韮山城跡―歴史雑感〔94〕―

 2025年4月24日(木)午前、韮山城跡(静岡県伊豆の国市韮山438−3)に行ってきました。韮山城は後北条氏初代北条早雲の生涯の居城として知られてます。第5代当主北条氏直の弟の城主北条氏規により対豊臣戦を迎えるため天正7年(1588)から大改修が行なわれ、現在の遺構はこれによっています。本城と新たに構築された南の天ヶ岳砦と和田土手砦等から構成されています。本城は南北約400m・東西約100mの細長い尾根の籠城山上に築かれています。南北に曲輪が並ぶ構造となっています。攻城側の豊臣軍は箱根の山中城は強襲により1日で落城させましたが、韮山城では包囲策を取り周囲に陣城を築きました。

 写真1は、韮山駅から蛭が小島への道の途上で韮山城のある山全景を撮ったものです。手前の低い丘で、右(南)か左(北)へと本丸、二の丸、権現曲輪、三の丸と並んでいます。なお左下の建物は県立韮山高校です。

 写真2は、本丸の先から西に延びる尾根の堀切3です。城池側から撮ったものです。更に西には掘切4があります。

 池側から上って撮ったのが、写真3の二の丸です。ご覧のように曲輪は土塁で囲まれています。

 写真4は、本丸から北へ富士山を望見したところですが、曇で隠れています。なお、本丸・二の丸間には堀切1があります。

 写真5は、本丸から南に続く尾根曲輪を見たものですが、崖崩れの危険があるため立入り禁止となっています。奥の山は天ヶ岳です。ご覧のように韮山城を見下ろす位置にあり、北条氏規により天ヶ丘砦と東側(右)に土手和田砦が構築されました。

 写真6は、現在の本丸の登り口です。西側には細長い腰曲輪が設けられています。

 写真7は、権現神社のある権現曲輪です。池からの道はこの郭南側に出ます。権現曲輪・二の丸間には堀切2があります。

 最後の写真8は、権現曲輪南西の出口ですが、「寛政絵図」には記載がなく近世に出来たものと思われます、ただこれで土塁の高さが分かります。下ると韮山高校内に出ます。

(2025.04.29)

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2025年三ツ池公園の桜

 2025年4月4日(金)午前、三ツ池公園に観桜に行ってきました。そこで、以下にこの桜の写真をお見せします。

(2025.04.08)

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大仏寺石窟―中国雑感〔58〕―

 2025年3月31日(月)午前、西安市から西北に約180km弱の陝西省咸陽市彬州市城関街道大佛寺村の大仏寺石窟に行ってきました。入場料は35元(夏季)・20元(冬期)です。本石窟は北朝時代(439~581年)に始まり、唐代(618~907年)に隆盛となり、宋・金・元各代を経て改塑・補修されました。本石窟はシルクロード北道に位置した最初の石窟寺です。唐太宗李世民が寺を創建し応福寺と名付け、宋仁宗の養母劉太后慶寿で慶寿寺と改め、明景泰年間に大佛寺と称するようになりました。1988年に国家文物重点保護単位に指定され、2014年に世界文化遺産のシルクロードの一つとして入りました。400mの岩面上に130の洞窟、1988の造像が掘られています。特に高20mの阿弥陀大仏は窟内大仏として世界一で、盛唐の石窟像を代表しています。

 写真1は、世界文化遺産であることを示す碑です。奥の中央が大仏窟で「明鏡壹」額名が掲げられていす。

 中央の大仏窟の右側(西)の西閣造像窟です。高1.83m、幅3.65mです。写真2は、奥の1仏2弟子2菩薩の5像です.

 初唐期の掘られた羅漢洞で、主室と東西室に分かれ、主室は奥行き6.5m、平均幅4.19mです。写真3は、主室奥の立仏像です。

 写真4は、おなじく主室東壁の立像群です。

 写真5は、黄明碑です。高3.95m・幅1.12mの、清康熙年間の陝西布政司黄明の大仏寺石窟修繕記念碑です。

 写真6は、大仏窟の阿弥陀仏像です。本窟は東西幅34.5m、南北奥行き18m、高約31mの広さで、大小1001の造像が彫られています。阿弥陀仏像は蓮台上に坐し、高20m・頭高5.2m・手高4.5m・指高2mです。

 写真7は、左の観世音菩薩立像で、高17.6mです。

 写真8は、右の大勢至菩薩立像で、高は同じです。

 写真9は、同じく阿弥陀仏像で

 写真10は、鐘です。明景泰元年(1450)に鎮守甘粛省の宦官劉永誠が鋳造し、重さ1000斤・高1.45m・口径0.9mです。

 大仏窟に左側(東)に千仏洞があります。長11.48m・幅9.45m・高3.21mで、3本の通路があります。696体の造像には色々な仏像・菩薩像があります。写真11は、右の通路奥の造像です。

 最後の写真12は、中央通路奥の造像で、いずれも中央は仏像です。なお石窟の多くの像には首なしのものが多く、おそらく文革の被害を受けたものと思われます。

(20250.04.07)

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西安交通大学日本語学科成立40周年慶祝大会

 2025年3月29日(土)午後、西安交通大学日本語学科成立40周年慶祝大会を科学館で行ないました。本学科は、1985年9月、外語系科技日語専業(科学技術日本語専攻)の本科(4年制)として、既設の日本語専攻が文系であり科学技術に対する知識がどうしても弱くて、第1線の必要に応えられていなかったので、理系に強い日本語人材養成として中国で初めて創設されました。このため大学統一試験では理系受験、理系基礎科目単位取得を必須としています。1989年7月、1期生14名を卒業させました。本専攻の成功を見て90年代には有名理工系大学には同様な専攻が設けられることになりました。西安交通大学のそれはその嚆矢なのです。現在は学部のみならず博士・修士課程を設け既に博士も誕生しています。

 本大会には百名半ばの卒業生が結集しました。14時前に開会し18時半に終えました。以下大会の様子を順次お見せします。

 科学館前に掲示された「日語専業成立40周年慶祝大会」の前で大会前に多くの卒業生が記念撮影をしていました。写真1は、この中で30周年に続いて同窓会を行なう2001期生が卒業20周年の横断幕を持っているものです。

 写真2は、開会後一旦科学館前に出て記念写真を撮ったものです。

 写真3は、記念写真撮影後にまず祝辞を述べる日語系主任の曹紅荃教授です。

 写真4は、日語専業創始者の顧明耀教授の祝辞です。

 写真5は、同じく顧明耀教授です。

 写真6は、日本人教師として最初に赴任した私です。

 写真7は、同じく河路由佳杏林大学特任教授の祝辞です。

 写真8は、卒業生代表の1期生(85級)黃娟娟さんの祝辞です。

 写真9は、在校生代表の24級(1年生)の沈仲義さんの祝辞です。15時40分過ぎで、ここで休憩が入り、喉を潤します。

 休憩後の16時20分過ぎからは各界で活躍する卒業生の談話です。写真10は、金融関係者です。

 写真11は、企業関係者です。

 写真12は、最後の創業関係者です。以上で大会は終り、予定を過ぎ18時30分でした。

 次いで場所を南洋大酒店に移し、晩宴は19時過ぎに始まり21時前に終えました。最後の写真13は、顧教授と1期生6人です。

 なお、30周年は、

https://blog.goo.ne.jp/kanazawa4512/e/4f4dc9f563501b18506184d1d236d2db

です。

(2025.04.05)

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橘樹郡衙遺跡と影向寺―歴史雑感〔94〕―

 2025年3月22日(土)午後、武蔵野文化協会主催の「国史跡橘樹郡衙遺跡と影向寺を巡る」に参加しました。JR南部線武蔵新城駅に集合し、まずバスで影向寺に向かいます。

 写真1は、影向寺薬師堂(川崎市宮前区川本町3-4-4)です。本寺は古刹として知られ、本寺及び周辺の発掘調査で古代寺院遺構(奈良時代)等が確認されました。古代寺院遺構・関連遺構を影向寺遺跡と呼称しています。

 写真2は、古代寺院の三重塔心礎とされ本寺の霊石として信仰されてきた影向石です。中央の穴に仏舎利が収められていたとされています。

 写真3は、本寺本尊の木造薬師如来坐像及両脇侍立像(重要文化財)です。一木造の彫眼で11世紀後半制作です。以前は薬師堂内にありましたが、保護のため別堂に収められいます。他に木造十二神将立像十二体(南北朝時代)が眷属として侍立しています。

 写真4は、木造薬師如来坐像です。

 次いで、東に千年伊勢山台遺跡・橘樹郡衙遺跡ヘと移動しました。ここは西から東へと橘樹郡家舘・橘樹郡郡庁・橘樹郡正倉院のおよそ3か所からなり、正倉院遺跡が橘樹歴史公園となっています。写真5は、復元された郡衙正倉です。

 写真6は、同じく位置を変えて撮った正倉です。

 写真7は、正倉内部から見た天井です。

 次いで、中原街道を南に越えます。写真8は、子母口富士見台古墳です。直径約17.5m、高約3.7mで、当初はより大きかった円墳と想像されます。方形と思われる段が上に被さっています。

 写真9は、子母口貝塚です。8100年前の地層から貝類・子母口式土器が出土しており、更に下の地層からも撚糸文系土器が出土しています。

 最後の写真10は、橘樹神社社殿です。橘樹郡総社であり、日本武尊妃弟橘媛伝承の由来がある古社です。

(2025.03.26)

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2025年小田原城の梅

 2025年2月27日(木)午後、下田からの帰り、今年は梅の開花が遅れていましたが、小田原城の梅情報を知り観梅に行きました。これをご覧に入れます。

 写真1は、二の丸歴史見聞館前の梅です。

 写真2は、白梅の拡大したものです。

 写真3は、紅梅の拡大したものです。

 写真4は、二の丸東堀下の梅で、後方が銅門です。

 写真5は、白梅です。

 写真6は、常盤木門を背景とした白梅です。

 写真7は、常盤木門を背景とした紅梅です。

 写真8は、常盤木門を背景とした白梅です。

 写真9は、ぼかした常盤木門を背景として白梅です。

 写真10は、拡大した白梅です。

 最後の写真11は、拡大した紅梅です。

(2025.03.04)

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下田城―歴史雑感〔93〕―

 025年2月27日(木)午前、後北条氏の下田城遺址を訪れました。後北条氏が対豊臣戦を覚悟して、水軍の拠点である下田港防衛のために、天正16(1588)年に下田城は新規といえるほどの大改修がなされたと推測されます。本城は、最高地点に位置する伝天守台(標高68.7m)を各曲輪の結節点として、北に延びる曲輪と東の二の曲輪の尾根状曲輪の南側下に障子堀である横堀(空堀)を構え、南に対する主防御線として、また海際に物見台を構え港への船の出入りを見張らせ、この防御線北側の下に現在の開国広場に広い曲輪(居住地)を抱えた構造となっています。

 写真1は、稻生沢川にかかるみなと橋からの下田城遠景です。

 写真2は、左が下田城石碑、右が下田公園碑です。

 写真3は、伝天守台から北に延びる曲輪北端の物見台からの俯瞰です。左に稻生沢川、右に下田港で、奥に寝姿山です。

 写真4は、奥に物見台跡です。

 写真5は、伝天守台近くからの下に空堀跡です。

 写真6は、伝天守台跡で、奥(北)は下田湾です。但し、実際に天守があったわけではなく、各曲輪の結節点としての指揮所があったところとされています。

 写真7は、伝天守台への登り道です。

 写真8は、伝天守台の東に延びる二の曲輪からさらに南に行ったところのお茶ヶ崎展望台(物見台跡)からの下田湾です。港に出入りする船は一望です。

 写真9は、展望台から奥に大浦です。

 写真10は、左に二の曲輪、右に天守台間の切通しです。ただ、道路を通すためかなり拡張されています。

 写真11は、二の曲輪下の空堀です。

 写真12は、伝天守台下の空堀です。

 写真13は、切通しと空堀です。伝天守台の比高が約10mであることが分かります。

 写真14は、伝天守台下の空堀を西から見たもので、堀が障子堀であった跡が堀を横断した高みで確認できます。

 写真15は、萩の丘(志太ヶ浦展望台の先)です。

 写真16は、萩の丘からの大浦です。

 写真17は、馬場ヶ崎展望台(物見台跡)です。

 最後の写真18は、馬場ヶ崎展望台からの下田港です。

(2025.03.03)

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芝離宮―歴史雑感〔92〕―

 2025年2月15日(土)、武蔵野文化協会・国宝史蹟研究会共催の「旧芝離宮恩賜公園を散策」に参加しました。本地は海であったのが明暦年間(1655~58)に埋め立てられ、延宝6年(1678)に老中大久保忠朝の邸地となり、上屋敷建築に際して、領地小田原から庭師を招き作庭し、「楽寿園」と名付けました。その後拡張され総面積48.600㎡となりました。数代を経て、幕末には紀州徳川家の別邸芝屋敷となりました。明治維新後、1875(明治8)年に芝離宮となり、1923(大正12)年の関東大震災で全ての建物等が焼失しました。翌年に皇太子(昭和天皇)成婚記念として東京都に下賜され、公園として整備され現在に至っています。

 写真1は、入口から入ったところで、南へとほぼ全景を撮ったものです。

 写真2は、奥左に滝石組、さらに奥右に八ッ橋、中島、西湖の堤です。

 写真3は、大泉水(池)の浮島、奥に大山です。

 写真4は、手前右に立つ雪見灯籠、奥に右から大山、西湖の堤、中島です。

 写真5は、雪見灯籠です。

 写真6は、洲浜です。

 写真7は、手前左に雪見灯籠、奥中央に中島です。

 写真8は、奥中央が西湖の堤です。中国杭州市の世界遺産西湖にある白堤をを模しています。

 写真9は、大山からの大泉水です。中央が中島です。

 写真10は、奥に池へと枯滝です。左右に石を詰み渓谷を作り、石を滝に模しています。

 写真11は、小山からの西湖の堤と中島です。

 写真12は、中島から浮島です。ご覧のように島や池には鳥が集っています。

 写真13は、石柱です。後北条氏家臣旧邸の門柱を運んだものとされますが、用途は不確かです。

 写真14は、石橋の左は大島です。奥は左から、大山、西湖の堤、中島です。

 写真15は、九尺台です。この奥(西)は往時は海であり、海の展望台であったといえる。

 写真16は、八ッ橋で奥は中島です。

 写真17は、瀧石組です。奥の石橋のところの水路は海に通じており、往時の大泉水は潮入池でした。

 最後の写真18は、奥に左から八ッ橋、中島、西湖の堤です。

(2025.02.22)

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多賀大社

 岐阜城に続いて、2025年元旦午後は滋賀県の多賀神社(犬上郡多賀町多賀604)で初詣でした。写真1は、鳥居です。

 写真2は、神門です

 写真3は、参拝する初詣客から見た拝殿です。

 写真4は、拝殿です。

 最後の写真5は、神門前の池にかかる太閤橋です。

(2025.01.10)

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岐阜城(金華山)―歴史雑感〔92〕―

 ミステリー初詣ツァーで正月を過ごしました。ここでは初めて行ったところを紹介します。まず、2025年正月元旦(水)午前の岐阜城(金華山)です。写真1は、太鼓櫓跡に位置する展望台からの西方面の広がりです。左下の高層ビルは岐阜市庁舎です。左右に流れるのは長良川です。右上の雪を被るのは伊吹山です。

 写真2は、大手口から登ってきた伝一ノ門跡です。

 写真3は、切通しです。上の橋(松風橋)の道が本来の道です。尾根伝いの道となっています。

 写真4は、伝二ノ門跡のところの石垣です。織田信長時代に積んだものとされています。

 写真5は、1956年にコンクリート造りで再建された岐阜城天守です。

 天守が見えるところで左に下る道があります。下ったところが、写真6の、井戸跡です。但し、水が湧き出るでは無く、雨水を貯めるものです。

 写真7は、近くからの天守です。

 写真8は、天守から東側を見たものです。長良川が手前に流れています。

 写真9は、天守から西側を見たものです。

 最後の写真10は、天守への道の石垣です。信長時代のものとされています。

(2025.01.08)

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2024年度記事目次

 甲辰年を終わるに当たって、2024年度(1~12月)記事目次を掲載します。では、乙巳年がよいお年で。

01.21 (1)豊川稲荷

01.22 (2)竹生島・近江神宮

01.24 (3)彦根城

01.26 (4)熱田神宮・竹島

02.28 岸根公園の梅

03.22 伊豆(1)沼津御用邸・小室山

03.24 伊豆(2)城ヶ崎・だるま山・修善寺

04.07 綱島の池谷桃園の桜花

04.10 江川せせらぎ緑道の桜

05.22 西東京市下野谷遺跡―歴史雑感〔90〕―

10.09 西安交通大学日語系1期生・卒業35周年同窓会(1)

10.10 西安交通大学日語系1期生・卒業35周年同窓会(2)

10.11 西安交通大学日語系1期生・卒業35周年同窓会(3)

10.31 中山恒三郎家(松林甫)―歴史雑感〔91〕-

11.10 2024年弘前城の紅葉

11.11 2024年平泉の紅葉

11.16 2025年中国の祝日―中国雑感〔57〕―

12.31 2024年度記事目次

(2024.12.31)

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2025年中国の祝日―中国雑感〔57〕―

 明年の祝日(休日)に関して、2024年11月12日(火)、国務院の通知「国務院弁公庁関于2024年部分節假日安排的通知」が国務院公式サイトにアップされ公表されました。昨年と異なるのは法定休日が春節及び労働節で1日増加されたことです。

一 元旦(1月1日)

1月1日(水)の1日を休日。

二 春節(旧暦元旦 1月29日) 法定休日(旧暦大晦日~正月3日)

1月28日(火)~2月4日(火)の8日間を休日。

1月26日(日)〔2月2日・月〕・2月8日(土)〔4日・火〕振替出勤日。

三 清明節(4月4日)

4月4日(金)~6日(日)の3日間を休日。

四 労働節(5月1日) 法定休日(5月1・2日)

5月1日(木)~5月5日(月)の5日間を休日。

4月27日(日)〔5日・月〕振替出勤日。

五 端午節(旧暦5月5日 5月31日)

5月31日(土)~6月1日(月)の3日間を休日。

六 国慶節(10月1日) 法定休日(10月1日~3日) 中秋節(旧暦8月15日 10月6日)

10月1日(水)~8日(水)の7日間を休日。

9月29日(日)〔7日・火〕、11日(土)〔8日・水〕振替出勤日。

国務院発表原文は、

国务院办公厅关于2025年

部分节假日安排的通知

国办发明电〔2024〕12号

各省、自治区、直辖市人民政府,国务院各部委、各直属机构:

经党中央、国务院批准,根据2024年11月修订的《全国年节及纪念日放假办法》,自2025年1月1日起,全体公民放假的假日增加2天,其中春节、劳动节各增加1天。据此对放假调休原则作进一步优化完善,除个别特殊情形外,春节自农历除夕起放假调休8天,国庆节自10月1日起放假调休7天,劳动节放假调休5天,元旦、清明节、端午节、中秋节分别放假调休或连休3天(如逢周三则只在当日放假),国庆节放假如逢中秋节则合并放假8天。

按照上述原则,现将2025年元旦、春节、清明节、劳动节、端午节、中秋节和国庆节放假调休日期的具体安排通知如下。

一、元旦:1月1日(周三)放假1天,不调休。

二、春节:1月28日(农历除夕、周二)至2月4日(农历正月初七、周二)放假调休,共8天。1月26日(周日)、2月8日(周六)上班。

三、清明节:4月4日(周五)至6日(周日)放假,共3天。

四、劳动节:5月1日(周四)至5日(周一)放假调休,共5天。4月27日(周日)上班。

五、端午节:5月31日(周六)至6月2日(周一)放假,共3天。

六、国庆节、中秋节:10月1日(周三)至8日(周三)放假调休,共8天。9月28日(周日)、10月11日(周六)上班。

节假日期间,各地区、各部门要妥善安排好值班和安全、保卫、疫情防控等工作,遇有重大突发事件,要按规定及时报告并妥善处置,确保人民群众祥和平安度过节日假期。

国务院办公厅 

2024年11月12日 

です。

(2024.11.16)

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2024年平泉の紅葉

 2024年11月7日(木)午前、平泉の紅葉を鑑賞に行きました。やはり盛りに少し早かったようです。観自在院遺址、毛越寺、中尊寺の3か所です。

 まず観自在院遺址です。写真1は、東から西へと池を撮ったものです。

 写真2は、西南から奥へと池を撮ったものです。

 写真3は、更に西へと進み大きく紅葉を撮ったものです。これで観自在王院は終わりです。

 次いで隣の毛越寺です、写真4は、南大門跡先から大泉が池越しに左に経楼跡、右に鐘楼跡です。

 写真5は、西から東に池越しに右側に出島と遠くに洲浜です

 写真6は、同じく中島です。

 写真7は、嘉祥寺跡です。

 写真8は、講堂跡です。

 写真9は、大金堂円隆寺跡です。

 写真10は、遣水です。

 写真11は、紅葉越しの洲浜です。

 写真12は、池中立石と奥に出島です。これで毛越寺は終わりで、中尊寺に移動します。

 写真13は、弁慶堂です。

 写真14は、参道です。

 写真15は、金色堂への道です。

 写真16は、金色堂です。残念なことに中央の木はまで紅葉していません。

 最後の写真17は、阿弥陀堂です。

(2024.11.11)

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2024年弘前城の紅葉

 2024年11月6日(水)午前、弘前城の紅葉を鑑賞に行きました。少し盛りには早かったようです。この写真をお見せします。

 写真1は、追手門から北に二の丸に向かう道で追手門を奥に撮ったものです。

 写真2は、二の丸手前の杉の大橋上から二の丸堀を撮ったものです。

 写真3は、二の丸の南内門を背景に撮ったものです。

 写真4は、南西からの天守です。

 写真5は、北東からの天守です。

 写真6は、西に岩木山です。

 写真7は、下に蓮池です。

 写真8は、本丸のです。

 写真9は、鷹岡橋です。

 写真10は、三の丸です。

 写真11は、辰巳櫓を背景に中濠です。

 最後の写真12は、東内門の石橋からです。

(2024.11.10)

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西安交通大学日語系1期生・卒業35周年同窓会(3)

 7日(月)、ホテルを10時に出て卒業生5名(山梨県の勤務先に帰るのと訪問者、前日に知人宅への、以上3名は不参加)と共に浜離宮恩賜公園に向かいます。

 本公園のある地は寛永年間(1624~1644)まで将軍家の鷹狩場で、一面の芦原でした。承応3(1654)年、4代将軍家綱の弟甲府宰相綱重は将軍から海を埋め立てて別邸(甲府浜屋敷)を建てる許しを得ました。その後、綱重の子供の綱豊(家宣) が6代将軍になったのを契機に将軍家の別邸となり、浜御殿と改められました。以来、歴代将軍によって幾度かの造園・改修工事が行なわれ、11代将軍家斉の時にほぼ現在の姿の庭園が完成しました。明治維新後に皇室の離宮となり、名前も浜離宮となりました。戦災等で建物・木々等が焼失して往時の面影はなくなりました。1945年11月3日、東京都に下賜されて、翌年4月、都立の有料公園となり、1952年11月、国の特別名勝及び特別史跡に指定され、現在に至っています。

 写真1は、浜離宮恩賜公園の北入口、大手門前で撮ったものです。10時40分過ぎです。

写 真2は、富士見山上からレインボーブリッジを背景に。

 写真3は、潮入の池越しに中島の御茶屋を背景に撮ったものです。茶屋の手前がお手伝い橋です。

 写真4は、お手伝い橋上でのものです。

 写真5は、茶屋横の中島橋上です。奥は松の御茶屋です。このように浜離宮には潮入の池の北側に茶屋が点々と建てられています。将軍は中島とここで茶等を楽しんだのです。12時前に公園を出て、新橋でラーメンの昼食としました。午後は自由行動とし、各自散っていきました。

 夕食は18時30分からホテル近くのNSビル内の「自然物語ごだりご」で京風おでんや焼き鳥等を食しました。最後の写真6は、ここでの乾杯です。

 8日(水)、10時までにチェックアウト済ませ、各自散っていき、同窓会を終えました。

(3034.20.11)

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西安交通大学日語系1期生・卒業35周年同窓会(2)

 6日(日)、顧先生は先に出発し、卒業生8名と私は10時発の送迎車で伊豆急下田駅に向かいました。次いで、10時30分発の下田ロープウェイに乗り山頂駅から散策開始です。写真1は、寝姿展望台からの下田湾です。下の船は下田湾遊覧の黒船「サスケハナ」です。

 写真2は、黒船展望台での記念撮影です。

 写真3は、下りは市街地側を通り、展望台でのものです。その後、山頂駅の喫茶室で過ごし、11時45分発で下りました。

 道の駅開港下田みなとの「地魚回転寿司魚どんや」で昼食としました。写真4は、食事後に皿を積み重ねて撮ったものです。

 写真5は、13時20分発の黒船「サスケハナ」に乗船前に皆さんを撮ったものです。

 写真6は、湾内を飛ぶ鷗です。

 写真7は、犬走島です。右に湾内灯台が見えます。奥の白い船は海上保安庁のものです。

 写真8は、船内でスマホで記念撮影をする卒業生です。立ち替わり撮りました。

 駅に戻り、14時34分発の踊り子60号で出発し、17時12分に品川駅で下車し、山手線経由で新宿に戻り、京王プレッソイン新宿に18時頃にチェックインしました。夕食は、西新宿の焼肉清香苑別館で行いました。写真9は、最初の19時前の乾杯です。

 最後の写真10は、20時頃の乾杯です。その後お開きとしてホテルに戻りましたが、卒業生によってはカラオケに繰り出しました。

(2024.10.10)

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西安交通大学日語系1期生・卒業35周年同窓会(1)

 2024年10月4日(金)~8日(火)の5日間、日本で西安交通大学日語系1期生の卒業35周年同窓会を行ないました。1期生は1985年に入学し89年に卒業した14名(女子9名・男子5名)から8名(中国から6名、日本から2名)、それに日語系創立の胡明耀先生と娘さん、それに私の11名が参集しました。

 4日(金)は夜までに西新宿の京王プレッソイン新宿にチェックインし、卒業生6名が集合しました。

 5日(土)は10時にホテルを出、東京駅に向かいました。写真1は、出発の際のホテル前のです。

 当駅構内で各自が「駅弁屋祭」で駅弁を購入し、ホームで乗車する11時30分発踊り子61号前で撮ったのが、写真2です。卒業生8人が揃いました。

 写真3は、皆さんの買われた駅弁の一部です。

 伊豆急下田駅に14時17分に着き、顧先生と合流して、14時30分発のホテル送迎車で本日の宿舎の下田大和館に着きました。写真4は、送迎ホテル前でのものです。同窓会参加者10名です。

 写真5は、ホテルから直接出られる南に広がる多々戸浜海岸に下り、流木に腰掛けて撮ったものです。ここはサーフィンの場で写真のようにサーファーが楽しんでいます。

 写真6は、波に浸かっている卒業生達です。中国では海に親しむ機会は少ないので、白い砂浜が綺麗な海岸として知られている多々戸浜を見下ろせるホテルを選んで宿泊地としたのです。それに温泉露天風呂付和室を選び、温泉も愉しみました。

 写真7は、19時30分からの夕食の磯会席で、写真には鮑と伊勢エビがあります。料理は基本的に海産物で、伊豆半島産の金目鯛に煮付けが最後です。

 最後の写真8は、もう一のテーブルのです。席の関係で6人のテーブルと5人のテーブルに分かれました。食事後、部屋に戻り更にアルコールを飲みましたし、朝の露天風呂も楽しみました。

(2024.10.09)

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西東京市下野谷遺跡―歴史雑感〔90〕―

 2024年5月19日(日)午後、武蔵野文化協会主催の「国史跡西東京市下野谷遺跡を探る」で同遺跡を見学しました。本遺跡は、東京都西東京市東伏見2丁目・3丁目・6丁目内に広がる、縄文時代中期(約4~5千年前)の南関東最大級の環状集落の遺跡です。北に石神井川が約7m下に流れる標高51~59mの台地上に位置します。石神井川北側は本来湿地であり葦が茂り、縄文時代には涌水も豊富で水量も多く沼地もあった可能性があります。本遺跡は小谷を挟み東集落(東西約300m×南北約180m)と西集落(直径約150m)に分かれ、集落内には土坑(墓)群のある広場を中心に竪穴式住居・掘立柱建物が囲むように並んでいます。発掘調査により住居跡は400軒以上、建物跡は20基以上、土坑は千基以上管区にされ、これらは約千年に渡っていたといえます。

 写真1は、西武線東伏見駅南口広場に設置してある「縄文モニュメント」です。舌のハンドルを20回回転させると本遺跡の音声説明がされます。

 写真2は、本遺跡の西側環状集落跡に整備設置された下野谷遺跡公園(東京都西東京市東伏見6丁目4)の入口(南側)の立つ「国史跡下野谷遺跡」石碑です。奥に見える建物は復元された竪穴式住居です。

 写真3は、土坑群跡に土を盛り示したものです。

 写真4は、正面から見た復元した竪穴式住居(1号住居)で、縄文時代中期中葉のもので、直径5.5mの円形深さ1m弱の穴で5本柱からなり、屋根は茅葺ではなく珍しい樹皮の上に土をかけて固めている土葺です。当然ながら見るように草が生えています。

 写真5は、同じ住居を西側斜めから見たものです、

 写真6は、住居の中に入り、円形の壁に沿ってテラス状になった部分です。ここに敷物を置き寝所ともしたのでしょう。

 写真7は、屋根とこれを支える横木の骨組みです。下が入口で、上が三角の開口部でここから煙が出ます。木々はふじツル等で締められています。

 写真8は、上から屋根、細木の骨組み、横木、柱です。柱はご覧農に横木を挟むため先端が自然に二股になったものを用いています。

 写真9は、埋甕炉(土器で埋めて炉にしたもの)です。

 写真10は、1号住宅の奥にある復元した竪穴式住居(2号住居)で、縄文時代中期後葉のもので、6本柱からなります。

 写真11は、同じ住居を右斜めから見たものです。

 写真12は、天井と下にこれを支える横木と柱です。

 写真13は、柱で自然木を用いていますから、ご覧のように曲がっています。

 写真14は、地焼炉(地を単に掘ったもの)です。

 写真15は、住居廃絶状態の復元土器溜り(縄文時代中期中葉)です。

 写真16は、拡大したものです。

 公園での遺跡見学後、西東京市郷土資料室(西東京市西原4-5-6)に移動し、遺跡の埋蔵品を見学しました。写真17は、土器展示で、一番右のはご覧のように歪みがあり、「下手くそな」土器と称せられています。この左のは、口縁部は曽利式土器の特徴、胴部の文様は連弧文系土器の特徴と、異なる複数の特徴が混ざる土器、即ち折衷土器です。

 最後の写真18は、石器です。

(2024.05.22)

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江川せせらぎ緑道の桜

 2024年4月7日(日)午前、江川せせらぎ緑道(横浜市都筑区東方町)の桜を見に行きました。本年は桜の開花が遅れ、横浜も本日が満開宣言でした。緑道の桜も満開となっており、日曜日と重なり多くの人出で賑わっていました。新横浜石川線の新開橋から西へと首都高速神奈川7号横浜北西線まで歩きました。

 写真1は、新解橋から少し入ったところからです。

 写真2は、緑道に下りたところからです。

 写真3は、手前に桜を入れ、奥をぼかしたものです。

 写真4は、拡大した桜花です。

 写真5は、更に進んで奥に川向堺橋が見えます。

 写真6は、川向堺橋上からです。奥の赤いのはチューリップです

 写真7は、橋上からの桜花の拡大です。

 写真8は、縦位置の桜です。のびのと咲いています。

 写真9は、拡大した桜花です。

 写真10は、更に進み緑道が緩く曲がるところ、チューリップと桜が同時に咲いています。桜の開花が遅れたので、ちょうど両方が盛りとなりました。

 写真11は、チューリップは赤、白、そして奥に黄色が見えています。

 写真12は、前耕地橋手前で赤いチューリップに桜花を重ねました。

 写真13は、同じなのを縦位置にしてみました。

 写真14は、縦位置で上に桜、下にチューリップです。

 写真15は、首都高手前で振り返って見たものです。

 写真16は、戻り前耕地橋のところです。

 写真17は、チューリップと桜花を拡大したものです。

 最後の写真18は、チューリップを中心に拡大したものです。

(2024.04.10)

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綱島の池谷桃園の桃花

 2024年4月6日(土)午前、新綱島駅から少し東に入ったところにある池谷桃園(横浜市港北区東綱島1-8-29)の桃が開花しているので、撮りにいってきました。戦前には綱島は岡山と並ぶ2大産地でした。現在では旧名主家の池谷家の本桃園のみが生産しており、「日月桃」という綱島原種で当園のみで生産されている貴重な桃が実をつけます。

 写真1は、池谷桃園を南から東側へと撮ったものです。本園は池谷家の東からの通を挟んで南側と北側に分かれます。

 写真2は、東から撮ったものです。手前の桃は「日月桃」で、6月初めに直売されます。他に早生日川白鳳、白鳳、蟠桃を直売します。奥は新綱島駅に隣接した綱島初のタワマンです。

写真3は、日月桃を捉えたものです。

 写真4は、東からの道に南接した桜です。

 写真5は、北側の本園を東から北へと撮ったものです。

 写真6は、やはり日月桃です。

 写真7は、日月桃を近くにと捉えたものです。

 写真8は、南側に戻りタワマンを背景に撮ったものです。

 写真9は、東から西へと全体を撮ったものです。

 最後の写真10は、近くへと捉えたものです。

(2024.04.05)

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