武蔵武士足立遠元(その5)―歴史雑感〔6〕―

五、頼朝期における遠元(上)―「宿老」―

1185(文治5)年3月24日の檀浦海戦により、平氏本宗は滅亡し、治承・寿永の内乱が終り、鎌倉殿源頼朝を頂点とする鎌倉武家政権(鎌倉幕府)の覇権がなります。この鎌倉幕府内において、足立遠元は「宿老」(『吾妻鏡』文治二年十二月一日条)として遇せられます。

『吾妻鏡』治承四(1180)年十一月二日条で、富士川合戦後の常陸国佐竹氏攻撃開始に際して、頼朝と「群議」を行った御家人、千葉常胤・上総広常・三浦義澄・土肥実平以下を、「宿老」と記しているのが、その初見です。遠元が「宿老」と見える上述記事は、国元から出仕した千葉常胤が頼朝に盃酒を献じた席に列席した、千葉常胤・小山朝政・三善善信(問注所執事)・岡崎義実・足立遠元・安達盛長以下を「宿老」と記しています。次に遠元が「宿老」と見えるのは、文治三(1187)年九月九日条で、重陽節に比企尼亭の菊観賞に頼朝夫妻が訪れたとき、三浦義澄・足立遠元以下の「宿老」が供をしたとある記事です。

さて、以上が頼朝期に「宿老」として見える御家人です。千葉常胤と三浦義澄が鎌倉幕府創建の双璧であることは前回に述べてあるとおりです。土肥実平・岡崎義実は頼朝の反乱蹶起当初からの参加者です(『吾妻鏡』治承四年八月六日・二十日条)。安達盛長が頼朝流人時代からの側近であることはいうまでもありません。内乱途中で誅殺されましたが、上総広常の味方なくして、石橋山合戦に敗北した頼朝が房総半島での再起をなしえなかったことは周知のことです。頼朝の武蔵進出に際して、武蔵武士として最初に味方したのが遠元です。また、前回での勝長寿院供養に、常胤は嫡子胤正と共に供奉しているように、三浦義澄(平六義村)・土肥実平(弥太郎遠平)・岡崎義実(余一義忠、石橋山合戦で戦死)はそれぞれの嫡子を内乱期の『吾妻鏡』に登場させておりますし、遠元・盛長も年齢的に内乱終結の1185年時点で50代に達していたと考えられます。こうしてみれば、宿老とは、年齢的にも成熟して、内乱において当初から頼朝に味方し、その生死を共にした面々であり、頼朝の覇権の成就に欠くことのできなかった御家人ということができます。

1183(寿永二)年秋、鎌倉の源頼朝と京の木曽殿源義仲が対立します。この中、頼朝同母妹の夫一条能保は鎌倉に避難します。何時脱出したかは正確なところは不明ですが、平氏一門で京に残留していた池殿頼盛が同様に1018日に京を逐電します(『玉葉』同年十月二十日条)。そして、頼盛が子息二人と家人を引き連れて鎌倉に来着したことを伝える『玉葉』同年十一月六日条には、同時に能保が頼朝異母弟全成(義経同母長兄、今若)亭に宿したことを記しています。このことから、本来武家であり、武力を有していたと考えられる頼盛に同行して鎌倉に逃れたと考えるのが自然でしょう。こうして、前回の勝長寿院供養に能保正室が頼朝とともに主催したように、ずっと鎌倉に留まっていました。

勝長寿院供養を終えた夫妻がいよいよ本来の京に帰ることになりました。1186(文治二)年2月6日です(『吾妻鏡』同日条)。これに先立ち、1月28日、頼朝夫妻はその宿所に赴き、餞別を贈り、酒宴を催します。ここより能保夫妻は出発することになります。それが遠元亭なのです。(『吾妻鏡』同日条)先の『玉葉』の宿所とは異なります。鎌倉滞在が2年以上になっているわけですから、何度かその宿所を移ったと考えます。もちろん、それをできるのはそれなりの経済力を有した者でなければなりません。その意味で、遠元は有力御家人なのです。そして、能保夫妻が鎌倉滞在の最後を遠元亭で過ごしたということは、遠元が頼朝の信頼を如何に勝ち得ていたかを如実に表わしている証拠です。(その1)で示した遠元と藤原光能との姻戚関係を思えば、遠元が公家能保を接待するのに適任であったことはいうまでもありません。ともあれ、この酒宴は終夜に及び頼朝・能保夫妻は大いに歓談したことでしょうし、遠元も面目を施したことになります。

義朝追福の勝長寿院万灯会の沙汰人を、平賀義信・千葉常胤と務め(『吾妻鏡』文治四年七月十五日条)、後白河院一周忌の千僧供養の一方の奉行人(20人)を務めた(『吾妻鏡』建久四年三月十三日条)ように、仏事において主要な役割を果たしました。鎌倉内の仏事の供奉人においても御後に列しており(『吾妻鏡』文治四年三月十五日条、同五年六月九日条、建久三年十一月二十五日条、同五年十二月二十六日条)、その地位に変動はありません。

以上述べてきたように、鎌倉幕府内において、遠元は宿老として重きをなしていたのです。

(続く)

(2005.12.18)

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DVDソフト事情(7)電脳街の隠れDVD店舗―成都雑感〔4〕―

「DVDソフト事情(1)」ですでに書きましたように、電脳街のDVD店の店頭からはそれと分かる海賊版は消えています。磨子橋の電脳城(ビル)の場合ですと、DVD店頭付近で「DVDCD」と声をかけられ、うなずくとビル内の別の階か外の建物の部屋に案内されます。そこが海賊版の店舗となっています。最近ではこの呼び込みが、電脳城のソフト階のエスカレーターの降り口で行われています。まさしく、客引きです。

電脳街で最大のDVD店は一環路南二段から中に入った電脳売り場にあります。その店はこの春までは、表には正規版を置き、店の奥にベニヤで荷物置き場に見せかけた別室を設けて、そこで海賊版を売っていました。取り締まりが厳しくなったのか、春からこの店も店外に隠し店舗を設けてそこで売るようになりました。写真1は、現在の隠し店舗(何回か移転しています)のある建物の通路です。写真はストロボを焚かなかったので暗いですが、その方が雰囲気が出ていると思います。後方の明るいところが建物の入口です。手前右に見えるドアーが隠し店舗の入口です。ドアーには映画のポスターが貼ってありますが、その中央にドアスコープがあり、ノックするとこれで客を確認し、鍵をはずして入れてくれます。

s-051210電脳街DVD店 001

写真2は、店内の様子です。壁には新作の映画ポスターが貼られています。DVDは段ボール箱に入れてあります。椅子が用意されていますから、それに腰掛けて客が物色しているのが分かります。写真の壁側には欧米映画とアニメ映画があり、中央の台には日韓・中国映画と音楽DVDが片側に、もう片側が各種の圧縮DVDがあります。反対の壁側はDVD-9(2層DVD)とボックスものとなっています。写真の右後方が奥の壁で、新譜は棚に表紙をむけて80点以上展示してあります。写真の奥の壁が入口側で、そこにはCDが並べられています。入口ドアーは右側で、写真では見えませんが、そこにレジがあります。

s-051210電脳街DVD店 002

この店に関しては、Blog『◎オンディーさんぶらり地球旅◎』において、「8/2831犯罪臭い。密着24IN電脳城
(http://ondy777.blog12.fc2.com/blog-entry-52.html#comment)
と題して写真付の報告が載せられています。

なお、圧縮DVDのドラマにおいて、韓国のが3列あるのに対して、日本のは1列しかありません。このように、以前と異なり現在では韓国の方が豊富です。

(2005.12.09)

 

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武蔵武士足立遠元(その4)―歴史雑感〔6〕―

四、文治元年十月の勝長寿院落慶供養行列での遠元の序列

武蔵国威光寺領に対する頼朝の裁定に遠元は連署しており(『吾妻鏡』文治元年四月十三日条)、公文所寄人として活動していました。しかし、翌(1186)年以降には、彼の寄人としての活動を示す記事は『吾妻鏡』に見られなくなり、また他の史料にもそれを伺わせるものは見あたりません。このことは、平氏滅亡により、一応の治承・寿永の内乱が終息し(本当の意味の終息は、1189年の奥州平泉藤原政権滅亡と、翌年の出羽国大河兼任反乱鎮圧を待たなければなりません。この1180年から1190年までを広義の治承・寿永の内乱として、治承・文治の大乱と称することにします)、鎌倉殿源頼朝政権が平氏追討の軍事体制から一応の平時体制となったため、公文所も軍事的押さえの意味を持つ遠元の存在よりも、実務執行能力を求められてきたため、彼はその第一線より引退いたことを示しているのではないかと考えます。遠元は本来の武士としての奉公に戻ったことになります。

1185(文治元)年3月24日の壇浦海戦で平氏本宗は壊滅し、治承・寿永の内乱は一応の終息を迎え、戦争の時から政治の時となりました。この中で、鎌倉殿源頼朝とその異母弟判官義経が対立したことは周知のことです。頼朝は、1024日、鎌倉に父義朝の菩提を弔うために創建した勝長寿院=南御堂(後に廃寺となり、鎌倉市雪ノ下4丁目の滑川にかかる大御堂橋にその名を残しています)落慶供養を行います。これは、義経などではなく、頼朝が頼義・義家・義朝の正統な継承者であることを示すためのものであり、ここに源氏棟梁は頼朝であることを宣言するデモンストレーションでした。これ以前の18日に義経・行家に頼朝追討宣旨が下され、その報が22日には鎌倉に告げられていたのです。ですから、この落慶供養への参加は頼朝の麾下に入ることと同じなのです。

幸いなことに、『吾妻鏡』同二十四日条には頼朝に従った行列の交名が記載されています。この中に遠元も含まれているのです。この交名は、先頭に先(前)随兵14人、頼朝の御剣持役以下の三役、御後五位六位32人、次(後)随兵16人、そして次随兵60人(東西30人ずつで、南御堂に頼朝が入った後は門外東西に候います)です。当然これに列することは名誉であり、御後32人、先随兵14人と次随兵16人、次随兵60人の順で格が高いことになります。特に前三者が重要です。

それではこの具体的なメンバーを見てみましょう。先随兵は先頭列が畠山重忠(武蔵国秩父氏族嫡系)と千葉胤正(常胤嫡男)です(『吾妻鏡』は一行に4人列記していますが、実際の行列は2列縦隊と考えます)。2列目が三浦義澄(相模国三浦氏族嫡系)と佐貫広綱(上野国秀郷流淵名氏族)、3列目が葛西清重と八田知重(知家嫡男)、4列目が榛谷重朝(武蔵国秩父氏族)と加藤景廉(伊勢国・山木夜討参加)、5列目が藤九郎盛長と大井実春(武蔵国紀姓)、6列目が山名重国(義範男)と武田信光(甲斐源氏武田信義末男)、最後が北条義時と小山朝政(下野国秀郷流大田氏族)です。

三役は御剣役に長沼宗政(朝政弟)、御鎧着役に佐々木高綱(定綱弟・山木夜討参加)、御調度役に愛甲季隆(相模国横山党)です。

御後は先頭列が蔵人大夫源頼兼(源三位頼政男)と武蔵守平賀義信(義光流信濃源氏)、2列目が三河守源範頼と遠江守安田義定(甲斐源氏信義叔父)、3列目が駿河守源広綱(頼兼弟)と伊豆守山名義範(上野国新田義重男)、4列目が相模守大内惟義(義信嫡男)と越後守安田義資(義定嫡男)、5列目が上総介足利義兼(下野国源姓)と前対馬守藤原親光、以下8列目に因幡守大江広元(公文所別当)、11列目に判官代藤原邦通(公文所寄人)がいます。そして、13列目が千葉介常胤(下総国桓武平氏良文流)と東大夫胤頼(常胤末男)、14列目が宇都宮左衛門尉朝綱(下野国宇都宮氏族嫡系)と八田右衛門尉知家(常陸国朝綱弟)、15列目が梶原刑部丞朝景(景時弟)と牧武者所宗親(北条時政後妻牧方父)、最後の16列目が後藤兵衛尉基清(頼朝妹婿一条能保家人)と足立右馬允遠元となっています。

次随兵は先頭列が下河辺行平(下総国秀郷流大田氏族)と稲毛重成(武蔵国秩父氏族)、2列目が結城朝光(朝政末弟)と佐原義連(義澄末弟)、3列目が長江義景(相模国鎌倉氏族)と天野遠景(伊豆国南家工藤氏族・山木夜討参加)、4列目が渋谷重国(相模国秩父氏族)と糟屋有季(相模国藤原氏良方流)、5列目が佐々木定綱(近江国守護・宇多源氏・山木夜討参加)と小栗重成(常陸国桓武平氏大掾氏流)、6列目が波多野忠綱(相模国秀郷流)と広沢実高(相模国秀郷流)、7列目が千葉常秀(常胤孫)と梶原景季(景時嫡男)、最後が村上頼時(頼清流信濃源氏)と小笠原長清(甲斐源氏信義弟信濃守加賀美遠光男)です。

以上の他に、交名には見えませんが、主要な役割を果たした武士に、供養中に門外に位置して行事を行った侍所別当和田義盛(義澄甥)と所司梶原景時(相模国鎌倉氏族)がいます。それに、布施として献納した鞍付の馬10匹を引いた武士の中に、比企能員・土肥実平(相模国中村氏族)・工藤祐経(伊豆国南家狩野氏族)・岡崎義実(相模国三浦氏族)・狩野宗茂(伊豆国南家狩野氏族)・中条家長(武蔵国横山党)・工藤景光(伊豆国南家工藤氏族)が見えています。

以上に見える人々は当該期の鎌倉政権を構成する主要メンバーを総揚げしたものといってよいものです。その序列から政権内での地位・実力が窺えるのです。すなわち、この行列で占める位置は鎌倉政権内での地位・実力を反映していると考えます。では、遠元の位置を考えてみましょう。まず、遠元のいる御後は有位者で構成されており、それが五位・六位の順となっていることです。さらに、五位では頼兼以下義兼までの源家御一族(門葉)受領を最初に並べ、次いで親光以下広元までの受領級の頼朝縁者・京出身者と続き、さらに五位六位の源家御一族と京出身者が混在して続き、最後を遠元を含む武士=御家人8人が締めています。この京出身者の中には広元に代表される文士=文吏寮(五味文彦氏『武士と文士の中世史』1992年東京大学出版会参照)も含まれています。以上のように、御後は五位六位の順を基本としながらも、源家御一族・京出身者(文士を含む)・御家人の3グループによって構成されて、源家御一族受領を先頭に位置させ、御家人は最後に一つの集団を作っていたのです。これにより、源家御一族受領が政権内で最高の格であったことが理解できます。彼らは鎌倉殿頼朝の補翼として、その後継者の資格を有した、言い換えれば頼朝の競争者(源氏棟梁有資格者)ともなりえる存在でもあったのです(彦由一太氏「鎌倉初期政治過程に於ける信濃佐久源氏の研究」『政治経済史学』3001991456月参照)。

さて遠元を含む御家人です。筆頭の千葉常胤は、石橋山合戦に敗北して房総にかろうじて逃れた頼朝のもとに子息を挙げて味方し、この時に「すべからず司馬(常胤)をもって父となすべし」と頼朝に言われた(『吾妻鏡』治承四年九月十七日条)ほど、頼朝が頼りにした下総国の豪族的御家人です。治承・寿永の内乱において、その後、範頼軍に従軍して九州まで遠征し軍功を挙げます。1189(文治5)年の奥州兵乱(合戦)においては、東海道大将軍として出陣しますが、事前に恩賞第一番と約束されていたのです(『吾妻鏡』文治五年九月二十日条)。軍功においても目覚ましいものがあり、頼朝の信頼も厚い彼は御家人実力トップといってよく、その彼が武士の筆頭に列するのは自然でしょう。このことは、彼に肩を並べているのが末男の胤頼であることからも窺えます。父子揃っているのは千葉氏だけです。頼朝挙兵前に三浦義澄とともに胤頼自身は伊豆国北条にいる頼朝を訪れ、密談を行っており(『吾妻鏡』治承四年六月二十七日条)、この会談は頼朝の挙兵に大きな影響を与えており、千葉氏の頼朝味方に彼自身は大いに功があったのです。ここに、千葉氏に対する頼朝の配慮が如実に表われていると思います。先随兵第1列の常胤嫡男胤正・次随兵7列の孫常秀も含めれば、千葉氏が御家人ナンバーワンであることは動かせないところです。この表徴が御後武士の筆頭です。

次いで第2列は宇都宮朝綱・八田知家兄弟です。朝綱は下野国宇都宮(二荒山神社)社務職として守護小山氏に並び、壇浦海戦後に平清盛の一の側近平貞能を匿いその助命を頼朝から勝ち取った(『吾妻鏡』文治元年七月七日条)ほどの実力者です。知家は常陸国へと進出し、奥州兵乱には千葉常胤とともに東海道大将軍を務め、同国守護になります。このように両人は有力御家人として重きをなしていますが、とりわけ奥州に接した下野・常陸両国の有力御家人として対奥州藤原氏戦を意識した配慮として、両人を重視して列したと考えます。義経と奥州藤原氏の軍事連携による攻勢が鎌倉殿頼朝にとって最大の脅威であったのですから。

第3列は梶原朝景と牧宗親です。石橋山合戦敗戦後の山中での頼朝見逃しのエピソードで象徴されるように、帰参後に頼朝の信頼を勝ち取った梶原景時はその側近第一でありましたが、侍所所司として総括責任を努めて、行列に加わることができませんし、自身は平三景時として無位ですからその点でも参列できません。ですから、刑部丞朝景は弟として景時の代理と考えます。宗親は北条時政後妻の牧方の父です。北条氏は先随兵に下野国守護の小山朝政とともに時政嫡男の義時が最後尾に列していますから、有力御家人の位置を占めていることになり、それなりの待遇に処せられていることが分かります。本供養は父義朝の菩提を弔うものとして、頼朝一家個人の側面もありました。そのため、供養においては、南御堂の前の左右に仮屋を設けて、左方に頼朝が、右方に公家の一条能保正室(頼朝同母妹)と正室北条政子が座しました。このことは、父義朝の正統な血を継ものとして、頼朝と同母妹が弔う主催者であることを形式上からも明示させたものです。このように、両正室を特別に遇したのです。これに対応して、本来ならば、頼朝舅家の北条氏としては当主の時政が列すべきなのでしょうが、四郎時政と無位であり、列席できません。景時と同様です。姻戚関係で有位者であった武者所宗親が時政代理として列したと考えます。

第4列は後藤基清と遠元です。基清は能保の家人ですが(『吾妻鏡』同年五月十七日条)、讃岐守能保の目代を務めているように(『鎌倉遺文』第1巻三四九号)、その有力家人として京を活動の場としていました。したいがいまして、彼は能保=頼朝妹の家人を代表して列したと考えます。同時に、在京武士の有力者として対義経戦を睨んだともいえます。

以上のように御後の御家人を考えてくれば、宗親・基清を除けば、いずれも関東の名だたる有力御家人たちです。遠元がこれに列したということは、彼もまた彼らに伍した有力御家人であったことを示します。この時点での関東内の有力御家人の一人が遠元なのであり、武蔵国御家人を代表していたといってよいでしょう。ここに、武蔵・相模・下総・下野と、鎌倉政権を支える主要国の御家人代表が顔を出したことになります。

ここで、比較のため、建久上洛から帰還した直後に行われた建久二(1191)年歳首垸飯の沙汰人を見てみましょう。歳首垸飯(家臣が主人に酒食を饗応する儀式)はこれ以後恒例儀式として行われるようになり、幕府の実力者がその沙汰人となりました。『吾妻鏡』同年正月条にはその沙汰人が記載されており、元旦千葉常胤・2日三浦義澄・3日小山朝政・5日宇都宮朝綱で、所見しない4日は畠山重忠と推定されて、この序列は御家人の地位・実力を反映したものです。(佐久間広子氏「『吾妻鏡』建久二年正月垸飯について」『政治経済史学』446200310月)いずれも御家人を代表する有力者で、豪華な顔ぶれです。

勝長寿院落慶供養行列と比較するに、先随兵最終列に小山朝政・御剣役に長沼宗政・次随兵2列目に結城朝光と兄弟3人が揃い、さらに次随兵先頭列に同族の行平も列している小山氏はともかくとして、三浦氏の位置が低いことが分かります。すなわち、惣領の義澄は先随兵の2列目、末弟義連が次随兵2列目です。明らかに宇都宮氏や小山氏より下に位置しています。鎌倉政権樹立に当たって、三浦氏は千葉氏と双璧をなす一族です。ですからこそ、歳首垸飯では千葉氏に次いで2日の沙汰人を務めたのです。なぜこのような序列になったかは不思議といえるでしょう。

一応ここまで御家人の行列序列からその地位・実力を考えてきました。そのことから、遠元が御後最後尾列・叔父盛長が先随兵5列目に列していることで、足立氏が関東でも有数の実力を有していた御家人であることが理解できます。同時に、遠元はこの供養において布施の鞍付馬の1番引役を千葉常胤とともに務めており、重なる名誉として千葉氏に肩を並べるような、まさしく、足立氏は頼朝の信頼厚い、武蔵国を代表する御家人なのです。

この回を終えるに当たって、皆さんは、次随兵が16人なのに、先随兵が14人と少なく、同数ならば足せば御後32人と同数になることにお気づきでしたか。この数は不自然でしょう。そうです、事前には先随兵も16人に予定されていたと考えます。すなわち、供養前日に随兵予定の河越重房(武蔵国秩父氏族)が義経縁者、義経正室が重頼(重房父)の娘故に、除かれていたのです(『吾妻鏡』文治元年十月二十三日条)。このため、重房と同列するはずの某(それが誰であったかは想像してください)もはずされて、先随兵が当初の16人から14人に減ったと考えます。したがって、数が揃っていないのです。

今回は勝長寿院落慶供養の行列の御家人分析が主体となり、遠元自身については脇に回りましたが、次回は頼朝期の遠元の軌跡を述べたいと思います。

(続く)

(2005.12.02)

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西南交通大学(その3)キャンパス間交通事情―成都雑感〔1〕―

西南交通大学は、峨眉市峨眉山麓の峨眉キャンパス、成都市金牛区の九里堤キャンパス、成都市郫県犀浦鎮の犀浦キャンパスと、この順で設けられ、現在三つのキャンパスがあります。そこで、今回は各キャンパス間の交通事情についてお話しします。

現在の本校は九里堤キャンパスで、ここと他の二つのキャンパス間にスクールバスが運行されています。写真1は、本校犀浦キャンパス間の時刻表です。朝7時台から夜10時まで、だいたい1時間に1本運行されていることがお分かりと思います。基本的には、本校の発車時間は授業開始時刻の40分前とその中間、犀浦キャンパスの発車時間は授業終了時間の15分後とその中間となっています。現在のところ犀浦キャンパスには教職員宿舎がないため(建設中)、講義のために本校から教員が出かけるからです。この間は約20分を要しますから、これで大丈夫となります。料金は2元です。

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写真2は、犀浦キャンパスでの乗車風景です。一応、教職員優先となっていますから、学生はその後で、ちょうど学生たちが乗り込んでいるところです。バス手前の小さなプレハブが切符売り場兼運転手控え所です。その後方(バス左側)が待合所で70席あります。現在9台のバスが使用され、1回に1~3台(最初の1台は時刻表の10分くらい前に発車します)が運行されます。

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しかし、スクールバスでは市内中心などに行くには不便です。何といっても1時間に1本ほどしか運行していないからです。それに市内中心などに行く交大路(西門)にある西南交通大学前バス停まで徒歩で10分近く歩く必要があります(この点は本校の学生も同様です)。この点が改善されました。この秋から栄軍校と九里堤公文站を結ぶ362路の公共バスの運行が始まったからです。362路は犀浦キャンパス正門前にバス停を設けました。ここから九里堤公文站まで10のバス停があり、20分あまりで結んでいます。料金は1元です。九里堤公文站は市内バスターミナルで、ここより市内中心部の塩市口・東大街へ行く56路や総府街へ行く3路が始発としています。その他各方面へ行くバスがここを始発としたり通ったりしています。例えば、塩市口を通り新南門汽車站(市外バスターミナル)に行く48路もここに止まります。なお、ここから西南交通大学前までは三つ目です。

最後に、本校と峨眉キャンパス間のスクールバスですが、朝8時と夕方17時との日に2回運行されています。料金は25元です。成都・楽山市間を高速道路の利用で、約3時間あまりで結んでいます。週末になると峨眉キャンパスからの成都市へのショッピングなどの利用の便などをもあり、土日には14時発の便があります。写真3が本校のそのバス停です。以上の写真に見るように、スクールバスには荷物室を有したエアコン付の観光用タイプの中型バスが用いられています。

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(2005.11.28)

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ブログ開設1周年記念・記事目次

ブログを開設してから、今日で1周年となります。読者の皆さん、コメントをお寄せくださった皆さん、ありがとうございます。

そこで、これまでの記事の目次を載せます。一応、今年前半(6月)までとし、後半は年末に載せることにします。

(2004年度)

11.24 ごあいさつ

12.01 源義経は名将か?否(その1)―歴史雑感〔1〕―

12.07 源義経は名将か?否(その2)―歴史雑感〔1〕―

12.11 源義経は名将か?否(その3)宇治川合戦―歴史雑感〔1〕―

    (1)宇治川合戦

12.14 西南交通大学(その1)沿革―成都雑感〔1〕

12.19 源義経は名将か?否(その4)一谷合戦―歴史雑感〔1〕―

    (2)一谷合戦〈1〉

12.22 源義経は名将か?否(その5)一谷合戦―歴史雑感〔1〕―

    (2)一谷合戦〈2〉『玉葉』による一谷合戦

12.26 イトーヨーカドー春煕店―成都雑感〔2〕―

12.29 源義経は名将か?否(その6)一谷合戦―歴史雑感〔1〕―

    (2)一谷合戦〈3〉『吾妻鏡』・『平家物語』による三草山合戦

(2005年度前半)

01.01 成都でのお雑煮―成都雑感〔3〕―

01.04 DVDソフト事情(1)映画―成都雑感〔4〕―

01.04 DVDソフト事情(2)テレビドラマ―成都雑感〔4〕―

01.04 DVDソフト事情(3)アニメ他―成都雑感〔4〕―

01.10 源義経は名将か?否(その7)一谷合戦―歴史雑感〔1〕―

    (2)一谷合戦〈4〉『吾妻鏡』・『平家物語』による一谷合戦

01.14 冬休み帰国による休止

02.19 成都に戻りました(ブログ再開)

02.21 源義経は名将か?否(その8)一谷合戦―歴史雑感〔1〕―

    (2)一谷合戦〈5〉源平両軍の配置〔注記、未完休止中〕

03.10 イトーヨーカドー双楠店―成都雑感〔3〕―

03.25 西南交通大学(その2)犀浦新キャンパス学生寮―成都雑感〔1〕―

03.30 DVDソフト事情(4)海賊版『ごくせん』―成都雑感〔4〕―

04.02 西南書城―成都雑感(5)―

04.04 扶桑社版中学用歴史教科書の問題点

04.11 扶桑社版中学用歴史教科書の問題点・補論

04.16 寿永2年春の源頼朝と源義仲との衝突(その1)―歴史雑感〔2〕―

04.24 石象湖生態風景区―四川雑感〔1〕―

04.29 寿永2年春の源頼朝と源義仲との衝突(その2)―歴史雑感〔2〕―

04.30 西安行

05.05 西安交通大学日語系創立20周年記念大会

05.05 3日の夕食会参加卒業生の写真

05.14 卒業論文指導

05.17 日本文化分野での卒業論文題目

05.22 寿永2年春の源頼朝と源義仲との衝突(その3)―歴史雑感〔2〕―

05.29 木曽殿源義仲の伊予守遷任(その1)―歴史雑感〔3〕―

06.05 木曽殿源義仲の伊予守遷任(その2)―歴史雑感〔3〕―

06.11 消え去る木造民家―成都雑感〔5〕―

06.18 中国三大男優・女優―成都雑感〔6〕―

06.27 九寨溝・黄龍(1)―四川雑感〔2〕―

06.28 九寨溝・黄龍(2)―四川雑感〔2〕―

(2005.11.24)

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武蔵武士足立遠元(その3)―歴史雑感〔6〕―

 

三、治承・寿永の内乱における遠元

1180(治承4)年8月、伊豆国に挙兵した源頼朝は、相模国石橋山合戦に一敗地にまみれ、海を渡り安房国に逃れ、房総半島の雄千葉常胤・上総広常の与力をえて、10月2日、3万余騎と称する大軍でもって武蔵下総国境の隅田川を渡り武蔵国に進出しました。

この日、当地の豊島清光と葛西清重とが頼朝陣営に参加しました。同時に、足立遠元が、兼ねてからの命を受けたとして参加しました。そして、鎌倉に入った頼朝が鶴岡八幡宮に参詣した翌日、8日、遠元は武蔵国足立郡(郡司職)を本領安堵されたのです。足立郡の一円支配するのが遠元なのです。頼朝麾下の武士たちに本領安堵などの行賞が行われたのは、富士川合戦後の1023日で、これには北条時政・千葉常胤・上総広常・三浦義澄・土肥実平などが含まれていました。遠元への本領安堵は最初の例なのです。他の武蔵武士への本領安堵は、常陸国の雄義光流の佐竹氏攻撃に一応勝利し、1212日、大倉新御所に入御し、鎌倉の地に独立した政権を発足させた直後の、14日なのです。このようにして見れば、遠元への本領安堵が如何に厚遇であったが理解できます。

何故に、遠元がかかる厚遇をえたのでしょうか。この点に関して、『吾妻鏡』同年十月八日条は「日者(頃)労あるの上、最前の召しに応じ、参上の間」と記述しています。この記事のキーワードは「労」と「最前・参上」の二つです。

「労」とは労績のことであり、これは具体的に何でしょうか。(その1で述べたように、都の後白河院の近臣藤原光能に娘を嫁がせているという、特別な縁故を遠元は中央に有していました。周知のように、頼朝のもとへは、母が頼朝乳母の妹という縁から、三善康信(初代問注所執事)が中央情勢を月に三度も通信していたのです。ここで、遠元の叔父が盛長であることを思い出してもらいます。盛長は比企尼の婿として頼朝に近仕していました。とすれば、院近臣の光能は中央の機密を知ることのできる立場にあることから、光能・遠元・盛長のラインは康信以上に中央の機微に接した情報を頼朝にもたらすことが可能であったといえます。そうです、遠元は康信以上に有力な中央情勢へのパイプだったわけです。同時に、比企ファミリーの一員として、日頃からあれこれと頼朝の生活を支えていたと考えます。以上が「労」の具体的内容なのです。

「最前・参上」とは文字通りに武蔵武士として最初に頼朝陣営に参軍したことを意味します。が、それ以上と考えます。遠元が参軍した日、同時に豊島清光と葛西清重が参軍しています。下総国国府(千葉県市川市)から大井川(江戸川)を渡り、武蔵国へと向かわんとする頼朝軍にとって、豊島氏は豊島庄(東京都北区上中里辺等)を名字の地とし、葛西氏は下総国葛西御厨(東京都葛飾区)を名字の地として、その進路を扼していました。そして、彼らの参加に次いで、江戸重長の参加を招き、武蔵国に頼朝が進出し、さらには当初は敵対していた武蔵最大の豪族畠山重忠以下の秩父氏族が味方になることで、雪崩現象を起こし、南関東を制覇した頼朝が鎌倉に入城したことは周知のことです。このように、清光・清重の参軍は武蔵武士の頼朝軍への参加の端緒となったのです。では、この清光・清重はどうして頼朝陣営に参加したのでしょう。もちろん、房総半島を席巻して勢力を拡大させた頼朝軍自身の実力が根本です。ですが、事前に頼朝側から彼らに接触を図った者もいたはずです(『吾妻鏡』同年九月二日条では、味方になるように頼朝が手紙を出した武士の中に清元・清重も入っています)。重長誘引に使者を発したように(『吾妻鏡』同上二十八日条)。これに力となったのが、豊島氏と縁戚関係を有したといえる遠元ではないかと考えます。すなわち、遠元は自ら頼朝軍に加わることを決めるとともに、清光に参加を呼びかけたと考えます。『笠井(葛西)系図』(続群書類従系譜部所収)などの多くの系図では清光・清重を父子関係としていますが、その当否は別として、豊島・葛西氏が同族であることは疑えないでしょう。とすれば、清光を遠元が誘ったことは彼らの参加を促したことになります。したがいまして、「最前・参上」とは、遠元自身のみならず、清光・清重を参加させた功績も含まれていたと考えます。

以上考えてくれば、遠元の功績は合戦の場(軍功)ではありませんが、それに上位する政治的立場から見て他に抜きんでいたと理解できます。それ故に、彼は真っ先にしかも単独で本領安堵を受けたわけです。

かくて、(その1)でも述べたように、頼朝陣営に入った畠山重忠に娘を嫁し、比企ファミリーとして武蔵国支配の一員にともに列し、鎌倉殿源頼朝政権において、重要な一員となったのです。1184(元暦元)106日、公文所が創設され、遠元は寄人に任命されます(『吾妻鏡』同日条)。この公文所の創設と20日の問注所設置は鎌倉幕府成立のメルクマールとなりうる政治的劃期でありますが、正月の木曽殿源義仲戦死、4月の甲斐源氏棟梁一条忠頼謀殺に表われた、頼朝の鎌倉軍権に対抗しえた中部日本を支配してきた甲斐・信濃源氏ブロックの解体により、頼朝の武家棟梁として位置が完全に諸源氏に抜きんでることができたことが、かかる統治機構の整備をもたらしたと指摘するだけに止めておきます。さて、同時に、別当に因幡守中原(大江)広元、寄人に齋院次官藤原(中原)親能・主計允二階堂行政・甲斐四郎大中臣秋家・判官代藤原邦通が任命されました。5人はすべて吏僚としての才のあった人物として知られています。武士ではなく文士なのです(五味文彦氏、『武士と文士の中世史』一九九二年東京大学出版会)。武士として任命されたのは遠元一人ということになります。

では、なぜ遠元が任命され、これらメンバーの人選にはいかなる意味があるのでしょうか。この点は、すでに拙稿において考察しているので、その結論のみを示します。3点あります。第1は、解体した中部日本軍事ブロック(甲斐・信濃源氏)の下にいたと考えられ、その内部に精通していた行政・秋家を構成メンバーに加えることで、その下に結集していた武士への、行政的な逆編成の切り込み役としての役割を果たさせることです。第2に、武蔵有力武士の遠元に代表されるように、武蔵武士団の掌握に力点があり、同時に、彼と縁戚関係にある親能が相模国で生育したことで同国武士への繋がりを有しており、同国武士への目配りもし、幕府の中核である武相武士団掌握を基本としていることです。第3に、遠元の縁者である局務経験者としての練達した行政官僚である広元を筆頭に据えることで、行政機関としての実務執行能力に万全を期していることです。こうしてみると、公文所の構成メンバーは、甲斐グループとでもいうべき行政・秋家と、遠元グループとでもいうべき遠元・広元・親能・邦通の、異なる二つの出身者からなることが理解できます。

治承・寿永の内乱において、『吾妻鏡』や『平家物語』を見ると、遠元は西国への戦いに出戦した記載がありません。むしろ、公文所寄人に任命されたこともそうですが、1183(寿永2)年8月の平氏都落ちで京に残り、その後鎌倉に下ってきた平頼盛(清盛弟)が帰洛する餞別の宴に、「京都に馴れるの輩」として遠元が参席する(『吾妻鏡』元暦元年六月一日条)ように、鎌倉内での活動しか記載されていません。この点、叔父の盛長も同様です。同じ武蔵国の有力武士の畠山重忠や比企能員が出戦していたのとは異にします。これらのことは、遠元らの足立一族は出戦することなく関東内に位置して、鎌倉殿源頼朝の親衛隊としての役割を果たしていたと考えます。足立一族と頼朝との繋がりを考えればこれは自然なことです。

(続く)

(2005.11.19)

 

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武蔵武士足立遠元(その2)―歴史雑感〔6〕―

二、平治の乱の遠元

遠元はその誕生も死去も史料には見えていません。何時生まれ何時死んだかは不明なわけです。ただ、前回に述べてあるように、叔父盛長より年長と推定できますから、1135年以前に生まれたことになります。その彼が歴史に登場するのは、平治の乱(1159年)です。彼のことは『平治物語』に出てきます。ご承知のように、この年12月9日夜、平清盛の熊野参詣の留守を付いて、権中納言藤原信頼がクーデターを起こします。平治の乱の開始です。この軍事力の中核となったのが源義朝です。彼
らは三条殿にいた後白河上皇を大内裏に監禁し、三条殿を焼払います。実権を握った信頼は除目を行います。『平治物語』には日付を明記していませんが、物語に書かれていない頼朝の右兵衛権佐任官の日付(『公卿補任』文治元年条源頼朝尻付)から、それは14日です。首謀者の権中納言信頼は大臣兼近衛大将、左馬頭義朝は播磨守を兼ねます。『平治物語』上に見える任官者の中で、公卿の信頼は別格として、義朝以下の源末実(文徳源氏)までの5人が五位(受領級)以上の軍事貴族で、六位(侍級武士)は鎌田次郎正清(義朝乳母子)の兵衛尉と遠元の右馬允の二人だけです。この除目が実際に行われたものか、物語だけに絶対的な信憑性に欠けますが、1190(建久元)年の第一次頼朝上洛に際して、左衛門尉に任官する(後述)まで、『吾妻鏡』では1180(治承四)年初出記事(後述)から一貫して「右馬允」遠元と表記されていますので、それは信頼できると考えます。とすると、義朝とともに最期を遂げるという、義朝の一の郎等正清(『愚管抄』巻第五)と並んで、遠元が任官に名を連ねた意味をどう考えるのでしょうか。

さて、『平治物語』上・源氏勢沙への事が示す義朝軍交名から武蔵武士を見ますと、長井斎藤実盛・岡部忠澄・猪俣範綱・熊谷直実・平山季重・金子家忠そして足立遠元です。ここで、遠元だけが郡級武士で、その他は全て郷村級武士です。武士団としての実力に明らかな差があります。すなわち、武蔵武士の中核は遠元ということになります。ここに、義朝軍の編成に関して、武蔵国知行国主であった信頼の同国武士の動員が主力であって、必ずしも彼等が義朝の郎等ではなかったとの説(元木泰雄氏、『保元・平治の乱を読みなおす』2004年NHKブックス参照)が示されております。とすれば、なおのこととして武蔵武士の参加に行賞を与える必要があるでしょう。その第一候補が参加武蔵武士中の実力一の遠元であることはいうまでもないでしょう。そうです、正清が義朝一の郎等として任官したように、彼は武蔵武士の代表として右馬允に任官したと考えます。すなわち、二人は頼朝軍の構成メンバー、郎等と武蔵武士のそれぞれの象徴としての任官なのです。もちろん、『平治物語』の除目記事に頼朝の名が見えないように、彼ら以外に侍級の任官者が存在していたかもしれません。

遠元は、この時30歳前後と推定される、武士としても働き盛りの時期でしょう。ところで、『平治物語』中・六波羅合戦の事には、遠元に関する記述があります。26日、大内裏の義朝軍に六波羅の清盛軍が攻撃し、合戦します(『百練抄』同日条)。清盛軍の攻撃を受け止め、六波羅へと義朝軍は逆襲します。この時、武蔵武士の村山党金子家忠は矢も尽き刀も折れてしまいます。ここに遠元が通りかかり、家忠は替太刀を所望します。替太刀を持っていなかった遠元は、前方にいた自分の郎等の太刀を取って、与えます。家忠は喜んで敵と戦います。一方、郎等は主の遠元を恨みます。そこで、遠元は郎等を待たせ、敵に矢を射て、見事に仕留めるや、馬から下りてその太刀を取って引っ返してから、郎等に、「おまえは短気だ。そら太刀だ」と言って、渡して自分の前を駆けさせます。このエピソードにおいて、中国の故事を引いて、それとの比較においても、遠元の行為を褒めています。これが事実であるかは定かではなく、むしろ説話の色が濃いと思います。しかしながら、合戦の経緯において、義朝側を長男の悪源太義平、清盛側を嫡男重盛に代表させて描写しているのは別として、侍級武士で描写されているのは、義平にしたがった正清を除き、遠元だけといってよいのです。他の義朝の武士は基本的には交名に出てくるだけなのです。以上、遠元が武士としては『平治物語』の記述において傑出した存在であることがお分かりでしょう。

以上の如く、除目といい合戦におけるエピソードといい、『平治物語』は遠元の存在を浮かび上がらせており、このことは遠元の武蔵武士の代表として反映の記述と考えます。

合戦に敗北した義朝軍は東国へと落ちてゆきます。竜華越え(京都市大原から国道367号で北上し滋賀県に入り、477号で逆に南下して堅田に至る)にて、前途をふさぐ叡山横河の法師を破りますが、近江国堅田浦(滋賀県大津市)で軍を解散します。これ以後、義朝に随行するのは義平・朝長・頼朝(以上息男)、源重成(従兄弟・濃尾源氏)、平賀義信(信濃源氏)、鎌田正清・渋谷金王丸の7人です。波多野義通・三浦義澄(以上相模武士)、長井斎藤実盛・岡部忠澄・猪俣範綱・熊谷直実・平山季重・足立遠元・金子家忠(以上武蔵武士)、上総広常(上総武士)以下の20人は各自が落ち延びることになりました。この歴名は頼朝軍の主力が武蔵武士であったことを表わしています。ともあれ、遠元は名字の地である武蔵国足立郡へと帰って行き、歴史の表面から消えることになります。

(続く)

(2005.11.12)

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武蔵武士足立遠元(その1)―歴史雑感〔6〕―

(その1) 一、遠元の系譜(2005.11.06)

(その2) 二、平治の乱の遠元(2005.11.12)

(その3) 三、治承・寿永の内乱における遠元(2005.11.19)

(その4) 四、文治元年十月の勝長寿院落慶供養行列での遠元の序列(2005.12.02)

(その5) 五、頼朝期における遠元(上)―「宿老」―(2005.12.18)

(その6) 六、頼朝期における遠元(中)―奥州兵乱と第一次建久上洛―(2005.12.25)

(その7) 七、頼朝期における遠元(下)―第二次建久上洛―(2006.01.05)

(その8) 八、晩年〔頼家・実朝期〕の遠元(2006.04.08


一、遠元の系譜

少し歴史、とりわけ鎌倉時代に興味ある人ならば、幕府草創期の武蔵武士といえば、畠山重忠や熊谷直実を頭に浮かべるでしょう(大河ドラマ「義経」には登場していないようですが)。これにひきかえ武蔵武士足立四郎遠元の名を知る人は少ないでしょう。実は、遠元は重忠とは密接な縁があるのです(このことは後で詳説します)。そこで、今回は足立遠元を取り上げたいと思います。

治承・寿永の内乱期の遠元に関しては、拙稿として、「鎌倉幕府成立期に於ける武蔵国々衙支配をめぐる公文所寄人足立右馬允遠元の史的意義」『政治経済史学』156、157号1979年5月、6月があります。今回は、拙稿で述べてあることは、基本的には結論のみを示すことで、細部の考証は拙稿をお読みください。

さて、足立遠元の名乗りから、遠元の名字の地は武蔵国足立郡です。足立郡はほぼ関東平野の中央に位置し、東を元荒川、西を荒川に挟まれて、埼玉県吹上町を北限に、鴻巣・北本・上尾・さいたま・川口市などを含み、東京都足立区を南限とする、江戸時代には66か郷と称された武蔵国でも屈指の郡域の広さがありました。この領主が遠元であったわけです。

拙稿に於いて、『尊卑分脉』を分析しその出自と系譜を考察しました。新訂増補国史大系『尊卑分脉』第二篇頁285以下に魚名後裔山蔭流として秋田城介(安達)氏が載せてあります。「小野田三郎」兼盛以降の系譜記載については信頼性を認めることができますが、その子として記載されている「安達六郎」盛長・「安達藤九郎」遠兼は、実はその兄弟順が逆で、六郎遠兼・藤九郎盛長となることを立証しました。ここに於いて、嫡系は兼盛・遠兼・遠元(基)と続き、藤九郎盛長(安達氏祖)は遠元の叔父となります。そして、次に述べる遠元の娘と藤原光能の間の子知光が1168(仁安元)年生まれから考えて、1135(保延元)年生まれの盛長に比して、遠元は年長と推定します。しかし、『尊卑分脉』のいう国重と兼盛との親子関係に関しては確実性がなく、足立氏の真の出自が山蔭流であるかどうかは分かりません。すなわち、太田亮氏(『姓氏家系大辞典』第一巻120頁1963年)の言うように武蔵国造の後裔、つまり土着豪族の子孫か、それとも中央貴族藤原氏の子孫かは明瞭ではないのです。

遠元の嫡子は八郎元春でありますが、歴史上の観点から、見逃せないのはその女子です。遠元には3人の女子が確認されます。まず、『尊卑分脉』に唯一人所載されている女子です。彼女は参議藤原光能に嫁して知光・従二位光俊を生みます。出自からいうと光能は道長の子長家後裔で、叔母豪子の夫右大臣公能の養子となり、また歌人として名高い定家と従兄弟です(『尊卑分脉』第一篇頁177、285~92参照)。同時に、平氏の治承三年クーデター(1179)で、子の知光とともに解官の憂き目を見るという、後白河院の近臣であったのです。これに加え、妹は以仁王の子真性の母です。以上により、光能は公卿として後白河院政の近臣であり、以仁王身内でもあり、京都政界の中枢に位置していたのです。このことは、遠元が単なる田舎武士ではなく、京都に強いパイプを持っていたことを意味します。ただ彼女がどのようにして、光能と結ばれたかは史料上に見えていないため想像するしかありません。知光が1168(仁安元)年に誕生していますから、それ以前といえます。

次に、畠山重忠に嫁した女子です。彼女は小次郎重秀を1183(寿永2)年に生んでいます。この時重忠は20歳ですから、おそらく初婚ではないかと考えられます。すなわち、治承・寿永の内乱の発生後(1180年)、重忠が頼朝麾下に入ってから、武蔵の有力武士を結びつけるべく頼朝の斡旋のもとに両者の婚姻がなされたと考えるのが至当です。

最後が北条時政の子五郎時房(後の初代連署)に嫁した女子です。彼女は三郎資時を1199(正治元)年に、嫡男四郎朝直を1206(建永元)に生んでいます(『関東評定衆伝』続群書類従補任部所収)。時房は1189(文治5)年に15歳で頼朝御前において元服します(『吾妻鏡』同年四月十八日条)。時房長男の時盛は1197(建久8)年生まれですが、その母は不明で、彼は嫡男になれなかったことから、母の出自は低く側室腹と考えます。ともあれ、両人の結婚は建久年間にはなされたことになります。論証は省きますが、その当時の足立氏と北条氏の実勢力を考えると(北条時政が嫡系でなかったことに関しては、杉橋隆夫氏、「北条時政の出身」『立命館文学』五百号1987年3月参照)、この婚姻は足立氏から持ちかけたものというより、北条氏から接近したと考えます。

ここで視点を変えて、遠元と盛長が甥叔父関係であることから、盛長の周辺を見てみましょう。まず、1135(保延元)年生まれの盛長と比較して、遠元は年上と考えることができることを確認しておきます。先年のNHK大河ドラマ『草燃える』(武田鉄矢)や今年の『義経』(草見潤平)で描かれているように、頼朝の伊豆流人時代からの側近が盛長です。その盛長の妻は頼朝乳母の比企尼の長女です。比企尼は、伊豆に流された頼朝を扶助し続けたことは、大河ドラマでも描かれており、頼朝が心から頼りにした恩人です。『吉見系図』(続群書類従系譜部所収)の分析から、比企尼の3人の女子は、長女が盛長に、次女が武蔵国有力豪族の河越重頼(平家期の秩父氏嫡系)に、三女が伊豆国有力豪族の伊東祐清に嫁して、この婿たちが流人頼朝を扶助したのです。ですから、盛長は頼朝の側にいたわけです。1183(寿永2)年5月の加賀国篠原合戦で平家方として祐清は戦死します。その後、三女は信濃源氏の平賀義信と再婚して朝政を生みます。盛長の女子が頼朝の異母弟範頼、重頼の女子が義経へと嫁ぎます。彼女たちは比企尼の女子の所生とするのが至当でしょう。

こうして頼朝兄弟は比企尼の身内となるのです。同時に、治承・寿永の内乱が平氏の滅亡で終わった文治年間に入ると、比企尼をめぐる縁戚関係者は、武蔵国知行国主鎌倉殿源頼朝を頂点に、武蔵守平賀義信・留守所総検校職畠山重忠、比企郡領主比企能員(比企尼甥))・足立郡領主足立遠元と、武蔵国支配を覆うのです。さらに、頼朝の後継者頼家の乳母も重頼妻(比企尼次女)・義信妻(比企尼三女)・能員妻と、梶原景時妻を除けば、比企尼身内なのです。このように、頼朝・頼家父子は比企尼縁戚者に蝟集されているのです。この比企尼縁戚者集団を比企ファミリーと名付けます。比企ファミリーは鎌倉殿(将軍)とその支配の中核地域である武蔵国支配を掌握しているのです。

遠元の出自と系譜の終りに、拙稿では検討していなかった「丹波足立氏系図」(『上尾市史』第6巻通史編上2000年参照)を検討してみたいと思います。これは、丹波国氷上郡佐治庄(兵庫県丹波市青垣町佐治)に西遷した足立氏庶流が江戸時代に残した系図です。これでは太政大臣良房の孫高藤の後裔と遠兼をしています。同じ藤原氏でも、『尊卑分脉』の山蔭流とは異なり、遠兼の父も忠兼としており異なります。同時に、盛長とその系は載せておりませんから、純粋に遠元とその子孫のみを載せているのです。この遠兼以前がその記載から信頼性に欠けることは『尊卑分脉』と同様です。したがいまして、本系図からも足立氏が藤原氏出自であるかは決定できないのです。

改めて遠元の傍注を見ますと、「号足立、豊嶋平傔仗泰家女、外祖父泰家譲与足立郡地頭職、仍一円知行之、」とあります。これは『尊卑分脉』にはない記述です。まず遠元の母が武蔵国豊島郡(東京都豊島区)の武士豊島泰家の女子であることです。次いで、遠元の足立郡地頭職は泰家が譲ったものです。すなわち、足立郡地頭職はもともと豊島氏のものであったことです。前者については遠元の母に関する所見があるのは本系図のみですから、信用できるかどうかの問題です。後者に関しては、まず豊島氏について考えてみてからです。豊島氏は桓武平氏良文流の後裔として諸系図に載せられており、異同はありますが武蔵国の大族秩父氏の分流となっています。治承・寿永の内乱において、石橋山合戦に敗れ、再起を期して房総半島に逃れ、千葉・上総両氏の参加により武蔵国に進出した頼朝のもとに、泰家の子清光(元)は武蔵武士として真っ先に参加しました(『吾妻鏡』治承四年十月二日条)。この時、遠元も同時に参加しました。しかし、勝長寿院(頼朝の父義朝奉葬地)落慶供養の供奉人行列において、清光は権守(おそらくは武蔵国の)という官位を帯びながらも、先陣随兵(14人、先頭畠山重忠・最後尾小山朝政)・御後五位六位(32人、先頭源頼兼・最後尾足立遠元)・後陣隋兵(16人、先頭下河辺行平・最後尾加々美長清)のいずれにも列せず、その後となる次隋兵(東西それぞれ30人)の西方1番に甘んじていたのです(『吾妻鏡』文治元年十月二十四日条)。このことは、武蔵国で真っ先に参加したにもかかわらず、最初は敵対して三浦義明を戦死させた畠山重忠の下座に位置するという、豊島氏が千葉・三浦・畠山氏などの有力御家人よりランク下に位置づけられていたことを示します。それは豊島氏の実力の反映といってよいでしょう。本系図の示すとおりだとすると、名字の地である豊島郡よりも広大な地である足立郡を遠元に譲与しても、豊島氏の所領は足立郡を凌駕していたはずです。とすれば、遠元と同じ最前参加の功があり、実力的にも凌駕していたはずの清光が遠元の下風に甘んじていたことは矛盾します。本系図の示すところ、すなわち泰家が遠元に足立郡を譲与したという記述は信頼できないとするのが、この矛盾を解決することになります。ともあれ、足立郡の豊島氏から遠元への譲与は否定されました。しかし、このことで豊島氏と遠元とが姻戚関係になかったことまで否定されるわけではありません。『尊卑分脉』での遠元の脇注に「号外嶋」とあり、これらのことを考えると、遠元が豊島氏と何らかの縁戚関係があったと考えて差し付けないでしょう。

次に、遠元の男子として元春・遠光・遠景・遠村・遠継(元春・遠景・遠村は『尊卑分脉』にも)が記載されており、その傍注に見える「淵江」・「安吉須」・「河田谷」・「平柳」などは足立郡内の地名を示しており(例示、淵江は現東京都足立区保木間)、遠元の子孫が足立郡内に分布した反映と考えてよいです。

最後に、佐治庄を拝領したとの傍注のある遠政(丹波足立氏の祖とされます)の父遠光の傍注に、「母三位頼政之女二条院讃岐子也」とある点です。これは摂津馬場源氏の嫡系、源三位頼政(周知のように治承・寿永の内乱の火付け役として宇治川に敗死)の女子で、『百人一首』九十二番の二条院讃岐のことです。ただし、「子」とあるから二条院讃岐の女子ということになります。二条院讃岐自身は葉室流の祖顕隆の孫藤原重頼の妻として重光らを儲けていますし(『尊卑分脉』第二篇頁97)、歌人として活躍しています(13世紀初頭の「千五百番歌合」に参画している)から、彼女が遠元に嫁したとは思えません。重頼は妻が讃岐の縁からか、前述の勝長寿院供養では御後五位六位に列しているなどして、親鎌倉派公家として平家没官領を知行しています(『吾妻鏡』文治四年十一月二十二日条)。とするなら、当該期の女子の表記の通例からすると、「重頼女」とするのが自然なのに、特段の理由もなく女性側、「讃岐子」とするのは不自然であります。作為が感じられるのです。ここに、この傍注が本来の系図にあった記載ではなく、後世の追加的なものであると判断します。とすれば、何らかの理由で百人一首で名の通った二条院讃岐をはめ込もうとしたが、時代的に不自然なのでその女子としたと考えます。かくして、母云々の記載は信用しかねます。

以上見てきたところでは、「丹波足立系図」の傍注記載は名字表記を除き信頼性に欠けるものといわざるをえません。したがって、その遠兼以前の系譜においても信用できるところではありません。

(続く)

(2005.11.06)

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串串香―成都雑感〔12〕―

 四川の鍋料理といえば、皆様もご承知のように火鍋が有名です。私の横浜の家の最寄り駅近くの中華レストランでもメニューに火鍋があるように、日本でも火鍋が気軽に食せるようになりました。ここ、中国では今や各地に火鍋レストランがあり、四川の地方的な鍋から全国区のものになりました。

今日紹介するのは、火鍋によく似ていますが、より庶民的なもので、より新しく生まれた串串香です。

写真1をご覧のように、鍋自体は火鍋のように、激辛スープと白スープに分かれています(もちろん激辛スープだけも注文できます)。このスープは基本的には火鍋と同じですが、火鍋ほど各種の素材を用いていませんから、コクの深みといった点とか刺激度とかでは劣りますが、そのぶん食べやすいかもしれません。この鍋が串串香と呼ばれるわけは、下の写真のように、具材が竹串に刺されて、これを鍋で煮て食することからあるのです。それをゴマ油に香菜・蠣油・香酢などを適宜入れたタレで食べます。具材は肉・魚・野菜・豆腐類などで、今回行った大学北門付近の店では50種以上あります。写真2のように、店の奥側に具材の棚があり、そこから自由に選んで、写真の左下に見える籠に入れて、鍋へと持ってくればいいのです。

料金は串の種類と数で決まります。串1本刺してのが1角で、2本刺してのが2角で、太く長い串を刺してのが1元(10角)です。今回は5人で食して、別に豚の脳みそなどを注文しましたが、50元ほどで収まりましたから、大衆的な火鍋店に比べて半分以下ということになります。

ともあれ、串串香は成都では至る所にあり、庶民的なものですから、ビールとともにお試しを。

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(2005.10.22)

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簡陽羊肉湯鍋―成都雑感〔11〕―

商業街の四川省共産党委員会の少し西に簡陽羊肉湯鍋店はあります。この店は白果園茶館(茶座)から西に歩いて10数分のところにあり、茶館に続いて、夕食をここで食しました。

成都市から南東に60kmほどの、成渝線(成都・重慶)上に位置しているのが簡陽市です。成都の五桂橋汽車総站(バスターミナル))から高速道路(成渝高速公路)を利用して約1時間です。簡陽羊肉湯鍋はここの名物料理です。名前の通り、羊のスープによる羊肉の鍋料理です。四川料理といえば、麻辣味としてしびれるような辛さを思い浮かべるでしょう。しかし、簡陽羊肉湯鍋は全くそれとは異なります。写真1でご覧のように、白濁した羊スープにすでに調理済みの羊肉(好みの割合で調理済みの内臓も)を入れて、温まったところでタレに漬けて食べます。タレは唐辛子の細切りと香菜に少量の塩・化学調味料を加え、さらに鍋の羊スープを加えたものです(写真2の左側椀)。スープの味は全く羊臭さを感じさせず、極めてまろやかなものです。ある程度肉類を食したら、白菜などの野菜類を入れて煮て食べます。肉・野菜を食するとともに、鍋のスープを取り飲みます。右の写真の右側椀がスープ椀です。タレに細切りの唐辛子を入れることが四川らしさを残していますが、食べるときにタレの唐辛子を直接口に入れなければ、辛さを感じるようなことはないのです。以上の点、四川の鍋料理として、最近、日本でもお目にかかるようになった火鍋が激辛であり、あらゆるものを具材にするのとは違うのです。四川料理は豚肉を主としており麻辣味を特色としますが、淡泊な味と羊料理である点から、簡陽羊肉湯鍋は極めて四川らしくない料理です。酒ですが、火鍋にはビールがいいですが、簡陽羊肉湯鍋では白酒をちびりちびり飲むのがいいかと思います。それも高級なものより、大衆酒、例えば北京の二鍋頭酒などはいかがでしょうか。なお、メインの羊肉は1斤(500g)25元です。

(2005.10.22)

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白果園茶館(茶座)―成都雑感〔10〕―

四川省は古くからの茶の産地で、現在でも中国三本の指に入る有数の茶の産地です。このため、成都では古から茶に親しんできました。その親しみ方の一つが茶館(茶座)です。これは野外においてゆったりと椅子に腰掛けて茶を味わうのです。以前には中国のどの町にもこれがありました。しかし、現在ではそのほとんどがなくなり、今のものは建物内での茶館です。これは値段もそれなりにします(通常10元以上)そこで、現在でも昔からの野外の茶館の伝統を残している茶館の一つを紹介することで、成都の茶館を知っていただきたいと思います。

人民中路から西に入った西御河沿街にある白果園茶館は市の中心部にありますが、銀杏の木に囲まれた静粛の地です。朝の6時から夕方の6時まで開いており、ゆったりとした時間を過ごせます。売店で茶葉の入った茶碗を(ジャスミン茶で3元)を受け取り、適宜に竹の椅子に座ると、係員がお湯を注いでくれます(お湯は適宜つぎ足してくれます)。それからゆったりとしてお茶を楽しめばいいのです。下の写真にもあるように、麻雀に熱中してもいいし、トランプをしてもいいし、新聞を読んでもいいし(新聞の売店もあります)、読書でもいいし、のんびりしてもいいのです。私が行ったときも、隣の卓では麻雀を打っており、2時間後に帰るときにもまだ打っておりました。とにかく成都人は麻雀好きで麻雀を打つ人が茶館の至るところにいました。

それに、ここでは昼には四川家庭料理や麺類を提供しており、昼食を取りながら時を過ごすことも出来るのです。ですから、朝から夕方までここで過ごす退職した高齢者の人も目立つのです。もちろん、有料公衆トイレ(0.2元)もあります。

成都の野外の茶館(茶座)は、白果園茶館以外にも各所にあり、例えば杜甫草堂・青羊宮・文珠院などの観光名所内にもあります。ともあれ、成都の古くからの姿を見るには茶館を訪ねることがいいでしょう。

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(2005.10.20)

 

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DVDソフト事情(6)日本原版ボックスの海賊版が復活―成都雑感〔4〕―

中国で、日本の民放テレビドラマを見るにはどうすればいいでしょうか(NHKは衛星でワールド放送が見られれば即時に見られます)。以前は、中国語吹替え板ですが、中国のテレビで放映がありました。これらは日本での放送よりかなり経ったものでした。いろいろな事情で、現在これは行われてはいません。

しかし日本のドラマは見られるのです。別に日本から録画などを送ってもらわなくてもいいのです。これには大きく二つの方法があります。一つはWebサイトからのダウンロードです。もう一つは海賊版のDVDで、これには3種類あります。1は圧縮DVDHDVD)、2は放送録画の海賊版、3は日本発売正規版の海賊版です。これらにはそれぞれ長所と短所があります。以下それぞれを説明します。

まず、Web
イトのダウンロードです。現在中国国内には映画やドラマなど映像コンテンツをダウンロードするサイトが複数あります。もちろんこれらは知的財産権を侵した
国際的には非合法のものです。アメリカ・中国・日本・韓国など世界中のコンテンツがあります。ここの利点は、手軽であることです。パソコンとネット接続環
境さえあればいいのです。次に、登場が早いことです。例えば、12日に放送された日本テレビの菅野美穂主演『あいのうた』第1回が14日には中国語(繁体字)字幕付でアップロードされているのです。この早さは、HDデッキかパソコンで録画し、それをネットで中国に送り、翻訳・編集の上アップロードしており、この一連の過程が極めて組織化されており、いわば企業化されているといえましょう。同時に、これはWeb上だけでなく、DVD
も流れていることから、また繁体字字幕であることから、大陸のみならず、広く世界の中国人を対象にしていると思えます。この一連の流れは一つの産業といえ
るでしょう。これらの利点から、学生層を中心に利用が広まっています。短所は、中国国内のネット状況ではダウンロードに時間がかかることです。ドラマ1回
分がおよそ200MB以上の容量があり、ADSLがまだ1Mbが普通で、それも実際にはそれほどのスピ-ドが出ていないのですから。それに画質も劣り、VCD並みかそれ以下です。

圧縮DVDMPEG-4規格により画像化したもので、画質がVCD弱程度ならば1枚に10話位まで入るものです。価格は1
4元です。現在最も品数が豊富です。これが登場するのも早く、最終回終了後、1・2週間で出てきます。テレビ東京を除いて(この局のものは他のシーズンで
もほとんど見かけることはありません)、夏ドラマはほとんどすでに市場で見かけます。それがどういうものか、伊東美咲主演『電車男』を例にして示します。
これは3枚組で、それが紙パックに入っています。表紙には伊東美咲の写真やイラストの電車を挟んだ主役の二人の宣伝物のコピーがデザインされています。1
枚目が1~7話、2枚目が8・9話、3枚目が10・最終話となっていて、価格は12元となります。1~10話までは9:6画面で簡体字字幕付、最終話のみ4:3画面で繁体字字幕付となっています。もちろん字幕は固定です。チャプターは各話毎です。画質はVCD並みで、最終話が少し落ちます。これらのことは、圧縮DVD制作者とWebサイトとは関係していることを窺わせます。なお、圧縮DVDはどうしてもエラーが他と比べると多く、パソコンでは視聴不能となることがしばしば起こります。その意味では、見られるかどうか賭のようなところがあります。

放送録画のDVDは1枚の価格が6元です。一般に6枚組でボックスになっています。圧縮DVDより遅れますが、2週間程度で登場します。例として、妻夫木聡主演『SLOW DANCE』を示します。6枚組36元で1枚に2話分入っており、最終回のみ単独で1枚となっています。9:6画面で各話とも5チャプターになっています。字幕は2枚目までが簡体字で以降は簡体字・繁体字両方があり、いずれも字幕をoffに出来ます(一般にはこの手のものはoffに出来ません)。画質はDVDより若干落ちる程度です。各枚には最初に警告文(2005年)が続いてフジテレビ発売のDVDを示すロゴ動画があり、タイトルメニュー画面があり各話と字幕選択が出来るようになっています。これらのことはこの手のDVDでは今まで見かけなかったことで、正規版らしく作られていることになります。ボックスはタイトルや出演者の写真をコピーして(おそらく宣伝用の流用)、それに簡体字の説明を加えて、作成されています。しかも、今までのは製品内容規格表示の部分が明らかに正規版ではありえない表記でしたのが、なんとこれではTBSの春ドラマ『夢で合いましょう』のをそのままコピーして使用してありました。その意味で、手が込んでいて、本物らしさを示そうとしています。

以上の3種はいずれも放送録画を元版にして作成されていますから、CMは基本的に削除されていますが、タイトルなどでCMが挿入されていて切れない場合はそのまま挿入されています。また地上波のアナログ放送の録画の場合は当然ながら臨時ニュースなどの字が画面に入ります。しかし、最近では放送録画も地上波デジタル放送からが基本になっていくようです。

最後は日本発売の正規版からの海賊版DVDです。これはこの春から成都の市場に新譜が消えたと、9月14日付で述べました。しかし、10
の国慶節を前にして復活してきました。春・冬ドラマの新譜が出てきました。しかし去年の秋ドラマは見かけず、その数は以前に比べるとまだ少ないです。また
置いてある店も少なく、やはり以前とはまだ異なります。その中で、草彅剛主演『恋におちたら』(日本9月9日発売)を例に示しましょう。これは10月7日に見つけました。6枚組36元で、元板通りに1枚に2話分入っており、6枚目は最終話と特典映像が元版のまま全部入れあります(特典映像は省略されることが多いです)。それに各話には簡体字・繁体字両方を、特典映像にも簡体字字幕(今までは特典映像には中国語字幕が付かないのが普通です)を、字幕off機能で入れてあります。すなわち中国語字幕を加えて元版をそのままコピーしたものなのです。ただ、ドラマから始まりタイトルメニューが最後に出るところは中国での海賊版の一般です。したがいまして、画質・音質ともオリジナルそのままということです。ボックスも元版をそっくりコピーして、それに繁体字でタイトルや説明を加えて、制作されており、表表紙の「恋におちたら」のタイトルも単なる印刷だけでなく、浮き出しとなっています。

以上ですが、早さ・安さを取るか、遅くても品質を取るかです。中国の現状では品質より早さ・安さの方が受け入れられているところです。それが、Webや圧縮DVDの繁盛となり、正規版を元版とする海賊版DVDが以前ほどではない原因でしょう。

(2005.10.16)

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上海・蘇州在住の卒業生の集い

国慶節の休暇を利用して、2日から5日まで、上海および蘇州に行きました。3日は上海で西安交通大学・湖北大学の9名の、4日は蘇州で西安交通大学・西南交通大学の4名の卒業生が集いました。国慶節を利用しての家族旅行などの人もおり、また連絡先が分からない人もいて、実際の上海や蘇州在住の卒業生は、今回参集した人数の倍以上と思われます。下に集った卒業生の写真を載せます。最初から集合写真までの9枚が上海ので、ご主人やお子さんとともに参加した人もいます。集合写真の次の3枚は蘇州ので、去年の卒業生の家で彼らが手料理を作り集いました。

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(2005.10.06)

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続・イトーヨーカドー双楠店(国慶節)―成都雑感〔3〕―

2003年に開店したイトーヨーカドー双楠店はこの9月で開店2周年を迎え、同時に国慶節(10月1日)と重なり、9月28日から10月7日まで開店2周年大セールを展開しています(国慶節は商戦の期です)。

私も買い物がてら訪れました。春熙店に比較して、売り場が広く通路もゆったりしているので、客同士が肩を触れあうことはありませんが、どの売り場も客でにぎわい、とり
わけ女性用の目玉商品のワゴンは人だかりでした。ヨーカードーのプライベートブランドIYの男子Vネックセーターは40元(550円程度)とあるように、通常ならば日本とほぼ同価なのが、本日のみの数量限定ですが、価格が破格となっていました。予定にない9.9元のアクリル吸水加工のバスマット(山崎産業)を私も買ってしまいました。下の写真は成都イトーヨーカドーのWebでの本日限定の衣料品特売チラシです。

双楠店5階にはこの春から「美食城」(食堂街)がオープンし、日本料理店・バイキング式西洋料理レストラン、セルフ・サービスの韓国料理・中国料理店があり、後者では10元程度から味わえます。

行きもそうですが、15時発の無料送迎バスで帰りました。この日は臨時駐車場まで設けられたのに、この時にも駐車場(収容台数200台以上と思われます)待ちの自家用車の列が200mも続いており、自家用車族の利用も高いことを示しています。実は、正確な数字は示すことが出来ませんが、成都は自家用車保有率が全国でも5指にはいる都市なのです。

ともあれ、ヨーカードー双楠店は中国人の消費意欲の盛んなことを表しています。なお、営業時間は9時から23時です。

(2005.10.01)

051001イトーヨーカドー双楠店特売チラシ

 

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上海行

明日、10月1日は国慶節、すなわち中華人民共和国の建国記念日です。3日間の休日(1~3日)、1・2日が土日当たるためその振替えの4・5日、そして次週の土日を6・7日に振替えて、1~7日までのゴールデンウィークとなります。
 
この休みを利用して、久ぶりに上海に出かけます。2日午後に出発し、5日夜に帰る予定です。上海とその近傍には卒業生が多く働いています。彼らの何人かには会えることになっています。しかし、この休みを利用して、逆に四川に来る卒業生もいます。これとはすれ違いです。
 
 
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今学期の担当課目

9月12日から西南交通大学は20052006年度の前期学期が開始されました。すでに第3週に入っています。そこで、本学外国語学院日語系(日本語学科)での私の担当課目について述べることで、中国の大学のおける日本語専攻の一端を紹介したいと思います。

今学期の担当課目をまず示します。

1.日本語学概説―大学院1年

2.日文報刊閲読(日本新聞雑誌閲読)―大学本科4年

3.商務函電写作(ビジネス電子メール作文)―大学本科4年

4.日本文学概論―大学本科4年

5.日本経済与貿易(日本経済・貿易)―大学本科4年

6.写作2(作文2)―大学本科3年

7.写作(作文)―成人教育専科3年

以上の7課目で、各週1コマです。

院生1年の基礎課目である「日本語学概説」は、日本の大学での言語専攻の学部生レベルのものとして、『概説日本語学』1995年明治書院をテキストとして講義形式で行います(本来ならゼミ形式を行いたいのですが、資料不足などにより不可)。毎週1章を基本進度として、11月末までに全巻読了予定です。次いで、特論として、石川九楊『二重国家・日本1999NHKブックスをテキストに、その第2・3章を講義します。日本語・中国語ともに漢字という文字を使用する言語なので、文字言語としての両国語を理解するためです。

4年生は2が専門必須で3~5の3課目が専門選択です。「日文報刊閲読」は、基本は日本の新聞の読解ためのものですから、最初に日本の新聞に関する概況(種類・特色・紙面・新聞界など)を講義してから、実際の新聞を題材にして授業を進めていきます。原則的に『朝日新聞』の一面・社会面トップ記事(国際記事は除く)をそのままコピーしてテキストとします。見出し・リードはこちらで解説しますが、本文は段落毎に学生に読ませ、かつ質問し内容の理解度を見ます。もちろん解説もします。基本とするのは、文の単なる読解力ではなく、情報の分析のための記事内容理解です。あくまでも、新聞も情報収集の一手段として捉えているわけです。

「商務函電写作」はもともと「写作3」(3年後期)に続くビジネス作文でしたが、卒業生(主に西安交通大学)の私への電子メールが形式など不備がかなりある(例えば、タイトルの付け方)ので、私がその中に電子メールを入れたため、それに特化して模様替えしたものです。『ビジネスマンのための電子メール作法56』(『日経IT21200112月付録)を一応テキストにしますが、これは参考ということになります。最初にパソコン使用の基本マナーとして、セキュリティーの基本を講義します。それから電子メールの基本を説明した後、テキストを参考として、ビジネスメールの発信・受信そして文章と説明していきます。この際には、私のノートパソコンを教室に持ち込み、実際の画面・操作を学生に見せます。残念ながら教室には拡大用の器具がないので不便です。12月には、卒業論文の関係があるので、斉藤孝『学術論文の技法〔第2版〕』1998年日本エディタースクール出版部を題材として、卒論作成の手順を講義します。この時、論文作成のためのWordの操作方法(タブ・脚注・目次作成など)を若干説明します。

「日本文学概論」は最初の6週程度を日本文学史(前近代と近代・現代を各3周程度)とし、私が以前作成した『日本文学史ノート』をテキストとして講義します。次いで、作品鑑賞として、川端康成「伊豆の踊子」の文庫本コピーをテキストに、毎回4頁程度読みます。その際、段落毎を原則として、学生に読ませた後、質問を受け、それから解説をします。本作を選んだのは、学期終了までに読了できるものであること、青春小説の代表作であることなどからです。

「日本経済与貿易」は、宮崎勇本庄真『日本経済図説第三版』2001年岩波新書を題材に、11月末まで1コマ1章のペースで日本経済の概観を講義をします。最後の12月は橋本寿朗『戦後の日本経済』1995年岩波新書のⅢを題材に、高度成長、とりわけその要因に関して特論を行います。

「写作2」および「写作」は同じ内容の授業となります。テキストは『日本語作文Ⅱ』1988年専門教育出版です。卒業後の社会人としての文章作成を見通して、本作分は事実文を基本としています。明解で簡潔な文章です。すなわち、一度読めば理解できる文章を基本とします。最初の時間は自由課題で作文を書いてもらいます。これは手慣らしです。次いで、テキストから順に課題の課を選び、その課にある関連語句などを解説しますが、少し古いので、現在のことも加えます。そして、若干の質問をします。最後に具体的な課題を説明し、翌週までの宿題とします。例えば、「図書館」ならば、「本大学図書館の書籍貸出し手順」という具合です。字数は8001000字程度とします。翌週は前に出した作文に評価と誤謬訂正を付して返すとともに、時間の前半でその総体的な解説を行います。後半は、本多勝一『日本語の作文技術』1982年朝日文庫などを題材に、明解で簡潔な文章を書くための講義を行います。以下この繰り返しとなります。

以上が私の担当している課目の簡単な紹介です。

 なお、成人教育とは、大学統一試験に合格し入学する学部生とは別に、高校卒業レベルの社会人を対象として大学が独自に募集するもので、学部相当の履修課程があり、授業料以下自費負担となり、課程修了後、国家認定試験に合格すると学歴としての大学卒業資格が得られるものです。また、本科は日本の学部生に相当し、4~6年制で、専科は短大に相当し、2~3年制です。

(2005.09.27)

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モバイルデジタル液晶テレビ付バス―成都雑感〔9〕―

以前から成都にはテレビ付の市内バスがありました。今回下の写真でお見せするのは、モバイルデジタル放送を受信する液晶テレビ付の市内バスです。

このモバイルデジタル放送は、2003年1月に上海で試験放送が開始されてから、湖南省長沙・北京・河南省鄭州・江蘇省南京などへと拡大し、全国に普及中のもので、ヨーロッパのDVB-T(Digital Video Broadcasting Terrestrial)方式により送信放送され(その後、中国独自の規格DMB-T―Digital Multimedia Broadcasting for Terrestrial―などが加わりました)、今のところ主に市内バス・タクシーなどが利用しています。それぞれの都市で専門の放送局を設立し、広告収入で運営されていますが、今のところ経営的には厳しいそうです。ヨーロッパ方式はまだEUでは試験中で、中国がいち早く商業化したことになります(日本でも独自の規格―ISDB-T〔Integrated Services Digital Broadcasting Terrestrial〕―を試験中で、携帯電話での普及を考えています)。なお、韓国は衛星経由のモバイルデジタルテレビを実用化しています。

成都移動数字電視台(成都モバイルデジタルテレビ局)がどの方式で何時開始されたかは残念ながら正確なところは分かりませんが(電視台のホームページはないようです)、今年春以前にさかのぼることなく、おそらくこの8月ではないかと思います。

さて写真1は、バス前部の全景です。左の乗客の頭の上に見えるのが液晶テレビです。成都移動数字電視台の放送が流れており、私が乗っているときは音楽番組でした。もちろん、CMも流れて、自社の広告募集もありました。このバスは運転手・車掌とも女性で、これは中国では普通のことです。現在は前乗り後降りとなっており、右の女性の位置が車掌の定位置です。ここで乗車してくる乗客から運賃(2元)を徴収するのです。運転手のパネル板右側は車体後部頂部の監視テレビのモニターです。それから、その右に黄色のポールの上にあるのがICプリペードカード用の料金精算機です。これにカードを近づければ自動的に料金が引き落とされるのですが、1回1人分しか引き落とされないので、複数人の場合はその人数分同じ動作を繰り返さなければなりません。なお、ワンマンバスの場合は、精算機の下の空間に料金箱を設置します。ちょうど横の黄色のポールの高さです。

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写真2は、バス中央から後部にかけてです。オレンジの椅子は高齢者弱者優先席です。この対面が降車ドアーです。市内バスでの椅子がアクリルむき出し(古くは木)であったのが、座面・背面ともクッション付と座り心地が良くなっています。このバスは窓が大型の1枚固定ガラスとなっており、運転手のいる最前部と最後部座席の所だけが開閉可能です。当然ながらエアコン付です。この車内は写真で見るように装飾されおり、これは国慶節(10月1日―中華人民共和国建国記念日)が近いからでしょうか。

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写真3は、東大街停留所で前方から撮った全景です。どちらかといえば全体的に角張ったデザインです(ここ数年の新車は曲線を多用したフォームでした)。このバスは成都自動車の製造です。なお、後方に見えるのは2階建てバスです。

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最後に、この56路バスはノンステップバスといい、先進的なバスが導入されるのが早いようです。56路は九里堤(西南交通大学西門から2つ目)と市南東部の紅砂村公文站を結び、途中、塩市口・東大街と、市の中心部を通り、東大街で下車すると中心繁華街の春熙路(イトーヨーカドー春熙路店もここにあります)です。また、八宝街で降りれば、大学から最も近い大型スーパーのカルフール八宝街店に行けると、便利な路線でよく乗っています。

(2005.09.23)

 

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“九一八”―成都雑感〔8〕―

14時半、突如大学内外にサイレンが鳴り響きました。15時過ぎまで休止2回を挟み3度に渡って5分くらい継続して鳴りました。

今日は、旧暦の8月15日、仲秋節です。私も恒例の月餅を大学から頂戴しました。サイレンはそのためでしょうか。もちろん違います。

1931年9月18日は満州事変勃発の日で、これ以降、1945年8月15日に至るまで、日本が中国に武力侵略をなしたことは歴史的事実です。その日、関東軍高級参謀板垣征四郎大佐・作戦参謀石原莞爾中佐等は、夜10時過ぎ、奉天(現遼寧省瀋陽市)北郊の柳条胡で南満州鉄道を爆破し、これを張学良将軍の東北軍の仕業とする謀略により、戦争の火ぶたを切り、日本は東北3省(遼寧・吉林・黒竜江)を武力占領し、1932年3月1日、所謂満州帝国成立を宣言しました。この満鉄爆破の謀略は敗戦後も長く秘匿され、1951年9月のサンフランシスコ講和条約により日本が占領を終了させ独立した後、当事者の花谷正(満州事変時の関東軍奉天特務機関員・少佐)により真実が明らかにされました。すなわち、中国にとって、9月18日は恥辱の日なのです。また、その長い日本への抵抗の中から現在の中国が生まれたのですから、中国にとって決して忘れてはいけない日なのです。

そのサイレンは、そのためのものとして、鳴らされたものなのです。

中央電視台1頻道(中国中央テレビ総合チャンネル)での夜7時の晩間新聞(夜のニュース)においても、当然ながら74周年を迎えた“九一八”記念行事のニュースを5分以上放映し、各地でサイレンを鳴らしたことを伝えていました。

さりながら、校内を行き来する人々はサイレンが鳴っている時でもいつもと変わりがありません。私の宿舎(4階)の下の池のほとりのベンチでは相変わらず恋人同士が寄り添っていました。その意味では、普段と変わりはないのです。

なお、ここ成都では夕方から雲が出てき、残念なことに仲秋の明月は隠れてしまいました。

(2005.09.18)

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DVDソフト事情(5)日本原版ボックスの海賊版が消えた―成都雑感〔4〕―

4月中旬を境に、日本発売
版を元版とするテレビドラマ・アニメボックスの海賊版新譜が成都の市場より姿を消しました。したがって、去年の夏ドラマが最後となります。夏休みを終り、
電脳街などを見て回りましたが、旧譜が見られるだけで、全く置かなくなった店もあります。これは在庫が切れまた新たな供給がなくなったからかと思います。

日本での放送録画を元版とする海賊版はDVD、圧縮DVDともに木村拓哉の『エンジン』・天海祐希の『離婚弁護士2』などのように春ドラマが何本か出ています。したがって、日本ドラマの供給は日本発売を元版とするものから、放送録画を元版とするものに転換されたことになります。当然ながら、後者は画質がVCD並み、ほとんどが中国字幕固定、一部映像切れなど、品質においてとうてい前者に及びません。一方で、後者は放送終了とともに直ちに市場に出せ、圧倒的なスピードを持っています。

どうして、前者が消えたのでしょうか。その根底には、日本の映像作品が以前より人気がなくなってきたことにあります。このことは映画DVD
海賊版(例えば吉永小百合の『北の零年』の新譜が発売されていることで見るように、日本発売版を元版とするものが現在でも発売されています)の新譜数の減
少に明白に現れています。また店主の話もそれを裏付けています。そして、中国人は高画質より価格を重視していることです。ボックスものの発売が、DVDから圧縮DVDへと主流が移っていること(必ずしも日本ものではなく、全体的な傾向)はこれらのことの反映だと考えます。すなわち、画質はVCD並みですが、DVD1枚6元で2話、圧縮DVD1枚4元で6~8話程度と、1クール・ドラマの場合、DVDで6枚組36元に対して、圧縮DVDで2枚組8元と、圧倒的に圧縮DVDがリーズナブルなのです。多少の品質の問題があってもよいのです。2001年に消えた、ビデオによる放送録画(台湾でのレンタルビデオ用をVCD化したもの)が、昨年からHDレコーダーでの放送録画と進化して、そのルートが定着したことになります。そして、放送録画によるものは何といっても放送終了から1・2週間で市場に出せるという速度の優位があります。日本に関心のある中国の消費者は日本の関係情報を20世紀に比較して早くかつ多く入手しています。その意味からも、スピードを要求されます。以上、品質よりも価格、そして速度が放送録画を元版とする圧縮DVDが中心になってきたと考えます。

(2005.09.14)

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木曽殿源義仲を討ち取ったのは誰か―歴史雑感〔5〕―

1184(元暦元)年正月20日、近江国粟津(大津市)で木曽殿源義仲が、鎌倉殿源頼朝の派遣した東国軍によって戦死したことは周知のことです。では、誰が義仲を討ち取ったのでしょうか。

まず、義仲を討ち取った武士名を載せている史料を示します。

①『愚昧記』元暦元年正月廿日条―九郎義経郎従字石田二郎

②『吾妻鏡』元暦元年正月廿日条―相模国住人石田次郎

③『延慶本平家物語』第五本之九―相模国住人石田小太郎為久

④『愚管抄』第五―(義経郎等)伊勢三郎

なお、『平家物語』諸本では、基本的には、読み本系は石田小太郎為久、語り本系は石田次郎為久となっています。以上により、義仲を討った武士として、石田為久と伊勢三郎との二人が上がります。

『三浦系図』(『続群書類従』第六輯上系譜部所収)によれば、三浦義明の弟芦名三郎為清の子に、三郎二郎為景があり、その子に「号三浦石田次郎」為久がいます。彼には「木曽義仲討取者」との傍注もあり、「石田次郎」とは、相模国愛甲郡石田郷(伊勢原市石田)を名字の地とした三浦一族の石田次郎為久のことであることが分かります。そして、彼はこの義仲討取り関係史料にのみ所見し、以後はその姿を見せません。

「伊勢三郎」は「源義経侍伊勢三郎能盛」(『吾妻鏡』文治元年五月十七日条)とあるように、義経の直臣です。彼は義経の臣の代表の一人として『義経記』にとって欠かせない人物として描かれています。したがって、『愚管抄』の示す義経郎等は間違いのないところです。ただし、彼の出自に関しては確かな史料はなく、その出身は謎であり、また治承・寿永の内乱以前からの臣であるかも明確な史料はありません。その意味で、他の義経の臣、例えば弁慶と同様に謎の人物です。

さて、②以下は第2次史料(後時代史料)であり、当時の大納言三条実房の日記が①で、当然ながら第1次史料(同時代史料)として、①が最も史料的価値が高いものです。この点からいえば、当然なことに①の示す「石田二郎」が義仲を討取った武士となります。このことは②・③の示すものと一致し、すなわち、相模武士の三浦一族の石田次郎為久ということになります。

これで結論が出たようですが、①には彼は「九郎義経郎従」とあります。果たして、石田為久は義経臣なのでしょうか。

考証抜きで結論を述べますが、義仲が戦死した宇治・瀬田合戦を次のように考えます。頼朝の目的は、第1義に京の後白河院の義仲よりの奪還・保護であり、第2義に義仲の打倒です。このため、後白河院側と連絡を密にし、義仲側の状況を上洛軍は熟知していたと考えます。それに基づき、上記の目的を達するために、大手の瀬田で義仲軍主力を拘束している間に、宇治の搦手を撃破し迅速に京都南方より突入し、後白河院を保護・確保し、しかる後に義仲を瀬田方面に追い込み、大手・搦手双方で包囲殲滅する作戦案を立てます。これにより、洛中での戦闘を最小化して、洛中での混乱を最小限とすることで、朝廷の信任と洛中の人心を得られることになります。乱暴な義仲軍との違いを際だたせるわけです。そして、大手には主将源範頼(頼朝異母弟)・副将一条忠頼(甲斐源氏武田信義嫡男)、搦手は主将源義経・副将遠江守安田義定(武田信義弟)の4人の大将軍のもとに編成されて攻撃をかけたのです。

では、大将軍の麾下にはいかなる武士が編成されていたのでしょうか。当然ながら、範頼・義経の元には、己の直臣とは別に、兄頼朝と主従関係にある関東武士が多勢をなしています。彼らの麾下を表示しているのは『平家物語』諸本のみです。『延慶本平家物語』第五本之七により、主要なそれを見てみましょう。大手では稲毛重成(武蔵・秩父一族)、土肥実平(相模・中村一族)、小山朝政(下野・大田一族)です。搦手では畠山重忠(武蔵・秩父一族)、三浦義連(相模・三浦一族)、梶原景時(相模・大庭一族)、佐々木高綱(近江)、渋谷重助(相模・秩父一族)です。

『延慶本平家物語』ではこれに続いて、宇治を突破し京中に突入した義経軍に対して、義仲軍が迎撃したこと記しており、戦闘を交えた武士として、畠山重忠・河越重秀・佐々木高綱・梶原景時・渋谷重国、そして源義経を挙げています。このメンバーは、『吾妻鏡』・『平家物語』諸本によりその名に異同がありますが、基本的には義経が後白河院御所六条殿に参上したとき、随行した5氏族(河越・佐々木・畠山・渋谷・梶原)の武士です。実際には、京中では、義仲軍は非勢のために、抵抗すべくもなく、義仲は東方に敗走しています(『玉葉』元暦元年正月20日条)。洛中での戦闘はなかったといってもいいのが実態ですから、『平家物語』諸本の伝える京中での戦闘は虚構となり、この京中での戦闘に出てくる関東武士は、実は六条殿参上武士への華、いいかえれば義仲への華ということになります。したがって、この5氏族が義経麾下の御家人(頼朝臣)の代表的存在ということになります。

『延慶本平家物語』第五本之九には、瀬田へと落ちた義仲が兵を再結集させて、最後の戦闘を行い、戦死するまでが記されています。最初に当たるのが一条忠頼です。次いで、関東武士の土肥実平・佐原(三浦)義連があげられています。これが実際の戦闘を記したとはいえませんが、瀬田口での戦闘における象徴的存在であると考えます。

以上、『延慶本平家物語』を基本に見てきました。ここで注意されるのは、義経軍の麾下とされる三浦義連が、京都より瀬田へと敗走した義仲を迎撃する武士として登場することです。このことは、急速に洛中に進撃した義経軍が、一方で後白河院を保護するとともに、他方で瀬田へと敗走する義仲を追撃する部隊を放ったことの象徴的記述と考えます。すなわち、洛中に入った搦手軍は、義仲軍の抵抗が微少でかつ義仲が東に敗走したため、主将の義経が麾下の代表的御家人を率いて後白河院の保護に向かうとともに、その主力は義仲追撃へと東に向かったと考えます。その中に三浦義連がいたからこそ、彼の名が瀬田での戦闘に出てくるのです。石田為久は三浦一族の武士ですから、当然ながら義連に属していたことになります。このことは、為久の功はその上長である義連の功、そして義連は義経の麾下ということから、最終的には義経の功ということになります。とすれば、関東の武士団の内部に関する知識のない三条実房が為久を義経郎従と見誤るのも仕方がないことです。

以上により、石田為久は三浦一族の一員として義経麾下の三浦義連に属していたことになります。すなわち、義仲を討取ったのは相模国の豪族三浦氏の一族石田次郎為久です。

なお、付言しますが、院参において関東の4氏族(近江の佐々木を除く)は、『吾妻鏡』元暦元年正月廿日条では、河越重頼・畠山重忠・渋谷重国・梶原景季と、惣領かその嫡男が登場しています。それに対して、三浦氏においては、佐原(三浦)十郎義連が義明の末子であり、兄の惣領義澄・義村父子が、本合戦と次の一谷合戦とも登場しないのです。これらのことは三浦一族がその主力を上洛させずに、関東の守備軍として拘置されていたことを意味します。

(2005.09.09)

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