日本文化分野での卒業論文題目

西南交通大学日本語学科での卒業論文は、日本語言語学・翻訳分野と日本文化分野の二つがあります。前者は中国人教員が、後者は日本人教員(2名)が担当指導します。以前はこれでよかったのですが、最近は前者を選ぶ学生が減少し、後者が半数を超えるようになりました。したがって、中国人教員も日本文化分野をも担当せざるをえません。

では、日本文化分野で、学生がどんな題目を選ぶか、少ないですが、私の担当した4年分(24名)の題目をお見せすることで、その一端が分かると思いますので、以下にそれを示します。

〈経済関係〉6名

戦後日本経済の高度成長の要因としての科学技術

日本における終身雇用制

松下電器の分析から終身雇用の未来を見る―改革は破壊ではなく、再伸である―

バブル経済下の日本経済

90年代後半の日本単身世帯の消費行動

90年代後半以降の日本の対アセアン貿易政策の変化

〈社会関係〉5名

「家」から見た日本人の集団意識

戦後日本の家庭構成の変化

現代中日女性地位の比較

中日高齢者生活の比較

日本人の清潔と清潔感

〈教育関係〉1名

日本の小学校教育

〈宗教・思想関係〉5名

仏教思想の日本人生活への影響

中日死生感の比較

盂蘭盆会と日本人の死生観

戦後における日本人の宗教意識変容について

江戸時代の儒学思想とその影響

〈文学関係〉2名

『個人的な体験』から見た大江健三郎の心霊の遍歴

中国での村上春樹ブームの原因の考察―『国境の南、太陽の西』をめぐって―

〈言語文化関係〉2

日本の若者語考

中日外来語の比較

〈その他〉3名

中日古典庭園芸術の比較

文化としての日本マンガ

中日酒文化の比較

以上です。これを見れば関心が多岐にわたっていることが分かります。したがって、時間軸で言うと古代から現在までと、空間軸で言うと経済・社会・宗教・文学などと広く広がっており、4次元的範囲で指導対応しなければなりません。皆さんはどうご覧になりますか。

(2005.05.17)

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卒業論文指導

5月は私にとって一番忙しい月です。それは、卒業論文指導の山となるからです。

西南交通大学日本語学科での卒業論文作成の流れと実情を述べます。

9月、新学期になると、4年生は卒業論文テーマ設定のための史料検索に入ります。卒論作成の第一歩です。しかし現実には、この段階では何もしません。10月の国慶節の休みを経てもまだです。11月、最初の卒論テーマ提出が迫ると、ようやく腰を上げて、図書館やインターネットで資料を見て、適当なテーマ名を考え出します。「戦後の日本経済」とかいうように、極めておおざっぱなテーマとなります。一応、11月末頃に、それを提出します。しかし、そういうものですから、そのまま通ることは少なく、再提出となります。ここで、あわてて、資料検索に力を入れます。私のところに資料を探しに来るのもこの時です。12月中旬までに、最終テーマを決めます。この過程で、何度か修正する学生もいます。決定権は学科主任にありますから、よくそんなテーマでよいのかと、主任に叱られます。

各自のテーマ設定が決まると、主任が各学生の卒論指導担当教員を決めます。そして、12月下旬、卒論指導担当教員と学生全員の会議を招集します。ここで、卒論作成の進行日程が告げられ、作成上の注意事項などを学生に知らせます。それから、各担当指導教員毎に学生が分かれて、最初の指導を受けます(私の場合、6人で、テーマは日本文化全般。全クラス29名で、指導教員名)。ここでは、各自が決めたテーマについての現況報告(資料収集など)と、それに基づく冬休みの指導を行います。基本的にはテーマに関する資料収集とそれによるアウトライン作りについてです。この段階で、もうテーマ変更を申し出る学生も出ます。つまり自分決めたテーマに自信がないので、指導教員にテーマを見つけてもらおうとするのです。

最終学期では、選択科目の単位に不足がなければ、授業は取らなくてもよいですから、事実上卒論作成だけです。4年生は卒業実習の関係もあり、冬休み明けは、第4週目からです。本年の場合、3月14日です。事前に言ってあるように、大学に戻ったら、連絡・卒論の進行状況の現況報告をしなければならないのですが、こちらから言わなければ連絡する学生は皆無といってもいいのです。ですから、学生が大学に戻ったかどうかすら分かりません。ともあれ、冬休み明け直ぐ、2回目の全体会議が招集されます。ここで、全体への注意の後、分かれて指導教員が各自の現況報告を聞くわけです。この時、まだ、大学に戻っていない学生が必ずいます。そして、テーマを変更したという学生も必ず出ます。この場合、以前のテーマに自信がないので変更するのですから、新しいテーマに格段の問題がなければ、その状況をよく聞き、そのまま変更を認めます。

何故そうなるかといいますと、本来は春節休みは卒論の資料収集・検討とこれに基づくアウトライン作りの時期で、ここで卒論の土台ができあがるはずです。しかし、何といっても日本語資料の不足、端的いえば文献資料が手に入らないことです。この点が日本国内とは違い、外国での弱いところとなります。成都は内陸部にあり、日本語文献には恵まれていません。それに休みで故郷に帰れば、北京などの地区を除けば、同様かそれ以下です。資料がなければ、自信もつきませんし、進めることもできません。この弱点、日本語文献資料不足は現状では如何ともしがたいです。もちろん、インターネットを利用した資料探しも常態となっていますが、いかんせん、玉石混淆というよりも、石だらけ、学生たちが検索して探し出したものは、問題がありすぎます。以上のことから、この長い期間が卒論構築に有効に働いていないわけです。

これからは完全な個別指導に入ります。進行日程では4月上旬が初稿提出ですが、実際はそれを最終アウトライン提出期限とします。それまでにやるべきことを指導し、次の指導日=提出期限を指示します。もちろん、それ以前でも連絡・報告をするよう言います。

さて、現実は、この遅れた日程でもこうはなりません。学生からの途中報告がほとんどないのです。指導日にはともかく学生に集まってもらって、現況を聞きます。しかし、本当の意味でのアウトラインが完成したとはいえない学生が多いのです。したがって、そういう学生にはさらなる補充を行いますから、より遅れるわけです。ともあれ、次に初稿提出の期限、5月のメーデー明け(進行日程では第3稿提出)と論文執筆上の留意点を指示します。また、論文はパソコン執筆となっているので、私の作成した卒業論文書式ファイルを渡し、それで執筆してもらいます。そうすれば、パソコン上で添削できるし、最初から一つのファイルになっているので便利なのです。

なお、卒業論文は、次のように構成されています。表紙・卒業論文任務書(中国語)・論文概要(中国語)・論文概要(日本語)・目次・論文本文・参考文献表です。それぞれ、ページ数の表示などヘッダー部分の構成が異なるのもあり、それぞれセクション別にしなければ一つのファイルにはなりません。他の学科の様子などを見ると、それぞれ別ファイルにし、プリントアウトしているようです。

4月下旬、指導教員が集まり、学生の現況を確認するとともに、卒論の完成提出を5月末と確定し、学生に督促するように決めました。あらためて、学生を集めて、現況を報告させ、そのことを告げ、メーデー明けまでには初稿を提出するように厳重に命じました。ともあれ、それで5月になると初稿が提出されるようになったのです。中には、大学にはおらず、メールで添削指導をする学生もいます(就職決定先での実習中などで)。したがって、私もメーデー明けからは、本来の授業(週6コマ)に加え、卒論指導添削が本格的に始まったので、一番忙しい時期になったのです。特に初稿(論文本文)ですから、問題点や基本的なWordの利用法など添削箇所は一番多く、一番時間を要するのです。土日も返上になります。

当然ながら、2稿、3稿と続くわけです。とりわけ、注意したにもかかわらず、初稿では注を付けていない学生もおり2稿以降もたいへんなのです。本文が確定するとともに、任務書や論文概要を付けて(表紙は初稿添削で作成し、目次は本文ができれば、Wordの機能を使って自動作成しますし、注が固まれば参考文献表もできます)、卒論は完成です。予定では、5月末が期限です。これは大学での選抜答弁会(日程未定、おそらく6月中旬)に間に合わせるためです。そして、その後学科の答弁会と評価決定となります(6月中下旬か)。しかし、実際の締め切りは6月上旬になると思います(例年そうです)。ただ、本年は例年より、学期末が早いので、それだけ日程に余裕がないのです。まさしく、これから追い込みとなります。

(2005.05.14)

 

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3日の夕食会参加卒業生の写真

3日夜には私を囲む宴を卒業生の諸君が行ってくれました。とりわけ、4期生が多数参集してくれました。ここに、参加卒業生の写真を載せます。順不同です。

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(2005.05.05)

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西安交通大学日語系創立20周年記念大会

 5月2日(月)、西安交通大学日語系(日本語学科)創立20周年記念大会を、科学館にて午後3時から2時間半あまり行いました。教師・1期生から在校生まで、中国各地のみならず、日本からの卒業生も含め、50名以上の参加の下、本学科創設者の顧明耀先生の特別講義を始め、有意義に時を過ごしました。夜には懇親宴会もおこない、大いに交流を深めました。とりわけ、4期生(93年卒業)は12名も参集し、さながら同窓会の風でした。その後、2次会に繰り出したグループもあり、夜遅くまで歌声が響きました。

記念大会の様子は別途譲るとして、ここで簡単に日語系を紹介します。本系は、1985年9月、外語系科技日語専業(科学技術日本語専攻)の本科(4年制)として、中国で初めて創設されました。1989年7月、1期生14名を卒業させ、今までに、学部生300名以上、修士20名余を送り出しました。本専攻の特色は、第1に、入学資格として、大学入学統一試験が理系分類(文系・芸術系・体育系などに分かれる)であることです。他大学のは文系です。第2に、1・2年生の必修科目に数学などの基礎理工系科目があることです。既設の日本専攻では科学技術に対する知識がどうしても弱くて、第1線の必要に応えられていなかったのです。そこで、科学技術に強い語学人材養成に必要とされため、これらのことが必須となったわけです。現在は科学技術の名はありませんが、その特色は今でも変わっていません。現在では、国内の理工系有名大学にはほとんど同様な日本語学科があり、西安交通大学のそれはその嚆矢なのです。

日本語関係の時間数から見れば、他校と比較して、理工系科目に取られる時間もあり、多少少ないといえます。しかし、他校にほとんど見られない特色があります。1年生の基礎日本語の最初(発音)から、ネィテイブの日本語教師(具体的には日本人)が付くことです。1・2年生の基礎日本語は中国人と日本人教師のペアで分担しつつ授業を進めます。このことは現在でも行われています。このことは、早く自然な日本語に生で接することになり、理工系の論理的思考ともあいまって、卒業後の自立・自活力を高め、その能力の促進に有効な働きをなしていると自負しています。

最後に、記念大会の写真を下に載せます。

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(2005.05.05)

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西安行

 

5月1日のメーデーより1週間は、中国の年2回のゴールデンウィークです。もう1回は、10月1日の国慶節です。

さて、この休日期間に、私が中国で最初に奉職した、西安交通大学日本語学科が、創設20周年(1985年9月開設)の記念会を2日に行います。そこで、明日より4日まで西安に行ってきます。

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寿永2年春の源頼朝と源義仲との衝突(その2)―歴史雑感〔2〕―

1979年放映のNHKの大河ドラマ「草燃える」をご覧になった方はご記憶かもしれません。許嫁の義高(木曽義仲嫡子)を父頼朝の命により殺されて、以後心身の病となり薄幸の生涯を終えた頼朝長女の大姫の悲劇が描かれていたことを。

このことは『吾妻鏡』に記述されています。しかし、その最初の記事、元暦元年4月21日条で、義高は大姫婿として登場しますが、これは彼の初見で、何時いかなる経緯で彼が婿になったかを『吾妻鏡』は語っていません。

この経緯を説明してくれるのが、前回に示した『延慶本平家物語』第三末之七・兵衛佐与木曽不和ニ成事です。これにより、前年春の頼朝と義仲の衝突の結果、義仲の嫡男義高が頼朝婿という形で鎌倉に来たことが説明できます。しかも、この年は『吾妻鏡』欠文なので、この件が『吾妻鏡』に見えないことも理解できます。以上の意味で、細部において物語の限界はあるにしても、『延慶本平家物語』に代表される語り本系は史料的価値があるのです。

さて、彦由氏はいかなる点に注目したのでしょう。それは、直接に関東より碓氷峠を越えて頼朝軍が信濃に入ったという点です。甲斐源氏の伊沢信光の先導にもかかわらず、甲斐経由で信濃に入らなかったことです。この点から、氏は以前の佐久党・木曽党・甲斐源氏の3者連合の中で、最初に頼朝に接近したのは佐久党(平賀義信。平治の乱の敗走の中、最後まで義朝と行動をともにしました。『平治物語』)であろうとし、それ故に、平賀氏が寝返ると予想したから碓氷を越えたと考えたのです。

さて、佐久平(佐久・小県郡)は信濃反乱軍にとっていかなる地でしょうか。一志茂樹氏は木曽義仲の地盤が木曽ではなく東信地方と西上州であるとされています(「木曽義仲挙兵の基地としての東信地方」『千曲』1・2号1974年)。氏の見解は信濃を義仲中心ととらえる点で、信濃反乱軍は義仲単独の主導のもとではなく、松本平(筑摩・安曇郡)・木曽谷の木曽党、佐久平・善光寺平(更級・植科・水内・高井郡)の佐久党、伊那・諏訪郡の甲斐源氏と、この地域的にも独立した3者の連合体であるとする、私の見解(拙稿Ⅰ)とは異にします。しかし、信濃反乱軍を飛躍させた横田河原合戦において、反乱軍が出撃したのは佐久からであることを考えれば、いずれにしても、この時点で信濃反乱軍の拠点が佐久であったことは間違いありません。したがって、以後、越後に進出したとしても、信濃の拠点が佐久であったろうことに変わりないはずです。

軍事的にいえば、その関東への正面入口である東山道の碓氷峠は最大抵抗線ということになります。最大抵抗線を攻撃目標に選ぶのは下策です。しかし、頼朝はそれをしました。このことは佐久平に頼朝に味方する有力武士の存在があったと考えるのが自然です。彦由氏が示した平賀氏がそうであると考えます。

『平家物語』巻四・二源氏揃への事では信濃源氏の一員として登場するにもかかわらず、義仲関係において、横田河原合戦や砺波山合戦は無論のこと、平賀氏は『平家物語』に一切登場しません。甲斐源氏と同じく、源頼義三男の新羅三郎義光(頼朝の祖の義家は長兄)を共通の祖とする平賀氏は、義光の子、四郎盛義を祖とし、佐久郡を睥睨する平賀郷(佐久市平賀)を名字の地とし、その子四郎義信・惟義父子が源氏揃えに名を連ねています。この源氏揃えには、義光の五郎、岡田親義も出ており、彼は国府の北、筑摩郡岡田郷(松本市岡田)を名字の地とします。彼は、『平家物語』では『源平盛衰記』巻二十九・砥並山合戦事で、戦死する記事のみしかありません。こうしてみると、『平家物語』では信濃源氏は義仲を除くと無視されています。

なぜでしょう。基本的に、治承寿永の内乱を描くに、『平家物語』は前半で木曽義仲、後半で源義経を源氏方の中心にしています。いわば、義仲物語と義経物語からなっています。そこではすべての出来事が彼らを中心として引き立つように構成されているのです。このことは『平家物語』を読めばすぐ気がつくことです。したがって、信濃源氏のことは義仲に代表されて彼の事績ということになります。唯一異なるのが、横田河原合戦での井上光盛(頼義弟の頼季を祖とし、高井郡井上郷―須坂市―を名字の地とする)の奇策(偽りの赤旗を掲げて近づき、敵前で白旗を上げて、城氏軍を潰走させた)の功だけです。このような義仲物語の性格を考えれば、義仲以外の信濃源氏のことが出てこないのは自然なのです。

以上のように考えれば、一志氏の見解は、信濃反乱軍を義仲のみで見る『平家物語』史観とでもいうべきものに影響されて、真実を見失ったといえます。赤子で木曽谷に隠れ、育った義仲に比して、それ以前から入部し根を生やした平賀・岡田氏などは大いなる武士団を組織していたことは明らかなのです。そうです、佐久の主人公は義仲ではなく、平賀義信・惟義父子の佐久源氏なのです。

こう考えれば、頼朝が碓氷峠越えが出来たということは、佐久の幾ばくかの武士たちが頼朝に付いただけでは不十分で、平賀氏の了解なしになしえないのが自然なのです。事前に平賀氏が義仲から頼朝に鞍替えしたことは明らかと考えるのです。義信は義朝以来の縁があり、義仲(1155年、父義賢は頼朝長兄の義平に攻
め殺されています―大蔵合戦―)より頼朝に近いのです。

ところで、甲斐源氏は、富士川合戦では頼朝と連合し平氏軍を壊走させ、横田河原合戦では信濃源氏と連合して平氏方の有勢たる越後豪族城氏の大軍を潰走させました。こうして、治承寿永の内乱の前半で、東国の反乱軍の優勢を決定づけた両合戦に甲斐源氏は参戦しているのです。甲斐源氏は頼朝とも信濃源氏とも連合しているのです。

そこで、頼朝の信濃侵攻の原因として伊沢信光の讒言と述べていることは、ことが事実かどうかは疑問がありますが、横田河原合戦時の木曽党・佐久党・甲斐源氏の3者連合のうち、甲斐源氏と信濃源氏との連合にひびが入ったことを反映した話と考えます。もちろん、甲斐源氏が総体として信濃源氏より離れ、頼朝側に付いたわけではありません。そうならば、頼朝軍は甲斐より侵攻できるわけで、このことが『平家物語』に反映されてもいいのですが、それは見られません。また、そうならば、甲斐源氏総帥武田信義の末子信光の讒言といった話ではなく、より信義に近いところの直接的な話で述べられているのが自然です。以上から見れば、甲斐源氏の信濃源氏からの離反はその一部であり、連合を良しとする者もおり、また中立を守る者もいる、という具合に3分されたと考えます。

(続く)

(2005.04.29)

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石象湖生態風景区―四川雑感〔1〕―

 通常の観光地ではありませんが、市民の余暇利用の需要を見込んで、近年いくつかのレクレーション施設が開発されています。その一例として、先日行ってきた石象湖生態風景区を紹介したいと思います。

石象湖生態風景区は、成都市蒲江県内にあり、成雅高速道路(成都南西の雅安市と成都間)で、成都から82kmのところ石象湖出口に、駐車場が接して入口と
なっています。交通は、新南門汽車站(バスターミナル)から直通バスが、また新南門汽車站・石羊場汽車站から蒲江県に行き石象湖行に乗換えます。入場料は50
元です。

この地は、国家級生態模範地区に指定され、原始林60ha以上を有し、成都平原の「天然酸素」と称されています。まさしく自然環境に恵まれ、市民が森林浴など自然に接しられるところです。

この原始林の中に人造湖石象湖があり、本風景区の中心となっています。入口は高速道路出口に接して南側にあります。入口左側には催し物をやる六合広場があり
ます。道なりに北に進むと、象山南站があり、ここより象山北站まで電動バス(5元)があります。また、右手には象泉山荘(ホテル)と花苑餐庁(中華レスト
ラン)があります。レストラン前の池には石象の親子が水浴びをしています。その先は花海賽艶という草原となっており、そこには熱気球(50元)や洋弓場
(10元)などの娯楽施設があります。さらに進むと、古象山書院(レストラン・喫茶・売店)のある花壇を目にします。各種の花が植えられており、色とりど
りの花が眺めを楽しめさせます。すると、象山北站につきます。ここまでは尾根沿いの自然地形を生かして、完全に造形されたものです。ここまでまっすぐ歩いて、20~30分です。

これより文靖楼を過ぎると、自然林に入り、森林浴を楽しめます。道を左手にとると七星台嗎頭(乗船場)に、右手にとると、文相吊橋を経て古琴台・花果山嗎頭
に向かいます。七星台まで数分です。ここは石象湖での上船場となっています。また、喫茶などの休憩所もあります。乗船料は20元です。10人乗りの手漕ぎ
船です。また、四川人のマージャン好きを反映するのか、マージャン電動船(6人)があって、3時間で200元です。ここより乗船すると、まず上流の龍虎峡
へと行き、引き返してから下流に向かいます。少し行くと、左手の千年来の古刹石象寺への上り口である石象寺嗎頭と反対の、右手の崖に摩崖仏が見えます。そ
の先を大きく右に曲がると、先の文相吊橋の下10mほどを通過します。これは金属製のしっかりした吊橋です。吊橋をくぐって左手に古琴台があります。ここ
には、レストランもあり、屋外でのテラスで湖を見ながら飲食が楽しめます。ここを過ぎると、湖に浮かぶ三つの島、黄龍島・珠島・青龍島を通ります。瑶池仙
境です。それから行くと、ダムに到達します。これよりもう一方の峡谷、娃娃溝に入り、その奥の花果嗎頭まで到り、七星台に戻ります。この間、1時間半あまりです。ただ、自然林の中を行くので、虫の類がおり、そのため船では蚊取り線香を焚いていました。種類はわかりませんが小虫に刺されるとかぶれる恐れがあ
りますので、注意してください。

以上が石象湖生態風景区です。以下に、そこの様子を写した写真を上文に沿って示しておきます。

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(2005.05.22)

 

 

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寿永2年春の源頼朝と源義仲との衝突(その1)―歴史雑感〔2〕―

 治承・寿永の内乱で、1180(治承4)年8月、伊豆で蜂起した源頼朝が、鎌倉入り後、自身で兵を率い出陣したのは、3回あります。最初は、同年10月の富士川合戦です。次いで、兵を返して、11月、常陸に佐竹氏を攻撃したことです。この2回は通史でも述べられているように、少し歴史に興味ある人には周知のことです。

しかし、もう一つはそれほど知られていません。それは、1183(寿永2)年春の信濃出兵です。これは木曽殿源義仲を相手としたものです。今回は、これについて少し述べたいと思います。

周知のように、1180年9月、木曽義仲は信濃に挙兵します。そして、10月には、義仲は上野に進出し、11月に信濃に戻ります。彼を含む信濃の反乱軍(木曽党・佐久党・甲斐源氏の3手編成)は、翌年(養和元)6月、越後から侵攻してきた城氏軍を、横田河原(長野市横田―千曲川北岸でJR篠ノ井駅南)で撃破し、次いで、越後国衙を手中に収め、信濃・越後両国に覇権を立てました。この横田河原合戦の結果、中部日本以東は完全に反乱軍の支配するところとなりました(横田河原合戦については、拙稿Ⅰ、「治承寿永争乱に於ける信濃国武士と源家棟梁」『政治経済史学』100号1974年9月参照)。他方、源頼朝は、佐竹攻撃後、鎌倉に居して、南関東を基盤として、着々とその勢力を拡大せんとしていました。しかし、平氏を含め両者とも、折からの養和大飢饉により、軍事的行動は不活発となり、戦線は停滞しました。以上が、1182年末までの状況です。

1183年を迎えると、戦線はにわかに動きます。常陸の志田義広(源為義三男、義仲父義賢の同母弟)と下野の小山氏が、2月、下総の野木宮(栃木県野木町)で合戦し、義広は敗れ、その後義仲のもとに走るのです(野木宮合戦については、石井進氏、「志田義広の蜂起は果たして養和元年の事実か」『鎌倉武士の実像・石井進著作集第5巻』2005年1月岩波書店参照)。これにより、頼朝の権力が北関東へと浸透していくのです。この結果、信濃の反乱勢力と頼朝勢力との間が直接的な競合関係になるとともに、頼朝に敵対した義広を義仲が抱えることで問題が発生します。

これを伝えるのが、読み本系の『平家物語』です。この中で、もっとも古態を残すと考えられている、『延慶本平家物語』第三末之七・兵衛佐与木曽不和ニ成事の内容を簡略に説明します。

まず頼朝と義仲が不和の原因として、第一に、頼朝のもとにいた新宮殿源行家(為義十男、頼朝・義仲叔父で所謂以仁王令旨伝達者)の所領要求を頼朝がはねたために、行家が義仲のもとに走ったこと。第二に、武田(伊沢)信光(甲斐源氏総帥の武田信義五男=末弟)が、平氏が義仲を婿にするべく両者が文通している、と密告したこと。以上により、義仲に敵対心ありとして、悪日故に出陣を伸ばすようにとの忠告にもかかわらず、頼朝は、先祖頼義の奥州安倍氏攻略の先例を佳例として、即刻鎌倉を出陣しました。義仲はこれに対して、信濃の兵を率いて越後へと移動し、越後と信濃の国境の関山に陣を構えました。頼朝は信光を先陣に武蔵・上野を経て碓氷峠越えで信濃に入り、10万騎で樟佐川に陣を取りました。ここで、前年の横田河原合戦において寡兵で城氏の大軍を破っており、義仲は自信がありましたが、両者が戦うのは平氏を利するばかりと、信濃へ引き返すのを止め、関山に待機しました。これを知った頼朝は帰順を求める使者を義仲に派遣することにし、天野遠景(伊豆武士)が使者に立ちました。条件は、行家の引き渡しか、義仲子息の頼朝への差し出しです。この条件に対して、義仲が根井・小諸(信濃佐久郡の有力武士)と議すると、彼らは両者が戦えば平氏を利することになるので、清水御曹司(義仲嫡男義高)を頼朝へ渡すべきと進言しました。義仲乳母子の今井兼平はこれに反対し、頼朝と一戦すべきと主張しました。義仲は根井・小諸の支持なくして己が存在しえないと判断して、11歳の義基(高)を呼び寄せて、「おまえをやるのは頼朝と仲違いをしないためにだ」と言い聞かせます。そして、義仲は頼朝使者天野遠景と対面して、平氏を滅ぼす以外の二心がないし、行家のことを頼朝がそんなに恨んでいるとは知らなかったとし、嫡子の義高を渡すから、これを義仲の代わりの宿直としてくださいと述べました。さらに起請文を書いて、義高とともに頼朝のところへ送りました。義高には同年の海野重氏(幸氏・信濃佐久郡の武士)らを付けました。信光が頼朝に「讒言」したのは、義高を信光の婿に取ろうとしたところ、義仲が義高に信光の娘を出せといって受けなかったことを、恨んだことによります。かくて、頼朝は義仲の返答を受け入れて、義高を伴って鎌倉に帰陣しました。義仲は信濃に帰って、配下の武士30人の妻を集めて、彼らの命を義高一人の命に代えたと言うと、妻たちは喜んで、夫が義仲にどこまでも従うように起請文を書き、それを聞いた夫も悦びました。以上が要約です。

鎌倉幕府の正史的存在である『吾妻鏡』の同年条が欠文のためか、また『平家物語』は文学と考えられてきたためか、かつてこの記事は注目されてきませんでした。しかし、彦由一太氏がこの一本の『源平盛衰記』第二十八・頼朝義仲悪事に注目され、本記事に史料的価値を認めました(同氏、「治承寿永争乱推進勢力の一主流」『國學院雑誌』63巻10・11号1962年10・11月)。氏の見解は以後において示してゆきます。

(続く)

(2005.04.16)

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扶桑社版中学用歴史教科書の問題点・補論

 Hiro-sanさんからコメントをいただきました。「歴史は科学ではない」ということが、三木太郎氏一個人か扶桑社版全体のものか、また氏はそれをいかなる文脈で述べているのか、とご質問がありました。お答えは長くなるので「補論」として、本別稿にしました。

三木氏の『歩』2720017月への寄稿は、「歴史は科学ではない」との表題のもとに、「つくる会の意義」・「歴史は科学ではない」・「重い戦後史家の責任」の3章立てから構成されています。

前稿(「扶桑社版歴史教科書の問題点」)の引用部分でも示した、

【北海道新聞の江尻論説委員が同紙のコラム「オピニオン」で「つくる会」の主張にかかわらせながら、「歴史は確かに自然科学とは違う。しかし、歴史は科学ではないのか」という、歴史学に対する率直で根源的な問いかけをされている一文が目についた。】

との文章に続けて、「大切な問題提起なので、実証史学の立場に立つ歴史家としての私見と、付障する問題点を述べさせて戴くことにした。」として、「歴史は科学ではない」との章を立てて、持説を述べているのです。したがって、この章は中核ともいえる章で、ここでの論証が成立しなければ、氏の論説は価値を失うのです。

そこで、前稿では省略した前段を加えて、本章の全文をまず以下に提示します。

【 江尻氏は、「つくる会」の教科書原本に「歴史は科学ではない」とあった点を重視し、検定の結果削除されたとはいえ「言葉は消えてもその考えは貫かれている」から、この教科書はやはり問題なのではないか、という観点から、上記の問を一般に投げかけられたようだが、私見では、削除した検定側にむしろ、歴史認 識の誤りがあると思われる。

ただ、中学校の教科書という対象を考慮するとき、削除の理由は認識論的な理由というより、発達段階の点で、こうした認識の問題は早すぎるとの観点からなされたと解すれぱ、それは検定側の一つの定見ともいえる。また、教科分類では、人文科学、社会科学のように、すべてが科学で括られているので、そうした概念との整合性を配慮したともとれる。

削除の理由を知らないので、その是非を論じることは控えるが、いずれにしても、当該教科書の記述に偏りがあるという結論にはならないものであろう。

科学とは元来、自然科学のことであり、法則性と反復性を要素とするが、歴史事象は、この二つの要素をともに欠いている。

つまり歴史には科学に類似する要素が全くないのだから、どのようにひいき目に見ても、科学たりえないのである。

この非科学的牲質の歴史が、ではなぜ科学とされたのか。それはマルクス史観が、歴史の本質を「階級闘争の歴史」と規定し、そこに自然科学と同様、法則性・反復性を見いだしたからにほかならない。

しかし、これが法則性というなら、経験論的に言って、歴史は「戦争の歴史」という定義もできるし、歴史は「侵略の歴史」と定義することもできる。角度を 変えれぱ、「男女の愛の歴史」「男女の相克の歴史」「悪意の歴史」「善意の歴史」「裏切りの歴史」「神と人の融合の歴史」「神と人の相克の歴史」などと括ることもできる。

それらは、歴史を貫流する抜き難い一面の現象ではあっても、それを歴史の本質・法則性だといいきれる訳のものではない。反復性にしても、それは類似性に しか過ぎず、事象は一回性、経過性で、自然科学のように実験出来るものではない。

マルクス史観は、唯物論の史的展開を絶対とみるからそうなるので、法則性の原動力として「生産と生産閲係の矛盾」を構図としても、それ自体が、実は観念論であることは言うまでもない。

したがって、歴史は科学ではないと認識するのが、歴史事象に対する、正しい対応であろう。】

以上が、「歴史は科学ではない」章の全文です。

扶桑社版歴史教科書の2001年の検定にあたって、教科書原本に「歴史は科学ではない」という記述があり、それを検定で削除されましたが、この原本の記述を問題視されたのが、北海道新聞の江尻論説委員のコラム(本来なら、コラム本文を紹介すべきなのですが、私の現在の環境では困難なのでお示しできません)で、これを読んだ三木氏が反論し、「歴史は科学ではない」との主張が教科書の根幹になるものだとされているのです。したがって、この経緯を見れば分かるように、「歴史は科学ではない」との考えは、三木氏個人のものではなく、扶桑社版自体の考えなのです。三木氏はそれを代表して、寄稿したと考えるべきなのです。また、いかなる文脈で三木氏が主張されているかも、上記の引用文をご覧になればお分かりと思います。

三木氏は、「実証史学の立場に立つ歴史家」と自身の立場を示しておられます。しかし、実証史学自体は、近代西洋の科学発展の一環として生み出されたもので、基本的には科学の一分野を占めるものです。「歴史は科学ではない」と氏がされることと、それは矛盾してはいないでしょうか。どうやら、氏は唯物史観を批判するあまり、歴史学が近代西洋で誕生したことをお忘れのようです。

最後に、科学とは何ぞやを繰り返します。現時点で分かっている事柄(既知)に立脚して、新たな事柄を見いだすことであり、同時に分からない事柄(未知)も指摘すること、これが科学なのです。当然ながら、新しい事柄は既知の積み重ねの上に生まれますから、先人の成果なしには生まれてきません。そこに、時間の積み重ね、すなわち歴史が生まれます。したがって、いかなる科学分野であろうとも、歴史抜きの研究は存在しないのです。したがって、歴史への科学性の否定は科学それ自体の否定に繋がりかねないのです。

以上から、再び扶桑社版を認めるわけにはいかないのです。

(2005.04.11)

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扶桑社版中学用歴史教科書の問題点

 NHKと毎日新聞・日経新聞のWebで報道されたように(北京時間8時現在)、昨日夕方、成都イトーヨーカドー春熙店において、所謂「反日行動」の一団が暴力行為に及び、入口のガラスなどを破損させました。この規模は、私も正確な情報を入手していないので、確かではありませんが、今日の営業が普段通りに行われ、客も普段通りだったことから見て、日経の伝える「数千に規模があつまった」とするのは、野次馬を含めた数字で、暴力行為に及んだのは、毎日の伝える数十人程度と考えます。しかし、春熙路一帯に防暴隊(日本でいう機動隊)を含む公安(警察)が多数出動し、鎮圧にあたり、あたり一帯が封鎖され商店が営業停止に追い込まれたことは確かなことです。

本事件は、新華社発行の『国際先駆導報』の「朝日啤酒等日企赞助日本歪曲历史教科书」記事(アサヒビールにかかわる内容―「编撰会从倾向于右翼的大企业得到充足的资金,朝日啤酒、三菱重工、日野汽车、五十铃汽车、住友生命、味之素、东京三菱银行、清水建设、中外制药、大成建设 等众多日本大企业支持编撰会。朝日啤酒名誉顾问中條高德在编撰会会报《史》上公开声称:“不参拜靖国神社的政治家,没有当政的格。”」)による、吉林省長春市での、アサヒビールボイコットとその報道に端を発しています。折から、Web上で開始されていた日本の国連安全保障理事会常任理事国入り反対署名を勢いづけさせるとともに、各地にボイコット運動を拡大させました。この一環として、この3日(日)に、深圳・成都で抗議行動が計画されていたわけです。これが、予定より早く、しかも暴力行為となってあらわれものです。

さて、本来は成都のあれこれをお伝えするものですが、もう一面は日本史のことをお伝えするものです。したがって、上の記事の言う「歪曲历史教科书」とは、現在検定作業中の、新しい歴史教科書をつくる会編集の扶桑社版の中学用歴史教科書のことですから、歴史研究者の末席を汚す私としては一言あるべきだと考えます。

上記の記事内容が取材の常道にしたがって、取材対象およびその周辺を取材し、裏を取った記事でないことは、アサヒビール最高顧問中条氏の言を除けば、なんらの根拠を示すことなく、断定していることからあきらかです。また、関係方面が、ボイコットが報道されるまで、寝耳のことであったことは、事後の対応に関する報道を読めばあきらかです。これは事前の取材を受けなかったことをあらわしています。したがって、その記事の内容の正当性については疑問視せざるをえません。

しかし、たとえ「誤報」にせよ、本記事作成とそれが受け入れられ素地には所謂「歴史問題」があることは言うまでもありません。昨今、昨年はあの「韓流」に沸きかえって、日韓が蜜月のように思われていました。それが、現在ではどうでしょうか。中韓両国は常任理事国入りに反対しています。中国はともあれ、韓国までがというのが、偽らない感じでしょう。やはり、根幹には「歴史問題」があるのです。そのリトマス試験紙的役割を果たしているのが扶桑社版歴史教科書です。

したがって、ここに私の本歴史教科書に対する考えを披瀝したと思います。(以下、扶桑社版と称します)

通例、扶桑社版に対する反対は、その歴史的事実の誤謬の多さ、そして、近代史における日本のアジア侵略に関する記述の問題、とりわけその侵略性些少化、に求められています。とりわけ、中韓両国はその被侵略ですから、後者に関しては強い反対を招いています。もちろん、私は歴史研究者ですから、個々の史実およびその史観については私見があります。しかし、それ以上に問題としたいことがあります。この問題点がある以上、扶桑社版が教科書にふさわしくないことは明白なことです。史実以前の問題です。私は日本人、いや地求人として、かかる本が教科書としても読まれることに断固反対します。

扶桑社版はいかなる考え(認識)によって、編集されているのでしょうか。そこで、1997年1月30日の新しい歴史教科書をつくる会設立総会での趣意書を見てみましょう。そこに、「私たちの先祖の活躍に心踊らせ、失敗の歴史にも目を向け、その苦楽を追体験できる、日本人の物語です」なる一文があります。

 また、教科書作りに参画した三木太郎氏(駒澤大学名誉教授・邪馬台国論争では著名)は、会報『歩』27号2001年7月に《歴史は科学ではない》と題して寄稿されて、新しい歴史教科書作りの意義を喧伝しています。その中に、

【 北海道新聞の江尻論説委員が同紙のコラム「オピニオン」で「つくる会」の主張にかかわらせながら、「歴史は確 かに自然科学とは違う。しかし、歴史は科学ではないのか」という、歴史学に対する率直で根源的な問いかけをされている一文が目についた。】

への反論として、〈歴史は科学ではない〉との見出しをつけ、その中で、

【 科学とは元来、自然科学のことであり、法則性と反復性を要素とするが、歴史事象は、この二つの要素をともに欠いている。

つまり歴史には科学に類似する要素が全くないのだから、どのようにひいき目に見ても、科学たりえないのである。

この非科学的牲質の歴史が、ではなぜ科学とされたのか。それはマルクス史観が、歴史の本質を「階級闘争の歴史」と規定し、そこに自然科学と同様、法則性・反復性を見いだしたからにほかならない。

しかし、これが法則性というなら、経験論的に言って、歴史は「戦争の歴史」という定義もできるし、歴史は「侵略の歴史」と定義することもできる。角度を変えれぱ、「男女の愛の歴史」「男女の相克の歴史」「悪意の歴史」「善意の歴史」「裏切りの歴史」「神と人の融合の歴史」「神と人の相克の歴史」などと括ることもできる。

それらは、歴史を貫流する抜き難い一面の現象ではあっても、それを歴史の本質・法則性だといいきれる訳のものではない。反復性にしても、それは類似性にしか過ぎず、事象は一回性、経過性で、自然科学のように実験出来るものではない。

マルクス史観は、唯物論の史的展開を絶対とみるからそうなるので、法則性の原動力として「生産と生産閲係の矛盾」を構図としても、それ自体が、実は観念論であることは言うまでもない。

したがって、歴史は科学ではないと認識するのが、歴史事象に対する、正しい対応であろう。】

と、主張しているのです。氏のマルクス史観に対する見解はここでは問題とはしません。

それ以上問題なのは、「歴史は科学ではない」という主張です。科学が、所謂自然科学に限らず、人間の営みがなすものが科学の範囲に入ることは自明なことではないでしょうか。法則性と反復性を有するもののみが科学の資格があるというのでしょうか。自然科学の中にすら、それを満たすとはいえないことは、この広大な宇宙を対象とする天文学を見れば明らかでしょう。自然科学の英知とされる物理学においても(私の大学での専攻は物理学でした)、量子力学以降においては認識の絶対性の保障が崩れました。氏の科学の定義はあまりにも無知としかいえないものです。社会・人文科学に関して、経済学に限っても、なぜそこにノーベル賞が設定されてそれが受け入れられたのでしょう。経済学が科学として認められていたからこそ、誰も疑問視しなかったのではないでしょうか。

それでは科学となんでしょうか。宇宙の全営みを対象(その中には当然人間自身も)として、事実に立脚して(実証性)、現時点における既知と未知を明らかにすることです。ここでは、既知とともに未知を明らかにすることも科学の一面なのです。そういう意味からいうと、所謂社会・人文科学はその構成要素の複雑性からして、自然科学に比して、一般的に未知の面がより大きいといわざるをえないでしょう。歴史学では再現不能と史料限界により未知のことが大半なのです。ということは、当然、既知に対して実証性を欠けば、それは夢想・創作に過ぎません。

たとえいかに英知があろうと一人の人間には限界があり、すべてを一人でなしうるわけではないことは自明のことです。あらゆる科学分野においてもしかりで、一人ができることには限界があります。当然ながら、科学の現在の成果は先人の成果に現在のそれを積み重ねたものです。己一個だけでなしえたものではありません。すなわち、新たな成果は先人の積み重ねの上に立っている以上、先人、つまり過去の成果の歴史的考察の中から生まれるものです。したがって、いかなる科学分野であろうと、歴史的考察抜きに現在の成果はありえないのです。とすれば、歴史的考察への科学性の否定は科学それ自体の否定ということになります。すなわち、この「歴史は科学ではない」との考えは、ひいては他の諸分野(とりわけ社会・人文)の科学性を否定していくものであり、ひいては科学そのものを否定することにつながりかねないのです。これでは、21世紀の地球時代を生き抜かなければならない日本の若者の基本教育が崩壊することになります。ひいては日本の崩壊ということにさえなります。したがって、かかる考えを基盤とする歴史教科書の存在を許しえないのです。

しかも、それに加え、前記の趣意書に見るように、「日本人の物語」という具現化です。これは、まさしく実証性を等閑視し、創作が許されていることを表明しているにほかなりません。数学に創作が許されないことは誰でも認めるでしょう。しかし、歴史にそれが許されるでしょうか。歴史も科学である以上、それが許されないのは当然です。すなわち、歴史は物語ではありません。小説ではありません。扶桑社版はそれを許しているのです。

以上の点から見て、扶桑社版が如何に教科書として相応しくないかお分かりでしょう。史実以前の問題なのです。

(2005.04.04)

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西南書城―成都雑感〔5〕―

 成都の大型書店といえば、いずれも新華書店系ですが、3か所あります。天府広場南の天府書城、武侯祠大街と一環路との交差点の成都購書中心、そして上東大街の西南書城です。

この中で、繁華街にあって便利がいいのが西南書城です。歩行者専用道に改修された、成都一の繁華街、春熙路南段が上東大街との交差点の南西カドに位置する西南書城は売り場が1階から3階まであり、書籍全般のほかに、CD・DVDなども扱っています。営業時間は9時半から21時です。

交差点側のカドが入口となっています。そのまま右手の方へ行くと、上階へ行く階段とエスカレーターがあります。まず、3階から案内します。3階は、階段を上がった一角が「小児館」で、その先の奥が「文教館」です。「小児館」には、児童書全般があり、また漫画コーナーもここにあります。この中には、中国原作のみならず、日本原作のものもあります。『名探偵コナン』・『スラムダンク』・『機動戦士ガンダム』を見かけました。「文教館」は、各国語(英・日・独・仏・露・韓など)、言語学(言語学・中国語など)体育(囲碁・中国将棋・太極拳・武術など)、教育関係、大学補習書、高校参考書・問題集、中学参考書・問題集、辞書類があります。それに、階段右手に文具売り場があります。

2階は、階段を上がった一角が「文学館」で、奥が「科技館」です。「文学館」は、中国文学、詩歌散文、古典、外国文学と区分されています。前2者は現代ものです。したがって、『三国志』などの歴史、『三国志演義』などの小説、『唐詩選』などの詩は古典のところです。日本の翻訳物では、推理小説で、赤川次郎・有栖川有栖・内田康夫などが目立ち、さらに横溝正史がシリーズ化されていました。小説一般では、やはり村上春樹が一番で、林真理子・渡辺淳一など目立つとともに、『世界の中心で愛をさけぶ』もありました。「科技館」は、建築装飾、農業科学、交通運輸、軽工業、電子通信、機械、IT、保健衛生、西洋医学、中国医学、生活(美容・手芸・料理など)に区分されています。もし、中国語でよければ、四川はもとより、各地方の中華料理関係の本がそろっています。

1階の入口右手の狭い階段を上ると、中2階で、上がった右手が「芸術館」で、左手が「音像館」です。「芸術館」は、音楽、美術、設計(広告をふくむ)、書、児童用基礎があります。「音像館」はテープ、CD、VCD、DVD、ソフトがあります。

1階は「社会科学館」で、入口左手側が経済と法律、右手側が歴史・人文科学と各出版社コーナーとなっています。

レジは、全館を一括して人文科学側にあり、スーパー形式になっています。レジを通ると出口で、上東大街に出ます。

以上が西南書城です。なお下の写真は入口を正面に見たビル全景です。

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(2005.04.02)
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DVDソフト事情(4)海賊版『ごくせん』―成都雑感〔4〕―

以前、紹介したとおり、日本で発売されると、それを元版とした海賊版が店頭に並ぶのに、1が月以内に出るといいました。

ところで、昨年から、VCDの時と、同様に放送を録画したものを元版とする海賊版が出回り始めました。これを初めて見たのは、実は昨年の国慶節(10月)の時、大連でした。その時、成都に比べて、作品数も豊富で、さすがに在日本人も多く、日本語学習においても先進地だけのことはあると思いました。

この放送録画を元版としたものが、この1月から成都でも見かけるようになりました。すなわち、昨年秋ドラマの海賊版が続々出始めたのです。例えば、『ラストクリスマス』・『マザー&ラヴァー』・『弟』・『夫婦』などです。

これが、本年冬ドラマでは、より早く登場するようになりました。その一例として、今週、初めて見た『ごくせん』を紹介します。ご承知のように、日本テレビが久しぶりに視聴率30%を突破した、冬ドラマ一番の人気番組で、この19日に最終回が放映されたばかりです。下の写真は、その海賊版ボックスの表・裏表紙です。

では、放送録画と原盤とからの海賊版の見分けは、どこでしょう。もちろん、日本で未発売の場合は、前者です。しかし、そのことを知らなければどうでしょうか。簡単な見分け方があります。写真では明瞭ではありませんが、裏表紙下の、DVD情報枠とその記述を見ればいいのです。原盤からのものは、当然そのコピーですから、税抜き価格・時間・枚数・放送局名などが記入されています。それに、発売元名とJASDACのロゴマークが必ず付いています。しかし、放送録画のものにはそれがありません。この『ごくせん』の場合、「セル専用」などという、ありえない表記が入っています。いずれにしても、架空の表記なのです。

 さて、中身は、6枚組(36元)で、2回分で1枚となっており、この点、中国での海賊版の通例となっています。おもしろのは、放送は4:3のスタンダードサイズのはずですが、これは16:9のビスタサイズになっていることです。もとより放送をそのようにカットしたものですから、上下の画面が切れていることになります。さらに、DVDであるため、字幕機能を利用して、無字幕と簡体・繁体両用の中国語字幕があり、これはビスタサイズの下空白につけてあります。ところが、このことは5枚目まで、すなわち10回までで、6枚目、すなわち11回・最終回は画面上に中国語(繁体)がつけられて、それを消すことはできません。このことは、この海賊版が、明らかに南方で作られたこと意味しています。それに、最終回が終わってから製造したのではなく、放送中から製造しておき、最後に最終回分を加えて、出荷を早くするようにしたと考えます。ですから、放送終了1週間あまりで、遠く成都でも見ることができたなのだと考えます。このことは、いかに組織的に海賊版が製造・流通されているかをうかがわせます。

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(2005.03.30)
 

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西南交通大学(その2)犀浦新キャンパス学生寮―成都雑感〔1〕―

 新学期から、犀浦キャンパス(郫県犀浦鎮)での授業も入りました。そこで、新キャンパスの学生寮の部屋を紹介します。

市内キャンパス(金牛区・二環路北段)と新キャンパス間はスクールバスで結ばれています。途中の渋滞がなければ、20分くらいです。新キャンパスの毎授業開始時に合わせて、バスが出ます(たとえば、午後3時の授業の時は、2時20分発です)。逆に、新キャンパスでは、毎従業終了後に出ます(たとえば、4時 40分終了の時は、5時発です)。料金は2元です。

さて、学生寮は6階建てです。各部屋は、間口3.5m弱・奥行き4m強で、これに1m幅のベランダがついています。ベランダにはシャワー付きの(ただし、現在給湯なし)トイレと洗面台とが左右にあります。

室内は、左右に2基づつのベッドユニットがあります。計4基ですから、これが部屋の定員、すなわち4人です。これは、説明するよりも、下の写真をごらんになれば、どんな物かおわかりでしょう。すなわち、上がベッドで、下がクローゼット・机です。机はパソコンがセットできるようにレイアウトされています。それに、壁に本棚をしつらえてあります。ベッドにあがるハシゴは隣と共用です。

下の写真は、順に、〔ベッドユニット〕〔男子室〕〔男子寮ベランダからの女子寮全景〕〔女子室〕です。

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(2005.03.25)

 

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「源義経は名将か?否」一時休止

 「源義経は名将か?否-歴史雑感(1)-」は、一谷合戦の途中まで書いてきました。続きをお待ちかねかと思います。しかし、 一谷の現在地比定に関して、問題検討が不可欠となりました。これには、現在、神戸市須磨区と兵庫区との、大きく2説があります。この間は6キロ以上も離れており、当然ながら、いわゆる義経の「鵯越」「奇襲」の位置も違ってくるわけです。

 そこで、一谷の現在地比定の考察を行うことにしました。しかし、手持ちの史料だけで、それを行わなければなりません。これには、特に、地誌関係の資料が欠けており、十分にできるかどうかわかりません。

 したがって、当分の間、本稿を休止します。

 手持ちの史料で解決できたら、でき次第、改稿を載せます。できなければ、7月の夏休み帰国後となります。

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イトーヨーカドー双楠店―成都雑感〔3〕―

 2号店として、2003年9月、国慶節を前に開業した双楠店は、二環路(第2環状線)西一段逸都路6号にあります。ここは、市中心の天府広場から南西約4キロに位置し、マンション団地に囲まれた、住宅地に立地しています。

 地下1階・地上6階建で、6階には本部事務部門が入っています。地下は駐車場です。入り口は、東(二環路)・南(逸都路駐車場入り口)・西口の3か所です。売り場は1階から3階までで、売り場面積2万㎡弱で、春熙店の8割大です。

1階は、「新鮮食品館」すなわち食料品スーパー、「繽紛飾品館」すなわち化粧品・アクセサリー・腕時計・宝石・靴・生花それに薬・写真プリントなどとなっています。なお、ポッポも東口脇にあります。

2階は、「流行服装館」です。男女の服装品・下着・鞄などです。

3階は、「時尚生活館」です。ベット用品・スタンド用品・台所用品・食器類・炊事用その他の小家電用品・健康用品・スポーツ用品・園芸用品・文具類・子供服装靴・幼児用品・スーパー形式の日用雑貨などとなっています。それに、子供広場と幼児休息室があります。

基本的には、春熙店と同じです。ですが、売り場面積が広いため、春熙店と比べると、品揃えが拡大(品目的にも、ショップ的にも)しており、総体的に、ゆったりとしています。ゆっくりとショッピングができます。

4階はフロアー全体が、「成都百貨大楼」の総合家電売り場となっています。ここは、成都1の高級家電が並んでいます。とりわけ、テレビ・オーディオ関係は内外の有名メーカーがあり、開店当初(昨年春)には、タンノイ・JBLのコーナーがありましたが、現在では撤去されています。しかし、大型薄型テレビでは、シャープ以下の日本メーカーが最新モデルで競い合っています。

双楠店では、無料バスが6路線あり、その一つは私のいる西南交通大学行きです。朝8時半発から夜まで、だいたい1~2時間おきです。店内ではこの出発の案内放送もあります(もちろん中国語)。無料バスはカルフールなどでもやっています。

追記  大学西門から、北に歩いて10分弱のところに、ウォルーマートが建設中です。これは成都1号店となります。現在、基礎工事中ですから、開店まで1年以上かかると思います。完成すれば、成都最大の小売店となります。

下の写真は二環路からの全景です。

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(2005.03.10)
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源義経は名将か?否(その8)一谷合戦―歴史雑感〔1〕―

(2)一谷合戦〈5〉源平両軍の配置

『玉葉』と『吾妻鏡』・『平家物語』での一谷合戦を見てきました。以下では、両者を統合して、私なりの考えを述べたいと思います。

まず開戦前の源氏・平氏両軍の配置を考えて見ます。

最初は、平氏軍です。都落ちし、西国に逃れた平氏が京の回復奪還を目途にしたことは言うまでもありません。西国で主として水軍により戦力を回復させ、瀬戸内海より摂津に上陸して、京都をうかがえる場を確保しようとします。それが福原です。

だからこそ、東の生田森と西の一谷とに海から山際にかけて堀・逆茂木などの防御施設を構築し木戸口を設けたのです。いわば福原を中心に東西10kmほどの地を城郭化したわけです。この城郭で源氏軍の攻撃を撃退しようと目論んだことになります。

当時の武士団の基本編成は一族単位であることは言うまでもありません。その一族が大きくなれば、その一族内部がさらに分割編成されます。この場合、惣領がその直轄部隊を率いるとともに一族全体を統括することになります。有力な兄弟がいれば彼らが一個の部隊を編成しますし、おじたちも同様となります。また、子息も独立して一個の部隊を編成してゆきます。このように、惣領を中核に一族が編成されるのです。

清盛期には、当然清盛が惣領です。まず、彼の弟として、4男池大納言頼盛、3男門脇中納言教盛、2男修理大夫経盛が公卿に昇進し、それぞれが家を形成します。同時に、長男の内大臣重盛が嫡男として小松家を形成します。重盛は父に先立ち死去しますが、小松家はその嫡子維盛に継承されます。また、清盛2男宗盛・3男知盛・4男重衡も公卿に昇進します。平氏軍は、清盛直轄部隊(子息の知盛・重衡が指揮)、小松家および池殿家以下の弟3家、と大きく5部隊で編成されていたことになります。

清盛の死去と都落ちの後の編成は、基本的には世代交代を行い、宗盛を惣領に、旧清盛直轄(嫡宗)部隊を知盛・重衡が指揮し、叔父の門脇家が通盛兄弟、修理大夫家が経正兄弟、それに小松家が資盛兄弟(維盛は都落ちのとき、平氏から脱落し、後に出家自殺)と、大きく4部隊に編成されていたと考えます(池殿家は都落ちのとき、平氏を離脱)。

以上の平氏軍の編成を基礎にして、その配置を考えてみます。源平両軍の大手である生田森は知盛・重衡兄弟が守ります。同時に、源氏軍が丹波経由で迂回することを知るや、三草山に小松家の資盛兄弟を派遣します。しかし、三草山合戦で敗北し、その大半が瀬戸内海へと敗走します。これを知ると、山の手口を固めるため通盛・教経兄弟を増援します。一方、搦手口の一谷は薩摩守忠度です。そして、経正兄弟は予備部隊として福原に控えていたと考えます。以上、合戦直前の配置は、生田森が嫡宗(知盛・重衡)、一谷が故清盛末弟の忠度、山の手が門脇家(通盛・教経兄弟)、予備として福原に修理家(経正兄弟)となります。

では、源氏軍の配置はどうでしょうか。源氏軍の目的は平氏軍の再上洛の阻止です。このため、その策源地である福原を攻撃し、その覆滅が目標となります。このため、次のように部隊を配置します。生田森口攻撃は、源範頼を大将軍として、過半の兵を配します。これが大手です。源義経と安田義定を大将軍に、丹波路より一谷方面に迂回攻撃をかける部隊を編成し、少数の兵を配します。これが搦手です。そして、三草山合戦勝利後、搦手を義経と義定に分け、義経は山の手口を義定は一谷口を攻撃することにします。

以上の配置から、源氏軍の戦術意図がわかります。それは、平氏軍の主力が守備するであろう生田森口を主力でもって攻撃し、ここで両軍が拘束されている間に、丹波路より迂回した部隊が後背より福原に突入することで、平氏軍を撃破することです。この突入路としては、第一に山の手口を考えていたと思います。ここは福原の背後にあたります。この作戦の成否は、主力の大手との連携が大切であることともに、平氏軍の最小抵抗線を突くことが肝要です。前者に関しては、行程が長く山地であることを考えると、機動力が重要となります。そのため、大手に比べて、少数で機動力とんだ部隊が編成されたと考えます。同時に、現地の地理に通じた武士が参加していなければ迅速な行軍は困難でしょう。したがって、搦手には有力な摂津武士が参加していたと考えます。後者のためには、的確な平氏軍の配置に関する情報が必要です。すなわち偵察活動が肝要となります。このためにも、やはり地理に通じた摂津武士の参加は欠かせないと考えます。また、行動の秘匿も不可欠と考えます。

他方、平氏軍はどう考えていたのでしょう。生田森口に知盛・重衡兄弟を配置したことから、ここが平氏軍にとっても主力ということになります。したがって、ここが最大抵抗線となります。同時に、源氏軍の丹波路迂回を知るや、三草山に小松家部隊を派遣配置したことは、ここを抵抗線として源氏搦手部隊を遅延させて、福原攻防戦に参加させないことで、最大抵抗戦線(生田森)で源氏軍の攻撃を撃退し、福原城砦を確保するという作戦目的を達成できることになります。

しかし、三草山の防衛線はもろくも崩れてしまいます。これを知った平氏軍が門脇家を山の手口に増援し防衛線を構えたことは、源氏搦手部隊の進撃路が山の手口であると判断したことになります。決して一谷口ではないのです。なぜならば、平氏軍の構成から考えますと、その戦力は最強が嫡宗(知盛・重衡)、第2が門脇家、第3が小松家、第4が修理家となると考えるからです。一谷に配置された忠度は最下位の戦力なのです。したがって、一谷合戦直前の平氏軍の配置は、主力が生田森口、次いで山の手口、一谷口が最小ということになります。このことは三草山合戦後の源氏軍の行動を基本的には予測していたことになります。すなわち、『平家物語』にいう鵯越を平氏軍は予測していたのです。源氏軍の秘匿性は失われていたのです。鵯越の進路は『平家物語』の記述とは異なり、未知のコースではなく既知のコースであったのです。したがって、『平家物語』の語る義経の主導による鵯越奇襲策は物語にすぎないのです。

(続く)

(2005.02.21)

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成都に戻りました。(ブログ再開)

19日零時すぎに、西南交通大学の宿舎に戻ってきました。

CA926便と4118便を北京で乗り継いできました(CA422便は朝早すぎます)。22時半着の4118便が1時間弱遅れたため、本日となりました。

これより、ブログを再開します。まずは、「義経は名将か?否(その8)」からです。

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冬休み帰国による休止

 私の担当する期末試験も12日に完了し、採点も終わりました。これ私の冬休のはじまりとなります。

 本日午後の便(成都発北京経由成田着)で、日本に戻ります。1か月ほど日本の空気を吸います。2月18日夜に成都に戻ってきます。

 この間、原則として、このブログへの新規書き込みを休止させていただきます。

 おやすみなさい。

 

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源義経は名将か?否(その7)一谷合戦―歴史雑感〔1〕―

(2)一谷合戦〈4〉『吾妻鏡』・『平家物語』による一谷合戦

三草山合戦敗退の報を受けた平氏軍は次のような防衛体制をとります。義経軍の北からの攻撃に備え、山の手(鵯越山際)に平通盛・教経兄弟を配して防衛線とします。大手の生田森には大将軍として平知盛・重衡兄弟(平氏軍最有力の武将)を、搦手の一谷には大将軍として平忠度(彼以外は不明)を配置します。この武将配置からみても、平氏軍の主力が生田森であると考えるのが至当です。

三草山合戦に勝利した義経軍は軍を二分します。『延慶本平家物語』では、義経は7000騎を率いて鵯越を、土肥実平(実は甲斐源氏安田義定)が3000騎を率いて山の手を目指します(よく読まれている語り本系『平家物語』では実平は一谷を目指します。兵力比も逆です。なお、『吾妻鏡』では鵯越の兵力を70騎とごく少数です)。そして、6日夜、義経は鵯越山に到達し、眼下に東に昆陽野、南に大物浜、西に一谷と全戦線を一望にします。一方、平通盛兄弟が山の手に陣した灯りを見た範頼軍は義経軍の進出と判断して、6日、昆陽野から武庫川を渡り生田森に布陣します。(語り本系『平家物語』には以上のことは触れていません)。以上、実平の目標が山の手か、一谷か諸本で異なるのです。注意すべき点と考えます。ともあれ、両軍の配置からして、生田森が主戦場であることは明らかです。そして、6日夜、生田森では源平両軍が対峙し、それぞれの陣はかがり火で輝いたのです。

義経軍の鵯越の途中経緯については『平家物語』諸本により細部は異なりますが、東国武士は誰も地理を知らなかったため、通案内人探しに苦労したことを一致して述べています。しかし、義経の意図や具体的進路は記していません。

さて、一谷合戦は、7日早朝、熊谷直実父子と平山季重の一谷先陣争いで、火蓋を切ります。熊谷・平山ともに義経に属していたのですが、山越えの悪所では先駆けができないので、単独行動で一谷正面に出てきたのです。この後、成田五郎に続いて、実平軍(『延慶本平家物語』でも。この点、義経軍を二分した時の説明と矛盾しています)が戦闘に加わり、一谷戦線は全面的戦闘状態に入るのです。一方、生田森は、河原高直兄弟の単独先陣とその戦死で、戦闘が開始されます。次いで、梶原景時父子一党が攻撃をかけ、それから全面攻撃となります。こうして、東西の戦線は全面的戦闘状態となり、両軍の死闘が続きます。しかし、『平家物語』諸本はその経緯は伝えていません。

この源平両軍の死闘を、義経は一谷北の鉢伏山(神戸市須磨区一谷町の北にそびえる鉢伏山・鉄拐山と考えられています)から見下ろします。三浦党の佐原義連を先頭に義経軍は逆落としに一谷の平氏軍の背後を衝きます。これがよく知られた義経の一谷逆落とし奇襲です。この後、源氏軍は平氏軍の仮屋に放火し、西風に乗り仮屋は延焼し、平氏軍は海へと敗走となり、勝負がつきます。

『平家物語』諸本では、この後、平氏の諸将の戦死の様子を個別に述べて、本合戦を終えます。そこでは戦死した将と、諸本により若干の相違はありますが、その討手が書かれています。他方、先に述べたように、源氏軍は源範頼・源義経・甲斐源氏安田義定の3軍編成で、『吾妻鏡』には各軍が討取った平氏軍の将の交名が載せられています。この両者をつき合わせて一覧してみます。

〔源範頼〕  平通盛(山の手)  佐々木源三盛綱・玉井四郎資景

       平忠度(一谷)   岡部六弥大忠澄

       平経俊  ?      ?

〔源義経〕  平敦盛  ?    熊谷二郎直実

       平知章(生田森)  児玉党

       平業盛(山の手)  比気四郎or土屋五郎重行

       平盛俊(山の手)  猪股小平太則綱

〔安田義定〕 平経正  ?    河越小太郎重房

       平師盛(山の手)  河越小太郎重房or畠山二郎重忠

       平教経(山の手)    ?

これ以外に、梶原景時らが平重衡(生田森)を生虜にしています。以上が、『吾妻鏡』・『平家物語』の伝える一谷合戦です。まさしく、義経の鮮やかな奇襲の成功により源氏軍が勝利したことになっています。ここでは義経は英雄なのです。

(続く)

(2005.01.10)

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DVDソフト事情(3)アニメ他―成都雑感〔4〕―

 中国でのアニメは、やはり日本発が圧倒的力を持っています。今の若者の多くは小学校時代にテレビで放送される日本製アニメを見て育ちました。『鉄腕アトム』や『ドラえもん』がその代表です(日本語学科の多くの学生もそれで日本に興味を覚えたと言っています)。それらのアニメの多くは中国語に吹替えら放送され、現在でもその多くが正規版(中国語吹替え)としてVCDやDVDで発売されて、子供用として売れています。『一休さん』『ちびまる子ちゃん』などがそうです。

では海賊版としてみられるのはどんなものでしょう。映画アニメと日本のテレビ局で7時台に放送された青少年むきのもとがそれです。映画では、宮崎駿作品は『風の谷のナウシカ』以下全部出ています。テレビアニメでは、『スラムダンク』『セント星矢』『機動戦士ガンダム』『名探偵コナン』『逮捕しゃうぞ』など各ジャンルにわたっています。ただ、『美味しいぼ』や『巨人の星』のような作品は見えませんから、成人コミックや70年代以前の旧作は出ていないと考えられます(私はそれらのテレビアニメは見ないので詳しくは分かりません)。

テレビアニメはボックス売りで、ドラマと同様です。映画アニメは映画と同様です。アニメにおける日本作品の比率はテレビでほぼ100%、映画で70%以上で、残りをアメリカ(デズニー作品がほとんど)、ついで中国といったところです。

日本作品のドキュメントは数少なく、いつも在庫があるとは限りません。『四大文明』のような、NKH制作のものがほとんどです。珍しいところでは、『零戦 世界最強の伝説』が4枚組みで出てきました。これはなぜ出たのか不思議です。

外国人の音楽では日本人のものは数少ないです。大半は欧米人のものです。クラッシック・ポピュラーに関係ありません。浜崎あゆみ。宇多田ひかる・平井堅を見るくらいです。それに以前に山口百恵の『伝説から神話』を見かけたくらいです。欧米では、ビートルズ・カーペンターズといったものやマイケル兄弟などがあります。クラッシクはウイン新年演奏会は毎年出てきますが、新作演奏はほとんど見られず、旧譜のコピーです。この中には日本版も多くみられます。まあ、中国ではクラッシクファンは限られており、需要がないからでしょう。クラッシックでは演奏ものとオペラの比率が同じくらいです。正規版のほうが種類は少ないですがいいものがあります。

以上がDVDソフトについての大体のことです。

ここで昨年春より急速に出回りだした圧縮DVDについて話します。MPEG-4技術を使用して、画質がDVD と比べると劣るものの、VCDより良質で、1枚に複数本の映画やテレビドラマを収録したディスクが圧縮DVDです。これは旧来のDVD機(MPEG-1=VCD、MPEG-2=DVD)では見られず、パソコンで見ることができるものです。しかし、最近の中級以上のDVD機にはMPEG-4視聴可能タイプも出てきました。

圧縮DVDは旧来のDVDの4倍以上の容量があり、画質・音質を落とせは10倍以上にもなります。例えば、『白い巨塔』の場合、DVD12枚組なのに、圧縮DVDでは1枚ですむといったぐわいです。価格は1枚6~8元となっています。もちろんこれは非合法の海賊版です。これは外国作品のみならず、中国作品の正規版におよんで、このほとんどがそれで海賊版化されています。したがって、中国作品の正規版(VCD)の売上減少に重大な影響を与えています。何せ、正規版の10分の1以下の価格ですから。日本の連続ドラマの多くもこれで出回っています。また、映画も5本以上を1枚に詰め込んで発売されています。価格破壊といっていいでしょう。学生の間では人気があります。

最後に、西南交通大学内での販売状況を見てみましょう。学内でDVDが販売されるようになったのは、SARSが終息した2003年夏からです。6店で販売していますが、豊富なのは2店です。1店はレンタル店が販売しているもので、1列100枚以上あり、それが20列ほどあります。もう1店は音像商店がDVD主体になったもので、間口2mと狭いですが、列は40列と量は多いのです。もちろん同じものもあり、また同一作品で異なる海賊版もあるので、作品点数はこれより少なくなります。いずれの店も、圧縮DVDが増えており、その分DVDの列が減っています(前の店では、以前DVDであった4列が圧縮DVDになりました)。これらの店では30元で1元引きますが、電脳街ではありません。学生はほとんど学内で購入し、寮の自室でパソコンで視聴しています(テレビは寮にはありませんが、パソコンは購入やレンタルで保有率が上がっています)。

(2005.01.04)

追記  12月23日発売の『世界の中心で、愛をさけぶ』を学内の商店で本日見ました。先週には見かけませんでした。早速買いました。

(終)

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