成都に戻りました

 本日、CA422便は1時間半ほど遅れて、午後5時前に、成都双流空港に到着し、6時宿舎に戻ってきました。
授業開始は12日からで、来週は準備・充電期間ですが、私にとってはまだ夏休みということになります。
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拙稿のファイル頒布のお知らせ

現在までに発表した拙稿はすべてファイル化してあります。そこで、『政治経済史学』所収の151号(1978年)以前の拙稿に関して、(e-メールの添付ファイルとして)ファイルの頒布をすることにしました。ご希望の方は、メールアドレスをご記入の上、頒布ご希望の拙稿(下記参照)を記して本記事にコメントしてください。なお、確認次第、このコメントは削除します。

『政治経済史学』152号(1979年)以降は国会図書館に納本されていますので、「NDL-OPAC国立国会図書館蔵書検索・申込システム
(http://opac.ndl.go.jp/index.html)
の有料コピーサービスをご利用ください。

ファイルは、Word2003(A4 36行40字)で作成してあります。

原文は縦書きですが、ファイルは横書きとなっています。

本文・註および系図・表はファイル化しましたが、地図はWordで作成不能のため除いてあります。なお、系図・表は原文通りの位置にあるとは限りません。

入力は原文通りを原則としましたが、ごく一部の字がユニコードにないため、同義異体字にしています。なお、註の表示は原文の表示にかかわらず〔1〕・〔2〕という具合に統一しました。

以下が拙稿の目録です。

 

.仁治三年正月政変について

 ―後嵯峨天皇即位事情に関する一考察―

政治経済史学50    1967.3  P6

.寛元四年正月京洛政変に関する一考察

 ―御深草天皇践祚と関白二条良実更迭の経緯に関する一考察―

政治経済史学62,3   1968.3,4 P11

.寛元三年段階における天象の政治的影響

 ―鎌倉天文・陰陽道に関する若干の提言―

政治経済史学81    1972.10  P4 

.四条天皇践祚と九条摂関家の動向に関する研究

政治経済史学84~6  1973.1,2,3 P40

.仁治三年順徳院崩御と六月関東政変

 ―『吾妻鏡』仁治三年条欠文との関連において―

政治経済史学89~94  1973.6~11 P61

.関東天文・陰陽道成立に関する一考察

 ―特に「和田合戦」との連関について―

政治経済史学96    1974.1  P12

.関東における天文・陰陽道の確立について

 ―「承久の乱」前後―

政治経済史学99    1974.2  P10

.『平戸記』に見えたる「六条宮」について

 ―「名越の変」との連関において―

政治経済史学99    1974.4  P13

.治承寿永争乱に於ける信濃国武士団と源家棟梁

 ―特に「横田河原合戦」を中心として―

政治経済史学100   1974.9  P32

10.武蔵守北条時房の補任年時について

 ―『吾妻鏡』承元元年二月廿日条の検討―

政治経済史学102   1974.11  P6

11.北条氏執権体制下に於ける関東天文・陰陽道

 ―「義時政権」より「泰時政権」へ―

政治経済史学111~3  1975.8,9,10 P29

12.四条帝急崩に伴う皇継決定と関東の対応

政治経済史学119   1976.4  P9

13.筑前国宗像神社大宮司職補任と荘園領主をめぐる諸問題

 ―社家と本所、とりわけ三浦氏との関連に於て―

政治経済史学140,1  1978.1,2 P31

14.鎌倉幕府成立期に於ける武蔵国国衙支配をめぐる公文所寄人足立右馬  允遠元の史的意義

政治経済史学156,7  1979.5,6 P18

15.治承五年閏二月源頼朝追討後白河院庁下文と「甲斐殿」源信義

 ―『吾妻鏡』養和元年三月七日条の検討―

政治経済史学165,227 1980.2,85.6 P18

16.治承・文治大乱に於ける佐竹源氏

 ―治承・寿永内乱から奥州兵乱へ―

政治経済史学176,7  1981.1,2 P14

17.丹波国和智庄をめぐる一文書に於ける北条時房の権能

政治経済史学200   1983.1  P6

18.『吾妻鏡』夏季合宿研修(Ⅰ)及び北武蔵東部「中世武士団」史蹟踏  査報告

 一九八三年七月下旬―

政治経済史学209   1983.12  P13

19.建久年間に於ける鎌倉幕府権力構成に関する若干の提言

 ―『吾妻鏡』春季合宿研修報告(Ⅱ)一九八四年三月下旬―

政治経済史学214   1984.5  P17

20.二条摂関家の成立と幕府

政治経済史学215   1984.6  P6  

21.中世武士団小山・長沼・結城三氏の鎌倉期城館跡

 ―北関東「秀郷流太田氏族」史蹟踏査報告―

政治経済史学220   1984.11  P20

22.十三世紀初頭に於ける武蔵国国衙支配

 ―武蔵守北条時房補任事情―

政治経済史学221   1985.1  P14

23.関白九條兼実の公卿減員政策

 ―建久七年政変への道―

政治経済史学226   1985.5  P15

24.八条女院と九条兼実外孫昇子内親王

政治経済史学232   1985.9  P10

25.二俣川合戦にみたる安達氏主従

 ―飽間・加治・鶴見・玉村氏―

武蔵野309      1986.5  P8

26.甲斐源氏棟梁一条忠頼鎌倉営中謀殺の史的意義

 ―『吾妻鏡』元暦元年六月十六日条の検討―

政治経済史学272,446 1989.1,2003.10 P15

27.平家追討使三河守源範頼の九州侵攻

 ―「芦屋浦」合戦を中心に―

政治経済史学300   1991.6  P10

28.後深草帝に関する若干の考察

 ―「正元元年」譲位事情―

政治経済史学313   1992.7  P11

29.三河守源範頼の九州進駐に関する一考察

政治経済史学344   1995.2  P11

30.蒲殿源範頼三河守補任と関東御分国

 ―治承寿永内乱期の三河国を巡る源家諸棟梁―

政治経済史学370   1997.4  P14

31.寿永二年八月源軍諸将勧賞任国守の史的意義

政治経済史学438・9  2003.2・3 P6

  なお、〔P洋数字〕はファイルの総ページ数を示します。
以上
(2005.08.24)

追記  PDFファイルを追加したので、WordファイルかPDFファイルか、いずれをご希望かをお書きください。

(2005.10.14)

〔追記〕 2014年1月21日から、国立国会図書館「図書館向けデジタル化資料送信サービス」が開始されます。

http://www.ndl.go.jp/jp/library/service_digi/index.html

これにより、『政治経済史学』所収論文は、国立国会図書館の承認を受けた図書館等において、送信により閲覧・複写サービスを受けることが出来るようになります。詳しくは上記のリンク(URL)で確認して下さい。

(2014.01.10)

カテゴリー: 日本古代・中世史 | 2件のコメント

在関東・西安交通大学日語系卒業生の集い

8月13日(土)昼、南新宿のイタメシ屋に、関東在住の西安交通大学日語系の卒業生が集いました。今年は日語系創立20周年にも当たり、いわばそのお祝いでもあります。茨城・千葉・埼玉・東京に在住する、1期生(85年入学)から15期生(99年入学)までの11名が一堂に会しました。大学院生(博士・修士)、家庭主婦、会社勤めなどと色々な道を歩んでいます。会食をしながら、楽しいひとときを過ごしました。旧交を温めた人もいれば、はじめて顔を合わせた人もおり、同窓の輪を広げることが出来ました。

彼ら以外にも、何人かの人が東京圏にいますが、残念ながら参加できませんでした。また、関西圏や福岡にいる人もおり、日本在住の卒業生は20名を超えます。

今回の集いの参加卒業生の写真を下に載せます。本人はお気に召さないかも知れませんが、記念と思いお許し下さい。なお、最後の集合写真は、会食後まで残った人々をホテルセンチュリーサザンタワー前からNTTドコモ代々木ビルを背景として撮ったものです。

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s-050813西安交通大学日語系在関東 006

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(2005.08.14)

 

 

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もう一人の義経、近江源氏山本義経(その3)―歴史雑感〔4〕―

三、木曽殿源義仲と山本義経

養和大飢饉に伴う戦線停滞は、1182(寿永元)年11月の安徳天皇の大甞会を無事に終えて、1183(寿永2)年にはいると、動きます。追討使大将軍維盛以下の大軍が北陸道へと進撃します。越前国燧城に籠る反乱軍を攻略し、最初は順調に進撃しましたが、5月11日、砺波山(倶利伽羅峠)合戦で義仲を首謀とする反乱軍の前に惨敗し、続いて加賀の篠原合戦にも敗北し、ここに平氏軍は潰え、反攻は惨めな失敗に終わります。義仲を筆頭とする、北陸の兵僧連合を主体とする反乱軍は越前国府に進み、ここに京都進撃の体制を整えます。

一方、東海・東山道よりも反乱軍が上洛を開始します。それには濃尾源氏に続き甲斐源氏の一方の雄の安田義定が加わります。東方三道の反乱軍から京都を防衛するために、平氏軍は近江国に出陣します。ここに同国の争奪戦が行われますが、この決め手になったのが比叡山延暦寺の向背でした。結局、延暦寺は反乱軍側に立ちます。同時に、摂津源氏の多田行綱などの畿内の武士の多くが反乱軍側に加わり、京都は四方から反乱軍に包囲されます。このような中、7月25日、突如として治天の君の後白河院が京都を脱出し、比叡山に入ります。これを知った平氏は即日、六波羅の居所を焼き、一門を挙げて安徳天皇と三種の神器を奉じて西国へと都落ちをします。

かくして、27日、後白河院は叡山から京都に戻りますが、院の先立ち勤めたのが錦織義高(義経子)で、院側に立ったのが叡山僧兵の珍慶でした(『吉記』同日条)。このことは近江国兵僧連合を象徴しています。当然ながら、山本一族が反乱軍として活躍した(おそらくは叡山の反乱軍側への参加に大いに働いたと思います)からこそ、義高のハレの場があったわけです。

翌28日、木曽殿源義仲・新宮殿源行家は後白河院の御前に参上し、平宗盛追討の院宣を受けます(『吉記』同日条)。ここに、東国の諸源氏などの反乱軍が官軍となり、逆に平氏が賊軍となったのです。次いで、30日、京中守護分担を定めた院宣が諸将に下されます(『吉記』同日条)。ここに名を連ねた義仲以下、12名の面々が今回入洛した各地域の有力武士です。その中に、山本義経・柏木義兼兄弟が入っています。このことは、彼らが近江国を代表してその選に入ったことを意味します。さらに、8月10日の義仲・行家両人を皮切りとして、官軍となった諸将に対して、16・25日、平氏追討勧賞が行われ、この時、最も上級である国司に任じられた諸将として、越後守源(木曽)義仲・備後守源(新宮)行家・遠江守源(安田)義定・伯耆守源(土岐)光長・佐渡守源(葦敷)重隆そして伊賀守源(山本)義経の6人が確認されています(浅香年木氏、前掲書参照)。全員源氏であると同時に京中守護諸将に名を連ね、彼らが入洛した旧前の反乱軍の各地域の棟梁的武士といえます。

山本義経の伊賀守は伊勢・伊賀両国にいる平氏勢力を意識した、いわば平氏追討を意識した任命です(拙稿Ⅰ参照)。同時に、義経にとっても、甲賀郡が基盤の一つであり、これに南接した伊賀国の支配権を握れる国司の任命は自己の勢力を南下拡大させるのに有利であり、望むところではなかったでしょうか。こうして、義仲を筆頭とする本年の第1次源軍上洛に加わった山本義経は軍事貴族として朝廷に認定されて、その立場を固め飛躍しようとしていたのです。

この第1次源軍上洛軍は義仲を筆頭としていましたが、これに所属して上洛した武士たちの過半は彼と主従関係を結んでいたわけではなく、行家以下の諸源氏の軍事貴族(浅香年木氏前掲書では、彼らを相伴源氏と名付けています)との連合軍であり、同時に北陸の兵僧連合でもあり、義仲の威令が全軍に達していたわけではありません。いわば、統一した指揮系統はないのです。形式上は朝廷がその上にあって、彼らを指揮する形となっていたのです。

入洛軍にとって当面の課題である兵糧確保に対して、朝廷は有効ある策を提示せず、事態を自然に任せたことは、兵糧確保に走った所謂略奪を招きます。このことは、当然ながら入洛軍の筆頭に位置する義仲にその非難が集まり、彼の評判を下げる結果となったことは、『平家物語』に見えている通りです。このことからも、入洛後の諸将はそれぞれの目的により独自の行動をするようになり、次第に義仲の統制は及ばなくなり、無秩序な集団となっていきます。

一方で、鎌倉に座している頼朝は朝廷に接近し、朝廷も義仲から頼朝へと軸を移していきます。また、本来の軍事行動である対平氏戦においても、閏10月1日、備前水島合戦で義仲軍は大将軍の矢田(足利)義清らが戦死するという敗北を喫します。このような中、朝廷は東国の支配権に関する所謂10月宣旨を頼朝に与えます。これを受けて、頼朝は、「その替に、九郎御曹司〔誰人や、尋ね聞くべし、〕を出立、すでに上洛せしむ」と、異母弟九郎義経を上洛させます(『玉葉』同年十一月二日条)。これは現存の京都の貴族の日記に九郎義経の名が記されている最初です。同時に、入洛を共にした多くの諸将が義仲から離れ、義仲は孤立します。こうした情勢を見た後白河院側は法住寺殿に兵を集め、武力で義仲を排除せんとの姿勢を示します(『玉葉』・『吉記』・『百練抄』同月十八日条)。院側の挑発を受けて、翌19日、義仲は法住寺殿を攻撃し、院軍を撃破し、京都の支配権を握ります。この法住寺合戦で、院側として戦い戦死した中に、伯耆守光長がいます(『吉記』同日・廿一日条)。先の6人の軍事貴族の中で、院に荷担したのは彼だけのようで、他の4人の名は本合戦には史料上の所見はありません。彼らは義仲側、院側、中立、いずれの立場を取ったのでしょうか。山本義経はどうしていたのでしょうか。

義仲は実権を握るや、後白河院派の摂政近衛基通を更迭し、治承3(1179)年の平氏クーデターで罷免された前関白松殿基房の子、師家(11歳)を摂政に据えます(『百練抄』同月廿一日条)。同時に、院側近を解官し(『吉記』同月廿八日条)、続いて、12月3日にも解官を行いますが、この中には佐渡守重隆以下、村上信国(信濃善光寺平)・源有綱(頼政孫)・仁科盛家(信濃松本平)と、先の京中守護を担当した諸将が含まれています(『吉記』同日条)。行家は法住寺合戦以前に義仲と袂を分かって、平氏追討のために下り、28日、播磨国室山合戦で敗北しています(『玉葉』十一月八日条、『吉記』十二月三日条、『延慶本平家物語』第四之廿一・室山合戦事)。こうしてみると、入洛した諸将の過半が義仲から離れたことが理解できます。義仲の本国である2人の信濃国諸将の支持をも義仲は失っていたのです。

12月10日、臨時除目を行います。当然ですが義仲人事です。この人事で、伊賀守義経は若狭守に遷任します(『吉記』同日条)。21日には、義経子の錦織義広が検非違使に任じられます(『吾妻鏡』元暦元年正月廿日条)。以上のことは山本氏がこの時点で親義仲派であったことの何よりの証拠です。京中守護担任を命ぜられた義仲を含む12人で、法住寺合戦後も、明らかに義仲派といえるのは山本氏兄弟しかいないのです。

『吉記』同上では、その理由が分からないとしています。では、なぜ若狭守に遷任されたのでしょうか。この臨時除目と同時に、頼朝追討後白河院庁下文が義仲の申請により発給されます(『吉記』・『百練抄』同日条)。かくて、義仲は己の生き残りをかけて、頼朝との全面対決に踏み切ります。こうして、両者は戻ることのできないターニング・ポイントを渡りました。ここで、義仲は京を放棄して北陸道に後退して、そこでの兵僧連合を再構築して、頼朝との対決を図ろうと考えていました。とすれば、義仲とすれば、北陸道の入口である若狭国の確保は、北陸道の再編成にとっても、京から近江・若狭・越前と続く交通路(退路)からいっても必須であることはいうまでもありません。そこで、北近江に名字の地があり、近江に多くの拠点を持つ山本義経を若狭守に任じるのは、彼が与党である以上、極めて自然な人事といえましょう。義経にとっても北近江から北に北陸道に勢力を拡大する機会を得たことなり、異はなかったでしょう。義仲が没落すれば、自身も没落するのですから、彼も頑張るざるをえないでしょう。

事は急速に展開し、北陸道へと後退することも出来ず、折から西国から巻き返しつつあった平氏との和睦もならず、かといって十分な迎撃態勢を取ることも出来ず、義仲は京都に頼朝の派遣した異母弟範頼・義経に率いられた関東勢を迎え撃つことになります。これには甲斐源氏主力に畿内周辺の勢力も加わり、圧倒的な兵力差が生じていました。元暦元(1184)年の第2次源軍上洛です。完全に義仲は孤立しました。正月20日、大手の勢多(今井兼平=義仲乳兄弟)と搦手の宇治(志田義広=義仲叔父)に防衛線を張る義仲軍に対して、頼朝軍は攻撃をかけ、鎧袖一触で、宇治の防衛線を突破し、九郎義経は一気に入洛し、後白河院を保護下におきました。義仲はかろうじて京から落ち延びましたが、搦手軍の追撃を受け、同時に大手軍に捕捉されて、近江粟津(大津市粟津町)にて戦死します。

義仲が滅亡した本合戦において、山本義経の子錦織義広は戦場から逐電します(『吾妻鏡』同日条。なお、本条には頼朝軍の搦手大将軍として九郎義経が所見し、同時に義広父として山本義経が所見し、二人の義経を書き分けており、両人が別人であることは明瞭なことなのです)。彼は勢多・宇治合戦で義仲軍の一員として戦闘に参加したのです。このことは、義仲の最後まで山本氏が義仲派であったことを示します。しかし、治承・寿永の内乱前期に活躍し、京都の貴族の日記に何度も登場し、入洛後は国司に任官した山本義経自身は、本合戦に関する史料では一切その名を見せません。本合戦に参加していれば、その名を見せるのが今までの経緯からしても知名度からしても自然でしょう。しかし姿を見せません。そのことは、何を意味するでしょうか。彼の若狭守遷任の意味をすでに述べていますが、そのことからいえることは、彼は若狭国に下りその掌握を図り、京・近江・若狭そして北陸道という交通線を確保せんとしていたのではないでしょうか。このことは、義仲の本来的な策、北陸道への後退にとって必要条件となります。すなわち、本合戦時に彼は京におらず、若狭に下っていたとするのが、史料上の所見のないことの表われと考えます。

義仲が滅亡したことは、当然ながら山本氏も没落したことになります。山本義経を含め、本合戦以後、山本氏は史料から姿を消します。替わって、治承・寿永の内乱後半では、周知のように頼朝異母弟の九郎判官義経が活躍することになります。

(終わり)

(2005.08.07)

カテゴリー: 日本中世史(軍事) | 4件のコメント

もう一人の義経、近江源氏山本義経(その2)―歴史雑感〔4〕―

二、治承・寿永の内乱前期

1180(治承4)年5月の以仁王(後白河院第3皇子)・源頼政(頼光流馬場源氏)の戦死で費えたかにみえた、内乱の火は、8月の伊豆国での源頼朝の挙兵を嚆矢として、全国へと燃え盛っていきます。治承・寿永の内乱です。この内乱に山本義経も登場するのです。彼が流罪を許されたのは1179(治承3)年ですから(『吾妻鏡』治承四年十二月十日条)、内乱以前には近江国に戻っていたことになり、内乱の報を地元で聞いたことになるでしょうか。

6月の福原(神戸市)遷都に対して、延暦寺を筆頭とする寺社は強く反対し、反平氏の色を示しており、10月下旬、遷都反対の主張が受け入れられないならば山城・近江両国を奪取する準備をするとの朝廷への奏状を延暦寺が出した報が流れます(『玉葉』同月廿日条)。近江国は風雲急を告げていたのです。

そのような中、東国反乱軍の優位を決定づけた20日の富士川合戦における、平氏敗戦の報が28日には京都で風聞として伝えられ、朝廷はそれを知るのです(『山槐記』同日条)。11月5日夜には敗将平維盛(清盛孫、故小松内府重盛嫡男)が入京し、同時に敗戦の詳報も知れ渡り、(『玉葉』同日条)ここに平氏の無様さを天下に曝したのです。

遠江国以東は反乱軍の支配下となり、平氏はそれに対抗するため、7日、美濃源氏に対して源頼朝・武田信義追討宣旨を発します(『吉記』同月八日条)。しかし、頼みの美濃源氏は反乱側となり、美濃・尾張両国は反乱軍の手に落ちます(『玉葉』十七日条)。反乱は刻一刻と京都に近づいたのです。

19日、近江国に反乱が及んだとの報を右大臣九条兼実はえます(『玉葉』同日条)。20日、伊勢国派遣ため下向中の平宗盛家人飛騨守藤原景家郎等が射殺されて瀬田で梟首され、同時に琵琶湖水運が反乱軍の手中に落ち、京都から東、とりわけ北陸道への交通が遮断され、運上物が奪取されることになりました(『山槐記』同月廿二日条、『玉葉』同月廿三日条)。ここに、近江国反乱軍の首謀として、源氏の「甲賀入道」「山下兵衛尉」の名が初めて史料上に登場します(『玉葉』同月廿一日条。なお、同書では本年中は「山下兵衛尉」「義経」として表記されています)。この「山下兵衛尉」こそが近江源氏の山本義経で、「甲賀入道」はこの弟柏木義兼です(義兼は『尊卑分脉』では義経の子ですが、実は弟です。拙稿Ⅰ、「寿永二年八月勧賞源氏諸将任国守の史的意義」『政治経済史学』4389200323月参照)。

このように物情騒然とする中、26日、後白河院・高倉院らが平氏の六波羅亭に入り、ここに福原遷都が破産したのです。29日、近江国反乱武士が園城寺に入りました(『玉葉』同日条)。このことは、旧来の矛盾を止揚して、寺社と在地武士が共同戦線を張ったことを意味します。「兵僧連合」の誕生です。以後、近江から北陸道にかけての反乱軍は兵僧連合によって主導されます。(浅香年木氏、『治承・寿永の内乱序説』1981年法政大学出版局参照)

足下に迫った反乱鎮圧のため、12月2日、平氏は追討使として近江道に平知盛(宗盛弟)、伊賀道に平資盛(維盛弟)、伊勢道に伊勢守藤原清綱を派遣します(『玉葉』同日条)。近江に入った平氏軍は瀬田・野地(草津市野路町。東海道の宿駅)の在家を焼き討ちしますが、反乱軍は美濃源氏を加えて5千騎に対して、「官兵」平氏軍は全体で3千騎にすぎませんでした(『玉葉』同月3日条)。しかし、平氏軍は反乱軍を押し返してゆきます(『玉葉』同月四・六日条)。ここで、延暦寺堂衆の一部が園城寺に与して、義経とも語らって六波羅夜討を策すとの報が京都に流れます(『玉葉』同月九日条)。延暦寺・園城寺・近江源氏の3者連合の成立は平氏にとって由々しきことです。平氏は園城寺がその策源地と見て、攻勢をかけます。11日、平清房(宗盛弟)を将とする平氏軍は園城寺を焼討ちし、全山を焼払い、金堂のみが害を免れたのです(『百練抄』同日条。『延慶本平家物語』第二末之卅・平家三井寺ヲ焼払事は、日付・将は異なりますが、被害の様子は詳しいです)。ここに反乱軍の拠点としての園城寺は潰えたのです。

かくて、知盛・資盛を大将軍とする平氏軍は、13日、義経・義兼兄弟らの反乱軍の拠点の馬淵城(近江八幡市馬淵町。東山道上に位置します)を攻略し、義兼の首級を挙げる(後に虚報とわかる)という勝利をえました(『山槐記』同日条、『玉葉』同月十五日条)。ここに、南近江は平定されましたが、義経らは北近江の自分の本拠地である山本に籠り抵抗を続けました(『玉葉』同月廿四日条)。しかし、28日の平重衡(宗盛・知盛弟)軍による南都焼討ちにより、反乱の一方の雄であった南都の寺院勢力が鎮圧されたこともあり、畿内周辺での反乱勢力は弱化しました。

明けて1182(養和元)年、近江を制圧した平氏軍は美濃国に進撃し、美濃源氏の(土岐)光長の拠点を攻撃します(『玉葉』同年正月十八日条)。この攻撃は成功し、20日、蒲倉城(不詳)の反乱軍を通盛(清盛弟教盛嫡男)・維盛を大将軍とする平氏軍は撃破し、多くの反乱軍の将を討ち取ります(『玉葉』同月廿五日条、『百練抄』同廿日条)。この合戦で、尾張源氏の小河重清・葦敷重義などが戦死し、その中に、簑浦義明(義経子)が含まれており、(『吾妻鏡』同年二月十二日条)近江国に敗れた山本氏が美濃国の反乱軍に合流して抵抗を続けていたことが分かります。ここに、近江・美濃・尾張の反乱連合軍は敗退を余儀なくされます。

しかし、ここに源行家(義俊)が反乱の首謀として尾張国に現れます(『玉葉』二月一日条)。反乱蹶起書である最勝親王宣(所謂以仁王令旨)の伝達者であったことは除き、これは反乱軍としての行家の史料初見です。合戦に消耗した平氏軍は尾張へと進撃することなく、美濃・近江に停滞します(同上)。続いて、12日、東国追討使大将軍知盛が病のために前線より京に戻ります(『玉葉』同日条)。行家以下の尾張反乱軍の勢力は美濃の平氏軍を凌駕していました(『玉葉』同月十六日条)。このため、平氏は宗盛以下の全力をもって反撃を計画しました(『玉葉』同月廿六日条)。ところが、平氏総帥の清盛が病により、閏2月4日、急死します。ここに事態が急転して、平氏は宗盛を新たな総帥として体制を組み直します。この結果、15日、追討使重衡が頼朝追討後白河院庁下文を掲げて下向します(『玉葉』同日条。本下文に関しては拙稿Ⅱ、「治承五年閏二月源頼朝追討後白河院庁下文と『甲斐殿』源信義」『政治経済史学』1652271980年2月、1985年6月参照)。重衡軍は、3月10日、濃尾国境の墨俣川に行家軍を破り、その際、九郎義経の同母兄の義円(乙若)が戦死したことは周知のことです。ここに、東海道方面の戦線は、折からの養和大飢饉のためもあり濃尾を挟んで対峙する状況となります(拙稿Ⅲ、「蒲殿源範頼三河守補任と関東御分国」『政治経済史学』3701997456月参照)。

こうして見てくると、『吾妻鏡』治承四年十二月十日条に、去1日に近江の拠点を平氏軍に奪取されたために、山本義経が頼朝を頼って鎌倉に来、臣従を許されたという記事は、少なくとも時期的に不可能なことです。したがって、基本的にこれは虚構と考えますが、たとえそれが事実の反映としても、その下向時期は下り、すなわち墨俣合戦後とするのが自然です。後述するように、義仲派としてその最後まで行動を一にしていることから、その臣従は当然ながら虚構で、山本義経は頼朝とは関係がないと見るべきなのです。

こうして、山本義経は近江国に兵僧連合の一員として立ち上がり、その敗退後は濃尾の反乱軍と行動を一つにしていたといえます。同時に、名字の地が北陸街道を扼する北近江山本郷であることからして、それに兵僧連合の関係からして、1181年秋より本格化する北陸道の反乱勢力(兵僧連合)とも繋がりがあったと考えるべきです。蒲倉城の合戦後の山本氏は史料上の所見がなくなり、その後の彼が尾張に位置していたのか、北陸に位置していたのか史料上からは明瞭ではありません。しかし、1183(寿永2)年4月の越前国燧城(福井県南条郡今庄町燧)に平氏軍を迎え撃った反乱軍の一員として、『源平盛衰記』倶巻第二十八に、甲賀入道(義兼)の名があることは、最終的には、北陸道の兵僧連合の一員として、山本氏は北陸道に位置していたと考えることができます。

(続く)

(2005.07.30)

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もう一人の義経、近江源氏山本義経(その1)―歴史雑感〔4〕―

一、治承・寿永の内乱以前

治承・寿永の内乱で、一谷・屋島・檀浦と、平氏戦で活躍し、その後、異母兄源頼朝と対立して没落し、奥州の地で悲劇の最後を遂げた、九郎判官義経は人口に膾炙しており、本年も、NHK大河ドラマ『義経』として放送中です。

この時代、九郎判官義経が歴史上に華々しく登場する、1183(元暦元)年正月の勢多・宇治合戦を境に、内乱前半には活躍していた、もう一人の義経が舞台から姿を消します。これが近江源氏の山本義経です。この時期を接して交代する二人の義経については、故松本新八郎氏が同一人説を提唱し(「玉葉にみる治承四年」『文学』17号1949年10月参照)、それが一般向け歴史書の中でも取り上げられるようになり、広まりました。その後の歴史研究の深化により、氏の同一人説が成立しないことが明らかになり、氏の説は完全に否定されました。しかし、今でも氏の説を口にする人がおります。そこで、あらためて、近江源氏の山本義経について述べたいと思います。

山本氏は、新羅三郎義光(河内源氏頼義の3男。兄に八幡太郎義家がいます)の長子太郎義業の子、義定が「山本」と号したところから始まります。義定の兄が常陸国に勢力を張る佐竹氏の祖三郎昌義です。また、義業弟の三郎義清は甲斐国の武田氏の祖となりますし、四郎盛義は信濃国の平賀氏の祖となります。問題の義経はこの義定の長子です。「山本」は近江国浅井郡山本郷(滋賀県湖北町山本)のことで、同町に北接する高月町との境にある、琵琶湖を一望できる山本山に義定・義経親子が築城したと伝えられています。義定がいかなる経緯でこの地に地歩を築いたかは不明です。ただ、祖父義光が近江国の大寺園城寺の守護神新羅大明神で元服し新羅三郎と名乗ったことから窺えるように、彼は園城寺と結びつきがあり、近江国に勢力を張っていたといえ、その関係で義定が山本郷に拠点を築くことができたと思えます。

義経は生没年とも不明で、母も分かりませんが、『尊卑分脉』によると、男子として箕浦義明・山本(錦織)義弘(義広)・柏木(甲賀)義兼(実は義経弟。後述)・錦織義高・大島義成・河内頼高が、弟として山本光祐・山本義賢・早水義春・豊後胤義・真嶋宣義・親定が認めらます。「早水」は浅井郡早水庄(湖北町速水―山本に東接)を名乗りの地としたといえ、義定の代に浅井郡山本郷を中心に勢力を扶植したと考えます。次いで、「箕浦」は坂田郡箕浦庄(近江町箕浦)、「柏木」は甲賀郡柏木御厨(水口町北脇等)、「錦織」は滋賀郡錦部保(大津市錦織町)と考えられ、義経の代に北近江から南に琵琶湖を時計回りにその勢力を広げて、その名乗りとしたことが理解できます。このようにみると、山本氏は近江国内に広くその勢力を扶植させていたことが分かり、同国の有力武士といえます。

義経は近江国内に勢力を広げると同時に、京武者(京都において朝廷などに奉仕する武士)の面も見せます。1168(仁安3)年12月の京官除目で、皇太后宮(平滋子―後白河院女御・高倉天皇生母・平清盛正室時子異母妹)給分として、左兵衛尉に任官しました(『山槐記』除目部類仁安三年十二月十三日条)。『尊卑分脉』には父義定の傍注に左兵衛尉があり、おそらくその先例を追ったものと考えます。この任官から、当時の義経は、甲斐源氏の加々美長清が平知盛(清盛4男)の家礼であったように(『吾妻鏡』治承四年十月十九日条)、強い主従関係にある家人というよりも、弱い従属関係である家礼として、平氏に仕えていたと言えましょう。

しかし、1176(安元2)年12月、延暦寺根本中堂々衆を殺害した罪により、義経は佐渡国流罪となります(『玉葉』同月二十六・卅日条)。これは義経と延暦寺との間で何らかの問題が発生し、その過程で延暦寺側に死者が出たこととなり、それを「罪」として義経が朝廷から蒙ったことになります。この両者間の紛争の具体的なことは史料上の所見はありません。これは、近江国内最大の荘園領主であり、寺社権門の雄である延暦寺と、国内にその勢力を広げつつあった在地領主義経とが互いの所領を巡って問題、例えば境紛争などを起こし、それがエスカレートして双方が武力を発動した結果が死傷者を生み出したと考えます。死傷者は延暦寺側のみならず義経側にも出たとも思われますが、白河法皇の三大不如意(賀茂川の水・双六の賽・山法師)で知られるように、当時の比叡山延暦寺の権威は極めて強く、その要求を朝廷が受け入れるのが通例でしたから、義経のような6位の侍身分では朝廷にその意を認めさせことはできず、延暦寺側の意向が通り、義経の「罪」とされて流罪に処せられたと考えます。ともあれ、この件で、義経は挫折させられることになります。そして、それは朝廷、ひいては平氏が己にとって如何に頼りにならないものかを痛感させられたことでしょう。

(続く)

(2005.07.20)

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夏休み帰国

 14日から9月3日まで、夏休みとして、一時帰国します。
 往復とも、中国国際航空の成都・成田(北京経由)便を利用します。
 この間、四川・成都雑感は休止しますが、歴史雑感は継続する予定です。
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三江―四川雑感〔4〕―

8・9日の両日をかけて、日本語学科の教員懇親旅行で、三江に行ってきました。三江は阿垻蔵族羗族自治州汶川県に位置し、岷江の支流ジュ(壽+阝)江の上流に当たります。都江堰市より岷江に沿って北上し(九寨溝・臥龍への道)、旋口鎮を過ぎたところで(九寨溝と臥龍の分岐点の映秀鎮までの2/3ほどの行程)、西に道を取り、ジュ江を20km余りいったところにホテルがあり、そこが拠点となります。

この道は、以前は山越えで臥龍鎮へと通じる要路でしたが、現在は映秀鎮から臥龍鎮への道路(これは遠くチベットに繋がっています)が開発されたため、山越え道は廃道となっています。

ここは最近開発された観光地で、『四川省旅游交通図冊』(2002年版)には何らの記載がありません。ここの目玉は川下りです。2人乗りのゴムボートで下るものです。当然ながら、操縦者はおらず、客は流れに任せて下るだけです。流れのしぶきが容赦なくかかり、全身がびしょ濡れになり、着替えが必要です。また、カメラなどの携帯は禁止(危険だし、水に濡れます)ですから、今回はその写真はありません。

それに、前日来の降雨のため増水しており、流れが急であったためか、私の乗ったボートは見事に転覆し、流されてようやく係員(要所に配置)に確保されて事なきを得ました。それでもだいぶ身体に打ち身を作りました。

写真1は、奥の一号営地(キャンプ場)で養蜂人から蜂蜜を直接買い求めたときのものです。中央の男性が養蜂人で、手伝っているのは、ボートのための我々の換え着を運搬する人です。1斤(500gm)4元です。

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写真2は、渓谷沿いの道を帰るところで、日本語学科主任劉教授を撮ったものです。

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最後の写真3は、三江のもう一つの目玉、軽便鉄道(1mゲージ)です。ホテル前から川下り出発点まで、約3㎞余りです。機関車はディーゼルです。3人掛けとなっています。写真の車両とは別に無蓋客車もあります。この写真の右下に写っているのが川下り用の2人乗りゴムボートです。橋の下の様子で流れぶりも分かると思います。

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今回は撮影面では余りよいとはいえませんが、貴重な体験をしたと思います。

(2005.07.10)

 

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ノンステップ(低床)バス―成都雑感〔7〕―

この春から、成都にもノンステップバスがお目見えしました。試験的らしく、まだごく限られた路線に導入されたのみのようで、滅多に乗車の機会がありません。幸いに、本日その機会(2回目)が得られ、しかもカメラ持参でしたので、その際の写真をお見せします。

写真1は、バスの前部より後方を撮ったものです。左に降車扉が見えます(成都市内のバスは前乗り後降り)。日本のバスと違って、その後方座席は、写真に見るように、一段と高くなっており、さらに後部に行くほど高くなっています。ノンステップバスでは2段ですが、通常のバスでは1段です。

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写真2は、中央部から前方を見たところです。右の女性の腰掛けている座席が前輪部分です。ワンステップ高いことがお分かりでしょう(逆に、それだけ通常のバスより床が低いのです)。中央の黄色の柱の上のものはICプリペードカード読み取り機です。

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写真3は、降車ドアから乗客が降りる時のものです。ドアも通常のバスより広くなっていいます。降車口にステップがないことがお分かりでしょう。

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最後の写真4は、外から見た降車口です。奥に見える右側の座席にのみシートベルトが付いており、おそらく車椅子乗車の客用と思われますが、車椅子固定装置は見あたりませんでした。この時は私一人しかおりなかったため、急いで撮ったので、バスの全景を撮ることが出来ませんでした。歩道からバスの床までは10cm程度です。この車両は、当然ながらエアコン付きですから、料金は2元です。また、成都では市内バス及びタクシーはCNG(圧縮天然ガス)となっています。四川省は天然ガスの生産地ですから。

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なお、乗車は56路で午後1時台の昼間で最も空いている時間帯です。

(2005.07.07)

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瀘定橋・海螺溝―四川雑感〔3〕―

2日から4日まで氷河で知られる海螺溝(甘孜蔵族自治州瀘定県)に中国人向けツァーに加わり行ってきました。そこでその写真を少しお見せします。

2日午後は、瀘定橋(甘孜蔵族自治州瀘定県城)に行きました。ここは中国共産党の長征における軍事上の記念碑的存在です。大渡河(長江の主要支流で四川盆地を流れる岷江に楽山市で合流)にかかる瀘定橋は清代の1705年に竣工し翌年に完成し、四川とチベットを結ぶ要点となりました。1935年5月29日、林彪指揮下の先鋒隊は橋桁がはずされ鉄鎖のみとなった瀘定橋を匍匐前進して、右岸(県城)に陣取る国民党軍を攻撃し、橋の奪取に成功します。瀘定橋だけがこの地域での渡河可能地点だったのです。これにより、毛沢東以下の中共中央の率いる長征中の紅軍第1方面軍主力は北への道を切り開くことに成功します。もしこの橋の奪取に時間を費やしていたら、紅軍主力は後ろ(南)より迫っていた国民党軍により大渡河に追い落とされて壊滅の憂き目を見たことでしょう。この意味で、橋の奪取は紅軍の生死をかけたものであり、長征中の英雄物語として語り継がれているものです。

写真1は、左岸側から撮った瀘定橋です。正面に見える橋の入口に国民党軍は機関銃座を構えて防備しました。写真は紅軍兵士の目線で橋をとらえてみました。

050702瀘定橋 010

写真2は、右岸下流側より橋全景をとらえたものです。大渡河の流れはきつく、とても泳げるものではないことがお分かりでしょう。

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3日は、チベット自治区・新彊ウイグル自治区の世界最高峰のヒマラヤ・カラコルム山脈の氷河と異なり、世界の中緯度で最低海抜の氷河がある海螺溝に行きました。残念なことに、この日は海螺溝のある磨西鎮一帯が朝より停電となったため、ロープウェーは運転休止となり、氷河全景と貢嘎(ミニヤコンガ)山主峰(7556m)を見ることができませんでした。貢嘎山は、1981年5月、日本の登山隊が遭難し、8名の死者を出した悲劇の山でもあります(なお、登山隊の一員である阿部幹雄氏の体験記が、『生と死のミニヤコンガ』2000年9月山と溪谷社、です)。以下の写真は、干河壩(三号営地)から右岸を徒歩で氷川景観台(1時間ほど。途中の氷裂縫までは上りで、ここより氷河へと下りになり、全体的に黄龍より厳しいと思います。なお、駕籠もあります。)までのものです。

写真3は、粒雪盆より見た、氷河の最下部の氷川舌・氷川城門洞です。ここの標高は約2900mで、世界で最も低い地にある氷河となっています。ただ、地球温暖化の影響で、次第に氷河も退行しているそうです。

050703海螺溝 007

写真4は、氷裂縫から見た氷河下流部の全景です。ご覧のように、氷河両側の斜面は樹木で覆われて、この氷河の海抜がそれほどでもなく、世界最低海抜の氷河であることを示しています。後方に見える山は貢嘎山系の支峰で6635mあります。左に見える鉄柱がロープウェーのもので、氷河が右へと曲がり切って上がっていく左岸が終点で、そこからは貢嘎山主峰と最大の氷河海螺溝一号氷川全景が見られます。

050703海螺溝 011

写真5は、徒歩終点の氷川景観台から、実際の氷河に足を入れて上り、氷河を撮ったものです。下に見える桃色のロープは、これより先が立入り禁止のためのものです。実際は、多くの人がこれを越えて前進し、記念写真に暇がありません。ただ、そこには警備員が一人いてそれ以上の前進を止めていました。この頃には雲が出てきて後方の山は雲に隠れました。

050703海螺溝 023

写真6は、別の位置から氷川磨石面の中央を撮ったものです。こここでは先のロープを越えています。

050703海螺溝 024

写真7は、逆に下流部を見下ろしたもので、氷河に削り取られたカール地形をよく示しています。ここへ来るまで、氷河上を200m余りは登ったと思います。岩と氷で注意深さが欠かせません。

050703海螺溝 025

最後の写真8は、氷川景観台より見た氷川磨石面の右側です。

050703海螺溝 027

以上です。午後は温泉に回りましたが、私は入りませんでした。この地には多くの温泉があります。ただ、入浴のためには水着が必要です。野暮ったいのでよいのなら現地で売っています。温泉組と分かれて、磨西鎮に戻り、街を歩きました。一応古街の道一路が残されていますが、それほどのものではありません。なお、古街の横には、長征時以前からあった天主堂が今でもあり、その奥には毛沢東が長征中に滞在した建物が修理されて、磨西天主教堂毛沢東同志住地旧址として保存されています。

(2005.07.05)

 

〔追記〕 フォトアルバム「四川・大渡河と海螺溝等」は、https://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngpIDk4sDyLI2tPFePwです。

(2011.10.01)

 

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九寨溝・黄龍(2)―四川雑感〔2〕―

25日は黄龍を歩きました。この日は晴天でしたが、ときおり天気雨がありました。

黄龍は入口から奥の五彩池まで4㎞強の登り道で、上りと下りは基本的に分離されていて、上りが観光路です。

写真1は、最初のスポットの迎賓彩池です。

050625黄龍 003

このすぐ先の写真2は、飛瀑流輝です。

050625黄龍 007

写真3は、それに続く洗身洞瀑布です。中央に見える穴が、妊婦が入ると安産だと、伝えられているところです。この色の岩肌は黄龍の特色です。

050625黄龍 011

写真4は、この滝の先にだらだらと数百メートルも続く金沙鋪地で、まさしく黄龍が大地に長く匍う姿です。

050625黄龍 016

金沙鋪地を越えると、盆景池と写真5の、明鏡倒置池になります。この池はその名の通り自分の姿を写せます。ようやく道は半場といったところです。

050625黄龍 026

写真6は、この先の姿夢映彩池越しに見た雪宝頂(5588m)です。前回は雲で一部しか見えませでしたが、今回は写真のようにその名の通り雪を抱いた全景を見せています。

050625黄龍 028

これよりしばし登りに専念すると、写真7の、争艶彩池になります。これは上より黄龍に対面する山を背景にしたものです。

050625黄龍 031

こうして中寺を過ぎ、最後のだらだら登りを行くと、黄龍寺が見え、その奥が黄龍で最高といわれる写真8の、五彩池です。ここは標高が3500mを越えます。池の奥の高台に展望台が設けられ全景を俯瞰できます。

050625黄龍 053

以上が黄龍です。往復で約8㎞を歩きますから、登りはスポットで撮影しながらゆっくり歩き、帰りは疲れていたら籠(料金は表示してあります)を利用するのもいいでしょう。

(2005.06.28)

 

〔追記〕 フォトアルバム「四川・九寨溝と黄龍」は、https://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngpF8rDvbqIzvkocPFgです。

(2011.10.01)

 

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九寨溝・黄龍(1)―四川雑感〔2〕―

23日~26日まで、大学外事処主催で九寨溝・黄龍に行ってきました。実は、2002年7月に中国人向けのツアーに参加していますから、今回は2回目です。24日の九寨溝ではあいにく雨模様と時間の関係で、下流の樹正群海溝を巡ることが出来ませんでしたが、上流の日則溝と則査洼溝は一応撮影が出来たので、下にそれを載せます。

まず、西側の日則溝の奥から見てゆきました。写真1は、箭竹海です。左(上流部)にその名を示す草が水に生えています。

050624九寨溝 002

写真2は、熊猫海です。昔にはパンダがいたといわれることから名付けられたものです。

050624九寨溝 010

写真3は、熊猫海の直下にある熊猫海瀑布です。

050624九寨溝 011

写真4は、日則溝を代表する五花海で、エメラルド色と水中にある枯れ木の組み合わせの池です。

050624九寨溝 027

写真5は、五花海より少し下ったところにある珍珠灘です。ここで孔雀河道の狭い流れを下ってきた川道が広がります。

050624九寨溝 037

そして、そのまま滝となって落ちるのが、写真6の、珍珠灘瀑布です。この滝はカメラ(私のカメラは広角が28mm相当です)の画面に入りきれないほどの幅(約200m)を広げています。最後の鏡海はバスで通過したため写真はありません。

050624九寨溝 052

次は東側の則査洼溝です。写真7は、九寨溝で最大(93ha)かつ最高高度(3102m)にある長海です。

050624九寨溝 059

写真8は、五彩池で、雨のためもあり、写真ではそれほどでもありませんが、エメラルド色を基調として微妙な色を示して、九寨溝一の美しさを示しています(前回は晴天で、陽光を受けて色に変化がありました)。

050624九寨溝 070

樹正群海溝にもまだまだ見所(諾日朗瀑布・樹正瀑布・樹正群海・盆景灘など)がありますが、今回は回れなかったので、残念ながら写真を載せることは出来ません。ご自分の目で確かめるのが一番でしょう。

次回は黄龍の分を載せます。

(2005.06.27)

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中国三大男優・女優―成都雑感〔6〕―

ようやく今週で学期の講義が終了しました。来週から期末試験期間となります。しかし、私の講義では期末試験も今週で終了です。西南交通大学では、専門科目の多くは講義時間内で期末試験を行います。当然ながら、それは最終週となります。試験期間には革命史などの「公共」課目が基本的に行われ、専門科目で行うのは少数です。

そこで、金曜日の2年生の作文の試験を利用して、作文用紙の裏に学生に中国における三大男優・女優を書かせました。回答は30人(男子9人・女子21人)です。2票以上獲得した俳優を示します。

〔男優〕

1.周星馳 18票

2.梁朝偉 16票

3.成龍  12票

4.劉徳華 11票

5.周潤発 10票

6.古天楽  4票

7.陳道明  3票

7.李連傑  3票

9.姜文   2票

9.陳坤   2票

9.陸毅   2票

〔女優〕

1.章子怡 27票

2.張曼玉 22票

3.鞏俐  16票

4.徐静蕾  4票

5.周迅   3票

5.梁咏琪  3票

7.楊紫瓊  2票

7.林青霞  2票

以上です。10票以上は男優が5人、女優が3人で、女優への集中度が高いです。とりわけ章子怡の支持は圧倒的です。全体的にみると、男優は、周星馳のように、アクション系の香港スターが圧倒的に強く、5・60年代生まれです。女優は、鞏俐のように、映画演劇関係大学卒の大陸出身の演技派が主流で、6・70年代生まれです。

以上の中には、日本でもよく知られた、成龍や鞏俐などもおれば、まだそれほど知られていない俳優もいますが、ここに上げられた俳優たちは、現在の中国映画界を牽引している人々であり、章子怡に代表されるように、世界へと雄飛している人々でもあると思います。ともかく、限られた範囲ですが、現代の大学生の傾向を知る資料ではないかと思い、ここに載せました。

(2005.06.18)

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消え去る木造民家―成都雑感〔5〕―

成都市内(一環路の内側)に普通にみられた、清代からの建築様式の木造民家が残り少なくなっています。道路拡張と再開発のためです。保存価値がないとみられているのか、保存措置をされていることは聞きません。おそらくここ1・2年で消滅するでしょう。

下に、残り少なくなった木造民家の写真を載せておきます。

写真1は草市街に1軒だけ残るものです。ここには3店の商店が入っていたと思いますが、すでに左の店は移転して柱を残して壁はなくなっています。後方には新築中のビルが迫っています。この完成までにはこの家はなくなるでしょう。

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写真2写真3は北大街と北東街の交差点角のものです。写真2での家の左に広がるのが拡張工事の終わった北大街です。写真3で見るように、飲料酒店の左の店はすでに移転し、赤字で移転先が書かれています。飲料酒店のガラスケースに入っているのは白酒です。またペプシのケースが右にあります。

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写真4写真5写真6の3枚は西珠市街です。ここは写真で見るように路地で、まだ何軒かが軒を連ねています。ここは成都一の寺院の文殊院の北東に当たり、もう少し残りそうですが、院の南側は古街として再開発中ですから、どこまで持つかは分かりません。写真5はトランプを、写真6は成都人の好きな麻雀をしているところです。

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050609木造民家西珠街

写真で見るように、道路に面している木造民家では、1階が商店、2階が住居などになっています。普通は奥にさらに中庭を挟んで1階建ての住居があるのが、典型的な木造民家です。

中国では地方毎に特色のある建築様式があり、それがその地方を示していました。観光資源として保存活用されることもありますが、それはごく一部です。そのほとんどが消えようとしています。とりわけ庶民の生活する民家は消えようとしています。どこの都市へ行っても、コンクリートの建物ばかりで、どこにいるか区別が付きません。ある一つの文化が消えていくのかも知れません。

(2005.06.11)

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祝ワールドカップ出場

選手諸君おめでとう。

CCTV-5(中国中央テレビ5チャンネル-スポーツチャンネル)でみていました。

柳沢のシュート万歳。

大黒が入る動きがよくなる。

川口ナイスセーブ。

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木曽殿源義仲の伊予守遷任(その2)―歴史雑感〔3〕―

義仲は越後守を嫌いました。義仲に差を付けられた不満の意を行家が表したように、当然に嫌う理由、ひいては要求を示したはずです。その結果が伊予守遷任となったとすべきです。とすれば、伊予守への遷任は朝廷の主導的な意志というよりも、義仲の要求に合わせたと考えた方が妥当です。何を義仲は要求したのでしょうか。すなわち、義仲は伊予守任官に何を期待したのでしょうか。

まず勧賞のことです。8月10日・16日・25日と3回にわたって行われた勧賞において、義仲・行家の他、以下の源氏諸将が国守に任命されたことが確認されています。伊賀守に山本義経(近江源氏)、遠江守に安田義定(甲斐源氏)、佐渡守に葦敷重隆(尾張源氏)、伯耆守に源光長(美濃源氏)の4人です。(浅木年木氏、『治承・寿永の内乱序説』1981年法政大学出版局参照)彼ら以外にもこの勧賞を蒙った武士はいますが、彼ら6人が一段と高い軍事貴族として朝廷から認められたことになります。すなわち、武家の棟梁としての資格を有していたのです。この意味では、彼らは同格なのです。

この勧賞では、勲功第1と認定された頼朝が何らの行賞も受けていないことで理解されるように、上洛することが行賞の大前提です。国守任命に当たって、諸将の出身国を除外し、第1に父祖・一族の先例を踏襲するもの、第2に平氏追討のためのもの、第3に実力(反乱)による国衙支配権の奪取(簒奪)を追認するものと、三つの原則から任国守がなされました。佐渡守の葦敷重隆・伯耆守の源光長が第1、伊賀守の山本義経・備後(備前)守の源行家が第2、そして遠江守の安田義定・越後守の木曽義仲が第3です。(拙稿、「寿永二年八月勧賞源氏諸将任国守の史的意義」『政治経済史学』438・9号2003年2・3月参照)

次に、伊予国について考えてみましょう。伊予国は遠江・越後・備後などと同じく上国で、この点では同格ですが、平安後期では、播磨国と並ぶ温国として、最も羨望された国守であり、事実上の最上位国でした。このことは、平治の乱後における国守の任免を見ても分かります。すなわち、平治の乱(1159年)直後の、12月、平清盛の嫡男重盛が勲功賞として国守に任じられます(『公卿補任』応保三年条平重盛尻付)。1161(応保元)年に、清盛の与党である藤原邦綱が重盛に替わって任じられます。そして、1164(永万元)年には清盛が知行国主になります。このように、平治の乱後には清盛が同国に強い影響力を保っていたのです。その後、間に摂関家などの知行国主が入りますが、1166(仁安元)年以降、治承3年(1179年)の清盛クーデターで実権を剥奪された時期を除くと、本年に至るまで、後白河院の院分国です。(飯田悠紀子氏、「知行国主・国司一覧」『中世ハンドブック』1973年近藤出版参照)伊予国は朝廷にとって最重要国と言えます。

清和源氏にとって、伊予国はどんな国でしょうか。河内源氏の嚢祖頼信が東国に地歩を築き、嫡男の頼義がこれを発展させ、とりわけ前九年の役に活躍したことはよく知られているとおりです。この乱で、奥州安倍氏に勝利した頼義は、1163(康平6)2月、安倍貞任追討の行賞として、伊予守に任じられ、正4位下に昇叙します(『百練抄』同年二月廿七日条)。河内源氏にとって伊予守は栄えある名誉であり、輝く先例なのです。

頼義の長男義家の子孫が頼朝であり、義仲であり、行家であります。3男義光の子孫が安田義定などの甲斐源氏であり、近江源氏の山本義経であり、信濃源氏の平賀義信であります。このように、頼義子孫は東国の反乱軍の主勢力、関東の頼朝・甲斐源氏・信濃源氏を網羅しています。いわば、東国の河内源氏共通の栄えある祖が頼義なのです。この意味で、『源平盛衰記』(巻二十八・頼朝義仲悪事)に記されている、頼義の義家流にも義光流にも子孫に優劣がないとの甲斐源氏伊沢五郎信光の意識は、あながち物語の虚構とするよりも、当時の東国における河内源氏一門の意識の反映と考えます。当然ながら、このことは頼朝のみが嫡流を占めることができると言うわけではないという意識になります。

以上から理解できることは、伊予守が第1に勧賞の対象国として最上位に位置すること、第2に河内源氏にとって祖頼義の輝ける栄光の先例を担うことです。

さて、義仲の立場から伊予守を考えます。対平氏戦においては協力し合う関係ですが、武家の棟梁の座を巡って源氏諸将はお互いに競合関係にあります。このことは、この春の頼朝・義仲の対決(拙ブログ「寿永2年春の源頼朝と源義仲との衝突」参照)ではっきりと表面化しました。源氏の各将は対平氏戦を戦うとともに、一歩でも他に抜きんでようと激烈な競争をしていたのです。行家の不満の意もその表れです。そうならば、伊予守に任官できることは他の諸将にたいして明確に上位したことを示すことができます。とりわけ、その第2の意味は、頼義子孫の中で、己がその栄光先例を受け継ぐ正統者であることを、示すことになります。すなわち、河内源氏の筆頭が自己であり、ひいては嫡流であるという表示になるのです。ライバルである頼朝に上位することは義仲にとって急務です。この意味からいえば、伊予守任官は義仲が頼朝にこの時点で上位したことを明瞭にさせます。明らかに義仲は頼義の先例を意識していたと考えます。伊予守就任は義仲を河内源氏の正統者たらしめるのです。また、越後守では行家の備後守(上国)や安田義定の遠江守(上国)と同格で、たとえ京官の左馬頭があって彼らに上位していますが、その差は決定的なものではありません。同時、越後国はすでに簒奪し支配権は掌握しており、守就任は実質においてメリットを感じなかったとも言えます。ということは、越後守でえられるメリットと、伊予守でのメリットを比較すれば、後者の方が極めて大きいと判断できます。ここに、義仲が伊予守を要求しそれを実現させた理由があると考えます。

他方、朝廷からみた伊予守任官はどうでしょうか。平氏都落ち以降、平氏の勢力下となり、後白河院の主導する朝廷の支配の及ばない地と西国はなっています。伊予国は後白河院が己の院分国としての支配不能の名目上のものです。すなわち、現時点では院は失うべき実質がないわけです。次に、本勧賞での3原則からみれば、伊予守は第2の平氏追討を促すことになります。この点は、義仲にとっても、平氏追討の名義も立ち、両者の意向が合うと考えます。さらに、国守任免権(地方支配権)が朝廷にあるという本義(原則1・2はこれに基づくものです)を、原則3は本質的に突き崩すものである以上、朝廷としては本音では認めたくないものです。越後守から伊予守に遷任すれば、これが遠江守安田義定一人だけになり、弱まります。この意味で、伊予守遷任は都合がよいのです。伊予守任官は原則1を基本として、同時に原則2の意味を持ち、源氏諸将を旧前通りに朝廷に忠実な軍事貴族としての位置づけができるのです。以上、朝廷からみても、メリットがあると判断したからこそ、義仲の要求を受け入れ、かかる人事になったと考えます。ここに義仲の伊予守遷任で後白河院分国でなくなり、義仲が伊予国最高責任者となったのです。実態は平氏が実質支配し、義仲はそれを排除しなければ支配権を行使しえなかったとしても。

義仲と朝廷がそれぞれのメリットを享受できるとして、義仲の越後守から伊予守への遷任がなされたのです。一方、行家の備後守(上国)から備前守(上国)への遷任が何らの昇格をもたらさない横滑りで、単に対平氏戦の後背国から最前線国に替わっただけで、彼の不満に何ら応えていないことは明らかです。両者への対応をみれば、この時点では、朝廷は在京中の義仲を「官軍」筆頭として明確に処遇し、対平氏戦に備えたのです。この意味からいえば、朝廷は義仲を一番頼りにしたのです。

しかし、同時に、安徳帝の後継問題(後鳥羽帝践祚)を巡って、たちまち両者は激しく対立し、義仲が後白河院の信頼を失ったことは周知のことです。両者は同床異夢でしかなかったのです。

(終わり)

(205.06.05)

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木曽殿源義仲の伊予守遷任(その1)―歴史雑感〔3〕―

1183(寿永2)年7月25日、平氏一門は六波羅の居宅を一宇残さず焼き払い、安徳幼帝を奉じて、西国へと都落ちしました。平氏に先立ち比叡山に密かに逃れていた後白河院が、27日、京都に戻りましたが、その先頭には近江源氏の錦織義高(山本義経男)が立ち、(『吉記』同日条)替わって、ここに、1181(治承4)年8月の源頼朝の挙兵以来の反乱軍は「官軍」として京都に入ることになりました。翌28日、木曽殿源義仲、新宮殿源行家らに率いられた「官軍」主力が入京したのです。義仲・行家両人は院御所の蓮華王院に参上し、後白河院御前で平氏追討を命ぜられました。この際、両人が並んで御前に進む時、前後を争い、すでに両者の間に権を争う意があると公家らに見られたのです。(『玉葉』同日条)

ここに新たに官軍となった東国の源氏諸将への、「平氏追討」に対する論功行賞(勧賞)が行われることになりました。30日、蓮華王院に議定を招集し、左大臣大炊御門経宗・右大臣九条兼実・大納言三条実房・中山忠親・中納言藤原長方が出席しました。この席で、源氏諸将の「勲功」の優劣が議されました。それは、上洛していない源頼朝が第1、義仲が第2、行家が第3となりました。(『玉葉』同日条)

8月10日、義仲が従5位下越後守兼左馬頭、行家が従5位下備後守とする、平家追討による最初の勧賞が行われました。しかし、行家はこの賞に直ちに不満の意を示しました。軽すぎるし、義仲に差を付けられているというのです(『玉葉』12日条)16日、第2次の勧賞が行われました。この時、行家は1週間も経たずに備前守に遷任されます。彼の不満がこの人事になったことは間違いありません。一方、義仲も伊予守に遷任します。義仲も越後守を嫌った結果です(『延慶本平家物語』第四・四源氏共勧賞被行事)。義仲は京官(左馬頭)を兼官しており、明らかに行家に上位しています。だからこそ、行家が不満の意を表したわけです。では、義仲は何に不満があったのでしょうか。そのことを示す史料は見あたりません。そこで、何故かかる人事がなされたか少し考えてみたいと思います。

(続く)

(200.05.29)

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寿永2年春の源頼朝と源義仲との衝突(その3)―歴史雑感〔2〕―

義仲と頼朝とがどこに陣を布いたかは『平家物語』諸本により異なります。ここではその細かい差異とその地の考証は論点に影響しないので省きます。簡略化すれば、義仲は北陸街道沿いの信越国境付近、頼朝は長野新幹線沿いの信濃国内に陣を構えて、対峙したのです。

頼朝軍が碓氷峠越えで信濃に侵入したことは前回考えました。それでは、なぜ義仲が佐久より引いて、信越国境に陣を布いたかを考えてみましょう。

佐久平の中心と言える平賀氏が頼朝側に付いた以上、義仲が佐久平に頼朝軍を迎えることは不可能と言え、ここより撤退したことはうなずけます。そうであるならば、義仲は本来信濃木曽党でありますから、信濃国内に迎撃してもよいはずです。例えば、木曽党の地盤である松本平を拠点として、これへの接近路である三才山峠(国道254号)などを防衛線する、また、善光寺平に引き、これの接近路である塩尻(上田市)屋代(千曲市)間の千曲川隘路を防衛線にすることです。

しかし、いずれも取らず、義仲は信越国境まで引いたのです。前回で述べたように、松本平には平賀氏の同系統の岡田氏がおり、善光寺平にも横田河原の奇策で知れる頼季流源氏の井上氏などが盤踞していました。彼らが義仲の下に団結していたならば、決して義仲が信濃から下がることはなかったはずです。すなわち、そのことは、義仲が両平の主導権を握っておらず、一枚岩でなかったことの現われと考えます。平賀氏のように頼朝方に走った源氏がいた可能性さえありますが、史料上でこれを推量させるものはありません。

ただ、もし越後が義仲の勢力下になければ、信越国境に義仲が陣を布くことはできなかったはずですから、横田河原合戦後、越後の支配権の主導は少なくとも義仲が握っていたと考えることができます。いわば、木曽党・佐久党・甲斐源氏と、各地域の連合体である信濃反乱軍は、頼朝軍の侵攻の圧力より、その一枚岩的団結を乱し、傘下の諸勢力には別個の道を取る者も出てき、その結果、義仲の勢力基盤が信濃から越後へと移行せざるを得なかったことの反映が、この義仲の信越国境布陣と言えます。したがって、この後の義仲は越後、すなわち北陸道に目を向けることになりましょう。

さて、頼朝が信濃侵攻をなした原因として源行家の件を『延慶本平家物語』は挙げています。これは事実でしょうか。周知のように、行家は以仁王令旨伝達者として治承・寿永の内乱に登場します。その後、1181年春、濃尾反乱軍の首魁として姿を見せ、3月の墨俣川合戦に平重衡軍に敗北し三河に退きますが、以後、ここを拠点として活動し、三尾反乱軍の中心として木曽川以東を勢力圏としていたのです。この行家の行動は頼朝とは独立した自立したものなのです。(拙稿Ⅱ、「蒲殿源範頼三河守補任と関東御分国」『政治経済史学』370号1997年4・5・6月参照)したがって、墨俣川合戦後に頼朝の下に寄宿していたという『延慶本平家物語』の話は事実ではありません。当然ながら、これによる行家が義仲もとに走り「讒言」との記述も事実ではありません。

ならば、『延慶本平家物語』は無からこれらの話を作り上げたのでしょうか。『平家物語』だけではありませんが、『吾妻鏡』における治承・寿永の内乱での源氏関係の「誤謬記事」を分析した結果は、無から「誤謬記事」を作るのではなく、基本的事実そのものは存在するが、その真の日時などを前後させて、事実の真の意味を隠していること明らかにしました(拙稿Ⅲ、「治承五年閏二月源頼朝追討後白河院庁下文と『甲斐殿』源信義」(Ⅱ)『政治経済史学』227号1985年6月参照)。このことは、『吾妻鏡』のみならず、『平家物語』においても言えると考えます。すなわち、頼朝と対立した源氏の誰かが義仲に走ったという基本は事実であると言うことです。

では、行家でないとすれば、それは誰でしょうか。結論から言えば、(その1)で述べているように、義仲叔父の志田義広です。本拠の常陸信太(志田)庄(茨城県江戸崎町など)を発し、2月、頼朝方の小山氏と下総の野木宮に戦い、義広は敗れます。その後、彼は史料から見えなくなります。敗戦後、彼がどこに行ったかは明示されていないのです。本年は、その後、5月に義仲軍が加賀越中国境の砺波山で平氏軍を撃破し、これ以後、怒濤の進撃をし、7月、平氏は都落ちし、替わって義仲を筆頭とする反乱軍が入洛し「官軍」となり、状況が一変するのです。頼朝は依然として鎌倉にいます。いわゆる「天下三分」の情勢です。このような中、頼朝は後白河院に使者を派遣して、義広の上洛について憤りの意を伝えました(『玉葉』寿永二年十月九日条)。これが義広の再登場です。彼は単独の存在でしょうか。以後の「『玉葉』の記載記事(閏十月二十三日条など)を見れば明白のように、義仲の傘下に彼は入っています。そして、翌年正月、義仲と頼朝との軍事対決の時、頼朝の派遣した範頼・義経軍に対して、宇治の防衛線の大将軍が義広でした。以上のことから、野木宮合戦敗北後、甥の義仲を頼って、その元に赴いたとすることは自然なことであると言えます。そうです、行家ではなく、義広が頼朝と対立し義仲へと走ったのです。

頼朝からすれば、義広が義仲の下に走ったことは対決すべき名分ができたことになります。さらに、平賀氏が頼朝方に傾き、甲斐源氏の一部が義仲より離れ頼朝に付くとなれば、状況は大きく頼朝に傾き、侵攻策が取れるわけです。ここに、頼朝軍の信濃侵攻がなされるのです。この対決は反乱軍同士の同士討ちの感に見えますが、治承・寿永の内乱が多重的な歴史的意義を有した中で、武家棟梁の座を巡る、とりわけ源氏棟梁間のそれであり、本質的にはその座が一つでしかない以上、最終的には避けえないものでした。ともあれ、義仲としてはその劣勢は如何ともしがたく、嫡男義高を大姫婿との体面で人質に出すことで、和睦します。この結果、両者の軍事対決が今回は避けられ、信濃より東山道から都を目指すことを放棄せざるをえなくなった義仲は、越後を拠点として、横田河原合戦後に独自に反乱を展開していた北陸道反乱勢力と連携することで上洛を果たし(浅木年木氏、『治承・寿永の内乱序説』1981年法政大学出版局参照)、唯一の武家棟梁の座を目指すのです。

(終わり)

(2005.05.22)

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日本文化分野での卒業論文題目

西南交通大学日本語学科での卒業論文は、日本語言語学・翻訳分野と日本文化分野の二つがあります。前者は中国人教員が、後者は日本人教員(2名)が担当指導します。以前はこれでよかったのですが、最近は前者を選ぶ学生が減少し、後者が半数を超えるようになりました。したがって、中国人教員も日本文化分野をも担当せざるをえません。

では、日本文化分野で、学生がどんな題目を選ぶか、少ないですが、私の担当した4年分(24名)の題目をお見せすることで、その一端が分かると思いますので、以下にそれを示します。

〈経済関係〉6名

戦後日本経済の高度成長の要因としての科学技術

日本における終身雇用制

松下電器の分析から終身雇用の未来を見る―改革は破壊ではなく、再伸である―

バブル経済下の日本経済

90年代後半の日本単身世帯の消費行動

90年代後半以降の日本の対アセアン貿易政策の変化

〈社会関係〉5名

「家」から見た日本人の集団意識

戦後日本の家庭構成の変化

現代中日女性地位の比較

中日高齢者生活の比較

日本人の清潔と清潔感

〈教育関係〉1名

日本の小学校教育

〈宗教・思想関係〉5名

仏教思想の日本人生活への影響

中日死生感の比較

盂蘭盆会と日本人の死生観

戦後における日本人の宗教意識変容について

江戸時代の儒学思想とその影響

〈文学関係〉2名

『個人的な体験』から見た大江健三郎の心霊の遍歴

中国での村上春樹ブームの原因の考察―『国境の南、太陽の西』をめぐって―

〈言語文化関係〉2

日本の若者語考

中日外来語の比較

〈その他〉3名

中日古典庭園芸術の比較

文化としての日本マンガ

中日酒文化の比較

以上です。これを見れば関心が多岐にわたっていることが分かります。したがって、時間軸で言うと古代から現在までと、空間軸で言うと経済・社会・宗教・文学などと広く広がっており、4次元的範囲で指導対応しなければなりません。皆さんはどうご覧になりますか。

(2005.05.17)

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卒業論文指導

5月は私にとって一番忙しい月です。それは、卒業論文指導の山となるからです。

西南交通大学日本語学科での卒業論文作成の流れと実情を述べます。

9月、新学期になると、4年生は卒業論文テーマ設定のための史料検索に入ります。卒論作成の第一歩です。しかし現実には、この段階では何もしません。10月の国慶節の休みを経てもまだです。11月、最初の卒論テーマ提出が迫ると、ようやく腰を上げて、図書館やインターネットで資料を見て、適当なテーマ名を考え出します。「戦後の日本経済」とかいうように、極めておおざっぱなテーマとなります。一応、11月末頃に、それを提出します。しかし、そういうものですから、そのまま通ることは少なく、再提出となります。ここで、あわてて、資料検索に力を入れます。私のところに資料を探しに来るのもこの時です。12月中旬までに、最終テーマを決めます。この過程で、何度か修正する学生もいます。決定権は学科主任にありますから、よくそんなテーマでよいのかと、主任に叱られます。

各自のテーマ設定が決まると、主任が各学生の卒論指導担当教員を決めます。そして、12月下旬、卒論指導担当教員と学生全員の会議を招集します。ここで、卒論作成の進行日程が告げられ、作成上の注意事項などを学生に知らせます。それから、各担当指導教員毎に学生が分かれて、最初の指導を受けます(私の場合、6人で、テーマは日本文化全般。全クラス29名で、指導教員名)。ここでは、各自が決めたテーマについての現況報告(資料収集など)と、それに基づく冬休みの指導を行います。基本的にはテーマに関する資料収集とそれによるアウトライン作りについてです。この段階で、もうテーマ変更を申し出る学生も出ます。つまり自分決めたテーマに自信がないので、指導教員にテーマを見つけてもらおうとするのです。

最終学期では、選択科目の単位に不足がなければ、授業は取らなくてもよいですから、事実上卒論作成だけです。4年生は卒業実習の関係もあり、冬休み明けは、第4週目からです。本年の場合、3月14日です。事前に言ってあるように、大学に戻ったら、連絡・卒論の進行状況の現況報告をしなければならないのですが、こちらから言わなければ連絡する学生は皆無といってもいいのです。ですから、学生が大学に戻ったかどうかすら分かりません。ともあれ、冬休み明け直ぐ、2回目の全体会議が招集されます。ここで、全体への注意の後、分かれて指導教員が各自の現況報告を聞くわけです。この時、まだ、大学に戻っていない学生が必ずいます。そして、テーマを変更したという学生も必ず出ます。この場合、以前のテーマに自信がないので変更するのですから、新しいテーマに格段の問題がなければ、その状況をよく聞き、そのまま変更を認めます。

何故そうなるかといいますと、本来は春節休みは卒論の資料収集・検討とこれに基づくアウトライン作りの時期で、ここで卒論の土台ができあがるはずです。しかし、何といっても日本語資料の不足、端的いえば文献資料が手に入らないことです。この点が日本国内とは違い、外国での弱いところとなります。成都は内陸部にあり、日本語文献には恵まれていません。それに休みで故郷に帰れば、北京などの地区を除けば、同様かそれ以下です。資料がなければ、自信もつきませんし、進めることもできません。この弱点、日本語文献資料不足は現状では如何ともしがたいです。もちろん、インターネットを利用した資料探しも常態となっていますが、いかんせん、玉石混淆というよりも、石だらけ、学生たちが検索して探し出したものは、問題がありすぎます。以上のことから、この長い期間が卒論構築に有効に働いていないわけです。

これからは完全な個別指導に入ります。進行日程では4月上旬が初稿提出ですが、実際はそれを最終アウトライン提出期限とします。それまでにやるべきことを指導し、次の指導日=提出期限を指示します。もちろん、それ以前でも連絡・報告をするよう言います。

さて、現実は、この遅れた日程でもこうはなりません。学生からの途中報告がほとんどないのです。指導日にはともかく学生に集まってもらって、現況を聞きます。しかし、本当の意味でのアウトラインが完成したとはいえない学生が多いのです。したがって、そういう学生にはさらなる補充を行いますから、より遅れるわけです。ともあれ、次に初稿提出の期限、5月のメーデー明け(進行日程では第3稿提出)と論文執筆上の留意点を指示します。また、論文はパソコン執筆となっているので、私の作成した卒業論文書式ファイルを渡し、それで執筆してもらいます。そうすれば、パソコン上で添削できるし、最初から一つのファイルになっているので便利なのです。

なお、卒業論文は、次のように構成されています。表紙・卒業論文任務書(中国語)・論文概要(中国語)・論文概要(日本語)・目次・論文本文・参考文献表です。それぞれ、ページ数の表示などヘッダー部分の構成が異なるのもあり、それぞれセクション別にしなければ一つのファイルにはなりません。他の学科の様子などを見ると、それぞれ別ファイルにし、プリントアウトしているようです。

4月下旬、指導教員が集まり、学生の現況を確認するとともに、卒論の完成提出を5月末と確定し、学生に督促するように決めました。あらためて、学生を集めて、現況を報告させ、そのことを告げ、メーデー明けまでには初稿を提出するように厳重に命じました。ともあれ、それで5月になると初稿が提出されるようになったのです。中には、大学にはおらず、メールで添削指導をする学生もいます(就職決定先での実習中などで)。したがって、私もメーデー明けからは、本来の授業(週6コマ)に加え、卒論指導添削が本格的に始まったので、一番忙しい時期になったのです。特に初稿(論文本文)ですから、問題点や基本的なWordの利用法など添削箇所は一番多く、一番時間を要するのです。土日も返上になります。

当然ながら、2稿、3稿と続くわけです。とりわけ、注意したにもかかわらず、初稿では注を付けていない学生もおり2稿以降もたいへんなのです。本文が確定するとともに、任務書や論文概要を付けて(表紙は初稿添削で作成し、目次は本文ができれば、Wordの機能を使って自動作成しますし、注が固まれば参考文献表もできます)、卒論は完成です。予定では、5月末が期限です。これは大学での選抜答弁会(日程未定、おそらく6月中旬)に間に合わせるためです。そして、その後学科の答弁会と評価決定となります(6月中下旬か)。しかし、実際の締め切りは6月上旬になると思います(例年そうです)。ただ、本年は例年より、学期末が早いので、それだけ日程に余裕がないのです。まさしく、これから追い込みとなります。

(2005.05.14)

 

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