三四八)に、参議藤原光能の子として最後に、

親能 〈正五位下斎院次官式部大夫掃部頭美濃権守法名寂忍〉〈母正四位下大外記中原広季朝臣女、初爲外祖父広季養子、後依頼朝卿命復本姓藤原、以此息等或藤原或中原相交稱之、〉

とあります。ここでは親能の実父は藤原道長六男長家流の参議藤原光能で、中原広季は養父ということなのです。                            

 改めて本系図を検討してみましょう。「以此息等或藤原或中原相交稱之」とあるのは、本系図の親能子の表記が順に、季時「姓藤原」、親実「姓藤原」、師員「姓中原」、師俊「姓中原」親家「姓中原」仲能(姓藤原)、親茂「姓藤原」、と明らかに養子である大友能直を考慮外として、確かにその通りです。全員が実子であるかは別として親能の子は藤原氏と中原氏と別の氏名を用いているのです。

 藤原光能は寿永2(1183)年2月28日に52歳で死去しており(『尊卑分脉』第一篇頁二八八)、長承元(1322)年生まれです。親能は上述の『吾妻鏡』の記載で承元2(1208)年12月18日に66歳で死去していますから、康治2(1143)年生まれです。とすると光能は数え11歳で親能を設けたことになるのです。早くとも満12歳の生殖可能年齢から考えると、これは若すぎ不可能です。とすると、系図の記載は真実ではないことになるのです。即ち親能が光能の実子であることは否定されるのです。本系図をもって親能が藤原氏とは主張できないのです。

 ところで、幕府有力文士御家人で改氏名をしたことで周知なのが大江広元です。広元の改氏名に関しては『吾妻鏡』に記載があります。まず、建保4(1216)年4月7日に、広元が都と内々に交渉内諾を得たのであろう、この日女房を通じて、将軍源実朝に許可を願い出ました(同書同日条)。次いで、建保4年6月11日付中原広元申文により改氏名を申請し、同閏6月1日付で勅裁をえて、この写しが同16日に実朝に披露されました(同書閏6月16日条)。当然ながら、広元は改氏名の申請を朝廷に行なっていますが、その前にこれの認可を将軍実朝から得ています。

 既に述べたように親能は中原広季の子として歴史に登場し藤原親能として死去します。『吾妻鏡』で見る限り文治年間に中原氏から藤原氏に改氏名したように見えます。しかし『吾妻鏡』を始めとする史料でこの件を触れたものは一切所見しないのです。広元は、

散位従四位上大江朝臣維光、依有父子之儀、已叶継嗣之理、従四位下行掃部頭中原朝臣広秀、雖蒙養育之恩、欲改姓氏之籍、

と、上述の中原広元申文にその根拠を記しています。当然ながら親能にも根拠があったはずです。

 『大友系図』の示すところの藤原光能の実子が親能ならば、これを根拠とするのは申し分がありません。しかし、これは否定されて事実ではなく根拠にできません。では何を親能は根拠としたのでしょうか。ここで改めて『大友系図』を見てみましょう。「母正四位下大外記中原広季朝臣女、初爲外祖父広季養子、」と、親能の母が中原広季の娘としており、これにより外祖父広季の養子になったとしています。もちろん親能は光能の実子ではないので親能の母が広季娘であるのは事実ではありません。また各種の系図類にも広季娘の記載はありません。『大友系図』のみです。それはともかく親能と藤原光能及び中原広季を結ぶ輪が広季娘ということになると考えることができます。では全く広季娘の記載に意味はないのでありましょうか。親能にはこの線以外に藤原氏との関係を示すものはないのです。とするとこう考えられないでしょうか。

 広季娘と光能との婚姻関係は真実性があると考えることができるとします。これを基に光能が親能を猶子として、「能」を偏諱として与え元服させたと考えるのです。それ故に諱が親能となったことが理解できます。これで親能は本来の中原氏の家業である局務として外記の昇進コースを進むことなく、関係のない斎院次官に補任されたといえましょう。なお次官は「諸大夫職」(『官職秘抄』下〔『群書類従』第五輯・官職部〕)とされていることから、親能は元暦元年以前に少なくとも従5位下になっていたことになります。以上から親能の改氏名の根拠が光能の猶子であったと推定出来るのです。

 改氏名の時期に関してはどうでしょうか。上述の通り元暦元年10月では中原親能です。それが文治4年6月には藤原親能となっています。するとこの間に改氏名したことになります。文治元(1185)年4月に平家が滅び内乱は終結しましたが、年末には源義経関係で落ちつかず翌年まで響きます。従って、元・2年の改氏名申請はないと見るべきでしょう。ところが、文治3年に入ると親能は、2月16日、貢馬を連れ使節として上洛(『吾妻鏡』同日条)、8月には広元と共に在京(同上8月19日条)、10月も在京中(同上10月28日条)と、本年中はほぼ在京中でした。また4年4月には京から飛脚を発しています(同上4年4月20日条)。すると3年に引続き在京していたことになります。以上から、文治3年中に在京して朝廷と内々に改氏名を交渉できたことになります。すると早ければ3年後半、遅くとも4年前半に改氏名を勅許されたことになります。

 光能は既に死去しており、男子の知光・光俊共に若く後背としては力不足です。では、この時期に改氏名を願ったのでしょうか。これについて考えたいと思います。残念なことに改氏名に関する史料は不見です。改めて光能周辺の人物を見てみましょう。まず親能の主人であった源雅賴(『玉葉』治承4年12月6日条)と光能とは姻戚関係はありませんから、雅賴は関与していないでしょう。ここで知光・光俊兄弟の母が武蔵国有力御家人の足立遠元娘であったことです(拙著、『鎌倉幕府成立期の東国武士団』2018年岩田書院)。しかも親能は、

幼稚の昔より、相模国住人に養育せられ、かの国より成人す、しかる間近々謀叛の首頼朝と年来知音たるによる、(『玉葉』同日条)

 とあるのです。遠元は甥の藤九郎盛長を介して比企ファミリーの一員として頼朝を支援していたのです(同上拙著)。そうならば、頼朝挙兵以前から親能と遠元は知り合いだった可能性が出てきます。また、遠元も比企の尼の甥である比企能員も藤原氏です(『吾妻鏡』建久元年12月11日条)。すなわち比企ファミリーの比企・足立両氏は藤原氏です。親能が改氏名をしたと推定される文治3・4年段階では比企の尼は健在で、尼亭の白菊を見る重陽の節として頼朝夫妻は尼亭に渡り酒宴を開き、遠元も出席しました(『吾妻鏡』文治3年9月9日条)。かように頼朝は尼を大切に待遇しています。親能自身は本来は文官ですが、壇浦海戦初頭で平家方を射殺したというエピソードがあります(『延慶本平家物語』第六本・十五檀浦合戦事)。これが事実は別として、相模国で成長したことからも武士的要素を備えていた人物と親能を見るべきしょう。とすると、文官の中原氏から武士集団である比企ファミリーの氏名である藤原氏に改めることで彼等との一体性を高めようとすると同時に武家政権である鎌倉幕府での立場を明確にしようとしたのではないでしょうか。かかることが親能が中原氏から藤原氏に改める要因ではないかと想像するのです。

(2026.02.22)

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小田原城御用米曲輪―歴史雑感〔101〕―

2026年2月15日(日)、第10次発掘調査現場説明会が行なわれました。午前の会に参加しました。10時半から小田原市教育委員会の方が説明に当たりました。以下に発掘現場の写真をお見せします。

 写真1は、北側発掘現場を北東から撮ったものです。

 写真2は、中央が砂利敷遺構で戦国時代後期(北条氏政期)ものです。広場であったと推定されます。手前が御用米4号蔵跡(江戸時代後期)です。なお、江戸時代の遺構自体も貴重なものなので、その下の戦国時代は発掘していません。

 写真3は、奥がかわらけ廃棄土坑(戦国時代後期)で、手前が石組水路跡(同)です。

 写真4は、掘立柱建物跡(戦国時代後期)です。

 写真5は、南側発掘現場を北西から撮ったものです。中央の筋は寛永大地震(1633年)地割れです。

 写真6は、礎石建物跡(江戸時代初期)です。

 写真7は、南側から見た石組水路跡(戦国時代後期)で、屈折しながら奥まで続いていおり、場所により石組が異なります。

 写真8は、東側から見た石組水路跡です。左手前は砂利敷遺構です。

 写真9は、井戸跡(江戸時代初期・後期)です。

 最後の写真10は、説明する教育委員会の方です。

(2026.02.18)

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2026年西安交通大学日本語学科東北会新年会

 春節(2月16日)を迎えるに当たって、2026年2月7日(土)、西安交通大学日本語学科東北会の恒例の新年会を大連で開き、私も参席しました。コロナでえ参席できず、2019年以来の7年振りです。この東北会新年会には例年より少ないですが3期生以下の8名が集い楽しく食し飲み大いに盛り上がりました。

(2026.02.14)

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信州善光寺初詣(4)松本城

    (1)戸隠神社中社

    (2)善光寺初詣、北向観音

    (3)穂高神社、四柱神社

    (4)松本城

 2026年13時15分過ぎに松本城前に着きました。高麗門前から内堀に沿って埋橋まで歩き天守を折からの雪の中で撮影しました。まず、写真1~5は横位置からのものです。

 埋橋からの戻りの写真6~10は縦位置です。

(2026.01.07)

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信州善光寺初詣(3)穂高神社、四柱神社

    (1)戸隠神社中社

    (2)善光寺初詣、北向観音

    (3)穂高神社、四柱神社

    (4)松本城

 2026年1月2日(金)、10時10分過ぎに穂高神社に着きました。本社の祭神は海神族の祖神穗髙見命です。写真1は、鳥居と奥に神楽殿です。

 写真2は、神楽殿です。

 写真3は、拝殿です。

 写真4は、拝殿右前の樹齢約500年の孝養杉です。

 写真5は、孝養杉の更に右の欅の木です。川端康成・東山魁夷・井上靖が激賞しました。

 写真6は、更に手前の若宮社です。

 写真7は、拝殿から左に行った峯宮遙拝社と奥に神池です。億穂高岳頂上の穂高神社奥峯宮を拝む社です。

 鳥居を出て左に頭橋を渡ると、写真8の、穂高霊社の入口先右にある明治天皇御製歌碑です。

 写真9は、この先の結びの石神、道祖神です。以上で穂高神社は終わりです。

 次いで昼食後、13時30分過ぎに四柱神社に着きました。最後の写真10は、拝殿です。これから徒歩で松本城に移動します。

 なお、穂高神社のホームページはhttps://www.hotakajinja.com/です。

(2026.01.06)

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信州善光寺初詣(2)善光寺初詣、北向観音

    (1)戸隠神社中社

    (2)善光寺初詣、北向観音

    (3)穂高神社、四柱神社

    (4)松本城

 2026年元旦(木)、まず善光寺初詣です。9時10分前に着きました。写真1は、本堂です。

 写真2は、山門です。

 写真3は、仁王門です。

 写真4は、山門上からの仁王門への仲見世です。

 写真5は、山門上から西へです。右手前が経蔵です。

 写真6は、山門上からの本堂です。

 写真7は、本堂の拡大です。

 写真8は、本土右奥の徳川家大奥供養塔です。中央が三代将軍家光御台所鷹司孝子、左が春日局、右が家光次男綱重正室のです。以上で善光寺は終わりです。

 昼食後、北向観音に13時半前に着きました。北向観音堂は北向きという珍しいもので、本尊は千手観音です。写真9は、不動堂です。

 写真10は、同じく不動堂です。

 写真11は、不動堂右奥の温泉薬師瑠璃殿です。

 写真12は、不動堂を出て道を戻った愛染堂です。以上で北向観音は終わりです。

 最後の写真13は、帰り道での別所温泉駅へ約100m手前の十字路右角にある維茂将軍塚です。孔府時代後期の円形周囲約10mの古墳で、平安時代の冷泉天皇の時、戸隠山に住む鬼女を退治した余吾将軍平維茂の塚と伝わるものです。

なお、善光寺のホームページはhttps://www.zenkoji.jp/、北向観音のはhttps://www.kitamuki-kannon.com/kannon/です。

(2026.01.05)

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信州善光寺初詣(1)戸隠神社中社

    (1)戸隠神社中社

    (2)善光寺初詣、北向観音

    (3)穂高神社、四柱神社

    (4)松本城

2025年12月31日(水)~2026年正月2日(金)、クラブツーリズム主催の「信州善光寺初詣と、北向観音 信州で迎える年末年始 3日間」で初詣をしました。旅程は、

  31日 戸隠そばの昼食、戸隠神社中社、飯山で牛鍋御膳の夕食 長野市泊

  1日 善光寺初詣、上田で雑煮御膳の昼食、北向観音、小布施のあけびの湯、中野で信

  州ポーク陶板焼等の夕食 同上泊

  2日 穂高神社、安曇野で本わさび丼等の昼食、松本の四柱神社、松本城 

です。

 北陸新幹線で上田駅下車後にバスで移動し昼食後、14時戸隠神社中社に到着しました。戸隠神社は奥社、中社、宝光社、九頭龍社、火之御子社の五社からなり、「天岩戸開き神話」ゆかりの神々を祀っています。中社は祭神を天八意思兼命(あめのやごころおもいかねのみこと)とし、樹齢800年を超える三本杉が大鳥居の回りにあります。さて、写真1は、拝殿です。

 写真2は、大鳥居です。右奥が三本杉の一本です。

 写真3は、大鳥居手前の右手の三本杉です。

 最後の写真4は、左手の三本杉です。

 なお、戸隠神社のホームページはhttps://www.togakushi-jinja.jp/です。

(2026.01.04)

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2025年記事目次

01.08 岐阜城(金華山)―歴史雑感〔91〕―

01.10 多賀大社

02.22 芝離宮―歴史雑感〔92〕-

03.03 下田城―歴史雑感〔93〕―

03.04 2025年小田原城の梅

04.05 西安交通大学日本語学科成立40周年慶祝大会

04.07 大仏寺石窟―中国雑感〔58〕―

04.08 2025年三ツ池公園の桜

04.29 韮山城跡―歴史雑感〔94〕―

05.10 「歴史と中国」のgooブログからWordPressブログへの再移管

07.21 寒川神社―歴史雑感〔95〕―

08.26 リゾート白神6号からの夕景

08.30 秋田城跡―歴史雑感〔96〕―

09.22 西安交通大学日語系2期生・卒業35周年同窓会

10.14 宗像大社―歴史雑感〔97〕―

10.15 福岡市内元寇史跡―歴史雑感〔98〕―

11.12 2025年西南交通大学日本語学科での講義

11.14 2025年三星堆博物館

11.25 世田谷・大田区の古墳―歴史雑感〔100〕―

12.20 2026年中国の祝日―中国雑感〔59〕―

12.31 2025年記事目次

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2026年中国の祝日―中国雑感〔59〕―

 明年の祝日(休日)に関して、2025年11月4日(月)、国務院の通知「国務院弁公庁関于2026年部分節假日安排的通知」が国務院公式サイトにアップされ公表されました。この通知は年々早まっています。遅れましたが、この内容をお知らせします。

一 元旦(1月1日)

1月1日(木)~3日(土)の3日を休日。

4日(日)〔2日・金〕振替出勤日

二 春節(旧暦元旦 2月16日) 法定休日(旧暦大晦日~正月3日)

2月15日(日)~23日(火)の9日間を休日。

2月14日(日)〔2月20日・金〕・2月28日(土)〔23日・土〕振替出勤日。

三 清明節(4月4日)

4月4日(土)~6日(月)の3日間を休日。

四 労働節(5月1日) 法定休日(5月1・2日)

5月1日(金)~5月5日(火)の5日間を休日。

5月9日(土)〔5日・火〕振替出勤日。

五 端午節(旧暦5月5日 6月19日)

6月19日(土)~6月21日(月)の3日間を休日。

六 中秋節(旧暦8月15日 9月25日)

9月25日(金)~27日(日)の3日間を休日。

七 国慶節(10月1日) 法定休日(10月1日~3日)

10月1日(木)~7日(水)の7日間を休日。

9月20日(日)〔6日・火〕、10月10日(土)〔7日・水〕振替出勤日。

国務院発表原文は、

关于2026年部分假日安排的通知

2025-11-04 17:18 来源: 中国政府网

各省、自治区、直辖市人民政府,国务院各部委、各直属机构:

经国务院批准,现将2026年元旦、春节、清明节、劳动节、端午节、中秋节和国庆节放假调休日期的具体安排通知如下。

一、元旦:1月1日(周四)至3日(周六)放假调休,共3天。1月4日(周日)上班。

二、春2月15日(农历腊月二十八、周日)至23日(农历正月初七、周一)放假调休,共9天。2月14日(周六)、2月28日(周六)上班。

三、清明4月4日(周六)至6日(周一)放假,共3天。

四、劳动节5月1日(周五)至5日(周二)放假调休,共5天。5月9日(周六)上班。

五、端午6月19日(周五)至21日(周日)放假,共3天。

六、中秋9月25日(周五)至27日(周日)放假,共3天。

七、国庆节10月1日(周四)至7日(周三)放假调休,共7天。9月20日(周日)、10月10日(周六)上班。

鼓励单位和个人结合落实带薪年休假等制度,实际形成较长假期,推动错峰出行。节假日期,各地区、节假日期间,各地区、各部门要妥善安排好值班和安全、保卫、疫情防控等工作,遇有重大突发事件,要按规定及时报告并妥善处置,确保人民群众祥和平安度过节日假期。

国务院办公厅

2025年11月4日

https://www.gov.cn/yaowen/liebiao/202511/content_7047099.htm

です。

(2025.12.20)

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2014年夏の春熙路―成都雑感〔155〕―

 中山広場を中心に東西南北に広がる春熙路は成都の中心商業街であり、2002年2月、改修が終わり、面目一新して歩行者専用道として今日に至り、日々賑わいを見せています。そこで、1年ぶりに成都を訪問した機会に、2014年6月18日(水)、夏の春熙路の様子をお見せします。

 写真1は、春熙路南段と東大街の交差点上に架かる歩道橋から、南段を俯瞰したものです。中央の赤いパラソルの下にベンチがあり、休息の場となっています。右側のビルが大型商業施設の群光広場です。

 写真2は、群光広場の北入口です。地下2階の食品街にこの6月にラーメンの「一風堂」が開店しました(豚骨ラーメン39元)。

 写真3は、南段のベンチで休む成都小姐です。後方にも小姐が見えます。

 写真4は、春熙路中心の中山広場です。左側の像が辛亥革命の指導者で国父の孫中山(孫文)です。右側に見えるのは警備の武装警察隊隊員2名です。写真ではお分かりにならないかも知れませんが、サブマシンガンで武装しています。

 写真5は、北段での清掃車です。電動モーターの駆動です。

 写真6は、北段に設置された「結婚写真」所です、中国では結婚に当たって、結婚アルバムを作成するのが普通で、成都市では費用をかけても九寨溝で写真撮影をするのが人気です。もちろん女性が主役です。

 写真7は、北段端に建てられている春熙路碑です。廻りは写真のようにいつも花で飾られています。右側の壁にあるのは中華民国時代の春熙路の様の彫刻です。

 写真8は、北段を歩く成都小姐です。

 写真9は、東段に位置するイトーヨーカドー春熙店です。中国進出の1号店で、1997年11月に開店しました。その奥が2007年5月に開店した成都伊勢丹です。伊勢丹の7階レストラン街には「とんかつ和幸」と「カプリチョーザ」が入っています。また、両店地下の食品街は四川産調味料などのお土産品購入の場としていいでしょう。

 最後の写真10は、東段から紅星路三段を挿んで、右側に見えるビルが国際金融中心(IFS)で、壁にパンダが掛かっており目立ちます。オフィス・商業施設の複合ビルです。「ユニクロ」が入っており、また地下1階に「一風堂」が開店しました。なお、「ユニクロ」は春熙路付近に3店舗が展開しています。左側が成都伊勢丹の入っている利都B座で上階は5星のホテル(成都海悦酒店)となっています。

 なお、フォトアルバム「成都・2014年夏の春熙路」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngpkg5UCqf9HdhplW1Aです。

(2014.06.20)

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2022年小田原城の桜

 2022年4月2日(土)昼、小田原城の桜を観賞しました。満開宣言直後でした。東から西へと巡りました。まず、後北条氏小田原城の東曲輪跡に上り、天守閣を見下ろしました。写真Ⅰは、天守閣と下に桜です。

 写真2は、北入口から入り、緩い坂の途上で天守閣と坂の桜並木を撮ったものです。

 写真3は、天守閣下から見上げたものです。

 写真4は、さらに進み天守閣南西角から撮ったものです。

 写真5は、ちょっと位置を変えて撮ったものです。

 写真6は、さらに進み天守閣入口階段から全景を写し込んだものです。

 写真7は、本丸に入り、南東から天守閣を撮ったものです。

 写真8は、東から天守閣を撮ったものです。

 写真9は、同じく東から天守閣全景を撮ったものです。

 写真10は、常盤木門外の本丸東堀土手の桜拡大です。

 写真11は、同じく桜拡大です。

 写真12は、本丸東堀土手の桜です。

 写真13は、常盤木門外の本丸東堀土手の桜です。

 写真14は、二の丸の桜並木です。

 写真15は、同じく桜並木です。

 写真16は、学橋から馬出門土橋への堀の桜並木です。

 写真17は、馬出門前の桜です。

 写真18は、馬出門土橋から南の堀の桜並木です。

 写真19は、馬出門土橋から学橋への堀の桜並木です。

 最後の写真20は、堀越の天守閣、常盤木門と桜です。

(2022.04.12)

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世田谷・大田区の古墳―歴史雑感〔100〕―

 2025年11月22日(土)午後、武蔵野文化協会主催の「東京の古墳を巡る(世田谷・大田方面)」で古墳巡りをしました。

 最初は玉川野毛町公園(世田谷区野毛1-25)にある野毛大塚古墳です。野毛古墳群の中心的な本古墳は、5世紀初期に造営されたと推定され、長径68m・高約10mの三段築成後円部に、長15.5m・幅28mの前方方形部、その西側に長7.5m・幅10mの方形造出部を有する全長83.5m幅の帆立貝型古墳です。平成初年期の発掘調査で、既知の石棺とは別に3基の木棺と埋葬遺物が発見されました。遺物には多くの武具を含み、一括して重要文化財に指定されました。写真1は、本古墳西側から後円部を見たものです。この左横から頂部に上れます。

 写真2は、前方方形部から後方に後円部を見たものです。前方部の土は失われて復元したものです。

 写真3は、後円部頂部から下に前方方円部を見たものです。また右に復元した方形造出部が見えます。ご覧のように都民の憩いの場となっています。

木棺等の発掘場所とこの中の主遺物を示した石版が頂部に置いてあり、写真4は、第1主体部等を示したものです。

 写真5は、野毛大塚古墳の西に位置する荏原台古墳群の御岳山古墳(世田谷区等々力1-18)です。本古墳は全長57m・現高7mの帆立貝型古墳で、5世紀後半から6世紀中頃の造営と推定されています。そして、野毛大塚古墳の後継首長墓と推定されます。

  写真6は、荏原台古墳群の宝菜山古墳(大田区田園調布4-4-1)です。本古墳は前方後円墳で昭和初期の土取で後円部の多く失われましたが、発掘により全長97.5m・後円部経52m・後円高11m・前方部幅37m・前方部高8mと推定でき、4世紀前半の造営と推定できます。

 多摩川台古墳群(大田区田園調布1-63-1)は8基あり6世紀前半から7世紀中頃までのものです。写真7は、7世紀中頃までの円墳の第6号墳です。

 最後の写真8は、多摩川台古墳群の最南側の亀甲山古墳(大田区田園調布1-63-1)です。本古墳の名は墳形が亀に似ていることからきており、全長107.25m・前方部49.5m・前方部高7.5m・後円部経66m・後円部高約10mの前方後円墳です。発掘調査がなされていないためもあり造営年代は不明です。後円部が削られておりこれを撮ったものです。

(2025.11.25)

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2025年三星堆博物館―歴史雑感〔99〕―

 三星堆博物館は、1997年10月、三星堆遺跡地区の東北角に開館しました。徳陽市広漢市西郊外約7kmの南興鎮の鴨子河南岸に位置し、成都市から東北38kmにあります。その後発掘調査が進み、新たな遺物展示もあり増設が必要となり、旧館をに替わり新館(面積約5.44万㎡)が建築され、2023年7月26日、開館開放され博物館は一新しました。従来の1986年発掘遺物に加え、2019~22年に発掘された遺物が新たに展示に加わりました。2025年11月7日(金)午前、新装なった本博物館を見学しました。以下、展示物の幾つかを順次お見せします。

 写真1は、陶高領壷(1986年発掘 殷後期)です。

 写真2は、玉有領璧(1986年出土 殷後期)です。

 写真3は、城壁切取り展示です。

 写真4は、青銅扭頭跪坐人像(2021年出土 殷後期)です。

 写真5は、玉戈(1986年出土 殷後期)です。

 写真6は、青銅人頭像(2022年出土 殷後期)です。

 写真7は、青銅立人像(1986年出土 殷後期)です。高261cm(人像高172cm)・重量180kgの世界の最大の青銅立人像です。

 写真8は、黄金面單青銅人頭像(1986年出土 殷後期)です。

  写真9は、金杖(1986年出土 殷中期)です。全長143cm・直径2.3cm・重量463gです。上端(左)の平雕紋飾図案(魚・鳥・人)があるところです。

 写真10は、金面單(2022年出土 殷後期)です。

 写真11は、青銅持璋小人像(1986年出土 殷後期)です。

 写真12は、玉璋(1986年出土 殷中期)です。

 写真13は、青銅尊(2021年出土 殷後期)です。

 写真14は、青銅神嘼(2022年出土 殷後期)です。

 写真15は、青銅嘼首冠人像(1986年出土 殷後期)です。

 写真16は、青銅神塼底座(2022年出土 殷後期)です。

 写真17は、青銅縦目面具(1986年出土 殷後期)です。高82.5cm・幅78cmです。

 写真18は、青銅縦目面具(1986年出土 殷後期)です。本博物館を代表する目の飛び出た特徴ある遺物で、高65cm・幅139cm、突出した瞳孔長16.5cm・径9cmです。世界最大の青銅面具です。

 写真19は、青銅面具(2022年出土 殷後期)です。

 写真20は、青銅持龍競形器立人像(2022年出土 殷後期)です。

 写真21は、青銅爬龍器蓋(2021年出土 殷後期)です。

 写真22は、青銅虎頭龍身像(2022年出土 殷後期)です。

 写真23は、青銅太陽形器(1986年出土 殷後期)です。

 写真24は、青銅鳳鳥柱頭(2022年出土 殷後期)です。

 最後の写真25は、青銅神樹(1986年出土 殷後期)です。全高396cm(樹高384cm)で、世界最古の神樹です。古蜀王国の原始宗教を示して、古代人の宗教観念が理解できます。3段に枝が出て、各段3枝ずつ張っており、各枝には鳥が飾られて、全9鳥が見えます。枝の先端には果実があり、樹の下部には1旒の龍が下向きに匍っており、神木である扶桑の木を表しています。

 なお、フォトアルバム「四川・三星堆博物館2025年」があります。また、以前の訪問記「三星堆博物館―四川雑感〔10〕―」もご覧下さい。三星堆博物館の公式サイトはhttps://www.sxd.cn/です。

(2025.11.14)

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2025年西南交通大学日本語学科での講義

 2025年11月6日(午前)、コロナで行けなかった西南交通大学日本語学科を6年振りで訪問しました。その際4年生に講義を行ないました。卒業論文を控えているので、「論文作成について」と題する講義です。

 写真1は、講義を受ける学生達です。

 写真2は、講義後の記念撮影です。

(2025.11.12)

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福岡市内元寇史跡―歴史雑感〔98〕―

 2025年10月9日(木)午後、福岡市内の元寇史跡を巡りました。最初は筥崎八幡宮(福岡市東区箱崎1-22-1)です。宇佐八幡宮、石清水八幡宮と共に三大八幡宮とされています。

 写真1は、石造の一之鳥居(重要文化財)です。慶長14年(1609)に藩主黒田長政が建立しました。

 写真2は、楼門(重要文化財)です。文禄3年(1594)に筑前領主小早川隆景が建立し、三間一戸入母屋造・檜皮葺です。そして、ご覧の扁額は、文永11年(1274)蒙古襲来で炎上した社殿の再興にあたり亀山上皇が納められた宸筆を、文禄年間に隆景が謹写拡大したもので、これにより伏敵門とも呼ばれています。

 写真3は、楼門から見た拝殿です。拝殿・本殿(重要文化財)は廻廊に囲まれてかつ楼門は閉ざされており入ることが出来ません。拝礼はここで行ないます。なお、両殿は天文15年(1546)に大宰大弐大内義隆が再建したものです。

 次いで、生の松原元寇防塁跡(福岡県福岡市西区生の松原11)です。博多湾に沿って約20㎞の海岸に築かれた石築地が元寇防塁で、生の松原の防塁は東側を肥前御家人が西側を肥後の御家人が担当し、肥前は姪浜砂岩を肥後は長垂山の花崗岩を使いました。

 写真4は、東側の防塁跡です。

 写真5は、復元された防塁跡です。石の色違いで担当国が違うことが分かります。

 写真6は、西側の防塁跡です。

 最後の写真7は、改めて東側防塁跡と奥に復元防塁です。

(2025.10.15)

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宗像大社―歴史雑感〔97〕―

 2025年10月9日(木)午前、宗像大社辺津宮(福岡県宗像市田島2331)を参拝しました。JR鹿児島本線赤間駅・東郷駅から西鉄バスで宗像大社前下車です。本社は日本最古の神社の一つです。御祭神は天照大神の三女神で、沖津宮(田心姫神 たごりひめのかみ)、中津宮(湍津姫神 たぎつひめのかみ)、辺津宮(市杵島姫神 いちきしまひめのかみ)にそれぞれ祀られ、この三宮を総称して、宗像大社といいます。古来から海上交通の神として崇敬されていました。

 写真1は、奥に神門と本殿を囲む廻廊です。

 写真2は、拝殿と参拝する人です。

 写真3は、拝殿と奥に本殿です。拝殿は筑前領主の小早川隆景が天正16年(1590)に再建、本殿は天正6年(1578)に大宮司宗像氏貞が再建しました。ともに重要文化財です。

 写真4は、奥から見た本殿と拝殿です。

 次いで沖ノ島(沖津宮)が信仰の場として古代には多くの祭祀品が奉献され、この発掘された遺物(国宝)を展示している神宝館(入場料800円)に向かいます。1階展示室の展示物青銅鏡の中から代表的なものをお見せします。写真5は、内行八花文鏡(4~5世紀)

 写真6は、鳥文縁方格規矩鏡(4~5世紀)です。

 写真7は、半円方形帯画像鏡(4~5世紀)です。

 写真8は、阿弥陀経石(重要文化財)です。正面が阿弥陀仏像で、背面に阿弥陀経を刻んでいます。これは沖ノ島の発掘品ではなく、鎌倉時代の寄進です。

 写真9は、金製指輪です。内径1.3cmで中央菱形部分には4弁の花文があしらわれており、5~6世紀のものと推定されています。

 2階に移動し、写真10は、挂甲小札(5~6世紀)、即ち古墳時代の鎧の部品である小札です。

 写真11は、金銅製歩揺付曇珠です。尻に伸びた革帯(辻)に付ける装身具で、6~7席のものと推定されます。

 写真12は、金銅製雛形五弦琴(7世紀)です。和琴のミニチュア品です。

 写真13は、須恵器台(7世紀)です。

 写真14は、金銅製龍頭一対です。

 写真15は、奈良三彩小壷です。

 写真16は、銅製雛形紡織具の刀抒・麻笥です。

 2階に移動して所蔵古文書である「宗像神社文書」(重要文化財)を見ます。写真17は、寛喜三年(1231)四月五日付官宣旨です。筑前国(宗像郡)曲村40町歩を宗像大社修理料として寄進する内容です。

 写真18は、(永禄七年)十二月十二日付聖護院道増書状です。明から帰途の京衆船が難破してこの寄者(積荷)を慣例により宗像社が取得したのに対して、船主が返還を求めたのを、将軍足利義輝使者として道増が求めた内容です。なお、この時の寄物を本殿再建費に当てて出来たのが現存する本殿です。

 部屋中央にあるのが、写真19の、石造狛犬(重要文化財)です。南宋からの渡来品と考えられ、背面に建仁三年(1203)と奉納者の陰刻銘があります。

 最後の写真20は、より大型の左側の木造狛犬(重要文化財)です。

(2025.10.14)

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西安交通大学日語系2期生・卒業35周年同窓会

 2025年9月15日(月)~18日(木)の4日間、日本で西安交通大学日語系2期生の卒業35周年同窓会を行ないました。2期生は1986年に入学し90年に卒業した15名(女10名・男5名)から6名(中国から4名、アメリカ・カナダから各1名)、それに日語系創立の胡明耀先生と私の8名が参集しました。15日は各自が日本に参集しました。

 16日はみな下田で集合です。5名の卒業生は私と共に、踊り子9号東京発12時に乗ります。写真1は、乗車前のものです。

 写真2は、「駅弁屋祭」で購入した女性陣の駅弁です。みな違う駅弁を購入しています。

 写真3は、本日の泊まるホテル下田大和館に全員集合し、撮ったものです。15時前です。

 写真4は、ホテルから直接出られる南に広がる多々戸浜海岸に下り、撮ったものです。波に浸っています。

 写真5は、18時からの夕食の磯会席で、写真には蓋に被せた鮑等が見えます。料理は基本的に海産物で、次いで伊勢エビのお造りが出、伊豆半島産の金目鯛に煮付けが最後です。

 写真6は、食事中の女性二人です。

 17日は本来下田観光でしたが、温泉にゆっくりと浸かり等して時間を過ごしたこともあり、写真7のように、ホテルのロビーでお喋りを楽しみました。

 写真8は、13時前に伊豆急下田駅改札前で撮ったもので、顧先生は先に帰ります。

 駅中のレストランで昼食後、幸いにも取れた14時18分発のサフィール踊り子2号個室で撮ったのが、写真9です。

 写真10は、個室内でスマホで記念写真を撮っているところです。

 17時過ぎには新宿に戻りました。夕食は西新宿の焼肉清香苑別館で19時過ぎから行いました。写真11は、乾杯です。

 最後の写真12は、食事途上での乾杯です。網では海鮮類を焼いています。

(2025.09.22)

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秋田城跡―歴史雑感〔96〕―

 2025年8月13日(水)午前、秋田城跡(高清水公園 秋田県秋田市寺内大畑5)を訪れました。公共交通は秋田中央交通のバスで秋田駅西口5番乗場からで、秋田城跡歴史資料館前下車です。

 秋田城は天平5(733)年に出羽柵(山形県酒田市)が秋田村高清水岡に移転したのが始まりで、所謂「蝦夷征討」の拠点となりました。宝亀11(780)年に国司1名を専任させるになり、次官がこれに当たり秋田城介と称しました。延暦23(804)年に秋田城が停廃されて秋田郡が設置され機能は郡に移管されますが、城自体軍事機構としては存続します。11世紀以降に城内の主要な遺構が確認されていないので、この頃には衰退していたと考えられています。

 秋田城跡とは道路を挟んで西側に秋田城跡歴史資料館(入場料310円 開館時間9~16時半)があります。写真1は、この展示の最初の井戸跡出土木簡です。

 写真2は、出土瓦です。

 写真3は、官人が使用した出土品です。最右のは木簡を修正(削る)するための刀手(小刀)と砥石です。

 写真4は、奥の展示室内です。左側は水洗トイレ模型と出土品です。

 写真5は、秋田城跡全体模型です。東から西へと見たものです。

 写真6は、正殿跡です。東南から見たものです。

 写真7は、政庁東門脇にある第1期政庁(733~770年頃)模型です。右隣には第2期(770~800年前後)・第3期(800年前後~830年頃)の政庁模型が展示されています。

 写真8は、内側から見た復元された外郭東門と外郭築地です。また門から政庁へ向かう東大路は道路幅12mで側溝が付いていました。

 写真9は、外側からの外郭東門です。

 写真10は、復元された水洗厠です。隣の瓶から水を汲み流します。

 写真11は、同じく水洗厠の内部です。

 写真12は、復元された水洗厠建物です。

 写真13は、外郭東門下に位置する井戸の復元です。

 写真14は、復元された井戸建物と左奥に外郭東門と築地です。

 写真15は、外郭東辺逐次之外側に当たる鵜の木地区の建物跡です。

 最後の写真16は、同じく建物跡で、遺構と遺物から奈良時代に役所としてっりようさっれていたと考えられます。

(2025.08.30)

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リゾート白神6号からの夕景

2025年8月12日(火)、弘前16時6分発なお、リゾート白神6号に乗りました。車窓からの夕景をお見せします。なあお、深浦の日没時間は18時42分で、深浦発は18時22分でした。

写真1は、陸奥柳田駅を過ぎ、北金ケ崎漁港手前から撮ったものです。

写真2は、風合瀬駅を手前で撮ったものでえす。

写真3は、広戸駅を過ぎ深浦駅への途上で撮ったものです。

写真4は、更に進んだところで撮ったものです。

写真5は、間もなく深浦駅で撮ったものっで須。

写真6は、陸奥浜辺駅~十二湖駅への途上から撮ったものです。既に日は没しています。

写真7は、列車を徐行させた大間越dr撮ったものです。

最後の写真8は、同様に大間越で撮ったものです。

(2025.08.26)

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