中尊寺―歴史雑感〔58〕―

 2020年6月26日(金)午前、伝源義経妻子墓に次いで、天台宗東北総本山の関山中尊寺(岩手県西磐井郡平泉町平泉衣関202)を参拝しました。慈覚大師円仁の創建と伝える本寺は奥州藤原氏初代清衡が平泉の関山に多宝寺・二階太堂・金色堂等を造営し、現在に至ります。ただ、現存するのは国宝金色堂のみです。

 写真1は、中尊寺入口です。月見坂の参道を上ります。

 写真2は、八幡堂です。源頼義が安倍氏追討をここ月見坂で祈願したといわれています。

 写真3は、辨慶堂です。

 写真4は、本堂です。

 写真5は、金色堂です。コンクリート製の覆堂で覆われています。

 写真6は、重要文化財の白山神社能楽殿です。白山宮(神社)は清衡が本寺の北の鎮守として造営したものです。能楽殿は嘉永6年(1853)に伊達藩主慶邦が再建寄進したものです。

 写真7は、同じく白山神社能楽殿です。

 最後の写真8は、白山神社能楽殿の舞台を撮ったものです。

(2020.07.16)

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毛越寺―歴史雑感〔57〕―

 2020年6月25日(木)午後、観自在王院に続いて、西に隣接した医王山毛越寺金剛王院(岩手県西磐井郡平泉町平泉字大沢58)を参拝しました。本寺は慈覚大師円仁創建と伝えています。奥州藤原氏2代基衡が久安6年(1150)末から保元元年(1156)までの約6年間に金堂円隆寺以下の建築物・庭園を建立したと推定されて、さらに3代秀衡が造営を継続しました。この様は、「基衡これを建立す。まず金堂円隆寺と号す。金銀を鏤し、紫檀赤木等を継ぎ、万宝を尽し、衆色を交える。本仏薬師丈六を安ず」(『吾妻鏡』文治5年9月17日条)等と記されています。しかし、奥州藤原氏滅亡(1189年)の37年後、嘉禄2年(1226)11月、金堂円隆寺以下が焼失しました。発掘調査により、金堂円隆寺以下の礎石が確認され、大泉ヶ池を中心とする庭園も修復整備されて往事の様を見せています。拝観時間は8時半~17時(11月5日~3月4日は8時30分~16時30分)、拝観料は500円です。

 写真1は、南大門跡と奥が大泉ヶ池です。『吾妻鏡』に「二階惣門」とあるものです。

 写真2は、大泉ヶ池です。池の奥が金堂円隆寺跡です。南大門から池の中島へと橋が架けられて円隆寺に通じています。ここから池を時計回りに行きます。

 写真3は、池の南西にある築山です。

 写真4は、池の南西端から撮ったものです。

 写真5は、池の西から北側へと撮ったものです。池際の手前の樹木のところが経楼跡で、奥が鐘楼跡です。

 写真6は、池の北西端から撮ったものです。池南側中央が築山で、その奥が1989年に再建された本寺本殿です。

 写真7は、経楼跡です。

 写真8は、中島を経て南大門跡へです。

 写真9は、池奥(西側)の七間六間の嘉祥寺跡です。本尊は丈六薬師如来でした。池から撮ったものです。秀衡の建立とされています。

 写真10は、池から撮った金堂円隆寺跡です。本尊は運慶作の丈六薬師如来でした。両寺の間に講堂跡があります。金堂の両脇から回廊が池へとあり、それぞれ経楼と鐘楼に通じており、コの字型の円隆寺を形成しています。

 写真11は、同じく金堂円隆寺跡です。

 写真12は、金堂円隆寺跡から池へと撮ったものです。

 写真13は、金堂円隆寺跡の東奥、常行堂から撮った遣水です。発掘調査により遺構が発見されたもので、これを修復整備したものです。

 写真14は、常行堂東の法華堂跡です。写真には写っていませんが、この前が常行堂跡です。

 写真15は、東門跡です。

 写真16は、東からの池です。

 写真17は、池の南東に位置する洲浜です。

 最後の写真18は、少し西に行った出島石組と池中立石です。

 なお、フォト・アルバム「毛越寺」はhttps://1drv.ms/u/s!AruGzfkJTqxng7Jm-wqTr3J3xZPABA?e=V9MsESです。

(2020.07.06)

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観自在王院遺址―歴史雑感〔56〕―

 2020年6月25日(木)午後、平泉の観自在王院遺址(岩手県西磐井郡平泉町平泉志羅山)を訪れました。本寺院は奥州藤原氏第2代基衡の妻が建立したとされるものです。西に隣接して毛越寺があります。荒廃して水田となっていましたが、1954年(昭和29)から始まった発掘調査により、2棟の阿弥陀堂等の建物、浄土庭園の遺構が確認されました。本寺院は東西120m・南北240mの土塁で囲まれています。浄土庭園の池は舞鶴ヶ池と呼ばれ、修復整備されて、12世紀の庭園の様を見せてくれます。

 写真1は、南門跡を正面に北に本寺院跡を撮ったものです。

 写真2は、南門跡を入れて、西奥に毛越寺を捉えたものです。

 写真3は、北へと進み、舞鶴ヶ池を正面に捉えたものです。

 写真4は、舞鶴ヶ池です。手前の礎石は3間四方の伝普賢堂跡で、奥に橋が架かっているところが中島です。これから反時計回りに巡ります。

 写真5は、伝鐘楼跡です。

 写真6は、東北から中島を撮ったものです。

 写真7は、北からの中島です。手前に池に石が据えられています。

 写真8は、さらに木越の中島です。もちろんこれらの木々は修復整備に伴うものです。

 写真9は、遣水と池に注ぐ大小18個の組まれた瀧石組です。西に位置します。

 写真10は、さらに南西からの中島です。

 写真11は、ほぼ南からの中島です。

 写真12は、西土塁の車宿跡です。

 最後の写真13は、西門跡と西土塁です。

(2020.07.02)

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蜂神社―歴史雑感〔55〕―

 2020年6月25日(木)昼、蜂神社(岩手県紫波郡紫波町陣ヶ岡69)を参拝しました。本神社は標高136mの小丘陣ヶ岡に位置します。

今日、二品陣岡蜂社に陣せしめ給う。しこうして北陸道追討使能員、実政等、出羽国狼唳を靡かせ、参加の間、軍士廿八万騎〈但し諸人郎従等を加う〉なり。(『吾妻鏡』文治5年9月4日条)

とあるように、当地は文治5年(1189)の奥州合戦で、鎌倉幕府軍が中軍(東山道・源頼朝直卒)・東海道軍・北陸道軍の三軍が会同したところです。もちろん「廿八万騎」は虚構ですが、当時としては最大級の数万騎の軍勢が集結したことになります。この前日、奥州藤原氏当主の泰衡の首が届けられており。奥州藤原氏の滅亡が確定していたのです。すなわち、陣ヶ岡の蜂神社は歴史的な地です。最寄り駅はJR東日本・東北本線古館駅です。駅の南西に直線約1km弱です(徒歩約30分余)。

 写真1は、神社参道の南鳥居です。この先森の道を約200m弱のところです。

 写真2は、鳥居と奥に社殿です。

 写真3は、社殿です。

 写真4は、境内で、社殿左手前の「陣ヶ岡歴史公園」木柱の後方には地元の人が奉納した「源氏櫓」が立てられています。木柱にあるように、神社の位置する小丘は陣ヶ岡歴史公園となっています。鳥居前の駐車場の所から左手に藤原秀衡奉造の「月の輪形日の輪形」遺址への小道があります。

 写真5は、社殿左手前に立てられている「陣ヶ岡史跡要覧」案内板で、陣ヶ岡に関する伝承を含めて案内しています。

 写真6は、源頼義義家父子が戦勝祈願(前九年の役)に手植えしたとの杉との伝承ある古木が老朽により伐採し、この覆堂を献納(1987年)したものです。社殿の奥にあります

 写真7は、日本武尊の皇子の墓との伝承のある王子森古墳です。覆堂の奥にあります。

 写真8は、さらに奥へと森の中の小道を抜けて、北の鳥居に出たところです。舗装道の左(南)に隣接して次の目的地があります。

 写真9は、右に分岐する小道(直進すると蜂神社南鳥居に至ります)があるY字路へと伝藤原泰衡首洗い井戸を撮ったものです。道路上には何ならの表示もなく、雑草の中に埋もれています。

 最後の写真10は、井戸を撮ったもので、後方に「首洗井池」石柱が立っています。

(2020.06.30)

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源頼朝の偏諱を賜った武士(その一)―歴史雑感〔54〕―

(その一)一、結城朝光

(その二)二、北条泰時

(その三)三、平賀朝雅

 鎌倉幕府初代将軍の源頼朝の偏諱を受けた武士として、結城朝光(宗朝)、北条泰時(頼時)、平賀朝雅がいます。この3人は何故に偏諱を賜ったのでしょうか。この点を考えてみましょう。

一、結城朝光

 治承4年(1180)8月に伊豆国で反乱に蜂起した源頼朝は石橋山合戦で一敗地の憂き目を被りますが、房総半島に脱出して、上総広常・千葉常胤等の参軍を得て再起して、武蔵国に進出します。この翌日、『吾妻鏡』同年9月2日条に、

武衛御乳母故八田武者宗綱息女〈小山下野大掾政光の妻、寒河尼と号す〉、鍾愛末子を相い具し、隅田宿に参向す。さっそく御前に召し、往事を談じせしめ給う。かの子息をもって、昵近奉公致させしむべきの由望み申す。よりてこれを召しい出す。自ら首服を加え給う。御烏帽子を取りこれを授け給う。小山七郎宗朝と号す〈後に朝光と改むる〉。今年十四歳なり。

とあるように、頼朝は自ら烏帽子を被せ元服の儀を行い、「朝」の一字を与え小山七郎宗朝と名乗らせます。時に宗朝は14歳でした。伊豆流人時代の頼朝から偏諱を受けようなどという者がいるはずなく、間違いなく彼が頼朝から偏諱を賜った第1号です。

 宗朝の父小山政光は秀郷流藤原氏出身で、下総国寒河御厨(小山荘)を名字の地とし、「大掾」と称するように下野国有力在庁官人でもありました。小山氏は藤姓足利氏とともに「一国の両虎」(『吾妻鏡』養和元年閏3月23日条)と称される下野国を代表する豪族武士です。一方、母は八田(宇都宮)宗綱の娘で頼朝の乳母であり、現在は出家して寒河尼と称していました。宇都宮氏は始祖の宗円(宗綱父)が宇都宮座主(『尊卑分脉』)とあるように、二荒山神社(宇都宮)を基盤とした有力武士です。

 『延慶本平家物語』第二末・廿八平家ノ人京ヘ上付事には、

折節在京したるりける関東の武士、少々維盛につきて下たりけるか、小山四郎朝政以下多く源氏の方にへ付にけれ

と、小山朝政は平維盛軍に従軍して、富士川合戦後に頼朝の傘下に入ったといえます。また、宇都宮朝綱も、『吾妻鏡』元暦元年5月24日条に「日来平家に仕えといえども、懇志関東にあるの間、潜かに都を遁れ出て参上」とあるように、平家に仕えて在京中でした。すなわち、この時点では上野国の有力武士の小山・宇都宮両氏とも平家に勤仕していたのです。

 房総を制覇してようやく武蔵国に歩を進めた頼朝にとって、寒河尼が末子を連れて参上したことは少なくとも小山氏が味方になるとの意思表示であり、さらに宇都宮氏への手がかりともなるのですから、頼朝にとって大いに慶賀すべきことで、寒河尼に最高の敬意を払うべきことなのです。「鍾愛末子」とあるように、寒河尼が愛する末子に手ずから烏帽子を被せ元服を行い、「朝」の偏諱を与え、宗朝と名乗らせたことはまさしく寒河尼への最高の敬意といえましょう。また、「宗」とは宇都宮宗綱からのものですから、宇都宮氏への敬意ともなり、自陣営への取込みを期待したものといえましょう。

 なお、宗朝から朝光へのこの改名は『吾妻鏡』の人名記載が正しいとすると、翌養和元年(1181)中までになされたといえ、宗朝の名乗りは短期間だったといえます。改名は父政光の一字「光」を取ることで、小山一族の一員、すなわち朝政・宗政・朝光の小山三兄弟のスクラムを見せたことになり小山氏が一族をあげて頼朝の麾下に入ったことへの表明ともいえるでしょう。

 『吾妻鏡』養和元年4月7日条に、「御家人等中、ことに弓箭に達つの者また御隔心無きの輩を撰び、毎夜御寝所の近辺に候べきの由定められる」、とある11人の中に朝光は選ばれており、元服後の頼朝の身辺に仕え信頼されたことが分かる。いわば頼朝親衛護衛隊の一員となったのです。そして、下総国結城郡を本貫地とした結城氏の祖となり、朝光は有力御家人となったのです。

 治承・寿永の内乱勝利後、寒河尼は「大功」ありとして、下野国寒河郡及び網戸郷を与えられました(『吾妻鏡』文治3年12月1日条)。これは寒河尼が内乱において小山・宇都宮両氏の頼朝への味方に力を尽くしたことへの報恩といえ、その最初が末子朝光を連れた参上です。朝光の子四郎時光は寒河と、十郎朝村は網戸と名乗ったことから、両地は朝光に継承されたことになります。

(2020.05.10)

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湯河原梅林

 2020年2月25日(火)午後、神奈川県湯河原町の幕山公園内の湯河原梅林に行ってきました。本年は暖かく例年より1週間あまり早い開花で、はや満開過ぎでした。「梅の宴」(2月1日~3月8日・9~18時)開催中で、入園料は200円です。JR湯河原駅からは箱根登山バス幕山公園行です。そこで、梅の写真をお見せします。

(2020.02.28)

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武蔵国国府遺跡等―歴史雑感〔53〕―

 2020年2月22日(土)午後、武蔵野文化協会主催の「発見・復元された武蔵国国司館跡を訪ねて」に参加して巡りました。13時30分にJR南部線西府駅前に集合しました。

 最初の訪問地は駅西北8分に位置する武蔵府中熊野神社古墳(府中市西府町2丁目9番地・熊野神社境内)です。本古墳は飛鳥時代(7世紀中頃)築造の上円下方墳で、一段目が一辺約32mの方形、二段目が一辺約23mの方形、三段目が直径約16mの円形、墳丘高が約6m、全体が多摩川石で葺かれていました。写真1は、西から見た古墳全景で、古墳の南に接して府中熊野神社本殿があります。

 写真2は、西北角から古墳全景です。ご覧のように、古墳は復元整備されています。但し、二段目の一辺と三段目の直径は古墳保護のため出土面より約1m大きくなっています。

 写真3は、南の神社本殿横からの古墳で、左に見えるのが石室入口です。

 写真4は、神社入口の西府二丁目交差点北東角に建つ府中熊野神社古墳展示館内に展示されている墳丘土層標本です。他に鞘尻金具等の出土品展示、石室原寸復元レプリカ(内部に入れます)もあります。開館は9~17時(4月1日~10月31日)・10~16時(11月1日~3月31日)で、休館日は月曜及び年末年始(29~3日)です。

 次の訪問地はJR南部線府中本町駅に隣接した国司館と家康御殿史跡広場(府中市本町1丁目14番地)です。本広場は発掘調査により掘立柱建物跡や大型石組井戸跡等が発見されて、奈良時代の国司館跡と徳川家康の府中御殿跡と分かりました。そこを保存整備公園化したものです。写真5は、府中御殿石組井戸跡です。

 写真6は、国司館復元模型です。中央が主殿で、国司の居住・儀式館です。左が脇殿で、国司と従者の仕事・生活の場です。奥が付属建物で備品等の保管場所です。主殿の前の人形は守赴任の儀を模したものです。右に女官、右に兵士、守(濃いオレンジ色)の前に介(明るいオレンジ色)・掾(濃い緑色)・目(薄い緑色)と並んでいます。

 写真7は、主殿の柱を復元したものです。東西に建てられており、5間・4間です。

 写真8は、脇殿です。南北に建てられており、8間・3間です。奥に見えるのがJR南部線府中本町駅です。本公園の管理事務所で武蔵国府スコープを貸し出しており、これで360度の往事の景観を再現しています。貸出時間は9~15時です。

 最期の訪問地は大国魂神社に東接した武蔵国府跡(府中市宮町2丁目5番2)です。ここは国衙の建物が発掘されたところです。写真9は、朱色の柱を復元したものです。

 最期の写真10は、南から復元柱を見たもので、ミラー(鏡)となっている建物は遺構展示館です。

(20120.02.24)

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2020年西安交通大学日本語学科東北会新年会

 春節(1月25日)を迎えるに当たって、2020年1月11日(土)、西安交通大学日本語学科東北会の2020年新年会を大連で開き、私も参席しました。この東北会新年会は、大連新年会が拡大したもので、大連新年会からは通算20年を経過しており、2期生以下の15名が集い大いに盛り上がりました。ウィスキーオンザロックに始まり、各種の酒を大いに飲み楽しみました。

(2020.01.13)

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創作された『平家物語』一谷合戦の熊谷直実先陣争い―歴史雑感〔52〕―

 武蔵武士熊谷直実は一谷合戦(福原合戦)で平敦盛を討取ったことで知られており、このことは『平家物語』に詳しく記述されており、物語化してです。同時に、『平家物語』(覚一本)巻第九・一二之懸において一谷口で平山季重と先陣争いをしたと記述されており、同様なことは『吾妻鏡』元暦元年二月七日条にも記述されています。しかし、これらの記述には大いなる疑問点もあり、改めて検討してみたいです。

 『平家物語』諸本の最古態本である『延慶本平家物語』では熊谷直実の先陣争いについては第五本・二十源氏三草山幷一谷追落事に記述されています。これに関する全文は長文となるので、問題となる個所を以下に示します。

其後城ノ内ヨリイサ終夜悪口シツル熊谷生取リニセムトテ、越中二郎兵衛盛次、上総五郎兵衛忠光、同悪七兵衛景清、飛騨三郎左衛門景経、後藤内兵衛定綱、以下究竟ノハヤリヲノコノ若者共廿三騎木戸口ノ逆木ヲ開テ轡ヲ並テヲメイテ係出タリ、越中二郎兵衛盛次真先係テ出キタリ、好ム装束ナレハ紺村濃いの直垂ニ黒糸縅ノ鎧ニ白星ノ甲ニ白葦毛ノ馬ニソ乗タリケル、熊谷ニ押並テ組ムスルヨウニハシケレトモ熊谷スコシモ退ス、父子アヒモスカサス立タリケリ、

 同様に、『吾妻鏡』元暦元年二月七日条では、

ここに武蔵国住人熊谷次郎直実、平山武者所季重等、卯剋、偸み一谷の前路を廻り、自海道より館際に競い襲う。高声で名を謁ぐるの間、飛弾三郎左衛門尉景綱、越中次郎兵衛尉盛次、上総五郎兵衛尉忠光、悪七兵衛尉景清等、廿三騎を引い、木戸口を開き、これと相い戦う。

とあります。

 高橋昌明氏は平家の譜代家人が嫡宗(清盛、後に重盛、次いで宗盛)に一元的に統率されているのではなく、一門に個別に主従関係を結んでいるとされ、嫡宗(宗盛)・小松家等の何処の家と主従関係を結んでいたかを考察しています(『平家の群像』第三章内乱の中の二人2009年岩波新書)。氏に従うと、越中二郎兵衛盛次(主馬判官平盛国の孫平盛次)、上総五郎兵衛忠光(上総介伊藤忠清の子伊藤忠光)、同悪七兵衛景清(同弟伊藤景清)、飛騨三郎左衛門景経(飛騨守藤原景家の子藤原景経)、後藤内兵衛定綱等の、譜代家人の各家への所属に関しては、平盛次は嫡宗(宗盛)、伊藤忠光・景清兄弟は小松家、藤原景経は嫡宗としています。後藤定綱への記述はありませんが、同族と考えられる後藤盛長を氏は宗盛同母弟重衡の乳夫子としており、これから定綱も嫡宗と考えてよいでしょう。以上、上記の譜代家人、平盛次・藤原景経・後藤定綱は嫡宗(宗盛)、伊藤忠光・景清兄弟は小松家の所属となります。

 開戦時に平家軍は如何なる布陣(軍配置)をしていたのだろうか。『吾妻鏡』には具体的な布陣は示されていません。布陣を記述しているのは『延慶本平家物語』第五本・二十源氏三草山幷一谷追落事であり、蓋然性があると考えるので、これに従います。まず、東に大手である生田口(神戸市中央区生田神社東)、西に搦手である一谷口(神戸市須磨区一谷)、そして北に山の手(兵庫区会下山)の三か所に布陣しています。大手軍の大将軍は嫡宗の平知盛・重衡兄弟です。搦手の大将軍は故清盛末弟平忠度です。山の手には最初平盛俊(主馬判官平盛国の子、嫡宗侍大将。盛俊が嫡宗譜代家人であることは高橋昌明氏前掲書)が陣しなしましたが、三草山の敗戦により、門脇家の平通盛・教経兄弟が派遣されました。以上、一谷口は嫡宗、山の手は門脇家と嫡宗家人、一谷口は忠度となり、兵力配分からは生田口>山の手>一谷口となります。三草山で敗戦した小松家軍では平資盛は淡路島へと敗走しましたが、平師盛は宗盛のもと、すなわち福原に敗走しました。とすると、師盛は戦死しており(『吾妻鏡』元暦元年二月七日条)、一谷合戦に参戦したことは確かなので、山の手の守りに加えられたとするのが至当でしょう。すなわち、山の手は門脇家を主力に小松家と嫡宗の一部が陣したことになります。残る経盛の修理家は予備軍として福原に控えたといえましょう。

 以上から、平盛次・藤原景経・後藤定綱の三人は大手口の生田口の大将軍の嫡宗家知盛・重衡の麾下に、伊藤忠光・景清兄弟は山の手の大将軍の一人小松家師盛の麾下にいたとするのが至当です。とすると、両者とも搦手の一谷口には存在しないことになります。すなわち、『延慶本平家物語』や『吾妻鏡』の記述する熊谷直実と対戦した平家方の武士は一谷口に存在していないものであり、虚構の記述といわざるをえません。そして、『延慶本平家物語』に、「越中次郎盛次真先係テ出キタリ、」から続く熊谷父子・平山季重と平盛次以下の二十三騎との戦闘記述も虚構ということになります。

 その後、「秩父足利武田吉田三浦鎌倉小沢横山児玉猪俣野与山口ノ党ノ者共彼ヲトラシト係入リテ、源平両家白ハタ赤ハタ相交リタルコソ面白ケレ」とある、『延慶本平家物語』の一谷口の戦闘記述も虚構といわざるをいえません。というのは、『吾妻鏡』元暦元年二月五日条と『延慶本平家物語』第五本・二十源氏三草山幷一谷追落事の一谷合戦の源氏軍交名のいずれにも足利義兼は記述されていませんから、一谷合戦に参戦していないと考えるのが至当な足利義兼、次いで、『吾妻鏡』元暦元年二月五日条の交名に見える三浦一族は一谷口の佐原義連のみであり、『延慶本平家物語』でも同様ですから、佐原義連を除いて明らかに参戦していない三浦氏、さらに、鎌倉党として参戦しているのは梶原景時父子で、生田口で戦闘していることは『延慶本平家物語』第五本・二十源氏三草山幷一谷追落事に記述されており、『吾妻鏡』元暦元年二月五日条の交名でも生田口に属していますから、生田口の鎌倉党を記載しているからです。それに対応する『吾妻鏡』の記述は、「その後蒲冠者、并足利、秩父、三浦、鎌倉之輩等競い来る、」(『吾妻鏡』元暦元年二月七日条)として、生田口の戦闘として整合性を取ろうとしています。以上、熊谷直実・平山季重の先陣争いから一谷口での戦闘に関する『延慶本平家物語』の記述は基本的に虚構なのです。すなわち創作といえるのです。

 さて、上記の『吾妻鏡』記述は明らかに基本的に『延慶本平家物語』のそれを基として要約化したものです。ということは『吾妻鏡』記述自体も虚構・創作といえます。かかるように、『延慶本平家物語』、すなわち『平家物語』の熊谷直実先陣争いの記述が創作ということは、『平家物語』が物語である以上、如何に史実を下敷きにしたにせよ、創作が入るのは当然で、この一例といえます。当然ながら一谷合戦記述にはこれ以外にも虚構・創作があることを示唆しています。ひいては『吾妻鏡』も。最後に、一谷合戦最大の虚構・創作はいわゆる源義経の鵯越の逆落としと考えますが。

(2020.01.06)

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茅ヶ崎杉山神社初詣

 2020年1月1日(午前)、都筑中央公園東端の高台に鎮座する茅ヶ崎杉山神社(横浜市都筑区茅ケ崎中央57)に初詣に行ってきました。都筑・港北区内に何か所かの杉山神社があり、『延喜式』武蔵国綴喜郡の式内小社杉山神社の有力論社とされているのが茅ヶ崎杉山神社です。

 写真1は、鳥居と上る参道です。参拝者が増えたため急な参道階段は閉鎖され、公園内の路を上って参拝します。

 写真2は、社殿に参拝する人が見えたところで撮ったものです。ここに来るまで30分以上かかりました。

 写真3は、ようやく参拝の列に並んで社殿を撮ったものです。

 写真4は、参拝する人で、一度に3人しか参拝できません。

 社殿の右側では奥で破魔矢等、手前で御神籤、右では御神酒・甘酒・蜜柑が振舞われています。写真5は、これに社殿を入れて撮ったものです

 最後の写真6は、参拝後、戻る途中で見た参拝の列で、私が並んだ時の倍近く、円形広場近くまで達していました。

(2020.01.01)

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能登

 2泊3日のツァーで能登観光をしてきました。航空便の関係で観光自体は2日目の2019年12月18日(水)でした。朝に穴水温泉を出発して最初の観光地は能登金剛です。写真1は、巌門です。

 写真2は、千畳敷岩から南を撮ったものです。左の岩上端に鳥が止まっています。

 写真3は、千畳敷岩です。

 次はのと鉄道乗車です。写真4は、乗車する中島駅に入線する気動車です。

 終点の穴水駅手前のトンネル内がイルミネーションで装飾されています。これを撮ったのが、写真5です。

 海岸沿いを北上して着いたのが見附島(軍艦島)です。写真6は、島に延びる磯を入れて撮ったものです。

 写真7も、見附島です。

 さらに北上して、能登半島最北端の禄剛崎に着きました。写真8は、日本海を背景に禄剛埼灯台を撮ったものです。明治16年(1883)7月10日に初点灯しました。水面高約48mで、5万5千カンデラ、光到達距離約33kmです。

 写真9は、灯台に記された菊御紋章です。これは本灯台のみにあるもので、下に「明治十八年七月十日初点燈」とあります。

 輪島へと向かいます。写真10は、奥能登塩田村での海水撒きの実演です。

 写真11は、海に注ぐ垂水の滝です。

 最後の観光地は白米千枚田です。写真12は、水路を入れて海へと千枚田を見下ろしたものです。ご覧のように夜にはイルミネーションが点灯されます。

 最後の写真13は、展望広場から千枚田を俯瞰したものです。クリスマス近くで、右下にクリスマス飾りが見えます。

 なお、フォトアルバム「能登」はhttps://1drv.ms/u/s!AruGzfkJTqxng6Q0vDwd9tSo_lJNxw?e=eVwhrBです。

(2019.12.28)

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妙本寺―歴史雑感〔51〕―

 2019年12月15日(日)午後、日蓮宗長興山妙本寺(神奈川県鎌倉市大町1-15-1)を訪れました。開基は比企能員の末子比企三郎能本でで、文応3年(1260)の創建といいます。この地は源頼朝の乳母比企尼、すなわち比企氏の館跡でした。本寺のある谷戸を比企谷といいます。建仁3年(1203)9月2日、比企尼の甥で比企氏当主の能員は北条時政名越亭で暗殺され、次いで比企氏館は攻撃され、これにより比企氏は族滅し、2代将軍頼家の嫡子一幡(能員の娘若狭局所生)は殺害されます。以上により、頼家は廃されて、同母弟実朝が3代将軍となります。

 写真1は、「南妙法蓮華経・妙本寺」石碑から参道の奥に総門(18世紀中頃)を見たものです。右隣は八角堂で、現在は幼稚園となっています。

 写真2は、祖師堂(天保9年〔1838〕)です。

 写真3は、祖師堂右脇手前にある比企一族供養塔です。左から比企能員夫妻、比企能本夫妻とされています。露盤上に風・空輪を頂き、江戸期のものです。

 写真4は、上がったところにある能員の娘讃岐局の「蛇苦止」霊を祀る石塔です。讃岐局の霊が時の連署北条政村の娘に祟り、蛇の様をなしたと『吾妻鏡』文応元年11月27日条に見えています。

 写真5は、左が比企一族供養塔で、右上が讃岐局石塔です。

 写真6は、二天門の右脇前にある一幡之君袖塚です。比企館焼け跡から出たとされる一幡の袖が祀られています。

 写真7は、一幡之君袖塚の全景です。左の石塔には「源頼家卿嫡男一幡御廟・享和三癸亥年三月」と刻されています。

 祖師堂の左脇から上っていくと墓地に出ます。ここは頼家の娘竹御所(源媄子)の居したところとされ、死去後に新釈迦堂が建てられました。この最奥に写真8の、竹御所墓があります。竹御所は4代将軍藤原頼経正室となり、文暦元年(1234)7月27日、死産後に32歳で死去しました。

 祖師堂の左の池を巡って紅葉樹があります。本年は紅葉が遅れ、まだ紅葉の葉を見せていました。写真9は、祖師堂から見た紅葉です。

 写真10は、墓地への道から祖師堂へと紅葉を逆光で撮ったものです。

 祖師堂から戻り、本堂への方丈門左脇の道を進むと、奥に鎮座するのが写真11の、蛇苦止明神堂です。写真5の讃岐局を祀ったものです。

 最後の写真12は、総門左脇にある本寺案内図です。

(2019.12.25)

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2019年横浜公園の紅葉

 横浜スタジアムに隣接した横浜公園(横浜市中区横浜公園)は面積約6.38haで、市内では山手公園の次に古い西洋式公園(1876年開園)です。こぢんまりとしていますが、紅葉樹があります。そこで、例年より遅く色づいた紅葉をお見せします(2019年12月6日撮影)。なお、最後の写真は公園に隣接した日本大通りの銀杏並木です。 

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(2019.12.09)

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2020年の中国の祝日―中国雑感〔52〕―

 明年の祝日(休日)に関して、2019年11月21日(木)、国務院の通知「国務院弁公庁関于2020年部分節假日安排的通知」が国務院公式サイトにアップされ公表されました。この公示は例年12月でしたが、本年は11月21日と最速でした。国務院の通知原文は次のページです。

http://www.gov.cn/zhengce/content/2019-11/21/content_5454164.htm

 また、カレンダー表示(「一休5天,十一休8天,一图看懂2020年放假安排!」)は、

http://www.gov.cn/xinwen/2019-11/21/content_5454242.htm(92020nenn

です。これによる明年(2020年)の休日は次の通りで、これに基づいて、中国の公的機関は休日を実行します。民間もこれを基準に休日を組みます。つまり、明年の休日日程が定まったわけです。

一 元旦(1月1日)

1月1日(水)を休日。

二 春節(旧暦元旦 1月25日) 法定休日(旧暦元旦~1月3日)

1月24日(金)~30日(木)の7日間を休日。

1月19日(日)〔24日・金〕・2月1日(土)〔30日・木〕振替出勤日。

三 清明節(4月5日)

4月5日(土)~7日(月)の3日間を休日。

四 労働節(5月1日)

5月1日(金)~5日(火)の5日間を休日。

4月26日(日)〔4日・月〕・5月9日(土)〔5日・火〕振替出勤日。

五 端午節(旧暦5月5日 6月25日)

6月25日(木)~27日(土)の3日間を休日。

6月28日(日)〔26日・金〕振替出勤日。

六 中秋節(旧暦8月15日 10月1日)・国慶節(10月1日) 法定休日(10月1日~3日)

10月1日(木)~8日(木)の8日間休日。

9月27日(日)〔7日・水〕、10日(土)〔8日・木〕振替出勤日。

 例年と変わったのは、本年で最初連休でなかった労働節を3月に入り、急遽4連休としたのを継承して、5連休としていることです。また、新年を除き振替出勤日により3連休としたことです。なお、春節と国慶節の7連休は例年通りです。

国务院办公厅关于2020年部分节假日安排的通知

国办发明电〔2019〕16号

各省、自治区、直辖市人民政府,国务院各部委、各直属机构:

经国务院批准,现将2020年元旦、春节、清明节、劳动节、端午节、国庆节和中秋节放假调休日期的具体安排通知如下。

一、元旦:2020年1月1日放假,共1天。

二、春节:1月24日至30日放假调休,共7天。1月19日(星期日)、2月1日(星期六)上班。

三、清明节:4月4日至6日放假调休,共3天。

四、劳动节:5月1日至5日放假调休,共5天。4月26日(星期日)、5月9日(星期六)上班。

五、端午节:6月25日至27日放假调休,共3天。6月28日(星期日)上班。

六、国庆节、中秋节:10月1日至8日放假调休,共8天。9月27日(星期日)、10月10日(星期六)上班。

节假日期间,各地区、各部门要妥善安排好值班和安全、保卫等工作,遇有重大突发事件,要按规定及时报告并妥善处置,确保人民群众祥和平安度过节日假期。

国务院办公厅

2019年11月21日

http://www.gov.cn/xinwen/2019-11/21/content_5454242.htm(92020nenn(2020年カレンダー)

(2019.11.30)

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2019年秋終末の天府広場―成都雑感〔149〕―

 2004年から開始された地下鉄工事に伴い、天府広場は再開発され、2007年2月に新装オープンがなされ、2010年10月に地下鉄1号線開通により天府広場站が開業し、次いで2013年9月に地下鉄2号線が開通して、乗換駅となり天府広場は完成しました。2019年10月19日(土)午後、天府広場に久しぶりに訪れたので、これを紹介します。

 写真1は、広場南東角から入って撮ったものです。右から毛沢東立像、東魚眼龍騰噴泉(地下が商店街と地下鉄入口となっています)、西魚眼龍騰噴泉を写し込んでいます。

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 写真2は、東魚眼龍騰噴泉を中心に地下を写し込んだものです。

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 最後の写真3は、毛沢東立像を背景に記念写真を撮る親子を写し込んだものです。以上3枚の写真には全て毛沢東立像を入れています。

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(2019.11.04)

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2019年秋週末の春熙路―成都雑感〔148〕―

 中山広場を中心に東西南北に広がる春熙路は成都の中心商業街であり、2002年2月、改修が終わり、歩行者専用道として今日に至っています。2019年10月19日(土)午前、春熙路に出てみました。そこで、秋週末の春熙路の様子をお見せします。

 写真1は、春熙路西段の西端から撮ったものです。後ろ右側が2007年5月に開業した成都伊勢丹です。西段は地下鉄春熙路站に隣接しているからか、最も人出が多かったです。

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 写真2は、成都伊勢丹を背景に小姐を撮ったものです。

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 写真3は、イトーヨーカドー海外支店第1号の春熙店(1997年開業)の「物産節」と名付けた露店です。

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 写真4は、露店で買い求めたものを食している風景です。

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 写真5は、小姐を撮ったものですが、右側の子の服装は唐代を模したもので、初めて見ました。

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 写真6は、春熙路北段の小姐です。

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 写真7は、春熙路北段と蜀都大道の交差点上に架かる歩道橋から撮ったものです。右側には西洋人の若い男女の像群があり、中国人記念撮影の場ともなっています。

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 写真8は、春熙路北段の小姐です。

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 写真9は、中山広場での小姐です。メード喫茶風の服装です。

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 写真10は、春熙路南段のベンチでの小姐です。皆スマホを持っています。

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 最後の写真11は、春熙路南段と東大街の交差点上に架かる歩道橋から、中山広場へと南段を俯瞰したものです。

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(2019.11.02)

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再訪大慈寺―成都雑感〔147〕―

 2019年10月18日(金)午後、大慈寺(古大聖慈寺)を参観しました。2013年3月以来です。当時は寺周辺を再開発中(太古里)で、寺自体も修復中でした。そこで、改めて本寺を紹介します。本寺は3・4世紀創建と伝え、1600年余の歴史を持つとされています。歴史的には唐代の三蔵玄奘(602~64)が武徳5(622)年春に受戒したことで知られています。そして、南宋の代、涪州人(重慶市涪陵区、旧涪江郡蘭溪邑)の蘭渓道隆(1213~78)が13歳にて本寺で出家しました。道隆はその後、寛元4(1246)年に日本に渡り、建長5(1253)年、時の執権北条時頼の創建した鎌倉の建長寺の開山となり、日本に純禅を伝来した僧として名を残します。このように、歴史に名を残した高僧が若くして修行したのが本寺であり、日本とも関係があるのです。本寺は唐宋代に栄え、その後、明代の宣德10改修されて今日に至っています。そして、2004年4月、正式に対外開放となりました。

 本寺の所在地は成都市大慈寺路(蜀都大道)23号で、拝観時間は8時~20時で、拝観は無料です。公共交通は、地下鉄2・3号線春熙路站下車です。E2出口(3号線南側)から東大街下東大街段に出て、東に行き、交差点を越して、南糠市街へと左折して北に行けば本寺です。約700mです。他に本寺北に接した大慈寺路の大慈寺路站か蜀都大道紅星路口站に停まる市内バス3路(九里堤公文站~城東客運站)・4路(茶店子公文站~成都東客站西広場站)・58路(万家湾公文站~五桂橋公文站)・98路(人民中路二段站~舜和園站)等があります。

 後山門(北門)から入りました。写真1は、蔵経楼です。2階が経蔵で、1階は法堂として仏事・行事に使われています。

 法堂では女性達の読経が行なわれていました。写真2が、それです。

 写真3は、祖師堂です。

 写真4は、大雄宝殿です。

 写真5は、本尊の釈迦牟尼仏像です。また、背面壁外には阿弥陀仏像が捧持されています。

 写真6は、法会の様で、釈迦牟尼仏像前の導師が読経をしています。この左右には女性の信者達が同じく読経しています。

 写真7は、観音堂です。

 写真8は、観音菩薩像です。祈りを捧げているところを撮りました。また、背面壁外には韋駄菩薩(韋駄天)が捧持されています。

 写真9は、薬師堂です。

 最後の写真10は、薬師仏像で、脇侍の左右は日光・月光菩薩像です。

(2019.10.30)

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再訪宝光寺―成都雑感〔164〕―

 2019年10月18日(金)午前、宝光寺を参観しました。2007年7月以来でした。そこで、改めて宝光寺を紹介します。宝光寺は後漢創設と伝えられ、長江四大禅林の名刹です。成都市の北郊19kmの新都区に位置しています。約10haの敷地内に、1塔5殿16院(庭)があります。舎利宝塔、山門殿・天王殿・七仏宝殿・大雄宝殿・蔵経楼です。拝観は夏季が8時から17時20分、冬季が8時から17時までとなっており、拝観料は5元です。

 宝光寺は後漢創立と伝えられ、最初「大石寺」と称していました。史書の確実な記載の最初は唐代の開元元(713)年ですから、伝えはともかく、1300年あまりの歴史をもつ古刹です。唐末の黄巣の乱で、四川に逃れた僖宗が当寺を行宮として滞在し、この関係で寺と舎利塔を建て直し、中和元(881)年、寺名も「宝光寺」と改められました。宋代に最盛を迎えましたが、明滅亡の崇禎年間(1640~4年)の兵火で全山焼失し土台のみが残りました。清代の康煕9(1670)年に再建されて、その後、増改築がなされ現在の姿に到っています。

 成都市内からの公共交通は、地下鉄3号線鐘楼站下車後、金光路に上がり、西に行った地鉄鐘楼站でX05・X41・X44・X45路に乗車し、5停留所目の宝光寺站で下車し、北に広がる宝光街を進めば門前に到ります。徒歩も含めて所要時間は約20分です。

 写真1は、山門殿です。門の左側が入寺口です。現存の山門殿は清代後期の道光15(1835)年に建てられたもので、門内の両側左右に1体の密跡金剛力士像を捧持しています。

 写真2は、天王殿です。天王殿は同治2(1863)年に再建され、また、殿裏は永楽11(1413)年に創建され同治2(1863)年に再建された尊勝幢で、このことから天王殿は尊勝宝殿とも称されます。

 写真3は、天王殿屋根中央の飾です。

 写真4は、天王殿中央に捧持されている弥勒仏像です。殿内の左右には四天王像を捧持しています。

 写真5は、正面から撮った13層の舎利宝塔です。正面に「光明藏」の額を掲げた、高30mの煉瓦造の宝塔は、唐代の中和年間(881~5)創建で、四面に仏像が彫られていますが、時代を経て今ではご覧のように少々傾いでいます。現存する寺内建築物の最古参が宝塔で、寺のシンボルともいえるものです。

 写真6は、裏面から撮った舎利宝塔です。

 写真7は、七仏宝殿です。咸豊11(1861)年に再建された七仏宝殿には釈迦牟尼仏像とそれ以前の六仏像が安坐しており、殿裏には韋駄天菩薩像が捧持されています。

 写真8は、中央が釈迦牟尼仏像です。

 写真9は、大雄宝殿です。咸豊9(1859)年に再建された大雄宝殿は約700㎡で36本の石柱に支えられた建物で、殿内中央に釈迦無尼仏像が安坐しております。「南無釋迦牟尼佛」額が掲げられています。

 写真10は、一番奥にある蔵経楼です。蔵経楼は高30m・延面積約1000㎡で、道光28(1848)年の再建です。楼2階が蔵で大蔵経336冊以下が納められています。楼1階は法堂となっています。楼の左右には東・西方丈が接しています。西方丈北側の西花園にチベット仏教ゲルク派の創始者ツォンカパ(1357~1419)を捧持した密壇があり、四川の仏教界とチベット仏教の関係が深いことが察せられます。

 さて、楼前の右側に羅漢堂への通路があります。写真11は、その途上にある藥師殿の薬師仏像です。左右は日光・月光菩薩像です。

 写真12は、左が羅漢堂入口で、奥の建物が羅漢堂です。羅漢堂は咸豊元(1851)年創建で、ここには577体(仏菩薩20体・祖師59体・羅漢518体)の像が捧持されています。いろいろな表情をした羅漢像を目にすることが出来ます。この羅漢像は清代後期の作で、これだけの羅漢像を一同に見ることは他では望めず、圧巻といえるもので、寺内の目玉的存在といえます。

 写真13は、中央奥に捧持されている千手観音像で、両側には羅漢像が並んでいます。

 写真14は、第187の大力尊者です。

 写真15は、第98の法王尊者です。以上の2つの羅漢像は堂の右側に位置します。

 写真16は、羅漢堂から舎利宝塔へと通じる壁道です。武侯祠や徒歩草堂に見る赤色の壁ですが、こちらの方が渋い色をしています。

 写真17は、同じく壁道で、出口の門の後ろに舎利宝塔が見えます。

 最後の写真18は、舎利宝塔から西に入った高僧塔林、すなわち本寺の高僧の墓所です。

 なお、フォトアルバム「成都・宝光寺」はhttps://1drv.ms/u/s!AruGzfkJTqxng6QCAn3HivfQAQtN0Q?e=vGFNtYです。

(2019.10.28)

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論文作成について―成都雑感〔163〕―

 2019年10月17日(木)午後、西南交通大学での卒業論文の論題提出は12月ですから、犀浦キャンパスで、日本語学科学部生及び院生への講義「論文作成について」を行ないました。そこで、この概略を紹介します。

A.論文とは

 研究論文とは、未知の問題設定(問)により、これを根拠に基づいて論証して、解決(答)するものです。すなわち、問題設定・論証・結論の3段階からなり、根幹は論証部分にあります。しかし、研究水準に達していない学部生の卒業論文では未知の問題設定は無理であり、これは求めません。既知の問題設定でもいいことにします。ただし、論証は自身の頭で考え出したものでなければなりません。たとえ、結果として先行論文があったとしても。

 さて、問題設定はどのようにして見つけるのでしょうか。まず、何といっても自身に興味のないことでは無理です。ですから、必ず自身が興味あること、好きなことから見つけるのが基本です。この方向が定まったら、次に如何するのでしょうか。問題設定を見つけるには大きく分けて二つのやり方があります。第1は先行研究から問題を見いだす方向です。第2は資料から見いだす方向です。この二つのやり方は相互に関連しており、単純に一つのやり方とはなりませんが、どちらかといえば資料からを基本とすべきでしょう。最後に、論証に必要な資料が利用できるかと、卒論の規定分量で論文を収められる問題設定かを考慮して、最終的な問題設定を決定します。

 問題設定が確定したら、論題を決定します。論題は広く一般的なものでなく、狭く具体的なものとします。例えば、「川端康成の研究」ではなく、「『雪国』から見る川端康成の美意識」というようにです。

B.研究論文といえないものとは?

1.1冊の書物や1編の論文を要約したもの。

2.他人の説を無非難に繰返したもの。

3.引用を並べただけのもの。

4.証拠立てられない私見だけのもの。

5.他人の業績を無断で使ったもの。

 1~4は論文が問題設定を論証して解決するものですから、レーポートなら許されることもありますが、論外です。5は絶対条件で、これに反するものは剽窃で、研究上の泥棒といえるものです。このため研究生命を絶たれた研究者は古今東西に枚挙がありません。

C.注記の原則

 論文には本文とは別に注が不可欠です。研究者にとって専門分野の論文はこの注に記してある先行論文や資料を見るだけで論文の良否についておよそ見当が付きます。論文にとって注は本文と同等の意味があると考えてください。従って、注は本文執筆と同時並行で執筆すべきものです。本文執筆後にまとめて注を記すなどはとんでもないことです。

 そこで、どのような場合に注を付けるべきかを述べます。それは以下の三つの場合です。

1.説明のため  a.本文展開上、副次的な論点で本文の流れを乱す恐れのあるもの。

b.大きな問題点でも、それに拘泥していると、本筋が進まなくなるもの。

c.本文の理解上、説明を加えた方がいいもの。

基本的に本文の流れを妨げる論述には、注を付けて本筋の流れをよくする。

2.論証省略のため  先学の説に従って研究を進める場合、その出典箇所の提示。

3.引用出所のためa.直接の引用の出所。

b.自己と他人の見解の区別のために他人の見解の出所。

c.資料の出所。

2・3は「5.他人の業績を無断で使ったもの」ではないことを示すものです。注の一番基本的な原則です。

 なお、注は論述の基礎として学問的な手続きを明記するものですから、常識的な事柄や研究分野での自明とされている知識(教科書的知識など)は注記の必要はありません。

 以上の論文作成にに加えて、日本語学の論文での慣例的な参考文献表書式と、これに基づいた注表記を規範と実例により述べました。

(2019.10.25)

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2019年9月27日九寨溝観光再度一部再開―四川雑感〔28〕―

 九寨溝風景区は、2017年8月8日、九寨溝地震で池崩壊等の重大な損傷を受けて、即日閉鎖されました。復旧工事により、2018年3月8日、観光が部分再開されました。しかし、同年6月25日夜の豪雨により、再度損傷を受け、再度閉鎖となりました。このため、景区内の道路の全面改修等、全面的な復旧工事を行なってきました。この結果、2019年9月27日、再度一部観光を再開しました。これは九寨溝管理局が2019年9月23日に「九寨沟景区关于部分区域恢复开放(试运行)的公告 」で公示されたものです。公示全文は、

https://www.jiuzhai.com/news/notice/6743-2019-09-23-10-38-38

です。公示内容の概要は、

1.開放区域
如溝の的扎如寺、樹正溝(火花海を除く)、日則溝(諾日朗瀑布から五花海まで)、則查洼溝。

2.開放時間と遊覧方法
每日8時30分~17時。
遊覧は観光車による統一遊覧。すなわち、乗車した観光車で戻り、景観点毎に下車遊覧して、もとの観光車に戻ります。いわば、観光車毎の即席ツァーとなります。

3.観光客数制限と接待単位
上限日5千人。
旅行社のツァー客のみで、個人客は不可。この旅行社は成都市の旅行社になるでしょう。

4.入場料
旺季(4月1日至11月15日)入場料169元、観光車90元,淡季(11月16日至次年3月31日)入場料80元/人、観光車80元/人。購入には各人毎に外国人は旅券が必要(実名制)。

 なお、現時点では個人客をは不可ですが、将来可能になった場合、入場券購入方法はネットからなる見込みです。

 再開当日の様子は九寨溝管理局の写真付記事、

https://www.jiuzhai.com/news/scenic-news/6749-2019-09-27-08-00-59

をご覧ください。本日のツァー団体135、観光客3152人、出動観光車70台です。写真には長海・五花海の様子が見えます。

(2019.09.27)

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