大内宿の高倉神社―歴史雑感〔18〕―

 大内宿(福島県南会津郡下郷町大内)に行ってきました。大内宿は会津若松と日光を結ぶ会津西街道の宿場としての歴史を持ち、1981年4月、重要伝統的建造物群保存地区として選定されました(旧宿場としては長野県妻籠宿・奈良井宿に続いて全国で3番目)。そして、保存・修復が進み、観光地としても注目されて、現在では年間百万人を超す人気観光地になりました。

 ここには旧村社高倉神社があります。祭神は後白河天皇第2皇子高倉宮以仁王です。以仁王は平清盛の主導する六波羅平家政権打倒に蹶起して、1180(治承4)年5月26日、宇治合戦において敗死しますが、治承・寿永の内乱の嚆矢として、歴史に名を残します。悲運の以仁王を祀った神社としては、流れ矢で戦死した地とされる光明山鳥居前(京都市木津川市山城町綺田鳥居)を由緒とする高倉神社(同市山城町綺田神ノ木)と、生き延びて後に死去した地と伝える地にある高倉神社(京都府綾部市里町向屋敷)とがあります。いずれも以仁王が亡くなった地を由来とするところの鎮魂の社です。これに対して、大内宿の高倉神社は、東国へと遁れた以仁王が越後国の小国順之を頼る途上に、当地に一時滞在したとの伝承に由来するものです。しかも、当時は山本村といっていたのを、当地が大内裏に似ていると王がしたので、大内と改名したとの伝承もあります。この伝承がどの様にして形成されたか、この経緯は不明としかいえません。治承・寿永の内乱においては、越後国の最有力豪族で平家方として信濃源氏との信濃国横田河原合戦(1181年6月)で敗北した城氏の勢力圏に会津地方はありました。従って、何故そのような伝承が生まれたかが不可思議なところです。

 さて、大内宿を訪れましたから、これを含み、高倉神社の写真をお見せします。撮影は2015年2月26日(木)です。写真1は、宿北側の見晴らし台上から見下ろした全景です。

 写真2は、玉屋の氷柱越しに見た街並みです。

 写真3は、土産物店となった山田屋です。

 写真4は、街並みを北へと撮ったものです。

 写真5は、高倉神社三の鳥居です。一の鳥居は街並みのほぼ中央の火の見櫓に対面して西にあります。ここから、約200mほどです。

 写真6は、高倉神社社殿で、小丘の森の上にあり、さらにこの奥には「王三段」と称される以仁王の滞在伝承地があります。写真で御覧のように、社殿前の燈籠も雪で埋もれ、そこには行きませんでした。

 なお、フォトアルバム「大内宿」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngpkbXDxRpMMe-6tGPQです。

(2015.02.27)

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「中国人の日本語作文コンクール」支援へ

 2015年2月2日(月)午後、「中国人の日本語作文コンクール」(主催日本僑報社・日中交流研究所)を支援しようとする会の発足を目指して、初めての集まりが、日本僑報社(東京都豊島区西池袋3-17-15)にて開かれ、中国での日本教師経験者を主体に約20名近くが集いました。ちょうど、第10回の最優秀賞者の姚儷瑾さん(上海・東華大学3年生)の来日歓迎も兼ねていたため、NHKテレビの取材陣も来ていました。

 今後、積極的に「中国人の日本語作文コンクール」を支援していくため、何が出来るか、各自の体験も交えて、活発に話し合いが行われて、本年中に「中国人の日本語作文コンクールを支える日本語教師の会」(仮称)を発足させることにしました。なお、正式発足までは、日本僑報社代表段躍中氏(03-5956-2808 info@duan.jp)にご連絡ください。

 写真は集いにおける姚儷瑾さんです。この後、場所を移して姚儷瑾さんの歓迎宴を行い、大いに盛り上がりました。

(2015.02.03)

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茅ヶ崎城址―歴史雑感〔17〕―

 今回は中世城郭址の茅ヶ崎城を紹介します。茅ヶ崎城址は横浜市都筑区茅ヶ崎東2丁目に所在し、発掘調査後に横浜市立茅ヶ崎城址公園として整備されて、2008年6月に開放されました。最寄り駅は横浜市営地下鉄グリーンライン・ブルーラインのセンター南駅かバスのセンター南停留所(センター南広場)です。広場の南が茅ヶ崎城址入口交差点で、表示に従って、東へと上がって行くと、公園入口となります。徒歩約5分です。

 茅ヶ崎城址は横浜市北部で「小机城址」と並んで保存状況のいい城址です。本城の規模は東西330m・南北200m、面積約5万5千㎡、比高約20mで、小丘上に設けられています。本城は治安年間(平安時代中期)に多田行綱による築城との伝承もありますが、発掘調査の結果、14世紀末から15世紀前半頃に東・西郭が築城されて、15世紀後半に西郭が中郭と西郭に分割され、さらに北郭が設けられたと推定され、この築城と改修は関東管領上杉氏時代のものです。そして、16世紀中頃に土塁間に空堀が掘られて強化され、これは後北条時代です。後北条時代の城主としては『小田原衆所領役張』に小机衆で茅ヶ崎一帯の領主として記載のある座間氏とも考えられています。

 写真1(2015年1月29日撮影)は、公園入口から上って、西郭へと向かったところの西郭虎口です。南側から撮ったもので、左側が西郭で右側が中郭で、奥が北郭です。くの字型の虎口であることがお分かりでしょう。ここには虎口の説明版があり、公園内には随所に城址に関する説明版があり、城址の理解を助けています。

 写真2は、西郭(右)と中郭(左)間の空堀を北側から撮ったものです。この空堀は後北条氏時代のものと推定されています。両郭の土塁間を掘り下げて、空堀としたものです。中郭側の傾斜は70度に達していて、防御性の高いものとなっています。

 写真3は、西郭(標高34m)を南土塁上から撮ったものです。この土塁は西に行くほど幅広になっています。

 西郭南土塁に沿って東に行くと、中郭への上りに出ます。写真4は、中郭内にある遺構です。2005年代7次発掘調査で多数の柱穴や土坑が見つかり、掘立柱建物(倉庫群)が並んでいることが分かりました。この建物3・5・7の柱穴上に、目印の石を置くことで、遺構(掘立柱建物)を明らかにしたものです。手前が建物7、奥左が建物3、奥右が建物5です。

 写真5は、土塁西南角上から撮った中郭(標高33m)です。御覧のように中郭は四囲を土塁で囲まれています。土塁西南角は高さ3m以上あり、平場となっており、何らかの施設が設けられていた可能性があります。

 中郭から戻り、さらに東に行ったところが東郭です。写真6は、西南から東北方向へ撮った東郭(標高35m)です。西郭・中郭と異なり、東郭には御覧のように土塁がありません。東郭は本城の最高地点に位置して、東西50m・南北20mの不整長方形で、本郭と推定されています。

 写真7は、東郭から見た中郭と北郭です。中郭との間の空堀には左手前に見るように、土橋があります。ただ、北郭・西郭の土橋と異なり、空堀を残して出来たものではなく、盛り土で出来たものであることが発掘調査で判明しているところから、空堀形成以後のものと推定されます。

 中郭に戻り、北に下ると北郭です。写真8は、西より東へと北郭を撮ったものです。奥右側の茂みが東郭で、その下が腰郭、そして民家のある辺りが後に増設された東北郭の辺りです。

 最後の写真9は、中郭にある「平成12年発掘時の茅ヶ崎城址図」です。

 なお、フォトアルバム「茅ヶ崎城址」はhttps://1drv.ms/u/s!AruGzfkJTqxngrBqn9yqpvRLLtq72w?e=Io70f2です。

(2015.01.30)

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大綱橋からの元旦富士

 2015年元旦(木)、東急東横線綱島駅南の鶴見川にかかる大綱橋(綱島街道)から、元旦富士山を見ました。昨年は雲に隠れて見えませんでしたが、本年は雲にかかった富士山が見えました。そこで、ペンタックスK7(DA300-55)で撮った写真2点をお見せします。

 写真1は、富士山全景です。望遠いっぱいでのものです。

 写真2は、東急東横線の鉄橋を通過する東急車輌を写し込んだものです。

(2015.01.01)

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2014年度記事目次

 甲午年を終わるに当たって、2014年度(1~12月)記事目次を掲載します。なお、前回までは「『歴史と中国』https://kanazawa45.wordpress.com/記事目次(上)」(2011年10月21日付)、「『歴史と中国』https://kanazawa45.wordpress.com/記事目次(下)」(2011年10月21日付)、「『歴史と中国』2010年度記事目次」(2011年10月22日付)、「2011年度記事目次」(2011年12月31日付)、「2012年度記事目次」(2012年12月31日付)、「2013年度記事目次」(2013年12月31日付)です。

では、乙未年がよいお年で。

01.01 師岡熊野神社初詣

01.30 小田原城―歴史雑感〔12〕―

02.25 「奥州合戦」における鎌倉幕府軍の構成(その3)―歴史雑感〔9〕―

三、交名の門葉構成

03.10 小田原城御用米曲輪―歴史雑感〔13〕―

03.25 「奥州合戦」における鎌倉幕府軍の構成(その4)―歴史雑感〔9〕―

四、交名の武士御家人構成

04.25 高遠城址公園の桜

05.21 石橋山古戦場址―歴史雑感〔14〕―

06.10 石橋山合戦(その1)―歴史雑感〔15〕―

一、源頼朝軍の構成

06.15 2014年西南交通大学日本語学科卒業答弁会―成都雑感〔154〕―

06.20 2014年夏の春熙路―成都雑感〔155〕―

07.19 伊東祐親関係遺址―歴史雑感〔16〕―

08.10 石橋山合戦(その2)―歴史雑感〔15〕―

二、大庭景親軍の構成

09.05 石橋山合戦(その3)―歴史雑感〔15〕―

三、合戦の経過〈石橋山合戦〉

09.29 西安交通大学日語系1期生・卒業25周年同窓会

10.05 慕田峪長城―中国雑感〔16〕―

11.25 石橋山合戦(その4)―歴史雑感〔15〕―

四、合戦の経過〈椙山合戦

12.01 大倉山公園の紅葉

12.17 2015年の中国の祝日―中国雑感〔17〕―

12.31 2014年沿記事目次

(2014.12.31)

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2015年の中国の祝日―中国雑感〔17〕―

 明年の祝日(休日)に関して、昨日(2014年12月16日)、国務院の通知「国務院弁公庁関于2015年部分節假日安排的通知」が国務院公式サイトにアップされ公表されました。国務院の通知原文は次のページです。

http://www.gov.cn/zhengce/content/2014-12/16/content_9302.htm

また、カレンダー表示(「図解:国務院弁公庁関于2015年部分節假日安排的通知」)は、

http://www.gov.cn/xinwen/2014-12/16/content_2792236.htm

です。これによる明年の休日は次の通りで、これに基づいて、中国の公的機関は休日を実行します。民間もこれを基準に休日を組みます。つまり、明年の休日日程が定まったわけです。

一 元旦(1月1日)

1月1日(木)~3日(土)を休日。

4日(日)〔2日・金〕振替出勤日。

二 春節(旧暦元旦 2月19日) 法定休日(旧暦正月1日~1月3日)

2月18日(水)~24日(火)の7日間を休日。

2月15日(日)〔18日・水〕、28日(土)〔24日・火〕振替出勤日。

三 清明節(4月5日)

4月4日(土)~6日(月)の3日間を休日。

四.労働節(5月1日)

5月1日(金)~3日(日)の3日間を休日。

五 端午節(旧暦5月5日 6月20日)

6月20日(金)~22日(日)の3日間を休日。

六 中秋節(旧暦8月15日 9月27日)

9月26日(土)~27日(日)の2日間を休日

七 国慶節(10月1日) 法定休日(10月1日~3日)

10月1日(水)~7日(火)の7日間休日。

10月10日(土)〔6日・火〕振替出勤日。

(2014.12.17)

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大倉山公園の紅葉

 横浜市港北区大倉山の大倉山公園は梅園で知られていますが、楓と銀杏があり、紅葉します。そこで、本公園の紅葉をお見せします。2014年11月30日(日)の撮影です。日曜とあって、デジ一眼の撮影者を見かけました。

なお、フォトアルバム「大倉山公園の紅葉」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngpkaYh8d48Gm-BZpQAです。

(2014.12.01)

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石橋山合戦(その4)―歴史雑感〔15〕―

(その1)一、源頼朝軍の構成

(その2)二、大庭景親軍の構成

(その3)三、合戦の経過〈石橋山合戦〉

(その4)四、合戦の経過〈椙山合戦〉

(その5)五、源頼朝軍の参軍者の合戦後

四、合戦の経過〈椙山合戦〉

 日夜に一時戦闘を休止した両軍ですが、『吾妻鏡』では「暁天」に至り、頼朝が椙山に後退しようとしたところ、景親が暴風雨の悪天候を押して追撃しますが、大庭方の飯田家義が景親を妨害したため、この隙に頼朝が後退できたとします。次いで、翌二十四日条では、前日条が簡略なのに比して詳細に記述しています。これによると、椙山堀口辺(場所は石橋山の後方で箱根外輪山寄りと思われますが、詳細な場所は不明です)に陣を構えた頼朝に対して、景親が全力で攻撃し、頼朝さらに後方の峰に後退します。加藤景員父子・宇佐美政光兄弟・佐々木高綱・天野遠景・堀親家等が防戦しますが、乗馬は多く矢に斃され、頼朝はここで自ら矢を射て、「百発百中之芸」を見せます。矢が尽きたので、さらに後退し、高綱等が矢を射て防戦します。この間、北条時政父子も防戦しますが、疲労により峰を登れず、頼朝に追従できませんでした。また、ばらばらになった各人は頼朝を追従しようとして険しい峰を登ります。ここで、臥木に立っていた頼朝に会います。土肥実平が側にいて、「皆無事なのは喜ばしいが、人数がいては隠れることが難しいか。頼朝のことは自分が何とかする」と皆に言います。頼朝が供を許そうとすると、実平が、「今の別離は後の大幸だ。命を全うして、会稽の恥を雪げ」と重ねて言います。これにより、皆は涙を流して別れます。その後、飯田家義が頼朝の念珠を持参して来、供を願いますが、これも別れます。北条時政・義時父子は箱根湯坂(湯本)を経て甲斐国へと赴こうとし、他方、北条宗時は、平井郷を経て早川辺で伊東祐親軍に包囲されて、紀六久重に射殺されます。また、工藤茂光も歩行困難により自殺します。

 景親は飛散した頼朝軍を捜索して頼朝を捕捉しようとします。この時、頼朝の隠れ場所を知っていたのにもかかわらず、梶原景時は景親の手を取って別の山に導きます。夜に入り、時政が頼朝と合流します。この時、箱根山別当行実が弟永実に食料を持たせて、頼朝を捜し求めます。永実はまず時政に出会い、時政と共に頼朝に会います。食料を献じたので、一同にとって値千金でした。その後、永実の手引きで箱根山神宮寺に至り、行実の宿坊では参詣者の出入りが激しいので、永実の家に入ります。なお、行実は父良尋の頃から為義・義朝と関係があり、頼朝の伊豆流人時代に御祈祷をしていました。

 以上が『吾妻鏡』による椙山合戦の描写です。要するに、大庭軍の早朝からの追撃に、頼朝軍は追いまくれ、後退を重ねて、各人が散り散りとなり、ようやく頼朝は箱根山外輪山に潜んで、夜に入り、箱根山別当行実の与力で箱根山神宮寺に隠れることが出来たのです。

 『延慶本平家物語』での合戦の記述はどうでしょうか。まず、暁方(未明)に頼朝軍は土肥へと後退します。この時、頼朝はこの後陣にいて矢を射返せと言いますが、誰も答えずに後退します。堀口まで後退したところで、加藤景廉・佐々木高綱等が反撃し、矢が尽きて後退したところで夜が明け、24日辰刻(8時)にさらに上の山に至った時、荻野五郎末重(俊重)父子等が追いすがり、頼朝が一人で返し矢を射ます。頼朝の矢は末重の鎧の袖を射貫きます。大見平次(家秀)もこれに加わり防ぐ間に、頼朝は椙山に後退します。沢宗家はここで戦死します。工藤茂光も自害します。北条宗時は伊東祐親軍に討ち取られます。頼朝が臥木に腰を下ろしているところに皆が集まりますが、固まっていると安全でないというので、各自が落ちていきます。北条時政・義時父子は甲斐国へと向かいます。加藤景廉と田代信綱は伊豆国三島社に隠れ、さらに兄景員と合い、甲斐国を目指します。ほかの人々は伊豆・駿河・相模等の山に隠れます。頼朝に同行したのは土肥実平等6人です。

 『延慶本平家物語』では梶原景時のエピソードが見えない点を除くと、頼朝軍が大庭軍に押しまくれ後退を重ね、頼朝自身も矢を射て防戦したと、合戦経過は『吾妻鏡』と基本的に変わりません。しかし、合戦後の箱根山別当行実の件は触れておらず、頼朝の隠れている経緯は述べていません。また、時政が頼朝に出会わずに、甲斐に向かったとしています。

 さて、この敗戦で頼朝は如何して生き残ることが出来たのでしょうか。頼朝に最後まで供をした武士は、『延慶本平家物語』によると、土肥実平、子息遠平、甥実重(『系図纂要』第八冊では遠平弟)、土屋宗遠(実平弟)、岡崎義実(『系図纂要』第八冊により、実平姉妹が妻)と実平家人七郎丸の6人です。すべて、実平縁者です。このことは、実平の本拠地は土肥郷であることから、箱根山南部外輪山(土肥郷後背地)の地理に両軍中で一番精通しており、実際に供をした武士が上記の面々であるかは物語の性質上確定できませんが、実平が一族をあげて頼朝を保護せんとした象徴的人々といえます。すなわち、戦場地とその後背地である箱根山を地元とした土肥一族の存在です。この地元の地理に精通した土肥一族の全力を挙げた支持が、敗戦後の頼朝の逃走に何よりも力となったことです。従って、『吾妻鏡』の記す箱根山別当行実の弟永実と頼朝の出会いは偶然のものではなく、石橋山合戦開始に際して、兵力差から敗戦を予期した実平が、敗戦後の逃走に備えて、事前に何らかの連絡を行実にして、敗戦後も連絡を保ったとみるべきです。また、その後、北条時政が甲斐国へと赴こうした時、行実と同宿の南光房が道案内として、「山臥の巡路を経て」(『吾妻鏡』同月廿五日条)とあるように、永実の行動には箱根山の修験道としての経験が利したといえましょう。土肥一族と箱根山修験道の存在が頼朝を助けたのです。

 頼朝の箱根山への具体的な逃走路は史料からは明確には読み取れないので、確実なことは分かりません。この点に関しては、湯山学氏が、『相模武士』第3巻中村党・波多野党2011年戒光出版において、伝承を加味しつつ考証されており、推定逃走路を地図化しています(頁27図3)。これを参照して下さい。

(続く)

(2014.11.25)

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慕田峪長城―中国雑感〔16〕―

 北京行を利用して、2014年9月29日(月)、慕田峪長城に行ってきました。慕田峪長城は北京市懐柔区渤海鎮慕田村にあり、市内北北東約60kmに位置しています。東の1号楼(大角楼)から西の23号楼まで約2250mが開放されています。本年6月に改修が終わり、慕田峪村井手前に駐車場と游客中心(チケット売り場)が設けられて、中心から商業ストリートを過ぎると専用バス乗り場で、ここから南チケットチェック口手前(約3km)までを結んでいます。開放時間は7時~17時30分(4~10月)・8時~17時(11~3月)、入場料45元、専用バス15元(往復)・10元(片道)、ロープウェー100元(往復)・80元(片道)、スライダー100元(往復)・80元(片道)です。市内からは東直門外発の867旅游専線(7時・8時30分、帰路14時・16時 16元)です。

 上り下りとも徒歩で、8号楼から14号楼を巡りました。さて、写真1は、10号楼手前から8号楼を見たもので、後部上方に見えるのは大角楼(1号楼)です。

 写真2は、10号楼を過ぎて11号楼(右手)へ分かれ道のところから、13・14号楼を見上げたものです。

 写真3は、本道を上がったところから、逆の後方へと10号楼から大角楼への長城を撮ったものです。手前左手の路が11号楼への長城です。中段右手に見えるのは6号楼のロープウェー乗り場です(スライダー下りもここです)。

 写真4は、12号楼を過ぎて見た10号楼からの湾曲した長城です。写真に見るように、慕田峪長城の特異点は胸壁の両側共に射撃用の凹みが切られていることです。この胸壁は本地点のみで、対倭寇戦の名将として知られる威継光(1528~1588年)が慶・万暦年間に修復完成したものです。敵が長城線を超えても、背後から攻撃できるようにしたそうです。

 写真5は、14号楼付近からの15号楼~23号楼への遠望です。

 写真6は、14号楼を過ぎて、19号楼~21号楼への急坂の長城のところを撮ったものです。

 なお、慕田峪長城の公式サイト『慕田峪長城』はhttp://www.mutianyugreatwall.com/です。また、フォトアルバム「北京・慕田峪長城」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngpkTqhB8YnDtWnkK6Aです。最後は公式サイトの慕田峪長城案内図です。

(2014.10.06)

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西安交通大学日語系1期生卒業25周年同窓会

 2014年9月26日~28日、ビレッジ式休暇村の風山温泉俱楽部(北京市昌平区蟒山路1号)において、西安交通大学日語系1期生(1985年入学・89年卒業)の卒業25周年同窓会を開きました。中国各地および日本から8名(全14名 女子9名・男子5名)の同窓生が集いました。26日夜に俱楽部入りして、翌27日、昼間は隣接する蟒山国家森林公園の南麓部を散策して、午後は餃子造に励み、夕方の宴となり、夜は温泉とカラオケで過ごしました。

 写真1は、26日夕方、北京市内に集合した同窓生が日語系の創設者である顧明耀教授の臨席をたまわり、開いた宴でのものです。

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 写真2は、俱楽部前で撮ったものです。

(2014.09.29)

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石橋山合戦(その3)―歴史雑感〔15〕―

(その1)一、源頼朝軍の構成

(その2)二、大庭景親軍の構成

(その3)三、合戦の経過〈石橋山合戦〉

(その4)四、合戦の経過〈椙山合戦〉

(その5)五、源頼朝軍の参軍者の合戦後

三、合戦の経過〈石橋山合戦〉

 合戦自体を記述した史料としては『吾妻鏡』と『平家物語』諸本があります。『吾妻鏡』は鎌倉期の基本史料ですが、やや簡潔ですから、本来は物語(文学)として虚構を含みますが、適宜『平家物語』、とりわけ『延慶本平家物語』第二末之十三石橋山合戦を利用することにします。

 合戦は1180(治承4)年8月23日(ユリウス暦9月14日)に開始されます。『吾妻鏡』同日条では、寅刻(4時)に石橋山に頼朝は陣を張ります。そして、23日未明に陣を構えて、待機しているところに、大庭軍が到着して対峙し、次いで、「丸子河」(酒匂川)辺に立ち上る煙を見て、大庭景親は三浦一族の到来を知ることになります。時に「晩天」とありますから、夕刻以降となります。これでは、頼朝軍は夜に進軍して、未明に石橋山に到り、陣を構えて日中を過ごして、夕方まで至ったことになり、不自然さを感じます。

 これに対して『延慶本平家物語』では、同日夕方に土肥を出発した頼朝軍は、早川(小田原市早川)まで進出しましたが、湯本方面からの側面攻撃を受けて包囲される恐れがあるので、後退して石橋山に陣を構え、山腹に盾を並べ、海岸道に逆茂木を設けるなど、防御態勢を取ります。そこへ大庭軍が押し寄せ、谷を挿んで対峙したとあります。時に酉刻(18時)でした。すなわち、土肥出発は夕方ではなく朝方の誤謬で、早川まで進出した頼朝軍は、小田原方面に大庭軍が進出中であることを知り、狭いとはいえ早川の平場での戦闘を不利と考えて、後退して山(石橋山)に陣を取り防御態勢を取ったところに、大庭軍が到着して、玉川の谷(現石橋の集落)を挿んで南の頼朝軍と北の大庭軍が対峙したことになり、これが夕刻ということになります。ただ、谷川の谷は南北の山間が約300m以上ありますから、確かに頼朝軍は参上に陣を構えたでしょうが、大庭軍は山上ではなく、谷の玉川北岸に陣を構えたといえます。以上の両書の記述は『延慶本平家物語』に信憑性があり、頼朝軍が先に石橋山に防御を構えたところに大庭軍が到着して、両軍が石橋山に対峙したのは23日夕方といえます。

景親は夕刻にもかかわらず攻撃を開始しようとします。朝方から戦闘を開始するのが常法なのに、翌朝を待たずにあえて暗くなる夕刻に戦闘を開始しようとする理由を、『吾妻鏡』『延慶本平家物語』ともに、三浦軍の頼朝軍への合流前に単独の頼朝軍を撃破するためとしています。これに加えて、戦線が膠着すれば、遅くとも頼朝の山木夜討ちから日を発てずに蜂起した甲斐源氏軍と頼朝軍との合流の可能性があることがあげられます(秋山敬氏、「治承四年の甲斐源氏」『甲斐の成立と地方的展開』1989年角川書店)。すなわち、頼朝軍・三浦軍・甲斐源氏軍の3者合流前の決着です。三浦軍は一族の総力を挙げての出撃でしょうから、頼朝軍の3百騎を上回る軍勢であろうし、甲斐源氏(具体的には安田義定を主力とした軍)の軍勢はそれ以上と推定できます。いわば、頼朝軍が一番弱勢であったといえますから、景親が兵力の格差(大庭軍3千騎)に物をいわせて、夜に入る不利を承知で、短時間に撃破できるとして、攻撃に出たことはそれなり合理性があるといえましょう。

 『吾妻鏡』では、頼朝軍が小勢にかかわらず奮闘し、佐奈田義忠主従が戦死し、そして、「暁天」に至り「椙山」に頼朝が遁れるとなっています。そこで、『延慶本平家物語』により戦闘の経過を見てみます。開戦を決意した景親は、まず開戦の合図として3千騎にときの声を上げさせ、鏑矢を射ます。鏑矢は開戦を告げるものとして、これを射ることは当時の合戦の作法でした。これを受けて、頼朝軍からは北条時政が、大庭軍からは景親が出て、声合戦を行います。これも作法です。以上開戦の作法に従った記述となっています。ただ、実際に声合戦があったかどうかは定かではありません(なお、あったとすれば、それは後述の迂回策のカムフラージュでしょう)。そして、頼朝軍は佐奈田義忠を先陣に、大庭軍は景親の弟俣野景尚(久)を先陣にして、戦闘を開始します。時に「廿三日のたそがれ時」とあります。先の「酉刻」とは17~19時の間を指しますから、現在の9月14日の小田原の日没は17時53分ですから、戦闘はまさしく日没前後に始まったことになります。この日は雨が降り、夜に入ると豪雨となりますから、雨と暗くなろうとしているところで戦闘は始まったことになります。義忠と景久が組み合った時、景久の従兄弟長尾爲宗が「暗さはくらし」のため、組み合った上下の何れが敵(義忠)かと問いました。実際にこの場面があったかは疑問ですが、すでに日没となり、闇夜で戦闘が行われたことになります。

 では、義忠と景久は何処で戦闘を交え、義忠は戦死したのでしょうか。義忠戦死伝承地として「ねじり畑」があります。当地は佐奈田神社から南に下った小谷の途上にあり、谷南の小丘上には義忠郎従豊三家安を祀った文三堂があります。玉川の谷北側に布陣した大庭軍に対して、南方の山上に布陣したのが頼朝軍です。佐奈田神社は南約200mに位置しています。すなわち、義忠戦死伝承地は頼朝軍の布陣したところからは背面に当たるわけです。頼朝軍の布陣した山は谷から標高差約100mはあり、その斜面は急傾斜地です。現在は大きな木はそれほどありませんが、当時は現在以上に木々は密生していたと思えます。とすると、この斜面を登って、正面から頼朝軍を攻撃、それも暗い中ですることは兵力差があるとはいえ上策とはいえません。『延慶本平家物語』には攻撃前進をする俣野勢を「弓手(左)は海妻手(右)は山暗さはくらし雨はゐにいて降る」と記述しています。すなわち、大庭軍は、山正面では矢合わせを主体として牽制し、その間に海岸道から搦め手(背面)に迂回する作戦をとったと考えるのが合理的です。この動きを察した頼朝が迎撃のため義忠を向かわせたことになります。しかし、義忠勢は「十七騎」、景久勢は「七十三騎」と兵力差もあり、義忠の奮闘にもかかわらず、義忠主従の戦死でこの戦闘は大庭軍の勝利で終わったことになります。すなわち、海岸道の逆茂木を排除して南下した景久勢が頼朝軍の背後に回り、現佐奈田神社付近で義忠勢と戦闘になり、「山のそわを下りに大道まて三段計そころひたる」と、組み合いながら斜面を転げて、「ねじり畑」付近で義忠が戦死したと考えます。この俣野勢の攻撃は「馬次第にそ懸たりける」と騎乗で行ったことになっていますが、逆茂木を排除して、背後から頼朝陣へ回るには正面ほどではありませんが、木々の生えた斜面を上らなければならないので、馬より下りて徒歩で斜面を上がったと考えます。そして、、『吾妻鏡』『延慶本平家物語』ともその後の戦闘については記述がなく、暁に至るとあります。このことは、すでに夜に入り、かつ豪雨となり、視界を求めようがないので、戦闘を一時停止しなければならなくなり、大庭軍は攻撃を休止したといえます。要するに両軍とも戦闘を休止し、対峙に移り、翌24日早朝を迎えることになります。すなわち本合戦の初日の石橋山の部の終了です。

(続く)

(2014.09.04)

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石橋山合戦(その2)―歴史雑感〔15〕―

(その1)一、源頼朝軍の構成

(その2)二、大庭景親軍の構成

(その3)三、合戦の経過〈石橋山合戦〉

(その4)四、合戦の経過〈椙山合戦〉

(その5)五、源頼朝軍の参軍者の合戦後

二、大庭景親軍の構成

 大庭景親軍に関しては『吾妻鏡』に交名記載がないので、石橋山合戦当日記事の治承四年八月二十三日・二十四日条に見える大庭軍参軍者は次の通りです。

1.大庭三郎景親(大庭景親・相模国大庭氏族大庭流)

2.俣野五郎景久(俣野景久・相模国大庭氏族大庭流)

3.河村三郎義秀(河村義秀・相模国秀郷流波多野氏族河村流)

4.渋谷庄司重国(渋谷重国・相模国秩父氏族渋谷流)

5.糟屋権守盛久(粕屋盛久・相模国藤姓)

6.海老名源三季貞(海老名季貞・相模国横山党)

7.曽我太郎助信(曽我祐信・相模国)

8.瀧口三郎経俊(山内経俊・相模国須藤氏族山内流)

9.毛利太郎景行(毛利景行・相模国)

10.長尾新五爲宗(長尾爲宗・相模国大庭氏族長尾流)

11.同新六定景(長尾定景・相模国大庭氏族長尾流)

12.原宗三郎景房(原宗房・相模国惟宗姓)

13.同四郎義行(原行能・相模国惟宗姓)

14.熊谷次郎直実(熊谷直実・武蔵国私市党)

ここまでは景親軍「三千余騎」として記載されている景親以下の歴名です。以下は記事中に出現する参軍者です。

15.飯田五郎家義(飯田家義・相模国)

16.梶原平三景時(梶原景時・相模国大庭氏族梶原流)

17.荻野五郎俊重(荻野俊重・相模国横山党)〔本項のみ十月十二日条〕

17名中、本貫が相模国16名、武蔵国1名と、相模国武士が圧倒的です。「大庭三郎景親云々、これ禅門(平清盛)私に遣わすところなり」(『玉葉』治承四年九月十一日条)と清盛が相模国有力武士で在京中の景親を東国の反乱対処に帰国させたものですから、同国の武士を動員して頼朝軍に当たったのは当然なことで、かかる構成となったといえます。さらに、熊谷氏のように、一部の武蔵国武士も動員に応じたことになります。

 相模国武士では5名が大庭氏族、すなわち鎌倉党と呼ばれた景親の一族で、同党が主力であることを示しています。また、河村義秀と山内経俊のように、故義朝縁者が、頼朝の参軍要請(『吾妻鏡』同年七月十日条)に反して、景親軍を構成していることです。以上、相模有力武士は大きく分けて、土肥氏を中心とした中村一族と三浦一族の頼朝軍に対して、鎌倉党、それに波多野一族の景親軍という色分けになります。

 これに、大庭軍とは別に、伊豆国から頼朝軍を追従してきた伊東祐親軍が加わります。これに参軍した武士で『吾妻鏡』に記載のあるのは、

18.伊東二郎祐親法師(伊東祐親・伊豆国工藤氏族伊東流)

19.小平井紀六久重(小平井久重・伊豆国)

の二人です。久重は名乗りに「名主」とあるので、本貫は不明ながら、名主級の小武士で、伊東氏の郎従と考えてもよいのではないでしょうか。すなわち、祐親軍の主力は伊東一族ということになります。

(続く)

(2014.07.10)

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伊東祐親関係遺址―歴史雑感〔16〕―

 2014年7月17日(木)、伊東祐親関係遺址を訪れました。伊東祐親は同族の工藤(狩野)茂光とともに治承・寿永の内乱期の伊豆国を代表する豪族武士で、加茂郡伊東庄(静岡県伊東市市街周辺)を本貫としていました。茂光が源頼朝に組みしたのに対して、祐親は平家に組みしました。このため、富士川合戦での反乱軍勝利後、伊豆国で頼朝の捕虜となり、娘婿の相模国随一の豪族三浦義澄に預けられ、2年後の1182(寿永元)年2月14日に自殺して生涯を終えます。

 写真1は、最初に訪れた葛見神社(祭神倉稲魂命=稲荷神)です。延喜式内小社「九豆弥社」に比定されるのが本社で、「葛見」は祐親祖父の家次(祐隆)が「葛美入道寂蓮」と称し、古くは宇佐美・伊東・河津3か郷を葛見庄と称したことで分かるように、同訓の葛美=葛見(くずみ)故、葛見神社は伊東氏の基盤である伊豆東海岸の中心神社であります。本社の祭神稲荷神は家次が勧進したと伝え、本社が歴代の伊東氏の崇敬を受けていたことが理解されます。鳥居奥に見えるのが拜殿で3間2間の鉄筋コンクリート製の切妻造で1965年建造です。1697(元禄10)年建造、2間四方の神明造の本殿は上屋で保護されて、拜殿の奥にあります。

 本社はJR東日本伊東駅から東南に約1.2kmに位置します。駅からは道を南下して伊東大川にかかる出で湯橋を過ぎ、国道135号との音無交差点(音無神社への道案内あり)で国道に入りすぐのところで、国道に分かれて道を左(南)に取り、交差点(無信号)で道を左(東)に取り行くと神社前です。

 写真2は、拜殿の左奥にある天然記念物(1933年2月28日指定)の樟です。樹齢約千年、目通り約15mという老巨木で、幹の下部は空洞となっています。なお、手前の石碑は晩年を伊東市で過ごした昭和初期の首相若槻礼次郎が寄進した「贊老樟」碑です。

 葛見神社から、道なりに上っていき、左に大きくUカーブを過ぎて少し行くと、伝伊東祐親墓(伊東市大原1-10)です。神社からは約500m余です。道の左側にあります。写真3は、祐親墓と伝える五輪塔正面です。安山岩の高140.5cmで、空風輪・火輪・・水輪が14世紀前半、地輪が13世紀のものと推定されています。なお、当地には皇太子徳仁親王訪問(1980年9月)記念の碑もあります。

 道を進み国道13号に出て、左に国道に入り市立東小学校を過ぎると、右の丘に市庁舎がそびえています。この手前が物見塚公園として整備されています。墓から約400m余です。物見が丘(物見塚)は伝伊東祐親館址です。最後の写真4は、この公園の市庁舎寄にある市が建立した伊東祐親騎馬像をとらえたものです。像の後方が市庁舎です。公園の左側(西)端からは伊東の海が一望できます。葛見神社の西一帯も伊東氏館址との伝承もあり、すると、平時の館は伊東大川東岸平地に位置して、詰めの館は物見が丘にあったとするのが、位置的見て、蓋然性があると考えることができます。とすれば、海を一望できる当地が物見が丘と称されたのも理解できます。 

 以上の他に伊東氏関係遺址として、葛見神社の別当寺であった東林寺(伊東市馬場2-2-19)、源頼朝と祐親娘の八重姫との逢瀬の場と伝える音無の森―音無神社(伊東市音無町1-12)、伊東一族の墓を供養する、音無神社西隣接の最誓寺(伊東市音無町2-3)があります。

(2014.07.19)

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2014年夏の春熙路―成都雑感〔155〕―

 中山広場を中心に東西南北に広がる春熙路は成都の中心商業街であり、2002年2月、改修が終わり、面目一新して歩行者専用道として今日に至り、日々賑わいを見せています。そこで、1年ぶりに成都を訪問した機会に、2014年6月18日(水)、夏の春熙路の様子をお見せします。

 写真1は、春熙路南段と東大街の交差点上に架かる歩道橋から、南段を俯瞰したものです。中央の赤いパラソルの下にベンチがあり、休息の場となっています。右側のビルが大型商業施設の群光広場です。

 写真2は、群光広場の北入口です。地下2階の食品街にこの6月にラーメンの「一風堂」が開店しました(豚骨ラーメン39元)。

 写真3は、南段のベンチで休む成都小姐です。後方にも小姐が見えます。

 写真4は、春熙路中心の中山広場です。左側の像が辛亥革命の指導者で国父の孫中山(孫文)です。右側に見えるのは警備の武装警察隊隊員2名です。写真ではお分かりにならないかも知れませんが、サブマシンガンで武装しています。

 写真5は、北段での清掃車です。電動モーターの駆動です。

 写真6は、北段に設置された「結婚写真」所です、中国では結婚に当たって、結婚アルバムを作成するのが普通で、成都市では費用をかけても九寨溝で写真撮影をするのが人気です。もちろん女性が主役です。

 写真7は、北段端に建てられている春熙路碑です。廻りは写真のようにいつも花で飾られています。右側の壁にあるのは中華民国時代の春熙路の様の彫刻です。

 写真8は、北段を歩く成都小姐です。

 写真9は、東段に位置するイトーヨーカドー春熙店です。中国進出の1号店で、1997年11月に開店しました。その奥が2007年5月に開店した成都伊勢丹です。伊勢丹の7階レストラン街には「とんかつ和幸」と「カプリチョーザ」が入っています。また、両店地下の食品街は四川産調味料などのお土産品購入の場としていいでしょう。

 最後の写真10は、東段から紅星路三段を挿んで、右側に見えるビルが国際金融中心(IFS)で、壁にパンダが掛かっており目立ちます。オフィス・商業施設の複合ビルです。「ユニクロ」が入っており、また地下1階に「一風堂」が開店しました。なお、「ユニクロ」は春熙路付近に3店舗が展開しています。左側が成都伊勢丹の入っている利都B座で上階は5星のホテル(成都海悦酒店)となっています。

 なお、フォトアルバム「成都・2014年夏の春熙路」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngpkg5UCqf9HdhplW1Aです。

(2014.06.20)

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2014年西南交通大学日本語学科卒業論文答弁会―成都雑感〔154〕―

 2014年6月15日(日)午前に開かれた西南交通大学日本語学科卒業論文答弁会を傍聴しました。写真はその風景で、LL教室で行われました。

 全体は4組に分かれ、この1組を傍聴しました。その9名の卒業論文題目をしまします。

〔言語類〕3編

日本語における外来語についての研究

日本のテレビ広告のキャッチフレーズにおけるオノマトペの使用実態に関する研究

日本語の受身文の翻訳について

〔日本文学類〕5編

『詩経』と『万葉集』詩作の対比研究

『河童』に見る芥川龍之介の晩期思想

堀辰雄の精神生活の変遷―『聖家族』『風立ちぬ』『菜穂子』をめぐって―

『ヒロシマ・ノート』から見る大江健三郎の平和意識

森村誠一の代表作にみた日本社会の暗い一面

〔日本文化類〕1編

中国「未成年者」犯罪と日本「少年」犯罪の実態探究

(2014.06.15)

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石橋山合戦(その1)―歴史雑感〔15〕―

(その1)一、源頼朝軍の構成

(その2)二、大庭景親軍の構成

(その3)三、合戦の経過〈石橋山合戦〉

(その4)四、合戦の経過〈椙山合戦〉

(その5)五、源頼朝軍の参軍者の合戦後

一、源頼朝軍の構成

 1180(治承4)年8月23日夕方から翌日にかけて、相模国足下郡石橋山(神奈川県小田原市石橋)で、六波羅平家政権への反乱に蹶起した源頼朝軍と平家方の大庭景親軍の間で戦われた、石橋山合戦は兵力差もあり、頼朝軍の惨敗で終わり、頼朝が命からがら箱根山に遁れた合戦として周知なものです。本合戦は治承・寿永の内乱において頼朝自身が弓を取り戦った唯一の合戦でもあります。

『吾妻鏡』治承四年八月二十日条に、伊豆国から相模国足下郡土肥郷(神奈川県湯河原町)に赴く、源頼朝軍従軍者の交名が記載されています。以下の通りです。

1.北條四郎(北条時政・伊豆国北條氏族)

2.子息三郎(北条宗時・伊豆国北條氏族)

3.同四郎(北条義時・伊豆国北條氏族)

4.平六時定(北條時定・伊豆国北條氏族)

5.藤九郎盛長(安達盛長・武蔵国足立氏族)

6.工藤介茂光(工藤茂光・伊豆国工藤氏族工藤流)

7.子息五郎親光(工藤親光・伊豆国工藤氏族工藤流)

8.宇佐美三郎助茂(宇佐美祐茂・伊豆国工藤氏族宇佐美流)

9.土肥次郎実平(土肥実平・相模国中村氏族土肥流)

10.同弥太郎遠平(土肥遠平・相模国中村氏族土肥流)

11.土屋三郎宗遠(土屋宗遠・相模国中村氏族土屋流)

12.同次郎義清(土屋義清・相模国三浦氏族岡崎流)

13.同弥次郎忠光(土屋忠光・相模国中村氏族土屋流)

14.岡崎四郎義実(岡崎義実・相模国三浦氏族岡崎流)

15.同余一義忠(佐奈田義忠・相模国三浦氏族岡崎流)

16.佐々木太郎定綱(佐々木定綱・近江国浪人佐々木氏族)

17.同次郎経(佐々木経・近江国浪人佐々木氏族)

18.同三郎盛綱(佐々木盛綱・近江国浪人佐々木氏族)

19.同四郎高綱(佐々木高綱・近江国浪人佐々木氏族)

20.天野藤内遠景(天野遠景・伊豆国工藤氏族天野流)

21.同六郎政景(天野政景・伊豆国工藤氏族天野流)

22.宇佐美平太政光(宇佐美政光・伊豆国)

23.同平次実政(宇佐美実政・伊豆国)

24.大庭平太景義(大庭景義・相模国大庭氏族大庭流)

25.豊田五郎景俊(豊田景俊・相模国大庭氏族大庭流)

26.新田四郎忠常(新田忠常・伊豆国)

27.加藤五景員(加藤景員・伊勢国浪人)

28.同藤太光員(加藤光員・伊勢国浪人)

29.同藤次景廉(加藤景廉・伊勢国浪人)

30.堀藤次親家(堀親家・伊豆国)

31.同平四郎助政(堀助政・伊豆国)

32.天野平内政家(天野政家・伊豆国)

33.中村太郎景家(中村景家・相模国中村氏族中村流)

34.同次郎盛平(中村盛平・相模国中村氏族中村流)

35.鮫島四郎宗家(鮫島宗家・駿河国)

36.七郎武者宣親(宣親)

37.大見平次家秀(大見家秀・伊豆国)

38.近藤七国平(近藤国平)

39.平佐古太郎為重(平佐古為重)

40.那古谷橘次頼時(那古谷頼時・伊豆国)

41.沢六郎宗家(沢宗家・伊豆国)

42.義勝房成尋(成尋・僧侶)

43.中四郎惟重(中原惟重・文士)

44.中八惟平(中原惟平・文士)

45.新藤次俊長(藤原俊長・文士)

46.小中太光家(中原光家・文士)

 交名従軍者46名中の武士41名を出身国別に見ると、伊豆国18名、相模国11名、駿河国1名、武蔵国1名、近江国(浪人)4名、伊勢国(浪人)3名、不明3名です。伊豆国山木攻めが蹶起の発端であり、最初の基盤が伊豆国である以上、伊豆国出身武士の従軍者数が最大多数なのは当然といえます。

 北条氏は庶流の時政親子3名に加えて、嫡流の時定(この時期の北条氏嫡庶流に関しては、杉橋隆夫氏「北條時政の出身」『立命館文学』第500号1987年3月、参照)が従軍して4名と伊豆国武士では最大数です。しかし、時定の父である北條介時兼は『吾妻鏡』の鎌倉幕府成立過程で一切所見していません。このことは、少なくとも内乱当初において、北条氏嫡流は全力を挙げて参加していないことを窺わせます。北条氏の基本的戦力は庶流である時政父子であるということです。次いで、工藤茂光親子2名に甥の宇佐美助茂を加えて工藤氏が3名です。工藤介茂光とあるように、工藤氏は伊豆国有力在庁官人で、伊豆国最有力武士の伊東祐親(茂光甥)が平家方に対して、それに本来は並ぶ有力武士です。すなわち、頼朝軍の伊豆国武士の主力は北条氏ではなく工藤氏といえます。この他、天野氏(工藤氏族と平姓の両氏)、平姓宇佐美氏、大見氏、堀氏、新田氏、奈古谷氏、沢氏と、宇佐美氏を除き田方郡を本拠とする武士が参加しています(堀氏の本拠は不明)。以上、北条氏と工藤氏を加えると、頼朝軍従軍の伊豆国武士は狩野川流域を本拠とする中伊豆の者たちです。これは平家方の伊東祐親の本貫が加茂郡伊東庄(静岡県伊東市伊東)と東伊豆を基盤としているのと対称的です。以上が伊豆国武士です。

 相模国武士では土肥実平・遠平親子と実平弟の土屋宗遠・忠光親子との、土肥氏流が4名となります。これに、中村宗平(実平父)の娘婿である岡崎義実・義忠親子と土屋義清(義実子・宗遠養子)を加えると、実平縁戚関係が7名と、頼朝軍従軍の最大多数となります。さらに、系譜類に所載はありませんが、中村宗平の孫かと思われる景平・盛平を加えると、実平縁戚者は9名となります。こうしてみると、石橋山合戦の地である土肥郷(神奈川県湯河原町)・早川庄(同県小田原市早川)を本貫とする土肥氏が頼朝軍の主力であることは明白です。他に大庭(懐島)景義・景俊兄弟の大庭氏です。以上の相模武士の本貫地を見ると、大庭景義(懐島郷=同県茅ヶ崎市矢畑付近)を除き、相模川以西の武士たちです。すなわち、相模国従軍武士は西相模を本貫とするものが基本です。

 山木攻めに参画した武士を見ると、伊豆国では北條時政・工藤茂光、相模国では土肥実平・岡崎義実と(『吾妻鏡』治承四年八月六日条)、石橋山合戦従軍武士の主力がすべており、本合戦の主力戦力が山木攻めを継続していることが分かります。すなわち、その主力は土肥氏縁戚であり、次いで工藤氏といえ、北条氏の戦力は付随的なものといえます。そして、文士といえる従軍者が4名もいることは、頼朝軍の相模国進出目的には伊豆国と同様に国衙を掌握して、地方行政権を行うことがあり、この要員としてであり、頼朝軍が単なる軍事行動を越えて、東国一体の簒奪を目的としていたことが理解できます。

(続く)

(2014.06.10)

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石橋山古戦場址―歴史雑感〔14〕―

 2014年5月20日(火)、神奈川県小田原市石橋の石橋山古戦場址に行ってきました。石橋山合戦は、伊豆国で平家六波羅政権打倒に蹶起した源頼朝が、相模国の豪族三浦氏と合流するため、3百騎の軍勢を率いて相模国に向かった途上、これを阻止すべく迎撃に向かった、相模国豪族で平家方の旗頭であった大庭景親の率いる3千騎の軍と、1180(治承4)年8月23日、戦ったものです。頼朝軍の惨敗となり、頼朝は命からがら戦場から離脱し、箱根山に逃亡・隠れて、その後、真鶴岬より海を渡り、安房国で三浦氏と合流して、再起を図りました。両総の豪族である上総広常と千葉常胤の合力を受けて、奇跡といわれる再起を頼朝は果たして、鎌倉に入城して、南関東に覇権を立て、1185年3月の檀浦海戦での勝利により、平家本宗を壊滅させ、内乱の最終的勝利者となります。

 石橋山古戦場址はJR東日本の東海道本線早川駅と根府川駅のほぼ中間の早川よりに位置します。国道135号線で早川駅から南下して、丸石橋を通過して、国道から右に分かれる旧道を行くと、案内板(駅から2Km余)があり、ここから右に道を上ったところです。写真1は、上って70mほど行ったところにある、石橋山合戦800年を記念して、1980年4月、建立された「石橋山古戦場碑」です。この手前で、道は文三堂への左と、佐奈田霊社への右へと道が分かれます。

 写真2は、文三堂(旧道から200m)です。豊(文)三家安は頼朝軍の先陣として戦死した佐奈田義忠の郎従で、義忠戦死後に、奮闘して戦死します。この文三家安を祀ったのが文三堂で、小丘上にあります。

 写真3は、佐奈田与一義忠と文三家安の墓と伝える「与一塚」です。佐奈田霊社(旧道から直行で180m)の境内にあります。文三堂への途上に、霊社への階段道があり、50段以上の階段を上っていくと、ここに至ります。佐奈田与一義忠は、三浦一族の岡崎義実の嫡男で、母が中村宗平です。すなわち、石橋山合戦の頼朝軍の主力で、合戦場を本貫地としていた土肥実平の兄弟が母です。このためでしょうか、頼朝から先陣を命じられて、大庭方の俣野五郎景久(大庭景親弟)と戦い戦死します。後方に見える堂は霊社の脇堂です。

 写真4は、佐奈田義定を祀る佐奈田霊社の本殿です。この霊社のある丘上に頼朝軍が陣を取ったと考えられています。

 写真5は、佐奈田霊社の北(早川側)から霊社のある丘とその南の文三堂のある丘を俯瞰したものです。丘といっても、箱根山外環山から舌上に延びる丘(山)で、霊社の丘の両側は川のない小さなくぼみ状の谷となっています。海岸線手前で、丘が急に落ちていることがお分かりでしょう。この地形からして、頼朝軍は霊社のある丘上に陣を構えて、早川から海岸線の道を進んだ大庭軍は南北の谷から攻め上がったと考えます。

 写真6は、石橋山から北に眼下に玉川の谷間海岸寄りにある石橋の集落を挟んで北側の斜面をも写し込んだものです。御覧のように北側の山は急斜面で、石橋山の北斜面も同様に急斜面です。大庭軍は小田原方面から行軍して、玉川北岸にまず布陣したといえます。なお、下の鉄道は東海道本線で、通過中の電車は特急踊り号です。

(2014.05.21)

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高遠城址公園の桜

 「日本さくら百選」(日本さくらの会)に選ばれ、桜「三大名所」といわれる、長野県伊那市高遠町の高遠城址公園の桜を、2014年4月20日(日)、愛でに行きました。本公園は名前の通り、諏訪氏の一族高遠氏が築城して、武田氏から江戸時代(保科氏・鳥居氏・内藤氏)を経て、明治維新で廃城となった高遠城(「日本100名城」日本城郭協会)を、明治時代前期に公園化が始まり、以後規模を拡大整備して現在に至っている公園です。本公園には1875(明治8)頃から、本地の固有種であるタカトウコヒガンザクラが城址内に植樹され始め、樹齢約130年を越える古木のほか、現在約1500本があります。16日に満開となり、最後の日曜日と重なり、多くの観桜客で賑わっていました。

 写真1は、南ゲートから入った法幢曲輪から町街南方向を見たものです。桜が咲き誇っていることがお分かりでしょう。

 写真2は、本丸から勘助曲輪の大型バス駐車場へと撮ったものです。この日は写真で見るように満車でした。

 写真3は、最も人気のある、本丸と二の丸を結ぶ桜雲橋です。二の丸側から撮ったものです。ここでは警備員が出て、交通整理を行っていました。

 写真4は、本丸と二の丸間の堀途上から、桜雲橋を撮ったものです。

 写真5は、本丸内の桜です。

 最後の写真6は、本丸内の桜のアップです。

 なお、フォトアルバム「桜の高遠城址公園」のURLはhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngpkty68C5Bw94dkPUgです。

(2014.04.25)

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「奥州合戦」における鎌倉幕府軍の構成(その4)―歴史雑感〔9〕―

(その1)一、東山道軍の交名一覧

(その2)二、交名の国別構成

(その3)三、交名の門葉構成

(その4)四、交名の武士御家人構成

四、交名の武士御家人構成

 門葉に次いで、武士御家人の配列構成の分析です。武士御家人では21の三浦義澄がトップです。34の南部光行・35の平賀朝信の門葉を別として、以後、一部に文士御家人を夾みますが、武士御家人となります。義澄に次いで三浦義村・佐原義連・和田義盛・和田宗実・岡崎義実・岡崎惟平・土屋義清と、28までの8人が相模国三浦一族関係です。29の小山朝政から、長沼宗政・結城朝光・下河辺行平・吉見頼綱(武蔵国吉見郡が名字の地といえる吉見頼綱は『結城系図』〔続群書類従第六輯下系譜部所収〕に小山政光養子として見えます。よって、『吾妻鏡』文治五年七月二十五日条に小山政光「猶子頼綱」と見えるのは吉見頼綱のことです。以上、吉見頼綱は小山氏族関係です)と、33までの5人が下野国小山一族関係です。次の36の小山田重成・37の榛谷重朝、と武蔵国畠山一族関係(兄弟)です。38の藤九郎盛長、39の足立遠元は後で述べます。40の土肥実平・41の土肥遠平と、相模国土肥一族関係(父子)です。42の梶原景時から、梶原景季・梶原景・梶原景茂・梶原朝景・梶原定景と、47までの6人が相模国梶原一族関係です。48の波多野義景・49の波多野実方と、相模国波多野一族関係です。以上、武相両国の有力御家人が配列されています。このように、ここまでの配列記載は鎌倉幕府を代表する有力御家人一族が連続して纏まって記載されています。

 50以下でも、52の中山重政・53の同為重の武蔵国中山氏、58の豊島清光・59の葛西清重・60の同十郎の武蔵国豊島一族、61の江戸重長・62の同親重・63の同重通・64の同重宗の武蔵国江戸氏父子、75の佐貫広綱・76の同五郎・77の同広義の上野国佐貫氏、79の工藤景光・80の同行光・81の同助光の伊豆国工藤氏父子、83の伊佐為重・84の同資綱の常陸国伊佐氏、85の加藤光員・86の同景廉の伊勢国加藤氏兄弟、87の佐々木盛綱・88の同義清の近江国佐々木氏兄弟、93の天野保高・94の同則景の伊豆国天野氏、95の伊東三郎・96の同成親の伊豆国伊東氏、98の新田忠常・99の同忠時の伊豆国新田氏兄弟、101の堀藤太・102の同親家の伊豆国堀氏、107の中野助光・108の同能成の信濃国中野氏、138の河匂政成・139の同政頼の武蔵国河匂氏、と一族が纏められて配列記載されています。一族が分離されて配列記載されているのは、下野国の50の阿曽沼広綱・78の佐野基綱の兄弟と、伊豆国の91の宇佐美祐茂・97の工藤祐経の兄弟のみです。以上、中小御家人でも一族単位の配列が基本となっているのです。当時の軍事編成が一族単位でなされていたことを考えれば、一族関係が纏まって行列し、これが配列記載となったのは当然です。

 以上考えてくると、38の盛長の前は畠山一族の重成・重朝兄弟、39の遠元の次は土肥実平・遠平親子となっており、両人とは異なる氏族によって夾まれています。従って、武相両国の有力御家人と吾して盛長と遠元のみが別氏族でそれぞれ単独で行列したと理解するより、盛長と遠元が同族であるから連続して記載されていると理解する方が自然です。以上から、一部例外もありますが、武士御家人の配列は一族単位でなされていたことになります。

 武士御家人の配列記載順を見ると、第1位が三浦氏族関係、第2位が小山氏族関係です。第3位が畠山氏族です。奥州合戦の勝利を引っ提げて頼朝が上洛し、鎌倉幕府成立上の一劃期となった建久第一次上洛の翌年、すなわち1191年(建久二)年の『吾妻鏡』に初見し、これ以後恒例となる正月垸飯において、1日千葉常胤、2日三浦義澄、3日小山朝政、4日畠山重忠(推定)、5日宇都宮朝綱との沙汰人序列(佐久間広子氏「『吾妻鏡』建久二年正月垸飯について」『政治経済史学』446号2003年10月参照)と比較すると、ベストワンの千葉常胤が東海道大将軍として当然ながら交名に姿を見せていないことから別として、その順は一致しており、本交名の配列構成が武士御家人の実力と幕府における位置を如実に反映しているといえましょう。

 次ぎに、足立氏族、土肥氏族、梶原氏族、波多野氏族と、49までは一族単位で配列されており、これらの氏族は上記の3氏族に続く有力武士御家人であることを示しています。そして、これらの氏族がすべて武相両国御家人であることは、頼朝が直卒する鎌倉幕府軍の中核が武相両国であることも示しています。

 51の小野寺通綱の上野国御家人を始めに、51以下となると、単独参加の氏族が配列されてきます。その武士御家人115名の内、単独参加総数は44名です。51から99までは武士御家人43名中11名であり、ここには複数参加氏族が12氏(29名)あり、複数参加氏族が過半となっており、両者を合わせた出身国も伊豆・相模・武蔵・上野・下野・常陸の東国の外、近江・伊勢・伊予と西国が入っています。すなわち、交名中段では参軍武士範囲も関東全体に広がるのみならず、治承寿永の内乱時から頼朝傘下に入った佐々木・加藤・河野・橘氏といった鎌倉幕府の西国を代表する御家人が参軍することで、今回の動員がその全力を果たしていることを表示しています。

 そして、100以下では武士御家人40名中単独参加数は33名で、複数参加氏族は3氏(6名)と、単独参加が圧倒的多数となり、その内、100の熊谷直家を始とする、武蔵武士が21名と過半で、これには西党・猪俣党・児玉党・丹党・村山党といった武蔵七党が含まれ、武蔵国の郷村級武士が行列の後半の主力となっていることを示しています。

 以上、武士御家人の交名配列を見ると、前段が武相両国を中心とした有力御家人、中段が中堅御家人を主体として、東国のみならず西国を含む武士御家人の全力動員を示し、後段が武蔵国を主力とした小御家人という構成であることが理解できます。

 最後に文士御家人(6名)と僧侶(2名)です。文士御家人の役割は勝利後の処理を見据えた軍政官としてのものであるといえます。全141名の行列の中にわざわざ6名の文士御家人を加えたことは彼等に軍事行動であることを自覚させ、この意味での役割を果たさせるとともに、軍事編成自体が単なる軍事進攻ではなく、奥州を鎌倉幕府勢力下に繰り込むことを明らかにしているものです。最上位は14の式部大夫藤原親能です。門葉配列の中に含まれ、この諸大夫級の最後に位置しています。親能は、治承寿永の内乱に於いて、1183(寿永2)年の源義経上洛に同行(『玉葉』寿永二年十一月七日条)して以来、対平家戦に参加して、源範頼軍の一員として九州に進攻している(『吾妻鏡』文治元年正月二十六日条)、戦争の場を踏んでいる特異な文士御家人です。また、中原(大江)広元・三善康信と並ぶ文士御家人の代表的存在です。以上のことから、奥州軍参加となり、その最上位に配列されたことになります。門葉諸大夫の次ぎに諸大夫級文士御家人が配列されることは、勝長寿院落成供養交名に見られ(『吾妻鏡』文治元年十月二十四日条)、順当なところです。主計允二階堂行政以下の5名はそれぞれの幕府内に於ける地位に応じた配列順といえましょう。

 僧侶です。141の昌寛の『吾妻鏡』初見は、大姫第等の作事のため安房国在庁への工匠進上命令の奉行人として見える、ものです(養和元年五月二十三日条)。これで明らかなように、僧侶の役割は文吏僚、すなわち文士としてのものです。それに昌寛は対平家戦で源範頼軍に従軍しており(『吾妻鏡』文治元年正月二十六日条)、また昌明は比叡山僧兵の経歴を持っており(『吾妻鏡』文治四年六月十七日条)、これらの面も合わせた起用と考えます。

(おわり)

(2014.03.25)

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小田原城御用米曲輪―歴史雑感〔13〕―

 2014年3月8日(土)、小田原城御用米曲輪発掘調査の第7回現地説明会が行われました。そこで、発掘に伴う戦国期後北条氏時代の遺構に関して紹介したいと思います。同曲輪は江戸期の小田原城本丸の北側に接して、南側東寄りに二の丸の北側虎口の裏御門があります。江戸期には幕府の蔵があったことから、この名称となりました。2010(平成22)年からの第2~5次調査により、後北条氏時代の池・庭園などの注目すべき遺構が発掘され、居館遺構の様を見せています。

 写真1は、東南側から見た、今回公開された発掘調査地全景です。全体が5区に区分されています。発掘調査地の左側(南)が本丸で、その後方に台地上に見えるところが後北条氏時代の小田原城の中核とされる八幡山古郭の東郭跡です。

 写真2は、東端の池遺構の全景です。調査範囲内で外周が45m以上あり、ご覧のように湾曲した造形の池となっています。池の護岸には石積み(残存部で高約190cm、13段を確認)がなされて、これには石塔の部材も使用されています。また、池は小型な上部のものと、ご覧の大きな下部のものと2段になっており、北から水が供給されて、下へと落ちるようになっています。池底から16世紀後半の「かわらけ」が出土したことから、後北条氏の造成と考えることが出来ます。

 写真3は、第二区の石組井戸遺構です。この他、井戸遺構は何か所か発掘されています。本区には石組水路・砂利敷遺構・溝状遺構なども見られます。

 写真4は、第三区の切石敷き庭園です。写真をご覧のように、3種類の石、黄色の鎌倉石(三浦半島の凝灰岩)と黒色の風祭石(箱根の凝灰岩)とを不規則に組み合わせて、これに大きな安山岩を配置しています。中央には井戸状の円形杭があり、ポイントとなっていますが、その用途に関しては不確かです。このような形式の庭園は同時代には見られず、後北条氏の独自の発想によるものと考えることが出来ます。以上、先の池遺構とともに、本遺構は居館の癒やし空間と考えることが出来、本郭が後北条氏にとって重要な居館空間であったと考えることが出来ます。本区には石組水路・石列・礎石建物・柱穴群などが見られます。

 写真5は、第四区のほぼ全景で、手前右は石組水路で、左は礎石建物です。それらの遺構は随所に見られ、本郭には多くの建物(現在のところ10棟以上が確認され、最大の建物は7間以上の規模)と、建物の周りに水路や石列が配置されています。また、奥左側には後述する石切敷き井戸遺構があります。本区には井戸・礎石建物・石組水路などが見られます。

 写真6は、第五区の玉石敷遺構です。本区には堀立柱建物・礎石建物などが見られます。

 写真7は、本丸から見た切石敷き井戸です。直径約0.8m、円礫を4m以上積み上げた石積み井戸です。写真でご覧のように、上面には井戸を囲んで切石が敷かれています。約2.5m四方です。敷石は鎌倉石と風祭石で、切石敷き庭園と同様です。他の井戸とは異なり丁寧な造作であり、特別な用途の井戸と想像できます。

 最後の写真8は、同じく本丸から見た発掘調査地全景です。今回公開された発掘調査地では、二の丸寄りの南側には東から西へと池、砂利敷きの空間、切石敷き庭園が広がり、その西・西北側には礎石建物を中心に石組水路で区画された建物群が配置されていたことになります。以上、戦国期の居館遺構としては貴重なものであるとともに、池・切石敷き庭園という他に例を見ない独自なものがあり、後北条氏独自の文化を表現したものと見ることが出来そうです。まだ、未発掘地もあり、発掘調査は今後も継続されますから、どの様な新発見があるか楽しまれます。

なお、フォトアルバム「小田原城御用米曲輪」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngpkesAjd-hp7j2wR9Qです。

(2014.03.10)

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