「奥州合戦」における鎌倉幕府軍の構成(その3)―歴史雑感〔9〕―

(その1)一、東山道軍の交名一覧

(その2)二、交名の国別構成

(その3)三、交名の門葉構成

(その4)四、交名の武士御家人構成

三、交名の門葉構成

 交名は源家御一族(門葉)、武家御家人の順で配列構成され、文士御家人は両者に個別に配列されています。そこで、配列順に従い、門葉の配列構成を分析します。

 門葉は18名で、34・35の南部光行・平賀朝信を除き、1の平賀義信から20の加々美長綱まで、交名先頭部に集中して配列されています。この配列は北条氏3名を夾んで、前半部の五位級(諸大夫)10名と後半部の六位・無位級(侍)の6名とに分かれます。

 さて、この五位級門葉の顔ぶれを見ると、最初の関東御分国である武蔵守平賀義信・駿河守源広綱(『吾妻鏡』元暦元年六月二十日条)、次いで文治受領の信濃守加々美遠光・相模守大内惟義・上総介足利義兼・伊豆守山名義範・越後守安田義資(『吾妻鏡』文治元年八月二十九日条)、そして豊後守毛呂季光(『吾妻鏡』文治二年二年二月二日条。なお、季光は公家の太宰権帥藤原季仲子孫ですが、『吾妻鏡』建久元年十一月七日条に見るように、奥州合戦勝利後の源頼朝建久第一次上洛の入洛行列交名において、前後を清和源氏の武士とともに後陣随兵の一員として列しており、武士扱いといえます)と、関東御分国9か国(『吾妻鏡』文治二年三月十三日条)の内、8か国の名国司が配列されています。ここで交名に見えない下総守源邦業(『吾妻鏡』建久元年十一月七日条等)は醍醐源氏であり、後に頼朝の政所別当に就任しているように(『吾妻鏡』建久三年六月二十日条)、武士ではなく文士です。従って、関東御分国の武士名国司8人全員が交名に配列されているのです。これに1183(寿永2)年の源軍第一次上洛で頼朝とは無関係に自身の力量で任官した国務国司の、2の遠江守安田義定(浅香年木氏『治承・寿永の内乱論序説』1981年法政大学出版局参照)と、頼朝の推挙を受けていますが、やはり国務国司である3の源範頼(拙稿「蒲殿源範頼参河守補任と関東御分国」『政治経済史学』第370号1997年4・5・6月参照)とを含めて、頼朝の影響下にある東国国司の門葉が全員参加しています。このことは奥州侵攻幕府軍が東国武士の総力を挙げたものであることを表しています。頼朝直卒の鎌倉進発の中軍に東国の五位級門葉を勢揃いさせたことは、東国武士の頂点に立つのが頼朝であることを見せつけているのです。すなわち、武家棟梁は頼朝であることをです。同時に交名先頭に五位門葉が配列されたことは、彼等が頼朝の補翼であるとともに、彼に替わりえて武家棟梁有資格者であることを示しています。

 同時に配列順は当該期における頼朝から見た門葉の序列を表示しているといえます。当然ながら、これには各人の実力も反映されます。すなわち、序列第1位は信濃源氏の平賀義信であり、この序列は文治・建久期の『吾妻鏡』交名においては不動です(文治元年十月二十四日・建久三年十一月二十五日条等)。第2位は甲斐源氏の安田義定です。第3位は頼朝異母弟の範頼です。第4位は甲斐源氏の加々美遠光です。以上、身内である範頼よりも、治承寿永の内乱初頭で独自に蜂起した信濃・甲斐源氏の代表者を上位することで、頼朝の出自である清和源氏頼義流が総力を挙げて奥州侵攻に参加していることを表しています(義信・義定とも頼義3男の義光子孫)。特に甲斐源氏においては、1・9の安田義定父子、4・19の加々美遠光父子、そして武田系では、内乱時の嫡系である信義・忠頼父子の死去により実力は落ちていますが、17の有義(平家時代に信義父子で唯一兵衛尉の任官歴をもち、信義嫡男と考えられていました〔五味文彦氏、「平氏軍制の諸段階」『史学雑誌』第88編8号1979年8月参照〕)と18の信光との兄弟が順に配列されて、ここに甲斐源氏の三大潮流が勢揃いしています。いわば甲斐源氏の総力を挙げているといえます。以上を逆にいうと、信濃・甲斐源氏が反頼朝で奥州藤原氏に呼応するとしたら、東西から頼朝は挟撃されて、奥州侵攻はできないということです。

 第7位の足利義兼、第8位の山名義範と、関東(下野・上野)の義国流は甲斐源氏の下位となっており、甲斐源氏に比較してその地位・実力が低いことを反映しています。また、地位的には平賀義信が第1位で上位ですが、第2位の安田義定が実力で切り取った遠江国を国務国司として1183年以来掌握しており、三大潮流が勢揃いしている甲斐源氏総体では明らかに信濃源氏平賀氏に実力的に上位しています。逆にいうと、平賀氏の序列が上位ということは頼朝が平賀氏を信頼してこれに依拠して高く買っていることを表しています。以上、実力からいうと東国源氏では甲斐源氏、信濃源氏平賀氏、義国流の順ということになり、序列からいうと信濃源氏、甲斐源氏、義国流の順ということになります。

 なお、11~13の北条時政父子が門葉諸大夫の次ぎに配列されていることは、この配列に作為がないとしたら、北条氏は門葉扱い(准門葉)となっていましょう。

(続く)

(2014.02.25)

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小田原城―歴史雑感〔12〕―

 箱根への帰り、2014年1月29日午前、小田原城を巡りました。そこで本城を紹介します。室町時代後期、15世紀末に大森氏により築城されたと伝えられ、戦国の後北条氏の関東支配の拠点として、延長約9kmに及ぶ総構を持つ規模の城に発展しました。1590(天正18)年、後北条氏が滅亡して、徳川家康が入部すると、家臣の大久保氏が城主として、現在の地に改修された近世城郭を築き、忠隣改易後、破却されますが、1632(寛永9)年の稲葉氏の入部後、再改修がなされて城は一新します。その後、大久保氏が再度入部し、元禄地震により壊滅的被害を受けて再建し、明治維新に至ります。が、1870(明治3)年に廃城となり、天守閣を始め解体されてしまい、また関東大震災(1923年)で石垣などに甚大な被害を受けました。戦後、城の復興事業が市により行われて、1960(昭和35)年、天守閣が鉄筋コンクリート造りで復興され、以後復興事業が継続されて現在に至っています。

 天守閣への順路に従って、紹介します。写真1は、小田原駅東口からの順路に従って小田原城に至ると、最初に見える二の丸東堀です。堀にかかる赤い橋は学橋ですが、この橋は本来の城にかけられたものではありません。後方に隅櫓と二の丸への正門である馬出門が見えています。なお、堀外側の街路樹は桜並木となっています。

 写真2は、2009年(平成21)年復元の馬出門と馬出門土橋(めがね橋)です。この門を入ると白壁に囲まれた枡形となり、左に内冠木門をくぐると、馬屋郭となります。

 写真3は、馬屋曲輪から見た、1997年(平成9)年復元の銅門(内仕切門・枡形・渡櫓門)と住吉橋です。後方に常盤木門と天守閣が見えています

 写真4は、銅門渡櫓門正面と枡形です。左手が内仕切門です。

 写真5は、常盤木橋です。これを上ると、1971(昭和46)年復原の常盤木門です。橋の下の東堀の花菖蒲園にはご覧のように梅が植えられてあります。また、斜面には紫陽花が植えられています。

 写真6は、常盤木門の渡櫓正面です。多聞櫓とで枡形を構成しています。

 写真7は、本丸広場から見た天守閣全景です。天守閣は三層四階で、建物全高27.20m・石垣全高11.50m、延床面積1822㎡です。天守閣入場料は400円(9時~17時)です。

 最後の写真8は、後北条氏時代の主部である八幡山古郭(現小田原城の西方丘陵)の東郭跡から見た天守閣です。ここから写真でも分かるように、天守閣越しに相模湾が見えます。東郭跡は発掘調査後、公園化して保存されています。

 なお、フォトアルバム「小田原城」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngpkdgV5r8V9gf-XnEQです。

(2014.01.30)

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師岡熊野神社初詣

 ご近所の師岡熊野神社(横浜市港北区師岡町)に午前初詣に行ってきました。長らく中国にいたので、20数年ぶりの初詣です。本社は聖武天皇の724(神亀元)年創建と伝えられています。写真1は、鳥居前で行列を作り参拝を待つ人々です。普段は参拝者もほとんどいない地元の神社(明治の社格は最初県社で、後地元の要望で33か村郷社)ですが、境内へは写真のように急な階段でもあり、人数を区切って参拝をさせるため、係員が出て整理のため行列を作ります。

 写真2は、本殿に参拝のため行列する人々です。写真のように、本殿前両脇にはおみくじ・お守りなどの販売所のテントが張られています。

(2014.01.01)

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2013年度記事目次

 癸巳年を終わるに当たって、2013年度(1~12月)記事目次を掲載します。なお、前回までは「『歴史と中国』http://https://kanazawa45.wordpress.com/記事目次(上)」(2011年10月21日付)、「『歴史と中国』https://kanazawa45.wordpress.com/記事目次(下)」(2011年10月21日付)、「『歴史と中国』2010年度記事目次」(2011年10月22日付)、「2011年度記事目次」(2011年12月31日付)、「2012年度記事目次」(2012年12月31日付)です。

では、甲午年がよいお年で。

01.15 成都市二環路2階建て道路工事―成都雑感〔139〕―

01.18 春熙路の春節飾―成都雑感〔140〕―

01.21 冬休み帰国

02.02 雲見海岸の冬富士

02.22 成都に戻る

03.03 金牛区繁盛拉麺館(蘭州老馬家拉麺館)―成都雑感〔141〕―

03.12 平楽古鎮―成都雑感〔142〕―

03.24 バス停のANA広告―成都雑感〔143〕―

04.02 大慈寺―成都雑感〔144〕―

04.14 塔子山公園―成都雑感〔145〕―

04.20 速報・雅安市でM7地震発生

05.05 西南交通大学鏡湖夜景―成都雑感〔146〕―

05.07 セブンイレブン弘邦領邸店の昼時―成都雑感〔147〕―

05.25 西南交通大学鏡湖の親子鳥―成都雑感〔148〕―

06.01 二環路成都快速公文(BRT)試開業―成都雑感〔149〕―

06.10 成都市地下鉄2号線西延伸―成都雑感〔150〕―

06.16 2013年西南交通大学日本語学科卒業論文答弁会―成都雑感〔151〕―

06.25 西南交通大学日本語言語文学専攻修士論文題目―〔成都雑感152〕―

07.06 成都武侯祠伝岳飛書「前出師表」―〔成都雑感153〕―

07.16 明日帰国

10.25 西安交通大学日語系5期生卒業20周年同窓会

10.29 大明宮国家遺址公園―中国雑感〔14〕-

11.14 「奥州合戦」における鎌倉幕府軍の構成(その1)―歴史雑感〔9〕―

一、東山道軍の交名一覧

11.15 「奥州合戦」における鎌倉幕府軍の構成(その2)―歴史雑感〔9〕―

二、交名の国別構成

12.12 2014年の中国の祝日―中国雑感〔15〕―

12.31 2013年度記事目次

(2013.12.31)

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2014年の中国の祝日―中国雑感〔15〕―

 明年の祝日(休日)に関して、本日(2013年12月12日)、『新華網』などの中国のメディアが国務院の通知「国務院弁公庁関于2014年部分節假日安排的通知」の内容を報道しました。国務院の通知原文は次のページです。

http://www.gov.cn/zwgk/2013-12/11/content_2546204.htm

 これによる明年の休日は次の通りで、これに基づいて、中国の公的機関は休日を実行します。民間もこれを基準に休日を組みます。つまり、明年の休日日程が定まったわけです。

一 元旦(1月1日)

1月1日(水)を休日。

二 春節(旧暦元旦 1月31日) 法定休日(旧暦正月1日~1月3日)

1月31日(金)~2月6日(木)の7日間を休日。

1月26日(日)〔5日・水〕、2月8日(土)〔6日・木〕振替出勤日。

三 清明節(4月5日)

4月5日(土)~7日(月)の3日間を休日。

四.労働節(5月1日)

5月1日(木)~3日(土)の3日間を休日。

5月4日(日)〔2日・金〕振替出勤日。

五 端午節(旧暦5月5日 6月2日)

5月31日(土)~6月2日(月)の3日間を休日。

六 中秋節(旧暦8月15日 9月8日)

9月6日(土)~8日(月)の3日間を休日

七 国慶節(10月1日) 法定休日(10月1日~3日)

10月1日(水)~7日(火)の7日間休日。

9月28日(日)〔6日・月〕、10月11日(土)〔7日・火〕振替出勤日。

 2014年の休日に関しては事前に3つのプランが提示されていましたが、基本的に従来通りのプランとなりました。なお、春節の法定休日が本年までの大晦日から正月2日の3日間が当初の元旦から3日までに戻っています。

(2013.12.12)

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「奥州合戦」における鎌倉幕府軍の構成(その2)―歴史雑感〔9〕―

(その1)一、東山道軍の交名一覧

(その2)二、交名の国別構成

(その3)三、交名の門葉構成

(その4)四、交名の武士御家人構成

二、交名の国別構成

 最初の分析は国別(本貫地)構成です。(その1)で述べているように、「先陣」の畠山重忠を加えた145名が交名総数です。しかし、69の八田知家は東海道大将軍として一族を率いて、常陸国から陸奥国浜通へと向かうことに決められました(『吾妻鏡』文治五年七月十七日条)。同じ東海道大将軍となった千葉常胤は交名には見えません。とすれば、同格の大将軍が別行動を取るというのは不自然なことで、知家は常胤と同一行動を取って、東海道軍を率いて鎌倉進発軍とは別行動を取ったといえます。すなわち、知家は鎌倉進発軍には存在していなかったということです。70の八田朝重は知家の嫡男ですから、父と同行動を取っているのが自然ですので、彼も存在していなかったと考えます。そうすると、彼等の直前に位置する67・68の宇都宮朝綱・業綱父子は朝綱と知家とが兄弟として同族です。(その4)で詳細に触れますが、鎌倉進発軍交名の武士御家人の配列構成は一族単位(家)を基本としていることです。ということは、67から71までの4人は宇都宮氏族として同族で配列されています。では、八田氏が常陸国御家人(東海道大将軍)として別行動を取ったとしても、宇都宮氏は下野国御家人ですから、頼朝が直卒する東山道軍の一員として交名にあってもおかしくないと考えることも出来ます。しかし、当時において武士御家人として序列ベストファイブに入る宇都宮氏(佐久間広子氏「『吾妻鏡』建久二年正月垸飯について」『政治経済史学』446号2003年10月参照)が交名の中位という位置にいることは極めて不自然といわざるをえません。武士御家人のトップは21以下の三浦氏で、三浦氏は東海道大将軍の千葉氏に次いでベストツーの位置を占める一族です。次いで、29以下の小山氏はベストスリーを占める一族です。彼等と比較して、宇都宮氏の位置が如何に低いかお分かりでしょう。以上考えると、67から71の宇都宮氏族の4人は交名に存在していないと考えるのが至当です。すなわち、交名145名から以上の4人を除いた141名が分析対象となります。

 交名は基本的に源家一族(門葉)、御家人の順に序列され、御家人は武士御家人と文士御家人が混在しています。以上の三区分を基本として、門葉と武士御家人はさらに国別分析を行います。以下に示すがその結果です。

〔門葉〕18名(12.76%)

甲斐 8   信濃 3   上野 2

下野 1   武蔵 1   その他 2

〔武士御家人〕115名(81.57%)

武蔵 36   相模 29   伊豆 18

下野 6   上野 4   信濃 4

下総 3   常陸 3   駿河 2

伊勢 2   近江 2   伊予 2

不明 2   元平家家人 2

〔文士御家人〕6名(4.25%)

〔僧侶〕2名(1.42%)

 御覧のように鎌倉進発軍の主力が武士御家人であり、この115名中、国別トップスリーは武蔵国36名(武士中の31.3%、全体の25.53%)・相模国29名(25.22%、20.57%)・伊豆国18名(15.65%、12.77%)の3か国出身です。この3か国で武士御家人の72.17%、全体の58.87%と圧倒的です。すなわち、頼朝直卒の東山道軍の主力、すなわち鎌倉幕府の軍事力の主力が武蔵・相模・伊豆3か国であることを示しています。これは、治承・寿永の内乱当初の鎌倉軍権の最初の勢力圏、すなわち南関東であることを、幕府成立後も如実に示しているといえます。

 これに下野・上野・信濃国の東山道3か国、下総・常陸・駿河国の東海道3か国を加えると、後の東国15か国(但し、奥州合戦以前では、陸奥・出羽両国は鎌倉幕府の勢力は及んでいないので、これは除き、13か国)に属する国で、遠江・甲斐・安房・上総国4か国を除く、9か国の武士御家人が参列しており、東海道軍が主力であることを示しています。

 では、武士御家人の参列のない4か国について考えてみます。まず、甲斐国は治承・寿永の内乱当初、頼朝とは独立して、甲斐源氏の蜂起した国であり、奥州合戦では門葉で見るように甲斐源氏が総力を挙げて参列しており、国内の武士は彼等のもとに組織されていると考えるべきで、このため独立した参列武士がいなかったといえましょう。また、遠江国は内乱初期に甲斐源氏安田義定が侵攻し、以来義定が実力支配し、後に朝廷から遠江守に補任されて、これを追認されていることから分かるように、義定の支配する国として当国武士はこの統率下にあったとすべきです。

 上総国は本来1183(寿永2)年に頼朝により誅殺された上総介広常の支配した国で、広常死後、支配下にあった武士団は解体され、個々の武士は御家人として編成されましたが、有力武士はおらず、中小武士のみです。また、下総国の千葉常胤の勢力が浸透していきます。そして、常胤は東海道大将軍として八田知家とともに常陸・下総両国の武士を率いて出陣しますから(『吾妻鏡』文治五年七月十七日条)、上総国の武士も常胤の指揮下に東海道軍に参軍したと考えます。安房国も同様でしょう。

 東国以外の伊勢・近江両国の加藤・佐々木氏は内乱当初に浪人でありましたが、頼朝の伊豆挙兵から参加しており(『吾妻鏡』治承四年八月十七日条)、内乱の勝利で本国に所領を回復し、堂々たる武士御家人にとなっており、その参軍は自然といえましょう。

 伊予国の橘公業(成)は本来平家の知盛家人でありましたが、平家家人としてはいち早く、内乱当初の富士川合戦後に頼朝に帰順して御家人になっています(『吾妻鏡』治承四年十二月十九日条)。以後、鎌倉内での射手として『吾妻鏡』に所見しており(文治四年一月六日条等)、鎌倉での活動が認められる御家人です。また、河野通信は内乱初期に伊予国で独自に蜂起して(『吾妻鏡』養和元年閏二月十二日条)、以後平家軍の反攻により雌伏したこともありますが、源義経の屋島合戦勝利直後に兵船を引き連れて合流しています(『吾妻鏡』文治元年二月二十一日条)。すなわち、伊予国の2人は内乱において西国の有力な与党であったのです。いわば、西国の御家人代表としての交名入りといえましょう。

 門葉に関しては、18名中8名と、甲斐国、すなわち義光流甲斐源氏が群を抜いて最多で、その主力であることを示しています。治承・寿永内乱でその嫡系である武田信義・忠頼父子を失脚させて勢力を削いだとしても、奥州合戦時点でも甲斐源氏が主力たりえたのです。鎌倉幕府の軍事力に甲斐源氏は欠かせない存在であったといえましょう。次が信濃国の3名、すなわち義光流信濃源氏平賀氏族です。これに関しては次節で述べます。

(続く)

(2013-11.15)

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「奥州合戦」における鎌倉幕府軍の構成(その1)―歴史雑感〔9〕―

(その1)一、東山道軍の交名一覧

(その2)二、交名の国別構成

(その3)三、交名の門葉構成

(その4)四、交名の武士御家人構成

一、東山道軍の交名一覧

 1189年、鎌倉幕府は奥州平泉藤原政権を打破すべく、全国動員をかけて奥羽に侵攻しました。侵攻軍は三手に分かれて、それぞれ東海道軍(大将軍千葉常胤・八田知家)は常陸国から陸奥国浜通へ、北陸道軍(大将軍比企能員・宇佐美実政)は越後国から出羽国念珠ヶ関へ、そして大手軍たる東山道軍は鎌倉殿源頼朝自身が率いて陸奥国白河関へと向かったのです。この主力たる東山道軍に関しては、『吾妻鏡』文治五年七月十九日条に、頼朝の鎌倉進発の「御供輩」144名の交名が載せられています。これに先陣を承った畠山重忠を加えれば、当該期の鎌倉幕府軍主力の構成が理解できることになります。すでに、「武蔵武士足立遠元(その6)―歴史雑感〔6〕― 六、頼朝期における遠元(中)―奥州兵乱と第一次建久上洛―」((2005年12月25日付)において、本ブログでは足立遠元と安達盛長に関連して簡単な分析をおこなっています。そこで、改めて、本交名全体を分析対象として、1189年段階における鎌倉幕府軍の構成を考えてみたいと思います。

 まず、『吾妻鏡』同日条に載せる交名を先頭から順に示します。最初に、『吾妻鏡』記載名を、括弧内に当人の名字実名と出身国出自を記してあります。

1.武蔵守義信(平賀義信・義光流信濃源氏)

2.遠江守義定(安田義定・義光流甲斐源氏)

3.参河守範頼(源範頼・頼朝異母弟)

4.信濃守遠光(加々美遠光・義光流甲斐源氏)

5.相摸守惟義(大内惟義・義光流信濃源氏)

6.駿河守広綱(源広綱・頼光流馬場源氏)

7.上総介義兼(足利義兼・義国流下野源氏)

8.伊豆守義範(山名義範・義国流上野源氏)

9.越後守義資(安田義資・義光流甲斐源氏)

10.豊後守季光(毛呂季光・藤原季仲子孫)

11.北条四郎(北条時政・伊豆国北条氏族)

12.同小四郎(北条義時・伊豆国北条氏族)

13.同五郎(北条時房・伊豆国北条氏族)

14.式部大夫親能(藤原親能・文吏僚)

15.新田蔵人義兼(新田義兼・義国流上野源氏)

16.浅利冠者遠義(浅利長義・義光流甲斐源氏)

17.武田兵衛尉有義(武田有義・義光流甲斐源氏)

18.伊沢五郎信光(伊沢信光・義光流甲斐源氏)

19.加々美次郎長清(加々美長清・義光流甲斐源氏)

20.同太郎長綱(加々美長綱・義光流甲斐源氏)

21.三浦介義澄(三浦義澄・相模国三浦氏族)

22.同平六義村(三浦義村・相模国三浦氏族)

23.佐原十郎義連(佐原義連・相模国三浦氏族)

24.和田太郎義盛(和田義盛・相模国三浦氏族)

25.同三郎宗実(和田宗実・相模国三浦氏族)

26.岡崎四郎義実(岡崎義実・相模国三浦氏族岡崎流)

27.同先次郎惟平(岡崎惟平・相模国中村氏族土肥)

28.土屋次郎義清(土屋義清・相模国三浦氏族岡崎流)

29.小山兵衛尉朝政(小山朝政・下野国太田氏族小山流)

30.同五郎宗政(長沼宗政・下野国太田氏族小山流)

31.同七郎朝光(結城朝光・下野国太田氏族小山流)

32.下河辺庄司行平(下河辺行平・下総国太田氏族下河辺流)

33.吉見次郎頼綱(吉見頼綱・武蔵国)

34.南部次郎光行(南部光行・義光流甲斐源氏)

35.平賀三郎朝信(平賀朝信・義光流信濃源氏)

36.小山田三郎重成(稲毛重成・武蔵国秩父氏族畠山流)

37.同四郎重朝(榛谷重朝・武蔵国秩父氏族畠山流)

38.藤九郎盛長(安達盛長・武蔵国足立氏族)

39.足立右馬允遠元(足立遠元・武蔵国足立氏族)

40.土肥次郎実平(土肥実平・相模国中村氏族土肥流)

41.同弥大郎遠平(土肥遠平・相模国中村氏族土肥流)

42.梶原平三景時(梶原景時・相模国鎌倉氏族梶原流)

43.同源太左衛門尉景季(梶原景季・相模国鎌倉氏族梶原流)

44.同平次兵衛尉景高(梶原景高・相模国鎌倉氏族梶原流)

45.同三郎景茂(梶原景茂・相模国鎌倉氏族梶原流)

46.同刑部丞朝景(梶原朝景・相模国鎌倉氏族梶原流)

47.同兵衛尉定景(梶原定景・相模国鎌倉氏族梶原流)

48.波多野五郎義景(波多野義景・相模国波多野氏族)

49.波多野余三実方(波多野実方・相模国波多野氏族)

50.阿曽沼次郎広綱(阿曽沼広綱・下野国淵名氏族足利流)

51.小野寺太郎道綱(小野寺道綱・下野国首藤氏族)

52.中山四郎重政(中山重政・武蔵国秩父氏族?)

53.同五郎為重(中山為重・武蔵国秩父氏族?)

54.渋谷次郎高重(渋谷高重・相模国秩父氏族渋谷流)

55.同四郎時国(渋谷時国・相模国秩父氏族渋谷流)

56.大友左近将監能直(大友能直・相模国)

57.河野四郎通信(河野通信・伊予国)

58.豊島権守清光(豊島清光・武蔵国秩父氏族豊島流)

59.葛西三郎清重(葛西清重・下総国秩父氏族豊島流)

60.同十郎(下総国秩父氏族豊島流)

61.江戸太郎重長(江戸重長・武蔵国秩父氏族江戸流)

62.同次郎親重(江戸親重・武蔵国秩父氏族江戸流)

63.同四郎重通(江戸重通・武蔵国秩父氏族江戸流)

64.同七郎重宗(江戸重宗・武蔵国秩父氏族江戸流)

65.山内三郎経俊(山内経俊・相模国首藤氏族山内流)

66.大井二郎実春(大井実春・武蔵国紀氏)

67.宇都宮左衛門尉朝綱(宇都宮朝綱・下野国宇都宮氏族)

68.同次郎業綱(宇都宮業綱・下野国宇都宮氏族)

69.八田右衛門尉知家(八田知家・常陸国宇都宮氏族)

70.八田太郎朝重(八田朝重・常陸国宇都宮氏族)

71.主計允行政(二階堂行政・文吏僚)

72.民部丞盛時(平盛時・文吏僚)

73.豊田兵衛尉義幹(豊田義幹・常陸国大掾氏族)

74.大河戸太郎広行(大河戸広行・武蔵国太田氏族大河戸流)

75.佐貫四郎広綱(佐貫広綱・上野国淵名氏族佐貫流)

76.同五郎(上野国淵名氏族佐貫流)

77.同六郎広義(佐貫広義・上野国淵名氏族佐貫流)

78.佐野大郎基綱(佐野基綱・下野国淵名氏族足利流)

79.工藤庄司景光(工藤景光・伊豆国工藤氏族工藤流)

80.同次郎行光(工藤行光・伊豆国工藤氏族工藤流)

81.同三郎助光(工藤助光・伊豆国工藤氏族工藤流)

82.狩野五郎親光(狩野親光・伊豆国工藤氏族狩野流)

83.常陸次郎為重(伊達為重・常陸国伊佐氏族)

84.同三郎資綱(伊佐資綱・常陸国伊佐氏族)

85.加藤太光員(加藤光員・伊勢国)

86.同藤次景廉(加藤景廉・伊勢国)

87.佐々木三郎盛綱(佐々木盛綱・近江国佐々木氏族)

88.同五郎義清(佐々木義清・近江国佐々木氏族)

89.曽我太郎助信(曽我助信・相模国)

90.橘次公業(小鹿島公業・伊予国)

91.宇佐美三郎祐茂(宇佐見祐茂・伊豆国工藤氏族宇佐美流)

92.二宮太郎朝忠(二宮朝忠・相模国中村氏族)

93.天野右馬允保高(天野保高・伊豆国)

94.同六郎則景(天野則景・伊豆国)

95.伊東三郎(伊豆国工藤氏族伊東流)

96.同四郎成親(伊東成親・伊豆国工藤氏族伊東流)

97.工藤左衛門祐経(工藤祐経・伊豆国工藤氏族宇佐美流)

98.新田四郎忠常(新田忠常・伊豆国)

99.同六郎忠時(新田忠時・伊豆国)

100.熊谷小次郎直家(熊谷直家・武蔵国私市党)

101.堀藤太(伊豆国)

102.同藤次親家(堀親家・伊豆国)

103.伊沢左近将監家景(伊沢家景・文吏僚)

104.江右近次郎(大江久家・文吏僚)

105.岡辺小次郎忠綱(岡部忠綱・駿河国)

106.吉香小次郎(駿河国)

107.中野小太郎助光(中野助光・信濃国)

108.同五郎能成(中野能成・信濃国)

109.渋河五郎兼保(渋河兼保・上野国)

110.春日小次郎貞親(春日貞親・信濃国)

111.藤沢次郎清近(藤沢清近・信濃国)

112.飯富源太宗季(飯富宗季・元平家家人)

113.大見平次家秀(大見家秀・伊豆国)

114.沼田太郎(相模国or上野国)

115.糟屋藤太有季(糟屋有季・相模国)

116.本間右馬允義忠(本間義忠・相模国)

117.海老名四郎義季(海老名義季・相模国)

118.所六郎朝光(佐藤朝光)

119.横山権守時広(横山時広・相模国横山党)

120.三尾谷十郎(武蔵国)

121.平山左衛門尉季重(平山季重・武蔵国西党)

122.師岡兵衛尉重経(諸岡重経・武蔵国秩父氏族)

123.野三刑部丞成綱(小野成綱・武蔵国猪俣党?)

124.中条藤次家長(中条家長・武蔵国横山党)

125.岡辺六野太忠澄(岡辺忠澄・武蔵国猪俣党)

126.小越右馬允有弘(越生有弘・武蔵国児玉党)

127.庄三郎忠家(庄忠家・武蔵国児玉党)

128.四方田三郎弘長(四方田弘長・武蔵国児玉党)

129.浅見太郎実高(浅見実高・武蔵国児玉党)

130.浅羽五郎行長(浅羽行長・武蔵国児玉党)

131.小代八郎行平(小代行平・武蔵国児玉党)

132.勅使河原三郎有直(勅使河原有直・武蔵国丹党)

133.成田七郎助綱(成田助綱・武蔵国)

134.高鼻和太郎(武蔵国)

135.塩屋太郎家光(塩谷家光・武蔵国児玉党)

136.阿保次郎実光(安保実光・武蔵国丹党)

137.宮六仗国平

138.河勾三郎政成(河匂政成・武蔵国猪俣党)

139.同七郎政頼(河匂政頼・武蔵国猪俣党)

140.中四郎是重(中原惟重・文吏僚)

141.一品房昌寛(僧侶)

142.常陸房昌明(僧侶)

143.尾藤太知平(尾藤知平)

144.金子小太郎高範(金子高範・武蔵国村山党)

 以上、144名です(『吾妻鏡』は4名列記で記しています)。交名の前に、地の文として、従軍5騎―長野重清(弟)・大串重親(武蔵国横山党)・本田近常(武蔵国丹党)・榛沢成清(武蔵国丹党)・柏原太郎(武蔵国丹党)―らを率いる「先陣」畠山重忠(武蔵国秩父氏族畠山流)が記してあります。この先陣に続いて、頼朝自身が進み、後に供輩が続き、鎌倉出陣の総勢千騎となっています。

 畠山重忠を含め145名の分析においては、詳細な考証を避け、結論を主体として述べていきます。

(続く)

〔注記〕本記事は、『歴史と中国』 https://kanazawa45.wordpress.com/の2008年6月10日付の再録です。

(2013.11.14)

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大明宮国家遺址公園―中国雑感〔14〕―

 2013年10月23日(水)、西安訪問を利用して、大明宮国家遺址公園を訪れました。ここは、唐王朝の長安城の宮殿、大明宮の遺跡を公園として公開したものです。2010年10月1日に開園しました。公園は無料開放されていますが、主要部分の「遺址保護示模範区」(含元殿遺址・大明宮遺址博物館・微縮景観・紫宸殿遺址等)と考古探索中心は有料で、共通入場料60元(65歳以上無料 9時半~18時)です。入場券は丹鳳門東奥にある游客服務中心で求められます。公園南正面の丹鳳門は市内バス丹鳳站のすぐ北で、2路(辛家廟公文枢紐站~特警支隊站 北関站で地下鉄2号線安元門站乗り換え可)、262路(団結南路南口站~灞橋停車場站 北関経由)が停まります。他、太華路站から東に自強東路を約600mです。太華路站には、2路、16路(辛家廟公文枢紐站~公文五公司家属院站 火車東・五路口で地下鉄1号線五路口站乗り換え可・新城広場・鐘楼・南門站経由)、17路(紅旗西站~火車站)、22路(辛家廟公文枢紐站~曲江地調度站 東門・大雁塔站経由)、38路(万寿路~城北客運站 朝陽門站で地下鉄1号線朝陽門口站乗り換え可)、K46路(大明宮建材家居城站~城南客運站 火車東・五路口・鐘楼・小雁塔站経由)、104路(三民村站~大明汽車配件城站 火車東・北門経由)、216路(大明宮建材家居城站~特警支隊站 朝陽門・五路口・大差市・南門経由)、262路、263路(火車北站~東門站 朝陽門站経由)、309路(聚盛五金機電市場站~長安大学站 火車東・新城広場站経由)、913路(城北客運站~南門站 万寿路・半坡博物館站経由)が停まります。両站にはこの他、500番台などの距離料金制の小型バスもあります。観光時間は約2~5時間と見て下さい。有料電動カート・レンタル自転車等の利用も出来ます。

 大明宮は、唐太宗の634(貞観8)年に建設が開始され、昭宗の896(乾寧3)年に再度の戦火で失われました。長安城の東北城壁から北に梯形に突き出た形で作られ、面積3.2平方㎞(北京紫禁城の約4.5倍)、城壁周7.6km(東西1.5km・南北2.5km)、城門11です。南正門が丹鳳門で、北門が玄武門で、この間に南から、御道・前朝・内庭の3部に大別されます。御道は広場、前朝は政庁で、正殿の含元殿・宣政殿・紫宸殿と並びます。内庭は居住・宴游区で太液池があり、この西に別殿の麟殿があります。この大明宮遺址は1961年に第1回の全国重点文物保護単位(特別史跡に相当)に指定されました。

 写真1は、復原された丹鳳門です。この門は皇帝専用の門です。さらに東西に望仙門・建福門があり、臣下はこれより大明宮に入ります。復原された門自体が丹鳳遺址博物館として、内部に遺跡をそのまま保存展示しています。

 写真2は、丹鳳門遺跡です。これは西側より撮ったものです。

 写真3は、大明宮の正殿である、復原された含元殿基台の正面全景です。遺跡は復原基台の下に保護保存されています。丹鳳門から含元殿までは約600mあり、この間は広場となっており、謁見・閲兵等の場となりました。含元殿は663(龍朔3)年に完成し、886(光啓2)年に失われました。慶典・朝会・外交儀礼等の場として用いられました。中央が主殿で、11間(副階を含め13間)・4間(副階を含め6間)の2階建ての建築物で、3層の主殿基台は高10.58m・東西76.8m・南北43m・総面積3300㎡(殿全体では東西約200m、南北約100m)で、主殿の東・北・西を高1.3mの土牆で囲まれていました。主殿の東南が翔鸞閣(東朝堂)、西南が柄鳳閣(西朝堂)です。なお、橋の手前に柵と網が見えますが、この先が「遺址保護示模範区」で、右側に入口があります(この手前に入場券売場もあります)。

 写真4は、西朝堂から見た主殿と東朝堂基台です。遠くに高層マンション群が見えるように、西側も同様で、マンション開発が行われています。

 写真5は、含元殿復原模型です。入口の左側に展示しています。もちろん下と左脇に説明版(中国語・英語)があります。

 含元殿を出て、東側の道を北に歩き過ぎると、左手に下る道があります。そこに入ると、大明宮遺址博物館入り口です。博物館の建物は土で覆われて植生されていますから、周囲からは小丘のようです(この点、四川省の三星堆博物館第一展示館と同様です)。写真6は、第一単元室に展示されている「鎏金銅鋪首」(大明宮遺址出土)です。これは門扉の鍍金された金属飾です。この他、方磚等の大明宮遺址出土品が展示されています。また、大明宮遺址模型もあります。

 写真7は、第二単元室に展示されている「石刻力士」(大明宮遺址出土)です。本室も瓦・石柱礎・白石像等の大明宮遺址出土品が展示されています。また、玄宗皇帝の含元殿の元日朝会のジオラマもあります。

 写真8は、第三単元室に展示されている胡人騎馬像(昭陵段筒壁墓出土)です。本室では、三彩駱駝・武官俑等の昭陵陪墓出土品を中心に展示されています。また、麟殿模型もあります。

 写真9は、第四単元室の「武則天麟殿設宴会見日本使臣」ジオラマです。これは702年(大宝2・嗣聖19)年の第8回の遣唐使栗田真人に対する歓迎宴です。本室には他に黒彩執壺(耀州窯)・玉佩飾・銅鏡等の昭陵陪墓・西安市出土品が展示されています。

 写真10は、博物館の道を戻り、左側(東)に広がる「微縮景観」です。これは大明宮を1/15の縮尺でジオラマ化したものです。東側から撮ったものです。左から含元殿・宣政殿と並び、中央の塔が望仙台で、その横奥が紫宸殿です。さらに奥に見えるのが麟殿です。なお、「微縮景観」の西には紫宸殿遺址がありますが、今回は訪れなかったので紹介できません。

 最後の写真11は、1986年1月に撮影したものです。大明宮の発掘調査始まっていましたが、含元殿は完全な発掘調査はまだでした。西側の西朝堂から眺望です。

 なお、フォトアルバム「西安・大明宮国家遺址公園」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngpk1e1ZQrdTL34j2kQです。

(2013.10.29)

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西安交通大学日語系5期生卒業20周年同窓会

 2013年10月19日(土)、西安交通大学日語系5期生(1989年入学・1993年卒業)が、西安に集い卒業20周年の同窓会を開きました。このため、私は18日(金)から24日(木)まで西安に滞在しました。中国各地および韓国から11名(全16名 女10名・男6名)の卒業生が母校に集い顔を合わせました。昼間は母校キャンパスを巡り、夜は宴会で盛り上がりました。その後、5期生はホテルの部屋で深夜までトランプなどで旧交を温めたそうです。

 写真1は、旧図書館前の広場の地面に描かれた中国全土地図上で、各自の居住地に立ったものです。ご覧のように、南は広東省から北は遼寧省、さらに海に立つのは韓国と、各地で活躍していることがお分かりでしょう。

 写真2は、西安交通大学正門(北門)での記念撮影です。

(2013.10.25)

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明日帰国

 明日(2013年7月17日)、帰国します。1985年夏以来、帰国していた時期も夾み、26年余、日本語教師として、西安・武漢・成都と過ごしてきましたが、これで任務終了です。なお、帰国は北京乗り継ぎの羽田便となります。

 今後の更新は少なくなると思いますが、歴史を中心に更新したいと思います。

(2013.07.16)

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成都武侯祠伝岳飛書「前出師表」―歴史雑感〔153〕―

 武侯祠(葛孔明廟)には孔明の名文として著名な南宋の武将岳飛書と伝える「出師表」の石刻が掲示されています。ここ成都の武侯祠でも、漢昭烈廟(蜀皇帝劉備)にそれが入口左右の壁に掲げられています。左側が「前出師表」、右側が「後出師表」です。後者はしかるべき史書にも記載がなく、偽作と評価されています。そこで、ここでは「前出師表」を示します。全体は6行分毎に石刻された20枚からなります。ここでは、冒頭の2枚と、岳飛名のある最後の1枚を写真で示します。そして、その後に石刻全文と書き下し文を示します。

『三国志』所載と少し異なる石刻の全文です。

①  前出師表

 臣亮言先帝創」業未半而中道」崩殂今天下三分」益州疲弊此誠

②危急存亡之秋」也然侍衛之臣」不懈于於内忠志之」士忘身於外」者蓋追先帝」之殊遇欲報之

③於陛下也誠宜開張」聖聴以光先帝」遺恢宏士」之氣不宜妄自」菲薄引喩失」義以塞忠諫

④之路也宮中」府中倶爲一」軆陟罰臧否」不宜異同若有」作姦犯科及」為忠善者宜付

⑤有司論其賞」以昭陛下平明」之治不宜偏私」使内外異法也」侍中侍郎郭

⑥攸之費褘董」允ホ此皆良實志」虑忠純是以先」帝簡抜以遺」陛下愚以爲宮中

⑦之事々無大」小悉以咨之然」後施行必能」裨補闕漏有」所廣益将軍向

⑧寵性行淑均」曉暢軍事試」用於昔日先帝称」之曰能是以衆」議擧寵以為」督愚以為営中

⑨之事事無大小」悉以咨之必能使」行陣和穆」優劣得所也」親賢臣遠小人此先

⑩漢之所以興隆」也親小人遠賢臣」此後漢之所以頽」敗也先帝在時毎」与臣論此事」未嘗不嘆息痛

⑪恨於桓霊也侍中」尚書長史參軍」此悉貞亮死節」之臣也願陛下親之」信之則漢」室之可計日

⑫而待也臣本布」衣躬耕南陽荀」全性命於亂世」不求聞達於諸」侯先帝不以臣卑」鄙猥自枉屈

⑬三顧臣於草盧」之中諮臣以當世」之事由是感」激遂許先帝」以馳驅後値傾」覆受任於敗軍

⑭之際奉命於危」難之間尓来」廾有一年矣先」帝知臣謹慎故」臨終寄臣以大」事也受命以

⑮来夙夜憂虑恐」付託不効以傷先」帝之明故五」月渡瀘深入不毛」今南方已定甲」兵已足當奨帥三

⑯軍北定中原庶」掲弩鈍攘除姦」凶興復漢室還」於舊此」臣所以報先帝而忠陛」下之職分也至于於

⑰斟酌損益進尽」忠言則攸之褘允之」任也願陛下託臣以」討賊興復之効不効」則治臣之罪以」告先帝之

⑱霊若無興徳」之言則責攸之」褘允ホ之咎」以彰其慢」陛下亦宜自謀」以諮諏善道察

⑲納雅言深追」先帝遺」詔臣不勝」受恩感激」今當遠離

⑳臨表涕泣」不知所云

   岳飛

〔書き下し文〕

   前出師表

臣亮言わく。先帝創業いまだ半ばならずして中道にして崩殂す。今天下三分し、益州疲弊し、これ誠に来危急存亡の秋なり。しからば侍衛の臣内に懈らず、忠志の士は身を外に忘るるは、蓋し先帝の殊遇を追うて、これを陛下に報いんと欲すればなり。誠に宜しく聖聴を開張するに、光る先帝の遺徳を以てすべく、志士の気を恢弘し、宜しく妄りに菲薄に自りて、喩えを引きて義を失うて、以て忠諫の路を塞ぐべからざるなり。宮中・府中は俱に一体となり、陟罰臧否、宜しく異同あるべからず。若し姦を作し科を犯し忠善を為すに及びては、宜しく有司に付してその賞を論ずるに、陛下の平明の治を昭らかにするを以てし、宜しく偏私し、内外の異法をなからしむべからず。侍中侍郎の郭攸之﹑費禕﹑董允等は、これ皆な良実にして、志慮忠純にして、これを以て先帝簡抜し以て陛下に遺す。愚は以て宮中の事を為し、事に大小無く、悉くこれに咨るを以て、然る後に施行し、必ず能く闕漏を裨補し、広く益する所有り。将軍の向寵は、性行淑均にし、軍事に暁暢し、試みに昔日に用いるに、先帝これを称して能と曰い、これを以て衆議は寵を挙げ督と為す。愚は以て営中の事を為し、事大小なく、悉くこれに咨るを以て、必ず能く行陣和穆し、優劣の所を得せしむなり。賢臣に親しみ、小人を遠ざくるは、これ先の漢の興隆せし所以なり。小人に親しみ、賢臣を遠ざくるは、これ後漢の傾頽せし所以なり。先帝の在時、毎に臣とこの事を論じ、未だ嘗て歎息して桓霊を痛恨せざることあらざるなり。侍中、尚書、長史、参軍は、これ悉く貞良死節の臣なりて、願わくは陛下これに親しみこれを信じ、則ち漢室の隆なるを、日に計りて待つべきなり。臣はもと布衣にして、南陽に躬耕し、苟くも性命を乱世に全うし、諸侯に聞達せらるるを求めず。先帝は臣を以て卑鄙とせず、猥りに自ら枉屈し、三たび臣を草廬の中に顧みて、臣に諮るに当世の事を以てす。これに由りて感激し、遂に先帝に以て駆馳を許さる。後に傾覆に値い、任を敗軍の際に受け、命を危難の間に奉り、爾来二十有一年なり。先帝臣の謹慎なるを知り、故に臨終に臣に寄するに大事を以てすなり。命を受けて以来、夙夜に憂歎し、託付して效あらずして、以て先帝の明を傷つくを恐れ、故に五月瀘に渡り、深く不毛に入る。今南方已に定まり、甲兵已に足り、当に奨めて三軍を率い、北に中原を定め、庶く駑鈍を竭し、姦凶を攘い除き、漢室を興復し、旧都に還らんとす。これ臣の先帝に報いて、陛下の職分に忠なる所以なり。損益を斟酌するに至り、進んで忠言を尽す、則ち攸之﹑禕﹑允の任なり。願わくは陛下の臣に託するに討賊興復の效を以てせんことを。效あらざれば、則ち臣の罪を治め、以て先帝の霊に告げん。若し徳を興すの言無くば、則ち攸之﹑禕﹑允等の咎を責め、以てその慢を彰らかにせん。陛下亦た宜しく自ら謀り、以て善道を諮諏し、雅言を察納し、深く先帝の遺詔を追うべし。臣恩を受けて感激に勝えず。今、遠離に当たり、表を臨みて涕泣し、云う所を知らず。

なお、フォトアルバム「成都・武侯祠伝岳飛書「前出師表」」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngpkpZgBFS45qrEkuvAです。これに全20枚の石板写真を収載してあります。

(2013.07.06)

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西南交通大学日本語言語文学専攻修士論文題目―〔成都雑感152〕―

 この2013年6月22日(土)には西南交通大学大学院学位授与式も終わり、本年も日本語言語文学専攻の修士達が無事修了しました。そこで、2002年以来、修士論文答弁会で審査を勤めてきましたので、その論文題目全47編をここに示します。なお、タイ語に関す2編ははタイ国留学生(2011年修了)のものです。

〔音声類〕1編

四川人の日本語音声の難点に関する分析研究―教育実践を通じて―

〔文字類〕2編

漢字についての中日対照研究とその学習ストラテジー

日本語の漢語同音語の産生原因及び漢字音習得における漢字音の作用

〔文法類〕28編

日本語の「動詞+感覚名詞」についての研究

「いく/くる」と「去/来」における多義構造についての対照研究

存在動詞「いる・ある」による構文と意味合いについての研究

中日の態度動詞に関する対照研究

日本語における複合動詞前項・後項動詞の結合条件―「動詞(連用形)+動詞」型複合動詞を中心に―

日本語における自他共存性への考察

日中受身文の対照分析およびその指導法の研究

タイ語と日本語における受身文の対照

「てもらう」文と受身文をめぐって―特徴と交換可能の要因を中心に―

一人称小説におけるテンス形式とその機能

テイル形のアスペクト的意味の分析

中国語の「了」と日本語の「た」についての考察―文における「テンス」と「アスペクト」とを中心に―

日本語の助動詞「タ」と中国の助詞“了”の対照研究

日本語の「テイル」と中国語の「在」「着」「了」との対照研究―アスペクト的意味を中心に―

日本語のモダリティの新体系から見る「ノダ」の用法

日本語の感情表現に関する研究―動詞と形容詞を中心に―

中日両国語における共感比喩的表現についての対照研究―五感形容詞をめぐって―

中日両国語の二重否定表現についての対照研究

中日両国語の目的表現についての対照研究

副詞の連体修飾について

移動関連の日本語の格助詞と中国語の介詞に関する対照研究

限定を表す「だけ」「ばかり」「しか」の比較研究―取立て詞の角度から―

とりたて助詞「だけ・ばかり・しか」についての研究

中日両国語の助数詞についての対照研究

中日覚詞の対照研究―比喩転用の角度から―

中日概言表現についての対照研究

中日の日常あいさつ表現についての対照研究

タイ日両国の敬語表現についての対照研究

〔意味・語用論類〕9編」

日本語の色彩語についての研究―基本色彩語を中心に―

中日両国の身分語についての対照研究

バラエティーに富んだ中日両国の若者ことばについての研究

和製英語に関する研究

中日両国語の畳語における対照

談話レベルのポライトネス・ストラテジー―B&Lのポライトネス理論から―

日本語における婉曲表現の語用論的研究―「命令・依頼・断り」の表現をめぐって―

間接言語行為としての疑問文についての中日対照研究

中日非言語行動の対照研究

〔言語文化類〕5編

万華鏡の謎―中日対照の角度から―

中日の「数」に潜んでいる文化的内包

日本語の感情表現から見た日本文化の特徴及びその形成原因について

動物慣用句から見た中日各文化の象徴表現の特徴

中国の「打油詩」と日本の「川柳」についての対照研究

〔日本文化類〕2編

中日両国の姓名についての対照研究

日本の猫文化について

(2013.06.25)

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2013年西南交通大学日本語学科卒業論文答弁会―成都雑感〔151〕―

 2013年6月13日(木)・16日(日)の両日午前に、西南交通大学日本語学科卒業論文答弁会を行いました。参加4年生は41人です。以下に、卒業論文題目を示します。なお、※は私の指導担当した学生(4人)です。

〔言語類〕12編

自他動詞から見る日本人の文化的心理※

推量を表す「そうだ」「ようだ」「らしい」「みたいだ」についての対比研究

「移動起点」を表す「から」と「を」についての研究

日本語の曖昧さ

日本語の忌み言葉について

中日色彩語についての対照研究―赤、白、黒、青、黄を中心に―

中日同形異義語についての研究―中国の日本語学習者の誤用調査を巡って―

日本の流行語の移り変わり

日本語の敬語について―使い分けに関するファクター―

外来語の由来と現状

戦後の日本語外来語の発展と特徴※

日本人の言語行動から見る日本人の内外意識

〔翻訳類〕2編

日本語の複雑な連体修飾語の中国語翻訳について

『雪国』の訳本についての比較研究

〔日本文学類〕9編

和歌と唐詩の“月のイメージ”についての研究

『舞姫』と『杜十娘』の比較研究

芥川龍之介のエゴイズム選択―『羅生門』『鼻』を中心に―

三島由紀夫の作品から耽美主義の日本での発展と特徴を見る※

村上春樹―音楽で見る小説※

東野圭吾の推理小説の魅力を見る―『白夜行』を中心に―

伊坂幸太郎の推理小説中に潜む善悪感

日本の時代小説が中国の新武侠小説に与えた影響―吉川英治と柴田錬三郎の作品をもとに―

金子みすゞの童謡詩における自然観の研究

〔日本文化類〕18編

日本人の「縮小」と「拡大」意識についての研究

日本人の二重性格

日本人の二重性格についての考察

日本企業長寿の秘密について―株式会社金剛組を例に―

中国における日系コンビニの店舗経営

中日両国における就学前教育の比較

中日の学校における「いじめ」問題に関する対照研究

「夫婦別姓」議論から見る日本女性地位の変化

日本の古代建築に見る中国文化の影響

明治以来の日本における外来文化の受容―食文化を中心に―

食文化に関する中日比較研究

日本人の集団主義の変化について

中日両国の色彩の象徴性

流行歌詞から味わう日本人の含蓄

黒澤明の『七人の侍』における武士道精神について

日本の少女漫画の特徴と魅力について

宮崎駿のアニメから見る日本人の自然観

国民的アニメ「ワンピース」の高人気について

(2013.06.16)

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成都市地下鉄2号線西延伸―成都雑感〔150〕―

 2013年6月4日(火)、地下鉄2号線の西延伸部分が試開業し、7日(金)まで無料で、翌8日(土)から正式開業となりました。茶店子客運站から、西北に全長8.77kmの延伸で、順に迎賓大道站・金科北路站・金周路站・百草路站・天河路站(以上地下駅)・犀浦站の6駅が設置され、成都市郫県犀浦鎮の犀浦站で成都北站・青城山站間の成灌快鉄と接続します。運行時間は延長され、6時20分~22時30分となっています。犀浦站からの運賃は茶店子客運站まで2元、白果林站まで3元、東門大橋站まで4元、洪河站まで5元、成都行政学院站が6元となっています。

 そこで、月曜日の本日(10日。実は端午節〔12日〕の連休で振替休日)、犀浦站から乗車してきました。西南交通大学犀浦校区の西一門から天府路で約800m余に犀浦站は位置しています。これで、犀浦校区から天府広場・春熙路・成都東站に直接行けます。

 写真1は、乗車客の行列です。前方が犀浦站A口(西)で、この西側に従来からの街が広がります。行列は写真の後方に100m以上も続いています。写真に見るように,A口に駐車場が設置されています。ここだけで100台以上のスペースがあります。全体の駐車場スペースは400台となっており、パークアンドライド(P&R)を目指しています。

 写真2は、駅舎内の風景です。御覧のように、A口とB口(東側、国寧西路―国道213号・老成灌路)がありますが、今日は混乱を避けるためかB口は閉鎖されています。右側が售票台(切符売り場)で、左側が自動改札です。そして、エスカレーターでホームに上がります(上り口は2か所)。写真には見えませんが、右手には自動券売機が設置されています。

 写真3は、ホーム風景です。ちょうど、成灌快鉄の成都行がホーム左側(外)に入線しており、ホーム右側(内)からは地下鉄が出発していきます。写真に見るように降りた客が同一ホーム上で乗り継げるようになっています。そのため地下鉄の自動券売機(右側のオレンジの機器)が設置され、自動改札が設けられています。ただし、同一ホームでの乗り継ぎが出来るのは、青城山・都江堰からの電車から地下鉄への乗り継ぎのみで、地下鉄から都江堰・青城山への電車の乗り継ぎは、いったん地下鉄駅出口から出て成都寄りにある成灌快鉄駅から乗る必要があります。これは、成灌快鉄が他の鉄道と同様に、実名制切符(切符に身分証明書番号を記入して販売し、改札時に番号確認)のためで、この対応が出来ないからです。

 写真4は、犀浦站に到着した地下鉄が出発の線路変換をするために引き出されたところを撮ったものです。地下の天河路站を出た地下鉄は犀浦站手前で地上に出て、御覧のように成灌快鉄の内側に線路が入ります。

 写真5は、乗車風景です。

 写真6は、車内風景です。

 なお、「成都市地下鉄2号線試開業―成都雑感〔133〕―」(2012年9月26日付)は、http://blog.goo.ne.jp/kanazawa4512/e/521c77af3aae4f6038377550e8fe3c85です。

(2013.06.10)

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二環路成都快速公文(BRT)試開業―成都雑感〔149〕―

 2013年5月31日(金)、二環路の2階建て道路工事の完成に伴い(28日オープン)、成都市初の快速公文(BRT)、二環路を循環するK1線(内側・右回り)とK2線(外側・左回り)が試開業しました。初日の31日には約19万人余の乗客を数えました。6月10日までは無料です。二環路約29kmを循環する両路線は、K1が双橋市南站を始発、K2が双橋子北站を始発として、28の站(停留所)が設置されています。運行時間は6時~23時で、所要時間は約66分で、運賃2元と、従来の市内バスと同じです。ただし、22時以降は追加運賃1元が必要です。

 站は、KIが双橋子南-二二環路牛市口-二環路蓮桂東路口-二環路龍舟路口-二環路成仁公交站-東湖公园-二環路科華路口-人南立交橋東-二環路紫荆北路口-紅牌楼東-紅牌楼西-二環路少陵路口-清水河-二環路光華村街口-二環路府南新区-二環路蜀漢路口北-営門口北-二環路西南交大-二環路商貿大道口-火車北站東-高笋塘-二環路三友路口-二環路桃蹊路口-二環路建設路口-二環路建設南路口-二環路双林北支路口-万年場-双橋子北-双橋子南で、K2は火車北站東が火車北站西と別になっています。

 私もさっそく試開業当日午前に乗ってきました。西南交大站とイトーヨーカドー双楠店の最寄り停留所の少陵路口站間です。写真1(本写真のみ6月1日撮影)は、西南交通大学教学中心楼から見た二環路上を走る快速公文(BRT)です。手前がK2線、後方がK1線です。本年に導入された新連節車輌です。従来の連節車輌と大きく異なるのは、快速公文では乗降口が進行方向の左側で、一般道路の右側と異なるため、車体両側に乗降口があることです。今後の市内連節バスの主力となるからです。もちろん従来と同じくCNG車です。写真を見ればお分かりのように、二環路は2階建て道路となり、上は信号なしの立体交差の自動車専用道となっています。なお、二環路工事に伴い、西南交大の南門(正門)が少し後退したところに新設されました。

 写真2は、少陵街口站です。階段(上りエスカレーターも設置)を上がると、路線案内板があり、切符売り場で切符(トークン)を求めてから、地下鉄のように改札口に行きます。なお、改札口はK1・k2線それぞれの専用となっており、案内板に従って動いてください(基本的にそれぞれの路線の進行方向です)。

 写真3は、改札口で、地下鉄と同様な入り口となっています。オレンジ色の中にある青丸のところに交通卡(交通カード)・トークンをタッチして入ります。その後、エスカレーターで、乗降ホームに出ます。

 写真4は、乗車後の交大站に向かう車上から撮ったものです。これは成温立体橋のところで、二環路の2階建て部がさらに、一般自動車道と公文専用道に分離し、後者が最上部に位置します。このように、二環路2階建て部には公文専用レインが設けられて、これが内側になっています。なお、本立体橋は、地上部で二環路と清江路が交差し、この上に清江路の立体橋、さらに二環路の立体橋が重なり、さらにそれが2段構成となって、それぞれが立体交差となる複雑な構造となっています。

 写真5は、運転士席です。右には監視カメラの映像モニターで、4画面に分割されています。

 写真6は、車内風景で、前方から後部を撮ったものです。ちょうど乗降中で、右にあるのが前部乗降口で後部車両部にも乗降口があり、2か所となっています。なお、左の乗降口は3か所で誤って外に出られないようにパイプでブロックされています。

 写真7は、営門立体橋を撮ったものです。ここは二環路と営門中路との交差点で、営門中路は西北へと都江堰市に行き、さらに国道213号として甘粛省蘭州市と成都市を結ぶ、幹線路です。高速道路が出来、現在は老成灌路と呼ばれています。そのため、成都市で最初に立体交差点が建設されたところです。従来からの立体交差はそのまま残し、さらにその上に二環路2階部を建設し、立体交差をしています。写真は、下に営門中路立体橋と地上の道路を見たものです。

 最後の写真8は、西南交大站に入ってきたK1線の車体全景です。このように乗降口には安全柵が設けられて、運転席から開閉を操作できます。また、車体は低床式構造(ノンステップバス)となっています。

なお、フォトアルバム「二環路成都快速公文(BRT)」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngpkizn8IFxtYQjZg7wです。

(2013.06.01)

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西南交通大学鏡湖の親子鳥―成都雑感〔148〕―

 西南交通大学九里堤校区の鏡湖で見かけた2組の親子の鳥たち(カモ目でしょうが、不詳)です。写真1・2は子を3羽連れた組です。

 写真3・4は、子を2羽連れた組です。この母鳥は時たま水にもぐり餌を取っていました。

 以上は、2013年5月25日(土)午前にペンタックスK-7・DA55-300で撮影したものです。

(2013.05.25)

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セブンイレブン弘邦領邸店の昼時―成都雑感〔147〕―

 2011年3月17日に開業したセブンイレブンは当初の計画より店舗展開が遅れていますが、それなりに順調に業績を上げているようです。今回、春熙路に出る用があったので、近くのセブンイレブン弘邦領邸店(青石橋南路88号弘邦領邸1楼)を覗いてみました。ちょうど昼時なので、少し来客を観察してみました。11時半から12時までの30分ほどでしたが、来店客の約8割が快餐飯・弁当と昼食を求める客でした。しかもその約8割が女性です。快餐飯は調理した暖かい菜(本店は12種類)から2点を選び、これにご飯が付いて、15元前後です。街のそれと比較して高めですが、昼食用にこれを求める客が過半で複数個求める客もあり、人気があり売れているようです。本店は成都市の中心商業街塩市口・春熙路に近く、商業・ビジネス街に立地しており、昼時は近くの住民よりワーカーが主たる客なので、そのようになるのでしょう。

 写真の女性は快餐飯を求めて帰る客です。この右横の女性は、店内のスタンド席で、買い求めた快餐飯を食しているところです。本店には買い求めた物を店内で食せるようにテーブル席とスタンド席が設けられています。これはセブンイレブンおよびファミリーマートの一部の店でそうです。この快餐飯・弁当があるのは日系のコンビニのみ(中国系では包子・おでんだけ)です。セブンイレブンの主力商品となっていることがうかがえます。

 なお、セブンイレブンの紹介は「成都セブンイレブン錦天国際店―成都雑感〔112〕―」(2011年4月18日付)https://kanazawa45.wordpress.com/2011/04/18/%E6%88%90%E9%83%BD%E3%82%BB%E3%83%96%E3%83%B3%E3%82%A4%E3%83%AC%E3%83%96%E3%83%B3%E9%8C%A6%E5%A4%A9%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E5%BA%97%E2%80%95%E6%88%90%E9%83%BD%E9%9B%91%E6%84%9F%E3%80%94112%E3%80%95/をご覧ください(当ブログではhttp://blog.goo.ne.jp/kanazawa4512/e/537237cc9e5486e4cb883222680a5bbe)。

(2013.05.07)

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西南交通大学鏡湖夜景―成都雑感〔146〕―

 西南交通大学九里堤校区には鏡湖という池があります。池を通したキャンパスの夜景を御覧に入れます。

 写真1は、池越しにみた教職員居住高層マンションです。

 写真2は、キャンパス内の半環状道路である唐臣路(本大学出身で、校長を務め、中国橋梁工学の第一人者である茅以升〔1896年~1989年〕の字唐臣から命名)を池越しにみたものです。御覧のように、駐車中の車が道路に列をなしています。教職員のマイカーで、キャンパス内の道路はその駐車場と化しています。なお後方の建物は旧来からの教職員宿舎です。

 最後の写真3は、池越しにみた鏡湖賓館(大学経営の宿泊施設)の前庭です。なお、以上は、2013年5月5日(日)にペンタックスK-7で撮影のものです。

(2013.05.05)

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速報・雅安市でM7地震発生

 本日(2013年4月20日)8時2分、四川省雅安市蘆山県(北緯30.3度・東経103.0度)を震源とする、M7の地震が発生しました。震源地は成都市の西南西に直線約120kmのところです(近くに中国保護大熊猫研究中心雅安碧峰峡基地―碧峰峡パンダ研究基地―があります)。私も宿舎でこの揺れを感じ、いちおう庭に出ました。体感震度は2程度で、大学の住民も多く戸外に出ていました。現在は室内に戻り落ち着いています(一部の住民は戸外にいます)。私にとって、2008年5月12日の汶川大地震以来の有感地震です。M7から、現地では相当の被害が出ていると予想されますが、現時点ではその報道には接していません。

中国地震台の速報(8時14分)は、

http://www.cenc.ac.cn/manage/html/402881891275f6df011275f971990001/__SUBAO/_content/13_04/20/13e24ca9cde00.html

です。

(2013.04.20)

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塔子山公園―成都雑感〔145〕―

 昨日(2013年4月13日)は土曜日で、成都には珍しく快晴の日で、市街東(成渝高速道路起点の五桂橋南側)にある塔子山公園に出かけてみました。塔子山公園は、塔子山苗園(市内緑化の苗木生産基地)を基にして公園化し、1987年春節に開放されました。総面積26.8平方㎞、緑地面積21.93平方㎞と、緑の木々豊かな公園(銀杏ほか、80余種4万余株)です。市内からは、10路(映花園站~五桂橋公文站)・38路(国際商貿城公文站~成都東客站公文站)・58路(万家湾公文站~五桂橋公文站)・81路(金沙公文站~五桂橋公文站)で、塔子山公園站下車です。市内へは、以上の路線の他、2路(成都東客站公文站~火車北站公文站)・4路(成都東客站西広場站~茶店子公文站)・71路(成都東客站公文站~昭覚寺公文站)も利用できます(道路工事の関係で、現在は本来の路線経路と異なっていますので、変則的になっています)。なお、地下鉄2号線の塔子山公園站(D口)からは公園南側に現時点では入口がないので、西から北へと遠く回り込むことになります(南大門を設置予定)。

 写真1は、迎喗路(蜀都大道)に面した北大門です。市バスの塔子山公園站はここです。入場は無料です(春節時の灯会など、特別活動時は有料)。

 写真2は、九天楼です。1997年末に完成した九天楼は本公園最高地点に位置し、塔楼13階、高さ70m、1・2階が方形の大庁、3階から11階が八角形、12・13階が4つの小亭の組み合わせ構造となっています。エレベーターが設置され、本来は登楼が出来ることになっていますが、現在は運転されておらず、登楼出来ません(というより、楼1階の茶館「天楼茶社」も営業しておらず、管理人員も見られず、管理が不十分な状態です)。

 写真3は、12・13階のアップです。小亭の組み合わせ構造がお分かりでしょう。

 写真4は、「堆秀牆」(古蜀文化の彫刻壁・2003年春創設)を主体に後方に九天楼を写し込んだものです。御覧のように、彫刻は古蜀文化を代表する三星堆遺跡の目の飛び出た縦目面具を模したものです。

 春節の前後3週間ほど、本公園では成都市で最大の灯会を催します。その節に成都を訪れたのなら、行くのもよいでしょう。最後に、公園案内図や案内掲示は一切ありませんし、茶館・売店とも営業していないことに注意して下さい。

(2013.04.14)

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