2016年の中国の祝日―中国雑感〔19〕―

 明年の祝日(休日)に関して、本日(2014年12月10日)、国務院の通知「国務院弁公庁関于2016年部分節假日安排的通知」が国務院公式サイトにアップされ公表されました。国務院の通知原文は次のページです。

http://www.gov.cn/zhengce/content/2015-12/10/content_10394.htm

また、カレンダー表示(「図解:国務院弁公庁関于2016年部分節假日安排的通知」)は、

http://www.gov.cn/xinwen/2015-12/10/content_5022494.htm

です。これによる明年の休日は次の通りで、これに基づいて、中国の公的機関は休日を実行します。民間もこれを基準に休日を組みます。つまり、明年の休日日程が定まったわけです。

一 元旦(1月1日)

1月1日(金)~3日(日)を休日。

二 春節(旧暦元旦 2月8日) 法定休日(旧暦正月1日~1月3日)

2月7日(日)~13日(土)の7日間を休日。

2月6日(土)〔11日・木〕、14日(日)〔12日・金〕振替出勤日。

三 清明節(4月4日)

4月2日(土)~4日(月)の3日間を休日。

四 労働節(5月1日)

4月30日(土)~5月2日(月)の3日間を休日。

五 端午節(旧暦5月5日 6月9日)

6月9日(木)~11日(土)の3日間を休日。

6月12日(日)〔10日・金〕振替出勤日。

六 中秋節(旧暦8月15日 9月15日)

9月15日(木)~17日(土)の2日間を休日。

6月18日(日)〔16日・金〕振替出勤日。

七 国慶節(10月1日) 法定休日(10月1日~3日)

10月1日(土)~7日(金)の7日間休日。

10月8日(土)〔6日・木〕、9日(日)〔7日・金〕振替出勤日。

(2015.12.10)

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三ツ池公園の紅葉

 横浜市の県立三ツ池公園は桜名所百選の地として知られていますが、少ないながらも紅葉の樹も見られます。そこで、2015年12月4日(金)、晴天の日これを撮影に行きました。本園は例年より秋が暖かく、楓はまだ少し早かったですが、銀杏は散り始めでした。

 なお、フォトアルバム「三ツ池公園の紅葉」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngpkPZ_TRihP8O5H5Nwです。

(2015.12.05)

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修善寺の源氏関係歴史遺跡―歴史雑感〔22〕―

 2015年11月24日(火)、修善寺温泉を訪れたので、ここの源氏関係遺跡を巡りました。そこで、これを紹介します。写真1は、修禅寺本堂です。紅葉期に入りかけたので、手前に紅葉を写し込んでいます。

 修善寺から南に桂川を渡ったところが鎌倉幕府2代将軍源頼家墓です。1203(建仁3)年9月、頼家は比企氏の変(実体は舅北条時政クーデター)で将軍を追放されて、伊豆国修善寺に押し込められて、次いで翌年7月、暗殺されます。写真2が、墓正面です。中央の石碑は1704(元禄4)年の5百周忌に修善寺住職智船が建立した供養石碑です。その後方に2基の小五輪塔が残存して、これが墓とされています。

 写真3は、後方から見た墓です。御覧のように五輪塔は地輪など一部が欠損しており、また上部のそれは五輪塔のものではなく、不完全なもので、後世の手が入っています。

 頼家墓の西(右)の建物が写真4、指月殿です。頼家の冥福を祈り母北条政子が建立したと伝えるもので、伊豆最古の木造建築物といわれます。

 修禅寺へと戻り、道を西へと上流に取り、約200m余に北(右)への小道の所に「源範頼墓」の案内標がありますから、この小道に入り上っていくと、西(左)の小路の所に「源範頼墓」の案内標がありますが、そのまま直進して急になる坂を上っていき、道路の下をくぐると、梅林への小路となります。ここを20mほど入ったところが、鎌倉幕府初代将軍源頼朝の伊豆国流人時代からの側近であった、安達盛長墓です。約250mほどです。写真5は、宝篋印塔の盛長墓とされるものです。御覧のように相輪などを欠いており、塔身は石材が異なります。隅飾の張り出しが少ないことから南北朝期まで遡ることができる作と考えられます。なお、本墓は旧範頼墓の近傍にあったのが、現在地に移転されたものです。

 写真6は、盛長墓の全体で、宝篋印塔の後方には何基かの宝篋印塔と思われる残存が置かれています。盛長は武蔵国の有力武士の足立氏の一族で、埼玉県鴻巣市糠田の放光寺に南北朝期作の伝安達盛長木像があり、同寺が館址との伝承を残しており、何故に縁がなさそうな修善寺の地に墓があるか不思議なところです。ですが、次ぎに行く、源範頼墓との関係からかと思われます。それは修善寺で誅されたとされる範頼の舅が盛長(盛長と頼朝乳母比企の尼長女とが婚姻して、その娘が範頼正室)という所縁からだと思えます。範頼の死後、この菩提を盛長が弔い、盛長死後に以上の縁から、盛長の分墓が当地に設けられたのかと考えます。

 道を戻り、先の案内標の所で、小路へと西(右)に歩くと、道なりに約200m行って、少し高まったところが頼朝異母弟源範頼墓です。範頼は治承・寿永の内乱で「官軍」(平家討伐軍)の大将軍として九州の地まで遠征して、その勝利に貢献しました。三河守に任官して門葉源氏の一人として鎌倉幕府で主要な地位を占めましたが、1193(建久4)年8月、頼朝の嫌疑を受けて、伊豆国に追放となり、そこで誅されとされます。ただ、修善寺に追放され、ここで誅されたかは確かな史料はなく、また死去した地に関しても複数の伝承があり、その最後は確かではありません。写真7は、墓正面からで、五輪塔です。なお、本墓は昭和初期のバイパス工事で失われて、現在地に再建されたものです。

 写真8は、五輪塔を斜め左から見たものです。本塔は日本画家・安田鞆彦氏のデザインによる1932年の作です。

 最後の写真9は、斜め後方から墓全体を見たものです。

(2015.11.26)

〔付記〕 富田氏のご教示により、若干の補正を行いました。記して感謝します(2015.11.27)。

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〈『平戸記』人名総索引〉ファイルの頒布のお知らせ

 〈『平戸記』人名総索引〉ファイルの頒布を行います。本索引は『増補史料大成 平戸記』1975年再版臨川書院)を底本として先年に筆記脱稿していたのを、改めてファイル化して補正をなしたものです。ファイルサイズは1.2MB(本文354頁)です。第Ⅰ部人名索引、第Ⅱ部通称・異称索引の構成となっています。次のリンク先でダウンロードできます。

https://1drv.ms/b/s!AruGzfkJTqxngsdAcNHdWSYGITNzhQ

索引の最初の部分を示します。第Ⅰ部の〔ア〕は次の通りです。

阿観                平(桓武=高棟)

仁治3・2・12      阿観上人                                    148-上 5

阿字

寛元2・11・29      阿字〈平経請文〉                        38-上13

哀帝              東晋

延応2・7・16      哀帝                                           68-下 2

愛成                善淵

仁治1・11・27      善淵愛成〈平経請文〉                 108-下14

安光                大江

寛元3・1・17      大江安光(任右馬允)                        52-上13

安次                中原

寛元3・8・29      中原安次(任右馬允)                       125-上 5

安信                平

寛元2・8・25      平安信(任刑部丞)                          323-下14

安信                藤原

寛元3・8・5      藤安信(任右兵衛尉)                        118-下14

安真                藤原

寛元2・9・9      左近将監藤安真                               329-上 7

安徳天皇           高倉天皇皇子言仁

仁治3・1・20      安徳                                141-上4、146-上15

仁治3・2・12      安徳                                           149-下 8

寛元3・8・26      安徳天皇〈外記例〉                           122-上 8

安人                富階

仁治1・11・27      富階安人〈平経請文〉                     108-下14

第Ⅱ部の〔ア〕は次の通りです。

青女                             延応2・1・22                      29-上 8

按察                 資頼        延応2・4・8    仁治1・7・23

按察卿              資頼        仁治1・⑩・8

按察使              資頼        仁治1・⑩・18

按察入道           衡        寛元2・11・11

亜相                 具実        仁治3・11・30

尼宣                 成子        寛元2・1・10

尼督三位局         時子        寛元2・3・12

尼((居))二品     政子       仁治1・11・17    居二品

或公卿                            寛元2・5・22                      102-下 9

或前官                            仁治1・11・11                     100-下 6

或前大臣                         寛元3・5・22                      102-下 4

或南都僧                         仁治3・6・29                      200-上11

阿波                土御門天皇  嘉禄3・12・10

阿波院宮         後嵯峨天皇  仁治3・1・16    仁治3・1・19

粟田口三位中将    良教        延応2・1・15

粟田口中納言       良教        仁治3・8・28

安嘉門院           邦子内親王  延応2・1・6    寛元3・1・7

安喜門院             有子       延応2・1・6


(2015.11.23)

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源義経は名将か?否〔改訂〕(その7)―歴史雑感〔20〕―

(その1)一、はじめに

(その2)二、瀬田・宇治合戦

(その3)三、福原合戦〈1〉作戦目的

(その4)四、福原合戦〈2〉『玉葉』による福原合戦

(その5)五、福原合戦〈3〉『吾妻鏡』・『平家物語』による三草山合戦

(その6)六、福原合戦〈4〉『吾妻鏡』・『平家物語』による福原合戦

(その7)七、福原合戦〈5〉源平両軍の配置

七、福原合戦〈5〉源平両軍の配置

 『玉葉』と『吾妻鏡』・『平家物語』での福原合戦を見てきました。以下では、両者を統合して、私なりの考えを述べたいと思います。

 まず開戦前の源氏・平家両軍の配置を考えて見ます。

 最初は、平家軍です。都落ちし、西国に逃れた平家が京の回復奪還を目途にしたことは言うまでもありません。西国で主として水軍により戦力を回復させ、瀬戸内海より摂津国に上陸して、京都をうかがえる場を確保しようとします。それが福原です。

 だからこそ、東の生田森と西の一谷とに海から山際にかけて堀・逆茂木などの防御施設を構築し木戸口を設けたのです。いわば福原を中心に東西10km余りの地を城郭化したわけです。この城郭で源氏軍の攻撃を撃退しようと目論んだことになります。

 当時の武士団の基本編成は一族単位であることは言うまでもありません。その一族が大きくなれば、その一族内部がさらに分割編成されます。この場合、惣領がその直轄部隊を率いるとともに一族全体を統括することになります。有力な兄弟がいれば彼らが一個の部隊を編成しますし、伯叔父たちも同様となります。また、子息も独立して一個の部隊を編成してゆきます。このように、惣領を中核に一族が編成されるのです。

 清盛期には、当然清盛が惣領です。まず、彼の弟として、5男池大納言頼盛、4男門脇中納言教盛、3男修理大夫経盛が公卿に昇進し、それぞれが池殿家・門脇家・修理大夫家と家を形成します。同時に、長男の内大臣重盛が嫡男として小松家を形成します。重盛は父に先立ち死去しますが、小松家はその嫡子維盛に継承されます。また、清盛2男宗盛・3男知盛・4男重衡も公卿に昇進します。平家軍は、清盛直轄部隊(子息の知盛・重衡が指揮)、小松家および池殿家・門脇家・修理大夫家の弟3家、と大きく5部隊で編成されていたことになります。

 清盛の死去と都落ちの後の編成は、池殿家が都落ちのときに平家を離脱していますのでこれを除き、基本的に世代交代を行い、宗盛を惣領に、旧清盛直轄(嫡宗)部隊を知盛・重衡が指揮し、叔父の門脇家が通盛兄弟、修理大夫家が経正兄弟、それに小松家が資盛兄弟(維盛は都落ちのとき、平家から脱落し、後に出家自殺)と、大きく4部隊に編成されていたと考えます。

 以上の平家軍の編成を基礎にして、その配置を考えてみます。源平両軍の大手である生田森口は嫡系の知盛・重衡兄弟が守ります。同時に、丹波路へと三草山に小松家の資盛兄弟を派遣します。これは源氏軍が丹波経由で迂回することを知ってからだとあります。確かに義経軍防御の意味もあるでしょうが、より積極的に京都奪回の搦手としての丹波路を目指したものと解することもできましょう。これに、山の手口に嫡宗の侍大将の平盛俊(故清盛一の郎党盛国子)を配置します。一方、搦手の一谷口は薩摩守忠度です。以上が三草山合戦前の平家軍の配置です。ここでは主力の嫡宗を生田森に、これに次ぐ小松家を三草山に配置して、福原の搦手の一谷口には故清盛末弟の薩摩守忠度と少数の兵力しか配置していません。そして、門脇家と修理大夫家は予備兵力として福原に配置されたのでしょう。

 しかし、三草山合戦で敗北し、その大半が瀬戸内海へと敗走します。これを知ると、山の手口を固めるため門脇家の通盛・教経兄弟を増援します。ここでは一谷ではなく山の手に増援したことに注意して下さい。このことは源氏搦手軍の主力が一谷ではなく山の手を攻撃すると平家は判断したからこその配置といえます。そして、修理大夫家の経正兄弟は依然として予備部隊として福原に控えていたと考えます。以上、合戦直前の配置は、生田森口が嫡宗(知盛・重衡)と主力最大兵力、山の手口が門脇家(通盛・教経兄弟)と次ぐ兵力、一谷口が故清盛末弟の忠度と最小の兵力、そして予備として福原に修理大夫家(経正兄弟)となります。

 では、源氏軍の配置はどうでしょうか。源氏軍の目的は平家軍の再上洛の阻止です。このため、その策源地である福原を攻撃し、その覆滅が目標となります。このため、次のように部隊を配置します。生田森口攻撃は、源範頼を大将軍として、過半の兵を配します。これが主力の大手です。源義経と安田義定を大将軍に、丹波路より一谷方面に迂回攻撃をかける部隊を編成し、少数の兵を配します。これが搦手です。そして、三草山合戦勝利後、搦手を義経と義定に分け、義経は山の手口を義定は一谷口を攻撃することにします。

 以上の配置から、源氏軍の戦術意図がわかります。それは、平家軍の主力が守備する生田森口を主力でもって攻撃し、ここで両軍が拘束されている間に、丹波路より迂回した部隊が後背より福原に突入することで、平家軍を撃破することです。この突入路としては、一谷口では福原から西に約8kmと遠いのに対して、山の手口ならその後背地となり、第一に山の手口を考えていたと思います。この作戦の成否は、主力の大手との連携が大切であることともに、平家軍の最小抵抗線を突くことが肝要です。前者に関しては、行程が長く山地であることを考えると、機動力が重要となります。そのため、大手に比べて、少数で機動力とんだ部隊が編成されたと考えます。同時に、現地の地理に通じた武士が参加していなければ迅速な行軍は困難でしょう。したがって、搦手には有力な摂津武士が参加していたと考えます。後者のためには、的確な平家軍の配置に関する情報が必要です。すなわち偵察活動が肝要となります。このためにも、やはり地理に通じた摂津武士の参加は欠かせないと考えます。また、行動の秘匿も不可欠と考えます。

 他方、平家軍はどう考えていたのでしょう。生田森口に知盛・重衡兄弟を配置したことから、ここが平家軍にとっても主力ということになります。したがって、ここが最大抵抗線となります。同時に、源氏軍の丹波路迂回を知るや、三草山に小松家部隊を派遣配置したことは、ここを抵抗線として源氏搦手部隊を遅延させて、福原攻防戦に参加させないことで、最大抵抗戦線(生田森)で源氏軍の攻撃を撃退し、福原城郭を確保するという作戦目的を達成できることになります。

 しかし、三草山の防衛線はもろくも崩れてしまいます。これを知った平家軍が門脇家を山の手口に増援し防衛線を構えたことは、源氏搦手部隊の進撃路が山の手口であると判断したことになります。決して一谷口ではないのです。なぜならば、平家軍の構成から考えますと、その兵力は最強が嫡宗(知盛・重衡)、第2が小松家、第3が門脇家、第4が修理大夫家となると考えるからです。一谷に配置された忠度は以上4家に比較すると少数で最下位の兵力なのです。したがって、福原合戦直前の平家軍の配置は、主力が生田森口、次いで山の手口、一谷口が最小ということになります。このことは三草山合戦後の源氏軍の行動を基本的には予測していたことになります。すなわち、『平家物語』にいう鵯越を平家軍は予測していたのです。源氏軍の秘匿性は失われていたのです。鵯越の進路は『平家物語』の記述とは異なり、未知のコースではなく既知のコースであったのです。したがって、『平家物語』の語る義経の主導による鵯越奇襲策は物語にすぎないのです。

(2015.12.10)

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源義経は名将か?否〔改訂〕(その6)―歴史雑感〔20〕―

(その1)一、はじめに

(その2)二、瀬田・宇治合戦

(その3)三、福原合戦〈1〉作戦目的

(その4)四、福原合戦〈2〉『玉葉』による福原合戦

(その5)五、福原合戦〈3〉『吾妻鏡』・『平家物語』による三草山合戦

(その6)六、福原合戦〈4〉『吾妻鏡』・『平家物語』による福原合戦

(その7)七、福原合戦〈5〉源平両軍の配置

六、福原合戦〈4〉『吾妻鏡』・『平家物語』による福原合戦

 三草山合戦敗退の報を受けた平家軍は次のような防衛体制をとります。義経軍の北からの攻撃に備え、山の手口(鵯越山際)に、従前の侍大将平盛俊に加えて、平通盛・教経兄弟を増援して防衛線とします。大手の生田森口には従前通り大将軍として平知盛・重衡兄弟(平家軍最有力の武将)を、搦手の一谷口には従前通り大将軍として平忠度(彼以外は不明)を配置します。この武将配置からみても、平家軍の主力が生田森であると考えるのが至当です。

 三草山合戦に勝利した義経軍は軍を二分します。『延慶本平家物語』では、義経は7千騎を率いて鵯越を、土肥実平が3千騎を率いて山の手を目指します(よく読まれている語り本系『平家物語』では実平は一谷を目指します。兵力比も逆です。なお、『吾妻鏡』では鵯越の兵力が70騎とごく少数です)。そして、6日夜、義経は鵯越山に到達し、眼下に東に昆陽野、南に大物浜、西に一谷と全戦線を一望にします。一方、平通盛兄弟が山の手に陣取る灯りを見た範頼軍は義経軍の進出と判断して、6日、昆陽野から武庫川を渡り生田森に布陣します。(語り本系『平家物語』には以上のことは触れていません)。以上、実平の目標が山の手か一谷かで諸本により異なるのです。注意すべき点と考えます。ともあれ、両軍の配置からして、生田森が主戦場であることは明らかです。そして、6日夜、生田森では源平両軍が対峙し、それぞれの陣はかがり火で輝いたのです。

 義経軍の鵯越の途中経緯については『平家物語』諸本により細部は異なりますが、東国武士は誰も地理を知らなかったため、通案内人探しに苦労したことを一致して述べています。しかし、義経の意図や具体的進路は記していません。

 さて、福原合戦は、7日卯刻(8時)、熊谷直実父子と平山季重の一谷先陣争い後、熊谷父子の攻撃で、戦闘を開始します。熊谷・平山ともに義経に属していたのですが、山越えの悪所では先駆けができないので、単独行動で一谷正面に出てきたのです。熊谷直実は『延慶本平家物語』では西から播磨路に降りて一谷正面に出たとしますが、語り本系の覚一本『平家物語』では田井の畑という古道を経て一谷正面に出たとします。この覚一本の経路は一谷北にそびえる鉄拐山のさらに北の田井畑(神戸市須磨区田井畑)を通る古山陽道の脇道です。義経軍から分かれたのであれば、覚一本の経路が合理的といえます。この熊谷父子の先陣に対して平家方で応戦したのが平盛嗣・伊藤忠光・伊藤景清(何れも平家有力家人の一族)であると『平家物語』は記しています。この後、成田五郎に続いて、実平軍(『延慶本平家物語』でも。この点、義経軍を二分した時の説明と矛盾しています)が戦闘に加わり、一谷戦線は全面的戦闘状態に入るのです。

 一方、生田森は、河原高直兄弟の単独先陣とその戦死で、戦闘が開始されます。次いで、梶原景時父子一党が攻撃をかけ、それから全面攻撃となります。こうして、東西の戦線は全面的戦闘状態となり、両軍の死闘が続きます。しかし、『平家物語』諸本はその経緯は伝えていません。

 この源平両軍の死闘を、義経は『延慶本平家物語』では一谷北の鉢伏山(神戸市須磨区一谷町の北にそびえる鉢伏山・鉄拐山と考えられています)から、覚一本では「鵯越」から見下ろします。三浦一族の佐原義連を先頭に義経軍は逆落としに一谷の平家軍の背後を衝きます。これがよく知られた義経の一谷逆落としの奇襲です。この後、源氏軍は平家軍の仮屋に放火し、西風に乗り仮屋は延焼し、平家軍は海へと敗走となり、勝負がつきます。

 『平家物語』諸本では、この後、平家の諸将の戦死の様子を本合戦の記述において最大の量を費やして詳細に個別に述べています。この中で最も著名なのが「敦盛最後」で物語としての価値を高めています。以上で、本合戦を終えます。そこでは戦死した将と、諸本により若干の相違はありますが、その討手が書かれています。他方、先に述べたように、源氏軍は源範頼・源義経・甲斐源氏安田義定の3軍編成で、『吾妻鏡』には各軍が討取った平家軍の将の交名が載せられています。この両者をつき合わせて一覧にしたのが以下です。

〔源範頼〕  平通盛(門脇家・山の手)   佐々木源三盛綱(義経)・玉井四郎資景

       平忠度(清盛末弟・一谷)   岡部六弥大忠澄(義経)

       平経俊(修理大夫家・予備)   ?

〔源義経〕  平敦盛(修理大夫家・予備)  熊谷二郎直実(義経)

       平知章(嫡宗・生田森)    児玉党

       平業盛(門脇家・山の手)   比気四郎or土屋五郎重行

       平盛俊(嫡宗侍大将・山の手) 猪股小平太則綱(義経)

〔安田義定〕 平経正(修理大夫家・予備)  河越小太郎重房(義経)

       平師盛(門脇家・山の手)   河越小太郎重房or畠山二郎重忠(義経)

       平教経(門脇家・山の手)    ?

 平家軍の将の括弧内は出自と持ち場、討つ手の括弧内は『延慶本平家物語』による所属を示しています。

 これ以外に、梶原景時(範頼)らが平重衡(嫡宗・生田森)を生虜にしています。以上が、『吾妻鏡』・『平家物語』の伝える福原合戦です。まさしく、義経の鮮やかな奇襲の成功により源氏軍が勝利したことになっています。ここでは義経は英雄なのです。

(2015.10.20)

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関東西安交通大学日本語学科卒業生の集い

 2015年10月3日(土)昼、国際交流基金の日本語教員研修で来日中の老師、符抒(94年入学10期生・電子科技大学)・張偉莉(西安交通大学)両先生を歓迎のため、上野の「九州料理個室居酒屋 炎」に集いました。関東在住及び日本出張中の、93年入学9期生から98年入学14期生までの10名、他が参加しました。お子さん連れの卒業生もかなりいました。

 写真1は、「九州料理個室居酒屋 炎」での歓迎宴です。

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 写真2は、不忍池前での記念撮影です。

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(2015.10.04)

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比企郡武蔵武士関係遺跡巡り―歴史雑感〔21〕―

 2015年9月13日(日)、武蔵野文化協会・国宝史蹟研究会共催の「武蔵武士の故郷 比企に板碑と和紙の源流を探る」に行ってきました。少し遅くなりました、ここでの武蔵武士関係遺跡を紹介します。巡路は①伝源義賢墓、②大蔵館、③向徳寺(板碑群)、④菅谷館、⑤大聖寺(板碑)、⑥下里板碑割谷遺跡、⑦伝統工芸館(和紙)でした。

 写真1は、最初の訪問地の「伝源義賢墓」(埼玉県嵐山町比企郡大蔵字大東66)です。古式五輪塔として県内最古とする五輪塔(鎌倉前期建立と推定)ですが、火輪・水輪部のみが現存しており、空輪・地輪部は後世に補われたもので、風輪は欠損しています。凝灰岩製です。源義賢は河内源氏の源為義次男です。1153(仁平3)年、上野国多胡郡に下り、次いで武蔵国の桓武平氏秩父一族次男流の秩父(河越)重の婿となり、武蔵国大蔵館を拠点とします。1155(久寿2)年8月16日、相模国鎌倉を拠点として、秩父一族長男流の秩父(畠山)重能に支援された兄義朝長男義平の攻撃を受けて重と共に戦死します。これが武蔵国の覇権をかけた大蔵合戦です。次の訪問地「大蔵館」が義賢居館・合戦の地とされています。義賢遺児の駒王丸が信濃国木曽谷に逃れて成長して木曽義仲として治承・寿永の内乱に登場することはよく知られたことです。

 写真2は、「大蔵館」(埼玉県比企郡嵐山町大蔵)です。県道172号(大野東松山線)から大蔵神社入り口を撮ったもので、左側の土手が館の西南角の土塁にあたります。館の規模は東西170~200m、南北220mで、武士館の基本的構造である単郭構造となっています。本館は源義賢が築いたと伝えられていますが、本館の東約100mには鎌倉街道上道と伝えられる道があり、本館は鎌倉・武蔵国・上野国を結ぶ交通上の要衝にあることになり、発掘調査から鎌倉期・南北朝期の補修・補強が認められ、室町・戦国期に至るまで利用された可能性が考えられます。

 写真3は、向徳寺(埼玉県比企郡嵐山町大蔵635)の「向徳寺板碑群」です。現在、鎌倉期・南北朝期の19基の板碑が覆堂に保存されています(本寺全体では38基)。写真右の板碑は1250年頃と推定される本寺最古の阿弥陀仏板碑(高147cm・幅78cm)です。写真中央の板碑は正応六年(1293)銘の阿弥陀三蔵板碑(高136cm・幅38cm)です。写真左の板碑は康永三年(1344)銘の阿弥陀三尊板碑(高210cm・幅53cm)で、本寺で最大のものです。以上は緑泥片岩製です。本寺の本仏は国指定重要文化財の「銅造阿弥陀如来及び両脇侍立像」ですが、当日は法要のため拝観することが出来ませんでした。本寺は、鎌倉時代中期に武蔵武七党児玉党の小代氏一族の西阿創建の草庵がはじめと伝えられた、現在時宗の古刹です。実際に阿弥陀仏如来像台座銘には「武州小代奉」「治鋳檀那父栄尊母西阿息西文」「宝治三 二月八日」とあり、それを裏付けています。従って、本地の板碑群は小代氏に関係したものといえます。

 写真4は、「菅谷館」(埼玉県比企郡嵐山町菅谷)の本郭と二ノ郭間の空堀です。菅谷館は鎌倉期前期の秩父一族嫡宗の畠山重忠の館とされるところですが、現在の遺構は本郭・二ノ郭・三ノ郭・西郭・南郭からなっており、戦国期の城郭の様を見せています。これは写真の空堀が薬研堀であることからも分かります。本館は比企郡城館跡群菅谷館として国史跡に指定されています。

 写真5は、大聖寺(埼玉県比企郡小川町下里字観音山1857)の国指定重要文化財の「石造六角法華経千部供養塔(六面塔)」です。6枚の偏平岩を六角の筒型に組み合わせたもので、高136cm・各面幅32cm、当地で産する下里石(緑泥片岩)製です。康永三年(1344)三月十七日の銘があることから、南北朝期の造立と分かります。写真に見るように、各面上部に阿弥陀如来の種子を蓮台に乗せています。天台宗の石青山大聖寺威徳院は1340(暦応3)年に希融法印開山・源貞義開基と伝えています。

 写真6は、「下里板碑割谷遺跡」(埼玉県比企郡小川町下里字割谷)の第1号トレンチです。本遺跡は国史跡に指定されています。本トレンチは黒褐色色の岩盤(上段)・畳一畳大の板石(中段 長1.8m・幅80㎝以上・厚18~22㎝の緑泥石片岩 横割りを目的とした工具痕あり)・褐色に風化した岩盤(下段)の3段の階段状となる石材採石遺跡遺構です。

 最後の写真7は、「阿弥陀図像板石塔婆」(埼玉県比企郡小川町下里)です。これは帰途の途上、車内から撮ったものです。写真中央の本板碑は長享二(1488)年銘があり、高141㎝で、放射光を背した阿弥陀如来図像が刻されています。二十三夜講に集った人々が建てたとされる、民間信仰板碑の代表例です。

(2015.10.01)

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再訪金沙遺址(遺跡)博物館―成都雑感〔156〕―

 2015年9月20日(日)、金沙遺址博物館を再訪したので、その時の写真をお見せします。本博物館は2007年4月16日(月)に開館したものです。その際の紹介記事は「金沙遺址(遺跡)博物館オープン―成都雑感〔39〕―」(『歴史と中国』2007年4月19日付)です。

 金沙遺跡は、2001年2月8日、住宅開発に伴う下水道工事中に、発見されたものです。中国における21世紀最初の考古学的大発見です。その後の発掘調査により、基本確認部分でも5平方キロに及ぶ大型遺跡です。ここからはすでに金器200余点・青銅器1200余点・玉器2000余点・石器1000余点・漆木器10余点の5000点あまりと、陶器数万点・象牙1トン・動物骨片数千点が発掘されました。これらの調査などにより、ここは、BC1700~1200年(夏晩期~商後期)の三星堆文化の後、BC1200~500年(商後期~春秋)の十二橋文化(現在は十二橋・金沙文化と改称されました)の代表遺跡と解明されたのです。以上により、2006年に中国重点文物保護単位(特別史跡に相当)に指定されました。すなわち、三星堆遺跡と並んで、四川省における古蜀文化(長江文明)を体現する遺跡なのです。いにしえの古蜀王国の跡といえます。この遺跡の中核的なところに博物館が建設され、保護された遺跡と出土品を眼前にすることが出来るようになったのです。

 本博物館は敷地面積30万㎡・延総建築面積3.5万㎡で、遺迹館・陳列館・文物保護中心(センター)の主要な三つの建物からなっています。遺迹館は、大型祭祀遺構上にドームを覆って、保護・見学出来るようにした施設です。陳列館は、ここから出土した遺物を中心に、展示した施設で、見学の中心といえるものです。文物保護中心は、研究施設であるとともに、ここで実演・体験などを行う施設です。以上3館の見学はその順にしたがって行うのがいいでしょう。まずこの目で遺跡自体を確かめ、この出土品をじっくり鑑賞し、最後に往事を体験するのです。

 本博物館の開館時間は8~18時で、入場料は80元です。成都中心の天府広場から西北西に約5㎞の、二環路と三環路の中間の青羊大道西側に位置します。見学の便のいい東大門(ここから西に約100mが遺迹館)の最寄りバス停は金沙遺址東門站(旧青羊大道北站)で、ここには数路線(5・84・100・111・123・147・805・1043路)のバスが停まりますが、利便性のあるのは5路(十陵公文站~金沙遺址路)です。本路線は人民公園・通惠門・中医附院站でそれぞれ地下鉄2号線と接続しています。それに東大門に東面している同盛路を約100mあまり行った青羊大道口站(82・83・163路)に停まる82路(成仁公文站~茶店子公文站)は、杜甫草堂・青羊宮・武侯祠・新南門站を経由しますから、市内観光には利便性のある路線です。なお、現在建設中の環状線の地下鉄7号線が開通(2017年末)すると、東大門前に新駅が出来ます。

 以下、展示物の主なものをお見せします。機材はペンタックスK-3、ペンタックスDA17-70F4です。まず一展庁(第1展示室)「遠古家園」からです。入ると往事の古蜀人の生活場面のパノラマが展示されています。そして、展示品は動物骨格(馬・豚・犬・鹿・虎・猪・象・魚など)・陶片などです。写真1は、鱘魚骨・魚鰓蓋骨です。

 次いで二展庁(第2展示室)「王国剪影」です。入ると左の壁側に往事の建物が復元された居住パノラマがあります。その先に、生活用具の出土品が展示されており、逆に右壁側には大型建築遺跡の縮小模型と出土建築木材が展示されています。さらに進むと、左側に冶鋳として金器・銅器の出土品が、次いで制玉として玉器・玉石が展示されています。写真2は、ここの「刻劃同心円円紋的玉璋」で、直径16.9cm・孔径6.2cmで、7重の同心円の刻みがあります。

 写真3は、その隣の「掏雕玉環飾」です。

 制玉の反対側の右側には、早期・中期・晩期と分けて、大量の陶器が展示されています。この展示室の最後が墓葬です。単人墓や複人墓がここにそのまま切り取られて展示してあります。

 エスカレーターで1階に下ると、三展庁(第3展示室)「天地不絶」です。入ってすぐ目に入るのが単独で展示されている写真4の「青銅立人像」です。高19.6cm(人像部14.6cm)で、三星堆遺跡出土の「青銅大人像」と相似しており、この影響を受けたものと考えられます。本遺跡出土の青銅器を代表する逸品です。

 そして進むと、象牙群が保護液の入った水槽内に2mはあるのかという巨大なのを含み展示されています。次いで、中央に石器類、左に金・銅器・石器などの雑類、右に玉器類が展示されています。石器類には中国最古の打楽器といわれる石磬などが含まれています。雑類には、喇叭形金器・三角形金器・跪坐石人像などの逸品が含まれております。写真5は、「石蛇」です。長17cm、高5.4cmです。

 写真6は、「銅虎」です。長26.5cm、幅6.2cmです。

 写真7は、「蛇形金器」です。

 玉器類には玉璋・玉などの各種の玉器ごとにまとめて展示されています。暗い中に照明に浮かぶ多数の玉器は美しいものがあります。石器類の奧には遺跡組として祭祀品類が展示されています。順路は石器類・玉器類・遺跡組・雑類となり出口となります。

 最後が四展庁(第4展示室)「千年絶唱」です。陳列館のハイライトです。すなわち本遺跡出土品の粋が集められた展示室というわけです。展示室の中央に、本遺跡出土品の白眉、太陽神鳥金箔が鎮座しており、その四囲に4か所に分けて出土品を展示しています。右手前のブースには、緑松石珠・玉環(2個)・有領玉璧(2枚)・玉鑿(2本)・玉鉞・・陽刻昆虫紋玉牌・玉海貝形佩飾(3個)が、右奧のブースには、帯柄有領銅璧・人形銅器(2体)・銅面具・鳥首魚紋金帯・鏤空喇叭形金器(2個)が、左奧のブースには、石虎・跪坐石人像・四節玉・十節玉・獣面紋玉鉞・玉鉞が、左手前のブースには、玉璋・肩扛象牙人形紋玉璋・玉圭・玉戈(3本)が、それぞれ右から順に展示されています。

 写真8は、「銅人像」です。高4.5cmの銅人頭像は帯柄有領銅璧の上にあります。

 写真9は、「鳥首魚紋金帯」です。上が長21.6cm・幅2.03cm・厚0.22cm、下が長21.9cm・幅2.03cm・厚0.22cmで、鳥のように嘴の長い左右対称の鳥首魚紋の線刻が表面にあります。なお、本ブースでは開館当時には金冠帯が展示されていました(隣の銅面具は金面具でした)。このように、本展示室の展示品は一部入れ替えがあります。

 写真10は、下の「鏤空喇叭形金器」です。直径11.6cm・高4.8cm・厚0.22cm・重量51gです。

 写真11は、「石虎」です。高19.8cm・長28.4cm・幅8.4cmです。天然の蛇紋石化橄欖岩を使用しています。

 写真12は、「十節玉」です。高22.2cm・幅6.9cm・孔径5.1~5.6cmの青玉です。各角には唇が設けられてこの少し上部左右に円形の眼が刻されています。すなわち角は人面を模しています。右にこれを図示しています。

 写真13は、「獣面紋玉鉞」です。長22.4cm・幅11.4cm・厚0.21~1.71cmです。上部に獣面紋が八字形で刻されています。右にこれを図示しています。

 最後の写真14は、展示室の中央にある「太陽神鳥金箔」です。2001年2月25日に発掘され、外径12.5cm・内径5.29cm・厚さ0.02cm・重量20gです。現在、成都市の市微になっている本遺跡のシンボル的出土品です。

 なお、古蜀文化の代表遺跡である三星堆遺跡に関しては、「三星堆博物館―四川雑感〔11〕―」(『歴史と中国』2009年12月30日付)を御覧ください。また、フォトアルバム「成都・再訪金沙遺址(遺跡)博物館」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngpkjaAnB_G__8WFGxgです。

(2015.09.24)

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源義経は名将か?否〔改訂〕(その4)―歴史雑感〔20〕―

(その1)一、はじめに

(その2)二、瀬田・宇治合戦

(その3)三、福原合戦〈1〉作戦目的

(その4)四、福原合戦〈2〉『玉葉』による三草山・福原合戦

(その5)五、福原合戦〈3〉『吾妻鏡』・『平家物語』による三草山合戦

(その6)六、福原合戦〈4〉『吾妻鏡』・『平家物語』による福原合戦

(その7)七、福原合戦〈5〉源平両軍の配置

四、福原合戦〈2〉『玉葉』による三草山・福原合戦

 福原合戦の基本史料は、『玉葉』・『吾妻鏡』・『平家物語』諸本です。それに簡単ですが『百練抄』です。確かに『玉葉』は同時代史料として価値が高いですが、その合戦経過記述は簡潔です。一方、『平家物語』諸本はエピソードも含み詳細ですが、物語という性格から虚構が含まれていることは避けられません。『吾妻鏡』は史書ですが、後世の編纂物です。いずれも一長一短があります。

 福原合戦に関して、『吾妻鏡』・『平家物語』諸本が依拠したのは何かについて、「かくて『吾妻鏡』も『平家物語』も、ともに義経の合戦注文をもとに構成していたとみられる」と五味文彦氏が指摘しています(『増補吾妻鏡の方法』2000年吉川弘文館)。したがって、『平家物語』と『吾妻鏡』は同一史料グループとして扱い、まず『玉葉』による福原合戦の経緯を、次いで『吾妻鏡』・『平家物語』諸本による経緯を述べることにします。

 源氏軍の京都進発は1月26日にはじまり、29日には「追討使」(範頼・義経)が進発、2月1日には全軍の出陣が終了したと記しています。しかし、そのまま前進せず、翌2日には京西郊の大江山(旧山陰道の山城・丹波国境辺―現国道9号線老ノ坂)に滞留との情報を記しています。これは丹波路に向かう義経軍のことだと考えます。そして、4日には、平家軍が安徳帝を擁して福原に着し、この軍勢が数万騎との情報をえます。一方、源氏軍がわずか1・2千騎だとしています。6日(合戦前日)には、平家軍が一谷に後退し、さらに西に伊南野(播磨国印南郡―兵庫県加古川市周辺)に退いたとして、その軍勢を2万騎としています。しかし、その後平家軍後退は誤謬だと記しています。また、源氏軍は僅か2・3千騎ともしています。以上、合戦前では『玉葉』記者の右大臣九条兼実は、平家軍が万単位に対して源氏軍が千単位と、平家軍が圧倒している認識を持っていました。

 7日の福原合戦での源氏軍勝利の報を8日未明に九条兼実は知りました。梶原景時の使者の報告を、高倉範季(源範頼養父)が伝えてきたものです。さらに、午刻(12時)ころ、二条定能(兼実正室兄弟)が来て詳細を話します。これによると、後白河院への源義経の報告が一番に到着します。義経は搦手で、まず丹波城(三草山)を落としてから、一谷を落としました。次いで、源範頼の報告が来ます。範頼は大手で、浜(生田森)より福原を攻めました。以上により、合戦は辰刻(8時)から己刻(10時)までのわずか2時間ほどで決着し、平家軍は敗退しました。多田行綱が山側から攻撃し、最初に山手(会下山辺か)の守りが落ちたのです。福原城の平家軍は1人も残らなかったとあります。これは誇張でしょうが、平家軍が福原城から排除されたことは確かです。非武装の人々が乗船する4・50艘の船が大和田泊沖の経島に浮かんでいましたが、これに乗船中の人々も放火で焼死したとあります。この中には宗盛も含まれているとの疑いもありと記しています。このことは平家総帥の宗盛は福原城に上陸することなく、海上の船上にいたことになり、ひいては安徳帝と三種の神器も船上であったとすべきです。そして、平家軍の戦死者の交名はまだ届かず、また三種の神器の安否も不明と記して福原合戦の記載を終えています。

 以上が『玉葉』による福原合戦の経緯で、この元暦元年2月8日条以後には、本合戦自体についての記述はありません。ともあれ、搦手の源義経軍が丹波路(山陰道)から播磨国へと迂回して、丹波城(三草山)の平家軍を撃破した後、7日午前に福原合戦が行われ、源氏軍は大手源範頼軍が生田口から、搦手源義経軍が一谷口からと、二手に分かれて攻撃し、短時間のうちに平家軍が敗北し、福原を追われ海上に逃れたことが分かります。ここで特に注意することは、源氏軍勝利の要点を、山手より攻撃した多田行綱により平家軍の守りが敗れたとしていることです。すなわち、源氏軍勝利の功績第一は多田行綱だということです。

(2015.08.21)

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源義経は名将か?否〔改訂〕(その3)―歴史雑感〔20〕―

(その1)一、はじめに

(その2)二、瀬田・宇治合戦

(その3)三、福原合戦〈1〉作戦目的

(その4)四、福原合戦〈2〉『玉葉』による福原合戦

(その5)五、福原合戦〈3〉『吾妻鏡』・『平家物語』による三草山合戦

(その6)六、福原合戦〈4〉『吾妻鏡』・『平家物語』による福原合戦

 (その7)七、福原合戦〈5〉源平両軍の配置

三、福原合戦〈1〉作戦目的

 1184(元暦元)年2月7日、福原合戦(一谷合戦)は行われました。摂津国福原(兵庫県神戸市兵庫区等)に拠を構える平家軍に対して、源氏軍が攻撃し、平家軍を海に追落し、源氏軍が勝利したのが本合戦です。

 前年7月に都落ちした平家は西国に下り、巻き返しを図りました。それが着々と実り、本年初には、福原にまで進出し、東は生田森(同市中央区生田神社辺)、西は一谷(同市須磨区一谷町辺)に、山際から海へと南北に防御施設を構築して、福原一帯を中核として「福原城」と称された城郭としたのです。この後背として、大輪田泊に代表されるように海が控えていました。そして、ここを拠点として、平家は京都の再奪還を図ろうとしていたのです。

 この平家の一大拠点の福原へ、源氏軍は京から二方面軍に分かれて攻撃するのです。主力は源範頼が大将軍に大手の生田森を、源義経と甲斐源氏安田義定を大将軍とする別軍が搦手の一谷を目指すのです。すなわち、3軍編成なのです。(彦由一太氏「甲斐源氏と事情寿永争乱」『日本史研究』43号参照)

 では、源氏軍の合戦目的はなんでしょうか。平家の再入洛の阻止は、平家の都落ちに同行せず、さらに安徳帝がいるにもかかわらず後鳥羽帝を践祚させて、平家を「逆賊」とした後白河院としても、もっとも切実なものです。頼朝は後白河院を推戴することで、おのが立場を「官軍」として正当化できたのです。したがって、第1に、平家が京都の再奪還を目途としていた以上、逆に源軍はその企図の阻止ということになります。そのため、福原城を拠点とする平家軍を、海に追落して、その拠点を破砕することです。すなわち、平家軍の撃破です。

 平家は都落ちに際して、安徳帝のみならず、三種の神器も保持してゆきました。すなわち、後鳥羽帝は三種の神器なしに践祚しています。このことはその正当性が揺らぐことになります。後白河院としては、是非ともその無事な奪還は皇位継承の正当性上欠かすことのできないものです。したがって、第2に、三種の神器の無事な京都への帰還です。同様に安徳帝の無事帰還もです。すなわち、三種の神器・安徳帝の確保です。この第2のことは、後白河院にとって、平家戦における至上命令なのです。それ故、これは一谷合戦のみならず、以後の合戦においても同様なことなのです。

 作戦目的において、瀬田・宇治合戦では後白河院の保護が第1で、木曽義仲排除が第2でしたが、福原合戦では平家軍撃破が第1で、三種の神器・安徳帝の確保が第2と、優先順位が逆転しています。これは、次節述べるように平家軍は義仲軍が小勢であったのとは対称的に万を超える大軍であった事、三種の神器・安徳帝は陸上(福原)にいるにせよ、海上(船)にいるにせよ、多数の護衛に守られているとすべきで、この確保にはまず平家軍を撃破せねば成功はない以上、当然のことといえます。したがって、源氏軍の攻撃がまず平家軍の撃破を目指して行われることが必然となり、両軍主力の激突が予想されるのです。

 義仲攻めから2週間余で福原合戦が生起したことからして、鎌倉・京都の連絡期間を考えても、東国軍の上洛に際して、福原合戦は事前の頼朝指示にもとづくものです。同時に、前段でのことを考えると、それは後白河院の強い意志によるものであることが分かります。

(2015.08.05)

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源義経は名将か?否〔改訂〕(その2)―歴史雑感〔20〕―

(その1)一、はじめに

(その2)二、瀬田・宇治合戦

(その3)三、福原合戦〈1〉作戦目的

(その4)四、福原合戦〈2〉『玉葉』による福原合戦

(その5)五、福原合戦〈3〉『吾妻鏡』・『平家物語』による三草山合戦

(その6)六、福原合戦〈4〉『吾妻鏡』・『平家物語』による福原合戦

 (その7)七、福原合戦〈5〉源平両軍の配置

二、瀬田・宇治合戦

 1184(元暦元)年正月20日、京都に孤立した木曽義仲軍が瀬田(勢多)と宇治に防衛線を張り、それを突破し京都に入り後白河院を保護せんとした源頼朝の派遣軍を主力とする反義仲軍との間になされたものが瀬田・宇治合戦です。大手大将軍源範頼等が瀬田(滋賀県大津市瀬田)を、搦手大将軍源義経等が宇治(京都府宇治市宇治)を攻撃します。すなわち、義経が宇治方面指揮官として合戦したのが宇治合戦です。本合戦の目的は、第1に京の後白河院の保護であり、そのためにそれを妨害する義仲軍を撃破し入京し京を確保することです。第2に、武家の棟梁の競争者としての木曽殿源義仲の排除です。

 まず、右大臣九条兼実の日記『玉葉』同日条で合戦の経過を見てみましょう。東国軍が瀬田に進出した報を朝6時(卯刻)に九条兼実は告げられました。この報では、まだ渡河していません。次いで田原(京都府綴喜郡宇治田原町)からの軍が宇治に着いたことを知ります。この報が終わらないうちに、もう六条河原に兵を見たという報をえて、人を派遣して確認させると、事実でした。昨日に宇治に派遣した義仲軍の志田義広は敗退し、東国軍が大和大路より入京し、六条に達していたのです。義仲は後白河院のもとに参上しましたが、東国軍の攻撃が急なので、院を棄てて戦おうとしましたが、40騎にも満たない勢力のため一矢も射ることなく敗走し、その後、東へと義仲は敗走し、粟津辺(滋賀県大津市膳所)で戦死したと記述しています。そして東国軍の一番手は梶原景時と兼実は記しています。以上、義仲軍の敗退は急速で頑強な抵抗をすることが出来なかったのです。そして、入京した義経軍が真っ先に六条殿の後白河院を目指してきたことが分かります。なお、瀬田からの範頼軍に関しては具体的な記述はありません。

 他方、合戦の経緯を子細に述べているのが、13世紀に成立した原『平家物語』の古態を保っているといわれて、『平家物語』諸本の中で史料的価値のより高い『延慶本平家物語』です。ここでは、同書第五本で両軍の構成・兵力を見てみましょう。源義仲軍は、勢多(瀬田)に今井兼平が5百騎、宇治に志田義広が3百騎、そして京中に義仲自身が那波弘澄以下百騎です。東国軍は、勢多に大将軍源範頼以下3万5千騎、主立った武士には一条忠頼、稻毛重成・土肥実平・小山朝政等、宇治に大将軍源義経以下2万5千騎、主立った武士には安田義定、畠山重忠・三浦義連・梶原景時・佐々木高綱等です。この数字自体は特に東国軍のそれが誇大化されてそのまま両軍の実数とはいえず上限となります。それにしても義仲軍は千騎にも満たないのです。一方、『玉葉』元暦元年1月16日条では近江に入った東国軍を数万と記しているように、万単位の軍といえます。したがって、両軍の間には少なく見積もっても10倍以上の兵力差があったことは明らかです。

 宇治合戦は宇治川を挟んで両軍が対峙しました。義経軍は渡河し北岸に陣する義仲軍を撃破して京を目指すことになります。平場の合戦として、いったん渡河を許せばその兵力差から防衛の術はないといってよいのです。渡河の成否が合戦を左右します。

 古来、大軍に戦術なしと言われるように、兵力に格差のある場合には、優勢な側はただひた押しに正攻法で攻めてよいのです。まさしく、本合戦の経過を見るに、正面からなされる多勢による早朝の敵前渡河が本合戦の帰趨を決しています。その発端として、名高い佐々木高綱と梶原景季の先陣争いがありました。志田義広を撃破した義経軍は短時間で一気に入京し六条河原に殺到しました。ここで、同書では、義仲が義経軍の畠山重忠・河越重房・佐々木高綱・梶原景時・渋谷重国と激しく戦闘を交えたと述べています。しかし、語り本系『平家物語』(屋代本)平家九之巻・河原合戦では、洛中に入った義経軍の塩屋維広(武蔵国児玉党)等に戦闘を任せて、義経自身は数騎を引き連れて直ちに後白河院のいる六条殿へと到達しており、『玉葉』の記載のように洛中ではしかるべき戦闘はないとするのが正しく、洛中での義経軍と義仲との戦闘は義仲説話としての虚構と考えます。次いで義経は畠山重忠・河越重頼・渋谷重国・梶原景季・佐々木高綱(『吾妻鏡』同日条では重頼嫡男重房も)を率いて後白河院に参上します。

 一方、範頼軍は正面渡河ではなく瀬田川上流の田上供御(滋賀県大津市田上稲津町、瀬田橋の南約4km)からの迂回渡河で、義仲軍の兼平勢を撃破します。京洛から近江国に敗走した義仲は兼平と合流して敗残の兵を集めて最後の戦闘を行います。これが義仲が甲斐源氏一条忠頼と、次いで土肥実平・三浦(佐原)義連等と戦い、最後に三浦一族の石田為久によって討ち取られるという記述となるのです。ここに義経軍に所属していた三浦義連が名を連ねており、義仲を討ち取ったのが三浦一族の石田為久であることに注意して下さい。すなわち、義経軍の有力武士が宇治から義仲を追走して近江国に入っていることです。

 以上の経緯を見ますと、瀬田・宇治合戦は次のような経過を取ったと考えられます。宇治方面の義経軍は宇治で敵前渡河をします。同時に宇治以外にも近辺の渡河可能地から渡河して、分進合撃で京洛を目指したとするのが自然でしょう。圧倒的な兵力差と分進合撃の前に義仲軍の義広は抵抗のすべを失い鎧袖一触されます。義経自身は急進撃して頼朝麾下の有力武士引き連れた小勢で洛中に入り、真っ先に後白河院のいる六条殿に到達して、院を保護します。そして、義仲は無勢のため後白河院を放棄して戦うことなく東の近江国ヘと敗走し瀬田の今井兼平と合流を目指します。義経軍主力は入洛することなく敗走する義仲を追走することになります。一方、瀬田方面の範頼軍は瀬田で渡河しますが、正面渡河ではなく瀬田川上流の田上供御からの迂回渡河で、義仲軍の兼平勢を撃破します。そして、洛中を目指して急進撃することなく、洛中から敗走してくるであろう義仲を待ち受けて、これと戦闘を交えて、追走する義経軍と共に義仲を捕捉し、義仲を戦死させるのです。

 以上の合戦の経過は事前の準備、すなわち周到な作戦計画の作成なしにはなしえないものです。要するに作戦目的を如何に成し遂げえるかという確かな作戦計画です。作戦計画立案にあたっては当然ながら確かな情勢分析無しではなしえません。従って、作戦目的の第1が後白河院の保護である以上、一番に求められるのは後白河院の現況とこれを包括する洛中の情報です。次いで、敵である義仲軍の情報、すなわち主将義仲の現況と兵の配備情報である。洛中情報に関しては京洛にいる親後白河院派の公家達から的確な情報がもたらされたことはいうまでもないでしょう。又、義仲軍の情報も同様なことがいえます。以上の確かな情報に基づいて、次のような作戦計画が立てられたと考えます。第1に義経軍の急速な進撃による後白河院の保護で、これは義経自身が直卒する少数の兵で成し遂げる。第2に敗走するであろう義仲軍を範頼軍が捕捉殲滅することで、これには義経軍の主力が追走して包囲体制をとって成就させます。第3に洛中の混乱を最小とするため義経・範頼軍とも洛中には進駐しないことです。以上の3つの基本方針のもとに行動して、最短時間と最小損失で作戦目的を達成したのが瀬田・宇治合戦といえます。この作戦立案にあたっての範頼・義経両将と甲斐源氏(一条忠頼・安田議定)との確かな合議、及び両将配下の関東武士との意思疎通が確かであったからこそ、実際の合戦が成就することができたといえましょう。すなわち、作戦そのものは義経独自のものというより、参加軍首脳部の合意といえるものです。

 合戦での頼朝麾下の有力武士をみると、範頼軍には小山朝政兄弟・稻毛重成兄弟(畠山庶流)・土肥実平、義経軍には畠山重忠兄弟・三浦義連・梶原景時父子・佐々木高綱・渋谷重国が所属しています。この顔ぶれから、関東から上洛した武士の主力は義経軍に配属されたことになり、義連を除く武士が義経と共に後白河院に対面しています。この配属は鎌倉進発時から決められていたというより、近江国での最終作戦決定にあたっての配属ではないかと考えます。そして、当時の頼朝麾下の三大氏族の筆頭である千葉一族が参加しておらず、また第2位の三浦一族が庶流の佐原義連のみが参加して、嫡流義澄や和田義盛が参加していないことは、今回の上洛軍が全力投入ではなく、関東に有力武士を拘置したものであることを示しています。なお、本合戦での東国軍の編成は大手・搦手ともその兵力比はともかく頼朝派遣軍と甲斐源氏軍の合同軍です。すなわち、大手軍の大将軍は源範頼と甲斐源氏の一条忠頼(武田信義嫡男)、搦手軍の大将軍は源義経と甲斐源氏安田義定(信義叔父)です。この東国軍に畿内近国の反義仲の武士が参集して、義仲軍を圧倒する大軍となったのです。

 以上、この瀬田・宇治合戦に見る東国軍の行動は、まさしくその目的に適っていることが分かります。とりわけ、第1目的である後白河院の保護を義経は最優先に行動したことが分かります。その際、指揮下の有力武士をともない、彼らに戦功・名誉を与えています。こう考えますと、義経の行動は本合戦の目的と指揮下にある東国武士の希望に叶うものです。この意味で本合戦の指揮官として義経は合格ということになります。

 しかしながら、先に触れたように、大軍に戦術なしの喩えどおり、本合戦では指揮官がその戦術的能力を発揮するまでもなく、東国軍の勝利は当然のことです。したがって、義経が他者にない力量を発揮したから、本合戦に勝利したとはいえないのです。その意味で、本合戦から義経が卓越した戦術能力をそなえた将軍であるかは判定できないのです。ただいえることは、初戦において義経は自己の任務をまっとう出来、それにより自信をつけただろうことは言えます。

(2015.07.25)

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源義経は名将か?否〔改訂〕(その1)―歴史雑感〔20〕―

(その1)一、はじめに

(その2)二、瀬田・宇治合戦

(その3)三、福原合戦〈1〉作戦目的

(その4)四、福原合戦〈2〉『玉葉』による福原合戦

(その5)五、福原合戦〈3〉『吾妻鏡』・『平家物語』による三草山合戦

(その6)六、福原合戦〈4〉『吾妻鏡』・『平家物語』による福原合戦

(その7)七、福原合戦〈5〉源平両軍の配置

一、はじめに

 治承寿永内乱での活躍にもかかわらず、異母兄頼朝と対立して奥州平泉で悲劇の最後を遂げたことで、義経は中世以来現在にいたるまで悲劇の英雄として大衆の人気を博しています。それは、『義経記』があっても、『頼朝記』がないことでも明らかです。

 故司馬遼太郎氏が、日本では例外ともいえる騎兵戦術の運用の才があり、天才的武将と評価していることに代表されるように、一般の方にも義経が名将であることは定説化しています。ドラマ・映画でもそう描かれ、一谷合戦はそのハイライトになっています。

 しかしそうでしょうか。名将とはなんでしょうか。どう定義されるべきでしょうか。「戦(いくさ)」に強い。普通はそう考えるでしょう。では「戦」とはなんですか。複数の国が参加し千万人を越える兵力が投入された、第2次世界大戦もあれば、隣りあった家が争う数人規模のものもあります。「戦」といっても千差万別なのです。したがって、「戦」に強いといっても如何なるレベルの「戦」であるかが明らかにならなければなりません。

 あらためて治承・寿永内乱における義経の立場を考えてみましょう。周知のように、東国の武士に担がれ伊豆国に挙兵した異母兄頼朝は対平家戦において自身では出陣せず、おのれと主従関係にある東国武士を主力として西国に派遣しました。その西国派遣軍の最高司令官の一人が義経なのです(もう一人は異母兄範頼)。当然のことながら、指揮下にある東国武士はそのほとんどが彼と主従関係になく、兄頼朝の預けたものです。したがって、義経は頼朝代理として出陣している以上、兄頼朝の代弁者であり、ひいては頼朝が東国武士に担がれている以上、その代弁者でもあります。そのためにこそ義経は最高司令官であることができるのです。

 義経の立場が明らかになれば、その評価において、その立場において何をなさなければいけなかったことから判断を下すのが当然となります。

 頼朝、ひいては東国武士は何ゆえに、反乱に立ち上がったのでしょうか。彼らの目的は何でしょうか。これに関しては歴史研究上からいえば、かならずしも一つの見解に集約されるものではなく、異なる意見があります。むしろ複合した目的があったといってもいいでしょう。この点を論じるとそれだけで大部の論文ができますので、ここでは論証を抜きに簡潔な結論のみを示します。「国は国司に随ひ、庄は預所に召し使はれ」(『平家物語』巻第四)と表現されているように、従前の京都(公家)に従属した地位を脱却しておのが自立を果たさんとするものです。平将門の夢はそのための最終地点たりえたでしょう。近来の歴史研究の成果からいえば、武士の自力救済原理の確立です。もちろん、これのみでは武士間の紛争を止めることできないです。個々の武士の上に立つ武家の棟梁がその調停・裁定者の役割を果すこと(統治的支配権)になります。頼朝を担いだ東国武士は、彼に武家の棟梁の役割を求め、かつ自力救済原理にもとづく京都に自立した権力を打ち立てんと欲したのです。むろんそれは願いであって、実際の歴史の動きの中で妥協はありえますが。

 では個々の武士は何を求めたのでしょうか。なぜ頼朝に代表される武家の棟梁と主従関係を結んだのでしょうか。当然ながら「一所懸命」の言葉が表すように自己の土地に対する権利の保障を求めるからです。それに加えて、その土地の拡大を果たしてくれることです。すなわち本領安堵と新恩給与です。これを保障してくれるからこそ、武士は棟梁のために自己の命を賭す、すなわち「奉公」を尽くすのです。この「御恩」と「奉公」の関係(主従的支配権)が中世武士団の基本です。棟梁はそのためにこそ存在するのです。

 かかるように、総体的に京都に独立した自力救済原理の確立、個別的には本領安堵と新恩を求めて、東国武士を中核として全国に反乱が拡大したのが治承・寿永の内乱(源平合戦)です。頼朝はその嚆矢であり、そのもとに東国武士の多くが結集したのです。

 以上のように、東国武士が反乱に参加したと考えます。このことに立脚してこそ、義経の評価ができるのです。

 1180(治承4)年10月、富士川合戦で源氏軍勝利直後に、義経は頼朝のもとに奥州より参加しました。その後、1183(寿永2)年7月、平家を都落ちさせて、入洛した木曽義仲は次第に孤立し、一方京の後白河院は東国の頼朝に救援を求めました。そこで、頼朝の代官としてこの冬、少数の兵を率いて上洛したのが義経です。これが義経の中央への登場の最初です。この後、宇治合戦・福原合戦(一谷合戦)・屋島合戦・壇浦海戦と連戦連勝したことは周知のことです。

 そのいずれの合戦においても頼朝代理としての西国派遣軍最高司令官が義経の立場です。そこで改めて、これを基本において個別の合戦での義経の役割とその評価を考えて見たいと思います。

 なお、日記類に代表される同時期史料では各合戦の経過などの詳細には触れておらず、具体的な合戦経過を知ることはできません。したがって、『平家物語』諸本をも利用するしかないのです。『平家物語』はいくつかの説話群、例えば義仲説話、からなっており、義経説話もその一環です。これらは基本的にその周囲で起きた出来事も彼一人の出来事と集約されており、かならずしも彼自身の行動と保障することはできないのです。しかもこれらには、悲劇の英雄として描く立場があってなおさらです。それですから、真の合戦の経過とそこにおいて義経がどう行動したかは『平家物語』諸本だけでは明証されないのです。この限界を心得て以下において個別合戦の分析を行いたいと思います。

(続く)

〔付記〕  『歴史と中国』「源義経は名将か?否―歴史雑感〔1〕―」(2004年12月1日付)以下を改訂したものです。今後の続きも同様になります。

(2015.07.15)

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黒部峡谷トロッコ列車

 2015年6月26日(金)、黒部峡谷・祖母谷渓谷の秘湯名剣温泉に行ってきました。もちろん、黒部峡谷トロッコ列車で往復しました。トロッコ列車の写真をお見せします。

 写真1は、宇奈月温泉駅の南にある山彦展望台から新山彦橋を渡るトロッコ電車を捉えたものです。本列車は全車普通車客車(オープン客車)編成でした。

 写真2は、黒薙駅を出たところ、黒部川支流の黒薙川に架かっている後曳橋を渡る列車です。乗車したのは普通車・リラックス客車編成で、後方のリラックス客車からの撮影です。

 写真3は、翌27日(土)、欅平駅に入線する列車で、特別客車・普通客車編成です。

 最後の写真4は、出し平ダムを過ぎたところを後方客車と共に撮ったものです。

 なお、フォトアルバム「黒部峡谷トロッコ列車」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngpk5IkxvIbJaSrVCsQです。

(2015.06.29)

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飯田家住宅―歴史雑感〔19〕―

 旧北綱島村の旧家で、代々名主を勤めていた飯田家です。この飯田家住宅(横浜市港北区綱島台17番地5号 郵政綱島局隣)は横浜市指定文化財です。江戸時代後期建築と推定される表門、1889(明治22)年建築の主屋が保存されています。

 写真1は、西面している表門です。長屋門で、桁行18.4m・梁間4.3mの茅葺寄棟造です。中央が通路で、向かって左側に出格子窓が付き、門番部屋・納屋となっており、右側が穀蔵となっています。

 写真2は、主屋です。桁行20.0m・梁間8.1mの茅葺寄棟造です。六間取りで、間仕切りの柱間に差鴨居を入れ中二階としています。

 写真3は、表門と主屋とを撮ったものです。

(2015.06.10)

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黄河壺口瀑布―中国雑感〔18〕―

 西安交通大学日語系創立30周年で訪中した機会に、2015年4月30日(金)、黄河壺口瀑布に行ってきました。黄河壺口瀑布(陝西省延安市宜川県壺口郷・山西省臨汾市吉県壺口鎮)は黄河で唯一ともいえる本格的な滝です。川幅が300m以上もあったのが、わずか50mほどに狭まり、落差約30mの滝となって落ち込みます。この川の流れが壺みたいな形状から、ここを「壺口」と呼ばれて、この滝を黄河壺口瀑布と称します。景区は陝西省側と山西省側に別々にあり、入場料91元(60才以上無料)、電動カート(山西側)往復25元です。西安市からは北東約230km強に位置します。西安市城東客運站から8時・13時30分発(358km 所要時間約4時間半)が運行されています。また、延安市宝塔区汽車南站から7時・8時20分・14時発(158km)が、それぞれ12時・14時・翌日7時半戻りで運行されています。

 今回は山西省側から臨みました。景区入口から滝までは距離があるので、電動カートに乗りました。写真1は、滝全景で、まだ増水期にならないため、水量は不足しておりますが、落ちる水は黄土による色が付いていません。

  写真2は、横位置のもので、左側(陝西省)の岩上に観光客が群参しています。増水期にはここは落水で覆われます。

 写真3は、水煙を上げているところを横から撮ったものです。

  写真4は、上流から滝を撮ったものです。落ち口がU字状であることがお分かりでしょう

 写真5は、天然の空洞の龍洞(入場料20元)に降りて、滝を見上げて撮ったものです。ここは増水期には流水に覆われては入れません。すなわち、増水期には落下水の流れはこの上部まで達し、それだけ滝の落下差は半分以下程度になります。

 最後の写真6は、同様に龍洞からの滝のアップです。

 なお、『壺口瀑布旅游網』(陝西省宜川県黄河壺口風景名勝区管理局)はhttp://www.hkpb.cn/です。

(2015.05.08)

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西安交通大学日語系創立30周年記念祝典

 2015年5月2日(土)、西安交通大学日語系創立30周年記念祝典を行いました。外国語学院の入っている逸夫外文楼芸術館10階の会議室で、9時から記念式典を行い、13時半からは交流会を行いました。中国各地から85年入学の1期生を筆頭に多数の卒業生が集い賑わいました。

 写真1は、日語系創設者の顧明耀教授の祝辞です。2列目以降には古い期の卒業生が集まっています。

 写真2は、卒業生代表(3名)の祝辞の一人、86年入学の2期生の欧碩君です。

 写真3は、大連学友会への表彰で、大連から参加した卒業生一同です。同学友会は学生への奨学金の支援をしています。表彰状を持っているのが会長の86年入学の2期生の徐国忠君です。

 写真4は、学生による「天空の城」合奏です。他に、男子による独唱とバイオリン独奏がありました。以上で、午前の記念式典を終えました。

 写真5は、場所を四大発明広場に移しての記念撮影です。前列の記念Tシャツは2001年入学の17期生で、同窓会を兼ねて参集しました。

 写真6は、午後の交流会に於ける、何故交大日語系を選択したか、勉学は如何になされたか、社会経験などの紹介で、発言する卒業生代表6名の一人、87年入学の3期生の劉洪強君です。

 写真7は、卒業生に質問をする学生です。こうして質疑を通して、卒業生と学生が交流をしました。

        

 写真8は、南洋大酒店で18時過ぎから開かれた「校友聯誼会」で、北京・天津地区から参集した卒業生です。マイクを握っているのは88年入学の4期生の李涛君で、左隣は85年入学の1期生の何向東君です。他に、江南地区や大連地区の卒業生も前に出て挨拶をしました。

 最後の写真9は、日語系の老師一同です。マイクを持つのは85年入学の1期生の趙蔚青老師です。他に日語系出身者には89年入学の5期生の張文麗老師、92年入学の8期生の曹紅荃老師、97年入学の13期生の王晶老師が写っています。

 なお、「西安交通大学日語系創立20周年記念大会」(2005年5月4日付)は、

です。

(2015.05.05)

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三ツ池公園の桜

 神奈川県立三ツ池公園は、桜名所百選に選ばれている、横浜市内の桜の名所です。ちょうど満開となったので、2015年3月31日(月)、晴天でもあり桜観賞に出かけました。北入口から入り、下の池・中の池・上の池と順に南側を巡り、次いで北側から戻りました。そこで、本公園の桜の写真をその順でお見せします。

 なお、フォトアルバム「三ツ池公園の桜」のURLはhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngpIBs4Kmn7Q8yrjDRQです。

(2015.04.01)

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石橋山合戦(その5)―歴史雑感〔15〕―

(その1)一、源頼朝軍の構成

(その2)二、大庭景親軍の構成

(その3)三、合戦の経過〈石橋山合戦〉

(その4)四、合戦の経過〈椙山合戦〉

(その5)五、源頼朝軍の参軍者の合戦後

五、源頼朝軍の参軍者の合戦後

石橋山合戦に敗北して四散した頼朝軍はその後どうなったのでしょうか、また合戦でどのような損害を出したのでしょうか。

 先ず、石橋山合戦での損害を考えてみましょう。『吾妻鏡』・『延慶本平家物語』ともに戦死と記されているのは、2北条三郎宗時・6工藤介茂光(自害)・15岡崎余一義忠の3名です。『延慶本平家物語』のみに記されているのは42沢六郎宗家です。以上4名が史料記載のある戦死者です。義忠が初戦で戦死したのを除き、他の3名は椙山合戦での後退・敗北での中です。体勢が決した後に多大の損害が出るという合戦の常道通り、頼朝軍も退却・逃走時に最大の戦死者を出しています。宗時が山より下りて早川付近で戦死した例に見るように、退却戦の中で四散して逃走する頼朝軍は各個に捕捉されて戦死者を出したといえます。

 では、以上の4名のみが戦死したのでしょうか。それだけではないでしょう。そこで、『吾妻鏡』の頼朝軍交名に見える武士の最終所見日時を見てみましょう。交名を最後に所見のない武士として、13土屋弥次郎忠光・25豊田五郎景俊・33中村太郎景平・36鮫島七郎武者宣親の4人がおり、石橋山合戦が最後の武士に22宇佐美平太政光がいます。以上の5人は同族が複数参軍しており、同族は合戦後も所見しており、行賞記事のある武士もいます。すなわち、以上の5人は戦死したとみるのが至当です。以上、交名46名中の9名が戦死したと考えることが出来ます。戦死率は少なくとも約20%弱に達し、負傷者も同程度以下としても(近代の遭遇戦では負傷数は戦死者数を上回りますが、前近代戦では医療支援が弱く、後退敗退時に負傷者が敵により討ち取られる例が多いので、同程度以下とします)、死傷率は30~40%近くに達したことになり、頼朝軍が戦闘能力を喪出したことが分かります。

 さて、敗北した頼朝軍の参軍者はどのような方面へと逃走しようとしたのでしょうか。先ず、戦死した北条宗時の逃走した経路を考えてみましょう。宗時は椙山から桑原に下り、平井郷を経て、早河(早川)辺で戦死し、一方、父時政・弟義時は箱根湯坂を経て甲斐国を目指そうとしました(『吾妻鏡』治承四年八月二十四日条)。一見、両者は別経路を取ったように見えますが、湯坂は箱根湯本温泉から西へと尾根道で箱根神社に至る古道です。すなわち、両者は椙山から遁れて北へと向かい、湯本温泉までは同一経路を取り、ここで両者は別れ、宗時は早川に沿って下り、早川庄内(神奈川県小田原市早川辺)で戦死したことになります。宗時が目指したのが、頼朝の蜂起に賛同して軍を酒匂川東岸にまで進めていた三浦軍への合流であったことは明白です。しかし、宗時が伊東祐親配下の紀六久重に討ち取られたことで分かるように、早川庄には追撃してきた祐親軍が進出しており、これに景親軍も加わりますから、早川庄内は敵軍で充満して、酒匂川への進出の道は閉ざされていたといえます。以上、第一の逃走方面は小田原を経て三浦軍との合流を目指す経路です。すなわち、相模国中・東部を目指す経路です。三浦軍との合流こそ果たしませんでしたが、この相模国中部への逃走を果たした武士に、佐々木定綱・盛綱・高綱兄弟がいます。佐々木氏は平治の乱の敗戦により近江国から亡命して東国に下り、相模国渋谷重国の保護下に入り、石橋山に参戦します。よって、佐々木兄弟は箱根山深山から、重国館(相模国渋谷庄―神奈川県大和市等)に逃亡します(『吾妻鏡』同年八月二十六日条)。なお、時政が目指そうとした湯坂古道から芦ノ湖方面という経路もありえましょう。

 次いで、加藤光員・景廉兄弟の逃走経路を考えてみましょう。先ず、兄弟は父光景員とともに箱根深山へと逃走し、3日間彷徨して伊豆山に至り、景員はここで出家し一時留まり、兄弟は甲斐国を目指し、伊豆国国府(静岡県三島市)に至り、住人に怪しまれて分散します(『吾妻鏡』同年八月二十七日条)。翌日、駿河国大岡牧(静岡県沼津市)に至り再会し、富士山麓に隠れます(『吾妻鏡』同年八月二十八日条)。そして、甲斐国に逃走して、この軍に加わり、平家方駿河国目代橘遠茂軍と戦います(『吾妻鏡』同年十月十三日条)。この加藤兄弟が甲斐国に逃走したことは『延慶本平家物語』第二末之十三石橋山合戦事にも見えており、ここでは伊豆三島神社宝殿に隠れたとあります。以上、戦場より遁れて箱根山に潜伏した後、西に伊豆・駿河国に出て、北に甲斐国の甲斐源氏を頼り目指す経路です。史料に明確に出ている武士は加藤兄弟だけですが、加藤兄弟が伊豆亡命武士であり、頼朝軍の参軍武士の最大多数である伊豆国武士の多くが同様な逃走経路を取ったとしても不可思議ではないでしょう。この点で注意されるのは、『吾妻鏡』が安房国に渡海して頼朝と再会するとの記述と異なり、『延慶本平家物語』上記では、「北条四郎時政同子息義時父子二人ハソレヨリ山伝に甲斐国ヘソ趣ケル」、と北条時政は甲斐国へ逃走して、以後の記述でも頼朝との再会記事がないことです。

 そして、頼朝の逃走経路です。その(4)で述べた通り、合戦に敗北した頼朝は南に逃走して、箱根山南部外輪山(土肥郷後背地)に潜伏して、その後、箱根神社の親頼朝僧永実の手引きで箱根神社に隠れます。地元の土肥一族挙げての支持と箱根神社親頼朝僧行実との連携がこの逃走の成功をなしたのです。その後、『吾妻鏡』同年八月二十五日条では、行実弟良暹が頼朝を襲うとの報で土肥郷に潜伏します。そして、28日、土肥実平の手配した「小舟」で真鶴岬から渡海して、翌29日、実平とともに安房国に上陸します(『吾妻鏡』同年八月二十八日、二十九日条)。一方、『延慶本平家物語』第二末之十六兵衛佐安房国ヘ落給事では、実平妻が衣笠城合戦敗北と三浦氏の安房国渡海を伝え、これを聞いた実平は「小浦」から「海人船一艘」で頼朝とともに安房国に渡海します。両書とも、頼朝が土肥実平一行とともに小舟で安房国に渡海したことで一致しています。安房国ヘの渡海には船の調達が必須ですから、土肥郷に何らかの所縁がなければこれは不能といえます。すなわち、箱根山に潜伏して、安房国に渡海した頼朝軍参軍武士は、地元の地理に長けた土肥一族を主体とした少数の武士と考えてよいのです。

 以上、石橋山合戦で敗北した頼朝軍の参軍武士は、第一は最大多数と考える、西へと伊豆・駿河国方面へ(この多くは最終的に甲斐国を目指します)、第二は北へと相模国方面へ、第三は箱根山に潜伏後に安房国ヘの渡海、と大きく三方面へと逃亡し、文字通り四散したのです。

 最後に、箱根山に潜伏していた頼朝は、駿河国を経て甲斐国へと土肥郷を経て安房国ヘの渡海との二つの逃走経路の可能性があったのに、何故に安房渡海を選択したのでしょうか。石橋山敗戦の直後、25日、安田義定などの甲斐源氏軍は富士山麓の波志太山合戦で平家方の駿河国目代橘遠茂軍を撃破していました(『吾妻鏡』同日条)。三浦氏安房渡海報と同様にこの合戦報は頼朝の耳に達していたとすべきです。箱根山を越えて甲斐国に至ることはさほど難しいことではないでしょう。これに対して、大庭・伊東軍の制圧下にあるといえる土肥郷を潜行して真鶴岬に至り、安房国に渡海することは、土肥一族に如何に地元の利があるとはいえ、極めて危険を伴う経路です。より安全な経路である甲斐国ではなく、危険な安房国ヘの経路を何故に選択したのでしょうか。甲斐源氏は周知のように頼朝とは独立して独自に反乱に蹶起しました。頼朝は伊豆国の武士を中心に反乱の長に担がれて蹶起しました。頼朝は伊豆・相模両国などの反乱武士の棟梁であるのに対して、甲斐源氏は甲斐国の武士の棟梁です。頼朝が甲斐国に逃走すれば、当然ながら頼朝は甲斐源氏の上に立つことは出来ず、この下に入ることになります。この時点での反乱軍の棟梁は甲斐源氏ということになって、頼朝ではありません。従って、その後の反乱の行方も甲斐源氏中心となり、頼朝は傍系にならざるをえません。これは、頼朝を担いだ土肥実平以下の土肥一族にも望むところではありません。反乱の大きなきっかけの一つとなった6月24日の相模国三浦義澄(三浦一族惣領義明2男・嫡男)と下総国千葉胤頼(千葉氏惣領常胤6男)の頼朝訪問に見るように、頼朝の当初の戦略は、伊豆の蹶起後、三浦一族との合流、続いて千葉氏(おそらく上総氏も含む)との合流により南関東を制圧して、東下する平家軍を迎撃してこれを撃破して、反乱を成功へと導く、ということだと考えます。しかし、石橋山敗戦で三浦一族との合流が果たせず、この三浦一族が衣笠城敗戦で安房国に渡海した以上、当初の戦略に従って、三浦一族との合流を安房国で果たして、再起を図ることとしたのです。これなら反乱に結集する関東武士に担がれた棟梁に頼朝はなることが出来るのです。従って、危険を冒しても安房国渡海の経路を選択したことになります。

(終わり)

(2015.03.24)

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大倉山公園の梅

 大倉山公園は梅林で知られています。そこで、本公園の梅をお見せします。2015年3月2日(月)の撮影です。ある品種ではまだ満開とはいきませんが、全体的には開花しています。平日にもかかわらず、東横線大倉山駅の人出は絶えません。公園入口から順に上っていきます。

 フォトアルバム「大倉山公園の梅」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngpkYYMBJ45ZWS-g0nAです。

(2015.03.03)

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