奥州合戦の藤九郎盛長―歴史雑感〔75〕―

 武蔵武士足立遠元の年少の叔父藤九郎盛長は周知のように伊豆流人時代から源頼朝に近侍して側近でした。治承・寿永の内乱当初には頼朝の使者として味方集めに奔走しましたが、石橋山合戦は別として戦場に出ることはありませんでした。

 『吾妻鏡』文治5年7月19日条に見るように、奥州合戦に出陣する中軍総帥源頼朝の鎌倉進発行列交名で、武士御家人として先頭の三浦一族、次いで小山一族、畠山一族に続いて、藤九郎盛長と足立遠元が土肥一族に挿まれて所見するのです。ここに足立一族の一員として盛長も奥州合戦に出陣したのです。

 8月10日、奥州藤原氏の防御線の阿津賀志山を突破した中軍は、12日、陸奥国府の多賀城に入り、さらに進軍を続けました。14日、物見岡(宮城県富谷市三ノ関)を小山朝政・下河辺行平等の小山一族が攻撃し敗退させた(『吾妻鏡』文治五年八月十四日条)。

 本合戦について、『吾妻鏡』同月18日条に、

藤九郎盛長預り囚人筑前房良心、盛長相い具し下向す。しこうして去る十四日、於物見岡において合戦の間、討泰衡良従等を討つ。仍て其功を募り、令厚免せしむの由仰せ出る。これ刑部卿忠盛朝臣の四代孫、筑前守時房の男なり。屋嶋内府誅戮の後、召し預けられるところなり。僧たるといえども、武芸に達せしむの間、今度これを相い伴うとうんぬん。

とあります。すなわち、盛長の所に召し預けていた平家囚人の筑前房良心は物見岡合戦で泰衡郎従を討った戦功で赦免されたのです。盛長は良心が僧ですが武芸達者なので従軍させたのです。このように、囚人が奥州合戦に参戦した例は、藤原親能預りの長井斎藤実盛外甥の宮六傔丈国平があり、親能は初陣となる猶子の大友能直に付けて阿津賀志山合戦に参戦させています。(『吾妻鏡』文治5年8月9日条)このように、奥州合戦は全国動員をかけると共に、囚人といえども利用できる戦力は惜しみなく投入したのです。

 本合戦で筑前房良心が単独で戦闘に参加したわけではなく、盛長勢の一員、ひいては足立氏勢の一員として参戦したとするのが当然なのです。『吾妻鏡』同月18日条から盛長、ひいては足立氏が実際の戦闘に参加したしたことが理解できます。足立氏にとっては、治承・寿永の内乱では頼朝の親衛隊的立場から鎌倉に拘置されていたのに対して、奥州合戦では本格的に戦闘に参加したことになります。そして、良心の戦功は預主の盛長の戦功ということになり、奥州合戦での武功により陸奥国安達郡と出羽国大曽根荘を新恩として獲得したとの推定を裏付けることになるのです。そして、盛長から安達郡は弥九郎景盛、大曽根荘は藤次時長に分与され、それぞれが安達氏、大曽根氏となるのです。

(2022.05.06)

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About kanazawa45

中国に長年にわたり在住中で、現在、2001年秋より、四川省成都市の西南交通大学外国語学院日語系で、教鞭を執っています。 専門は日本中世史(鎌倉)で、歴史関係と中国関係(成都を中心に)のことを主としていきます。
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