2021年度記事目次

 辛丑年を終わるに当たって、2020年度(1~12月)記事目次を掲載します。では、壬寅年がよいお年で。

O2.23 ソフィール踊り子1号

02.25 伊豆下田

02.27 河津桜2021

03.02 北条氏常磐亭跡―歴史雑感〔62〕―

03.04 大仏切通し―歴史雑感〔63〕―

03.22 2021年鶴見川の紅桜

04.12 山木夜討ち(その四)―歴史雑感〔37〕―

04.20 桜の盛岡城跡公園

04.21 平泉の桜並木

04.24 衣川北岸の安倍氏・奥州藤原氏関係地―歴史雑感〔64〕―

05.02 鎌倉幕府第2代将軍源頼家は何時元服したのか―歴史雑感〔65〕―

05.28 旧藤本家住宅―歴史雑感〔66〕―

06.28 湯河原の不動滝

08.06 後北条氏小田原城遺址(その1)―歴史雑感〔67〕―

08.08 後北条氏小田原城遺址(その2)―歴史雑感〔67〕―

08.12 後北条氏小田原城遺址(その3)―歴史雑感〔67〕―

08.14 後北条氏小田原城遺址(その4)―歴史雑感〔67〕―

08.16 後北条氏小田原城遺址(その5)―歴史雑感〔67〕―

10.16 黒部峡谷と黒部ダム(1)―黒部峡谷

10.12 黒部峡谷と黒部ダム(2)―黒部ダム

11.13 青森・北海道の縄文遺跡(1)大森勝山遺跡―歴史雑感(68)―

11.15 青森・北海道の縄文遺跡(2))亀ヶ岡遺跡―歴史雑感(68―

11.17 青森・北海道の縄文遺跡(3)小牧野遺跡―歴史雑感(68)―

11.19 青森・北海道の縄文遺跡(4)三内丸山遺跡―歴史雑感(68)―

11.22 青森・北海道の縄文遺跡(5)三内丸山遺跡常設展示―歴史雑感(68)―

11.24 青森・北海道の縄文遺跡(6)三内丸山遺跡特別展示―歴史雑感(68)―

11.25 2022年の中国の祝日―中国雑感〔54〕―

11.26 青森・北海道の縄文遺跡(7)大船遺跡―歴史雑感(68)―

12.09 安達氏祖盛長は何故藤九郎とのみ称したのか―歴史雑感〔69〕―

12.31 2021年記事目次

(2021,12.31)

カテゴリー: 記事目次 | コメントを残す

安達氏祖盛長は何故藤九郎とのみ称したのか―歴史雑感〔69〕―

 来年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に登場する安達氏祖盛長は、源頼朝の伊豆国流人の時からそばで仕え、鎌倉幕府成立後では甘縄邸に頼朝が度々訪れる等、最側近として知られています。盛長は『吾妻鏡』に52日所見(内、死後は2日)するが、生前末の正治元年10月27日条の「足立藤九郎入道」と同28日条の「安達藤九郎盛長入道」の2日を除けば、死後も含めて50日は単に名前のみか「藤九郎」とあり、いわゆる名字を付していません。これに対して、盛長嫡子の景盛は初見の正治元年7月16日条に「安達弥九郎景盛」とあるように、名字の安達を付して所見することが多いです。盛長は武蔵武士の足立遠元の叔父で同族との立証があります(金澤正大氏、「公文所寄人足立右馬允遠元の史的意義」(上)『政治経済史学』第156号1979年5月〔『鎌倉幕府成立期の東国武士団』2018年岩田書院再録〕)。

 盛長の嫡男景盛の系統が安達氏(城介氏)となり、次男時長の系統が大曽根氏となっており、この両氏の名字は陸奥国安達郡と出羽国大曽根荘に由来するものといえ、いずれも奥州合戦での盛長に対する新恩と考えられています。盛長の子孫が安達・大曽根氏となったことは明瞭です。では、盛長は安達・足立の名字を称したのでしょうか。はたまた単に藤九郎と称したのでしょうか。

 改めて、盛長を記している系図類を見てみよう。まず『尊卑分脉』です。『増補国史大系』第59巻の頁286に、北家魚名流山蔭後裔として、傍注「小野田三郎」兼盛の子として、傍注「安達六郎 小野田藤九郎」盛長として所見します。さらに、盛長の頭注には「城介」とあります。次ぎに、盛長の弟として、傍注「右大将家々人安達藤九郎民部丞」遠兼が記載されています。さらに、遠兼の頭注には「安達但小野田三郎兼盛子」とあります。遠兼孫の基春には傍注「安達八郎左衛門」とあります。ただ、遠兼を安達藤九郎とする記載は、盛長にも小野田藤九郎との傍注があり、盛長が九郎、遠兼が六郎と兄弟の淳は逆で、遠兼が兄六郎、盛長が弟九郎とするのが順当であることは、すでに指摘されています(金澤正大氏、同上)。ここで両人とも安達とありますが、遠兼孫の基春に「安達八郎左衛門」との傍注がありますが、この基春は『吾妻鏡』に「足立八郎」「足立八郎左衛門尉」等と所見する足立元春のことです。とすると、『尊卑分脉』の遠兼・基春の安達表記は同訓故に、「安達」を「足立」と誤記したといえ、遠兼の系列の安達は足立とするのがよいです。兼盛・盛長父子には「小野田」の傍注があり、小野田を名乗っていたように思えますが、遠兼にはそれがなく、この点不審です。

 さて、保延元年(1135)生まれの盛長より遠元は年上の甥で、仁安元年(1168)には少なくとも30代半ばに達していたと推定されています(金澤正大氏、同上)。「小野田三郎」兼盛は遠元祖父です。ここで遠元生年を切りよく1130年と推定し、さらに一代を25~30年とすると、二代故に兼盛の生年は1080~70年以前と推定することが出来ます。もちろんこの生年は正確ではないでしょうが、盛長の生年からするとより近いかもしれませんが、11世紀後半であることは確かでしょう。

 兼盛の生年がそうならば、この時期ではまだ名字が定着一般化していなかったといえます。そこで、源義家が「八幡太郎」と称されましたが、この「八幡」を名字とする見解はなく、「八幡太郎」を字とするのが定説であるのと同様に、傍注「小野田三郎」が正しいとしても、名字とはいえず、字としての個人表記といえましょう。とするならば、盛長の傍注「小野田」が正しいとしても、父と同様に字というべきで名字ではないといえましょう。しかも、兄弟の兼盛には「小野田」傍注はなく「安達藤九郎」とあり、盛長には「安達六郎」とあり、傍注「安達」が共通しており、小野田との共通性はありません。従って、本来は盛長に「小野田」はなかったとすべきでしょう。すなわち、盛長はたんに「藤九郎」とすべきなのです。そうならば、『吾妻鏡』の盛長の表記「藤九郎」と一致するのです。すなわち、盛長は「藤九郎」とすべきなのです。なお、細川重男氏は、小野田を三河国宝飫郡小野田荘として、盛長は同荘を名字の地とする小野田氏庶流としましたが(細川重男氏、「鎌倉政権得宗専制論」2000年吉川弘文館頁67~71)、上述の如く盛長に小野田の名乗りを認められない以上、この論には無理があります。また、兼盛に小野田名乗りがあったとしても、息遠兼が安達、すなわち足立と名乗っているとすると、これは武蔵国足立郡のことであり、そうならば、遠い三河国より同じ関東内の上総国垣生郡小野田郷(千葉県長南町)の方がふさわしいでしょう。

 もう一つの系図類が丹波国氷上郡佐治庄(京都府丹波市青垣町佐治)に西遷した足立氏庶流の後裔伝来の「足立系図」(東京大学史料編纂所影写本、『新編埼玉県史』別編年表・系図1992年埼玉県)です。こちらは『尊卑分脉』が盛長後裔を中心としているのに対して、足立遠元後裔が中心となっています。遠元には「号足立」の傍注があり、その男子元春(『尊卑分脉』の基春に相当し、足立氏嫡系)と遠光(丹波足立氏の祖遠政父)とには足立との傍注はありませんが、元重以下の男子には「号淵江田」等の傍注があります。すなわち、遠元の男子で足立氏を名乗る者には「足立」傍注がないことになります。これに対して、男子の最後に記載されている盛長には「号某」との傍注はなく、足立氏嫡流を継承した元春に「対馬守 左衛門尉」との右脇傍注と同様に、「藤九郎」とあるのみです。『尊卑分脉』が盛長・遠元を叔父甥関係としているのに、本系図では遠元・盛長を親子関係としていますが、この点はさておき、盛長が死去するまで官はなく「藤九郎と称していたことと一致します。

 以上、盛長を記載する二つの系図類からは盛長が称したのは「藤九郎」ということになります。では、盛長は何故に藤九郎と称したのでしょうか。上述の如く、父となる兼盛の代に名字「小野田」と称したことはないとしました。とすると、兼盛の代には氏名である「藤原」と称していたことになります。そうならば、盛長は「九郎」、おそらく末子であり、兼盛を継承したといえる六郎遠兼に対して、しかるべき名乗りの地を獲得していなかったと考えられ、「藤原の九郎」、すなわち「藤九郎」と称することになったと考えられるのです。すなわち盛長には名字がまだ成立していなかったのです。最後に、盛長に関しては、『武蔵風土記稿』巻之百五十足立郡之十六・糠田村に、殿ノ内出が盛長旧跡であり、放光寺を創立したと、記しています。放光寺(埼玉県鴻巣市糠田1435)には『武蔵風土記稿』にも記載されている伝安達盛長座像(南北朝時代)が現存します。その伝承が確かなら、盛長の居館は足立郡糠田にあったことになります。これらの伝承は盛長が足立郡に拠点があったことを窺わせるもので、足立氏の一族に属していたことも窺わせるものです。

(2021.12.09)

コメント

カテゴリー: 日本古代・中世史 | コメントを残す

青森・北海道の縄文遺跡(7)大船遺跡―歴史雑感(68)―

 2021年11月9日(火)、8時に出発し最初の見学地大船遺跡(北海道函館市大船町575−1)に8時45分に着きました。本遺跡は大船川沿岸の標高30~50mの海岸段丘上にあり、縄文中期の大型集落跡です。100棟を越える竪穴住居跡と盛土からなる居住区と、南西に墓・貯蔵穴を含む100基以上の土坑群が確認されています。

 写真1は、北からの大船遺跡の公開部分「縄文のにわ」全景です。

 写真2は、遺跡上部(東)から海(西)と撮ったものです。

 写真3は、枠のみの復元竪穴住居です。

 写真4は、復元竪穴住居です。

 写真5は、竪穴住居跡です。他の遺跡のが浅いのに対して、2m以上と深く掘込まれているのが分かります。

 写真6は、住居跡は重なって発掘されています。

 写真7は、復元竪穴住居内部です。

 写真8は、盛土遺構です。ここからは石器・土器の他、魚類骨・植物残滓が見つかっています。

 写真9は、海へともう一つの竪穴住居跡と奥に復元竪穴住居を撮ったものです。以上で本遺跡は終わりです。

 9時20分前に遺跡を離れ、ツァー最後の見学地函館市縄文文化交流センター(北海道函館市臼尻町551-1)に9時40分前に着きました。本センターは南茅部縄文遺跡群を中心に、函館市の縄文遺跡から出土した、土器・石器等の出土品を展示しています。

 写真10は、青竜刀型石器(垣ノ島遺跡 中期)です。

 写真11は、土偶(大船遺跡等)と上にシャチ形土製品(臼尻遺跡 中期)です。

 写真12は、注口土器(臼尻遺跡 中期)と下離有花土器(臼尻遺跡 中期)です。

 写真13は、壺型土器(臼尻遺跡 中期)です。

 写真14は、シカ絵画土器(臼尻遺跡 中期)です。

 写真15は、石器類です。

 写真16は、鈷先・複式釣針等の漁労具です。

 写真17は、漆糸製品(復元・垣ノ島遺跡)です。約9千年前のもので、世界最古です。

 写真18は、赤彩注口土器(臼尻遺跡 後期)です。

 写真19は、石製装飾品(臼尻遺跡)・玦状耳飾(ハマナス野遺跡・八木遺跡)・ヒスイ製装飾品(石倉貝塚 後期)等です。

 写真20は、足形・手形付土製品(豊原遺跡 早期末 重文)です。土抗内から発見されました。

 写真21は、正面から見た中空土偶です。著保内野遺跡出土品で、縄文後期後半のもので、高41.5cm・幅20.1cm・重量1.745kgです。2007年6月に北海道初の国宝指定を受けました。

 最後の写真22は、右斜めから見た中空土偶です。以上ですべての見学を終えました。

 センターを10時20分過ぎに出て、函館ベイエリアに11時40分に着き、13時10分までの自由散策となりました。その後、JAL函館発14時55分・羽田着16時25分でツァー終了です。

(2021.11.26)

カテゴリー: 日本古代・中世史 | コメントを残す

2022年の中国の祝日―中国雑感〔54〕―

 明年の祝日(休日)に関して、2021年11月25日(木)、国務院の通知「国務院弁公庁関于2020年部分節假日安排的通知」が国務院公式サイトにアップされ公表されました。昨年から従来の12月から11月へと早く公表されましたが、本年も昨年と同日です。

一 元旦(1月1日)

1月1日(土)~3日(月)の3日間を休日。++

二 春節(旧暦元旦 2月1日) 法定休日(旧暦大晦日・元旦・1月2日)

1月31日(月)~2月6日(日)の7日間を休日。

1月29日(土)〔3日・木〕・1月30日(日)〔4日・金〕振替出勤日。

三 清明節(4月5日)

4月3日(日)~5日(火)の3日間を休日。

4月2日(土)〔4日・月〕振替出勤日。

四 労働節(5月1日)

4月30日(土)~5月4日(水)の5日間を休日。

4月24日(土)〔3日・火〕・5月7日(日)〔4日・水〕振替出勤日。

五 端午節(旧暦5月5日 6月5日)

6月3日(金)~5日(日)の3日間を休日。

6月28日(日)〔26日・金〕振替出勤日。

六 中秋節(旧暦8月15日 9月10日)

9月10日(日)~12日(火)の3日間を休日。

七 国慶節(10月1日) 法定休日(10月1日~3日)

10月1日(土)~7日(金)の7日間休日。

10月8日(土)〔6日・木〕、9日(日)〔7日・金〕振替出勤日。

国务院办公厅关于2022年部分节假日安排的通知

各省、自治区、直辖市人民政府,国务院各部委、各直属机构:

经国务院批准,现将2022年元旦、春节、清明节、劳动节、端午节、中秋节和国庆节放假调休日期的具体安排通知如下。

一、元旦:2022年1月1日至3日放假,共3天。

二、春节:1月31日至2月6日放假调休,共7天。1月29日(星期六)、1月30日(星期日)上班。

三、清明节:4月3日至5日放假调休,共3天。4月2日(星期六)上班。

四、劳动节:4月30日至5月4日放假调休,共5天。4月24日(星期日)、5月7日(星期六)上班。

五、端午节:6月3日至5日放假,共3天。

六、中秋节:9月10日至12日放假,共3天。

七、国庆节:10月1日至7日放假调休,共7天。10月8日(星期六)、10月9日(星期日)上班。

节假日期间,各地区、各部门要妥善安排好值班和安全、保卫、疫情防控等工作,遇有重大突发事件,要按规定及时报告并妥善处置,确保人民群众祥和平安度过节日假期。

国务院办公厅

2021年10月25日

(2012.11.25)

カテゴリー: 中国祝日 | コメントを残す

青森・北海道の縄文遺跡(6)三内丸山遺跡特別展示―歴史雑感(68)―

 2021年11月8日(月)午後、三内丸山常設展示に続いて特別展示「あおもりの縄文世界」を見学しました。青森県出土品から縄文世界を探訪できる構成となっています。

 写真1は、網籠(三内丸山遺跡 縄文前期)です。

 写真2は、細隆起線文尖底深鉢型土器(三内丸山遺跡 草創期)で、縄文最古級のものです。

 写真3は、土器(三内丸山遺跡 中期 重文)、深鉢形土器(つがる市石神遺跡 中期 重文)、土偶(石神遺跡 中期 重文)です。

 写真4は、深鉢形土器(三内丸山遺跡 前期 重文)で、いろいろな縄目文様があります。

 写真5は、円筒土器(三内丸山遺跡 中期 重文)です。

 写真6は、遮光器土偶(西目屋村川原平遺跡 晩期)です。

 写真7は、亀ヶ岡式壺型彩色土器(つがる市亀ヶ岡遺跡 晩期)と漆塗り壺型土器(西目屋村川原平遺跡 晩期)です。

 写真8は、黒漆塗り鉢形木器(三内丸山遺跡 前期 重文)です。

 写真9は、開窩式離頭銛(東北町東道ノ上遺跡 前期)です。

 写真10は、狩猟文土器(西目屋村川原平遺跡)です。樹・弓矢・動物等を描いています。

 写真11は、土製仮面(青森市羽黒平遺跡 晩期)です。

 写真12は、石棒(西目屋村砂子瀬遺跡 後期)です。

 写真13は、石刀(西目屋村川原平遺跡 晩期)です。

 写真14は、人面付き土器(西目屋村川原平遺跡 晩期)です。

 写真15は、遮光器土偶(三戸町八日町遺跡 晩期)です。

 最後の写真16は、網組製器(三内丸山遺跡 前期)です。

 以上で、三内丸山遺跡見学は終わりです。集合時間まで時間があったので、コーヒーを喫し時間を過ごしました。14時30分に出発し、はやぶさ23号新青森発15時31分・新函館北斗着16時36分着で北海道に渡り、17時30分に湯の川温泉のロイヤルホテル南北海道鹿部に到着しました。

(2021.11.24)

カテゴリー: 日本古代・中世史 | コメントを残す

青森・北海道の縄文遺跡(5)三内丸山遺跡常設展示―歴史雑感(68)―

 2021年11月8日午後、遺跡見学に続き、時遊館内の三内丸山遺跡出土品をを展示している「さんまるミュージアム」(常設展示室)を見学しました。ここには重要文化財約500点を含む総数約1,700点の遺物を展示しています。以下、幾つかの展示品をお見せします。

 写真1は、青竜型石器です。

 写真2は、異形石器(重文)です。

 写真3は、岩偶です。

 写真4は、土偶です。

 写真5は、木製片口容器です。

 写真6は、ヒスイ製大珠です。

 写真7は、装身具(重文)です。

 写真8は、刺突具(重文)です。

 写真9は、大型板状土偶(重文)です。

 写真10は、砥石(重文)です。

 写真11は、半円状扁平打製石器(重文)です。

 写真12は、石錐(重文)です。

 写真13は、黒曜石製石槍です。

 写真14は、黒曜石製石鏃です。

 写真15は、円筒土器・深鉢形土器(重文)等です。

 写真16は、縄文前期の網籠(重文)、縄文ポシェットです。

 写真17は、クリの大型木柱です。

 写真18は、クリの大型木柱残です。

 写真19は、盛土から出土した土器・石器等です。後方は盛土地層です。

 写真20は、円筒下層式前半の土器です。

 写真21は、各期の円筒土器展示です。下段から下層式前半・後半・上層式前半・後半です。

 写真22は、漆塗の台付皿残片(重文)です。

 写真23は、漆塗壺型土器(重文)です。

 写真24は、土偶です。

 写真25は、人物文様付き土器です。

 最後の写真26は、子供墓に使われた土器です。

 三内丸山遺跡見学の最後として特別展示見学に向かいます。

(2021.11.22)

カテゴリー: 日本古代・中世史 | コメントを残す

青森・北海道の縄文遺跡(4)三内丸山遺跡―歴史雑感(68)―

 2021年11月8日(月)10時50分過ぎに三内丸山遺跡(青森県青森市大字三内字丸山)に到着しました。まず三内丸山遺跡センター前にある「縄文時遊館・五千年の星」で昼食です。その後自由見学です。

 写真1は、遺跡入口からの三内丸山遺跡全景です。

 写真2は、大型竪穴住居(復元)です。

 写真3は、同じく大型竪穴住居(復元)です。

 写真4は大型竪穴住居内です。、

 写真5は、大型立柱建物(復元)です。2列・3基の柱穴(直径2m・深さ2m)が約4.2m間隔で並びます。柱穴から直径1mの栗の木柱が見つかり、縄文中期後半(紀元前2600年前)と考えられています。

 写真6は、同じく大型立柱建物(復元)です。

 写真7は、大型立柱建物(復元)説明板です。

 写真8は、大型竪穴住居(復元)と大型立柱建物(復元)です。

 写真9は、大型立柱建物跡です。ご覧のように6基の柱穴が整然と並んでいます。

 写真10は、木柱が残る柱穴です。

 写真11は、子供墓跡です。

 写真12は、北盛土跡です。

 写真13は、高床式建物(復元)です。

 写真14は、大型竪穴住居跡です。

 写真15は、大人墓(土抗墓)跡です。

 写真16は、竪穴建物群(復元)です。

 写真17は、竪穴建物内です。中央の炉に薪がくべられています。

 写真18は、青森市立新城小学校6年生制作の茅葺竪穴建物(復元)です。

 最後の写真19は、南盛土跡です。残土や石器・土器等が棄てられた盛り上がったものです。以上で遺跡見学は終わりです。ほぼ時計回り巡り見学時間は約40分でした。

 続いて出土品展示となります。

(2021.11.19)

カテゴリー: 日本古代・中世史 | コメントを残す

青森・北海道の縄文遺跡(3)小牧野遺跡―歴史雑感(68)―

 ツアー2日目の2021年11月9日(月)は縄文の学び舎・小牧野館(青森市大字野沢字沢部108-3)の自由見学からです。近くの小牧野遺跡を紹介しています。ホテルを8時50分に出発して、9時20分前に到着しました。

 写真1は、小牧野遺跡の環状列石建設運搬器具を想像復元した展示です。

 写真2は、埋設土器です。これは地面に埋められた状態で使用していたので、この命名となりました。

 写真3は、環状配岩炉です。

 写真4は、下段から土偶、注口土器、クマ型土製品です。

 写真5は、壺型土器です。

 写真6は、擦傷のある石です。

 写真7は、山野峠遺跡の石棺墓(復元)です。

 写真8は、深鉢形土器です。

 写真9は、山野峠遺跡の狩猟文土器です。以上で本館は終わりで、9時50分に出て小牧野遺跡に向かいます。

 10時に小牧野遺跡に着きました。本遺跡は縄文後期前半に作られた環状列石を主体とするものです。荒川と入内川に挟まれた舌状台地の標高140メートル付近に位置しています。環状列石は、直径35mの外帯・29mの内帯・2.5mの中央帯の3重の輪、それに一部4重となる弧状の列石と外帯を囲む直径4m前後の環状配石等で構成され、最大直径55mです。写真10は、遺跡に入ったところから見た環状列石の左側(北)で、右に立つ列石は中央帯です。

 写真11は、奥(南)から環状列石を見たもので、ご覧のように中央帯へは通路があります。皆さんはこれからガイドさんの説明を受けます。

 写真12は、南東から南の環状列石を撮ったものです。内帯と外帯に多くの特殊組石があります。

 写真13は、東から西へと環状列石を撮ったものです。

 写真14は、中央帯です。

 写真15は、第9号特殊組石(北)です。

 写真16は、第7号特殊組石(北)です。

 写真17は、第8号特殊組石(西北)です。

 写真18は、南からの環状列石全景です。

 写真19は、中央の高い右の列石には「罵倒観世音」「嘉永七甲寅年(1854)願主新山久助」と刻されています。

 写真20は、土杭墓跡です。100基を超える土杭墓が環状列石に隣接する東側緩斜面一帯に分布しています。

 写真21は、捨て場跡です。環状列石の北、西に沢地形へと傾斜が始まる地点に形成されており、多量の土器・石器・土偶・三角形岩版等が出土しています。

 写真22は、竪穴住居跡です。環状列石の北の平場に位置します。

 写真23は、平場から陸奥湾を望見したものです。

 最後の写真24は、「小牧野遺跡環状列石実測図」(https://komakinosite.jp/index.php/intro/about-komakino.html)です。

 10時40分に小牧野遺跡を離れ、次の見学地三内丸山遺跡に向かいます。

(2021.11.17)

カテゴリー: 日本古代・中世史 | コメントを残す

青森・北海道の縄文遺跡(2)亀ヶ岡遺跡―歴史雑感(68)―

 2021年11月7日(日)、つがる市森田歴史民俗資料館から次の見学地、縄文晩期の集落遺跡である亀ヶ岡遺跡(青森県つがる市木造亀ケ岡)に14時55分に到着しました。写真1は、本遺跡出土品を代表する遮光器土偶(重要文化財 東京国立博物館所蔵)の出土地です。ただし、考古学的調査により発見されたのではなく、地元民の発見のため、正確な出土地は不明で、この低湿地内ということです。17世紀前期の築城により遺物が発見され、以後地元民等が遺物を発掘し、好事家に知られるようになりました。1889年(明治22年)に初めて学術調査が行われて現在に至っています。この一帯の低湿地から土器・石器等の多数の遺物が出土しました。

 写真2は、遺跡入口に立てられている、遮光器土偶モニュメントです。

 近くのつがる市木造亀ヶ岡考古資料室(青森県つがる市木造若緑52)に移動し、亀ヶ岡遺跡出土品の見学です。写真3は、土器・石器類の展示です。土偶・石棒・石斧・石鏃・壺型土器等です。

 写真4は、縄文晩期の注口土器です。青森県立郷土館風韻コレクション(八戸市是川遺跡出土等)です。

 写真5は、赤漆塗り壺型土器です。1982年の発掘品です。

 写真6は、土偶と皿形土器です。

 写真7は、頭のない遮光土器です。亀ヶ岡遺跡の北側の低湿地、近江野沢から出土した縄文晩期前半のものです。ベンガラと考えられる塗料で赤く、中は中空です。

 写真8は、縄文後期の土偶頭部です。

 写真9は、縄文晩期の赤漆塗り皿形籃胎漆器です。

 写真10は、赤漆塗り骨製垂飾品です。

 写真11は、竪穴住居内の縄文人の生活ジオラマです。

 写真12は、円筒下層式土器(左2基)、円筒上層式土器(中央2基)、大木10式併行土器(右)です。

 写真13は、縄文早期の貝殻文土器です。青森県埋蔵文化財調査センター所蔵です。

 写真14は、同センター所蔵の縄文中期の榎林土器です。

 写真15は、同センター所蔵の縄文後期の十腰内式土器です。

 写真16は、亀ヶ岡展示遺跡コーナーとして、石器・漆器・土器等が展示されています。

 写真17は、石神遺跡出土の縄文中期の円筒上層b式土器です。

 写真18は、同センター所蔵の土偶(三戸町泉山遺跡出土)です。

 最後の写真19は、川村彫刻所制作の重要文化財遮光土偶像です。

 以上で、本日の見学は17時に終え、18時40分にアートホテル青森に入りました。

(2021.11.15)

カテゴリー: 日本古代・中世史 | コメントを残す

青森・北海道の縄文遺跡(1)大森勝山遺跡―歴史雑感(68)―

 2021年11月7・8・9日(日・月・火)、クラブ・ツーリズム主催の「日本の先史時代がニコル縄文ロマンの旅へ北海道・北東北縄文遺跡ハイライト3日間」で縄文遺跡を巡ってきました。基本見学地は、

初日 大森勝山遺跡、森田歴史民俗資料館、亀ヶ岡遺跡、つがる市木造亀ヶ岡考古資料室

2日 縄文の学びや・小牧野館、小牧野遺跡、三内丸山遺跡

3日 大船遺跡、函館市縄文文化交流センター

です。

 JAL143便羽田9時55分発青森11時10分着で青森に飛びました。最初の見学地は世界文化遺産「北海道・北東北の縄文遺跡群」の大森勝山遺跡(青森県弘前市大森勝山)です。12時30分に到着しました。地元ガイドの案内付き(以後の見学地も同様)です。本遺跡は岩木山の東北山麓に位置し、約3千年前の縄文晩期の環状列石の遺跡です。

 写真1は、環状列石の外側にある屋外炉です。本遺跡は発掘調査後に埋戻し、表面土上に移行をレプリカ展示しています。同型同質の石を用いています。

 写真2は、遺跡入口から左に環状列石を撮ったものです。環状列石は楕円形で長径48.5m・短径39.1mです。77基の組石が約1200個の石で作られており、過半の石は遺跡の南北を流れる大森川・大石川の川原石です。

 写真3は、右に環状列石を撮ったものです。

 写真4は、石を触ながら組石を説明中のガイドさんです。

 写真5は、中央の組石です。奥に岩木山が見えます。

 写真6は、さらに奥の組石で、環状列石の奥には竪穴建物跡、さらに奥に岩木山が見えます。冬至前後には岩木山山頂への日没が見られます。

 写真7は、前の組石を角度を変えて拡大して撮ったものです。

 写真8は、土器埋設遺構です。

 写真9は、環状列石の南東約100mに位置する竪穴建物跡です。正面奥が岩木山です。

 写真10は、竪穴建物跡です。直径14.1mで、4本の柱跡が残され、中央は直径約1.5mの石組炉です。建物跡はここ一棟のみであり、住居ではなく、祭礼等の何らかの儀式の場と考えられています。

 写真11は、環状列石の手前に東の台地端に位置する捨て場です。ここから土器・石器・土製品等が出土しました。以上で本遺跡は終わりで、13時前に遺跡を離れ、五所川原市で昼食となりました。

 昼食後の最初の見学地のつがる市森田歴史民俗資料館(青森県つがる市森田町森田月見野340−2)には14時に着きました。本館の西南約1kmに位置する縄文前・中期の石神遺跡(つがる市森田町床舞石神地内)出土品を中心に展示をしています。本遺跡では円筒土器が層位的に順序正しく出土しました。

 展示品の写真をお見せします。写真12は、石器類の展示で、石鏃・石匙・石斧等です。

 写真13は、上段は縄文前期の円筒下層a式土器(重要文化財。以下同様)、下段は石臼で、石神遺跡出土品です(以下同様)。

 写真14は、縄文前期の円筒下層d1式土器と円筒下層d2式土器です。

 写真15は、縄文中期の円筒下層b式土器と円筒下層c式土器です。

 写真16は、板状土偶です。

 写真17は、板状土偶頭部です。

 写真18は、縄文中期の円筒上層a式土器の人面付深鉢形土器です。

 最後の写真19は、縄文中期の円筒上層c式土器です。14時30分に出発し、亀ヶ岡遺跡に向かいます。

(2021.11.13)

カテゴリー: 日本古代・中世史 | コメントを残す

黒部峡谷と黒部ダム(2)―黒部ダム

 ツァー2日目の2021年10月10日(日)は黒部ダム観光です。7時50分にホテルを出発し、8時半過ぎに関電トンネル電気バス扇沢駅に着きました。最初の見学地はトロバス記念館です。次いで、関電トンネル電気バスに乗車し、黒部ダム駅に至り、ガイドの案内で黒部ダム河床に9時50分過ぎに向かいます。

 写真1は、河床に着いて、何枚か撮った後の写真です。撮影時間は10時40分過ぎです。

 写真2は、ダムを拡大して縦位置にしたもので、放流の様が分かります。

 10時45分過ぎに戻りの上りとなり、途中2回の休みを挟み、関電トンネル工事跡に11時50分過ぎに入り見学となりました。写真3は、トンネル工事跡で、抗夫の塑像が展示されています。

 見学後、13時前頃から黒部ダム展望台休憩所でおむすび弁当での昼食です。昼食後、展望台に上がり撮ったのが、写真4です。黒部湖とダム堰堤です。

 写真5は、放流するダムと湖を撮ったものです。

 写真6は、放流するダムです。

 昼食休憩が終わり、黒部ダムレストハウス前に再集合し、13時40分に再びガイドの案内で新展望広場レインボーテラスへと下ります。写真7は、一番下に下り撮ったものです。14時10分前です。

 写真8は、放水部を拡大したものです。

 写真9は、縦位置にしたものです。

 ダム堰堤に戻り見下ろして放流を撮ったのが、写真10です。14時40分です。

 写真11は、ダム堰堤上から横に放流を見たものです。

 ダム堰堤を渡り、切れたところで撮ったのが、写真12です。これから遊覧船ガルベに乗船します。

 写真13が、遊覧船ガルベです。貸切り船です。

 15時に遊覧施ガルベは出港しました。写真14は、ダム堰堤を撮ったものです。

 写真15は、Uターンして少し行ったところで、ダム堰堤へと撮ったものです。

 写真16は、東に赤沢岳へと撮ったものです。

 写真17は、戻りに西に白山へと撮ったもので、中央に大観峰に向かうロープウェイが見えます。またその下は紅葉しています。

 最後の写真18は、湖奥へと撮ったものです。15時30分過ぎです。

 15時40分前には下船し、観光を終え帰路につきます。上田駅発あさま630語に乗車し、東京駅着20時52分でツァー終了です。なお、フォト・アルバム「黒部ダム2021」はhttps://1drv.ms/u/s!AruGzfkJTqxng71QJqVfHctezxeboA?e=gbQ8e9です。

(2021.10.18)

カテゴリー: 観光(日本) | コメントを残す

黒部峡谷と黒部ダム(1)―黒部峡谷

 クラブツーリズム主催の「黒部ダム河床ハイキングと関電トンネル工事跡見学2日間」で、2012年10月9・10日(土・日)に旅をしました。

 東京駅7時24分発北陸新幹線あさま603号で9時13分着長野駅着で到着後、バスで宇奈月湖畔に移動しました。12時過ぎで、おりから黒部峡谷トロッコ列車が通過し、その写真の一つ、新柳河原発電所と共にトロッコ列車を写し込んだのが、写真1です。

 次いで、湖面橋まで戻り、最初の散策であるトロッコ旧道・工事用冬期歩道です。ガイドの案内がありました。写真2は、冬期歩道です。

 やまびこ遊歩道へと下り、見上げて黒部峡谷鉄道の新山彦橋を撮ったのが、写真3です。

 写真4は、黒部川に架かるやまびこ遊歩堂上(橋)から新山彦橋を通過中の宇奈月駅12時50分発のトロッコ列車です。普通車・リラックス車編成です。

 宇奈月駅に戻り、自由時間兼昼食です。この間を利用して、やまびこ展望台に行き、トロッコ列車撮影を行いました。写真5は、その一枚で、宇奈月駅着13時46分着ですが少し遅れました。

 14時14分発の普通車に乗車し、鐘釣駅に向かいます。幸いさほど混んでおらず、川側に席を取りました。写真6は、新山彦橋を通過中で撮ったものです。

 写真7は、うなずき湖です。正面に湖面橋とその奥に宇奈月ダム堰堤が見えます。

 写真8は、柳橋駅へと入るところで撮ったもので、左は上りのトロッコ列車、中央は新柳河原発電所です。

 写真9は、森石駅に接続する森石橋を通過中のトロッコ列車です。

 写真10は、黒薙駅へのトロッコ列車です。

 写真11は、出し平ダムです。

 写真12は、猫又駅手前の黒部第二発電所です。

 写真13は、猫又駅での列車交換です。

 写真14は、鐘釣橋通過中を、上流へと撮ったものです。鐘釣駅には少し遅れて15時20分に下車しました。約1時間の自由時間です。

 写真15は、鐘釣駅下車後に撮ったもので、16時を過ぎていました。

 16時21分発の上りで宇奈月へと戻ります。最後の写真16は、新山彦橋を通過中に撮ったものです。左は橋を見下ろせるクリスタルバリー宇奈月です。バスでホテルのある栂池へ向かい、19時過ぎに到着しました。

 なお、フォト・アルバム「黒部峡谷2021」はhttps://1drv.ms/u/s!AruGzfkJTqxng70wqt6k8j9KXNSeGQ?e=2xfG13です。

(2021.10.16)

コメント

カテゴリー: 観光(日本) | コメントを残す

後北条氏小田原城遺址(その5)―歴史雑感〔67〕―

(その1)一、八幡山古郭

(その2)二、小峯御鐘ノ台大堀切西堀・中堀

(その3)三、小峯御鐘ノ台大堀切東堀

(その4)四、三の丸外郭新堀土塁

(その5)五、八幡山古郭東曲輪

五、八幡山古郭東曲輪

 三の丸外郭新堀土塁入口に戻り、道路を下り(東)小田原競輪場を過ぎ新幹線をまたいだ先の十字路を左手(北)に道を取ると、東曲輪跡に至ります。写真1は、道路から東曲輪へと上ったところで、曲輪中央から小田原城天守閣(東)へと撮ったものです。

 写真2は、曲輪左手奥(北)から撮ったもんです。

 写真3は、曲輪右手(南)から撮ったものです。

 写真4は、曲輪から見た小田原城天守閣です。

 写真5は、下に降りて曲輪を見上げて撮ったものです。

 最後の写真6は、曲輪中央に立てられている「八幡山古郭東曲輪」説明板です。

 以上、小田原駅西口を起点に逆時計回りで後北条氏小田原城遺址を巡りました。所要時間は約2時間半でした。

(20121.08.16)

カテゴリー: 日本古代・中世史 | コメントを残す

後北条氏小田原城遺址(その4)―歴史雑感〔67〕―

(その1)一、八幡山古郭

(その2)二、小峯御鐘ノ台大堀切西堀・中堀

(その3)三、小峯御鐘ノ台大堀切東堀

(その4)四、三の丸外郭新堀土塁

(その5)五、八幡山古郭東曲輪

四、三の丸外郭新堀土塁

 東堀南口の道路対面先が三の丸外郭新堀土塁入口です。ここは旧閑院宮別邸跡で、開園時間は10~15時です。道路の海寄り(東堀からは左手)に箱根登山バスの城山四丁目バス停があります。小田原駅前西口からのいこいの森行が運行されています。ただし、日中は1時間に1本なので時刻表に注意してください。

 写真1は、高い曲輪の際から下の郭を見たものです。右手が土塁となります。

 写真2は、下り南へと撮ったものです。土塁越し見える山は石垣山です。右手は一段高い曲輪となっています。

 写真3は、西へと撮ったものです。

 写真4は、戻り東に撮ったものです。海まで望見できます。

 写真5は、少し下がって同じく西を撮ったものです。

 写真6は、南へと撮ったもので、正面に石垣山がよく見えます。

 写真7は、遠く真鶴半島を望見して撮ったものです。

 最後の写真8は、正面に石垣山を見る所に立てられている「三の丸外郭新堀土塁」説明板です。

(2021.08.14)

カテゴリー: 日本古代・中世史 | コメントを残す

後北条氏小田原城遺址(その3)―歴史雑感〔67〕―

(その1)一、八幡山古郭

(その2)二、小峯御鐘ノ台大堀切西堀・中堀

(その3)三、小峯御鐘ノ台大堀切東堀

(その4)四、三の丸外郭新堀土塁

(その5)五、八幡山古郭東曲輪

三、小峯御鐘ノ台大堀切東堀

 中堀から東堀に戻ります。写真1は、小峯御鐘ノ台大堀切東堀の北口から南へと撮ったものです。左手(東)上端が土塁、右手(西)上端が中堀間の土塁となっています。東堀は280mが現存し、幅25~30m、深さ8~10mですが、発掘調査により実際の深さは12~15mあり、障子堀となっています。堀法面の傾斜度は50~60度あり、関東ローム層から、上るのは困難となっています。

 写真2は、東堀土塁です。現存の土塁は幅4m、高2mです。

 写真3は、土塁説明板の立っている所です。その先で土塁切口(通路))があります。

 写真4は、土塁上からの切口です。

 写真5は、土塁上から南へと撮ったものです。

 写真6は、切口から南への東堀を撮ったものです。奥に屈折部(横矢掛り)が見えています。

 写真7は、切口から少し北に戻ると、堀越しに中堀・東堀間の土塁切口(通路)が見え、これを撮ったものです。

 土塁を戻り、北口から東堀に入ります。ここは散策路でもあります。写真8は、少し入り南へと撮ったものです。急斜面の法面が分かります。

 写真9は、さらに進み、屈折部(横矢掛り)が見えてきた所です。

 写真10は、屈折部(横矢掛り)の所です。

 写真11は、逆に南から屈折部(横矢掛り)を見た所です。

 写真12は、さらに南へと撮ったものです。

 写真13は、少し離れて逆に屈折部(横矢掛り)を撮ったものです。

 写真14は、さらに進み、南口が見える所で撮ったものです。

 写真15は、南口手前から北へと撮ったものです。

  写真16は、南口です。

 最後の写真17は、南口にある「小峯御鐘ノ台大堀切東堀」説明板です。

(2021.08.12)

カテゴリー: 日本古代・中世史 | コメントを残す

後北条氏小田原城遺址(その2)―歴史雑感〔67〕―

(その1)一、八幡山古郭

(その2)二、小峯御鐘ノ台大堀切西堀・中堀

(その3)三、小峯御鐘ノ台大堀切東堀

(その4)四、三の丸外郭新堀土塁

(その5)五、八幡山古郭東曲輪

二、小峯御鐘ノ台大堀切西堀・中堀

 八幡山古郭に次いで、小峯御鐘ノ台大堀切を訪れます。県立小田原高校を左手(南)に見、さらに城山公園を過ぎると、左手(南)に小峯御鐘ノ台大堀切東堀に至ります。さらに少し進むと、小峯御鐘ノ台大堀切西堀の案内板が下にある上り道に出ます。そのまま少し進むと、「総構」と「小峯御鐘ノ台大堀切西堀」説明板の立っている所に至ります。写真1が、これです。西堀は天正18年(1590)の小田原合戦への備えとして総構と共に造られたものです。

 写真2は、西堀を北へと撮ったものです。

 写真3は、逆に南へと撮ったものです。

 写真4は、堀先から北を見たものです。本来は総構としてこの東西に堀が広がっていましたが、埋められて単なる草地となっています。

 写真5は、木に掲げている西堀図です。

 写真6は、戻り南へと撮ったもので、左が土塁となっています。

 写真7は、逆に北へと撮ったものです。中央左の木に西堀図が掲げられています。

 写真8は、西堀土塁から堀を見下げたものです。以上で西堀は終わりです。

 写真9は、西堀説明板です。以上で西堀は終わりです。

 道を戻り、小峯御鐘ノ台大堀切中堀に来ます。中堀も西堀と同じく天正10年の小田原合戦への備えとして造られたもので、東堀の西に接して掘られて、この間は土塁となっています。写真10は、少し入った所で、南へと中堀を撮ったものです。ご覧のように堀は道路として利用されています。

 写真11は、中堀の屈折部(横矢掛り)です。

 写真12は、屈折部から南へと中堀を撮ったものです。

 屈折部には東堀との間の土塁が切られて通路となっています。写真13は、奥が東堀土塁です。現在の中堀は通路よりわずかに低いですから、中堀は相当埋められていることになります。

 最後の写真14は、屈折部を北へと撮ったものです。以上で中堀は終わりです。

(2021.08.08)

カテゴリー: 日本古代・中世史 | コメントを残す

後北条氏小田原城遺址(その1)―歴史雑感〔67〕―

(その1)一、八幡山古郭

(その2)二、小峯御鐘ノ台大堀切西堀・中堀

(その3)三、小峯御鐘ノ台大堀切東堀

(その4)四、三の丸外郭新堀土塁

(その5)五、八幡山古郭東曲輪

一、八幡山古郭

 2021年7月21日(水)午前、後北条氏小田原城遺址を巡りました。最初が八幡山古郭です。小田原駅西口から左手(西)に進み、「八幡山古郭」の石柱のある坂道へと、右手(北)に上って行き、百段坂(階段)の手前で、道を左(西)に入り道なりに時計回りに進みます。

 写真1は、時計回りで進んできて、右(東)へと入る道を進んだ先で、東へと撮ったものです。ここが本曲輪跡で、城山3丁目です。この地は江戸時代に小田原藩の家臣屋敷地でした。奥の車の駐車している所からは眼下に小田原駅、さらに酒匂川方面が望見できます。

 写真2は、東への道に入る所から西に早川方面と撮ったものです。ご覧のように西は傾斜地で本曲輪が丘陵上にあることが分かります。

 写真3は、さらに進み、西からの道との合流点で、北の道(時計回りの道はこれです)を西へと撮ったものです。右側の高くなった木々のある所が本曲輪高台(土塁)跡です。

 少し北に進むと、「小田原城八幡山古郭」説明板の立っている所に出ます。写真4が、これです。左の木の生えている先が本曲輪高台です。この木から説明板にかけては本曲輪北堀跡です。階段を上ると、県立小田原高校グランドに至ります。

 写真5は、「小田原城八幡山古郭」説明板にある「小田原高校一帯における戦国時代遺構の展開」図です。ご覧のように、本曲輪北に接して、小田原高校に西曲輪が展開しています。本高校は発掘調査がなされ、図示されています。

 階段を上り左手(西)に「西曲輪西堀と三味線堀」説明板の立っている小空間があります。写真6が、これです。

 最後の写真7は、さらに奥に進み、「小田原城八幡山古郭」説明板の立っている所です。左手は県立小田原高校グランドのフェンスです。

 なお、八幡山古郭に関しては、(公財)かながわ考古学財団調査研究部「小田原城跡八幡山遺構群」https://www.kaf.or.jp/wordpress/wp-content/uploads/2012/02/odawarahachimanyama.pdfを参照してください。

(2021.08.06)

カテゴリー: 日本古代・中世史 | コメントを残す

湯河原の不動滝

 2021年6月25日(金)午後、奥湯河原温泉への途上に落差15mの不動滝(神奈川県足柄下郡湯河原町宮上750 奥湯河原温泉行バス・不動滝下車)に寄りました。この写真2枚を下にお見せします。

(2021.06.28)

カテゴリー: 観光(日本) | コメントを残す

旧藤本家住宅―歴史雑感〔66〕―

 2021年5月25日(火)午前、馬場花木園内(横浜市鶴見区馬場2−20−1)にある旧藤本家住宅を訪れました。本住宅は、江戸時代末期~明治初期に現在の港北区篠原に建てられた茅葺き農家を、現在の地に1913年に移築されたものです。主屋(45坪)と東屋(7坪)とがあります。横浜市特定景観形成歴史的建造物に2016年11月15日に指定されました。

 写真1は、右側(東)からの主屋全景です。

 写真2は、左側(西)からの主屋全景です。

 写真3は、西からの主屋全景です。ご覧のように主屋何面は庭として整備されています。

 写真4は、ドマからのチャノマです。左の柱が大黒柱です。奥に左がザシキ、右にデイです。

写真5は、ダイトコロ(土間)から見たザシキと奥にデイです。ザシキの右上に神棚がまつられています。

 写真6は、逆にデイからザシキとダイトコロです。

 写真7は、デイからの庭です。

 写真8は、西側の北にある厠です。

 写真9は、ダイトコロで、農具が展示されています。

 写真10は、主屋の東に離れて建っている東屋です。

 写真11は、同じく東屋です。

 最後の写真12は、庭越しの主屋です。紫陽花を入れて撮りました。

(2021.05.28)

カテゴリー: 日本近世・近代史 | コメントを残す

鎌倉幕府第2代将軍源頼家は何時元服したのか―歴史雑感〔65〕―

 源頼家の元服を明示する史料は存在していません。では頼家は何時元服したのでしょうか。建久8年(1197)12月15日、源頼家は従5位上に叙爵し右近衛権少将に任官しました(『公卿補任』第二篇正治2年条源頼家尻付)。なお、これは京官除目です(『猪熊関白記』同日条)。ということはこれ以前に元服していたことになります。

 周知のように源頼家は初代将軍源頼朝の長男として正室北条政子が寿永元年(1182)8月3日に出産し、万寿と名付けられました。順調に成長して、建久4年(1193)5月16日、富士巻狩りで、「将軍家家督若君(万寿)始めて鹿を射せしめ給う」(『吾妻鏡』同日条)と、初めて鹿を射止めます。頼朝は直ちに狩を止めて、夜に入り山の神に感謝する矢口祭を催します。矢口祭は、集団に於いて生まれて初めて野獣を仕留めた男子がこの集団から一人前の猟師と認められる証として行われる祭りで、それ故に、頼家への矢口祭は事実上の成年式当たると、千葉徳爾氏が意義を評価しています(『狩猟伝承研究』第二章日本狩猟史の諸問題1969年風間書房)。すなわち、万寿、後の頼家が頼朝の後継者としての資格が備わったということです。時に頼家は12歳であり、頼朝が初官、皇后宮権少進に任官した時も12歳でした(『公卿補任』第一篇文治元年源頼朝尻付)。万寿は狩と年齢から元服にふさわしい時期となったのです。

 富士巻狩りは引続いて行われました。しかし、周知のように、28日深夜、曽我兄弟の仇討ちが行われ、工藤祐経が討たれ、多くの御家人が死傷しました。続いて6月に入ると、常陸国の有力御家人大掾氏の多気義幹が多気山城に立籠り、結果義幹の所領は没収され、駿河に追放されます(『吾妻鏡』同年6月5・22日条)。7月に入ると、同じ常陸国の小栗重成が「物狂」となり、鹿島社造営奉行を罷免されます(『吾妻鏡』同年7月3日条)。さらに、8月2日、反逆の疑いをかけられた頼朝異母弟三河守源範頼が起請文を献じ、最終的に17日に伊豆国に追放されます(『吾妻鏡』同日条)。24日には、石橋山合戦以来の相模国御家人の大庭景義・岡崎義実が出家を遂げています(『吾妻鏡』同日条)。年末が近づいた11月28日には甲斐源氏の越後守安田義資が誅戮されます(『吾妻鏡』同日条)。この連続した騒動では晴れやかに万寿の元服式を行える環境とはいえないでしょう。いわば頼朝は政権内部の矛盾・動揺を正すことを優先しなければならなかったといえます。これは翌年の甲斐源氏の雄遠江守安田義定の誅戮もそうでしょう。いわば、建久4年後半から5年にかけては潜在的にも頼朝の対抗馬となりえる門葉源氏排除に力を注ぎざるをえなかったといえます。

 建久6年(1195)、頼朝は正室北条政子・長女大姫・長男万寿を伴い、2度目の上洛を行いました。この上洛は周知のように、東大寺再建供養(3月12日)参列のためでした。もちろん、頼朝は参内して、2度にわたり関白九条兼実とも対談しました(『吾妻鏡』同年4月10日・5月22日条)。そして、6月3日、「将軍家若公〈一万公、歳十四、布衣〉御参内、網代車に駕し給う、(中略)弓場殿において御釼を賜う」(『吾妻鏡』同日条)と、万寿、すなわち改名して一万が単独で参内し、御剣を賜りました。元服前の童殿上(童の殿上人)というものです。長徳4年(998)11月19日、内覧左大臣藤原道長の嫡子鶴君(後の頼通)が元服前の男子の昇殿、すなわち童殿上が聴るされています(『伏見宮御記録』利一・権記同日条〔『大日本史料』第二篇之三〕)。頼通は長保5年(1003)に12歳で元服して正5位下に叙せられていますから(『公卿補任』第一篇寛弘3年藤原頼通尻付)、7歳で童殿上を聴るされたことになります。このように童殿上の例は基本的に摂関家の子弟です。この童殿上は当然ながら朝廷、すなわち主導者である関白九条兼実の了承なしには行えません。なお、童殿上ということは頼家がこの段階で元服していなかったということです。頼朝の東大寺再建供養への上洛は晴儀といえ、上洛前か後かは別にして、これを機会に元服し、叙爵・任官、参内の流れが自然と思えるのですが、『吾妻鏡』に従えば何故か元服はなされなかったことになります。

 ところで、坂井孝一氏はこの一万の参内について不自然あるとし、すでに建久4年の巻狩り後に元服していた主張しています(『源氏将軍断絶』2021年1月PHP新書頁87)。しかし、坂井氏は元服の根拠を挙げず、ただ主張しているだけです。後継者である一万の元服は最も晴儀たるものであり、全御家人から祝されるものです。そうならば、曽我兄弟の仇討に端を発し、騒動が連続した中では、御家人間の動揺・猜疑も深まり、とても落着いて晴儀を行える環境ではないと考えるのが普通でしょう。それに、上洛以前に元服していたならば、当然に叙爵し任官していなければ不自然です。坂井氏は頼朝との関係が良好でなかった兼実が叙爵を許可しなかった可能性があるとしてます。

 周知のように、二度目の上洛では頼朝は大姫入内工作に熱心で、このため丹後局に接近して多大の贈物をしたのに対して、兼実には馬2疋と些少で差が大きく、これにより頼朝は兼実に冷たかったとの評価です。しかし、一万が童殿上をなしたことは兼実は頼朝を摂関家に準じる家格で待遇したことを意味しており、むしろ優遇したといえます。無位無官の参内は例がなく、そのような先例なきことを朝廷が認めるとは思えません。従って、坂井氏の主張には従いかねます。

 以上、建久4年の初鹿獲りでの矢口祭、建久6年の上洛と元服の環境はありえましたが、いずれも元服はなされませんでした。とすれば、建久8年12月15日の京官除目で叙爵任官は元服していることが前提ですから、12月以前の近い時期に元服したとするのが至当です。すなわち、頼家の元服時期は建久8年ということになります。おそらく、京官除目に合わせて、これに間に合うように11月の吉日を選んで元服式を執り行ったとするのよいでしょう。7月14日、入内させようと運動していた長女大姫が死去します(『愚管抄』巻第六)が、この喪を払う意味があったかも知れません。ただ、16歳になるここまで元服が延びた理由は不明ですが。この時の朝廷の主導者は源通親でしたが、すでに摂関家に準じて童殿上を行っている以上、これに準じた叙爵となり、摂関家庶子の初叙である従5位上にされたことになります。この時期は『吾妻鏡』が欠文ですから、頼家元服記事がないのは当然なことです。

(2021.05.02)

カテゴリー: 日本古代・中世史 | コメントを残す