さきたま風土記の丘・下―歴史雑感〔50〕―

 7日(土)午後はさきたま古墳公園見学です。本公園は埼玉古墳群を保存整備したものです。まず、埼玉県立さいたま史跡の博物館(埼玉県行田市大字埼玉4834 入館料200円・開館時間9~16時30分・休館日月曜日等)見学です。

 写真1は、稲毛山古墳出土太刀です。国宝金錯銘鉄剣は撮影不可のため載せられませんが。

 写真2は、動物埴輪です。この他、各古墳から出土した武具・馬具・各種埴輪・土器・鏡等が展示されています。

 次いで、古墳巡りです。写真3は、瓦塚古墳です。長方形の二重環濠を持つ、墳丘全長73mの前方後円墳で、6世紀前半の築造と推定されています。

 写真4は、愛宕山古墳です。長方形の二重環濠を持つ、本古墳群で最小の墳丘全長53mの前方後円墳で、6世紀前半の築造と推定されています。

 写真5は、丸墓山古墳です。直径105mの日本最大の円墳です。髙18.9mで古墳群中最高で、6世紀前半の築造と推定されています。

 写真6は、丸墓山古墳からの、左が稲毛山古墳、右が将軍山古墳です。両古墳とも墳丘が復原されています。

 写真7は、後円部から見た稲毛山古墳です。長方形の二重環濠を持つ、墳丘全長109mの前方後円墳で、5世紀後半の築造と推定されています。

 本古墳の後円部の埋葬施設の一つ、礫槨から国宝金錯銘鉄剣等の副葬品が出土されました。写真8は、礫槨を表示したものです。

 写真9は、将軍山古墳です。長方形の二重環濠を持つ、墳丘全長90mの前方後円墳で、6世紀後半の築造と推定されています。本古墳の横穴式石室は復原されて、将軍山古墳展示館として見学できます。また写真に見るように、土取で破壊された墳丘も復原されて、往時のように円筒埴輪も並べています。以上で古墳群の写真は終りですが、本古墳の南には武蔵国最大の墳丘全長138mの前方後円墳の双子山古墳があります。

 最後の訪問地は前玉神社(埼玉県行田市埼玉宮前5450)です。社殿は直径約50m・髙8.7mの円墳である浅間塚古墳上にあります。本古墳は周壕を持ち、埼玉古墳群では最終期の7世紀前半の修造と推定されています。最後の写真10は、上る参道から社殿を見たものです。

 なお、フォトアルバム「さきたま風土記の丘」はhttps://1drv.ms/u/s!AruGzfkJTqxng5o8sjiMR80M1YhAYA?e=PKa1VLです。

(2019.09.16)

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さきたま風土記の丘・上―歴史雑感〔49〕―

 2019年9月7日(土)、武蔵野文化協会・国宝史蹟研究会共催の「武蔵野古代ロマン・さきたま風土記の丘をめぐる」で、埼玉県の史跡を巡りました。9時にJR桶川駅に集合して、見学開始です。

 最初の見学地は観福寺(埼玉県行田市南河原1500-1)の国指定史跡「南河原石塔婆」です。一谷合戦での生田口先駆けで戦死したと『平家物語』で語られている私市党河原太郎次郎兄弟の供養板碑との伝承を持つ、2基の板碑が国指定となって、本寺の山門左横にある覆屋に保存管理されています。写真1は、左側の文応2年2月銘の板碑です。来迎印を結ぶ阿弥陀如来が左右に観音・勢至菩薩を従えた阿弥陀三尊像が線刻されています。台上高236cm・幅65cm・厚9cmです。

 写真2は、右側の文永2年(1265)2月銘の板碑です。脇侍を従えた地蔵菩薩が線刻されています。台上高187cm・幅58cm・厚6.5cmです。

 次いで、行田市藤原町の富士見工業団地内の八幡山公園一角を占める八幡山古墳(同町1-26-12)です。若小玉古墳群の一角にある本古墳は7世紀前半の築造と推定されており、かつては墳丘で覆われていましたが、1934年の小針沼干拓で墳丘が崩されて石室が露出しました。1977~9年にかけて石室の復原がなされて現在に至っています。本古墳は発掘調査により本来は直径80mの円墳で、周溝は存在しないと考えられています。写真3は、右側から見た本古墳で、石室が露出していることがお分かりでしょう。扉が開いているように、石室内は見学ができ、公開時間は10~6時(土・日・祝日)です。

 写真4は、左から見た本古墳です。

 石室は羨道・前室・中室・奥室からなっており、推定全長16.7m(現存長約14.7m)、奥室横幅4.8mの横穴式です。写真5は、羨道から見た前室です。奥へと中室・奥室となっています。

 写真6は、逆に奥室から中室・前室を見たものです。

 午前中の最後の見学地は忍城跡です。忍城は戦国期に成田氏により築かれたもので、小田原攻めの時に水攻めを受け、後北条氏降伏後に開城したことで知られています。その後、修復されて江戸時代には譜代の居城となりました。写真7は、再建された御三階櫓です。行田市郷土博物館(行田市本丸17-23 入館料200円・9~16時30分・休館日月曜日等)から渡り廊下で中に入れます。

 最後の写真8は、鐘楼です。

 なお、フォトアルバム「さきたま風土記の丘」はhttps://1drv.ms/u/s!AruGzfkJTqxng5o8sjiMR80M1YhAYA?e=PKa1VLです。

(2019.09.12)

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比企氏伝承地―歴史雑感〔48〕―

 源頼朝の乳母として公私に渡り支援をした比企尼を頂点とする、比企氏は鎌倉幕府の有力御家人として位置しました。そして、2代将軍頼家の乳母も輩出し、当主能員の娘若狭局が頼家長男一幡を出生しました。これにより頼家の外戚家として比企氏が位置しました。しかし、これに脅威を感じた頼朝外戚家の北条氏は、建仁3年(1203)9月2日、能員の暗殺を発端として、クーデターで比企氏本宗を滅亡させ、頼家を失脚させ、3代将軍に同母弟実朝を擁立しました。いわゆる比企氏の乱です。比企氏の本貫は武蔵国比企郡であり、当地には比企に関連の伝承が多く残されています。そこで、一部の伝承地を、2019年8月26日(月)午後、訪れたので、これを紹介します。

 写真1は、国道307号から少し北に入ったところにある、曹洞宗扇谷山宗悟寺(埼玉県東松山市大字大谷400)の山門です。若狭局が頼家暗殺後に比丘尼山に草庵を営み、寿昌寺を創建したとの伝承があります。本寺伝では天正20年(1592)に徳川家康家臣森川金右衛門氏俊が寿昌寺を移転して、宗悟寺と改称して森川家菩提寺としたとしています。これにより、本寺には森川家代々の墓があります。

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 写真2は、若狭局が保持していた頼家位牌と伝えるものです。本殿に厨子に納められて安置されています。残念ながらほとんど読めませんが。お寺さんのご厚意により拝見できました。

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 宗悟寺から国道307へと戻る手前に小川に沿った小道があります。これを約700mほど行ったところで、北に行く道とそのまま直進するところに出ます。北に行くと、若狭局が頼家の唯一の形見である櫛を見て悲しむ姿を見かねた祖母比企尼が櫛を捨てて思いを断ち切るようにいい、これにより櫛を沼に放ったと伝える櫛引沼があります。ただ、この伝承は比企尼が賴朝期の建久年間に死去したと考えるのが至当なので、無理な伝承といえます。写真3は、そのまま西に直行して、撮った比丘尼山です。比企遠宗の妻(比企尼)が夫の死後にこの丘に草庵を営んだと伝えることから比丘尼山と呼ばれるようになりました。

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 比丘尼山には7世紀頃の比丘尼横穴墓群があります。写真4は、この説明板のところで、左側に横穴が見えています。比丘尼山に沿って遊歩道が整備されて一周することができますし、串引沼への分岐路もあります。

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 写真5は、真言宗清月山金剛寺(埼玉県比企郡川島町大字中山1198)山門です。

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 比企氏の後裔とする比企政員が天正年間にこの地に館を構え、菩提寺として本寺を創建しました。政員(天正3年〔1575〕死去)は岩槻城主太田資正に属しました。子孫は幕臣となりました。政員以下歴代の位牌を納めたのが、写真6の、大日堂です。この奥が比企氏歴代の墓所です。この途中に掘割り跡が残っています。

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 最後の写真7は、比企氏歴代の墓石です。

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(2019.08.30)

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五女山―中国雑感〔51〕―

一、長春

二、長白山北線

三、長白山西線

四、五女山

 7月1日(日)午前は世界文化遺産「五女山城」観光です。五女山は遼寧省桓仁満族自治県桓仁鎮(県城)の北約8kmに位置する海抜804mの山です。五女山に築かれたのが五女山城です。漢元帝建昭2年(紀元前37年)、北扶余王子朱蒙がこの地に逃れて、五女山上に高句麗国の都城として築いたのが五女山城です。この当時は迄升骨城と称していました。五女山城は南北長約1500m・南北長3~500mの不規則な楔形をしており、山頂部の内城と山麓部の外城からなっています。西暦3年に高句麗国2代琉璃明王が現在の集安に都城を移転しました。2004年7月、五女山城は「高句麗王城、王陵及貴族墓葬」の一つとして世界文化遺産に登録されました。

 写真1は、朝ホテルから撮った五女山全景です。

  五女山景区游客中心には五女山博物館があり、五女山城遺址発掘遺物や周辺遺跡の発掘遺物が展示されています。その中から五女山城遺址発掘遺物を幾つかご覧に入れます。写真2は、鉄双孔斧等の鉄器類です。

 写真3は、鉄脚鐐です。

 写真4は、上部の印章中、中央が「経略司之印」、右が「安撫使之印」が五女山城遺址発掘遺物です。

 景区内バスで西門服務点に行きました。写真5は、ここにある世界文化遺産「五女山城」石碑です。

 写真6は、登り口にある「十八盤」石碑です。西門服務点から登りは本来十八曲りなので、この名があります。写真の直行する階段道は新しい道で、本来の十八盤は石碑右からで、全長938mです。この新しい階段道は四百段余あります。10時30分前に上り始め、50分過ぎに上(西門址)に着きました。

 写真7は、二号大型建築遺址です。長20・幅9.5m、東西に3列の礎石(列に10個)があります。崖下には黄土台が設置されています。

 写真8は、同じく二号大型建築遺址です。ご覧のように本遺址の主要遺址には木製の見学台が設けられています。

 写真9は、哨所遺址です。本城には何か所も哨所が設置されています。

 写真10は、本城の南東角にある点将台です。

 写真11は、点将台か見下ろした桓龍湖(人造湖)です。

 写真12も、桓龍湖です。

 写真13は、居住建築群遺址です。20余りの半地下穴式住居址です。兵舎と推測されています。

 写真14は、三号大型建築遺址です。長22・幅16mの長方形で、東面が土積で、南・西・北面が石積です。

 写真15は、一号大型建築遺址です。長13.5・幅22mの長方形で、7個の礎石(6個の礎石が保存され、1つには柱穴があります)の6間建物で、王宮と推測されています。

 最後の写真16は、西門服務点の外、道路から見た五女山です。12時40分過ぎでした。

 なお、フォト・アルバム「五女山」はhttps://1drv.ms/u/s!AruGzfkJTqxng5khYUbqEnSCTzfspA?e=pjjKOdです。

(2019.07.15)

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長白山西線―中国雑感〔50〕―

一、長春

二、長白山北線

三、長白山西線

四、五女山

 30日(日)は長白山西線観光です。景区内バスを降り、1440段余の階段を上り西線観景台に向かいます。50分余をかけて12時40分に観景台に着きました。「登頂成功 我真棒!」「海抜2470米」と記した大きな表示板があります。

 写真1は、観景台に上がったところにある中朝国境を示す5号定界碑(実際の国境は観景台の少し南)です。2009年との表示が下にあります。

 写真2は、観景台からの天池です。本日も霧のため景観を得られません。それでも中国人観光客はご覧のように記念写真を撮っています。

 写真3は、下る途上で景区内バス終点を見下ろして撮ったものです。登山道は登りと下りとに分れていますが。

 バイキングの昼食を済ませ、錦江大峡谷に移動します。錦江大峡谷は火山大爆発の火砕流・噴石・火山灰等の堆積物が流水で浸食されて、幅約2~300m・深さ約80~100mの峡谷となったもので、全長約70kmです。この一部に周回路が設置されて観光出来るようになっています。14時35分過ぎに入口から周回路を約50分歩きました。森林として各種の針葉樹・落葉樹の混合林です。秋には紅葉します。写真4は、その一つの臭冷杉(白松)です。

 写真5は、大峡谷が見えるところに出て、少し行き撮ったものです。

 写真6は、さらに行き、峡谷の支流が割込んでいるところを撮ったものです。

 写真7は、吊橋を過ぎ、さらに行ったところで撮ったものです。

 写真8は、さらに進んだところで撮ったもので、下の渓流をも写し込みました。

 最後の写真9は、峡谷を離れ、森林の中の紅松王を撮ったものです.ここで15時7分でした。

 なお、フォト・アルバム「吉林・長白山」はhttps://1drv.ms/u/s!AruGzfkJTqxng5ArTpWROqjBtcGLiQ?e=wIUhjfです。

(2019.07.12)

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長白山北線―中国雑感〔49〕―

一、長春

二、長白山北線

三、長白山西線

四、五女山

 29日(土)は終日長白山北線観光です。長白山(朝鮮名白頭山)は中華人民共和国と朝鮮民主主義共和国の国境線上に位置します。天池はカルデラ湖で天池を囲んで16峰があり、南側の2749mの白頭峰(朝鮮領内)が最高峰です。

 まず天池を目指します。景区内専用バスを降り、数分の登りで北線の天池景観台に至ります。写真1は、その途上での上る人々です。残念ながら、ご覧のように雨模様で、人々は雨支度で、雨と霧で視界が開けません。

 写真2は、10時50分頃天池景観台での天池を見下ろして撮ったものですが、完全に霧で覆われて全く見ることが出来ません。天池は水面標高2194m・面積10㎢・最大水深370mで、松花江・図們江・鴨緑江の水源です。

 天池から下り、次の長白瀑布を目指します。瀑布の下流に位置するのが聚龍泉です。70度以上の47か所の源泉口を有する温泉です。写真3が、それです。

 写真4は、長白瀑布(落差68m)の遠全景です。本滝は二道白河を経て松花江の本源となります。12時15分過ぎです。ここからは少し青空がのぞく天気となりました。

 写真5は、長白瀑布全景です。中望遠で撮りました。

 写真6は、望遠で撮った滝の落口です。

 写真7は、同じく望遠で撮った滝壺です。

 長白瀑布観光を終り、早めのバイキングの昼食を取り、次は下流の緑淵潭です。写真8が、それでご覧のように奥に3条の滝があります。14時前の撮影です。

 写真9は、左側の落口です。

 次いで銀環湖(小天池)へと徒歩移動です。小天池は南北40m・東西30m・周回り260m・面積5000㎡・水深10余mです。写真10は、小天池の右側です。湖面に木々が映り込みます。14時20分頃です。

 写真11は、湖の中央部で、対岸の石を捉えて撮りました。

写真12は、雲間から姿を見せた長白山の峰峰です。14時35分でした。

 最後の写真13は、本日最後の観光場所、地下森林です。ここで再び雨模様となり、帰りは雷雨となりました。15時25分の撮影です。

 なお、フォト・アルバム「吉林・長白山」はhttps://1drv.ms/u/s!AruGzfkJTqxng5ArTpWROqjBtcGLiQ?e=wIUhjfです。

(2019.07.09)

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長春―中国雑感〔48〕―

一、長春

二、長白山北線

三、長白山西線

四、五女山

 クラブツーリズム主催「色彩豊かな長白山と世界遺産五女山城6日間」(2019年6月27日〔木〕~7月2日〔火〕)中国に行ってきました。本ツァーの基本旅程は、

27日(木)午後成田発瀋陽着(南方航空) 夜瀋陽発長春着(高速電車) 長春泊

28日(金)午前長春観光(八大部・杏花沌公園・牡丹園) 午後長白山へ 長白山泊

29日(土)終日長白山北線観光(天池・長白山瀑布・緑淵潭・小天池・地下森林) 長白山泊

30日(日)午前長白山西線観光(天池・錦江大峡谷) 午後桓仁へ 桓仁泊

1日(月)午前五女山城観光 午後瀋陽へ 瀋陽泊

2日(火)朝瀋陽発成田着(南方航空)

です。

 最初の観光地は吉林省省都長春市観光です。長春市は旧満州帝国首都であったので、この関係が観光主体です。

 まず、旧満州国関係の建築物です。八大部(軍事・司法・経済・交通・興農・文教・外交・民生部)の多くは南北に通じる新民主大街に並んでいます。写真1は、部(省)を統轄する行政府である国務院旧址(朝陽区新民主大街126号)で、大街の一番北右側に位置しています。1936年に完成しました。現在は東北地方の名門校吉林大学白求恩医学院となっています。

 写真2は、医学院(医学部)の冠名となっている白求恩立像です。亨利·諾爾曼·白求恩とはカナダ人のHenry Norman Bethune(1890年3月3日~1939年11月12日)の漢字名です。ノーマン・ベチューンはカナダ共産党員として1938年に香港から延安入りをして、八路軍医師として活動中に死去しました。

 写真3は、大街の北端の文化広場の奥に立つ旧宮殿旧址(朝陽区西民主大路928号)を車上より撮ったものです。本宮殿は1938年に起工し、1943年に建設中止となり未完でしたが、中華人民共和国成立後の1956年に完工しました。現在は吉林大学地質宮博物館です。

 写真4は、中国共産党結成98周年(1921年7月1日)により杏花沌公園で演舞をしている市民達です。いくつもの組が代わる代わる演じていました。本公園はその名の通り杏の木が多く植えられています。

 写真5は、牡丹園内にある旧日本神武殿旧址(朝陽区立信街6号)です。本殿は武道場として1940年に完工しました。

 最後の写真6は、牡丹園の牡丹オブジェです。本公園はその名の通り牡丹の苑です。

(2019.07.04)

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再訪小机城―歴史雑感〔47〕―

 2019年6月16日(日)午後、小机城を再訪しました。本城は2017年に日本続名城百選に選定されました。小机城が歴史上に見えるのは15世紀後半の長尾景春の乱です。関東管領山内顕定に反した景春方が本城に蜂起して、太田道灌に攻略されます。その後廃城となりますが、16世紀に入り、後北条氏の武蔵国進出に伴い、この拠点として再築城されます。後北条氏2代目の氏綱の代に笠原信為が城代となり、小机衆が組織され、南武蔵における後北条氏の支城としての役割を果たしました。1590(天正18)年の豊臣秀吉の進攻に備えて、修築がなされて、現状はそれを伝えていると思われます。そして、後北条氏の滅亡後、廃城となりました。第三京浜道路建設に伴い、城址は東西に分断され破壊を受けましたが、現在、「小机城址市民の森」として、整備・保護されています。

 最寄り駅はJR横浜線小机駅で、下車後徒歩約15分です。駅前の横浜上麻生道を西(右)に歩き、郵便局が角の小道を北(右)に入り、横浜線の踏切を越えたところの小十字路を西(左)に歩くと、前方に第三京浜国道が見えますから、その脇の小道の一つ手前の小道に入り上っていくと、根古谷(市民の森入口・トイレあり)に至ります。ここに案内板があります。

 写真1は、東側から見た小机城全景です。左に見える橋が京浜第3国道です。その右の丘陵が城址です。

 根古屋から上ると、西曲輪南側の空堀に至ります。左(西)に進と角馬出に到り、前方(北)に西曲輪南門が見えます。写真2は、南門前の土橋から東に空堀を撮ったものです。

 写真3は、土橋から角馬出を撮ったものです。

 写真4は、西曲輪南門です。

 写真5は、西曲輪で、東から西へと撮ったものです。

 写真6は、つなぎ曲輪への土橋です。

 写真7は、つなぎ曲輪の北側部分で、空堀を挟んで西曲輪です。

 写真8は、つなぎ曲輪を越えて、基東曲輪の入口に当たる井楼跡です。ここは公園化する時整地されてしまいました。

 写真9は、井楼跡の北に位置する櫓台です。上って南から北へと撮りました

 写真10は、東曲輪に入り、西の櫓台北下からの空堀に下る道と空堀を撮ったものです。東西の曲輪は幅20m以上の空堀で四囲を防御されています。

 写真11は、東曲輪で、西から東へと撮ったものです。

 写真12は、東曲輪から下がり、西曲輪の南側空堀を撮ったものです。

 最後の写真13は、小机城の入口のねこやひろばにある小机城址市民の森案内図です。

 なお、フォト・アルバム「小机城」はhttps://1drv.ms/u/s!AruGzfkJTqxng5ARKOTdaZgRunxK7g?e=MSDGLHです。

(2019.06.18)

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善通寺ー歴史雑感〔46〕ー

 2019年5月29日(水)午前、香川県の真言宗善通寺派総本山五岳山善通寺(善通寺市善通寺町3-3-1)を参拝しました。そこで、ここでの写真をお見せします。

 写真1は、駐車場からの善通寺の誕生院(西院)への西入口に当たる斉世橋です。

 写真2は、寺内に入り南ある御影堂です。

 写真3は、仁王門で、ここまでが空海誕生の地とされる誕生院です。

 写真4は、中門を潜り伽藍(東院)に入り、右手に見える鐘楼と高約43mの五重塔(重要文化財)です。

 写真5は、元禄12年(1699)に再建された金堂(重要文化財)です。本尊薬師如来坐像が鎮座します。

 写真6は、正面に南面する金堂、右に五重塔です。

 写真7は、寺内南大門の寺内左横の樹齢千数百年という大楠です。幹周11m、高30mです。

 写真8は、正門である南大門です。

 写真9は、高2.8の五層塔の足利尊氏利生塔です。暦応元年(1338)、南北朝の戦乱犠牲者を鎮魂するため、国毎に一寺一塔の建立を足利尊氏・直義兄弟が命じたことにより、足利直義が康永3年(1342)に建立しました。

 最後の写真10は、同じく足利尊氏利生塔です。

 なお、厳島神社、大山祇神社、善通寺の参拝は某社のミステリーツァーによるものです。

(2019.06.13)

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大山祇神社―歴史雑感〔45〕―

 2019年5月28日(火)午前、愛媛県の大山祇神社(今治市大三島町宮浦3327)を参拝しました。そこで、この写真を見せします。

 写真1は、境内の入口に位置している二の鳥居です。

 写真2は、二の酉に左横に立っている社号石です。伊藤博文の筆になります

 写真3は、総門・翼舎です。

 写真4は、樹齢2600年とされる神木の於知命御手植の楠(天然記念物)です。幹周11.1m、根周り20m、樹高約15.6mです。この他同様な、古楠が境内にあります。

 写真5は、神門です。

 写真6は、室町時代応永34年(1427年)に再建された拝殿(重要文化財)です。

 最後の写真7は、「河野通有の楠」です。伊予国の有力御家人であった河野通有が、弘安の役への出陣に際して、参拝した時に兜を掛けたと伝える楠です。

(2019.06.12)

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厳島神社―歴史雑感〔44〕―

 2019年5月27日(月)午後、世界文化遺産に登録されている広島県廿日市市宮島町1-1の厳島神社に参拝をしました。そこで、ここでの写真をお見せします。

 写真1は、表参道商店街を過ぎたところの石鳥居です。ここから海岸に沿った参道となります。

 写真2は、参道が左に曲がる所から撮った高さ16mの大鳥居(重要文化財)です。写真に見るように、『延喜式』神名帳の記載により裏側には「伊都伎島神社」の額が掲げられています。なお、表側の額は「嚴嶋神社」です。

 写真3は、参拝入口からの西回廊から見た平舞台(国宝)で、中央が右楽坊(国宝)です。

 写真4は、鏡の池です。満潮時には海水が入り池となります。奥に見えるのは左が千畳閣、右が五重塔です。

 写真5は、右に西回廊(国宝)を撮ったもので、左に出ている部分は客神社本殿の祓殿で、拝殿と祓殿の間を西回廊が通っています。

 写真6は、祓殿(国宝)から奥に拝殿(国宝)を見たものです。

 写真7は、高舞台(国宝)で、ここで舞が奉納されます。

 写真8は、平舞台の先端から見た大鳥居です。ご覧のようにカヌーで楽しむ人がいます。

 写真9は、能舞台(重要文化財)です。伊達政宗の寄進によるものです。

 写真10は、反橋(重要文化財)です。

 写真11は、千畳閣から見た厳島神社です。

 最後の写真12は、帰りの船上から大鳥居を見たもので、ちょうどフェリーが通ったところを望遠で撮ったものです。

 なお、フォト・アルバム「厳島神社」はhttps://1drv.ms/u/s!AruGzfkJTqxng49zgaVCLYTLocgd3g?e=eq9uN6です。

(2019.06.11)

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平林寺&法台寺―歴史雑感〔43〕―

 2019年5月18日〔土〕、武蔵野文化協会主催の「武蔵野の雑木林と時宗板碑を探る」に参加しました。平林寺(埼玉県新座市野火止3-1-1)と法台寺(埼玉県新座市道場1-10-13)を巡るものです。10時、平林寺前に集合して散策開始です。

 最初の訪問地は臨済宗妙心寺派の別格本山の金鳳山平林禅寺です。本寺は南北朝期の永和元年(1375)に武蔵国騎西郡渋江郷金重村(埼玉県岩槻市)に岩槻領主の太田氏により建立されました。小田原攻めの際、火災で過半が焼失しましたが、徳川家康の関東入部で保護を受け再建されました。元和4年(1618)に大檀那大河内秀綱が本寺で葬送され、大河内氏の霊廟となりました。孫の信綱は川越藩主となり野火止の原野に移転を企てたが果たせず、この思いは子の輝綱により寛文3年(1663)に移転がなされて今日に至っています。約13万と墓の境内地を擁し、武蔵野原野の趣を残し、境内林は天然記念物に指定されています。

 写真1は、総門を入ると控える山門です。茅葺重層入母屋造りで、岩槻平林寺のそれを解体して移築したものです。楼の扁額「凌霄閣」は江戸初期の石川丈山筆です。

 写真2は、修復中の仏殿の奥にある本殿です。明治13年(1880)に再建されたものです。

 写真3は、庭園内から本堂を見たものです。

 本堂の左手から奥に進むと、写真4の、島原の乱戦没者慰霊碑にでます。乱の戦没者を敵味方なく慰霊したもので、このことは日本の伝統でした。碑面には「肥州島原對死亡靈等」と刻しています。この先には武田信玄娘の見性院の宝篋印塔や増田長盛墓もあります。

 さらに奥に入ると松平(大河内)家墓所(約3千坪)があります。これだけ大名家一族の墓が集まっているところはありません。写真5は、元和4年(1618)没の大河内秀綱(信綱実祖父)の墓です。ご覧のように墓は五輪塔です。

 写真6は、秀綱墓への参道です。両脇には坐禅灯籠が50基並立しています。

 秀綱墓右横には写真7の、3・4代将軍に仕えた寛文2年(1662)没の老中松平信綱の墓があります。

 写真8は、信綱墓前の右に据えられている坐禅灯籠です。寛文4年(1664)に寄進されたものです。「御庿(廟)前」と刻しています。

 写真9は、信綱墓の右横の寛永13年(1636)の正室井上氏の墓です。

 平林寺最後の写真10は、さらに奥の野火止塚の道の途上の林です。この辺りもみじ山といい、紅葉の名所です。平林寺林には数千本の紅葉があります。

 昼食後は太平山法台寺です。本寺は時宗2世の他阿真教が開祖と伝える古刹で、中山開山の増上寺住持普光観智国師により浄土宗となり、現在に至っている。本寺内からは時宗系の板碑卒塔婆が発掘されています。

 写真11は、山門です。奥に見えるのが本堂です。

 写真12は、収蔵庫内の板碑塔婆群です。

 写真13は、発掘最古の正和2年(1313)銘の南無阿弥陀仏板碑塔婆です。収蔵庫右側の奥から2番目です。

 最後の写真14は、元亨2年(1322)銘の阿弥陀三尊種子板碑塔婆です。中央の南無阿弥陀仏板碑の右側にあります。

 なお、フォト・アルバム「平林寺&法台寺」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxng49Qm_wSrh81GDl7sgです。

(2019.05.22)

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周公廟―中国雑感〔47〕―

 2019年4月8日(月)午後、周公廟(陕西省宝鶏市岐山県周五路)を参観しました。周公廟は宝鶏市岐山県城西北約7.5kmの鳳凰山南麓に位置しています。周公廟は周人発祥地である周原の一角を占めています。入場時間は9時半~19時(2~10月)・9時半~17時半(11~1月)です。入場料は70元です。岐山県城からは岐山汽車站(岐山客運汽車站北)から岐山202路に乗車して、終点の周公廟站(2停留所)下車です。30分弱です。

 写真1は、周公廟正面です。

 写真2は、周公廟山門に対面している2本の老唐柏の右側の樹です。樹齢約1300年の古木です。

 写真3は、周公正殿の前殿である献殿内での発掘展示の周公東征鼎です。他に新邑戈等が展示されています。献殿の前には周公立像があります。

 写真4は、中央の周公正殿(主殿)です。

 写真5は、正殿内の周公塑像です。周公(姫旦)は、周文王姬昌第4子・周武王姫発の弟です。周公は周武王の殷紂王東征を補佐し、武王死後、後継の成王が幼少のため、摂政として周国安定に尽くしました。

 写真6は、左の召公殿です。召公(姫奭)は文王・武王・成王・康王の4代に仕えた周国初代の功臣です。召の地(陝西省宝鶏市岐山県の南西)を食邑としたことから召公と呼ばれました。

 写真7は、右の太公殿です。

 写真8は、太公塑像です。太公(太公望)は姓を姜、氏を呂、諱を望として、一般に名前呂望と称されました。斉国の祖とされ、後世には軍師として奉られています。

 写真9は、三殿奥の碑亭です。姜嫄殿の前です。

 最後の写真10は、三殿左(東)の庭園の池の風景です。

 なお、フォト・アルバム「陝西・周公廟」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxng4Akv57qCBraoHNppwです。

(2019.05.10)

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宝鶏先秦陵園博物館―中国雑感〔46〕―

 2019年4月8日(月)午前、宝鶏先秦陵園博物館(陝西省宝鶏市鳳翔兼南指揮鎮)を参観しました。本博物館は、秦公一号墓、すなわち秦始皇帝14代祖の穆公の4世孫景公墓遺址上に建てられたものです。本墓は1977年に発掘調査がなされ、全長300m・幅38.8m・深さ24.5m・面積5334㎡の大墓で、春秋後期(約2千5百余年前)の秦景公(秦公一号墓)と分かりました。本館は2000年に民間博物館(秦公一号大墓遺址博物館)として開館し、2007年9月18日、国有の宝鶏先秦陵園博物館となりました。開館時間は9時~18時(4~10月)・9時~17時半(11~3月)、入館料は30元です。鳳翔県城からは紙坊城際線の鳳翔南関站(鳳翔汽車站から南に約200m弱)乗車で、8停留所目の西村站下車、南に約150mです。所要時間約30分です。

 写真1は、宝鶏先秦陵園博物館入口です。左が窓口です。

 写真2は、陳列館です。

 写真3は、「黄腸題湊」(復原地下宮)です。

 写真4は、発掘品の一つ陶缶です。他にも幾つかの発掘品が展示されています。

 写真5は、秦景公大墓です。陳列館の北です。東から西墓道へと撮ったものです。中央の深い区画は主棺室で、回りの木箱は殉葬者のものです。ご覧のように遺址をドームで覆い保護と公開を行なっております。

 写真6は、中央を撮ったものです。奥の白い案内板は盗掘跡を示しています

 写真7は、車馬坑です。陳列館の入口寄りです。東西全長86m・幅約20m・深さ約14mです。坑の前方から3列縦隊で数十両の戦車が並べられていました。

 最後の写真8は、門道です。

 なお、フォト・アルバム「陝西・宝鶏先秦陵園博物館」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxng4AjeCYxyUsG4BOdWQ%5B正大1%5D です。

(2019.05.08)

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大唐西市博物館―中国雑感〔45〕―

 2019年4月5日(金)午後、大唐西市博物館(陝西省西安市蓮湖区労働南路118号)を参観しました。本博物館は、2010年4月7日、唐長安城のシルクロードとの交易点である西市遺址上に開館しました。開館時間は夏季9時~17時30分(4~10月)・冬季9時~17時(11~3月)で、閉館日は月曜日と旧暦大晦日です。1~3階の展示は午前・午後毎に500人が無料です。4階の特別展示(不時)は30元です。入場券は入口に南面した建物の票務室で旅券提示の上で受け取ります。また、大きな荷物は票務室東側ロッカーに預けます。地下鉄2号線永寧門站(南面南側)からはA2出口から南門に向かい環城南路西段へと曲り行ったところのバス停南門外站(ここまで約400m)から800路に乗り、6停留所目の草陽村站で下車し、少し戻り道を南に労働南路へと取り、約400mで西に西市北街に道を取ると約150mで博物館です。

 写真1は、南からの建物正面です。

 写真2は、排水溝遺址です。ご覧のように遺址上にガラスを被せて、保護と見ること兼ねていますが、天上が自然光を取りいえる構造となっているため、ガラス面に反射して、写真では遺址がはっきりしていませんが。

 これからは2階の基本陳列展庁です。写真3は、左が石臼、右が石杵です。

 写真4は、下段の左から2番目が和同開珎です。上段中央には東ローマ帝国の銅貨で、左右がササン朝ペルシャの銀貨で、唐の各国との交易を示しています。

 写真5は、絲綢刺綉の中窠聯珠対島含綬紋錦です。

 写真6は、銀碗と金帶(トルギスタン汗国)です。

 写真7は、蓮花紋方鏡です。

 写真8は、双龍柄白瓷壺です。

 写真9は、上段中央が白瓷四系罐、下段中央後ろが黄釉馬です。

 写真10は、左から三彩七星醆、三彩鴛鴦酒巵、三小皿、三彩三足壺です。

 写真11は、白石観音菩薩坐像です。

 写真12は、三彩陶駱駝俑です。

 写真13は、西市ジオラマです。

 最後の写真14は、同じく西市ジオラマです。

 大唐西市博物館公式サイトはhttp://www.dtxsmuseum.com/index.aspxです。なお、フォトアルバム「陝西・大唐西市博物館」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxng4AB-CoVEUOU1iejawです。

(2019.05.06)

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西安交通大学日語系1期生卒業30周年同窓会

 2019年4月6日(土)・7日(日)の両日、西安交通大学日語系1期生の卒業30周年同窓会を西安で行ないました。今回の同窓会は大学主催の「西安交通大学1989届校友紀念畢業30周年」(西安交通大学1989年校友卒業30周年記念)活動への参加でもありました。本活動は卒業30周年の校友を対象として毎年行なわれているもので、本年は1989年卒業生が対象となりました。日語系からは7人が集いました。

 6日午前はまず四大発明広場に集まりました。写真1は、図書館を背にした卒業生のサインパネルを背景としたものです。皆さん大学の30周年記念Tシャツを着ています。

 次いで校内を巡り各所で記念撮影をしました。写真2は、この最初で折からの満開の東道の八重桜並木です。「科技日51」班の看板を持ってです。

 写真3は、東花園で学位服での記念撮影で、ご覧のように帽子を飛ばしました。

 写真4は、噴水広場で、ご覧のように柳絮(白い綿毛が付いている柳の種)が飛んでいます。

 写真5は、図書館前です。

 写真6は、本年開館した西遷博物館の寄付者パネル前のもので、日語系も寄付しました。再度、四大発明広場に卒業生一同が集い、記念撮影をして、午前の部を終えました。東の学生食堂・梧桐苑食堂で昼食を取りました。

 午後は、まず「1989届校友畢業30周年返校大会」です。校長等の挨拶と続き、最後が写真7の、西遷博物館の寄付者表彰です。

 次いで、各学院に分れて座談会を行ないました。当時の卒業生は科日語51班と科英語51・52班の3クラスでした。写真8は、この合同記念写真です。

 写真9は、夕方からの日語系の宴会で、卒業生7人が揃っています。

 翌7日午前は咸陽市に位置する「中国西部科技創新港」に建設中の新キャンパス訪問です。最後の写真10は、外語学院が入る予定の文科楼大庁前での記念写真です。本年9月からの新入生が新キャンパスに入る予定です。なお、興慶キャンパスと新キャパス間は車で約1時間10分の距離です。以上で、大学により行事は終わりです。

(2019.04.16)

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2019年三ツ池公園の桜

 桜名所百選として知られる神奈川県立三ツ池公園(横浜市鶴見区三ツ池公園1-1)の桜を久しぶりに観賞してきました。北入口から入り、下の池・中の池・上の池と順に南側を巡り、次いで北側から戻りました。そこで、本公園の桜の写真をその順でお見せします。本公園の桜は基本的に染井吉野ですが、少数ながら緋色の横浜緋桜もあります。撮影は、2019年4月2日(火)午前です。

 なお、フォトアルバム「2019年三ツ池公園の桜」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngv4k770qkr-yzGWaDwです。

(2019.04.03)

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2019年大倉山梅林

 「熱海梅園」(2019年1月27日付)に続いて大倉山梅林の梅をご覧にかけます。撮影は、2019年2月24日(日)午前です。

 写真1は、梅林上の道路からの全景です。

 写真2は、野梅です。

 写真3は、八重寒梅です。

 写真4は、玉筵です。

 写真5は、冬日野です。

 写真6は、淡路枝垂です。

  写真7は、白加賀です。

 写真8は、鹿児島梅です。

 なお、フォトアルバム「2019年大倉山梅林」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngvdr7UnaQ8NeUgN1rAです。

(2019.02.26)

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伊豆山神社

 2019年1月24日(木)、伊豆山神社(静岡県熱海市伊豆山上野地708番地1)を参詣しました。本神社は正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊、拷幡千千姫尊、瓊瓊杵尊を祭神とし、伊豆大権現・走湯大権現・走湯山・伊豆山等とも称されていました。平安時代後期には山岳修験霊場として名を馳せました。そして、関八州総鎮護とされています。JR熱海駅からは東海バス (伊豆山神社・七尾行)で伊豆山神社前下車で、鳥居前です。

 本神社は鎌倉幕府初代将軍源頼朝と深い縁を有していました。平家六波羅政権に対する反乱蹶起に当たって、走湯山住侶覚淵を頼朝は招き、千部法華経読誦が日付(蹶起日)までに満たないが、大丈夫かと問うと、覚淵は八百部で大丈夫とし、蹶起は成功すると請負います。かくて、頼朝は自信を付けます(『吾妻鏡』治承4年7月5日条)。次いで、山木夜討ちに成功した翌8月18日、毎日の勤行が戦場に赴くのでこれが出来ないとして、伊豆山尼法音(北条政子帰依)に身代わりの勤行を頼朝は依頼します(『吾妻鏡』同日条)。相模国に向かう頼朝軍とは別に政子は伊豆山に隠れ、次いで秋戸郷に移ります(『吾妻鏡』9月2日条)。石橋山合戦敗戦から、房総に再起した頼朝は10月6日に鎌倉に入りますが、11日に走湯山住侶良暹(鶴岡八幡宮暫定別当)が先日の約束に従い頼朝に会います。良暹は頼朝の年来の師檀でした(『吾妻鏡』同日条)。このように伊豆流人時から頼朝は伊豆山神社に帰依しており、その全体ではないでしょうが反乱蹶起にも大いなる支援を与えられていたのです。これに応えて、治承・寿永の内乱に勝利すると、頼朝は文治4年(1188)から伊豆・箱根・三島社の「二所参詣」を行ないます。将軍の二所参詣はこれ以後恒例行事となります。以上、頼朝と伊豆山神社は深い縁があり、本神社は鎌倉幕府の厚い庇護を受けることになります。

 本神社は海岸、すなわち中継ポンプ場横階段踊り場を起点として本殿前まで参道の階段が887段続きます。9時55分頃に海岸より参道を上り始めました。写真1は、その国道135号から市道上の鳥居前(437段)までの途上のものです。

 写真2は、市道に到達して鳥居を撮ったものです。10時10分過ぎでした。市道から境内までは189段の参道を上ります。

 写真3は、参道の途上の境内社(祖霊社・足立権現社・結明神社)を見つつ境内(標高170m)に入ったところで、本殿を遠望したものです。手前左が手水社です。見えませんがこの奥に雷電社があります。10時22分の撮影です。

 写真4は、本殿拝殿です。

 写真5は、本殿横全景です。

 写真6は、本殿左横の駐車場内にある、「頼朝政子腰掛け石」です。ここで二人は恋を語ったと伝えられています。頼朝政子夫妻は本神社に深い由緒があり、かかる伝承を生んだのでしょう。

 本殿右奥から本宮社への山道があります。10時32分、本宮社に向けて上り始めます。写真7は、最初の白山社(祭神菊理媛命)です。もちろん北陸の白山神社の分社です。10時54分でした。

 さらに上ると、「子恋の森公園」に出ます。ここで道は舗装道となり楽になります。公園を過ぎるとまた山道となり少し行くと、写真8の、結明神本社(祭神結明神―日精・月精)に到着します。11時14分でした。

 写真9は、最後の本宮社(祭神正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊 標高380m)です。本来は日金山に祀られて、後に社はこの地に移され、さらに承和3年(836年)に現在の伊豆山神社の地に社を建造して移ったので、残った二番目の社が現在の本宮社のいわれです。江戸時代には社殿等の複数の建物がありましたが、野火により焼失して、現在に至っています。11時27分でした。

 最後の写真10は、左後方からの社殿です。往時を示すように、社殿前は広闊な平地となっています。子恋の森公園から右に伊豆山神社に直行する道を通り帰りました。

 なお、フォトアルバム「伊豆山神社」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngvdWDACdtF9Ebdztzwです。

また、伊豆山神社サイトはhttp://izusanjinjya.jp/です。

(2019.01.29)

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熱海梅園

 2019年1月23日(水)午後、熱海梅園に寒梅に行きました。本梅園は59品種・472本の梅があり、長い時期梅がみられます。1月上旬~3月上旬にかけて梅まつりが開催されます。この間は入場料300円(熱海市の宿泊者は100円)がかかります。開園時間は8時半~16時です。続いて梅の写真をお見せします。品種名を記したのはこれが確認できたものです。

未開紅

新冬至

一重野梅

 フォトアルバム「熱海梅園」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngvc-_Lsf2KlA0Uws1gです。

(2019.01.27)

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