西安交通大学日本語学科卒業生大連学友会

 西安交通大学外国語学院日語系(日本語学科)は、1985年9月、中国国内で最初に設立された本科(4年制)の科技日語(科学技術日本語)専攻が発展したものです。89年7月に1期生を卒業させ、今年で17期生の卒業となります。すでに、この卒業生は中国国内の各地のみならず、日本をはじめとする海外でも活躍中です。

 中国国内で卒業生が一番集中しているのは遼寧省大連市でしょう。ここでは「西安交通大学日本語学科卒業生学友会」が組織されています。1期生を筆頭に、2004年卒業の15期生まで、現在22名ほどが掌握されています。毎年新年会を開き懇親をはかるとともに、母校の教員などの来訪に際しては歓迎宴を設けています。下の2枚の写真は、今月に大学の業務で訪れた趙剛教授と張文麗先生(5期生)を囲んだ歓迎宴の記念写真で、13名の卒業生が出席しています。私も2004年の国慶節の休暇で訪れたとき、卒業生に大変お世話になりました。中国各地の卒業生の中で、おそらく大連の卒業生がもっとも相互の関係が密でしょう。当地の卒業生は日本語の教師をはじめ、政府機関・国有企業・日本企業、それに事業を起こした人など、各方面で活躍しています。そして、ある日本企業から無条件で新規採用するといわれたほど、西安交通大学日本語学科は高い評価をえています。

 ところで、大連以外の地ではどこに卒業生が多いでしょうか。上海を中核とする華東地区(杭州・蘇州・南京市などを含む)、そして北京市(天津市を含む)でしょう。ただ、両地区とも学友会が組織されているわけではないので、全体が把握されていませんから、正確なところは分かりません。これに次ぐのは、広東省(広州市と深圳市)でしょう。こうしてみると、やはり経済発展の進んでいる沿海地区、それも日本企業の活発なところと一致します。

 それ以外では、母校のある陝西省西安市です。ここでは教師が多いです。というのも、1期生が卒業後、日本語学科の新規教員のほとんどは卒業生から採用され、その多くが現在も教員を続けているからです。1期生もまもなく「不惑」であり、今や日本語学科の中核は卒業生教員です。また、他大学で教員となった卒業生もおり、西安は卒業生教員の集中している地区です。

 最後に、私の今いる四川省成都市ですが、把握できている卒業生は3人と少ないです。当地出身の学生は毎期いるのですが、卒業後に戻ってくる学生はあまりなく、このように少数しかいません。

SANYO DIGITAL CAMERA

SANYO DIGITAL CAMERA

(2006.06.16)

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DVDソフト事情(9)「迷」日本語字幕付の外国語映画―成都雑感〔4〕―

 アメリカ映画を始め中国映画などの外国語映画の場合、日本人なら普通は日本語字幕付で楽しむでしょう。中国国内でのDVDは基本的に中国人が消費対象ですから、当然ながら他言語のものは中国語字幕(簡体字・繁体字)が入っています。では日本語字幕付がないかといえばそうではありません。数は少ないですがやはりあります。日本発売盤を原版としたもので、これが一番多いです。これはカバーもコピーが基本ですから、それでわかります。ただし、カバーが日本発売盤だからといって、安心はできません。それは、カバーは日本でDVDはアメリカなどの発売盤の場合、また日本語字幕を削除してある場合と、日本語字幕がないのもあるのです。少数ですが、ヨーロッパなどでの発売盤で日本語字幕付があります。これは裏カバーのSubtitles表示にJapaneseがあります。この場合にも日本発売盤と同様な例もありますから、油断はできません。だいたい表示通りが過半ですが一部のそうでないものがあるので、購入は当たるも八卦当たらぬも八卦です。以上が今までの日本語字幕付外国語映画でした。

 そこにこの春から新顔が出てきたのです。これは自動翻訳ソフトを利用して日本語に翻訳して字幕を付けたものです。お日様のイラストの下に「ZB」と書かれた袋に入っているDVDです。この袋には「中////日等多種字幕選択 国語配音(中国語アフレコ)」と謳っており、裏カバーには中国語で表示したスペックが加えられて印刷されており、ここに「日文」とあります。このタイプのものは「ZB」のみで他には見られません。もちろん、この中に自動翻訳ではなく、上述のものもあります。自動翻訳の場合は、カバーがアメリカなどの発売盤のコピーが基本です。ただし、この中に一部日本発売盤が混じっている(『ゴット・ファーザー』がこの例です)から面倒です。

 では、自動翻訳の日本語字幕付DVDのレベルがどの程度のものか、一例として、『プライベート・ライアン』で示しましょう。ノルマンディー上陸の戦闘場面についで、ライアン兄弟の件を知って、Bryce大佐に大尉が報告するシーンです。英語・中国語・日本語の字幕をそれぞれ下に示しますから、比較してみてください。

That’s not all. There’s a fourth brother, the youngest.

He parachuted in with the 101st Airborne night before the invasion.

He’s somewhere in Normandy.

他們的幼弟在進攻前一夜

随同101空降部隊出動

他正身所處諾曼第某處

それはすべてではない。

4番目の兄弟、一番年下のものがいる。

彼は侵略の前にの01スト

彼はノルマンディー●〔口+率〕い搿?

 中国語の翻訳文では、第1行の文が完全に欠落していますが、以後はほぼ正しく訳されており、意味は明白です。しかし、日本翻訳では、第1行はまあ正しく訳されていますが、第2行以降は意味不明の訳となっています。とりわけ第3行後半は(中国語としても日本語としても)意味不明な漢字の羅列で日本語とは思えません。このような漢字の羅列は全シーンの渡っております。ですから、日本語字幕では意味不明なほうが多いといえますから、むしろない方が見やすいとすらいえる迷惑もので、無用の長物です。

 どうしてこうなったのでしょう。日本語字幕が宋体フォトンであることがヒントです。英文を日本語に自動翻訳する時、通常の日本製のソフトなら翻訳結果は文字コードがシフトJISにより明朝体フォトンで表示されます。これを宋体フォトンに変換すればいいのですが、おそらく、中国語版WindowsXP上でそれを使用したため、文字コードが簡体中国語のGB2312GB18030により直接宋体フォトンで表示されたために、文字化けを起こしたと想像されます。当然ながら、これを担当した者に日本語の知識がないためそのまま字幕化したのでしょう。

 『プライベート・ライアン』の例はもっとも拙劣な自動翻訳での日本語字幕付き外国語映画です。しかし、他のもの(『フォーレスト・ガンプ』など)でも、映画はセリフ主体の会話体ですから、自動翻訳ソフトは基本的に文書翻訳用のものなので、翻訳文は文章体となって、違和感はゆがめません。それに自動翻訳文に手を入れることはないようなので、誤訳などが翻訳者がするのと比べると多くなります。こうした意味で、自動翻訳による日本語字幕は迷訳です。

 このようなDVDが出てくる背景を考えると、「中////日等多種字幕選択 国語配音(中国語アフレコ)」と謳っていることから、より便利さを訴えることで、今の中国ではごく普通な娯楽手段となった、DVDの売り上げ向上を図ったものといえるでしょう。この意味では、海賊版業者の方が正規版業者よりも商売熱心といえましょう。そこに日本語が入っていることは、中国における日本人の存在があると思います。日本人にとっては安価な(1枚6元程度)ためもあり、一人当たりの購入量も中国人よりかなり多いと推定されます。いわば、日本人は上得意客なのです。これを海賊版業者は目ざとく注目したのでしょう。現に、私はそれにつられて購入してしまいましたから。

 最後に、ドラマのDVDの動向についてです。映画はDVD(片面1層のD-5、片面2層のD-9の2種で、前者は6~5元、後者は10元)が主流ですが、連続ドラマは完全に圧縮DVDMPEG-4により圧縮比を高めて画質は劣るが収録時間を数倍にしたもの)に移行しました。これによりドラマ1回分の価格は下がり、また日本でデジタル放送録画を元版とするため、放送終了後1・2週間で店頭に出てき即時性に優れており、旧来の日本発売盤を元版とするDVDボックス(1枚に2話収録しワンクール6枚で36元。現在では新譜は出ることなく、店の在庫のみです)を駆逐しました。この圧縮DVDHDVD)も最初のHDVD(片面1層で、1枚3.5元。日本のドラマの場合1枚に5・6話程度収録し、ワンクール2・3枚)から、今年初めから登場したHDVD-9(片面2層で、1枚7元。ワンクールが1枚に収録)に移行しました。なお、同時期に出てきたHDVD-10(両面1層で、1枚7元)は扱う店が少なく、品質上も問題が多く、おそらくまもなく消えていくでしょう。さらに、最近、HDVD-18(両面2層)が出てきましたが、HDVD-10以上に品質に問題があると見て、手を出しません。

付記  久しぶりの更新です。課題発表がのびたことから、日本語作文コンクールの最終選抜と添削が、例年に比して(今まではメーデー明けにはほぼ終了しました)遅れたためと、卒業論文指導とが重なり、このところ例年に比してタイトでした。ようやく、昨9日(金)に両方とも完了し、時間に余裕ができました。もちろん、ワールド・カップ開幕戦ドイツ対コスタリカ戦はCCTV-5(中国中央テレビ体育チャンネル)で観戦しました。来週からは期末試験、卒業論文答弁会と続きますが、この間見ていなかったドラマを見られるようになります。まずはNHK大河ドラマ『義経』(HDVD-9の2枚組)を完全制覇するつもりです。

(2006.06.10)

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西南交通大学(その5)110周年―成都雑感〔1〕―

中国国内では、メーデー以来MSNはログ・インが不能となり、先週一時可能となりましたが、この15日(月)から再びログ・イン不能となり、ようやく今日可能となりましたので、遅れましたが、西南交通大学110周年について載せます。

5月15日、西南交通大学は創立110周年として創立記念行事を行ないました。15・16日の2日間は講義が休みとなり、午前に記念大会が開かれました。以後、いくつかの記念行事が展開されました。そこで、本日午後のキャンパスの様子を少しお見せします。なお、本学の沿革については、2004年12月14日付の「西南交通大学(その1)沿革―成都雑感〔1〕―」をご覧ください。

写真1は、本校(九里堤キャンパス)正門(南門)です。後方に見えるのが本キャンパスの中心になる建物の教学楼です。「西南交通大学」の下に見える、「唐山 1896」の文字が、本学が1896年に創設された山海関北洋鉄路学院(1905年唐山に移転し、唐山工業専門学校となります)を原点にしていることを現しています。学生たちは各学院毎にキャンパスで活動を繰り広げました。

060515西南交通大学110周年002

写真2写真3が、その模様です。鏡湖で油絵を描いているのは芸術与伝播学院(芸術・伝播)の学生です。楽器演奏や中国画もあります。双六ゲームをしているのは電気工程学院(電気工学)です。これらで、学生たちが着ているのは110周年記念のTシャツです。色々な色のものがあり、背中には「竢實揚華」の四文字と校章中のマーク図柄が付いています。

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最後の写真4は、メイン・シンポジウムの現代軌道交通論壇の宣伝タテカンです。このメイン報告が「快速発展的中国高速鉄路(急速に発展する中国高速鉄道)」で、これは、原点が鉄道学校であり、現在も鉄道技術関係と土木工学に秀でた本学にふさわしいといえましょう。

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なお、本日は九里堤・犀浦キャンパス間のスクールバスは無料となり、休みと重なり、乗り場には長い学生の列が出来ました。

(2006.05.19)

 

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成都双流国際空港での国際線搭乗―成都雑感〔16〕―

成都双流国際空港は西南地方最大の空港として国内外の各都市への便が出ています。ターミナルビルは山の字型のスタイルで、山の字の底辺部がチェックインカウンターなどのある出入口となっており、縦の3本棒が発着ウイングとなっており、入口正面から見て、左及び中央のそれが国内線発着用、右のそれが国際線発着用となっています。したがいまして、横に直線に延びるターミナルビルの右側部分に国際線が位置しています。国際線には日本への発着便もあります。2006年春現在、中国国際航空のCA421便成田行(北京経由)とCA915便福岡行(上海経由)です。そこで、その搭乗までの流れを説明したいと思います。

両便とも経由便なので、その流れは同じで、次の6段階になります。

①税関検査

②搭乗手続き

③待機

④安全検査

⑤待合室待機

⑥搭乗

搭乗手続き(チェックイン)は出発時間の90分前から始まりますので、その時間になると、入口の係官が航空券確認の上で入場できます。その前に、入口前の左側に設置されているデスクで税関申告書(用紙もそこにおいてあります)の記入を終えておくといいでしょう。そして、①税関検査となります。規則では先の税関申告書を提出することになっていますが、申告すべき物がない人は緑道(グリーンランプ)に進めば、荷物(トランクなど)をX線検査にかけて問題がなければ、それで終りで、申告書を提出する必要はありません。ですが、経由地の北京の出国手続きで提出することになっているそうですから、一応手元に持っていておきます(実は、私の昨年からの経験ではそのことはありませんでした)。申告品のある人は、当然ながら、赤道(レッドランプ))に進んで、手続きと検査を行ないます。この場合はもちろん税関申告書の提出が必要となります。

税関検査が終われば、その右側にチェックインカウンターが並んでいますから、その掲示を見て、搭乗便のカウンターに進んで、②搭乗手続き(チェックイン)を行ないます。この時必要な物は、当然ながら航空券と旅券です。手続きが終われば、搭乗券(ボーディングパス)と共にワッペンをくれます。経由便ですから、経由地まで国内線旅客と混乗になるので、国際線旅客を区別するためのワッペンです。ですから、経由地で搭乗が終わるまでは決してなくさないようにし、目立つところに張っておきます。

チェックインが終わると、係員がそこで③待機するよう指示してきます。ただし、係員は日本語がだめですから、日本人と見ると英語で指示します。写真1の右側に見えるのがチェックインカウンターで、ちょうど中央に見える白ワイシャツの男性が係員です。左側が待機場所ですが、見るとおり椅子の数は少なく、乗客が多いと立つことになります。

060423成都双流空港 003

この待機はチェックイン開始から30分程度以上ありますから、結構長いです。そこで、係員に一言言ってから、チェックインカウンターを右の方へ進むと、写真のところまで行けます。ご覧のように、出国手続きのための中国辺防検査站(イミグレーション)です。実は、経由便の場合は、最終出国地(経由空港)で出国手続きを行なうため、成都空港では安全検査だけです。その安全検査への通路が写真の左部分なのです。ここにも椅子があり、前方は全面ガラス窓で空港を一望でき、ここで待機することをお勧めします。それは、係員はここで安全検査への誘導案内をしますから、あらかじめこちらで待機していてもかまわないわけだからです。以上が③待機です。この待機があることが直行便でない経由便の留意点です。なお、トイレは中国辺防検査処の手前にあります。

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チェックイン締切りとなると、係員が写真の安全検査口の前に立って、④安全検査への案内・誘導を行ないますから、その誘導にしたがって、旅券・航空券・ボーディングパスを提示して、安全検査を受けます。

写真3は安全検査を終え、待合室のウイングに入る手前で撮ったもので、右の狭いのが経由便の安全検査出口で、左の広いのが直行便の安全検査出口です。こうして、左に曲がると、搭乗待合室のウイングとなります。ここには免税店・売店・喫茶店・喫煙室(中国の空港ではこれ以外は全面禁煙)などがあります。ただし、空港の物価は、例えば陳麻婆豆腐の素が12元(イトーヨーカドーなどのスーパーでは6元以下)というように、市価に比べて高価です(空港内施設の料金はすべて高価です)。ですから、成都でのお土産は市中で求めるのがよいかと思います。

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搭乗口がA2・3の場合は、1階ですから、案内板にしたがって、左手の階段を下ります。この搭乗口は、バス移動の口ですから、バスで移動して搭乗となります。それ以外の搭乗口はウイングからボーディングですから、そのまま搭乗口番号まで進んで、⑤待合室待機となります。先端部のA11まではかなりの距離があるため、写真4に見るように、売店などの集中している手前部には動く歩道が設置されています。ただし写真に見るように動いていない方が普通のようです。

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案内放送(中国語と英語)があると、⑥搭乗となります。ボーディングパスを出して半券を受取り、搭乗となります。この時受取った半券は決してなくしてはいけません。それは、経由地での乗継ぎ(トランジット)ボーディングパスの受取りに、それが必要になるからです。写真5は、私が乗ったCA421便の機材、ボーイング757-200です。この機は旧中国西南航空からのもので、最新のものでなく国内線と共用機材です(基本的に成都・成田便はそうなっています)。ですから、片側3列でシートピッチは78㎝と狭く、成都北京間が約2時間・北京成田間が約3時間であることを考えますと、通路側に席を取ることをお勧めします。

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最後に、北京空港での手順です。いったん手荷物を全部持って降りると、係員が東京・東京と声を出して案内していますから、ボーディングパスの半券を係員に提示して、北京空港の乗継ぎ(トランジット)ボーディングパスを受取ってください。そして係員の指示にしたがって、その場(通路)で待機となります。その後、誘導にしたがって、乗継用の中国辺防検査処で出国審査(旅券・出国カード・乗継ぎボーディングパスを提示)をし、そのまま左に前進すると乗継ぎ待合室ですから、そこで待機します。案内があったら、案内・誘導にしたがって、北京空港の乗継ぎボーディングパスを提示して搭乗します。後は成田まで一直線です。

(2006.05.06)

追記  北京首都空港での手順に関して補充します。

 CA421便はたいがい沖止めとなります。タラップを降りると、「東京」の看板を持った係員がいて、声でも「トウキョウ」と案内しますから、その指示にしたがってバスに乗り込んでください(北京止まりの乗客用のバスと間違えないように。これに乗ると国内線の出口へと行くことになり、国際線スペースに戻れず、航空会社から見れば行方不明乗客となり、他の乗客に迷惑をかけることになります)。この乗車口前に係員がいて、成都空港でのボーディングパス半券の提示を求め、確認すると、乗り継ぎ(トランジット)ボーディングパスをくれます。これを受け取ってバスに乗り込みます。バスがターミナルビルに着くと、係員がいて指示・案内をしますから、係員の誘導にしたがって歩くと、2階にあるトランジット用の中国辺防検査処(イミグレーショ)に出ます。ここで列を作り待つと、検査員が出てきますから、出国検査(旅券・出国カード・ボーディングパス半券・乗継ぎボーディングパスを提示)を受けてください。出国カード用紙は窓口手前のテーブルの所にもあります。

 検査が終わると、出口の所に係員がいて、ボーディングパス半券・トランジットボーディングパスの提示を求めますから、これらを出すと、ホッチキスで両者を留めて返してくれます。同時に「ワンビー」(1B)などと告げます。これは搭乗ゲートを示すものです。ですが、トランジットボーディングパスにはこれが書き込まれないまま返されますから、聞き逃すと搭乗ゲートが何処か分からない羽目になります。ですから、係員の発音をオウム返しに言って確認し忘れないようにすべきです。また、係員は告示した搭乗ゲートへの案内・誘導をしませんから、自力で行く必要があります。「ワンビー」(1B)とは、沖止め用の搭乗口で1番(1階)のB号の意味です。1番は複数の搭乗口があり、これをアルファベットで示しています。

 さて、トランジット用のイミグレーションは21番ゲート付近にありますから、出口を出たら、そのまま直進してください。なお、化粧室は出口先にあります。ゲート番号は若くなっていき、右側に安全検査の出口が並んだところを通過しさらに進むと(この辺に来ると売店などもあります)、左手上に1番ゲートへの案内板が掲示されていますから、ここで左折して進むと階段があり降りると、そこが1番ゲートの待合室です。ここまでで時間を消費していますから、たいがいすでにCA421便の搭乗は始まっているので、休む間はないのが普通です。ですから、先のトランジットボーディングパスを示して直ちに搭乗ゲートを出て、バスに乗り込んで航空機に向かいます。こうして、いったん降りた航空機に戻れるわけです。

 なお、明年(北京オリンピック)の新ターミナル・第3滑走路の運用が開始されると、上記の手順が変わる可能性が高いと思います。

 また、「CA422便による成都への入国手順―成都雑感〔20〕―」(2006年9月11日付)の記事も合わせご覧ください。 2007年7月18日)

追記2  北京空港第3ターミナル使用に伴い、経由手順が変わりました。新手順は、「CA421便での成都搭乗・北京経由手順―成都雑感〔71〕―」(2008年8月2日付)です。(2008年9月30日)

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成都西武の開店―成都雑感〔15〕―

4月7日、総府街に成都西武が開店しました。ブランド王と称される香港の潘迪生の率いる迪生創建(ディクソン=コンセプツ=インターナショナル)の中国本土(香港・深圳を除く)出店1号が成都西武です。したがいまして、香港西武はすでに1996年に迪生創建に譲渡されていますから、日本の西武とは直接関係なく、成都西武は香港資本の出店です。

西武成都は1階から5階(中2階も)までのフロアで、約1万3千㎡です。このロケーションは、成都の銀座通ともいえる総府路に北接したところで、総府路には太平洋百貨店・王府井百貨店や同仁堂中薬店(2階には薬膳料理の同仁堂薬膳宮があります)が並び、春熙路と双璧する成都のメイン商店街です。ちょうど、総府皇冠假日飯店(HOLIDAY IN CROWNE PLAZA)の入口に位置しています。

成都西武は基本的にはテナントによるフロア構成で、その主体を女性ファション関係としており、欧州の有名ブランドを中心に集店しています。したがいまして、女性衣料品を中心に、靴・バック・アクセサリー・化粧品などのテナントを揃え、それにカジュアル主体の男性衣料品テナントが入っています。中国語で言うと生活時尚精品ということになります。高級品の品揃えで、富裕層を顧客対象としていることは疑えません。この点で、成都において、本格的な高級志向の店といえましょう。

 写真1(青の車はタクシーで、前方を行くバイク様のは電動自転車)は、総府路から見た全景です。奥に見える高層の建物が総府皇冠假日飯店です。写真でも分かるように、ホテルと同一の外観スタイルで、当然ながらホテルと一体となった施設として作られたもので、ホテル側から直接入ることが出来ます。

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 写真2は、4階の戸外側から見た店内です。高級店にしては少し通路が狭く窮屈に感じられます。ご覧のように、右側のテナント(MAXXI)はまだ開店しておらず工事中です。このように、全フロアの半分程度は未開店(全面開業は7月予定)です。その中には、ルイ・ヴィトンとディオールがあります。写真ではお分かりにくいでしょうが、1階の道路側の入口左右のディスプレーは両者のものです。この戸外には喫茶コーナーが設置されますが未開業です。男性関係は5・4階に少しあり、他の階は全部女性関係のようです。なお、中2階は化粧品となっています。

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実はこの建物には以前、シンガポール資本の百盛百貨店(PARKSON・昨年秋に新大型商業施設の「新城市広場」に新店舗を開設)が入っていました。それで、エスカレーターの配置が日本式の上下交差式ではなく、中国式の上下並列式になっています。すなわち上ると次の階へはぐるりと一回りする必要があります。なお、トイレ関係はTOTO製品を使用して、洋式を主体としており、最近の中国の高級ホテルと同等となっています。

成都は西部地区に位置し、沿海地区に比べると経済面ではまだまだ後れています。しかし、消費面において成都は積極性を持っており、例えば自家用車保有率で中国大都市中トップスリーに入るほどです。ですから、すでに、フランスのカルフールやドイツのメトロが、それに日本のイトーヨーカドーが進出しており、さらにアメリカのウォルマートがまもなく開店するように、世界の有力小売業による競争が成都で繰り広げられているのです。以上は、庶民層からその少し上の層を顧客対象とするものです。香港西武が深圳に出店した店では、6万元以上の所得層が顧客の中心と関係者がいっていますから、成都西武も同様な富裕層及び高所得層を対象としていることになります。成都西武の今後がどうなるかは成都の消費動向を見るにもいい対象となりましょう。

最後に、この後、春熙路に廻りましたので、最近のそれを写真3として載せておきました。これは総府街側(北)からのもので、ちょうどお子さんがお母さんと写真を撮っているように見えますが、実はスカートの女性は人形です。手前でカメラを構えているのが本当のお母さんのようです。人形の横に見える男性や後方のスカート姿の女性も人形です。この人形は西洋風で、皆さんの記念撮影の場となっています。

060415成都西武 007

(2006.04.16)

追記  来年春に成都伊勢丹が開店予定です。これは日本の伊勢丹の直営店で、上海・天津・済南に次ぐ、中国4番目の都市進出です。場所は、イトーヨーカドー春熙店の東隣で、現在建設中の利都広場(地上15階地下3階)の地上6階~地下1階約2万8千㎡を占めますから、成都西武の2倍強の規模になります。もちろん、高級店で、真っ向から西武成都とぶつかることになります。話によると、デパ地下を展開するそうですから、楽しみにしてください。(2006年4月21日)

追々記  2009年12月31日(木)をもって、成都西武は閉店しました。(2010年1月5日)

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武蔵武士足立遠元(その8)―歴史雑感〔6〕―

(その1) 一、遠元の系譜(2005.11.06)

(その2) 二、平治の乱の遠元(2005.11.12)

(その3) 三、治承・寿永の内乱における遠元(2005.11.19)

(その4) 四、文治元年十月の勝長寿院落慶供養行列での遠元の序列(2005.12.02)

(その5) 五、頼朝期における遠元(上)―「宿老」―(2005.12.18)

(その6) 六、頼朝期における遠元(中)―奥州兵乱と第一次建久上洛―(2005.12.25)

(その7) 七、頼朝期における遠元(下)―第二次建久上洛―(2006.01.05)

(その8) 八、晩年〔頼家・実朝期〕の遠元(2006.04.08) (終わり)

八、晩年〔頼家・実朝期〕の遠元

 お待たせしましたが、今回で最終回となります。

 1199(正治元)年正月13日、将軍源頼朝が53歳で死去し、次いで2月6日、嫡子頼家は政所吉書始の儀を行ない、ここに正式に第2代将軍として出発します。父頼朝の将軍独裁制を引き継ぎますが、創業者としてカリスマ性を備えた頼朝と異なり、18歳と若く経験も浅い頼家の前途には未知なものがありました。

 2か月後の4月12日、頼家の親裁が停止され、十三人衆の合議による成敗と定められました(『吾妻鏡』同日条)。所謂十三人合議制です。構成メンバーは有力御家人、すなわち東国武士(御家人)と文士(文吏寮)からなります。文士は、政所筆頭別当中原(大江)広元、問注所執事三善善信(康信)、公事奉行人藤原(中原)親能(在京・責任者)、政所別当二階堂行政の4人で、詳論を省き結論だけいうと、当該期におけるトップ層で順当なものです。武士は、伊豆国出身で将軍頼家の外祖父北条時政・義時父子、相模国の三浦氏族の三浦義澄・和田義盛(侍所別当)、相模国の大庭氏族の梶原景時(侍所別当)、武蔵国の頼家乳母夫比企能員、武蔵国の足立一族の足立遠元・安達蓮西(盛長)、常陸国の宇都宮氏族の八田知家の9人です。遠元も十三人衆の一人なのです。

 さて、武士メンバーは、北条氏を除けば、少なくとも郡規模の本領を有する氏族で、関東の有力御家人の代表者といえる存在です。しかし、重要な氏族が姿を見せていません。どの氏族でしょうか。

 そこで、鎌倉幕府の歳首垸飯の沙汰人メンバーを見てみましょう。というのは、垸飯とは、臣が主人に酒肴を献じてともに盃事をすることで、主従の縁を確認し固める儀式です。沙汰人はこの儀式で酒肴を献じる臣です。鎌倉・室町幕府では正月(歳首)の恒例儀式として、重臣が沙汰人になりました。鎌倉幕府においては、沙汰人は当該期の幕府内の有力御家人の実力・地位を反映したものになっています。さて、頼朝期の1191(建久2)年の歳首垸飯沙汰人は、(その4)で述べてあるように、元日千葉常胤・2日三浦義澄・3日小山朝政・4日畠山重忠・5日宇都宮頼綱となっています。頼家期の1120(正治2)年のそれは元日北条時政・2日千葉常胤・3日三浦義澄・4日中原広元・5日八田知家・6日大内惟義・7日小山朝政・8日結城朝光となっています(『吾妻鏡』同日条)。

 さて、この二つの歳首垸飯の両方とも務めている沙汰人の中で、十三人合議衆に姿を見せていない氏族は下総国の千葉氏族(千葉常胤)と下野国の大田氏族(小山朝政・朝光)の2氏族です。(その4)で述べたように、鎌倉幕府樹立に当たって、三浦氏とともに千葉氏は双璧をなす一族で、御家人ナンバーワンの存在です。

 では、小山氏はどうでしょうか。小山氏は「一国之両虎」(『吾妻鏡』養和元年閏二月二十三日条)と称された下野国の豪族です。治承・寿永の内乱前期の1183(寿永2)年2月、常陸国の志田義広(頼朝叔父)が反頼朝の兵を挙げます。このとき、義広は北関東の雄、藤姓足利氏と小山氏に参加をうながし、頼朝を撃破しようとします。しかし、下野国野木宮(栃木県野木町)に小山氏は単独でこれを破りました。野木宮合戦です(石井進氏「志田義広の蜂起は果たして養和元年の事実か」『鎌倉武士の実像・石井進著作集第5巻』2005年1月岩波書店参照)。頼朝にとって、この義広の攻撃は危機であったのです。それを排除したのが小山氏で、これにより頼朝の軍権は北関東へと浸透して行き、彼に並ぶ者はいなくなります。このように、鎌倉幕府樹立に当たって、小山氏も欠くことのできない氏族なのです。そして、1189(文治5)年の奥州兵乱(奥州合戦)での頼朝直卒の鎌倉進発軍交名において、大田氏族は御家人中で三浦氏族の次に記されており(『吾妻鏡』同年七月十九日条)、御家人ナンバースリーといってもよいでしょう(千葉氏は東海道軍大将軍として別進発)。このことは頼朝期の歳首垸飯序列とも一致します。

 こうしてみると、十三人合議衆には御家人ナンバーワンとスリーが欠けていることになります。又、地域的にいっても、利根川から東の代表である両氏を欠いては偏りが出ます。これでは十三人合議衆が真の意味で有力御家人の合議になっているとはいえないでしょう。この意味で十三人合議衆が機能していかなかったと考えます。

 頼家将軍期で、遠元は梶原景時弾劾連署に名を連ねますが(『吾妻鏡』正治元年十月二十八日条)、以後『吾妻鏡』には所見しません。ですから、1203(建仁3)年9月の所謂「比企氏の乱」において如何なる行動を取ったかは明かではありません。ただいえることは、頼朝期に武蔵国支配を掌握していた比企ファミリーでは、平賀氏も畠山氏も北条氏側として比企氏撃滅に参加したことです(『吾妻鏡』同年九月二日条)。比企ファミリーは崩壊していたのです。

 「比企氏の乱」により、頼家は失脚し、弟千幡(12才)が第3代将軍になります。同年10月8日、千幡は北条時政名越亭で元服の儀を遂げます。源実朝の誕生です。翌9日、将軍政所始の儀と垸飯盃酒の儀を行なった後、実朝の甲着始の儀が執り行われます。時政がこれを扶持し、小山朝政と足立遠元が甲冑を着せます(『吾妻鏡』同日条)。(その7)で触れたように、頼家甲着始の儀でも遠元は重要な役を果していますから、その意味からいえば、その役は当然ともいえましょう。ともあれ、遠元は面目を果したことになります。次いで、1115日の鎌倉中寺社奉行改定で、永福寺阿弥陀堂奉行人となります(『吾妻鏡』同日条)。他の奉行人のメンバーと比較すると、遠元は70代に達そうとし最高年齢と考えられます。すでに、頼朝期の宿老(千葉常胤・上総広常・三浦義澄・土肥実平・岡崎義実・安達盛長そして遠元)は1183年の上総広常、1200年の三浦義澄・安達盛長・岡崎義実、1201年の千葉常胤と死去しており、土肥実平も一説〈『系図纂要』〉では1191年死去となっていますから、遠元はその最後の一員として、高齢にもかかわらず第一線で頑張っていたわけです。

 しかし、同年1214日の将軍実朝永福寺参詣で、『吾妻鏡』同日条には、北条時房以下が供奉したとし、御家人を結城朝光・長沼宗政・安達景盛・三浦義村・足立遠元・千葉常秀…と順に記しています。このことは、前段での実朝元服の儀に、従兄弟の安達景盛(盛長嫡男)が列座しているのに、姿が見えないことを合わせ考えますと、足立一族間での力関係が安達氏上位へとなっていくことが窺えます(詳細は略しますが、頼朝期の『吾妻鏡』記載において遠元は基本的に盛長の上位です)。

 1205(元久2)年元旦、実朝将軍を擁立した北条時政は垸飯沙汰人を務めます。幕府第一人者であることを示したのです。『吾妻鏡』同日条にはこの沙汰人以下の諸役が記されています。『吾妻鏡』の記載でこのことは頼朝期の1190(建久2)年に次ぐものです。三役は御剣役小山朝政・御弓箭役三浦義村・御行騰役足立遠元で、馬引役の一員として足立八郎、すなわち遠元の嫡子元春が見えます。元春の『吾妻鏡』初見です。足立氏においても後継者が登場したことになります。この三役を頼朝期の建久二年歳首垸飯では沙汰人一族が務めたこと(佐久間広子氏「『吾妻鏡』建久二年正月垸飯について」『政治経済史学』446200310月参照)を思うとき、ここに、完全に北条氏に下位し、これに奉仕する足立氏の立場が見えています。しかし、それは足立氏に限ったわけではなく、この垸飯諸役を務めた諸氏にもいえることです。

 この年は鎌倉幕府にとって激動の年でした。それは、6月の武蔵国最有力者の畠山重忠の滅亡(二俣川合戦)と、北条時政失脚・武蔵守平賀朝政誅殺の所謂「牧氏の変」です。この二俣川合戦は遠元にとって痛恨の一事であったと思います。というのは、(その1)で述べてあるとおり、遠元の娘婿が次郎重忠であり、二人の間には小次郎重秀が儲けられていたのですが、重忠(42才)が戦死、その後重秀(23才)も自害した(『吾妻鏡』同年六月二十二日条)からです。これに先立ち、同日早朝、重忠息の六郎重保(時政外孫)も鎌倉内で誅されます。ここに、比企氏に続いて、武蔵国の豪族畠山氏が滅亡します(なお、名跡は足利氏庶流に継がれます)。当然ながら、重忠の件は遠元にとって打撃となったことは言うまでもありません。武蔵国を代表する畠山・比企氏が滅亡した今、残るは足立一族です。しかし、安達景盛が二俣川合戦で先陣を切ったこと(『吾妻鏡』同上)で分かるよう、すでに北条氏には敵対しえなかったのです。前述してあるように、ここに安達氏が足立氏に上位することになります。そして武蔵国支配において、国守足利氏・(後見)北条氏・(在国支持)安達氏の体制が形成されることになります(当該期の武蔵国支配に関しては、拙稿「十三世紀初頭に於ける武蔵国国衙支配」『政治経済史学』2221985年1月参照)。遠元は『吾妻鏡』のこの合戦関係記事には所見しませから、彼がどのような行動をなしたかは明かではありませんが、積極的に行動することなく、おそらく在国して事態の動きを傍観せざるをえなかったと想像します。

 翌々1207(承元元)年3月3日条の、幕府の北御壺で行なわれた鶏闘会への出席を最後に、遠元は『吾妻鏡』から姿を消します。これには北条時房以下、源(中原)親広・結城朝光・和田義盛・足立遠元・安達景盛・千葉常秀・和田常盛・三浦義村・長沼宗政らが参加しました。すでに高齢でもあり、これから間もない時期に世を去ったと考えてもいいでしょう。

 遠元の跡は嫡子八郎左衛門尉元春に継がれ、さらに木工助遠親、太郎左衛門尉直元・三郎左衛門尉元氏と継がれていきます。北条氏と姻戚関係を結ぶなどして、安達氏が権力中枢に位置したのに対して、足立氏は武蔵国の御家人として生きていくことになります。しかし、その両家とも1285(弘安8)年の霜月騒動で嫡系が滅亡します。これ以後、足立氏は武蔵国での足跡よりも、遠元の孫遠政を祖とする丹波国氷上郡佐治庄(兵庫県丹波市青垣町)に西遷した丹波足立氏の方に残されることになります。

(終り)

(2006.04.08)

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西南交通大学(その4)第三学生食堂―成都雑感〔1〕―

 学生たちの日常生活の衣食住のうち、住については、「西南交通大学(その2)犀浦新キャンパス学生寮―成都雑感〔1〕―」(2005年3月25日付)で、その一端を紹介しました。そこで、今回は食について、もっとも利用されている学生食堂を紹介することで、その一端をお見せします。

 本校キャンパスには第一から第三までと(新キャンパスにも)三つの学生食堂があります。その中で、一番広い第三学生食堂を紹介します。各種の料理がそれぞれ窓口を設けて学生を待っています。まず、写真を、ご覧下さい。ここは一品料理カウンターで、その場で調理してくれます。後方に火が見えるように、まさに調理中です。手前が食材で、各料理別に皿に盛られているのを選んでから、それを調理してくれます。もちろん味の好みなどのリクエストがききます。学生2人がそれを待っているところです。値段は1品(ご飯込み)で6~7元程度で、食堂中でもっとも高価です。学生は友達同士複数で数品を注文するのが普通です。

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 写真2は、炒菜(炒め物を主とした温かい料理)のカウンターです。これは3.7元・2.6元・2.1元の別があり、調理済みの料理が10数種(2.1元のは数種。日毎に若干のメニューの入れ替えがあります)並べられており、自由に2品選ぶことが出来ます。もちろんご飯は付いてきます。ここの調理も後方でします。写真で後ろ向きの人がそうです。なお、このカウンターの右隣に、無料の湯(スープー)があり、好みにより自分で取ります。ここの料理は基本的に肉・魚入りですが、2.1元のは素菜(野菜・豆腐料理)です。

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 次は粉食の段列です。写真3は、蒸し食品の饅頭・花巻・包子・蒸餃子・焼売などのカウンターで、この左脇にお粥もあります。上部に値段表が記しています。たとえば肉包子は1個0.3元です。その右側に麺食のカウンターがあります。ここは麺類と米綫(雲南省の料理で、米粉で作る麺)・ビーフン・水餃子・抄手(四川省のワンタン)に分かれています。なお、麺類は1杯1.5元です。

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 写真4は、この後者のところです。今、学生の注文を受けて、調理人が調味料を配合しているところです。別の調理人が後方で茹でる作業をします。学生の左横に見えるがIC精算機です。右が古いICチップ用で、左が新しいICカード(新キャンパスは全部これです)用です。まず、この精算機にチップやカードを示して注文すると、精算されて、料理が出来ると受け取ることが出来ます。学外の人でそれがない場合は、別にカウンターがあり、そこで食券を買いそれを持って窓口に行けば注文できます。

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 以上の外にも、涼菜(冷たい料理)、熱拌菜(食材を選んで、それを湯がいた後、熱い辛いスープで少し煮て味を付けた料理)、煮込み料理(主に骨付き肉)、チャーハン、パンなどのカウンターもあります。また、コーラなどの飲料もあります(ただし、酒類はありません)。したいがいまして、各種の料理が楽しめるわけです。

 写真5は、私が選んだこの日の料理です。これは2.6元の熱菜です。このようにステンレスの食器にご飯と料理2品を盛ってくれるわけです。左上がスープですが、ほとんど味付けがないお湯みたいなものです。四川なので辛い料理が多く、これもそうです。しかし、この2品は弱辛といったところでしょう。現在の私にとってはどうということはありません。ご覧のように量は十分で、ご飯が足りないときは自由にお代りが出来ます。なお、食器上のピンクのプラスチック板がICチップ付のもので、このようにカギと一緒に持ち歩いています。

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 最後の写真6は、学食内の全景です。ちょうど午前の授業が終了した昼食時ですが、本校には現在大学院生・4年生と成人教育生だけなので、しかも4年生はほとんど授業がないためもあり(それに就職活動中)、ご覧のように余裕があります。新キャンパスではこうはいかず、満席で席取りが大変ですし、精算機の前にも長蛇の列が出来ます。前方の学生たちの視線が上を向いているのは、実は上方にテレビが設置されており、それを見ているからです。寮の部屋にはテレビ視聴設備がありませんから、学生がテレビを見ようとしたら、通常では学食のを見るしかありません。したがいまして、学生に人気のあるスポーツ番組(サッカーやバスケットなど)の時などは、立ち見の学生で通路が埋まります。

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 以上が学食です。学生にいわせれば学食の料理は不味いといって、大学になれてくると、経済的に余裕のある学生は次第に学食の利用回数が減っていきます。私のように、80年代の学食に親しんだものから見れば、贅沢なものだと思えるかも知れませんが、それだけ中国が一歩一歩豊かになってきたことが分かります(ご飯に石が入るようなことはなくなりました)。決して美味というわけではありませんが、十分に食をまかなえる存在となり、衛生面でも十分に管理(職員がマスクをしていることに注意)されたものになっています。

(2006.04.01)

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続・石象湖生態風景区―四川雑感〔1〕―

 23日(木)午後、昨年4月に続き、大学外事処主催で、再度、石象湖生態風景区に行って来ました。今回はチューリップの展示が中心でした。そこで、群生の様の写真を下に示しておきます。ご覧のように、白・赤・紫・黄色などと色とりどりに花盛りでした。また、鉢のチューリップを販売していましたが、1030元と高く、しかもすでに花が開いたのもあり、食指を動かされるものではありませんでした。 Unicode

s-0603023石象湖風景区 009

 今回は昨年以上に客は多く、駐車場の様子から、そのほとんどが自家用車による個人客と考えます。入場料が50元であることをも思えば、平日に個人客を中心に入場者が増加していると想像されることは、成都市の消費傾向が旺盛である一つの証拠となるかも知れません。

(2006.03.24)

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味千の生麺で醤油ラーメンを作る

 普段の昼食は麺類が主です。学食(1.5元)や校内外の食堂(2~3元程度)で食しますから、四川の麺類が過半で、辛いものが多くなります。

 今日は週末でもあり、イトーヨーカドー双楠店で先日購入した味千の生麺(「味千高蛋白拉面」5人分・味千拉面〈深圳〉有限公司製造 7.9元)により、醤油ラーメンを作ってみました。本来は豚骨スープですが、材料の関係と、私が関東子なので醤油スープにしました。スープ材料は、醤油(香港李錦記「精選生抽」・広東省製造)大さじ3杯、鶏ガラスープの素(鶏精・成都市製造)小さじ1杯、「ほんだしかつおだし」(味の素)小さじ半分、ゴマ油少々です。本来ならば醤油こそ日本製でなければいけませんが、中国製で代用です。具材は、卵(中国的に塩と茶で煮立てて味付け)、ホーレンソー、ネギ、ザーサイ(重慶涪陵市製造)、味付け海苔(「波力海苔」)と全て現地調達のものです。したいがいまして、材料で日本製は「ほんだしかつおだし」だけで、他はすべて中国製です。

 完成品が下の写真です。味の方はあっさりしたものとなっていました。まずはこれで日本のラーメンに近いものが宿舎で作れることが分かりました。

060318醤油ラーメン.02

(2006.03.18)

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DVDソフト事情(8)新タイプの圧縮DVD―成都雑感〔4〕―

 旧来のDVDは3種類でした。D-5(片面1層・MPEG-2 6~5元)とD-9(片面2層・MPEG-2 11元)の2種類は通常のDVDです。もう一つがHDVD(片面1層・MPEG-4 3.5元)、すなわち圧縮DVDです。この違いについては、すでに2005年1月4日「DVDソフト事情(3)アニメ他」に述べておきましたので、繰り返しません。要するに圧縮DVDは画質などが劣りますが、収録時間が数倍長いものです。

 この圧縮DVDに新タイプが今年に入ってから登場しました。HDVD-9HDVD-10の2種類です。HDVD-9は名前から想像できるように、片面2層盤で、10元です。HDVD-10は両面1層盤で、7元です。いずれも旧来のHDVD2枚が1枚となるものです。ですから、日本のドラマは1クールものが1枚で収まります。まだ品揃えは少なく、置いてある店も少ないですが、両種ともこの秋ドラマをはじめ旧作も出ています。この元盤となっているものは正規DVD版、放送録画版(旧作ではVCD時代のビデオ録画もあり)と色々で、基本的に中国語の固定字幕付の日本語音声ですが、90年代の旧作には中国・香港のテレビ放映から音声を中国語のみにしたのもあります。

 ところで、各種のDVDで一番根強い人気を持っている日本のドラマは何だと思われますか。答は、1991年にフジテレビで放映された織田裕二・鈴木保奈実主演の「東京ラブストーリー」だと思います。何故ならば、DVDボックス・HDVDHDV-9HDV-10すべてにおいて、「東京ラブストーリー」(中国名・東京愛情故事)は販売されているからで、このような作品は他にはありません。本ドラマは、1995年、中国中央テレビ(CCTV)で放映されて、若者を中心に人気を博し、以後長く中央並び地方テレビで放映されてきました。現在の30代前半以下の世代に「カンチ」「リカ」は忘れられない思いを与えたものです。本ドラマを視聴覚教材に使用した日本語学科も少なくありません。

 最後に、相変わらず海賊版の登場は早いです。2月25日に終了したNHK土曜ドラマ「氷壁」のHDVDは2枚組ですでに登場しています。

(2006.03.10)

カテゴリー: 映像 | 4件のコメント

2005/6年度後期の担当課目

 2月20日(月)から西南交通大学は後期学期が開始されました。第2週が終り第3週に入ろうとしています。前学期に続いて、今学期の担当課目を紹介したいと思います。

 今学期の担当課目をまず示します。

1.語彙論―大学院1年

2.名著欣賞(名著観賞)―大学本科4年

3.日文写作3(日本語作文3)―大学本科3年

4.文化与礼儀(文化と礼儀)―大学本科3年

5.日文写作1(日本語作文1)―大学本科2年

6.文化与礼儀(文化と礼儀)―成人教育専科3年

以上の6課目で、週7コマとなります。これに、4年生の卒業論文指導がくわわります。今回は6名を担当します。

 院生の課目は名目上は修辞学ですが、実際には語彙論を講義します。基本的には日本の大学の学部専門科目レベルとなります。語彙論は他の分野と比較して、研究の深化していない分野で、出版された教科書レベルの書籍もごくわずかです。そこで、田島毓堂『比較語彙研究序説』1999年笠間出版をテキストとして講義します。これにより、田島氏の提唱する比較語彙研究方法を理解して、語彙論が言語の枠を越える必然性と重要性・面白さを把握させます。残念ながら、現在までのところ、本講義を受講した院生で語彙論をテーマに選んだ学生はいません。院生には、困難だが、長期的に取り組めば、いい研究成果が上げられるといって唆すのですが。

 「名著欣賞」は4年生最後の課目で、選択です。三浦哲朗「忍ぶ川」の新潮文庫本コピーをテキストにし、「日本文学概論」の「伊豆の踊子」と同様なやり方で、全文を読破します。三浦哲朗の作品は精読の授業で既出(上海外国語学院日語系編『日語』第六冊・第3課「おふくろの消息」1986年上海外語教育出版社)であることと戦後を代表する青春小説なので、これをテキストに取り上げました。本課目は本来的に日本語学科の課目なのですが、名目上は全4年生が対象のため、本学科以外の学生も受講できます(最初にこの課目を持ったとき、このことに気づいて、教務の方へ申し入れましたが、いっこうに変更されません)。当然に、他学科の学生も受講しますが、いうまでもなく日本語が読解できる学生は皆無です。したがって、「忍ぶ川」の中国訳はないようなので、適当な日本語小説の中国訳を選ばせて、それを読破するようにいいます(本課目は選択ですが、卒業に必要な単位数に含まれ、履修届課目の変更がきかないため、不合格となると卒業できません)。なお、本課目は第5週(3月20日から、4年生の新学期が開始です。春節休みに続いて、卒業実習の期間があるためです)に開始し第12週に終了予定で、週2コマです。これはもちろん卒論執筆のかねあいのためです。

 「日文写作3」は通常の作文の仕上げとなります。ここでは、大野晋氏の提唱された「縮約」と「中国人の日本語作文コンクール」(中国の大学日本語学科の過半が参加)応募作品執筆が授業内容になります。縮約は朝日新聞社説を素材に毎回これを行ないます。学生の縮約を返すとき、その模範案を提示・解説するのが前半で、次回の課題を提示・説明するのが後半です。これを毎回繰り返して、学生に読解力と同時に文章表現力を鍛えるのです。素材に社説を使用するのは、分量の関係と(1200字程度を400391字以内に縮約)事実文として意見と事実の把握を理解させるためです。この縮約の間に作文コンクールの作文作成が入ります(本年はまだ課題が来ていませんが、おそらく3月半ばまでに来るでしょう)。第3稿まで書かせてから(およそ7・8週間をかける予定です)、最終応募作を選出します。一定以上水準と考える作品は応募させますから、年により数は異なります。

 「日文写作1」は、テキストとして『日本語作文Ⅰ』1988年専門教育出版を使用します。最初の時間は「私の故郷」という題で作文を書いてもらい、次回からテキストに沿って課題の課を選びます。関連語句・言い回し文型と説明を加え、そして質問をします。本テキストは少し古く、日本での学習者用なので、当然ながら中国の実情にあった説明・質問や新語句を入れます。最後に、中国の学生用にアレンジしたより具体的な課題を示して、次週までの宿題とします。例えば、「私のアパート」とあれば、「「私の学生寮の部屋(紹介)」といった具合です。作文の授業は初めてなので、作文に馴れさせるとともに、やはり事実文を主体となるように課題を選びます。翌週は前に出した学生の作文の(文法・語句・字・表現とあらゆる)誤謬を例として示し、学生に正させ、説明を加えます。最後に、作品総体の構成・内容に関して、学生の作品の中からよい例と悪い例を示しながら、課題に沿った作文の基本骨格を提示します。これが評価の基準ともなるわけです。次週は新しい課題の提示となります。この繰り返しで授業は進みます。

 大学本科3年と成人教育専科3年の「文化与礼儀」は同一内容の授業です。「文化と礼儀」となっておりますが、「日本のビジネスマナー」に特化した内容にしています。基本は、ビジネスにおけるマナーであって、社会一般のマナーではありません。社会人になるのもそう遠くないからです。テキストとして、キャリア総研『ビジネスマナー基本テキスト』2004年日本能率マネージメントセンター)を用います。最初の時間は、ビジネス概論ともいうべき、経済から考えるビジネスの基本的な考え方を解説します。ここで、何故に顧客第一にビジネスを行なわなければいけないか、その本質から考えさせるように説明します。次の週からテキストに入り、その順にしたがって授業をします。その際、必要によりテキストで触れていないことも示します。この場合、他の日本のビジネスマナーの本も参考にします。説明においては実際のマナーの形式よりも、何故その形式をとるのか、その理由を示すことで、マニュアルとしてのマナーではなく、ビジネスの本質からマナーの形が生み出されていくことを理解させ、臨機応変が出来るようにします。時には模擬実演させることもあります(例えば、電話の応対)。こうして、マナーの本質と応用を学ばせます。

 以上が後期の担当課目の紹介です。

(2006.03.05)

 

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おめでとう荒川静香

 CCTV-5(中国中央テレビ・体育チャンネル)のライブでトリノオリンピックの女子フィギュアを観戦しました。

 金メダルおめでとう、荒川静香選手。完璧な演技でした。最初から終りまで見せてくれました。ありがとう。

 CCTVの中継はアナウンサーがフィギアに詳しくないためか、演技中は選手紹介くらいでほとんどしゃべらず、純粋に映像を楽しめたことです。しかし、残念なことは、村主章枝選手からの中継で、演技途中に観客の録画映像が挿入され、演技を完全に見れなかったことです。最後のイリーナ=スルツカヤ選手のジャンプ転倒は演技後のリプレーで知りました。ともあれ、荒川選手の演技を完全に見れたことはよかったです。

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在成都・ようやく宿舎に戻れた

 18日(土)午後、少し遅れましたが、CA422便は成都双流空港に到着しました。順調に大学に戻ったところ、宿舎の入口が施錠され、服務員もいません。宿舎には入れないのです。学内にある大学経営の鏡湖賓館が内装改修小工事のため営業を休んでいたのです(本年は創立110周年)。宿舎はこの付属施設のため、こちらも休んでいたわけです。このことを関係者は知りませんでした。当然ながら、宿舎の部屋に入ることは出来ません。

 ともかく、西門招待所に泊まることになりました。ここの部屋には電話がなく、カギも服務員が開けるというかつての部屋です。それなのにエヤコンやバス付というアンバランスです。現在の中国では携帯電話は当たり前ですから、部屋に電話がなくてもよいのかも知れません。というわけで、ネット環境にありませんでした。

 20日(月)から新学期が開始されました。院生の講義用専門書はコピー済みで戻ってきましたし、学部の授業の1回目は教科書を必要としないものでしたし、配付資料が必須の講義の場合、幸いに、ノートパソコンは帰国に際しても携帯していたので、そこに資料ファイルが収めてあり、それのプリントアウトを学部に頼み、無事に今週の講義を終えることが出来ました(明日金曜日の講義は4年生で、5週目開始)。

 本日(23日)、賓館も従業員が出勤し、営業の準備に入りました。宿舎も服務員が出勤し、カギも開けられて清掃などがなされました。そこで、午後にようやく部屋に戻れたわけです。やっとインターネットにも接続することが出来ました。元の環境に戻れたといったところです。

 さすがに中国滞在が長い私でも、戻ったら宿舎が閉まっていたという経験は初めてです。春節休みで学内の宿泊施設が休止するのは前から普通ですが、それでも元宵節(旧暦の正月15日で、中国ではこの日で正月が終わります。本年は2月11日)明けには営業を再開するものです。それを過ぎ、新学期以降でも営業再開していなかったのは初めてです。

(2006.02.23)

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在関東・西安交通大学日語系卒業生による来日先生歓迎の集い

2月初め、愛知大学と東京工業大学との交流のために、西安交通大学日語系の趙剛・侯仁鋒・趙蔚青・張文麗の4人の先生方が来日されました。まず愛知大学を訪問され、昨5日(日)に新幹線で上京されました。そこで、関東在住の卒業生らが先生方の歓迎の集いを、昨日夜に新宿で行ないました。西尾先生が参加され、卒業生も1期生以下の8人が集まり、テーブルの関係で2卓に分かれて、大いに話が弾みました。その集いの写真を2枚、各テーブル毎に下に載せましたので、ご覧下さい。

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(2006.02.06)

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冬休み帰国

本日より2月18日まで、冬休みとして一時帰国します。
この間、成都雑感は休止します。
歴史雑感は出来る限り継続しますが、何時出来上がるかは不確かです。
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新城市広場の「味千拉麺」店―成都雑感〔14〕―

成都市にラーメン専門店が初めて登場しました。それは、昨年秋に開業した成都最大の大型商業施設「新城市広場」にある味千拉麺(ラーメン)です。メニューにラーメンがある成都の日本料理店・回転寿司店もありましたが、本格的にはほど遠いもののようです。ここに本格的ラーメン専門店の味千ラーメンが開店したのです。ご承知のように、味千は熊本ラーメンの有名店で、日本のみならず、世界へと店舗展開をしている店です。ですから、この成都の味千ラーメンも基本的に豚骨ラーメンです。シンプルな味千ラーメンが15元で、20元余まで各種のラーメンがあります。写真1は、私の食した激辛ラーメン(これは日本の味千のピリ辛ネギラーメン系のものでしょう)で、20元です(注意、ラーメン代とは別にお茶代1元がかかります)。これは日本では激辛でしょうが、激辛の本場四川から見れば、四川人にとっては弱辛といったところでしょうか。その意味で、名前は看板に偽りありといったところです。麺は腰もあり、中国では本格ラーメンといってよいでしょう。スープも豚骨ベースが効いており、日本のラーメンを感じさせます。この意味で、日本のラーメンを求めるなら、成都市ではこの店はよいといえましょう。四川人にとっては、辛いのが激辛ラーメンだけですから、物足りないかも知れません。しかし、普通の麺類が2~5元程度で、このラーメンは高級外食となり、当然普通に味あえないものを求めるでしょうから、それでいいのかも知れません。

060106味千ラーメ ・激辛ラーメン

写真2は、店内の様子で、平日の12時前の時のもので、客の入りはまだ少なく、以後少しずつ入ってき、昼過ぎにはまあまあの入りでした。

060106味千ラーメン・店内写真3は、東南より「新城市広場」全景を撮ったものです。成都市中心の天府広場の北北西2㎞ほどの、八宝街・西大街(東西)と長順下街・寧夏街(南北)との交差点西北カドにこの大型商業施設は位置します。バス停は八宝街(西南交通大学からの56路の場合)です。右側(東)にはPARKSON(百盛)デパートと奥に食堂街など、中央に専門店街のGH.時尚百貨、左側(西)に百佳超市(百佳スーパー)や国美電器などの入っている百佳購買広場、中央広場の奥(北)には専門店や映画館などの香港城、以上から構成されているのが新城市広場です。ここには、マクドナルドやハーゲンダッツもあり、食堂街には回転寿司・韓国焼肉・上島珈琲などもあります。また、東側の歩道上には成都や中国各地の少吃などの露店が連ねており、庶民の味を楽しむことが出来ます。味千ラーメンは香港城の1階に位置しています。

060106新城市広場

 なお、広場と道路を挟んで、昨年1223日付の記事「『川江号子』火鍋」で紹介した、「川江号子」火鍋支店が南側にあります。

 

追記  現在、上に述べた歩道上における露店群は営業していません。(2006.03.03)

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武蔵武士足立遠元(その7)―歴史雑感〔6〕―

七、頼朝期における遠元(下)―第二次建久上洛―

遠元が頼朝とその嫡子頼家に蝟集する比企ファミリーの一員であることは、すでに(その1)において述べたところです。そこで、話を少し前にさかのぼらせます。

すでに拙稿において述べておりますが、1188(文治4)年7月10日、頼朝の嫡子万寿(頼家)は7歳で甲着始の儀を行ないます(『吾妻鏡』同日条)。この儀式において、平賀義信(比企尼三女婿・乳母夫)・比企能員(比企尼甥・乳母夫)が万寿の登場を扶持し、小山朝政が甲直垂を持参しこの着替えで腰帯を結び、千葉常胤父子が甲櫃を持参し扶助し甲着をし、梶原景季(父景時が乳母夫)以下が剣などを進め、八田知家が馬を献じ、三浦義澄・畠山重忠・和田義盛が万寿の乗馬を扶助し、結城朝光らが補佐して3度南庭を打ち回ります。そして、下馬を足立遠元が扶助します。甲着を終えた後、場所を西侍に移して、義信の経営で盃酌の儀が行なわれ、万寿の甲着始の儀を祝います。以上の甲着始の儀に登場するメンバーはみな鎌倉幕府を支えている有力御家人であることはいうまでもありません。両翼ともいえる千葉・三浦氏が登場するのは当然として、儀式の基本場面は、登場の義信・能員、乗馬補佐の重忠、下馬補佐の遠元と、比企ファミリーで構成されているといっても過言ではありません。遠元もこの一員として万寿を奉持していたといえましょう。かように、万寿の廻りは比企ファミリーで蝟集されて、母政子の生家北条氏は、義時が頼朝出御の時の御簾上げ役のみで、影が薄いのです。

甲着始の儀の翌々年である1190(建久元)年4月11日、9歳の万寿は小笠懸射始の儀を行ないます(『吾妻鏡』同日条)。師範としての下河辺行平(下総国藤姓秀郷流大田氏族)が弓を献じて、これを扶持します。三浦義澄・千葉常胤以下が的以下を進めます。そして南庭で小笠懸射始の儀が行なわれます。小山朝政・足立遠元・畠山重忠・小山田重朝・和田義盛・梶原景時が招請されて、この場に候らいます。万寿は3度射て、天性の技として皆を感心させます。ともあれ、万寿は頼朝の後継者としてのお披露目を無事果たしたことになります。

以上にように、比企ファミリーの一員として、頼朝後継者万寿(頼家)の節目の儀式に、遠元は参加しそれを扶持しているのです。

他方、1189(文治5)年4月18日の北条時政3男の五郎時連(時房・15歳)、1194(建久5)年2月2日の嫡孫太郎頼時(泰時・13歳)の頼朝御前における元服の儀に、遠元は参列しています(『吾妻鏡』同日条)。いずれも、平賀義信を筆頭に源家御一族や千葉常胤・三浦義澄らの有力御家人が参列しています。遠元も押しに押されぬ有力御家人の一員なのです。そして、(その1)で述べてあるように、遠元の娘が時房の正室になります。この婚姻が何時なされたかは史料には見えていません。彼女の生んだ三郎資時は1199(正治元)年・四郎朝直は1206(建永元)年生まれです。他腹の太郎時盛は1197(建久8)年生まれです(なお、次郎時村は生年不明です)。以上からいえることは、婚姻は建久年間になされたとするのが至当です。さらにいうなら、時房兄の義時が御所官女の姫前(比企朝宗の娘)に思いをかけ、それを知った頼朝が離別不可の起請文を義時から取り、二人の婚姻を認めたことを、『吾妻鏡』建久三(1192)年九月二十五日条に、記載されていることを考えると、時房と遠元娘の婚姻も『吾妻鏡』に記載された可能性が高いでしょうから、現在残されている『吾妻鏡』にその記載がないのは、逆に残されていない部分、すなわち欠文部分(建久七・八・九年条)に婚姻がなされたと考えることができます。すなわち、1186~8年(建久7~9)の間になされたと考えます。このことは、時盛・資時らの生年から考えても至当といえます。こうして、北条氏は義時兄弟が比企ファミリーと婚姻関係を結んだのです。

1195(建久6)年、頼朝は第二次建久上洛を行ないます。治承・寿永の内乱で平氏により焼討ちされた東大寺の再建落慶供養(3月12日)に参加するためです。今回も東国の多数の武士を引き連れ上洛した頼朝は、10日、先陣畠山重忠・和田義盛、次(先)随兵120騎、(御後)狩装束16騎、次(後)随兵123騎、後陣梶原景時・千葉胤正、最末水干11騎からなる、堂々とした行列を組んで南都の東南院に入りました(『吾妻鏡』同日条)。遠元は今回も参加し、三浦義澄・比企能員らと同じく御後に位置し、それは12番目です。第一次建久上洛と同じ御後に位置しており、彼の立場が揺るぎなく、有力御家人の一員であることを示しています。

本上洛の最後として、5月20日、頼朝は四天王寺参詣を行ないます。先頭に畠山重忠・千葉(相馬)師常とする先陣随兵26騎、御後14騎、千葉胤正・足立遠元を後尾とする後陣随兵26騎、それに最末として和田義盛という行列を組みました(『吾妻鏡』同日条)。ここで、注意されるのは、遠元がいままで位置していた御後ではなく、後陣随兵最後列に位置していることです。では、一般的に序列の劣る後陣随兵への移動は遠元の地位の低下を表わすものでしょうか。そうではないと考えます。何故ならば、これが後尾であるからです。

この2回の上洛において、先陣先頭に畠山重忠、後陣後尾に千葉氏を配することは、第一次上洛の出発の際の『吾妻鏡』記事、すなわち建久元年十月三日条に見るとおり、基本です。いままで述べてきた上洛関係の行列記事を見ていただければ、この原則が貫徹していることは明らかでしょう。すなわち、この先頭と後尾は特別な位置なのです。重忠は奥州兵乱においても大手先陣を務めており、治承・寿永の内乱でも西国へ出陣し、活躍していることは『平家物語』などにも記載されているように著名です。千葉氏が頼朝の片腕として内乱を戦い抜いたことはすでに述べていることです。両者は実戦経験豊かであり、かつ有功の武士であり、都においても広く知れていたといえる存在です(京都治安維持のため、1187年に下河辺行平とともに千葉常胤は派遣されて、後白河院の叡感を受け、任務を全うしています〔『吾妻鏡』文治三年十月八日条〕)。これに比して、遠元は頼朝の親衛隊的存在として東国では重きをなしていたでしょうが、姻戚関係に繋がる公家らを除くと、京においてはそれほど知られていたとは思われません。この意味で、千葉氏と同列を組むということは、その存在を御後に位置するよりは際だたせることになり、遠元個人の存在を西国人に示すことになります。すなわち、決して遠元の位置の低下ではなく、むしろ名誉といえるものです。こうして、第二次上洛においても遠元は名誉ある位置を示したのです。

この第二次建久上洛の年、1195(建久6)年を最後に、頼朝の死去する1199(正治元)年正月条まで現存の『吾妻鏡』は欠文となります。ですから、頼朝最晩年の遠元については示すことが出来ません。が、彼が比企ファミリーの一員として、武蔵国の有力御家人として、同国の支配の一翼を担い、時期後継者頼家を扶持し、幕府宿老として重きをなしていたことには変わりがないでしょう。

(続く)

(2006.01.05)

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2005年度後期記事目次

戦後60年でもある、乙酉年を終わるに当たって、本年度後期(7~12月)の記事目次を掲載します。

よき丙戌年を。

07.05 瀘定橋・海螺溝―四川雑感〔3〕―

07.07 ノンステップ(低床)バス―成都雑感〔7〕―

07.10 三江―四川雑感〔4〕―

07.12 夏休み帰国

07.20 もう一人の義経、近江源氏山本義経(その1)―歴史雑感〔4〕―

    一、治承・寿永の内乱以前

07.30 もう一人の義経、近江源氏山本義経(その2)―歴史雑感〔4〕―

    二、治承・寿永の内乱前期

08.07 もう一人の義経、近江源氏山本義経(その3)―歴史雑感〔4〕―

    三、木曽殿源義仲と山本義経

08.14 在関東・西安交通大学日語系卒業生の集い

08.24 拙稿のファイル頒布のお知らせ

09.03 成都に戻りました

09.09 木曽殿源義仲を討ち取ったのは誰か―歴史雑感〔5〕―

09.14 DVDソフト事情(5)日本原版ボックスの海賊版が消えた

    ―成都雑感〔4〕

09.18 “九一八”―成都雑感〔8〕―

09.23 モバイルデジタル液晶テレビ付バス―成都雑感〔9〕―

09.27 今学期の担当課目

09.30 上海行

10.01 続・イトーヨーカドー双楠店(国慶節)―成都雑感〔3〕―

10.06 上海・蘇州在住の卒業生の集い

10.16 DVDソフト事情(6)日本原版ボックスの海賊版が復活

    ―成都雑感〔4〕―

10.20 白果園茶館(茶座)―成都雑感〔10〕―

10.22 簡陽羊肉湯鍋―成都雑感〔11〕―

10.30 串串香―成都雑感〔12〕―

11.02 武蔵武士足立遠元(その1)―歴史雑感〔6〕―

    一、遠元の系譜

11.12 武蔵武士足立遠元(その2)―歴史雑感〔6〕―

    二、平治の乱の遠元

11.19 武蔵武士足立遠元(その3)―歴史雑感〔6〕―

    三、治承・寿永の内乱の遠元

11.24 ブログ開設1周年記念・記事目次

11.28 西南交通大学(その3)キャンパス間の交通事情―成都雑感〔1〕―

12.02 武蔵武士足立遠元(その4)―歴史雑感〔6〕―

    四、文治元年十月の勝長寿院落慶供養の遠元

12.10 DVDソフト事情(7)電脳街の隠れDVD店舗―成都雑感〔4〕―

12.18 武蔵武士足立遠元(その5)―歴史雑感〔6〕―

    五、頼朝期における遠元(上)「宿老」

12.23 「川江号子」清油火鍋―成都雑感〔13〕―

12.25 武蔵武士足立遠元(その6)―歴史雑感〔6〕―

    六、頼朝期における遠元(中)奥州兵乱と第一次建久上洛

12.31 2005年度後期記事目次

2005.12.31

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武蔵武士足立遠元(その6)―歴史雑感〔6〕―

六、頼朝期における遠元(中)―奥州兵乱と第一次建久上洛―

1189(文治5)年7月、鎌倉殿源頼朝は奥州侵攻を開始し、9月には奥州平泉藤原政権を滅亡させます。奥州兵乱です。この合戦は、南は九州の薩摩国からと、全国の武士を動員しての侵攻で、二十八万四千騎(『吾妻鏡』同年九月四日条)と称する大軍を結集させました。もちろんこれは誇張された数で、実数はこれよりかなり低いと思われますが、治承・寿永の内乱で頼朝の動員した兵数を超えていることは確実でしょうから、これまでの日本歴史上で、最大の大軍といえましょう。千葉常胤・八田知家を大将軍とする東海道軍は常陸国から陸奥国浜通へ、比企能員・宇佐見実政を大将軍とする北陸道軍は越後国から出羽国念珠ヶ関へ、そして頼朝が直卒する大手の東山道軍は下野国から陸奥国白河関へと侵攻するのです。

7月19日、頼朝は鎌倉を出陣します。『吾妻鏡』同日条には、これに従軍した武士の交名があり、筆頭の武蔵守平賀義信以下、144名が記載されています。この39番目に足立遠元が記載されています。同時に、その前38番目に藤九郎盛長がいます。この交名においては、最初は義信に代表される源家御一族が続きます。御家人では21番目の三浦義澄がトップです。以後、御家人たちとなります。28番目の土屋義清までが三浦一族です。同じく29番目の小山朝政から33番目の吉見頼綱までが小山一族関係です。このように、この交名は一族が連続してまとまって記載されています。そして、盛長の前は畠山一族の重成・重朝、遠元の次は土肥実平・遠平親子となっており、両人とは異なる氏族です。したがいまして、盛長と遠元が連続して記載されていることは両人が一族である何よりの証拠となります。すなわち、(その1)で述べた遠元の叔父が盛長で、両人は足立氏なのです。

治承・寿永の内乱では出陣した気配がない両人は、ここに奥州侵攻に出陣するのです。残念ながら、奥州侵攻に関する『吾妻鏡』の記載にはこの交名以外に両人は姿を現わしませんし、他の史料も同様ですから、彼らの具体的活動については述べることは出来ません。治承・寿永の内乱において足立氏が頼朝親衛隊として鎌倉内に位置したことを考えると、今回においても、おそらく頼朝親衛隊としてその身の回りにあって、直接前線で戦うことはなかったと考えます。

奥州兵乱に勝利した鎌倉武家政権は、その冬に起きた出羽国大河兼任の反乱を、翌1190(建久元)年3月に鎮圧しました。ここに1180(治承4)年に源頼政の蜂起により口火を切った内乱がようやく終結することになりました。治承・文治の大乱です。鎌倉殿頼朝は、ここに南は喜界島(奄美群島)から北は外が浜(津軽)までと、北海道を除く日本列島全体の武士に君臨する存在となりました。この成果を引っさげて、頼朝は平治の乱(1159年)により伊豆国に流罪となってから、最初の入洛を果たします。頼朝の第一次建久上洛です。117日、頼朝は、畠山重忠を先陣に、前に3騎ずつ列した武士が先陣随兵に60180騎、後に水干輩5番10騎、後陣随兵46138騎、最後を後陣として千葉常胤・梶原景時ら3人、という堂々たる軍列を組んで入京し、六波羅に入ります。(『吾妻鏡』同日条)当然ながら都人に鎌倉政権の実力を眼前で示すためのものです。この軍列において遠元は工藤祐経とともに水干輩5番に位置しました。水干輩には三浦義澄や八田知家らが列しており、当然ながらあまたいる御家人から選ばれた者たちですから、名誉ある位置ということが出来ます。

入洛した頼朝は、京都の公家政権を総覧する治天の君の後白河法皇、摂政九条兼実と会談を遂げるとともに、9日に権大納言に、24日に右近衛大将に任じられます。後に鎌倉幕府の権威の象徴となる右大将家頼朝の誕生です。この任官により、恒例にしたがって、12月1日、頼朝は右大将拝賀の儀を執り行います(『吾妻鏡』同日条)。この拝賀行列において、侍として7人が列します。三浦義澄・千葉胤正・工藤祐経・足立遠元・後藤基清・葛西清重・八田知重です。いずれ劣らぬ有力御家人です。これに選ばれたということは、彼らがそれだけ頼朝から認められたことを意味しますから、名誉に過ぎるものはないということになります。遠元はその一人なのですから、如何に彼が頼朝に信頼されていたかが分かります。

前年の奥州侵攻が、事後追認とはいえ、7月19日付の泰衡「追討宣旨」が発せられたことで(『吾妻鏡』文治五年九月九日条)、「公戦」として頼朝は勲功賞をえることになります。それが権大納言への昇進ですが、これ以外の勲功賞として「郎従」(御家人)の成功推挙権が与えられます(『玉葉』建久元年十二月十日条)。人数で交渉があり、最終的には10人が推挙されます(『吾妻鏡』同十一日条)。同上に、その面々の名と官が記載されています。左兵衛尉に千葉常秀(祖父常胤譲り)・梶原景茂(父景時譲り)・八田知重(父知家譲り)、右兵衛尉に三浦義村(父義澄譲り)・葛西清重、左衛門尉に和田義盛・佐原義連・足立遠元、右衛門尉に小山朝政・比企能員の10人です。いずれも初期から頼朝に味方した、鎌倉幕府草創に欠かすことのできない功労者たちです。とりわけ三浦一族3人と他氏に抜きんでていることはこの一族の功績と政権内での実力を示すものといえましょう。ここに遠元も名を連ねていることは彼の功績も幕府創建に欠かせない存在であり、幕府を支える代表的な有力御家人であったことを示しています。『吾妻鏡』では遠元は「藤原遠元」と記載されていますから、彼の正式な氏は藤原となります。なお、この10人の正式発令は頼朝が京を離れた14日です(『玉葉』同十三日条)。ともかくその8氏は鎌倉幕府創建を担った氏族といえます。

こうして、遠元は第一次建久上洛において頼朝の信任厚い有力御家人の一人として十分にその立場を示しえ、面目を施したのです。

(続く)

(2005.12.25)

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「川江号子」清油火鍋―成都雑感〔13〕―

 この冬は寒冬になると気象庁が予報を変更したとのニュースに接しましたが、日本では鍋モードでしょうか。

さて、四川の鍋といえば、火鍋がよく知られており、現在では中国各地に広がり、どこでもポピュラーなものになりました。日本でも火鍋をメニューに加える中華レストランを見かけるようになりました。その意味で、日本人にも火鍋は珍しいものではなくなりました。今日紹介するのは、3年前に登場した清油火鍋です。

火鍋発祥の地は重慶市です。当地の河川労働者がエネルギー源として、また川の夜の寒気を乗りきるために、牛解体の後の余り物(臓物など、安価)を利用して、手軽に食べられるように工夫し出来たのが火鍋といわれています。ですから、唐辛子に代表される激辛であり、スープに牛脂を使用しているのです。なお、現在の火鍋店が重慶に出現したのは1930年代初めです。

2003年に開かれた(中国)第5回料理人大会で成都市の「川江号子」店が出品した「絶代双椒」火鍋が第1位となりました。これが清油火鍋です。いままでの火鍋とどこが違うのでしょうか。スープのベースとしての牛脂に替えて菜種油を用いていることが最大の違いです。四川方言で菜種油を「清油」というのが、その名の起こりです。現在、Web『成都吃喝玩乐网』(成都飲食娯楽ネット)上には、火鍋関係店(串串香などを含む)が500店近く載せてあるという、火鍋の街である成都市において、それが他の人気火鍋店へも広がり、流行の勢いを示しています。これは動物油よりも植物油の方が健康によいという健康志向があるからです。本来、火鍋は重慶のもので、成都でも重慶○○火鍋店と名乗る店が多数あります。この意味からいえば、火鍋は重慶火鍋が正統で、成都火鍋は亜流ということになりますが、清油(植物油)火鍋の登場で、真の成都火鍋が誕生したといってよいでしょう。

清油火鍋発祥の店である成都「川江号子」火鍋玉林店(芳草西街華姿路1号 電話028-8555-5636)は市南部の玉林地区にあります。店は1・2階とあり、全体で50卓ほどです。店内の内装はシンプルで豪華とはいえませんが、トイレにTOTO製品を用いていることから分かるように、しっかりと作られた店です。私が訪れた日(22日・冬至)、食して帰るときの20時過ぎでも、満席で数組の待ち客がいたことで分かるように、この店は極めて人気が高いです。この意味で、週末や休日は予約を入れておくとよいでしょう。

さて、火鍋自身ですが、基本は赤の激辛スープと白の辛くないスープの鴛鴦鍋です。写真1は、具を入れる前で、鍋が沸騰しはじめたところです。ご覧のように沸点が低い赤スープの方が先に沸騰し出します。これには唐辛子・山椒の実・生姜・クコの実などが入って激辛味を出します。白の方には魚・生姜などが入っています(店により漢方素材各種を入れて薬膳効果を出します)。

s-051222川江号火鍋玉林店 001

スープが沸騰したら、後方に見える具を入れて煮て食べます。まずは、肉・魚類から食して、その後に野菜・キノコ・豆腐類を食するのがおいしい食べ方です。本店のスープは激辛度からいえば、標準的なもので、決して凄まじいものではありません。牛脂ではなく植物油を用いているためか、ギトギト感がなく、むしろあっさりとした感じさえあり、胃腸にも負担をかけないと思います。その意味で、辛さはありますがまろやかともいえます。肉類を辛いスープで食して辛さになれてから、冬瓜や大根を煮て辛さのしみたのを食べれば、より辛さの味を楽しむことが出来ます。具材は各種の肉・臓物(脳みそも)や魚など豊富にありますから、いろいろ試してみるのもよいでしょう。本店は火鍋の店としては高級店ですが、火鍋自体が庶民料理から始まったものですから、それほど高価なものではありません。本店の場合、1人40~50元くらい見ておけばよいでしょう(私の場合特別な具材を頼まなかったし、飲料が少量だったので、5人で170元でした)。なお、冬至の日には中国では羊肉を食する習慣があるので、当然ながら具には羊肉も注文しました。

最後に、写真2は私の席(道路窓側端)から見た1階店内奥の全景です。満席の様子がお分かりでしょう。

Unicode

(2005.12.23)

 

追記 火鍋の素は重慶産・四川産と多数が販売されています。鶏ガラスープなどにこれを加えて煮立たれれば火鍋のスープが出来るものです。本来の火鍋は牛脂を使用するため、この素も牛脂製です。ですが、清油火鍋の流行にともない、植物油製の火鍋の素が出てきました。その一つとして、「純菜油火鍋底料」を紹介します。これは成都市丹丹調味品有限公司(成都市郫県)の製造です。ここで「底料」とは、直訳すれば火鍋の鍋の底の材料で、すなわち火鍋のスープのことを意味します。したがって、この製品の意味は「純菜種油火鍋スープ」となります。本製品は健康をうたっており、純菜種油と天然香料を用い、人口色素を加えていないといっております。価格はカルフールで1袋(1回分260g)5.6元です。なお、これ以外にも重慶市製のもあります。

(2006.01.06)

 

〔追々記〕  「川江子号子火鍋」は、経営母体の経営方針(四川料理店「巴国布衣」とホテル「巴国客桟」集中展開で、「レストラン+ホテル+茶館」三位一体経営モデル化。火鍋は利益率が低い)により、本年冬、成都市内全店(5店)が営業停止になります。(2011.02.28

 

 

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