NHKと毎日新聞・日経新聞のWebで報道されたように(北京時間8時現在)、昨日夕方、成都イトーヨーカドー春熙店において、所謂「反日行動」の一団が暴力行為に及び、入口のガラスなどを破損させました。この規模は、私も正確な情報を入手していないので、確かではありませんが、今日の営業が普段通りに行われ、客も普段通りだったことから見て、日経の伝える「数千に規模があつまった」とするのは、野次馬を含めた数字で、暴力行為に及んだのは、毎日の伝える数十人程度と考えます。しかし、春熙路一帯に防暴隊(日本でいう機動隊)を含む公安(警察)が多数出動し、鎮圧にあたり、あたり一帯が封鎖され商店が営業停止に追い込まれたことは確かなことです。
本事件は、新華社発行の『国際先駆導報』の「朝日啤酒等日企赞助日本歪曲历史教科书」記事(アサヒビールにかかわる内容―「编撰会从倾向于右翼的大企业得到充足的资金,朝日啤酒、三菱重工、日野汽车、五十铃汽车、住友生命、味之素、东京三菱银行、清水建设、中外制药、大成建设 等众多日本大企业支持编撰会。朝日啤酒名誉顾问中條高德在编撰会会报《史》上公开声称:“不参拜靖国神社的政治家,没有当政的资格。”」)による、吉林省長春市での、アサヒビールボイコットとその報道に端を発しています。折から、Web上で開始されていた日本の国連安全保障理事会常任理事国入り反対署名を勢いづけさせるとともに、各地にボイコット運動を拡大させました。この一環として、この3日(日)に、深圳・成都で抗議行動が計画されていたわけです。これが、予定より早く、しかも暴力行為となってあらわれものです。
さて、本来は成都のあれこれをお伝えするものですが、もう一面は日本史のことをお伝えするものです。したがって、上の記事の言う「歪曲历史教科书」とは、現在検定作業中の、新しい歴史教科書をつくる会編集の扶桑社版の中学用歴史教科書のことですから、歴史研究者の末席を汚す私としては一言あるべきだと考えます。
上記の記事内容が取材の常道にしたがって、取材対象およびその周辺を取材し、裏を取った記事でないことは、アサヒビール最高顧問中条氏の言を除けば、なんらの根拠を示すことなく、断定していることからあきらかです。また、関係方面が、ボイコットが報道されるまで、寝耳のことであったことは、事後の対応に関する報道を読めばあきらかです。これは事前の取材を受けなかったことをあらわしています。したがって、その記事の内容の正当性については疑問視せざるをえません。
しかし、たとえ「誤報」にせよ、本記事作成とそれが受け入れられ素地には所謂「歴史問題」があることは言うまでもありません。昨今、昨年はあの「韓流」に沸きかえって、日韓が蜜月のように思われていました。それが、現在ではどうでしょうか。中韓両国は常任理事国入りに反対しています。中国はともあれ、韓国までがというのが、偽らない感じでしょう。やはり、根幹には「歴史問題」があるのです。そのリトマス試験紙的役割を果たしているのが扶桑社版歴史教科書です。
したがって、ここに私の本歴史教科書に対する考えを披瀝したと思います。(以下、扶桑社版と称します)
通例、扶桑社版に対する反対は、その歴史的事実の誤謬の多さ、そして、近代史における日本のアジア侵略に関する記述の問題、とりわけその侵略性些少化、に求められています。とりわけ、中韓両国はその被侵略ですから、後者に関しては強い反対を招いています。もちろん、私は歴史研究者ですから、個々の史実およびその史観については私見があります。しかし、それ以上に問題としたいことがあります。この問題点がある以上、扶桑社版が教科書にふさわしくないことは明白なことです。史実以前の問題です。私は日本人、いや地求人として、かかる本が教科書としても読まれることに断固反対します。
扶桑社版はいかなる考え(認識)によって、編集されているのでしょうか。そこで、1997年1月30日の新しい歴史教科書をつくる会設立総会での趣意書を見てみましょう。そこに、「私たちの先祖の活躍に心踊らせ、失敗の歴史にも目を向け、その苦楽を追体験できる、日本人の物語です」なる一文があります。
また、教科書作りに参画した三木太郎氏(駒澤大学名誉教授・邪馬台国論争では著名)は、会報『歩』27号2001年7月に《歴史は科学ではない》と題して寄稿されて、新しい歴史教科書作りの意義を喧伝しています。その中に、
【 北海道新聞の江尻論説委員が同紙のコラム「オピニオン」で「つくる会」の主張にかかわらせながら、「歴史は確 かに自然科学とは違う。しかし、歴史は科学ではないのか」という、歴史学に対する率直で根源的な問いかけをされている一文が目についた。】
への反論として、〈歴史は科学ではない〉との見出しをつけ、その中で、
【 科学とは元来、自然科学のことであり、法則性と反復性を要素とするが、歴史事象は、この二つの要素をともに欠いている。
つまり歴史には科学に類似する要素が全くないのだから、どのようにひいき目に見ても、科学たりえないのである。
この非科学的牲質の歴史が、ではなぜ科学とされたのか。それはマルクス史観が、歴史の本質を「階級闘争の歴史」と規定し、そこに自然科学と同様、法則性・反復性を見いだしたからにほかならない。
しかし、これが法則性というなら、経験論的に言って、歴史は「戦争の歴史」という定義もできるし、歴史は「侵略の歴史」と定義することもできる。角度を変えれぱ、「男女の愛の歴史」「男女の相克の歴史」「悪意の歴史」「善意の歴史」「裏切りの歴史」「神と人の融合の歴史」「神と人の相克の歴史」などと括ることもできる。
それらは、歴史を貫流する抜き難い一面の現象ではあっても、それを歴史の本質・法則性だといいきれる訳のものではない。反復性にしても、それは類似性にしか過ぎず、事象は一回性、経過性で、自然科学のように実験出来るものではない。
マルクス史観は、唯物論の史的展開を絶対とみるからそうなるので、法則性の原動力として「生産と生産閲係の矛盾」を構図としても、それ自体が、実は観念論であることは言うまでもない。
したがって、歴史は科学ではないと認識するのが、歴史事象に対する、正しい対応であろう。】
と、主張しているのです。氏のマルクス史観に対する見解はここでは問題とはしません。
それ以上問題なのは、「歴史は科学ではない」という主張です。科学が、所謂自然科学に限らず、人間の営みがなすものが科学の範囲に入ることは自明なことではないでしょうか。法則性と反復性を有するもののみが科学の資格があるというのでしょうか。自然科学の中にすら、それを満たすとはいえないことは、この広大な宇宙を対象とする天文学を見れば明らかでしょう。自然科学の英知とされる物理学においても(私の大学での専攻は物理学でした)、量子力学以降においては認識の絶対性の保障が崩れました。氏の科学の定義はあまりにも無知としかいえないものです。社会・人文科学に関して、経済学に限っても、なぜそこにノーベル賞が設定されてそれが受け入れられたのでしょう。経済学が科学として認められていたからこそ、誰も疑問視しなかったのではないでしょうか。
それでは科学となんでしょうか。宇宙の全営みを対象(その中には当然人間自身も)として、事実に立脚して(実証性)、現時点における既知と未知を明らかにすることです。ここでは、既知とともに未知を明らかにすることも科学の一面なのです。そういう意味からいうと、所謂社会・人文科学はその構成要素の複雑性からして、自然科学に比して、一般的に未知の面がより大きいといわざるをえないでしょう。歴史学では再現不能と史料限界により未知のことが大半なのです。ということは、当然、既知に対して実証性を欠けば、それは夢想・創作に過ぎません。
たとえいかに英知があろうと一人の人間には限界があり、すべてを一人でなしうるわけではないことは自明のことです。あらゆる科学分野においてもしかりで、一人ができることには限界があります。当然ながら、科学の現在の成果は先人の成果に現在のそれを積み重ねたものです。己一個だけでなしえたものではありません。すなわち、新たな成果は先人の積み重ねの上に立っている以上、先人、つまり過去の成果の歴史的考察の中から生まれるものです。したがって、いかなる科学分野であろうと、歴史的考察抜きに現在の成果はありえないのです。とすれば、歴史的考察への科学性の否定は科学それ自体の否定ということになります。すなわち、この「歴史は科学ではない」との考えは、ひいては他の諸分野(とりわけ社会・人文)の科学性を否定していくものであり、ひいては科学そのものを否定することにつながりかねないのです。これでは、21世紀の地球時代を生き抜かなければならない日本の若者の基本教育が崩壊することになります。ひいては日本の崩壊ということにさえなります。したがって、かかる考えを基盤とする歴史教科書の存在を許しえないのです。
しかも、それに加え、前記の趣意書に見るように、「日本人の物語」という具現化です。これは、まさしく実証性を等閑視し、創作が許されていることを表明しているにほかなりません。数学に創作が許されないことは誰でも認めるでしょう。しかし、歴史にそれが許されるでしょうか。歴史も科学である以上、それが許されないのは当然です。すなわち、歴史は物語ではありません。小説ではありません。扶桑社版はそれを許しているのです。
以上の点から見て、扶桑社版が如何に教科書として相応しくないかお分かりでしょう。史実以前の問題なのです。
(2005.04.04)