成都でのお雑煮―成都雑感〔3〕―

 新年好、明けましておめでとうございます。

今回は、今までとちょっと趣をことにして、私自身のことについてお話します。

日本人ですから、元旦の朝はお雑煮ということになります。しかし、ここは中国です。中国で、日本と同様な餠を食べるのは、雲南省の苗族など少数民族のごく一部だけです。中国人の90%を占める漢族が正月に食べるものと言えば、北の黄河流域では水餃子、南の長江下流域は年餻ということになります。

ところで、年餻とはもち米の粉を固めて蒸したもので、厚さ2cmくらいの板状にしたものです。これを2・3mmくらい薄く切って、汁で魚肉野菜などの具とともに煮て食べるのです。これがいわば長江下流域での雑煮とでもいいましょうか。この外に油で揚げたり、鍋物の具にします。しかし、年餻は米から作りますが、焼いても膨らみ粘りが出ることはありませんから、もちの代わりにはなりません。

四川は米作地帯ですが、もちろん、ここ成都市民も餠は食べません。当然ながら、餠は売っていません。年餻ならばスーパーで手に入りますが。

去年まではそうでした。この11月に、やっと餠らしきものを店で見ました。それは、大きな丸餠といった形をしていました。直径16cmくらい、厚さ3cmほどです。押すと内部はまだやわらかいです。ただ、突き方のせいか完全に米粒が撞かれてはおらず、半撞き状態で、見た目にも米粒が残り、焼いても膨らむことはありません(焼き網がないので、フライパンの代用です)。それでも中は柔らかくふっくらとします。ただし餠のように粘りが出てぐっと伸びることはなく、咬むとすぐ切れてしまいます。この「餠」は汁粉を作ったときに試したのです。なお、値段は3元あまりでした。

 まあまあだったので、これをお雑煮にしてみました。

関東出身の私のお雑煮は醤油すまし仕立てです。具は、お祝いの紅白として大根・人参、青物としてのほうれん草(本当は三つ葉がいいのですが、ないので代用)それに鶏肉・椎茸です。日本より持参のほんだしの素を出汁とし、醤油は味の近い「生抽」(広東製の醤油)で代用してすましを作ります。「餠」はフライパンでごく弱火でふたをして焼きます。2・3回表と裏を返して焼きます。すると表面に少し焼き目がで、中はやわらかくなります。しかしほとんど膨れません。これを先のすましに入れて、お雑煮の出来上がりです。食感に餠特有の粘りがほとんどないのが何といってもものたりませんが、ともあれお雑煮ということになります。これで、私は成都の朝を迎えました。

最後に、この「餠」はどんな店で売っていたでしょうか。それは豆腐屋さんでした。私は大学内の個人商店の豆腐屋で買いました。

(2005.01.01)

カテゴリー: 食事 | 2件のコメント

源義経は名将か?否(その6)一谷合戦―歴史雑感〔1〕―

(2)一谷合戦〈3〉『吾妻鏡』・『平家物語』による三草山合戦

 『吾妻鏡』・『平家物語』諸本による一谷合戦の経過を見てみましょう。

1月29日、源範頼・義経の両将は院参し、次いで出陣しました。生田森を目指す大手軍は大将軍が範頼で5万6千騎、一谷を目指す搦手軍は大将軍が義経で1万騎(『吾妻鏡』では2万騎)です。これに対して、平氏軍は、東に生田森、西に一谷に木戸口を構え、海から山際にかけて防御施設を構築しました。平宗盛を総帥に福原を中心に東西約10kmに10万騎(『吾妻鏡』では数万騎)を配しました。

大手軍は、2月4日に出京し、5日には摂津の武庫川東岸の昆陽野(伊丹市昆陽辺で、生田森まで約20㎞)に布陣しました。一方、搦手軍は同日に出立し、丹波路(山陰道)から、三草山(加東郡社町)の東口の小野原(篠山市小野原)に、2日の旅程を1日で同夜に到達しました。

もちろん、ここに示した両軍の兵数は実数ではなく誇大化されたものといってよいでしょう。しかし、全体的傾向は表していると考えます。すなわち、第1に、源氏軍総数6万6千対平氏軍10万騎ということは、必ずしも源氏軍が優勢ではなかったことです。むしろ平氏軍が優勢であったといってよいでしょう。第2に、範頼軍と義経軍の兵数比を考えると、約5対1弱となり、源氏軍の圧倒的多数が大手軍に所属することです。大手軍が主攻で、搦手軍が助攻であることは明白です。

搦手軍は山中を長距離行軍しなければなりませんから、当然ながらその軍装は大手軍に比してより軽装であり、ひいては戦闘力において劣ると考えます。それらのことから考えられる源氏軍の戦術は、大手軍をもって生田森の平氏軍防禦線の突破を図り、搦手軍は長躯機動して、平氏軍の西国への連絡口である一谷を遮断封鎖すると、いったものと考察できます。あくまでも大手軍が平氏軍を破砕する、正面突破策です。しかし、この戦術では敵の最大抵抗線を攻めることとなり、平氏軍のほうが多数という状況を考えると、その成功は困難なことと考えることができます。そこから、鵯越が勝利に決定的役割を果たしたとの評価が生まれるのです。この点に関しては後であらためて考察します。

平氏軍は義経軍の丹波より一谷への機動を知り、平資盛ら7千騎を派遣し三草山西口に防衛線を張ります。これを知った義経は、3里の山中を越えて夜襲をかけて、5日未明に平氏軍を敗走させました。資盛は福原に戻らずに、淡路へと逃れます。弟師盛が福原に戻り敗退を告げます。これが一谷の前哨戦の三草山合戦です。見事な夜襲の成功です。

夜襲が成功するためには、味方の連繋とともに、進撃路順の正確さが欠かせません。正確な地図のない時代ですから、このためには現地の地理に精通した者の存在が不可欠です。この点、義経以下の東国武士には土地勘はありませんから落第です。一般に源氏軍=東国武士と考えられてきましたが、実はその過半は畿内を中心とした近国の武士たちです(元木泰雄氏「頼朝軍の上洛」『中世公武権力の構造と展開』吉川弘文館参照)。同氏は、『玉葉』で述べる源氏軍の大江山在陣は摂津源氏の多田行綱との合流のためと、考察しています。この点は私も賛成します。したがって、義経軍に摂津の土地勘を持った武士がいたのは当然なことで、これが夜襲の成功の前提条件になります。『吾妻鏡』や『平家物語』は夜襲が東国武士の田代信綱・土肥実平の献策と記しています。しかし、真の献策者は畿内武士と考えるのが至当ではないでしょうか。それにしても、これを受け入れた義経には将才があったことになります。

さらにいうならば、この義経軍の一谷への進出は丹波から摂津へかけての交通路に精通していなければ実行しえないものです。同時にこの行軍はスピードを要求されますから、行路における協力者も必要でしょう。現地でこれらを得ることは保証されているわけではないのです。したがって、本作戦は東国武士だけで実行できるものではなく、畿内武士とりわけ摂津武士の参画なくして実行できないといえます。すなわち、源氏軍の本作戦には摂津武士が参画していたと考えるのです。

(続く)

(2004.12.29)

カテゴリー: 日本中世史(軍事) | 2件のコメント

イトーヨーカドー春煕店―成都雑感〔2〕―

1997年11月、イトーヨーカドー海外支店の第1号として、中国華孚貿易発展集団公司との合弁で、成都伊藤洋華堂春煕店がオープンしました。最初は苦戦しましたが、市民に対するリサーチを追及し、その商品内容を一新し、21 世紀に入ると、成都市1の人気ある大型商店となりました。2003年9月には、2号店として双楠店を開店し、来年には3号店がオープンの予定です。

春煕店は、春煕路東段に位置しています。春煕路は、太平洋・王府井・百盛百貨店などが並ぶ繁華街総府路に北に接して、南は東大街に接して、南北に伸びる古くからの繁華街です。 2002年に改修が完成し、以後歩行者専用道となりました。その中央の中山広場から東にのびるのが東段です。利都ビル(邱永漢氏関係)の地下と5階までを占めています。売り場面積は12500㎡です。

地下2・3階は駐車場です。地下1階は、「新鮮食料館」、すなわち生鮮三品を含む食料品のスーパーと軽食店「ぽっぽ」です。自家製の中食が多く(これは酒のつまみにいいでしょう)、またパン類の多くも自家製で種類も多いです。この点は、中国の他の食品スーパーも同様です。ここの豆沙包(アンパン)は成都1です。中華料理に飽きた時のいい口直しとしておすすめします。また、元祖の陳麻婆豆腐のパック(200g)は5.2元で、本場の味を家でも作ることできますから、お土産にいいでしょう。(空港の国内線待合室にも麻婆豆腐はありますが高いです)なお、ここは、エスカレーターでそのまま入れて、入場に際してバック類を預ける必要はありません。日本と同じです。これは私の中国で経験した最初です。(この秋より、カルフールが同様になりました)

1階は、「時尚仕女館」、すなわち女性服・化粧品とカメラその他となっています。

2階は、「紳士名流館」、すなわち紳士服、靴と鞄となっています。衣料品などでは、日本でのイトーヨーカドーブランドと同じものがあります。価格的には日本と同じくらいです。

3階は、「「快楽児童館」、すなわち児童服装・靴、玩具、体育用品・靴、文具と下着となっています。

4階は、「温馨家居館」、すなわち寝具・ベッド用品、室内装飾品、台所用品、食器類、炊事用その他の小家電用品、健康器具、それにスーパー形式の日用雑貨となっています。

5階は、「利都美食城」で、花正をはじめ、20店ほどがあります。花正は単独の店舗で、別格ですが、他の店はセルフ・サービスで10元以下から20元くらいまでで1食楽しめます。中国のみならず、韓国式・日本式料理の店もあります。なお、茶店もあり、コーヒーは20元です。

以上、簡単に紹介しましたが、この土曜日に来店したところ、いつもの休日以上ににぎわっていました。エスカレーターは各ステップとも人人で、各階の乗り口・降り口には係員がすべて付いていました。ともあれ、店内は人人で通路を歩くのも苦労です。ちょうどクリスマス当日で、宗教に無関係で、中国において商戦時期であることが実感できました。

これはレストラン・ホテルなども含め、年々盛んになっています。商店は目玉商品のバーゲンで客寄せを図りますが、一部のレストランやホテルは特別料金で、それも年々上昇しているようで(コースで1人500元以上も珍しくありません)、どうやら一部の見栄っ張りの富裕層が客筋のようです。

最後に、成都伊藤洋華堂のホームページのURLは、

http://www.cd-itoyokado.com.cn

です。

(2004.12.26)

〔追記〕 成都伊藤洋華堂のホームページのURLは、

http://www.iy-cd.com/

に変更になっています。(2010年10月10日)

Unicode
カテゴリー: 買い物 | 1件のコメント

「西南交通大学(その1)沿革」の訂正

 訂正があります。

 「日清戦争に敗北した清国は、その年1885年秋、最初の近代的高等教育機関として
天津に北洋西洋学学堂(現天津大学)を創立しました。」

 この文の年代表記に誤りがあったので、次のように訂正します。

 「日清戦争に敗北した清国は、その年1895年秋、最初の近代的高等教育機関として
天津に北洋西洋学学堂(現天津大学)を創立しました。」

 なお付け加えますが、日清戦争の開戦は1894年7月、翌1895年2月の北洋艦隊降伏
で事実上戦争は終結し、4月に下関講和条約が締結され、日本の勝利に終ります。

カテゴリー: 教育 | コメントを残す

源義経は名将か?否(その5)一谷合戦―歴史雑感〔1〕―

(2)一谷合戦〈2〉『玉葉』による一谷合戦

 一谷合戦の基本史料は、『玉葉』・『吾妻鏡』・『平家物語』諸本です。確かに『玉葉』は同時代史料として価値が高いですが、その合戦経過記述は簡潔です。一方、『平家物語』諸本はエピソードも含み詳細ですが、物語という性格から虚構が含まれていることは避けられません。『吾妻鏡』は史書ですが、後世の編纂物です。いずれも一長一短があります。

一谷合戦に関して、後2書が依拠したのは何かについて、「かくて『吾妻鏡』も『平家物語』も、ともに義経の合戦注文をもとに構成していたとみられる」と五味文彦氏が指摘しています(同氏『増補吾妻鏡の方法』吉川弘文館)。したがって、『平家物語』と『吾妻鏡』は同一史料グループとして扱い、まず『玉葉』による一谷合戦の経緯を、次いで後2書による経緯を述べることにします。

源氏軍の京都進発は1月29日で、翌2月1日には全軍の出陣が終了していました。しかし、そのまま前進ぜず、翌日には京西郊の大江山(旧山陰道の山城・丹波国境辺―現国道9号線老ノ坂)との情報を記しています。そして、合戦直前の7日、平氏軍は2万騎、源氏軍は2・3千騎と「官軍」が少数と記しています。

源氏軍勝利の報は、8日未明に九条兼実は知りました。梶原景時の使者の報告を、高倉範季が伝えてきたものです。さらに、昼ころ、二条定能(兼実正室兄弟)が来て詳細を知ります。それによると、源義経の報告が一番に到着します。義経は搦手で、まず丹波城を落としてから、一谷を落としました。次いで、源範頼の報告が来ます。範頼は大手で、浜より福原に寄せました。以上により、合戦は午前8時から10時までのわずか2時間ほどで決着し、多田行綱が山側から攻撃し、最初に山手の守りが落ちたのです。この結果、福原城の平氏軍は排除され、ただ海上にあった数十艘の軍船のみが無事であったのです。それに乗船できなかった平氏軍兵は放火で焼死したのです。なお、平氏軍の戦死者の交名はまだ届かず、また三種の神器の安否も不明でした。

以上が『玉葉』による一谷合戦の経緯で、この元暦元年2月8日条以後には、本合戦自体についての記述はありません。ともあれ、7日午前に合戦が行われ、短時間のうちに平氏軍が敗北し、福原を追われ海上に逃れたことが分かります。ここで注意することは、源氏軍勝利の要点を、山手より攻撃した多田行綱としていることです。

(続く)

(2004.12.22)

カテゴリー: 日本中世史(軍事) | コメントを残す

源義経は名将か?否(その4)一谷合戦―歴史雑感〔1〕―

(2)一谷合戦〈1〉

 1184(元暦元)年2月7日、一谷合戦は行われました。摂津国福原(神戸市)に拠を持つ平氏軍に対して、源氏軍が攻撃し、平氏軍を海に追落し、源氏軍が勝利しました。

前年7月に都落ちした平氏は西国に下り、巻き返しを図りました。それが着々と実り、本年初には、福原にまで進出し、東は生田森(同市中央区生田神社辺)、西は一谷(同市須磨区一谷町辺)に、山際から海へと南北に防御施設を構築しました。福原一帯を城郭としたのです。この後背として、大輪田泊に代表されるように海が控えていました。そして、ここを拠点として、平氏は京都の再奪還を図ろうとしていたのです。

この平氏の一大拠点の福原へ、源氏軍は京から二方面軍に分かれて攻撃するのです。主力は源範頼が大将軍に大手の生田森を、源義経と甲斐源氏安田義定を大将軍とする別軍が搦手の一谷を目指すのです。すなわち、3軍編成なのです。(彦由一太氏「甲斐源氏と事情寿永争乱」『日本史研究』43号参照)

では、源軍の合戦目的はなんでしょうか。平氏の再入洛の阻止は、平氏の都落ちに同行せず、さらに安徳帝がいるにもかかわらず後鳥羽帝を践祚させて、平氏を「逆賊」とした後白河院としても、もっとも切実なものです。頼朝は後白河院を推戴することで、おのが立場を「官軍」として正当化できたのです。したがって、第1に、平氏が京都の再奪還を目途としていた以上、逆に源軍はその企図の阻止ということになります。そのため、福原城を拠点とする平氏軍を、海に追落して、その拠点を破砕することです。平氏は都落ちに際して、安徳帝のみならず、三種の神器も保持してゆきました。すなわち、後鳥羽帝は三種の神器なしに践祚しています。このことはその正当性が揺らぐことになります。後白河院としては、是非ともその無事な奪還は皇位の正当性上欠かすことのできないものです。すなわち、第2に、三種の神器の無事な京都への帰還です。同様に安徳帝もです。この第2のことは、後白河院にとって、平氏戦における至上命令なのです。したがって、これは一谷合戦のみならず、以後の合戦においても同様なことなのです。

義仲攻めから2週間余で一谷合戦が生起したことからして、鎌倉・京都の連絡期間を考えても、東国軍の上洛に際して、一谷合戦は事前の頼朝指示にもとづくものです。同時に、前段でのことを考えると、それは後白河院の強い意志によるものであることが分かります。

(続く)次は一谷合戦の経過です。

(2004.12.19)

カテゴリー: 日本中世史(軍事) | コメントを残す

西南交通大学(その1)沿革―成都雑感〔1〕―

 私は現在西南交通大学に在職しております。そこで、本大学について、紹介したいと思います。最初は本大学の沿革です。

成都にある西南交通大学は、中国に4つある交通大学を冠する大学の1つです。これらの大学はかつては1つの大学でした。そこで、その歴史を振り返ることで、本大学の歩みを見たいと思います。

日清戦争に敗北した清国は、その年1885年秋、最初の近代的高等教育機関として天津に北洋西洋学学堂(現天津大学)を創立しました。次いで、翌1886 年、上海に南洋公学(後に交通部上海工業専門学校となります)を、河北省山海関に山海関北洋鉄路官学堂(その後1905年同省唐山に移転し、唐山工業専門学校となります)を創設しました。1909年、北京に鉄路管理伝習所が開設され、1917年に北京鉄路管理学校と北方郵電学校に分離されました。(なお、北京大学の前身の京師大学堂は、1898年の戊戌の変法で創立しました)

辛亥革命後、以上の4校が合併して、1921年、交通部(交通省)所属としての交通大学が生まれました。本部が北京に置かれ、交通大学北京学校・上海学校・唐山学校となりました。その後、1928年、本部が上海に移ると、所属が鉄道部(鉄道省)に変わりました。そして、上海は交通大学電機工程・機械工程・交通管理学院、北京は交通大学北平交通学院、唐山は交通大学土木工程学院となりました。

1937年の日中戦争勃発後は、それぞれの学院とも疎開や再編成を余儀なくさせられました。1945年の第2次世界大戦終了後、元のキャンパスに戻りました。

新中国成立後、高等教育機関の再編成の中で、それぞれの3分校は独立します。まず、1950年、北京と唐山とは合併し、北方交通大学北京管理学院・唐山工学院となります。1952年、両分校は独立して、北京鉄道学院(1970年北方交通大学、2003年北京交通大学と改名します)と唐山鉄道学院になります。他方、上海は交通大学となります。これは、1959年、西安交通大学、上海交通大学に分離独立されます。この唐山鉄道学院が、1972年、四川省峨眉山山麓に移転し、西南交通大学となりました。ここに4つの交通大学が出揃ったのです。

その後、1989年、西南交通大学は成都市に新キャンパスを開設し本部も移し、ここに成都本校と峨眉分校の2キャンパスになったのです。このため、毎朝夕に両キャンパスを結ぶ学園バスが運行されています。そして、本年9月の新学年から、市北近郊に新キャンパスが開設され、4年後には学部生は新キャンパス、院生は現市内キャンパスとなります。

以上の大陸の4つの交通大学の他に、1958年、旧中華民国時代の交通大学関係者により台湾に交通大学電子研究所が開設され、1967年、新竹交通大学となりました。したがって、中国には現在5つの交通大学があり、これら各校は辛亥革命後に成立した交通大学を共通の母校とする姉妹校なのです。

(続く)

(2004.12.14)

カテゴリー: 教育 | コメントを残す

源義経は名将か?否(その3)宇治川合戦―歴史雑感〔1〕―

(1)宇治川合戦

 1184(元暦元)年正月20日、京都に孤立した源義仲軍が勢多と宇治に防衛線を張り、それを突破し京都に入り後白河院を保護せんとした頼朝派遣軍を主力とする反義仲軍との間になされたものが勢多・宇治合戦です。義経が宇治方面総指揮官として合戦したのが宇治合戦です。したがって、本合戦の目的は、第1に京の後白河院の保護であり、そのためにそれを妨害する義仲軍を撃破し入京し京を確保することです。第2に、武家の棟梁の競争者としての木曽殿源義仲の排除です。

まず、右大臣九条兼実の日記『玉葉』同日条で合戦の経過を見てみましょう。東国軍が勢多に進出した報を朝6時に九条兼実は告げられました。次いで勢多への進出を知りました。この報が終わらないうちに、もう六条河原に兵を見たという報をえて、人を派遣して確認させると、事実でした。昨日に宇治に派遣した志田義広は敗退し、東国軍が大和大路より入京し、六条に達していたのです。義仲は後白河院のもとに参上しましたが、東国軍の攻撃が急なので、院をすてて戦おうとしましたが、40騎にも満たない勢力のため一矢も射ることなく敗走しました。その後、東へと義仲は敗走し、粟津辺で戦死しました。そして東国軍の一番手は梶原景時と兼実は記しています。以上、義仲軍の敗退は急速で強固な抵抗はなし得なかったのです。そして、入京した義経軍が真っ先に六条殿の後白河院を目指してきたことが分かります。

他方、合戦の経緯を子細に述べているのが、13世紀に成立した原『平家物語』の古態を保っているといわれて、『平家物語』諸本の中で史料的価値のより高い『延慶本平家物語』です。ここでは、同書第五本で両軍の構成・兵力を見てみましょう。源義仲軍は、勢多に今井兼平が5百騎、宇治に志田義広が3百騎、そして京中に義仲自身が那波弘澄以下百騎です。東国軍は、勢多に大将軍源範頼以下3万5千騎、宇治に大将軍源義経以下2万5千騎です。この数字自体は誇大化されてそのまま両軍の実数とはいえず上限となります。それにしても義仲軍は千騎にも満たないのです。一方、『玉葉』元暦元年1月16日条では近江に入った東国軍を数万と記しているように、万単位の軍といえます。したがって、両軍の間には少なく見積もっても10倍以上の兵力差があったことは明らかです。

この合戦は宇治川を挟んで両軍が対峙しました。義経軍は渡河し北岸に陣する義仲軍を撃破して京を目指すことになります。平場の合戦として、いったん渡河を許せばその兵力差から防衛の術はないといってよいのです。渡河の成否が合戦を左右します。

古来、大軍に戦術なしと言われるように、兵力に格差のある場合には、優勢な側はただひた押しに正攻法で攻めてよいのです。まさしく、本合戦の経過を見るに、正面からなされる多勢による敵前渡河が本合戦の帰趨を決しています。その発端として、名高い佐々木高綱と梶原景季の先陣争いがありました。志田義広を撃破した義経軍は一気に入京し六条河原に殺到しました。ここで、同書では、義仲が義経軍と激しく戦闘を交えたと述べていますが、これは『玉葉』の記載が正しく、義仲説話としての虚構と考えます。次いで義経は畠山重忠・河越重頼・渋谷重国・梶原景季・佐々木高綱(『吾妻鏡』同日条では重頼嫡男重房も)を率いて後白河院に参上します。

以上のように、本合戦の経緯を見ますと、東国軍は圧倒的な兵力差に物をいわせて、まず宇治の義経軍が正面から敵前渡河をなして、義広を鎧袖一触して、後白河院の六条殿を目指して一気に進撃し、指揮下の主要武士を引連れて義経自身は真っ先に参院したのです。義仲は無勢のため院を放棄し戦うことなく東に敗走し、勢多を破った範頼軍に捕捉され戦死したことになります。

この勢多・宇治合戦に見る東国軍の行動は、まさしくその目的に適っていることが分かります。とりわけ、第1目的である後白河院の保護を義経は最優先に行動したことが分かります。その際、指揮下の有力武士をともない、彼らに戦功を与えています。こう考えますと、義経の行動は本合戦の目的と指揮下にある東国武士の希望に叶うものです。本合戦の指揮官として義経は合格ということになります。

しかしながら、先に触れたように、大軍に戦術なしの喩えどおり、本合戦では指揮官がその戦術的能力を発揮するまでもなく、東国軍の勝利は当然のことです。したがって、義経が他者にない力量を発揮したから、本合戦に勝利したとはいえないのです。その意味で、本合戦から義経が卓越した戦術能力をそなえた将軍であるかは判定できないのです。ただいえることは、初戦において義経は自己の任務をまっとう出来、それにより自信をつけただろうことは言えます。

(続く)

なお、一谷合戦は義経のハイライトでもありますが、問題点もあり、少々時間がかかります。

(2004.12.11)

 

 

カテゴリー: 日本中世史(軍事) | コメントを残す

源義経は名将か?否(その2)―歴史雑感〔1〕―

 では個々の武士は何を求めたのでしょうか。なぜ頼朝に代表される武家の棟梁と主従関係を結んだのでしょうか。当然ながら「一所懸命」の言葉が表すように自己の土地に対する権利の保護を求めるからです。それに加えて、その土地の拡大を果たしてくれることです。すなわち本領安堵と新恩給与です。これを保障してくれるからこそ、武士は棟梁のために自己の命を賭すのです。この「御恩」と「奉公」の関係が中世武士団の基本です。棟梁はそのためにこそ存在するのです。

かかるように、総体的に京都に独立した自力救済原理の確立、個別的には本領安堵と新恩を求めて、東国武士を中核として全国に反乱が拡大したのが治承寿永の内乱(源平合戦)です。頼朝はその嚆矢であり、そのもとに東国武士の多くが結集したのです。

以上のように、東国武士が反乱に参加したと考えます。

このことに立脚してこそ、義経の評価ができるのです。

1180(治承4)年10月、富士川合戦で源氏軍勝利直後に、義経は頼朝のもとに奥州より参加しました。その後、1183(寿永2)年7月に平氏を追落し入洛した木曽義仲は次第に孤立し、一方京の後白河院は東国の頼朝に救援を求めました。そこで、頼朝の代官としてこの冬、少数の兵を率いて上洛したのが義経です。これが義経の中央の登場の最初です。この後、宇治川合戦・一谷合戦・屋島合戦・壇浦合戦と連戦連勝したことは周知のことです。

そのいずれの合戦においても頼朝代理としての西国派遣軍最高司令官が義経の立場です。そこであらためて、それを基本において個別の合戦での義経の役割とその評価を考えて見たいと思います。

なお、日記類に代表される同時期史料では各合戦の経過などの詳細には触れておらず、具体的な合戦経過を知ることはできません。したがって、『平家物語』諸本によるしかないのです。『平家物語』はいくつかの説話群を、例えば義仲説話、を利用しており、義経説話もその一環です。これらは基本的にその周囲で起きた出来事も彼一人の出来事と集約されており、かならずしも彼自身の行動と保障することはできないのです。しかもこれらには、悲劇の英雄として描く立場があってなおさらです。それですから、真の合戦の経過とそこにおいて義経がどう行動したかは明証されないのです。この限界を心得て以下の個別合戦の分析を行いたいと思います。

(続く)

(2004.12.07)

カテゴリー: 日本中世史(軍事) | コメントを残す

源義経は名将か?否(その1)―歴史雑感〔1〕―

 明年、2005年のNHK大河ドラマは「源義経」です。そこで、義経の評価に関して、若干の私見を述べたいと思います。

治承寿永内乱での活躍にもかかわらず、異母兄頼朝と対立して奥州平泉で悲劇の最後を遂げたことで、義経は中世以来現在にいたるまで悲劇の英雄として大衆の人気を博しています。それは、『義経記』があっても、『頼朝記』がないことでも明らかです。

とりわけ、故司馬遼太郎氏が、日本では例外ともいえる騎兵戦術の活用の才があり、天才的武将と評価していることに代表されるように、義経が名将であることは定説化しています。ドラマでもそう描かれ、一の谷合戦はそのハイライトになるでしょう。

しかしそうでしょうか。名将とはなんでしょうか。どう定義されるべきでしょうか。「戦(いくさ)」に強い。普通はそう考えるでしょう。では「戦」とはなんですか。複数の国が参加し千万人に達する兵力が投入された、第2次世界大戦もあれば、隣りあった家が争う数人規模のものもあります。「戦」といっても千差万別なのです。したがって、「戦」に強いといっても如何なるレベルの「戦」であるかが明らかにならなければなりません。

あらためて治承寿永内乱における義経の立場を考えてみましょう。周知のように、東国の武士に担がれ伊豆に挙兵した異母兄頼朝は対平氏戦において自身では出陣せず、おのれと主従関係にある東国武士を主力として西国に派遣しました。その西国遠征軍の最高司令官が義経なのです。当然のことながら、指揮下にある東国武士はそのほとんどとが彼と主従関係になく、兄頼朝の預けたものです。したがって、義経は頼朝代理として出陣している以上、兄頼朝の代弁者であり、ひいては頼朝が東国武士に担がれている以上、その代弁者でもあります。そのためにこそ義経は最高司令官でありえるのです。

義経の立場が明らかになれば、その評価において、その立場において何をなさなければいけなかったことから判断を下すのが当然となります。

頼朝、ひいては東国武士は何ゆえに、反乱に立ち上がったのでしょうか。彼らの目的はなんでしょうか。これに関しては歴史研究上からいえば、かならずしも一つの見解に集約されるものではなく、異なる意見があります。むしろ複合した目的があったといってもいいでしょう。この点を論じるとそれだけで大部の論文ができますので、ここでは論証を抜きに簡潔な結論のみを示します。「国は国司に随ひ、庄は預所に召し使はれ」(『平家物語』巻第四)と表現されているように、従前の京都(公家)に従属した地位を脱却しておのが自立を果たさんとするものです。平将門の夢はそのための最終地点たりえたでしょう。近来の歴史研究の成果からいえば、武士の自力救済原理の確立です。もちろん、これのみでは武士間の紛争をとめることできないですから、武家の棟梁がその調停者の役割を果すことになります。頼朝を担いだ東国武士は、彼にその役割を求め、かつ自力救済原理にもとづく京都に自立した権力を打ち立てんと欲したのです。むろんそれは願望であって、実際の歴史の動きの中で妥協はありえますが。

(続く)

(2004.12.01)

 

 

カテゴリー: 日本中世史(軍事) | 1件のコメント

ごあいさつ

はじめまして、金澤正大です。

専門は日本史(鎌倉期政治史)です。現在、中国・四川省成都市の西南交通大学外国語学院日語系にて日本語の教鞭をとっています。すでに、中国在住も、10数年になり、西安・武漢・成都と暮らしてきました。

本日、小生もようやくADSL接続になりましたので、プログを始めることにしました。以後、専門の歴史やら、成都でのことやらを、随時書いていくつもりです。

まずはごあいさつまで。

カテゴリー: 未分類 | 1件のコメント