鎌倉幕府第2代将軍源頼家は何時元服したのか―歴史雑感〔65〕―

 源頼家の元服を明示する史料は存在していません。では頼家は何時元服したのでしょうか。建久8年(1197)12月15日、源頼家は従5位上に叙爵し右近衛権少将に任官しました(『公卿補任』第二篇正治2年条源頼家尻付)。なお、これは京官除目です(『猪熊関白記』同日条)。ということはこれ以前に元服していたことになります。

 周知のように源頼家は初代将軍源頼朝の長男として正室北条政子が寿永元年(1182)8月3日に出産し、万寿と名付けられました。順調に成長して、建久4年(1193)5月16日、富士巻狩りで、「将軍家家督若君(万寿)始めて鹿を射せしめ給う」(『吾妻鏡』同日条)と、初めて鹿を射止めます。頼朝は直ちに狩を止めて、夜に入り山の神に感謝する矢口祭を催します。矢口祭は、集団に於いて生まれて初めて野獣を仕留めた男子がこの集団から一人前の猟師と認められる証として行われる祭りで、それ故に、頼家への矢口祭は事実上の成年式当たると、千葉徳爾氏が意義を評価しています(『狩猟伝承研究』第二章日本狩猟史の諸問題1969年風間書房)。すなわち、万寿、後の頼家が頼朝の後継者としての資格が備わったということです。時に頼家は12歳であり、頼朝が初官、皇后宮権少進に任官した時も12歳でした(『公卿補任』第一篇文治元年源頼朝尻付)。万寿は狩と年齢から元服にふさわしい時期となったのです。

 富士巻狩りは引続いて行われました。しかし、周知のように、28日深夜、曽我兄弟の仇討ちが行われ、工藤祐経が討たれ、多くの御家人が死傷しました。続いて6月に入ると、常陸国の有力御家人大掾氏の多気義幹が多気山城に立籠り、結果義幹の所領は没収され、駿河に追放されます(『吾妻鏡』同年6月5・22日条)。7月に入ると、同じ常陸国の小栗重成が「物狂」となり、鹿島社造営奉行を罷免されます(『吾妻鏡』同年7月3日条)。さらに、8月2日、反逆の疑いをかけられた頼朝異母弟三河守源範頼が起請文を献じ、最終的に17日に伊豆国に追放されます(『吾妻鏡』同日条)。24日には、石橋山合戦以来の相模国御家人の大庭景義・岡崎義実が出家を遂げています(『吾妻鏡』同日条)。年末が近づいた11月28日には甲斐源氏の越後守安田義資が誅戮されます(『吾妻鏡』同日条)。この連続した騒動では晴れやかに万寿の元服式を行える環境とはいえないでしょう。いわば頼朝は政権内部の矛盾・動揺を正すことを優先しなければならなかったといえます。これは翌年の甲斐源氏の雄遠江守安田義定の誅戮もそうでしょう。いわば、建久4年後半から5年にかけては潜在的にも頼朝の対抗馬となりえる門葉源氏排除に力を注ぎざるをえなかったといえます。

 建久6年(1195)、頼朝は正室北条政子・長女大姫・長男万寿を伴い、2度目の上洛を行いました。この上洛は周知のように、東大寺再建供養(3月12日)参列のためでした。もちろん、頼朝は参内して、2度にわたり関白九条兼実とも対談しました(『吾妻鏡』同年4月10日・5月22日条)。そして、6月3日、「将軍家若公〈一万公、歳十四、布衣〉御参内、網代車に駕し給う、(中略)弓場殿において御釼を賜う」(『吾妻鏡』同日条)と、万寿、すなわち改名して一万が単独で参内し、御剣を賜りました。元服前の童殿上(童の殿上人)というものです。長徳4年(998)11月19日、内覧左大臣藤原道長の嫡子鶴君(後の頼通)が元服前の男子の昇殿、すなわち童殿上が聴るされています(『伏見宮御記録』利一・権記同日条〔『大日本史料』第二篇之三〕)。頼通は長保5年(1003)に12歳で元服して正5位下に叙せられていますから(『公卿補任』第一篇寛弘3年藤原頼通尻付)、7歳で童殿上を聴るされたことになります。このように童殿上の例は基本的に摂関家の子弟です。この童殿上は当然ながら朝廷、すなわち主導者である関白九条兼実の了承なしには行えません。なお、童殿上ということは頼家がこの段階で元服していなかったということです。頼朝の東大寺再建供養への上洛は晴儀といえ、上洛前か後かは別にして、これを機会に元服し、叙爵・任官、参内の流れが自然と思えるのですが、『吾妻鏡』に従えば何故か元服はなされなかったことになります。

 ところで、坂井孝一氏はこの一万の参内について不自然あるとし、すでに建久4年の巻狩り後に元服していた主張しています(『源氏将軍断絶』2021年1月PHP新書頁87)。しかし、坂井氏は元服の根拠を挙げず、ただ主張しているだけです。後継者である一万の元服は最も晴儀たるものであり、全御家人から祝されるものです。そうならば、曽我兄弟の仇討に端を発し、騒動が連続した中では、御家人間の動揺・猜疑も深まり、とても落着いて晴儀を行える環境ではないと考えるのが普通でしょう。それに、上洛以前に元服していたならば、当然に叙爵し任官していなければ不自然です。坂井氏は頼朝との関係が良好でなかった兼実が叙爵を許可しなかった可能性があるとしてます。

 周知のように、二度目の上洛では頼朝は大姫入内工作に熱心で、このため丹後局に接近して多大の贈物をしたのに対して、兼実には馬2疋と些少で差が大きく、これにより頼朝は兼実に冷たかったとの評価です。しかし、一万が童殿上をなしたことは兼実は頼朝を摂関家に準じる家格で待遇したことを意味しており、むしろ優遇したといえます。無位無官の参内は例がなく、そのような先例なきことを朝廷が認めるとは思えません。従って、坂井氏の主張には従いかねます。

 以上、建久4年の初鹿獲りでの矢口祭、建久6年の上洛と元服の環境はありえましたが、いずれも元服はなされませんでした。とすれば、建久8年12月15日の京官除目で叙爵任官は元服していることが前提ですから、12月以前の近い時期に元服したとするのが至当です。すなわち、頼家の元服時期は建久8年ということになります。おそらく、京官除目に合わせて、これに間に合うように11月の吉日を選んで元服式を執り行ったとするのよいでしょう。7月14日、入内させようと運動していた長女大姫が死去します(『愚管抄』巻第六)が、この喪を払う意味があったかも知れません。ただ、16歳になるここまで元服が延びた理由は不明ですが。この時の朝廷の主導者は源通親でしたが、すでに摂関家に準じて童殿上を行っている以上、これに準じた叙爵となり、摂関家庶子の初叙である従5位上にされたことになります。この時期は『吾妻鏡』が欠文ですから、頼家元服記事がないのは当然なことです。

(2021.05.02)

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衣川北岸の安倍氏・奥州藤原氏関係地―歴史雑感〔64〕―

 2021年4月16日(金)午前、昨年6月には雨のため行けなかった、衣川北岸流域に分布する安倍氏・奥州藤原氏に関係する地を巡りました。接待館遺址・並木屋敷跡(衣川柵)・小松館跡・安倍一族鎮魂碑の順で回りました。

 国道300号を北上して衣川を渡り、少し行ったところで道を左(西)に取り道なりに行くと、最初の訪問地の接待館遺址(奥州市衣川区六日市場・七日市場・関谷起)です。平泉駅からだと早足の私だと約40分強でしょう。本遺址は2004・5年に衣川左岸築堤工事に伴う発掘調査が行われました。これにより柳之御所に匹敵する、堀と二重の土塁で囲まれた、東西120m・南北65mの12世紀後半の施設が確認されました。本遺址部分は埋め戻されて保存されています。本館は藤原秀衡の母の居館と伝えられ、ここで旅人接待したので、接待館との名が伝えられたのです。さらに秀衡・泰衡の代には秀衡舅の前陸奥守藤原基成の館である衣川館の可能性が高いです。すなわち、源義経が襲われた衣川館の可能性です。なお、「六日市場・細田・接待館遺跡発掘調査報告書」はhttps://sitereports.nabunken.go.jp/ja/12690からダウンロードできます。

 写真1は、衣川堤防上から遺址を東から西へと撮ったものです。左隅に「国指定史跡「柳之御所・平泉遺跡群『接待館遺跡』」の説明板が立っています。その左の平地の割れ下がったところが堀跡です。

 写真2は、同じく堤防上の西から東への本遺址です。

 写真3は、本遺址の西から東北へと撮ったものです。

 写真4は、本遺址上から北へと撮ったもので、杉林とその右の竹林へと土塁跡が続いています。

 次いで道なりに行くと、10分弱で衣川柵と伝える並木屋敷(奥州市衣川区並木前)跡に着きます。道の北側に跡が広がり、案内板があります。この地は永承元年(1045)頃に安倍頼時が本拠を構え、政庁とした地と伝えられています。当時は桜並木で囲まれていたと伝えられており、並木屋敷と呼ばれています。なお、衣川柵と称していますが、安倍氏期には柵はなく、後の清原武則・武貞・真衡3代の政庁(居館)となり築かれたと伝えられています。

 写真5は、説明板側(東)から北へと撮ったものです。ご覧のように当地は畑と住宅地になっています。

 さらに道なりに行き、また衣川を渡ったところが小松館跡(奥州市衣川区横道下)です。5分ほどでした。小松館は安倍貞任の叔父僧良照の館と伝えられ、東は衣川の断崖、西・南は小成沢の崖で囲まれた北から続く大地上に築かれたもので、東西60m・南北160mの規模でした。安倍氏滅亡後は荒廃しましたが、貞治5年(1366)に葛西氏の家臣破石氏が居館を構えました。

 写真6は、道路から北へ館跡を撮ったものです。館跡は畑で段となっています。

 写真7は、橋から館跡を撮ったもので、ご覧のように衣川の断崖となっています。

 国道300号へと道を戻り、先のガソリンスタンドのところで、道を左に取り少し行くと、安倍一族鎮魂碑(奥州市衣川区九輪堂)があります。20分強でした。最後の写真8が、それで、「みちのくの名将安倍一族鎮魂碑」とあります。

 最後に、私は徒歩で巡りましたが、平泉駅前にレンタサイクル屋さんがあります。ほぼ平地ですから、自転車利用の方が利便性もあり、今回は省略した長者ケ原廃寺跡等を巡るのも楽です。

(2021.04.24)

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平泉の桜並木

 平泉の国道300号線の毛越寺口十字路の少し北から中尊寺入口先まで約1.5kmにかけて桜並木があります。2021年4月15日(木)午後、旅館に入る前に桜を愛でてきました。満開を少し過ぎて散り始めましたが、この写真をお見せします。

 付けたりとして、観自在王院遺址には少し桜があるので、これをお見せします。

 最後の写真は、池の奥にある中心伽藍の大阿弥陀堂跡です。

 なお、観自在王院遺址に関しては、「観自在王院遺址―歴史雑感〔56〕―」(2020年7月2日付)、をご覧ください。

(2021.04.21)

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桜の盛岡城跡公園

 日本百名城である盛岡城の内曲輪(御城内)は盛岡城跡公園(盛岡市内丸1番37号)となっており、桜の名所でもあります。そこで、2021年4月15日(木)昼、観桜に出かけました。盛岡城は、南部利直により慶長年間(17世紀初頭)には総石垣の城としてほぼ完成し、3代藩主重直の寛永10年(1633)に完成しました。西を古北上川に接し、東に中津川の合流点に位置する花崗岩丘陵に築かれた連郭式平山城です。本丸の北側に二ノ丸・三ノ丸が配され、本丸と二ノ丸の間は空堀で仕切られ、現在は朱塗り橋(渡雲橋)が架かっていますが、当時は本丸御殿と大書院を結ぶ廊下橋が架けられていました。本丸を囲むように南から東へと腰曲輪・淡路丸・榊山曲輪が配されました。明治維新によりほとんどの建物が解体されて現在に至っていますが、石垣はよく保存されて威容を誇っています。

 写真1は、三ノ丸の虎口で右奥に瓦門がありました。

 写真2は、三ノ丸東側の烏帽子岩の先にあるエドヒガンを南へと撮ったものです。左下が鶴ヶ池です。

 写真3は、二ノ丸車門跡です。

 写真4は、二ノ丸から見下ろしたシダレ桜です。

 写真5は、本丸への渡雲橋です。

 写真6は、本丸から見下ろした腰曲輪東側の桜(ソメイヨシノ)です。本曲輪は桜で埋め尽くされています。

 写真7は、見下ろした腰曲輪の桜ですが、桜と共に結婚記念撮影をする和装のカップルが見えています。

 写真8は、腰曲輪の桜を東側へと撮ったものです。

 写真9は、淡路丸の桜です。

 写真10は、拡大した淡路丸の桜です。

 写真11は、淡路丸を下り、本丸と二ノ丸を挟んで渡雲橋を見たものです。

 写真12は、多目的広場から南への鶴ヶ池で、橋の左脇に宮沢賢治「岩手公園」碑があります。

 写真13は、北側の鶴ヶ池です。

 最後の写真14は、鶴ヶ池(内堀)最北で、左にあるのが時鐘です。

 なお、フォト・アルバム「桜の盛岡城跡公園」はhttps://1drv.ms/u/s!AruGzfkJTqxng70OcxZDvgP7i3LfSw?e=qDqtB8です。

(2021.04.20)

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山木夜討ち(その四)―歴史雑感〔37〕―

(その一)一、『吾妻鏡』の語る山木夜討ち

(その二)二、『延慶本平家物語』の語る山木夜討ち

(その三)三、山木夜討ち

(その四)四、国衙占領

四、国衙占領

 九条兼実は頼朝反乱報を知った時、「去るころ新司の使を淩礫す〈時忠卿知行国なり〉、おおよそ伊豆・駿河両国を押領しおわんぬ」(『玉葉』治承4年9月3日条)と記しています。また、東国反乱を新田義重が報告してきたことを、中山忠親が、「義朝子伊豆国をす、武田太郎甲斐国を領す」(『山槐記』同年9月7日条)、と記しています。駿河国はともかく、ここで「押領」「伊豆国を領す」とは、たんに夜討ちの成功だけではなく、国の支配権、すなわち国衙行政権を曲がりなりにも頼朝が掌握したことを示しています。以上、山木夜討ちの成功で伊豆国目代山木兼隆を討取ったが、これだけで国衙行政権の掌握、すなわち反乱蹶起成功とはいえないのです。次いで、平家の知行国である伊豆国の中枢である国衙を制圧(占領)したことになります。そうでなければ簡単に反撃を許すことになり、結局反乱蹶起は失敗に終わります。そこで、それを考察したいと思います。

 伊豆国知行国主は、五月の源頼政の宇治合戦での敗死により、清盛正室時子の弟平時忠に替わります(飯田悠紀子氏、「知行国主・国司一覧」『中世ハンドブック』一九七三年近藤出版社)。平家の知行国となり、現地最高責任者である目代として山木兼隆が任じられたのです。伊豆国での平家支配を覆滅するには兼隆を討つことは当然の行為です。しかし、それだけで平家支配を覆滅できただでしょうか。上述の如く、頼朝は伊豆国を制圧して支配権(国衙行政権)を掌中にしました。

 伊豆国蒲屋御厨への史大夫知親(目代山木兼隆親戚)奉行停止の下文を源頼朝は発給しました。このことを、「関東の事施行の始」と、『吾妻鏡』同月十九日条に記しています。この行為は、平家知行国の伊豆国の支配権を覆して頼朝が奪取したことの宣言であることを、明らかに示しています。山木夜討ちの二日後のことです。頼朝の反乱蹶起の最初の打倒目標は、当然ながら平家知行国の伊豆国支配の覆滅、すなわち伊豆国支配権の奪取です。これには伊豆国々衙の占領掌握は必須です。となれば、これを成し遂げたことは反乱決蹶起成功として特記すべき出来事であったはずです。そして、国衙の掌握は目代山木兼隆覆滅の山木夜討ちに接続して直ちに実行されなければなりません。夜討ち明けの十八日午前までに成し遂げられなければなりません。しかるに『吾妻鏡』同月十八日条は、今後戦場で過ごすので、毎日の勤行できないため、伊豆山の尼にこれを依頼する記事で、わざわざ経目録を記述しています。全く国衙に関しては記述がないのです。そこで、改めて国衙掌握について考えてみたいと思います。

 反乱蹶起に先立ち、8月6日、参加する武士を賴朝は招き、一人一人に「偏に汝を恃む」と、言葉をかけます。『吾妻鏡』同日条に言葉をかけられた面々を、「工藤介茂光、土肥次郎実平、岡崎四郎義実、宇佐美三郎助茂、天野藤内遠景、佐々木三郎盛綱、加藤次景廉以下」と記しています。この内の佐々木盛綱・加藤景廉は山木夜討ちに参加しており、また土肥実平・岡崎義実は相模国武士で伊豆国での蹶起には参加していないと考えることが出来るので除外します。とすると、残るのは工藤茂光・宇佐美助茂・天野遠景の3人の伊豆国武士です。工藤茂光の甥が宇佐美助茂で同族です。工藤氏は茂光の子宗茂・親光が狩野と称しており、本貫が田方郡狩野庄(静岡県伊豆市修善寺周辺)です。助茂の名字の地は同郡宇佐美庄(同県伊東市宇佐美)です。山で隔てられていますが、亀石峠越えで繋がっています。そして、工藤氏は工藤介と称してるように、伊豆国有力在庁官人です。すなわち、平家方の伊東祐親と並ぶ伊豆国の有力武士であったのです。とするなら、工藤氏の動員力は北条時政とは桁が違い、少なくとも数十騎の動員力があったとすべきで、頼朝反乱蹶起の主勢力であったといえましょう。そして、天野遠景の名字の地は同郡天野郷(同県伊豆の国市天野)です。工藤氏と天野氏の位置関係は国府(同県三島市)から南に修善寺へと通じる牛鍬大道で、南に工藤茂光、北に天野遠景、と繋がります。

 国衙制圧には山木夜討ち以上の兵力が必要なことは当然でしょう。かつ、山木夜討ち勢は深夜の戦闘で疲労しており、即座に国衙攻撃に参加はできないでしょう。とすれば、別の武士、すなわち兵数に於いても北条氏を凌駕する有力在庁官人の工藤氏が主力となることは、距離的に国衙に遠いとはいえ、必然といえましょう。修善寺から国道136号で三島市街までは約21㎞です。この途上に天野郷があります。従って、工藤茂光一族に天野遠景等を加えた勢が国衙制圧をなしたとすべきです。山木夜討ちが17日子刻に開始されており、国衙襲撃は遅くとも18日早朝(卯刻)には行なわれなければ、山木夜討ちの報を受けて警戒体制を取られるおそれがあります。しからば、国衙襲撃勢は17日夕方以降には狩野庄を出発して行動を起こしたとすべきです。すなわち、山木夜討ち勢より国衙襲撃勢の方が行動開始が早いのです。これは事前の打ち合わせなしに行なうことは出来ません。従って、『吾妻鏡』では佐々木兄弟の参着で山木夜討ちを決行したように記述していますが、彼等の参着の有無に関わりなく反乱蹶起は決行されることになります。すなわち、山木夜討ちも佐々木兄弟未着でも予定通り三島社神事の17日深夜に決行されることになります。そして、兵力的にいえば国衙襲撃勢が主攻で、山木夜討ち勢が助攻といえ、後者は国衙制圧後に合流することになりましょう。

 さて、工藤一族は源頼朝反乱蹶起に何故に参加したのでしょうか。『長門本平家物語』巻第八・源三位入道父子自害事に、「伊豆守のかたに、伊豆国住人工藤四郎五郎とて兄弟ありけるも、落ちにけり」、と源頼政父子の瀬田合戦敗北により、工藤四郎五郎兄弟が戦場から逃れたことを記しています。すなわち、この記述に従えば、工藤氏は瀬田合戦に参戦しており、、この参戦は「伊豆守のかた」、すなわち頼政嫡子源仲綱に付したものです。要するに工藤氏は伊豆国有力在庁官人として少なくとも伊豆守源仲綱の家人であったといえます。ひいては知行国主源頼政の家人ともいえます。なお、ここで工藤四郎は存在が他史料で確認できず、実名も不明ですが、五郎は工藤介茂光の子五郎親光といえます。親光は後の奥州合戦に於ける阿津賀志山攻撃で、甲斐国の工藤小次郎行光と共に先駆けを行い、戦死しています。(『吾妻鏡』文治五年八月九日条)

 ところで、8月初頭までに相模国の有力平家方の大庭景親が仲綱子息(有綱)を追討のために帰国しており、ただ仲綱子息は逃げていました。(大庭景親が平清盛の命で源仲綱子息を追討のため帰国したことと仲綱子息がすでに逃げていたことは『玉葉』治承四年九月十一日条、時期に関しては『吾妻鏡』同年八月二日条。)とすれば、源頼政・仲綱の家人であった工藤一族が次なる追討対象となる可能性は極めて高かったといえましょう。このまま座していれば工藤氏は滅亡の危機となるのです。そうであれば、工藤氏としては事の成否は別として、反乱蹶起は生き残る一つの道となります。ここに工藤氏が反乱の主体となる条件が北条氏以上にあるのです。さらに、源頼朝と同時期に甲斐源氏も反乱蹶起をしており、この両者は何らかの連携をした上での蹶起であり、工藤氏は伊豆工藤氏の茂光と甲斐工藤氏の景光の媒介として存在していました。(金澤正大氏、「甲斐源氏の蜂起」『鎌倉幕府成立期の東国武士団』2018年岩田書院)以上の如く、源頼朝の伊豆蜂起に於いて、工藤介茂光は決定的な役割を果たしたといえましょう。

 深夜に行われた山木夜討ちは加藤景廉等の増派によりようやく伊豆国目代山木兼隆を討取るように、浪人を主戦力とせざるを得なかった小勢でありました。有力在庁官人であった工藤介茂光等の工藤一族を主戦力とする国衙制圧勢はこれに先立ち進発し、朝には国衙を制圧したといえ、兵力は少なくとも山木夜討ち勢より一桁上でありましょう。すなわち、国衙制圧勢が主攻で、山木夜討ち勢が助攻なのです。

 しかるに、『吾妻鏡』には伊豆国蒲屋御厨への史大夫知親(目代山木兼隆親戚)奉行停止の下文を源頼朝は発給したことを、「関東の事施行の始」、と特記してるにも拘わらず、肝心の国衙制圧のことを全く記述していないのは何故でしょうか。

 『吾妻鏡』が北条氏の編纂になり、北条氏、とりわけ得宗家の賛美の歴史書であることはよく知られたことです。だからこそ、特記した活躍こそ記していないですが、山木夜討ちに於いて北条時政が十分に活躍したことを『吾妻鏡』は記しています。要するに、『吾妻鏡』の読者は源頼朝反乱蹶起に時政が主要な役割を果たしたと読めるのです。しかし、工藤氏は反乱蹶起の行動に関しては全く記述されていません。

 さて、当時における伊豆国に於ける両氏の位置を見てみましょう。すでに述べたように、工藤氏は源頼政・兼綱父子の家人であり、有力在庁官人として数十騎の兵力を有していたといえます。工藤介茂光の子に狩野介宗茂(『尊卑分脉』第二篇頁500)がおり、宗茂は頼朝期に伊豆国検断沙汰人といえました(伊藤邦彦氏、『鎌倉幕府守護の基礎的研究【国別考証篇】』2010年岩田書院頁33)。これに対して、北条時政は北条氏庶流であり(杉橋隆夫氏、「北条時政の出身」『立命館文学』第500号1987年3月)、兵力的にも数騎という小勢なのです。しかし、「六条八幡宮造営注文」(海老名尚・福田豊彦氏、「『六条八幡宮造営注文』について」『国立歴史民俗博物館研究報告』第45号1992年12月)に見るように、執権時頼期には狩野氏(工藤)は得宗家に圧倒的な差が付けられています。とするならば、北条氏賛美の歴史書である『吾妻鏡』にとって、頼朝反乱蹶起に於いて国衙制圧の具体的行動を記述することは工藤氏が主動的立場であり、北条氏は補助的立場であったことを示すことになり、北条氏賛美とは逆の結果となりましょう。編纂時には両氏の地位は完全に逆転し、その差も多大ものがある以上、編纂に於いて狩野氏(工藤)を無視しても問題がなかろうということになりましょう。以上、何故に工藤氏が源頼朝の反乱蹶起行動に於いて『吾妻鏡』に記述がないことが理解されましょう。

(2021.04.12)

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2021年鶴見川の紅桜

 新横浜付近での鶴見川と鳥山川との合流点上流の鳥山川土手には桜並木があります。新横浜元石川線のワールドカップ大橋左右には合流点近くのソメイヨシノとは別に少し早咲きの紅桜があります。この紅桜の写真をお見せします(2021年3月20日・土午後撮影)。

(2021.03.22)

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大仏切通し―歴史雑感〔63〕―

 2021年2月21日(日)午後、北条氏常磐亭跡に続き、大仏切通しを訪れました。本切通の建設年時は明確な史料が残されておず不明ですが、鎌倉中期と考えられています。本切通しは、鎌倉の大仏谷戸から梶原を経て、鎌倉上つ道へと通じています。

 北条氏常磐亭跡から西へと少し歩き、仲ノ坂交差点で左折して上っていくと、世界救世教いづのめ教団鎌倉教会のある小道へと右に入り進むと、左が高徳院(大仏)、右が火の見下の道標識のある大仏切通しに出ます。写真1は、ここらから少しのところで火の見下へと切通し道を撮ったものです。尾根伝いの道となっています。

 写真2は、さらに進んで、左へと急な下りとなるところを捉えて撮ったものです。

 写真3は、尾根を堀切って切通しとしたところです。

 写真4は、次の切通しです。先は急な下りとなっており、ここで上ってくる兵を上から攻撃できます。

 写真5は、切通しが右へと曲がり、下って平場に出ます。

 最後の写真6は、平場の崖に設けられたヤグラです。鎌倉は平地が少なく、岩肌を削って墳墓としたのがヤグラです。さらに道なりに進むと道路でて、火の見下バス停です。

(2021.03.04)

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北条氏常磐亭跡―歴史雑感〔62〕―

 2021年2月21日(日)午後、鎌倉市常磐の北条氏常磐亭跡を訪れました。1977年の発掘調査で、建物跡等が確認されて、1978年12月に国指定史跡になりました。本地は、「相州常磐御亭において和歌会あり」(『吾妻鏡』3年2月8日条)、とあるように、相州、すなわち当時の連署北条政村の別邸と考えることができます。鎌倉駅西口から京急バス鎌倉中央公園行・江ノ電バス桔梗山行きで一向同下車、前方へと道路北側です。

 写真1は、道路側から北に北条氏常磐亭跡を見たものです。さらにこの奥へと跡地は続きます。

 写真2は、東側の「タチンダイ」への道上からの跡地です。

 写真3は、「タチンダイ」への案内表示です。

 写真4は、本地の最奥「タチンダイ」入口から奥を見たところです。「タイチダイ」とは館台(たちのだい)の訛りでしょう。このように、北条氏常磐亭跡は段々と平場を造成したものです。

 写真5は、「タチンダイ」奥から南へと見たものです。

 最後の写真6は、「タチンダイ」奥にあるヤグラと呼ばれる岩窟です。

(2021.03.02)

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河津桜2021

 2021年2月20日(土)午前、河津町の河津川土手の川津桜を観賞しました。そこで、この写真をお見せします。

 最初の写真1は、上りの踊り子4号が河津川鉄橋を通過するところです。

 写真2~4は、河津川右岸の川津桜です。

 写真5は、上りの伊豆急リゾート21です。

 写真6・7は、アップした河津桜です。

 最後の写真8は、河津川河口への河津桜です。

 なお、フォトアルバム「河津町・河津桜2021」はhttps://1drv.ms/u/s!AruGzfkJTqxng7wKSbukAYzbUcIBVQ?e=qpO1E0です。

(2021.02.27)

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伊豆下田

 2021年2月19日(金)午後、下田市のホテルにチェックインする前に、ホテル近くの観光地を巡りました。

 最初は玉泉寺です。幕末に米領事館となったところです。写真1は、山門です。

 写真2は、間口7間半・奥行き7間の本堂です。嘉永6年(1848)創建で、安政3年(1856)8月から安政6年(1859)5月まで、最初の米国総領事館としてタウンセンド・ハリスが駐在しました。

 写真3は、英文のハリス記念碑です。1927年(昭和2)に本年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公子爵渋沢栄一等が建立しました。

 次いで弁天島へと移動しました。写真4は、弁天島斜交層理です。斜めに交差する縞模様の地層は斜交層理と呼ばれ、地層が右下へと斜交していることから、海流の向きが左から右へとなっていたことが分かります。

 写真5は、弁天島に隣接した公園内に設置された「踏海の朝」像です。嘉永7年(1854)3月27日の夜、吉田松陰は弟子金子重輔と共に海外の事情を探るべく渡航を企て、弁天島から小舟を漕ぎだし米艦ポーハタン号に向かいましたが、ペリーに拒否され目的を果たせませんでした。これを記念して、1989年「ふるさと創生事業」により建立されたものです。

 写真6は、翌朝、宿泊した下田ベイクロシオの客室ベランダ上から俯瞰した下田湾口から西側です。

 最後の写真7は、同じく下田湾東側で、弁天島が見えます。

(2021.02.25)

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ソフィール踊り子1号

 2021年2月19日、ソフィール踊り子1号に乗車してきました。横浜発11時24分発・伊豆急下田13時29分着でした。この乗車中の写真をお見せします。

 写真1は、プレミアグリンの1B座席です。伊東を過ぎて撮ったもので、緊急事態宣言下ですが、ほぼ満席でした。

 写真2は、川奈駅での運転台を通した前方風景です。入線してきたのは上りの踊り子8号です。

 写真3は、伊豆高原駅を出て少し行ったところから撮った大島です。

 写真4は、海岸線に沿って走る片瀬白田・伊豆稲取間での運転台越しの前景です。

 写真5は、同区間での大島です。

 写真6は、続いて左から利島、鵜渡根島、新島、神津島です。

 写真7は、河津駅を出て運転台越しに前方に川津桜を捉えたものです。

 写真8は、河津川の河口寄りの川津桜です。

 最後の写真9は、伊豆急下田駅でのソフィール踊り子1号の先頭車両です。

(2021.02.23)

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2020年度記事目次

 庚子年を終わるに当たって、2020年度(1~12月)記事目次を掲載します。では、辛丑年がよいお年で。

01.01 茅ヶ崎杉山神社初詣

01.06 創作された『平家物語』一谷合戦の熊谷直実先陣争い―歴史雑感〔52〕―

01.13 2020年西安交通大学日本語学科東北会新年会

02.24 武蔵国国府遺跡等―歴史雑感〔53〕―

02.28 湯河原梅林

05.10 源頼朝の偏諱を賜った武士(その一)―歴史雑感〔54〕―

06.30 蜂神社―歴史雑感〔55〕―

07.02 観自在王院―歴史雑感〔56〕―

07.06 毛越寺―歴史雑感〔57〕―

07.07 高館―歴史雑感〔58〕―

07.16 中尊寺―歴史雑感〔59〕―

07.18 柳之御所跡―歴史雑感〔60〕―

07.19 無量光院跡―歴史雑感〔61〕―

10.09 栗駒山と出羽三山(1)―栗駒山須川湖

10.11 栗駒山と出羽三山(2)―栗駒山須川高原

10.13 栗駒山と出羽三山(3)―羽黒山神社

10.14 栗駒山と出羽三山(4)―月山弥陀ヶ原

10.15 栗駒山と出羽三山(5)―湯殿山神社

11.29 箱根強羅公園

11.30 2021年の中国の祝日―中国雑感〔53〕―

12.31 2020年度記事目次

(2020.12.31)

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2021年の中国の祝日―中国雑感〔53〕―

 明年の祝日(休日)に関して、2020年11月25日(水)、国務院の通知「国務院弁公庁関于2020年部分節假日安排的通知」が国務院公式サイトにアップされ公表されました。この公示は例年12月でしたが、昨年から11月下旬と早まりました。国務院の通知原文は次のページです。

http://www.gov.cn/zhengce/content/2020-11/25/content_5564127.htmです。

 また、カレンダー表示(「2个黄金周,5个小长假,2021年放假安排来了!」)は、

http://www.gov.cn/xinwen/2020-11/25/content_5564513.htm

です。これによる明年(2021年)の休日は次の通りで、これに基づいて、中国の公的機関は休日を実行します。民間もこれを基準に休日を組みます。つまり、明年の休日日程が定まったわけです。

一 元旦(1月1日)

1月1日(金)~3日(日)の3日間を休日。++

二 春節(旧暦元旦 2月12日) 法定休日(旧暦大晦日・元旦・1月2日)

2月11日(木)~17日(水)の7日間を休日。

2月7日(日)〔16日・火〕・2月20日(土)〔17日・水〕振替出勤日。

三 清明節(4月5日)

4月3日(土)~5日(月)の3日間を休日。

四 労働節(5月1日)

5月1日(土)~5日(水)の5日間を休日。

4月25日(日)〔4日・火〕・5月8日(土)〔5日・水〕振替出勤日。

五 端午節(旧暦5月5日 6月14日)

6月12日(土)~14日(月)の3日間を休日。

6月28日(日)〔26日・金〕振替出勤日。

六 中秋節(旧暦8月15日 9月21日)

9月19日(日)~21日(火)の3日間を休日。

9月18日(土)〔20日・月〕振替出勤日。

七 国慶節(10月1日) 法定休日(10月1日~3日)

10月1日(金)~7日(木)の7日間休日。

9月26日(日)〔6日・水〕、9日(土)〔7日・木〕振替出勤日。

国务院办公厅关于2021年部分节假日安排的通知

国办发明电〔2020〕27号

各省、自治区、直辖市人民政府,国务院各部委、各直属机构:

经国务院批准,现将2021年元旦、春节、清明节、劳动节、端午节、中秋节和国庆节放假调休日期的具体安排通知如下。

一、元旦:2021年1月1日至3日放假,共3天。

二、春节:2月11日至17日放假调休,共7天。2月7日(星期日)、2月20日(星期六)上班。

三、清明节:4月3日至5日放假调休,共3天。

四、劳动节5月1日至5日放假调休,共5天。4月25日(星期日)、5月8日(星期六)上班。

五、端午节:6月12日至14日放假,共3天。

六、中秋节9月19日至21日放假调休,共3天。9月18日(星期六)上班。

七、国庆节:10月1日至7日放假调休,共7天。9月26日(星期日)、10月9日(星期六)上班。

节假日期间,各地区、各部门要妥善安排好值班和安全、保卫等工作,遇有重大突发事件,要按规定及时报告并妥善处置,确保人民群众祥和平安度过节日假期。

国务院办公厅

2020年11月25日

(2020.11.30)

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箱根強羅公園

 2020年11月26日(金)午前、強羅温泉からの帰り、箱根強羅公園を訪れました。開園時間は9~17時、入園料は550円です。

 写真1は、熱帯植物館の温室内のブーゲンビレアです。

 写真2は、サンデリアナです。

 写真3は、一番上(奥)の西門からの全景で、手前に音楽堂、その奥にヒマラヤ杉そびえています。

 紅葉はすでに落葉期に入っていますが、写真4は、わずかに紅葉を残している木です。

 写真5は、この木の拡大したものです。

 写真6は、噴水池です。

 写真7は、拡大した噴水です。

 最後の写真8は、箱根登山鉄道の最新車両3100型です。彫刻の森・小涌谷駅間です。

(2020.11.29)

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栗駒山と出羽三山(5)―湯殿山神社

 2020年10月7日(水)午後、最後の湯殿山神社参拝です。本神社はその名の通り温泉源泉の湧き出る岩を御神体としています。参拝に先立ちお祓いを受けた後、裸足でご神体に至り参拝をします。

 写真1は、1993年10月竣工の湯殿山神社大鳥居です。

 最後の写真2は、参道入口に立つ「湯殿山本宮」石碑です。これ以降は神域として撮影禁止となっています。

 以上で、2日間の渡る観光は終わりで、白石蔵王駅から帰途です。

(2020.10.15)

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栗駒山と出羽三山(4)―月山弥陀ヶ原

 2020年10月7日(水)午後、弁当昼食を兼ねて、月山弥陀ヶ原ハイキングです。90分の自由散歩です。写真1は、弥陀ヶ原ハイキングを始めて、間もなくなところで、振り返って撮ったものです。

 写真2は、さらに進み、眼下に鶴岡市と奥に日本海が見渡せるところで撮ったものです。

 写真3は、紅葉を主体に撮ったものです。

 写真4は、手前に小池を入れて撮ったものです。弥陀ヶ原は基本的に湿原で、所々に小池があります。

 写真5は、再度眼下に鶴岡市見下ろして撮ったものです。

 写真6は、月山御田原参籠所の月山中之宮です。

 写真7は、下りながら池群を撮ったものです。

 最後の写真8は、月山八合目駐車場に立てられた「磐梯朝日国立公園月山八合目」石碑からです。

 次いで、最後の観光地である湯殿山神社に向かいます。

(2020.10.14)

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栗駒山と出羽三山(3)―羽黒山神社

 2020年10月7日(水)、本日は出羽三山観光です。最初は羽黒山神社です。時間の関係で、山頂の本殿までは行かず、下の羽黒山五重塔までです。写真1は、出羽三山神社(羽黒山・月山・湯殿山)入口です。ここから羽黒山頂上へ至ります。

 写真2は、随神門です。本来は仁王門で、明治維新の神仏分離で改名されました。元禄8年(1695)に由利郡(秋田県)矢島藩主生駒氏が寄進したものです。

 写真3は、随神門から参道に続く羽黒山杉並木です。

 写真4は須賀の滝を背後に祓川神社です。

 写真5は、国宝の羽黒山五重塔です。応安5年(1372)、庄内の領主で、羽黒山別当の武藤政氏の再建と伝えられています。塔は総高約29.2m、塔身高(相輪を除く)は22.2mです。

 写真6は、右正面からの五重塔です。

 最後の写真7は、左背面からの五重塔です。

 次は月山弥陀ヶ原ハイキングです。

(2020.10.13)

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栗駒山と出羽三山(2)―栗駒山須川高原

 2020年10月6日(水)午後、須川高原の紅葉を愛でるハイキングです。2時間の自由散策です。写真1は、栗駒山登山道入口から少し入ったところの須川高原温泉源泉です。

 写真2は、ゼッタ沢コースから北へと撮ったものです。 

 写真3は、名残ヶ原に入ったところで俯瞰したものです。

 写真4は、名残ヶ原中央から右側を撮ったものです。ほぼ紅葉していますが、満開には早く8分程度です。

 写真5は、奥に栗駒山山頂へです。

 写真6は、山頂への道と分かれて、賽の磧への道からです。

 写真7は、賽の磧手前の湿原での右側の岩山です。

 写真8は、湿原途上で振り返って撮ったものです。

 写真9は、賽の磧です。

 最後の写真10は、周回した後、大日岩を振り返って撮ったものです。

 ハイキング後、須川高原温泉で温泉に浸りハイキングの汗を流しました。これで本日の観光は終わり、鳴子温泉のホテル亀屋に向かいます。なお、フォトアルバム「栗駒山須川高原」はhttps://1drv.ms/u/s!AruGzfkJTqxng7cNvXhwnzqxUbsvvQ?e=zp9yUbです。

(2020.10.11)

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栗駒山と出羽三山(1)―栗駒山須川湖

 クラブツーリズム主催の「〈ハイテク初級〉鳴子温泉宿泊 出羽三山めぐりと紅葉の栗駒山ハイキング 2日間」で、2020年10月6・7日、GoToトラベルの旅に行ってきました。まず、東京駅から白石蔵王駅まで東北新幹線で移動した後、バスで栗駒山須川高原に到着しました。昼食休憩を兼ねて、須川湖(朱沼)湖畔の散策から観光開始です。この須川湖の写真を3枚お見せします。

 次いで、午後は須川高原ハイキングです。

(2020.10.09)

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無量光院跡―歴史雑感〔61〕―

 2020年6月26日(金)午前、平泉探訪の最後として無量光院跡(岩手県西磐井郡平泉町平泉字花立地内)を訪れました。『吾妻鏡』の記するところによれば、本院は宇治平等院を模して奥州藤原氏3代秀衡が建立し、新御堂と号しました。発掘調査により四囲は東西約240m、南北約270m、面積約6.5haと推定されています。境内は周囲を囲む土塁と3つの島を持つ園池から構成され、最も大きな中島に東向きに阿弥陀堂が建っていました。現在復元整備中で、全面的な立入りはできません。す。

 写真1は、道路側(東)から入ったところから園池を撮ったものです。中央が中島です。

 写真2は、南側へと撮ったものです。

 写真3は、南側から園池を撮ったものです。

 最後の写真4は、園池の中島を拡大したものです。

 以上で、平泉探訪は終わりです。奥州平泉氏が建立した寺院・居館(中尊寺は原存ぜず)には園池が設けられていました。園池は平泉文化の一つの特徴ともいえましょう。

 奥州藤原氏を滅亡させた源頼朝は鎌倉帰還後に中尊寺二階大堂を模して永福寺建立を行います。園池を伴う永福寺は全体的に毛越寺を模したものと思えます。永福寺に関しては、「鎌倉永福寺遺址―歴史雑感〔35〕―」をご覧ください。そして、両寺を比較してみてください。

(2020.07.19)

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