2008年度前期記事目次

  2008年度前期(1月~6月)の記事目次を掲載します。なお、前回までの記事目次は「ブログ開設1周年記念・記事目次」(20051124日)、「2005年度後期記事目次」(同年1231日)、「2006年前期記事目次」(2006年6月30日)、「2006年度後期記事目次」(同年1231日)、「2007年度前期記事目次」(2007年6月30日)、「2007年度後期記事目次」(同年1231日)です。

 

01.06 寛巷子―成都雑感〔55〕―

01.12 冬休み帰国

03.02 成都に戻る

03.06 成都イトーヨーカドーのエレベーター表示―成都雑感〔56〕―

03.08 成都伊勢丹に「とんかつ和幸」オープン―成都雑感〔57〕―

03.17 本日の春熙路―成都雑感〔58〕―

04.04 中国の祝日―中国雑感〔1〕―

04.14 龍馬古城宝墩遺跡―成都雑感〔59〕―

04.30 停電のイトーヨーカドーと成都伊勢丹―成都雑感〔60〕―

05.01 メーデーの成都市人民公園「鶴鳴茶社」―成都雑感〔61〕―

05.12 成都市地震で揺れる―成都雑感〔62〕―

05.14 四川汶川大地震3日目の西南交通大学九里堤キャンパス―成都雑感〔63〕―

05.15 四川汶川大地震4日目の西南交通大学九里堤キャンパス―成都雑感〔64〕―

05,16 四川汶川大地震5日目の西南交通大学犀浦キャンパス―成都雑感〔65〕―

05.20 四川汶川大地震9日目の西南交通大学九里堤キャンパス―成都雑感〔66〕―

05.21 四川汶川大地震10日目の西南交通大学キャンパス、事実上の休講へ―成都雑感〔67〕―

05.31 中日“四川汶川大地震“災害修復与重建技術交流研討会―成都雑感〔68〕―

06.10 「奥州合戦」における鎌倉幕府軍の構成(その1)―歴史雑感〔8〕―

    一、東山道軍の交名一覧

06.17 寛窄巷子歴史文化保護区修復竣工オープン―成都雑感〔69〕―

(2008.07.05)

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続・日本文化分野での卒業論文題目―成都雑感〔70〕―

 6月30日、卒業式も終え、4年生は学巣を飛び立っていきます。そこで、「日本文化分野での卒業論文題目」(2005年5月17日付)から3年経ちましたので、これ以降の論文題目を付け加えて、改めて私の指導担当した卒業論文全題目を提示します。7年間で、全38編(2002年7編・2003年6編・2004年5編・2005年6編・2006年4編・2007年5編・2008年5編)です。

〈経済関係〉6編

戦後日本経済の高度成長の要因としての科学技術

日本における終身雇用制

松下電器の分析から終身雇用の未来を見る―改革は破壊ではなく、再伸である―

バブル経済下の日本経済

90年代後半の日本単身世帯の消費行動

90年代後半以降の日本の対アセアン貿易政策の変化

〈経済文化関係〉3編

伝統的心理の日本の企業文化への影響※

日本の企業倫理と社会的責任※

日本企業文化の儒教思想とその利害※

〈社会関係〉8編

「家」から見た日本人の集団意識

戦後日本の家庭構成の変化

現代中日女性地位の比較

中日高齢者生活の比較

日本人の清潔と清潔感

現代日本人の自殺について※

日本のコメ保護政策※

日本の自然災害と日本人の性格について※

〈教育関係〉1名

日本の小学校教育

〈宗教・思想関係〉6編

仏教思想の日本人生活への影響

中日死生感の比較

盂蘭盆会と日本人の死生観

戦後における日本人の宗教意識変容について

江戸時代の儒学思想とその影響

中江兆民の見る西洋自由民主主義とその儒学の必然性※

〈文学関係〉3編

『個人的な体験』から見た大江健三郎の心霊の遍歴

中国での村上春樹ブームの原因の考察―『国境の南、太陽の西』をめぐって―

夏目漱石の「こころ」から見た「自己本位」思想※

〈マンガ関係〉2編

文化としての日本マンガ

中国青少年に対する日本漫画の影響※

〈言語文化関係〉4編

日本の若者語考

中日外来語の比較

日本語色彩語の研究※

日本語における婉曲表現とその文化的背景※

〈その他〉5編

中日古典庭園芸術の比較

中日酒文化の比較

現代日本の歌舞伎と中国の京劇※

曹操と織田信長の比較※

東山魁夷の作品における日本的輝く生命の姿※

以上です。※は2006年以降の卒論題目です。なお、この年から経済関係が論題から外されたため、この関係が経済文化関係となりました。ともあれ、時代的には古代から現代、分野的には経済・社会・思想・歴史・文学・言語などと多岐にわたっており、学生の関心の広さを示しています。

(2008.07.01)

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寛窄巷子歴史文化保護区修復竣工オープン―成都雑感〔69〕―

 

「寛窄巷子―成都雑感〔55〕―」(2008年1月6日付)で紹介した寛窄巷子歴史文化保護区の修復が一応なり、6月14日(土)、中国文化遺産日に合わせ、成都市は「守望家園―寛窄巷子歴史文化保護区修復竣工并対公衆開放」儀式を行い、市民に開放されました。四川汶川大地震から1か月あまりを経て、成都市観光の再開を盛り上げるイベントでもありました。この寛窄巷子は、成都市中心の天府広場から西に約1キロ余、蜀都大道の金河路の北に位置し、長順上街(東)・下同仁路(西)に東西を挟まれた、北から順に寛巷子・窄巷子・井巷子という3本の小街路からなります。この辺り一帯は清朝時代に満州八旗の居住したところで、少城と称されており、清朝時代の支配層地区で、現在でも清朝末期・中華民国期の四合院造の住居などが残っています。いわば昔の成都を偲ばせる街です。ここは2004年から新観光スポットとして再開発されると同時に、街並み保存して保護を加えたのです。この点で、武侯祠隣の錦里とは異なります。なお、最寄りのバス停は長順上街站(62・70・93・163・340路)です。

この日はちょうど4年生の卒業論文答弁会と重なりましたので、翌々日の16日に出かけてみました。月曜という平日にもかかわらず、市民で賑わっていました。保存・保護と同時に、観光スポットとしても再開発されて、レストラン・茶館・喫茶店・土産物店などが軒を連ねて開店しました。まだ、窄巷子などでは工事が完成しておらず、これから開店する店もかなりあります。その一つが、武侯祠隣の錦里にも出店している、スターバックスコーヒー店です。錦里と比較してみると、こちらの方が広くゆったりとしていますが、今のところ小吃類は少なく、これらの食べ歩きは劣ります。

さて、写真1は、長順上街から寛巷子へ入って少し行ったところ、南面の「寛巷子」額のかかった民家です。ここのように門扉には彩色された絵が修復再現されています。

080616寛窄巷子 007

さらに少し行くと、北面に「徳門仁里」とある四合院造り2階屋があります。ここは、李家の民居で、家具調度などを整え、1935年当時の様子を再現しています。写真2はこの様で、これは2階奥東側の「長輩房」、すなわち李家主人の父の部屋を再現したもので、ご覧のように成都人の好む麻雀を打っているところです。主人夫婦と父の3人麻雀です。

080616寛窄巷子 013

写真3は、その茶を喫させるところの一つ、「茶馬古道」です。これは李家の四合院とは異なり庶民の2階屋で、再開発以前から住民が営業していたお店です。このように、路上で竹椅子にゆったりしながら茶を喫して、成都庶民の生活が味わえるところです。別のところでは、やはり麻雀を打つグループを見かけました。なお、茶馬古道とはチベットへの古の街道で、茶を馬で運搬したことから名がおきました。

080616寛窄巷子 037

最後の写真4は、窄巷子の西側辺の北に面する民家です。ここは現に住民がおり、門横の塀には、「参観謝絶」の掲示が出ています。過半の民居は店や展示館へと変わりましたが、このように少数ながらそのまま居住を続けている家もあり、生活臭もあるのです。以上のほか、フォトアルバム「寛窄巷子」には多数の写真を載せてありますから、これもご覧ください。

080616寛窄巷子 055

なお、寛巷子にはバックパッカー御用達のゲストハウスとして名高い、「龍堂客棧」(2002年開業)があります。

(2008.06.16)

 

〔追記〕 フォトアルバム「成都・寛窄巷子」は、https://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngrNE-7A2LvxaEbuGDwです。

(2011.09.29)

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「奥州合戦」における鎌倉幕府軍の構成(その1)―歴史雑感〔9〕―

      (その1)一、東山道軍の交名一覧

      (その2)二、交名の国別構成

      (その3)三、交名の門葉構成

      (その4)四、交名の武士御家人構成

一、東山道軍の交名一覧

 1189年、鎌倉幕府は奥州平泉藤原政権を打破すべく、全国動員をかけて奥羽に侵攻しました。侵攻軍は三手に分かれて、それぞれ東海道軍(大将軍千葉常胤・八田知家)は常陸国から陸奥国浜通へ、北陸道軍(大将軍比企能員・宇佐美実政)は越後国から出羽国念珠ヶ関へ、そして大手軍たる東山道軍は鎌倉殿源頼朝自身が率いて陸奥国白河関へと向かったのです。この主力たる東山道軍に関しては、『吾妻鏡』文治五年七月十九日条に、頼朝の鎌倉進発の「御供輩」144名の交名が載せられています。これに先陣を承った畠山重忠を加えれば、当該期の鎌倉幕府軍主力の構成が理解できることになります。すでに、「武蔵武士足立遠元(その6)―歴史雑感〔6〕― 六、頼朝期における遠元(中)―奥州兵乱と第一次建久上洛―」((2005年12月25日付)において、本ブログでは足立遠元と安達盛長に関連して簡単な分析をおこなっています。そこで、改めて、本交名全体を分析対象として、1189年段階における鎌倉幕府軍の構成を考えてみたいと思います。

 まず、『吾妻鏡』同日条に載せる交名を先頭から順に示します。最初に、『吾妻鏡』記載名を、括弧内に当人の名字実名と出身国出自を記してあります。

1.武蔵守義信(平賀義信・義光流信濃源氏)

2.遠江守義定(安田義定・義光流甲斐源氏)

3.参河守範頼(源範頼・頼朝異母弟)

4.信濃守遠光(加々美遠光・義光流甲斐源氏)

5.相摸守惟義(大内惟義・義光流信濃源氏)

6.駿河守広綱(源広綱・頼光流馬場源氏)

7.上総介義兼(足利義兼・義国流下野源氏)

8.伊豆守義範(山名義範・義国流上野源氏)

9.越後守義資(安田義資・義光流甲斐源氏)

10.豊後守季光(毛呂季光・藤原季仲子孫)

11.北条四郎(北条時政・伊豆国北条氏族)

12.同小四郎(北条義時・伊豆国北条氏族)

13.同五郎(北条時房・伊豆国北条氏族)

14.式部大夫親能(藤原親能・文吏僚)

15.新田蔵人義兼(新田義兼・義国流上野源氏)

16.浅利冠者遠義(浅利長義・義光流甲斐源氏)

17.武田兵衛尉有義(武田有義・義光流甲斐源氏)

18.伊沢五郎信光(伊沢信光・義光流甲斐源氏)

19.加々美次郎長清(加々美長清・義光流甲斐源氏)

20.同太郎長綱(加々美長綱・義光流甲斐源氏)

21.三浦介義澄(三浦義澄・相模国三浦氏族)

22.同平六義村(三浦義村・相模国三浦氏族)

23.佐原十郎義連(佐原義連・相模国三浦氏族)

24.和田太郎義盛(和田義盛・相模国三浦氏族)

25.同三郎宗実(和田宗実・相模国三浦氏族)

26.岡崎四郎義実(岡崎義実・相模国三浦氏族岡崎流)

27.同先次郎惟平(岡崎惟平・相模国中村氏族土肥)

28.土屋次郎義清(土屋義清・相模国三浦氏族岡崎流)

29.小山兵衛尉朝政(小山朝政・下野国太田氏族小山流)

30.同五郎宗政(長沼宗政・下野国太田氏族小山流)

31.同七郎朝光(結城朝光・下野国太田氏族小山流)

32.下河辺庄司行平(下河辺行平・下総国太田氏族下河辺流)

33.吉見次郎頼綱(吉見頼綱・武蔵国)

34.南部次郎光行(南部光行・義光流甲斐源氏)

35.平賀三郎朝信(平賀朝信・義光流信濃源氏)

36.小山田三郎重成(稲毛重成・武蔵国秩父氏族畠山流)

37.同四郎重朝(榛谷重朝・武蔵国秩父氏族畠山流)

38.藤九郎盛長(安達盛長・武蔵国足立氏族)

39.足立右馬允遠元(足立遠元・武蔵国足立氏族)

40.土肥次郎実平(土肥実平・相模国中村氏族土肥流)

41.同弥大郎遠平(土肥遠平・相模国中村氏族土肥流)

42.梶原平三景時(梶原景時・相模国鎌倉氏族梶原流)

43.同源太左衛門尉景季(梶原景季・相模国鎌倉氏族梶原流)

44.同平次兵衛尉景高(梶原景高・相模国鎌倉氏族梶原流)

45.同三郎景茂(梶原景茂・相模国鎌倉氏族梶原流)

46.同刑部丞朝景(梶原朝景・相模国鎌倉氏族梶原流)

47.同兵衛尉定景(梶原定景・相模国鎌倉氏族梶原流)

48.波多野五郎義景(波多野義景・相模国波多野氏族)

49.波多野余三実方(波多野実方・相模国波多野氏族)

50.阿曽沼次郎広綱(阿曽沼広綱・下野国淵名氏族足利流)

51.小野寺太郎道綱(小野寺道綱・下野国首藤氏族)

52.中山四郎重政(中山重政・武蔵国秩父氏族?)

53.同五郎為重(中山為重・武蔵国秩父氏族?)

54.渋谷次郎高重(渋谷高重・相模国秩父氏族渋谷流)

55.同四郎時国(渋谷時国・相模国秩父氏族渋谷流)

56.大友左近将監能直(大友能直・相模国)

57.河野四郎通信(河野通信・伊予国)

58.豊島権守清光(豊島清光・武蔵国秩父氏族豊島流)

59.葛西三郎清重(葛西清重・下総国秩父氏族豊島流)

60.同十郎(下総国秩父氏族豊島流)

61.江戸太郎重長(江戸重長・武蔵国秩父氏族江戸流)

62.同次郎親重(江戸親重・武蔵国秩父氏族江戸流)

63.同四郎重通(江戸重通・武蔵国秩父氏族江戸流)

64.同七郎重宗(江戸重宗・武蔵国秩父氏族江戸流)

65.山内三郎経俊(山内経俊・相模国首藤氏族山内流)

66.大井二郎実春(大井実春・武蔵国紀氏)

67.宇都宮左衛門尉朝綱(宇都宮朝綱・下野国宇都宮氏族)

68.同次郎業綱(宇都宮業綱・下野国宇都宮氏族)

69.八田右衛門尉知家(八田知家・常陸国宇都宮氏族)

70.八田太郎朝重(八田朝重・常陸国宇都宮氏族)

71.主計允行政(二階堂行政・文吏僚)

72.民部丞盛時(平盛時・文吏僚)

73.豊田兵衛尉義幹(豊田義幹・常陸国大掾氏族)

74.大河戸太郎広行(大河戸広行・武蔵国太田氏族大河戸流)

75.佐貫四郎広綱(佐貫広綱・上野国淵名氏族佐貫流)

76.同五郎(上野国淵名氏族佐貫流)

77.同六郎広義(佐貫広義・上野国淵名氏族佐貫流)

78.佐野大郎基綱(佐野基綱・下野国淵名氏族足利流)

79.工藤庄司景光(工藤景光・伊豆国工藤氏族工藤流)

80.同次郎行光(工藤行光・伊豆国工藤氏族工藤流)

81.同三郎助光(工藤助光・伊豆国工藤氏族工藤流)

82.狩野五郎親光(狩野親光・伊豆国工藤氏族狩野流)

83.常陸次郎為重(伊達為重・常陸国伊佐氏族)

84.同三郎資綱(伊佐資綱・常陸国伊佐氏族)

85.加藤太光員(加藤光員・伊勢国)

86.同藤次景廉(加藤景廉・伊勢国)

87.佐々木三郎盛綱(佐々木盛綱・近江国佐々木氏族)

88.同五郎義清(佐々木義清・近江国佐々木氏族)

89.曽我太郎助信(曽我助信・相模国)

90.橘次公業(小鹿島公業・伊予国)

91.宇佐美三郎祐茂(宇佐見祐茂・伊豆国工藤氏族宇佐美流)

92.二宮太郎朝忠(二宮朝忠・相模国中村氏族)

93.天野右馬允保高(天野保高・伊豆国)

94.同六郎則景(天野則景・伊豆国)

95.伊東三郎(伊豆国工藤氏族伊東流)

96.同四郎成親(伊東成親・伊豆国工藤氏族伊東流)

97.工藤左衛門祐経(工藤祐経・伊豆国工藤氏族宇佐美流)

98.新田四郎忠常(新田忠常・伊豆国)

99.同六郎忠時(新田忠時・伊豆国)

100.熊谷小次郎直家(熊谷直家・武蔵国私市党)

101.堀藤太(伊豆国)

102.同藤次親家(堀親家・伊豆国)

103.伊沢左近将監家景(伊沢家景・文吏僚)

104.江右近次郎(大江久家・文吏僚)

105.岡辺小次郎忠綱(岡部忠綱・駿河国)

106.吉香小次郎(駿河国)

107.中野小太郎助光(中野助光・信濃国)

108.同五郎能成(中野能成・信濃国)

109.渋河五郎兼保(渋河兼保・上野国)

110.春日小次郎貞親(春日貞親・信濃国)

111.藤沢次郎清近(藤沢清近・信濃国)

112.飯富源太宗季(飯富宗季・元平家家人)

113.大見平次家秀(大見家秀・伊豆国)

114.沼田太郎(相模国or上野国?)

115.糟屋藤太有季(糟屋有季・相模国)

116.本間右馬允義忠(本間義忠・相模国)

117.海老名四郎義季(海老名義季・相模国)

118.所六郎朝光(佐藤朝光)

119.横山権守時広(横山時広・相模国横山党)

120.三尾谷十郎(武蔵国)

121.平山左衛門尉季重(平山季重・武蔵国西党)

122.師岡兵衛尉重経(諸岡重経・武蔵国秩父氏族)

123.野三刑部丞成綱(小野成綱・武蔵国猪俣党?)

124.中条藤次家長(中条家長・武蔵国横山党)

125.岡辺六野太忠澄(岡辺忠澄・武蔵国猪俣党)

126.小越右馬允有弘(越生有弘・武蔵国児玉党)

127.庄三郎忠家(庄忠家・武蔵国児玉党)

128.四方田三郎弘長(四方田弘長・武蔵国児玉党)

129.浅見太郎実高(浅見実高・武蔵国児玉党)

130.浅羽五郎行長(浅羽行長・武蔵国児玉党)

131.小代八郎行平(小代行平・武蔵国児玉党)

132.勅使河原三郎有直(勅使河原有直・武蔵国丹党)

133.成田七郎助綱(成田助綱・武蔵国)

134.高鼻和太郎(武蔵国)

135.塩屋太郎家光(塩谷家光・武蔵国児玉党)

136.阿保次郎実光(安保実光・武蔵国丹党)

137.宮六傔仗国平(元平家家人?)

138.河勾三郎政成(河匂政成・武蔵国猪俣党)

139.同七郎政頼(河匂政頼・武蔵国猪俣党)

140.中四郎是重(中原惟重・文吏僚)

141.一品房昌寛(僧侶)

142.常陸房昌明(僧侶)

143.尾藤太知平(尾藤知平)

144.金子小太郎高範(金子高範・武蔵国村山党)

以上、144名です(『吾妻鏡』は4名列記で記しています)。交名の前に、地の文として、従軍5騎―長野重清(弟)・大串重親(武蔵国横山党)・本田近常(武蔵国丹党)・榛沢成清(武蔵国丹党)・柏原太郎(武蔵国丹党)―らを率いる「先陣」畠山重忠(武蔵国秩父氏族畠山流)が記してあります。この先陣に続いて、頼朝自身が進み、後に供輩が続き、鎌倉出陣の総勢千騎となっています。

 畠山重忠を含め145名の分析においては、詳細な考証を避け、結論を主体として述べていきます。

(続く)

(2008.06.10)

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中日“四川汶川大地震”災害修復与重建技術交流研討会―成都雑感〔68〕―

 5月31日(土)、西南交通大学鏡湖賓館多功能庁において、「中日“四川汶川大地震”災害修復与重建技術交流研討会(ワークショップ)」が行われました。9時過ぎに開会され、昼食を挟んで、予定時間を超え、1910分過ぎに閉会しました。日中から百名を超える参加者がありました。午前に6人・午後に10人と計16人の報告があり、日本側は5人・中国側11人でした。今回のワークショップは、本地震に伴い、日本で日本土木学会・建築学会・地震学会・地質学会など8学会合同の「四川汶川大地震復旧技術支援連絡会議」の先遣調査団として、5月28日~6月1日の予定で、地震被災地の各種調査のため成都入りした、団長早大教授浜田政則氏以下の調査団と中国側の関係研究機関の専門家との合同検討会として行われたものです。これは復旧作業に対するこれからの日本側の専門的支援の第一歩となるものです。

 会場のホテル前には、写真1の如く、本ワークショップ歓迎を示す掲示が出されました(右は本ホテルに調査団が宿泊しているので、その歓迎です)。

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 オープニングでは全員が1分間の黙祷をした後、大学・成都市の祝辞となり、写真2に見るように、調査団団長浜田氏の祝辞により、オープニングを終えました。

s-080531中日“四川地震”災害復旧ワークショップ 004

 成都市計画局の技師長厳春風氏の「成都市5.12震災後の復旧技術原則の研究」と題する報告で、ワークショップに入りました。写真3は、午前最後の報告で、東大地震研究所教授纐纈一起氏の「2008年四川地震の引き起こした強震」と題するものです。

s-080531中日“四川地震”災害復旧ワークショップ 008

 午後は、西南交通大学土木工程学院院長李喬教授の「橋梁構造地震災害分析と提案」と題する報告で始まりました。実は、西南交大はその前身である唐山工業専門学校(原山海関北洋鉄路官学堂)時代から、土木工学の先進校としての伝統があり、この関係からも日本の学会と繋がりがあり、今回の調査団の担当は当院がしています。写真4は、午後の途中休憩後、場所を移して2階より撮ったもので、成都市山地災害研究所研究員の何思明氏の「汶川の典型的地滑りの紹介」と題する報告で、見にくいでしょうが、スクリーンに地滑りの写真が写っているのがお分かりでしょうか。最後に、団長の浜田教授の総括的な締めの言葉で、本ワークショップを終えました。

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 以上、本ワークショップは、中国側は地震災害の現地調査結果の報告を主として、日本側は主として日本における震災復旧の実例を主として報告しました。日中双方への翻訳時間の関係もあり、報告で時間が手一杯となり、討議に至らなかったことは残念なことです。この意味で、焦点を絞った問題点とそれに関する報告で、討議時間が取れればよかったとも思っています。しかし、これほどの大地震ともなると問題点も多岐にわたり、わずか2日間の調査日時では、本ワークショップにこれを絞るのは酷かも知れません。いずれにしても、日中両国の専門家がどうどうしてかかる調査と検討会を開けたことは、今後の震災復旧にとって、よき道を開くものと思っています。

 (2008.05.31)

〔付記〕  西南交大は中華人民共和国建国以来の2度の大地震、1976年の唐山地震と今回の四川汶川大地震を経験した唯一の高等教育機関です。1986年創設の山海関北洋鉄路官学堂を出発点とする西南交大は、その後唐山に移転し、合併などの幾多の変遷はありましたが、1952年、唐山鉄道学院として独立します。この間一貫して基幹キャンパスは唐山です。そして、1972年、四川省の峨眉山麓に全キャンパスを移転し、現名称の西南交通大学となります。しかし、移転業務の完了を前に、唐山キャンパスが1976年の唐山地震に見舞われたのです。もちろん、これで壊滅的被害を受け犠牲者を出しました。今回の地震も、被害こそ軽微でしたが、やはり地震に見舞われたことに変りはありません。まさに、このような経験を持つ機関はほかにないと思います。それに、中国の土木工学(橋梁)の第一人者であった茅以升(19961989)は本校の卒業生であり教授でもありました。これらの歴史的環境を鑑みますと、本学が今回の地震における復興活動においてその力量を尽くせるものと信じます。(2008年6月1日)

カテゴリー: 四川汶川大地震 | 2件のコメント

四川汶川大地震10日目の西南交通大学、事実上の休講へ―成都雑感〔67〕―

 キャンパス内には相変わらずテントが溢れ、この数を減らしていません。

 本日(21日)、大学は「西南交通大学整本学期教学划的通知」と題する通知を出し、事実上4週間休講にします。具体的にいうと、「第1に、3年生以下は、夏休みの実習〔実践〕期間(本来7月初旬)を、5月26日(月)~6月22日(日)の4週間に前倒しし、その後、23日(月)から講義を再開する。第2に、4年生は本来の予定に従って、卒業論文を完成、卒業論文答弁会を行う。そして、2223日は休講を継続する」ということです。したがって、3年生以下は実習という名目での事実上の休講ということになります。このため、本日午後、日本語学科の学生は招集され、この期間の注意事項を申し渡され、連絡先を全員登記しました。この措置は、すでに一部の学生が離校するなどし、学内に不安感が広がっているなど、正常な教育条件に欠ける面がある、と大学当局が判断した結果と思います。いわば、89年の6月以降にとられた措置と類似したものとなっています。まさに、異常事態といえます。

(2008.05.21)

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四川汶川大地震9日目の西南交通大学九里堤キャンパス―成都雑感〔66〕―

 すでに地震発生から9日目(20日)に入りました。報道の如く、昨日1428分、中国全土では地震犠牲者への黙祷を行いました。本学でのサイレンは約1分前には鳴り出し慌てさせましたが、全学が黙祷しました。

 さて、第2週に入り、成都市内は落ち着いているように見えます。インフラ・住居などのハード面は確かにそうです。基本的に問題ありません。しかし、ソフト、心的な面はまだまだです。これを如実に現したのが昨晩からの出来事です。

 昨晩23時過ぎ、宿舎の服務員がドアを叩き、1920日に余震があるから避難せよと告げました。これから少し経ち、外事処副処長らが来、1920日にM6~7の余震があるから戸外へ避難せよと告げました。すでに、四川テレビのテロップで、四川地震局のこの余震注意喚起と安全対策をとるように、との情報に接していましたので、この件と分かりました。地震当日と同様に、自己責任で自室に残りました。さらに、日本語学科主任からの電話で、全学休講と告げられました。寝る前(20日1時)に、外に出てみると、宿舎前の中庭には欧米の留学生たちが立ったまま退避していました。

 本日は休講となり、午前、キャンパス内を歩くと、地震発生翌日以上にテントが目立ち、道路には駐車中の車が目立ち、中で過ごす人も目立ちました。まだ多くの学生が大学の設置した仮設テント内で布団の上で過ごしていました。場所によっては、どこから持ち込んだのか知りませんが、地面にレンガを敷き詰め、この上に蓆・布団を敷いていました。

 この余震注意報による退避騒ぎは、成都市全域に発生し、多くの市民が戸外で過ごし、市中心広場の天府広場は退避した市民のテントで埋まりました。これのみならず、昨晩の卒業生からの電話で、遠く重慶市でも発生したことを知りました。

 本日の新聞『成都商報』には、余震関係の記事として、1面に20日付「成都市抗震救災指揮部・通告」を載せ、この通告で、余震情報を告げるとともに、この余震で成都市内に大きな被害は与えないから、市民は慌てる必要がない、との専門家意見を添えています。さらにその下に、専門家の余震に関する解説談話を載せて、安心を促しています。また、別面では住居の安全策を解説し、「貼紙法」という、壁にひび割れなどの被害を受けた建物が余震などでこれ以上危険であるかどうかの判別法を述べています。結論として、成都市内の建物の絶対多数は安全であるとしています。

 以上の騒ぎは、未だ成都市民が地震に対して恐怖心を抱えており、人心が安定していないことを示しています。今回の地震で、中国中央テレビ(CCTV)はじめ、四川・成都テレビはいわゆる検閲なしの実況中継体制をとっています。余震情報にしても、発表されます。しかし、市民はこのような報道に接したことがありません。統制されていた報道が急に統制から放たれたことに、むしろ戸惑いの色を見せているといっていいでしょう。まだ、報道を心から信じられないといったところです。このことと、地震に対する基本知識の欠如から、疑心暗鬼な過剰反応となると思います。これは市民のみならずより上の層でも同様なのです。

 最後に、本余震に関する、新華社サイトでの報道原文を載せておきます。

新華網成都5月19日電 據四川省地震局消息,汶川余震活動水平為6-7級左右,5月19日至20日汶川地震區附近余震發生的可能性較大。有關公告提醒,當地各級政府要視情況做好地震應急預案,廣大群眾要做好防震避震準備。

 

080520成都商報 003

(2008.05.20)

〔追記〕  夕方学内を散歩しました。。午前に比して、テント・路上停車ともに増えています。商店の多くはシャッターを下ろし休業中です。しかし、中国ではおなじみの赤・青・白3色の包装用シートを売る店には客が並んでいます。手製テントを作るためです。こうしてみると、今晩も多くの市民・学生が戸外で過ごすことになります。明日も休講です。(18時50分)

 

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四川汶川大地震5日目の西南交通大学犀浦キャンパス―成都雑感〔65〕―

 本日午後(16日)から犀浦キャンパスで3年生「作文Ⅲ」「日本経済と貿易」の講義あり、出かけました。そこで同キャンパスの四川汶川大地震の影響を写真でお目にかけます。

 写真1は、正門から左に教学館前に広がる庭の芝生上に張られた学生のテント群です。一昨日に比して減ってはいますがまだまだ多くのテントが張られています。手前に見えるのは宣伝用のパラソルで、後方のテントは梱包用布を利用したお手製のテントです。なお、九里堤キャンパスの仮設テントは本日も健在です。

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 写真2は、1号教学館を入り、中庭にある階段の所です。このゴミは各階で剥離した壁のモルタル・漆喰です。講義再開のため教学の清掃の結果出てきたものでしょう。随所で剥離が起きたことが分かります。

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 写真3は、2階の校舎を結ぶ回廊部分の柱の様子です。

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 次いで、写真4は、同じく最上階の5階部分です。両者をご覧のように、回廊の柱・校舎の接合部分で、2階では回廊側の柱のモルタルが見事に剥離落下してしまい、5階では剥離で両者の接合に隙間が出来外が見える状態になっています。また、両者とも天井版が相当破損・落下したことが分かります。やはり接合部として振動が厳しかったことが分かります。

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 写真でお見せするのは以上です。1号館を見た範囲では写真3・4がもっとも目に付くものでした。階段部などには壁にひび割れが見えましたが、これもモルタル内部止まりでした。廊下の天井の一部に破損が見られますが、教室内は床部(コンクリート)が天井ともなっているので、壁・天井とも破損は見られませんでした。総じていえば、壁の破損は表面部のみで本体に破損はないようです。柱に関しても写真にみる所を除いて、ほかには祖損は見られませんでした。ガラス窓に関してはまったく破損は見られませんでした。こうしてみると、建物本体に打撃を与える被害は被ってはおらず、被害は表面的なもので、軽微といえるでしょう。なお、学生の話では、被害が最も大きいのは昨年に完成したばかりの図書館だそうです。

 学生の話では、地震当日は授業中で、みな教室を出、あわてて階段を駆け下り、外に逃げ出したとのことです。その後、戸外で一夜を明かし、ほとんど眠れなかったとのことです。そして、地震の体験は全員が初めてでした。

 以上、ようやく大学もほぼ正常化したので、地震関係の記事は、特段のことがない限り、これで終了させていただきます。

(2008.05.16)

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四川汶川大地震4日目の西南交通大学九里堤キャンパス―成都雑感〔64〕―

 本日から講義再開です。私は木曜日はない日なのでのんびりといったところです。午前、郵便物を見に、外国語学院の入っている中心教学楼に行ってきました。帰りに、9階の日本語学科研究室を覗いてみました。室内に変化はなく、わずかに本棚に積み重ねてある本の一部が崩れかけていたのが地震の影響といえばいえます。ですが、廊下の壁は所々目立たないですがひび割れを生じていました。壁の漆喰の剥がれはひび割れに比してほとんどありませんでした。ひび割れも壁部分のみで、柱部分には発見できませんでした。壁のひび割れは2階部分でも見ることが出来ましたから、高層のみならず低層にも及んでいる広範囲なものです。他方、中心教学楼のガラス窓には全くの損傷はありません。

 ご承知かも知れませんが、中国の建築物ではビルでも、壁は煉瓦をただ積み上げてこの上に漆喰を塗って仕上げとしています。当然ですが、壁には芯は入っていません。ですから、壁は振動に弱いのです。逆にいうと、日本のビルで壁にひびが入る危険性のレベル以下で中国ではひびが入るのです。したがって、柱本体に何らかの損傷がない限り、壁自体の損傷に驚くことはないのです。簡単に中国の壁は損傷します。私の宿舎は今回の地震でまったく損傷しませんでした。しかし、普段のドアの開閉の影響でしょうか、部屋によってはドア回りの壁が前から破損しています。また、私の部屋もそうですが、壁の漆喰の一部に以前からの剥離が見られます。このことは施工と材料に問題があることを示しています。これが中国の建築物の現状です。外観にごまかされてはいけません。

 こんなわけで、大学内の建物に地震による被害が出たことは明瞭ですが、基本的に危険なものではありません。ただ、エレベーターは点検が終了していないので、本日も停止で、新宿の11階の部屋に居住して以来数十年ぶりの10階までの階段上りとなりました。

 バスケットボール場の仮設テントは相変わらずそのままで、昨日よりは多くの学生が布団を敷いてこの中にいました。

 商店街はほぼ完全に営業していました。ここで目立ったのは、食品関係の店には大量のミネラルウォーターペットボトルが置かれていたことです。とりわけ、スーパーでは店内のみならず、歩道上にうず高くペットボトルを置き、それも箱から出したままの梱包された状態販売していました。実は、本日の『朝日新聞』のサイトでも報道されたように、昨日成都市内を一つの噂(デマ)が流れました。震源地近くの化学工場が被害を受け有毒物質が岷江に流れ込み、成都市の水道が15時から止まるというデマです。私の所へもその直前学生からこの電話を受けました。このデマで成都伊勢丹などでは高級ミネラルウォーターまで完全に品切れになりました。このデマに対して当局では打ち消しのニュースを流しました。そして、品切れがないように急遽全市の商店にミネラルウォーターを供給したのでしょう。それでも、この日、自動車に大量のミネラルウォーターを買い込んで積み込む人を見かけました。

 すでに、スーパー横には、義援金と救援物資を受け付けるコーナーが設置され、ひっきりなしに、学生が梱包した救援物資を持ち込んだり、義援金に応じたりしていました。

 以上が昼間のキャンパスの様子です。こうしてみると、私の宿舎は地震で揺れこそしましたが、まったく被害はなく、電気・水道などのライフラインも正常で、成都市でもっとも地震の影響を受けなかったといえましょう。

(2008.05.15)

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四川汶川大地震3日目の西南交通大学九里堤キャンパス―成都雑感〔63〕―

 地震3日目、昨日からの雨は午前ようやく止み、午後には青空が出てきました。

 昼食がてら、西南交通大学九里堤キャンパスを歩きました。本日も大学は休講です。昨日は本キャンパスは被害を受けていないと記しましたが、実は、20階建ての中心教学楼の壁の一部に亀裂が入ったそうです。このため建築学科などの専門家が点検に入っているそうです。これらの点検が終わり安全が確認されるまでは休講ということになります。また、郊外の浦キャンパスの校舎では外部はそれほどでもありませんが、内部では天井の落下や壁剥離、それに亀裂も生じたそうで、被害状況は本キャンパスよりひどく、修理の必要があり、このため講義再開が本キャンパスより遅れることになります。なお、私のいる鏡湖賓館別館(4階建て)は壁漆喰などの剥がれなどもまったく見えず、被害は受けていません。

 写真1は、バスケットボール場に設けられた仮設テント群です。これは昨日昼には見かけなかったものです。昨日はここには学生たちが自分で思い思いのテントを張っていました。中にはわずかな学生がいるのみでしたが、どうやら、夜間の学生就寝用に大学当局が設置したようです。まだ、危険と見て、夜間は学生は戸外避難ということです。

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 写真2は、北門への道の歩道上に避難した学生です。昨日はこの歩道上に多数の避難民がゴザを引いていました、今日はごくわずかでした。ここは商店街に当り、アーケードがかかり雨よけにちょうどいい場所です。

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 写真3は、その商店街の様子です。昨日は異なり、ほとんどの商店が営業を再開しています。が、ご覧のようにシャッターを閉めたままの店もあります。ちょうど、その場所では一人用テントを張って避難している人がいます。もしかするとこの店関係の人かも知れません。

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 写真4は、本日の新聞『成都商報』の1面です。全16頁中、地震関係記事で11頁(広告2頁)を占め、いわば地震一色といった感じです。少し見にくいでしょうが、汶川県城に救援隊(武装警察先遣部隊)が昨晩に到着したことを大見出しで告げ、綿陽市北川県での人民解放軍兵士が被災民を救助搬送している写真を中央に大きく載せています。そうじて、救援に全力尽くしており、軍関係がその第一線に立っていることを示すようになっています。

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 最後に、『新華網』「汶川地震抗震抗災特別報道」(http://www.xinhuanet.com/politics/kzjz/)上の最新(14時現在)の「四川震情動態示意図」を張り込んでおきました。

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(2008.05.14)

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成都市地震で揺れる―成都雑感〔62〕―

 本日(12日・月曜日)、四川省で地震が発生しました。中国地震局発表によると、

発生時間 1428

震源地  北緯31度 東経103.4

規模   M7.8

です。

 以上の発表から、震源地は成都市西北約75kmのアバチベット族羗族自治州汶川県漩口鎮付近と考えます。当鎮から西約20kmに、世界遺産になった臥龍パンダ保護地区の所在地、臥龍鎮があります。また、当鎮を通る国道213号は、成都市と甘粛省蘭州市を結ぶ幹線路であるとともに、汶川県から分岐する国道317号でチベット自治区ラサとつながり、同時に松潘県からは世界自然遺産の九寨溝・黄龍への道に繋がっているという、四川省にとって交通運輸かつ観光用として極めて重要な道路となっています。同時に、当鎮の東南東約15kmに世界文化遺産の灌漑施設で知られる都江堰を要する都江堰市(人口約60万人)があります。この中間には、岷江最大のダム、紫坪鋪水(ダム)があります。

 ところで、成都市は歴史上に被害を受けるような大きな地震にみまわれた記録はありません。それで、四川省には地震がないと、中国人一般には思われています。しかし、近代に入り、1933年8月25日、同自治州茂県畳溪鎮(成都より北北東約150km)を震源とする、M7.5の地震が発生し、同地の多くの集落が大山崩れにより陥没全滅し、1万人に達するといわれる死者を出した大地震がありました。この時の地震で岷江がせき止められ、湖が生まれ、畳溪海子という九寨溝への途上の観光地となっています(なお、下の写真は昨年1月に九寨溝への途上で撮った畳溪海子です)。このように、四川省西部の山岳地帯は局地型地震が発生するのです。今回も、1933年の地震と同系統のものと考えます。

 さて、本日の成都での地震の影響です。私は本日講義がないため宿舎で過ごしていました。地震の揺れは2分以上は続きました。震度は3程度と感じました。もちろん、2001年9月に成都に来て以来、有感地震の経験は初めてです。成都市民も生まれて初めての体験ではないでしょうか。そこで、私も宿舎を出、庭で揺れが止むのを待ちました。キャンパス内の人々も多くが戸外に出てきました。揺れが止まっても、多くの人がそのまま戸外に止まっていましたが、私は安全と見て室内に戻りました。

 その後も、余震と見られる有感地震が夜まで続いています。この地震での直接的な影響は、まず第一に、私のブログへの「成都 地震」での検索アクセスが始まったことです。153840秒を最初に、162840秒までで、20回を数えます。これは20061229日付「台湾沖地震のインターネットへの成都での影響―成都雑感〔33〕―」記事がGoogle検索で上位5位以内に入っていたためでしょう。第二は、テレビがじきに視聴不能になり、夜になっても回復しないことです。中国での都市でのテレビ視聴が有線テレビが普通であるように、部屋のテレビも大学での有線テレビです。どうやら、これが地震の影響を受けたようです。電話回線の方は無事です。しかし、私は発信しませんでしたが、携帯電話はほとんどかからず、固定電話もかかりにくくなっているそうです。これが第三の影響です。このことは地震の際の日本でも同じことといえます。第四は、夕方になり、外事処から、直接部屋に来、戸外に避難するように大学から指示があったとの連絡でした。このことは大学院生からの電話でも学生に指示が出ていることで分かります。どうやら、余震を極めて危険しているようです。この点に関しては、日本人である私の方が地震についての経験・情報は豊かですから、これを断り、自己責任で相変わらず部屋にいます。以上がとりあえずの地震による影響です。

 最後に、被害状況の概況はまだ確かではありませんが、すでに四川軍区の人民解放軍が動員され、温家宝首相も成都市に赴き救援指揮をするそうですから、今回の地震を重大なものと認識していることは確かです。1933年の前例、地震規模・地域からして、大きな被害が想像されます(民生部18時発表で、すでに中国全土で107人の死者が出ています)。一刻も早い救援を望むところです。

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(2008.05.12)

〔追記〕  地震発生の翌日、13日(火)は講義日なので、犀浦キャンパスに出かけました。いつものとおり、スクールバスで九里堤キャンパスを出発しました。途中、近くのマンション団地前の路上駐車が目立ち、中には窓を開けそこから傘を差しだしている車もありました。本日は朝から雨でした。注意すると、ほとんどの車中に人がいるのです。すなわち、室内から車に避難しているのです。昨日からの戸外避難をまだ続けている人がいるわけです。この他には新キャンパスに着くまで、特に変わったことはなく、途中でも被害の様子は見かけませんでした。道路も正常で交通も正常でした。

 ところが、新キャンパスの校門を入ると、校庭の芝生のあちこちに色とりどりのテントが多数見えるのです。学生たちがその下に蝟集しているのです。中には傘で雨をしのいで路上に立ったままの学生もいました。テント張りの学生は旧キャンパスでも見かけましたが、数が圧倒的に多いのです。学生の戸外避難が継続しているようです。さらに、校舎に近づくと、各出入り口には警備員が立っており、突然学生たちが中庭から外へと走り出てきました。学内放送で避難を呼びかけたようです(リヤリング力がなく私には意味不明でしたが)。中庭に入ろうとすると、警備員が止めましたが、かまわず進むと、壁の漆喰が一部剥離しており、また天井の一部も落ちていました。内部に入れないので、内部の被害状況は判然としませんが、ほかには校舎に目立った異変は見当りませんでした。いずれにしても、校舎が軽度の被害を受けたことは間違いありません。校舎の電気は消され、無人の様子でした。これでは講義は出来ません。実は休講の報せを聞いていませんでした。以上のことから、新キャンパスは震度4~5弱の揺れを被ったと推定できます。新キャンパスは旧キャンパスの西北10km弱に位置します。それだけ震源地に近いことになり、これが影響の差となって現われたのでしょう。

 仕方なく帰ることにし、スクールバスで旧キャンパスに戻りました。キャンパス内の商店はほとんど休業でした。また、こちらも校舎のエレベーターは停止され校舎内に立ち入れません。もちろん旧キャンパスも休講です。知らぬが仏は私一人というわけです。

 以上が西南交通大学の地震による両キャンパスへの影響です。なお、デジカメを所持していなかったので、写真はありませんから、その替わりに、他大学ですが、キャンパス内の様子をレポート(写真付)したブログを紹介しておきます。『小翠の成都レポート』「第3報 四川省を襲った地震」(2008年5月13日付)〔http://blogs.yahoo.co.jp/suiko_in_china/54985965.html〕です。(2008年5月13日)

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メーデーの人民公園「鶴鳴茶社」―成都雑感〔61〕―

 本日(木曜日)はメーデーで休日です。昨年までの7連休が本年から3連休へと短縮されました。おそらく、遠出から近場へと人の動きが変わったと思われます。そこで、私も成都市民の憩いの場の人民公園に出かけてみました。1911年に「小城公園」として創建された本公園は、新中国成立直後の1950年に「人民公園」と改名され、現在では面積10ha強を占め、成都市の中心の天府広場から、西に数分歩いたところにある、いわば成都市を代表する公園です。最寄りのバス停としては小城路の正大門への人民公園站(5・13294347535862647881103路)と小南街の西大門への小南街北站(537093740901路)があります。

 成都市の風物として今も市内各所にある茶館が本公園にももちろんあります。そこで、本公園の茶館「鶴鳴茶社」を紹介します。本茶社は公園が1914年に拡大された際に開設されたもので90年を超す伝統ある茶館です。正大門を入り、道を左(東)に取ると直ぐです。写真1は「鶴鳴」の額を掲げた本茶社の中心です。ここで茶などの販売をしています。

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 写真2は私の注文した「菊花茶」(10元)です。これは乾燥した菊の花と枸杞の実を入れたもので、厳密には茶ではありませんが。この他、素毛峰(10元)から碧譚飄雪(25元)と、四川省産の緑茶を主体としたメニューとなっています。本茶社の南前面は写真に見るように池となっており、池の北側に茶社が展開しています(鶴鳴茶社と永聚茶社)。

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 写真3は正大門からの本茶社入口を少し入ったところから池へと撮ったものです。手前の緑色の卓はいわずと知れた麻雀用卓です。四川人の麻雀好きを現しています。この日も何組かが打っていました。そして、左に見える2階建ての建物が「鐘水餃小吃楼」、すなわち成都の小吃の老舗店の一つである「鐘水餃」店です。ここの売りは辛い赤油まみれの皮の薄い水餃子です(1椀5元。通常は一人2~3椀)。このほか、他の老舗と同様に成都の代表的小吃を食することが出来ます。

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 最後の写真4は「辛亥秋保路死事紀念碑」です。鉄道利権を欧米列国に割譲したことに対する民衆の反対闘争の犠牲(1911年秋)を記念して、1912年4月、建てられたのが本碑です。この闘争は辛亥革命に呼応して、四川省政府が成立したきっかけとなった事件として、四川省の近代史上で忘れることのできない出来事なのです。碑の高さは31.85mです。なお、写真をご覧のように、手前にいるのは本碑を写生している小学生たちです。先生に引率されて写生していました。本碑は1988年に中国の全国文物重点保護単位となり、またその後「愛国教育基地」に指定されましたから、小学生たちの教育の一環としての写生対象となったのでしょう。

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 以上、この日は今週初めより続いている、成都には珍しい晴天日として、少し暑いくらいで、半袖の人も目立ち、公園は人びとで賑わっていました。公園は早朝から夜まで開放されていますから、もし成都でのんびりと時を過ごそうとするなら、茶社でお茶でもすするのはお勧めです。

 (2008.05.01)

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停電のイトーヨーカドー春熙店と成都伊勢丹―成都雑感〔60〕―

 本日(30日木曜日)午後、買い物がてら春熙路に出かけました。まずイトーヨーカドーと伊勢丹で商品を確認した後、総府路の外文書店に回りました。その後、17時過ぎに食事をしようと伊勢丹に再び寄ろうとしました。しかし、入口が閉まって中が暗いので、見ると、ガラス扉に停電のため営業を停止との張り紙があり、店員がドアの内側に立っていました。そこで、少し様子を見て、隣のヨーカドーに行くと、こちらは営業していました。が、よく見ると照明が一部しか点いておらず、やはりいつもと様子が違っていました。そこで、春熙路の様子を見に歩いてみると、伊勢丹とヨーカドーの入っているビルと、中山広場東側の、ヨーカドーに対面したビルだけが停電であることが分かりました。このビルの1階の店は停電のまま照明無しで営業していました(上の階は確かめませんから分かりませんが)。あらためて、ヨーカドーに入ると、照明こそ普段より暗くなっていましたが、エスカレーターなどは動いていて、それで、地下の食品スーパーで買い物が出来ました。もちろんレジは正常に動いていました。ただし、肉類など一部の食品ケースには電気が入っていませんでしたが。

 この停電理由は分かりませんが、どうやらこの停電は以上の三つのビルのみという局所的で、しかも突然のもののようと察せられます。しかし、同じ停電なのに、ヨーカドーと伊勢丹の対応の差はどこから生じたのでしょうか。ビル自体の機能の違いでしょうか。いずれも邱永漢グループのビルですから、機能に差がないと思えるのですが。そうすると、ヨーカドーと伊勢丹自体のアクシデント(停電など)への対応への日頃からの対策準備の差ということがいえます。危機管理の差といえましょう。両者とも中国へ進出してからかなりの年数が経っているのですが。

(2008.04.30)

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龍馬古城宝墩遺跡―成都雑感〔59〕―

 四川省の古代文化(古蜀文化)は、宝墩文化(BC2500~1700年、龍山文化)、三星堆文化(BC1700~1200年、夏晩期~商後期)、金沙・十二橋文化(BC1200~500年、商後期~春秋後期)、晩期蜀文化(BC500~316年、春秋晩期~戦国期)と、四つに区分されます。そして、宝墩文化は「蚕叢」「柏灌」、三星堆文化は「魚鳧」、金沙・十二橋文化は「杜于=望帝」、晩期蜀文化は「鼈霊=叢帝」という伝説の蜀帝王の時代に相当すると考えられています。BC316年、この古蜀王国は北方の秦恵文王の派遣した司馬緒によって滅亡させられます。

 この古蜀文化の最初としての宝墩文化命名の遺跡である、龍馬古城宝墩遺跡について紹介します。成都市の西南38kmに位置する新津県城の北西約7kmの龍馬郷宝墩村に、龍馬古城宝墩遺跡はあります。まず、成都旅遊集散中心站(新南門)から高速経由の新都行バス(13元)に乗り、約1時間弱で、新都客運中心站に着きます(新南門以外にも、城北客運中心站・金沙客運站・石羊場中心站からも新都行バスがあります)。バスセンター前で、客待ちをしている乗合い軽ワゴンで、龍馬郷石子村(3元)で降ります(タクシーももちろんあります)。ここで、「維修摩托」「専業維修電動車」の看板の出ている店の角の道を右手(北方向)に入ります。この道の左(西)に沿って都江堰からの用水路が水を湛えて流れており、水面にはアヒルも浮かんでいます。この用水路沿いの道を約1km歩きますと、宝墩遺跡が2001年に全国重点文物保護単位(日本の特別史跡に相当)に指定されたことを示す碑、写真1が見えます。遺跡地に到着です。

 宝墩遺跡は、1996年、成都市文物考古工作隊・四川聯合大学(現四川大学)考古教研室・早稲田大学長江流域文化調査隊の日中合同の発掘調査が行われました。これにより、北東から南西方向に1100m・南東から北西方向に600mの長方形の城壁に囲まれた遺跡であり、最大高8mの城壁を持ち、面積が66万㎡に達する大きな遺跡であることが分かりました。そして、これ以降の調査も含め、現在では本遺跡がBC2500年前、すなわち4500年前の遺跡であることが解明されました。下の〔龍馬古城宝墩遺跡全測図〕は合同発掘により作成された本遺跡の現地測定図で、城壁遺址の現存状態を示しています。なお、図の右側に斜めに走っているのが用水路沿いの道です。そして、上部の城壁遺址を示したところに、「用水路」と書かれている辺りに写真1の碑が立っています。

080413龍馬古城宝墩遺跡 005

 さて、碑の所に、右に入る小道があります。この道を歩いて少し行ったところに右側に民家への上り道があります。実はこの民家はちょうど城壁遺址上にあるのです。この家のお婆さんが親切に案内してくれました。この庭先を進んだところが「全則図」の赤で示してあるところで、ここは城壁遺址を開削発掘し調査した地点です。現在ではもちろん調査地層は埋め戻してあります。写真2は、開削発掘調査地点を城壁外側から撮ったものです。ここに「宝墩古泉」碑も立っています。なお、写真の右に小さく見えるのがお婆さんです。

080413龍馬古城宝墩遺跡 010

 この地点から前方を見ると、丘林が見えます。その丘林へと向かう途上で撮ったのが写真3です。この丘は「全則図」の赤印から斜め右下に当たります。すなわち、南側城壁の現存東端部分です。両側の畑は菜種を栽培しており、四川盆地一帯が冬菜種・夏稲作の二毛作が通例であることをこの村も示しています。3月に訪れていれば、黄色の菜の花で華やいでいたことでしょう。なお、前方を行く女の子はお婆さんのお孫さんで、小学生ですが、しっかりと宝墩遺跡のことを把握しており、案内をしてくれました。やはり地元の人は本遺跡を誇りに思っているようです。

080413龍馬古城宝墩遺跡 018

 写真4は南城壁に沿って歩き外側から撮ったもので、「全測図」の南城壁が一時切れるところの手前の所です。城壁遺址の上はご覧のように竹林になっています。四川省は多様な竹を産しています。

080413龍馬古城宝墩遺跡 022

 この切れたところから、道を前方に取ると、先の用水路沿いの道に出ます。この辺りから用水路を隔てて古城内が望見できます。ここで撮ったのが写真5で、中央に丘が見えます。「全測図」の城壁内中央の円形のものです。これが「古墩」と称する丘です。発掘調査により、底辺を60×40mの方形とする、3段の階段状のピラミッド形上の人工の土壇遺構と判明しました。その起源や用途には複数の見解がありますが、城壁と同時代に起源をもち、祭壇として用いられたのではないかと考えられています。とすると、宝墩遺跡は、城壁と祭壇(神殿)を備えた、れっきとした古代都市ということができます。このことは、メソポタミア・エジプト都市文明誕生と同時代に、四川にも都市文明が誕生したことを示します。今回はこの「古墩」は訪れませんでしたが、宝墩遺跡が古城たることを示してくれました。

080413龍馬古城宝墩遺跡 031

 宝墩遺跡と同様な、城壁で囲まれた同時代遺跡が成都平原に分布しています。すなわち、都江堰市の芒城古城、温江区の魚鳧古城、郫県の三道堰古城、崇州市の双河古城などです。これらの遺跡は岷江流域である都江堰扇状地上に集中分布しているのです。すなわち、古蜀文化発祥の地は都江堰扇状地と考えることが出来ます。そして、おそらくは洪水などを原因として、これらの城壁都市が放棄され、岷江の洪水の難のない成都市北方の広漢市の三星堆へと中心が移動したのでしょう。

 なお、金沙遺跡に関しては、「金沙遺址(遺跡)博物館―成都雑感〔39〕―」(2007年4月19日付)、望帝・叢帝に関しては、「望叢祠―成都雑感〔50〕―」(2007年10月28日付)をご覧ください。

 龍馬古城宝墩遺跡全則図
〔龍馬古城宝墩遺跡全測図〕
成都市文物工作隊・四川聯合大学考古教研室・早稲田大学長江流域文化調査隊
(2008.04.14)
〔追記〕 フォトアルバム「成都(新津県)・龍馬古城宝墩遺跡」は、https://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngrQFhgNUVtG–dC-5wです。
(2011.09.29)
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中国の祝日―中国雑感〔1〕―

 中国の祝日は昨年までは、以下のとおりでした。

元旦(1月1日)

春節(旧暦元旦―2・3日も休日)

国際婦人節(3月8日―女性午後休み)

労働節(5月1日―メーデーで、2・3日も休み)

青年節(5月4日―1919年の五四運動記念日で、青年〔14~28歳〕午後休み)

児童節(6月1日―こどもの日で、14歳未満午後休み)

建軍節(8月1日―1927年の南昌蜂起記念日として中国人民解放軍の創立記念日、軍関係のみ)

国慶節(10月1日―1949年の中華人民共和国建国記念日―2・3日も休み)

以上で、全国民が終日の休日となる祝日は、元旦・春節・労働節・国慶節の4日で、これに伴う休日を加えて、年間10日が法定休日でした。また、春節・労働節・国慶節は前後の土日を振替えて、1週間の休日としていました。これは、連続休暇とすることで、春秋の旅行シーズンを促す狙いがありました。

 しかし、昨年末に、祝日が改正されました。初度の目的をすでに達し、労働節・国慶節への旅行客の集中で、観光地・交通・宿泊などに過度の負担がかかり、矛盾点の方が目立つようになったためです。この結果、労働節の休日を減らし、中国の伝統的な節日に祝日を変更しました。以下のとおりです。

元旦(1月1日〔火〕―大晦日31日〔月〕と29日〔土〕とを振替えて休日とし、30~1日まで休日)

春節(2月7日〔木〕―1112日〔月・火〕と1617〔土・日〕とを振替えて、6~12まで休日)

清明節(4月4日〔金〕―4~6日〔日〕まで休日)

労働節(5月1日〔木〕―2日〔金〕と4日〔日〕とを振替えて、1~3日まで休日)

端午節(6月8日〔日〕―7~9日〔月〕まで休日)

仲秋節(9月14日〔日〕―1315〔月〕まで休日)

国慶節(10月1日〔水〕―2930〔月・火〕と2728日〔土・日〕とを振替えて、29~5日〔日〕まで休日)

以上のとおり、祝日が3日増え、年間の法定休日が11日と1日増えることになりました。すなわち、昨年までの、年3回の1週間連続休暇が、本年から2回の1週間連続休暇と5回の3連休に変わったわけです。

 新設の3日の祝日はいずれも中国の伝統的な節日です。端午節と仲秋節は、日本でも古くからこれが取り入られ、端午の節句・お月見の日として伝統的な行事日になっていますから、みなさんもご承知でしょう。ただ、日本では現在は新暦(太陽暦)で行われているのに対して、中国では今でも旧暦(太陰太陽暦)によりこれを行います。ですから、春節と並んで、この両節日は旧暦による設定です。当然ながら、年により変動します。

 残る清明節は、掃墓節とも呼ばれるように、先祖の墓参りの日です。これは本来二十四節気(季節の変わり目となる日で、春分・秋分など)の三月節気にあたり、万物が清く陽気になる時期という意味です。これが中国では墓参りの日となったのです。だいたい4月5日ごろにあたります。本年は4日、すなわち今日です。今日は家族そろって墓に出向き、墓を清掃して、先祖に祈りを捧げます。また、革命烈士の墓などに学生たちが清掃奉仕に出かけます。

 (2008.04.04)

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本日の春熙路―成都雑感〔58〕―

 本日、成都市中心街の総府路の外文書店に所用がありました。ついでに、春熙路のイトーヨーカドーによりました。しかし、本日の春熙路はいつも様子を異にしていました。それは追って説明します。

 四川省は西にチベット自治区と接しています。省の西部山岳高原地区はチベット文化圏にも属します。ここには甘孜藏族(チベット族)自治州と阿壩(アバ)藏族羗族自治州があります。後者は九寨溝・黄龍・臥龍(パンダ生息地)という世界遺産のある地でもあります。このように、四川省西部は大チベット圏に属します。

 本日(3月17日月曜日)の春熙路の写真をご覧ください。まず、写真1です。これは春熙路の中心、中山広場にある孫中山(文)像です。後ろはアイスクリームのハーゲンダッツ店で、その後ろのビル2階には味千ラーメン店が入っています。いつもの春熙路の様子の写真のように見えますが、写真の右下に注意してください。そこに2名の警察官が立っているのがお分かりでしょうか。普段なら、ここに警察官が立っていることはないでしょう。

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  次に、写真2をご覧ください。これは中山広場前の、像から見れば左側です。お分かりのように、ヘルメットと防弾チョッキで身を固めた警察官2名が立って警備しているさまです。

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  写真3の右手の背中を見せている警察官も同様な装備です。これらの警察官は防爆隊(機動隊)員と思われます。彼らは短機関銃で武装しています。

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なお、火器を携帯している警察官は例外で、基本は非携帯です。このように、広場を中心に、春煕路の要点に警察官(防爆隊)が2名一組で配置され、警備をしています。これとは別に、巡回警邏する警察官の集団もいます。それが写真4です。これはちょうどイトーヨーカドー春煕店前を巡回警邏中のものです。ここでは警邏服は着ていますが、ヘルメットなどは着用していない警察官が主で、所轄署員が主体となっているのでしょう。

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 以上、表に見える警察官だけでも数十名を数えますから、春熙路の通常の警邏と比すると、厳格です。このことは、先日の出来事により、成都市でも当局が警戒態勢に入ったことを示しています。成都市での示威行為などは中心繁華街の春熙路で行われるのが一般的です。ですから、春熙路での警備が強化されたと考えます。しかし、写真を見れば分かるように、警察官にしても市民にしても、その表情に緊張感はなく、いつもと特に変わった様子はありません。この点から見れば、成都は平穏といえます。

 (2008.03.17)

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成都伊勢丹に「とんかつ和幸」オープン―成都雑感〔57〕―

 2月5日(火)、春節を前にして成都伊勢丹7階のレストラン街に、「とんかつ和幸」店がオープンしました。1958年、川崎市に開業し、現在170余店舗を日本各地に展開している和幸グループの海外支店第1号です。とんかつ専門店のお目見えです。

 ちょうど春節休暇で帰国中でしたので、ようやく3月6日(木)夕方、行ってみました。メニュー以下、基本的には日本での店と同じです。写真1は、日本でも基本メニューでもある「ひれかつ御飯」〔油炸里脊〕(62元)です。写真でお分かりのように、什器・盛り付け・量とも日本と同じです。味噌汁はもちろんシジミですし、ご飯・キャベツ・味噌汁のおかわり自由は日本と同様です。味のほうは、衣もカリッとし、肉も柔らかくしっかりとしています。成都の日本食関係店でのトンカツ定食としては価格的に最高級ですが、ようやく成都にも本当のトンカツが出現した思いです。

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 写真2は入口と全メニュー展示です。上に「TONKATSU WAKO」とローマ字で大書しています。トンカツ専門店ですから、上記と「ロースかつ御飯」〔油炸去骨猪排〕(58元)が基本メニューです。これ以外にかつ鍋御飯(卵とじ鍋)やカツ類&揚げ物定食が各種あり、女性用「雅」58元)・お子様定食(35元)もあります。なお、ビール(青島・アサヒスーパードライ)は18元、飲料(コーラ・ウーロン茶・オレンジジュース)は7元です。

 080306とんかつ和幸(成都伊勢丹) 001 (4)

 最後に、メニュー表は写真付で日本語表示を基本とし、下に中国語訳が付いています。店員は基本的な接客用日本語が出来ます。

(2008.03.07)

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成都イトーヨーカドーのエスカレーター表示―成都雑感〔56〕―

080306成都イトーヨーカドー春熙店 001

 上の写真は成都イトーヨーカドー春熙店5階の下りエスカレーターです。ご覧のように、ステップ前に、「左側通行」・「右側站立(立ち位置)」と黄色の版に赤色で表示しています。そして、エスカレーター本体に中央および左右端に黄色線が表示してあります。これは、あきらかに交通機関などでの日本における慣習であるエスカレーターの通行区分を習ったものでしょう。この表示は春熙店のみならず、成都の全てのヨーカドーで昨年秋より行われています。当然ながら、このような慣習は中国にはありませんから、この表示は駐在日本人の発想によるものでしょう。しかも、右立ち・左通行は関西圏での慣習なのに、セブン&アイグループの本社は東京なので(前身の洋華堂洋品店は、1918年、東京の浅草に開店)、面白いと思います。写真では、確かに右立ちですが、これはたまたまの例で、当然ながら、この右立ち・左通行は全く遵守されていません。このような表示は日本でも見たことがなく、何故、成都のヨーカドーがこれを始めたのか訝かるところです。

(2008.03.6)

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成都に戻る

23日(土)、いつものCA422便にて成都に戻りました。偏西風が強かったのか、成都双流空港到着は16時過ぎでした。逆に1月のCA421便は成田に早着しました。すでに、25日(月)に新学期が開始しました。

ところが、宿舎が春節休みから改装工事に入っているので、部屋替えとなりました。このため、電話番号の付け替えなどで、3月1日、ようやくADSL環境が整いました。そこで、やっとアップロードできたわけです。

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冬休み帰国

本日(12日)、冬休みの帰国です。

毎度おなじみのCA421便です。本便はB757と日本では就航していない機材です。これは旧西南航空時代からの引き継ぎ機材で、ブラウン管テレビ搭載の、今となっては旧型です。それに、本来国内線用機材として導入されたものですから、シートピッチが狭く、あまり乗り心地のよいものではありません。ただ、西南航空からの名残で、シートカバーの広告が「剣南春」(四川の白酒の銘酒)であることでしょう。

なお、戻りは2月23日に予定しています。25日から新学期ですから。

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