九寨溝2016ー四川雑感〔23〕―

 2016年7月11日(月)、終日九寨溝観光です。九寨溝は2008年10月以来の訪問です。この時の旅行記は「紅葉の九寨溝」(2008年11月1日付)で紹介しており、かつ有名観光地なので、詳細な説明は省いて、各スポットの写真をお見せします。

 専用エコバスで各スポットを巡ります。最初に訪れたのが諾日朗瀑布(高25m・幅320m・標高2343m)です。写真1は、道路横の展望台上からの滝を撮ったものですが、幅がありすぎて広角いっぱいでも収まりきれません。

 写真2は、滝前の遊歩道上からほぼ中央部を撮ったものです。

 写真3は、鏡海(長1155m・幅123~241m・深さ31m・水容量327万㎥・標高2367m)を上流へと撮ったものです。

 写真4は、中央部対岸をとらえたもので、ご覧のように風がなく、山の木々が湖面に写し込まれています。

 写真5は、五花海(長450m・幅227~313m・深さ12m・水容量60万㎥・標高2462m)を孔雀河道(五彩池が流れ出る流路)上の橋から撮ったものです。

 写真6は、湖北側の広場台上から、南へいろいろな色を見せる湖を中望遠でとられたものです。

 写真7は、広場台上の五花海案内碑と湖です。9時頃と早めに来たので、思ったほど観光客がおらず、綺麗に撮れました。

 写真8は、道路側からの湖です。

 写真9は、熊猫海(長670m・幅109~237m・深さ24m・水容量180万㎥・標高2574m)を南に撮ったものです。右の桟道は箭竹海から続く遊歩道です。

 写真10は、箭竹海(長1184m・幅144~268m・深さ10m・水容量93万㎥・標高2629m)を道路側から西に撮ったものです。

 写真11は、珍珠灘(長189m・幅112m・面積21225㎡・平均斜度20°・標高2450m)上にかかる遊歩道から下流を撮ったものです。この先流れが落ち込み滝となります。

 写真12は、珍珠灘を渡り、下り遊歩道の途上から見た珍珠灘瀑布(高21m・幅270m・標高2433m)です。手前に花があったので、これを取り入れました。

 写真13は、下り遊歩道最後のところで奥へと滝全景を撮ったものです。

 写真14は、下り遊歩道側(西)の滝を撮ったものです。

 写真15は、滝中央部です。ご覧のように湾曲形をしており、滝形式が「新月型」とされています。以上で、午前の観光・日則溝景区を終え、早めの昼食となり、このためまだ空いていました。

 午後はまず則査窪溝景区からで、写真16は、最初のスポット点の長海(長4350m・幅200~300m・深さ80m・水容量4.5億㎥・標高3101m)の前に立つ「独臂老人柏」(片腕老人柏)を前景に入れて撮ったものです。片腕ということは、ご覧のように、右側にのみ枝が伸びているからです。

 写真17は、湖を左寄りに撮ったものです。

 写真18は、長海から遊歩道を下り、五彩池(長100m・幅40~60m・深さ7m・水容量4万㎥・標高3010m)が林間から見えたところで撮ったものです。実は前を行く赤いストールの女性は本ツァーのガイドです。四川省出身らしく、誘導棒の先の印は唐辛子のモチーフです。

 写真19は、池に出たところで下流へと全景を撮ったものです。

 写真20は、中央部奥です。

 写真21は、池下流から全景を撮ったものです。以上で、則査窪溝景区は終わりです。

 写真22は、樹正溝景区の最初の老虎海(長310m・幅171~194m・深さ25m・水容量110万㎥・標高2298m)を上流方向へ撮ったものです。続いて道路を下ります。

 写真23は、樹正瀑布(高11m・幅62m・標高2295m)へ下る遊歩道上から撮ったものです。

 写真24は、滝から下ったところで、振り返って撮ったものです。

 滝から遊歩道を歩くと、小滝で段階上になっている樹正群海(大小18個の湖から形成・標高2187~2280m)に出ます。写真25は、遊歩道から道路に上り、道路脇の展望台上から俯瞰撮影したものです。

 写真26は、群海下部の池群です。

 樹正群海からは道路脇に設置された遊歩道で下ります。写真27は、臥龍海(長253m・幅216~255m・深さ24m・水容量93万㎥・標高2220m)を撮ったものです。

 写真28は、横位置で撮ったものです。

 写真29は、火花海(長232m・幅134~294m・深さ16m・水容量45万㎥・標高2211m)を下流側から撮ったものです。

 最後の写真30は、双龍海(長290m・幅247m・深さ3~9m〔平均5.6m〕・面積26000㎡・水容量40万㎥)道路側の湖で遊歩道の反対側にも広がっています。

 以上で、観光は終わりで、予定より早く楽に終了することができました(8時入溝・14時50分出溝)。本日の九寨溝観光客数は16734人(九寨溝管理局発表)で、前後の1週間では最も少ない観光客数でした(観光客数の最も少ない曜日は基本的に月曜です)。なお、フォトアルバム「九寨溝2016」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngpF9C0VZv1X7x4VF8Qです。

(2016.08.02)

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黄龍2016―四川雑感〔22〕―

 2016年7月10日(日)、若爾蓋県城から川主寺・雪山梁を経て約160kmの黄龍に到着し、早い昼食後、観光となりました。黄龍はすでに「九寨溝・黄龍(2)―四川雑感〔2〕―」(2005年6月28日付)で紹介しており、かつ有名観光地(世界自然遺産)なので、詳細な説明は省いて、各スポットの写真をお見せします。

 ロープウェーで上り、だらだら坂(ほぼ下り)を行くと、10分ほどで望龍坪(展望台)に着きます。ここで初めて黄龍を眼下に望めます。写真1は、ここで黄龍を撮ったものです。眼下に見える池群は争艶池で、またスポット間の遊歩道も見えています。左奥に見える建物は左が黄龍中寺で右が杜鸚鵑林休息中心(売店・食堂)です。これらの建物の左奥で、最奥の五彩池への分岐点となり、そこまでは林間の遊歩道(板張り)となります。

 遊歩道をさらに30分あまりで分岐点(ロープウェー乗り場へ2100m・出口へ3196m)に至り、道は上りとなり15分ほどで五彩池(分岐点から430m 面積2万1千㎡・693個池・標高3576m)に着きます。五彩池を囲む遊歩道は時計回りとなります。写真2は、五彩池奥(南)から黄龍後寺を背景に池全景を撮ったものです。

 写真3は、望遠で池内の石塔の一つを中心にとらえたものです。この下にもう一つの石塔があります。

 写真4は、やはり望遠で前の池とは少し色模様の異なる所を撮ったものです。池を受け止めている壁の岩の色も異なります。

 写真5は、池を囲む遊歩道の最上部(西)から全景を撮ったものです。

 写真6は、五彩池最後として望遠でとらえたものです。

 五彩池の後、黄龍洞も訪れ、以上で約50分滞在した後、下りの各スポットに向かいます。最初のスポットは黄龍中寺を過ぎた争艶池(面積2万㎡・658個池・標高3400m)です。写真7は、下り(北)へとこの全景をとらえたものです。

 写真8は、斜め横から撮ったものです。

 写真9は、横から撮ったものです。

 写真10は、さらに下って先端部の池群を撮ったものです。

 写真11は、娑夢映彩池(面積6840㎡・400余個池・標高3415m)です。

 写真12は、明鏡倒映池(面積3600㎡・180個池・標高3400m)です。

 写真13は、上からの盆景池(面積2万㎡・330余個池・標高33020m)です。

 写真14は、下流への金沙舗地(長1200m・幅120~44m・標高3305m)です。この上流にも続き、御覧のように黄色の岩面であり、上から見れば黄色い龍が横たわっているようです。

 写真15は、逆に上流への金沙舗地です。

 写真16は、金沙舗池が流れ落ちる洗身洞(高10m・幅40・標高3280m)です。下ってくるときの最初の滝です。ご覧の滝中心に見える洞は高1m・幅1.5mです。

 写真17は、不思議な形をした瘤上隆起の続く蓮台飛瀑(滝長167m・幅19m・高低差45m・標高3260m)です。

 写真18は、滝の最後の飛瀑流輝(高14m・幅68m・標高3245m)です。

 最後の写真19は、スポットの終わりの迎賓池(面積9600㎡・350余個池・標高3230m)です。本来は上っていくのですから、最初のスポットなのでこの名称が付きました。

 以上、五彩池から下って、各スポットで撮影をしながら出口まで約1時間40分かかりました。また、総観光時間はロープウェー下車後約3時間30分でした。なお、フォトアルバム「四川・黄龍2016」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngpF8rDvbqIzvkocPFgです。

(2016.07.28)

〔追記〕 「九寨溝・黄龍(2)―四川雑感〔2〕―」(2005年6月28日付)も。

(2016.08.28)

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花湖―四川雑感〔21〕―

 2016年7月9日(土)午後、花湖を観光しました。黄河九曲第一湾からは北に約90kmの行程です。若爾蓋県城までの省道209号が補修工事中のため予想以上に時間がかかりました。

 花湖は、若爾蓋草原上に位置し、標高3468mです。若爾蓋県城からは国道213号で北に約40kmです。入場料75元・エコバス30元で、保険料5元を含み、総計110元です。若爾蓋県城へは成都市から茶店子発のバスで、花湖へはタクシー利用となります。

 写真1は、遊歩道を歩き一番南側の展望所から西に花湖を撮ったものです。ご覧のよう草原上の湖です。

 写真2は、遊歩道上から東南に国道213号を望んで西からの花湖に続く湿原を撮ったものです。

 写真3は、湿原の花湖寄りを撮ったものです。

 写真4は、花湖です。以上、花湖といっても実際は草原上の湖で、花はほとんど見られませんでした。

 写真5は、遊歩道上からエコバス終点への湿原を撮ったものです。

 最後の写真6は、花湖です。手前に名は知りませんが、水草の花が咲いていました。

 なお、フォトアルバム「花湖」はhttps://1drv.ms/i/s!AruGzfkJTqxngpFyrEsuYds0OWTCJgです。

(2016.07.25)

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黄河九曲第一湾―四川雑感〔20〕―

 2016年7月9日(土)、黒水県から雅克夏雪山・紅原大草原を経て、北に約240kmの黄河九曲第一湾(四川省阿壩藏族羌族自治州紅原県唐克郷)に昼到着しました。本日の最初の観光地です。

 黄河九曲第一湾は西からの黄河本流が南からの白河と合流して北に流路をかえるところで、四川省・甘粛省の省境でもあり、ここで黄河は大きく蛇行します。標高は約3500mの高地です。本景区の入場料75元・エスカレーター代30元(登りのみ)・保険代5元で、8時30分~18時開場です。成都からの交通は茶店子発若爾蓋行で県城到着後はタクシー利用(約70km強)です。

 写真1は、黄河九曲第一湾への途上の紅原大草原を車内から撮ったものです。ご覧のように、遠景に菜の花畑が広がり、草原にはヤクが放牧されています。

 写真2は、黄河九曲第一湾に着き、エスカレーターで上がり、展望台上から中望遠で黄河を撮ったものです。蛇行していることがお分かりでしょう。

 写真3は、黄河と手前の白河の合流点を撮ったものです。

 写真4は、やはり展望台から少し引いて黄河を撮ったものです。手前が白河です。

 写真5は、展望台上から遊歩道を入口へと撮ったものです。こちらの流れは白河です。

 写真6は、遊歩道の途上から広角で黄河全景を撮ったものです。

 最後の写真7は、遊歩道から見たエスカレーターです。御覧のように8段階となっています。

 なお、フォトアルバム「黄河九曲第一湾」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngpFZBfx4Wjeo6qtDIwです。

(20016.07.23)

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達古氷河―四川雑感〔19〕―

 2016年7月8日(金)に訪れた達古氷川風景名勝区(達古氷河風景名勝区)は成都市から西北に約300km弱の阿壩藏族羌族自治州黒水県蘆花鎮に位置します。県城へは茶店子客運站から朝にバスが運行されていますが、県城から9kmの風景区入口まではタクシー利用となります。入場料は120元・エコバス70元・ロープウェー180元です。入場時間は8時30分~15時30分で、観光必要時間は半日以上です。

 達古氷河は1992年に人工衛星の画像解析から日本の科学者が発見したもので、洛格斯聖山に位置します。四川省では最高峰の貢嗄山(ミニヤコンカ・7556m)の海螺溝氷河が知られていますが、本氷河これに次ぐものです。まず、入口から専用エコバスに乗り、原始林に覆われた達古河渓谷を北に遡ります。本渓谷は10月には紅葉の名所となります。写真1は、最初の景勝地、金猴海です。名の通り付近には希少動物の金絲猴が生息しています。本渓谷はチベット族の居住地なので、このタルチョ(お経を書き込んだ五色の祈祷旗)を写し込みました。御覧のように朝なのと天候から淡い霧が湖面に漂っていました。

 紅軍湖(長征の紅軍がこの地を通過したことからの命名)を車窓から過ぎ、次に下車したのが、写真2の、澤娜措です。ここも霧が立っています。湖の奥に見える集落はチベット族の上達古藏寨です。なお、本湖横に中達古藏寨、紅軍湖横に下達古藏寨があります。

 上達古藏寨の付近で、達古河は西に曲がります。神牛湖を過ぎて、下車したのが、写真3の、達古湖です。雨模様の天候のため視界は開けません。

 ロープウェー乗り場に到着して、8人定員のロープウェーに約15分乗ると、一気に約千mの高度を上げ、氷河観景台に着きます。写真4は、観景台から見た一号氷河です(ここからは一号・二号・三号氷河が見られます)。下の池は東措日月海です。残念ながら、天候の関係で山の全景を見るとことができませんでした。

 写真5は、観景台にある海抜を刻した岩を取り入れて一号氷河を撮ったものです。御覧のように、ここの海抜は4860mです。

 最後の写真6は、ロープウェー頂上駅に併設された世界最高峰の「孤独なカフェ」(2015年10月オープン)から一号氷河を撮ったものです。本喫茶室ではインスタントですがコーヒーを飲めます。

 なお、フォトアルバム「四川・達古氷河」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngpFHglNhyMD7SMj0MAです。また、『达古冰山官方网站』はhttp://www.dgbc.cn/です。

(2016.07.17)

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都江堰―成都雑感〔157〕―

 クラブツーリズム主催「〈全日空利用〉九寨溝・黄龍とゾルゲ・達古(タッコ)氷河 北四川省周遊8日間」(2016年7月6日〔水〕~13日〔水〕)に参加して、中国に行ってきました。本ツァーの基本旅程は、

6日(水)ANA直行便成田発成都着 成都泊

7日(木)朝成都発 午前都江堰観光 夕黒水着 黒水泊

8日(金)達古氷河風景区観光 黒水泊

9日(土)朝黒水発 午前黄河九曲第一湾観光 午後花湖観光 若爾蓋(ゾルゲ)泊

10日(日)朝若爾蓋発 午後黄龍観光 九寨溝泊

11日(月)九寨溝観光 九寨溝泊

12日(火)朝九寨溝発 午前松潘城観光 成都泊

13日(水)ANA直行便成都発成田着

です。

 最初の観光地は都江堰です。まずここから紹介します。

 戦国時代後期に蜀を併呑した秦の、蜀郡太守李冰が紀元前256年に建設を開始し、息子の李二郎が完成させたとされるのが潅漑施設の都江堰です。堰で岷江から分水して、成都平原に用水を導き、この地を豊かな土地にして、蜀は「天府の国」と呼ばれるようになりました。しかも、この潅漑施設は補修を続け、基本的に原構造のまま現在も潅漑施設として運用・利用されて、四川省の農業生産を支えています。すなわち、2千年以上も前に建設された潅漑施設が現役で利用されている世界でも希有な例で、このため、2000年に道教の聖地の青城山と共に「青城山・都江堰」として世界文化遺産になりました。

 二王廟の上、秦堰楼入口から入りました。写真1は、秦堰楼から俯瞰したものです。中央が岷江外江(本流=金馬河)の堰堤(ダム)です。これは1974年に完成したものです。この右に突き出ているのが分水堤の魚嘴で、ここで岷江の流れを掘削した内江(灌江)と外江に分離します。魚嘴から左に人口の中州となっています。左に見える橋は安瀾橋で吊橋です。

 写真2は、秦堰楼から下流を俯瞰したものです。中央奥の左への流路口が宝瓶口です。ここから潅漑用水として成都平原に分流して平野を潤うします。この右側、中州と対岸の間は写真では見えませんが、内江と外江は繋がっており、外江側に飛沙堰が設けられて、内江の砂を外江に排出する役目を果たすと同時に、水流調整の役割も果たし、増水期には溢れた水を岷江本流(外江)に戻します。中央に見える建物は二王廟と門です。

 写真3は、二王廟です。殿内に二郎神像(李二郎)が祀られています。なお、都江堰の二王廟以下の建物の大半は2008年5月12日の四川汶川大地震で崩壊しましたが、その基材を可能な限り生かして再建されました。

 写真4は、安瀾橋手前に展示してある竹龍・榪槎の復元です。竹龍は竹で編んで内に石を入れて岸を守ります。榪槎は閉水三脚とも呼ばれ、木で三脚台を作って杭で接続し、水に向かう側に竹を入れて、水量調整や制御を行ないます。作成の簡単で、取り外しも容易で、水理施設として利便性がありました。

 写真5は、中州側から見た安瀾橋です。左上部の建物は秦堰楼です。

 最後の写真6は、魚嘴(分水堤)です。ここで岷江は外江(本流)と内江に分かれます。渇水期には内江6・外江4の割合で、逆に増水期は内江4・外江6の割合で分水されるようになっています。現在はコンクリートで補強しており(以前は竹龍・榪槎を適宜使用)、汶川大地震では特に被害を受けませんでした。

 時間の関係で観光は上流部のみでした。なお、フォトアルバム「都江堰」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngpEyz9W016jVR3v47Qです。

(2016.07.15)

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武蔵野文化協会創立100周年記念大会

 2016年7月18日(月)、武蔵野文化協会創立100周年記念大会を大國魂神社結婚式場・桂の間において開きました。本会は、1916(大正5)年7月18日、人類・考古学の碩学鳥居龍蔵氏らにより武蔵野会として発足しました。1918(大正7)年7月7日、会誌『武蔵野』が発刊されました。たんに考古・歴史・文化などの地域研究活動をするだけでなく、1923(12)年9月1日の関東大震災勃発に際しては、遺跡の被害調査のみならず、保全に関する建議書を提示しました。このように、本会は人類・考古・歴史・民俗・地理・文化などの複合的地域研究の場として存在しました。第2次世界大戦により活動を一時休止せざるえませんでしたが、戦後東京都も加わり活動を再開して、1957(昭和32)年に名称を武蔵野文化協会と改めて、今日に至っています。本会の名称にふさわしく、武蔵国の国衙に隣接し、総社の伝統ある大國魂神社で創立100周年大会を開いたのです。

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 大國魂神社に久しぶりに訪れたので、現在の本神社の写真をお目にかけます。写真1は、都道229号から神社を遠望したもので、中央に大鳥居、左に「大國魂神社」社号標が立てられています。

 写真2は、最初の門の随神門です。奥に見えるのが朱雀門です。

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 写真3は、拝殿です。この奥に本殿があります。

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 最後の写真4は、朱雀門左手前に位置する鼓楼です。慶長年間に建てられ火災により焼失しましたが、1854(嘉永7)年に再建されたものです。現存する本神社建物では最古のものです。

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(2016.07.20)

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師岡貝塚―歴史雑感〔27〕―

 師岡熊野神社(最寄り駅・東急東横線大倉山駅、最寄り停留所・師岡熊野神社前)の北側丘陵上に師岡貝塚(神奈川県横浜市港北区師岡町1137番地2)があります。神社社殿の左側(西)から前に進むと、丘陵への登り道があります。この頂上が「熊野神社市民の森」として整備され、頂上南側が貝塚です。ここは鶴見川中流右岸の丘陵で、北西に張り出した半島状台地基部から北東に分岐した舌状台地南半部に位置し、標高約43mです。本貝塚は縄文前~中前期のもので、規模は東西約20m・南北約15m以上と推定されています。発掘調査により、ハイバイが主体で、ハマグリ・アサリなどの海水性の物から構成されています。すなわち、本貝塚は縄文海進により形成された古鶴見湾岸に形成された保存状態のよいもので、1994年11月に横浜市指定史跡に指定されました。

 写真1は、本貝塚案内板を左端に見た貝塚で、御覧のように発掘調査後は保存のため埋め戻されています。

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 写真2は、左手から貝塚全体を撮ったものです。右上部に見える屋根は「熊野神社市民の森」中央北側に建てられた東屋のもので、ここで足を休めることが出来ます。

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 最後の写真3は、師岡熊野神社からの登り道上から見た貝塚全景です。台地頂上部の南側に位置して、御覧のようにわずかに傾斜しています。以上、写真は2016年6月11日(土)午前に訪れたものです。

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(2016.06.12)

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石橋山合戦における北条時政の逃走経路(その2)―歴史雑感〔26〕―

(その1)一、『吾妻鏡』の語る逃走経路

(その2)二、『延慶本平家物語』の語る逃走経路

(その3)三、『吾妻鏡』と『延慶本平家物語』の検討・上

(その4)四、『吾妻鏡』と『延慶本平家物語』の検討・中

(その5)五、『吾妻鏡』と『延慶本平家物語』の検討・下

二、『延慶本平家物語』の語る逃走経路

 石橋山合戦後の北条時政の逃走経路に関して、『吾妻鏡』以外に記述しているのは『平家物語』諸本で、この代表が最古態本の『延慶本平家物語』です。この第二末・十三石橋山合戦事に、二十四日の敗走後、峰の臥木にいた頼朝の下に敗走してきた味方武士が集まってきたところ、

頼朝思様アリテコソカク云ニ猶シヒテ落ヌコソアヤシケレ、格存旨ノ有カト重テ宣ケレハ此上ハトテ思々ニ落行ケリ。北条四郎時政同子息義時父子ハソレヨリ山伝ニ甲斐国ヘソ趣ケル。

とあるように、武士たちに頼朝は各自思い思いに逃走するようにと言います。これにより北条時政・義時父子は頼朝と別れて、甲斐国を目指して逃走します。

 そして、頼朝は、

兵衛佐ニ付テ山ニ有リケル人トテハ土肥二郎、同子息弥太郎、甥ノ新開荒二郎、土屋三郎、岡崎四郎已上五人、下ニテ土肥二郎カ小舎人男七郎丸兵衛佐ヲ具シ奉テ上下只七騎シ有ケル。

と、土肥実平一族の少数者に守られて山に隠れます。

 次いで、『延慶本平家物語』第二末・十六兵衛佐安房国ヘ落給事に、本拠の相模国衣笠城から安房国に三浦一族が落ちたことを聞いた頼朝は、

小浦ト云所ヘ出給テ、海人船一艘ニ乗リテ安房国ヘソ趣給ケル。

と、安房国に渡海します。

 一方、『延慶本平家物語』第二末・十七土屋三郎与小二郎行合事に、

サテ北条四郎時政ハ甲斐国ヘ趣、一条武田小笠原安田板垣曽禰禅師那古蔵人、此人々ニ告ケルヲハ、兵衛佐知給ハテ、此事ヲ甲斐ノ人々ニ知セハヤトテ、宗遠行トテ、御文書テ遣シケリ。(中略)甲斐国ヘ趣テ、一条二郎カ許ニテソ有ノマゝニハ語ケル。

とあって、時政は甲斐国に到着して、武田信義以下の甲斐源氏に面会します。このことを知った頼朝は石橋山合戦後の現況を告げるために、土屋宗遠を甲斐国に派遣し、宗遠は甲斐国に至り、一条忠頼(信義男子)に面会して、石橋山合戦の実態とそれ以後の現況を包み隠さず告げます。

 以上、『延慶本平家物語』では石橋山合戦敗走後、一度は頼朝と再会した時政は別れて甲斐国を目指して、甲斐源氏の下に至ります。この行動は頼朝の指示というより自主的なものです。時政は安房国への渡海はしていないのです。

(続く)

(2016.05.25)

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石橋山合戦における北条時政の逃走経路(その1)―歴史雑感〔26〕―

(その1)一、『吾妻鏡』の語る逃走経路

(その2)二、『延慶本平家物語』の語る逃走経路

(その3)三、『吾妻鏡』と『延慶本平家物語』の検討・上

(その4)四、『吾妻鏡』と『延慶本平家物語』の検討・中

(その5)五、『吾妻鏡』と『延慶本平家物語』の検討・下

一、『吾妻鏡』の語る逃走経路

 1180年(治承4)8月23日黄昏に開始されて、翌24日午前には勝敗が付いた石橋山合戦で、頼朝軍の武士は敗走していきました。頼朝は自ら弓を射て戦いますが、矢が尽きて山に逃げ込みます。一方、北条時政父子は、『吾妻鏡』同二十四日条に、

北条殿父子三人、また景親等と、攻戦せしめ給うによりて、筋力しばし疲れるや、峯嶺を登るにあたわずの間、武衞に従い奉らず。

と、頼朝に追従出来ませんでした。

 次いで、

北条殿、同四郎主等は筥根湯坂を経て、甲斐国に赴かんと欲す。同三郎は土肥山より桑原に降り、平井郷を経るの処、早河辺において、祐親法師軍兵に囲まれて、小平井名主紀六久重のため、射取られおわんぬ。

とあるように、時政・義時父子は戦場から逃れて、「筥根湯坂」を経て、甲斐国を目指そうとしました。一方、義時兄宗時は父時政とは別行動を取り、早河辺、すなわち現在の神奈川県小田原市早川で、追撃してきた伊東祐親軍の紀六久重によって討ち取られます。

 そして、

晩におよび、北条殿椙山陣に参着し給う。

と、敗走中の時政は夜に石橋山後方の椙山の頼朝の所に至ります。これ以前、

筥根山別当行実、弟僧永実を差し、御駄餉を持たしめ、武衞を尋ね奉る。しかしてまず北条殿に遇い奉る。

と、箱根山別当行実の弟永実と遇い、共に頼朝の下に行きます。ここに時政は頼朝と再会したことになります。その後、頼朝は箱根山別当行実の支援により箱根山(箱根神社)に隠れます。

 しかし、翌25日、親平家の行実弟良暹に危険を感じ、『吾妻鏡』同日条に、

山案内の者を召し具し、実平ならびに永実等筥根通りを経て土肥郷に赴き給う。北条殿は事の由を源氏等に達せんがため、甲斐国に向かわられる。行実同宿南光房を差してこれを送り奉る。くだんの僧を相伴い、山臥の巡路を経て、甲州に赴き給う。しかして武衛到着の所を見定めずば、源氏等を催し具さんと欲すといえども、彼もって許容せずか。しからばなお御後を追って参上せしめ、御居所より、さらに御使として、顔向すべきの由、心中思案せしむ。立ち還ってまた土肥方を尋ね給う。

とあるように、頼朝は箱根山を去り土肥実平等と共に土肥郷に潜伏しようとします。一方、時政は石橋山合戦の子細を伝えるため、山伏の道を経て甲斐源氏のいる甲斐国に赴こうとします。もちろん、これは甲斐源氏に応援を頼むためでしょう。しかし、頼朝の土肥郷到着の無事を確認しなくては説得力がないとして、戻って土肥郷を目指します。

 そして、『吾妻鏡』二十七日条に、

北条殿、同四郎主、岡崎四郎義実、近藤七国平等、土肥郷岩浦より船に乗らせしめ、また房州を指し纜を解く。しかして海上において舟船を並べ、三浦の輩と相逢い、たがいに心事伊鬱を述ぶとうんぬん。

とあり、時政・義時父子は岡崎義実等と共に土肥郷から相模湾に船で乗り出し、安房国を目指します。そして、海上で三浦半島から逃れ出た三浦一族と会合します。

 一方、頼朝は実平と共に、28日、土肥郷真鶴岬から船に乗り安房国を目指します。『吾妻鏡』二十九日条に、

武衛実平を相具し、扁船に棹さし、安房国平北郡獵嶋に着かせしめ給う。北条殿以下人々これを拜迎す。数日欝念、一時散開すとうんぬん。

とあるように、頼朝は安房国に到着し、時政等と再会します。安房国に逃れた頼朝は味方を募るべく、各地の武士に書状を送る一方、安達盛長を使者として下総国の千葉常胤に派遣し参加を求めます。

そして、『吾妻鏡』九月八日条に、

 北条殿使節として、甲斐国に進発し給う。かの国源氏等を相伴い、信濃国に到り、帰伏の輩は、はやこれを相具し、驕奢の族に至りては、誅戮を加うべきの旨、厳命を含むによりてなり。

とあるように、時政は甲斐源氏を味方にするため、使者として派遣されます。

 次いで、『吾妻鏡』十五日条に、

武田太郎信義、一条次郎忠頼已下、信濃国中の凶徒を討ち得て、去夜甲斐国に帰り、逸見山に宿す。しかして今日北条殿その所に到着し給い、仰せの趣を客等に示されるとうんぬん。

とあるように、信濃国伊那谷に出陣して凱旋の勝利で甲斐国逸見に戻った武田信義に時政は会見して頼朝の意を伝えました。

 上総国の豪族上総広胤の参加を得て、房総半島を席巻した頼朝は、20日、土屋宗遠を使者として甲斐源氏の元に派遣します。そして、『吾妻鏡』二十四日条に、

 北条殿ならびに甲斐国源氏等、逸見山を去り、石禾御厨に来たり宿すのところ、今日子尅、宗遠馳せ着き、仰せの旨を伝う。よりて武田太郎信義、一条二郎忠頼已下群集し、駿河国に参会すべきの由、おのおの評議を凝らしうんぬん。

とあるように、使者土屋宗遠が24日に甲斐源氏の下に到着して、頼朝の意を伝え、これにもとづき駿河国進出の軍議を開きます。当然ながら、この席には時政も参席しています。

 以上、『吾妻鏡』の伝える石橋山敗戦後の北条時政の行動は、要約すると、まず戦場から北に逃走して、その後、西の椙山に逃走した源頼朝と再会して、その命で甲斐国に赴こうとしましたが、土肥郷に下り頼朝とは別個に乗船して、安房国でまた再会し、そして、頼朝の命で甲斐源氏を味方に募るため、甲斐国に赴き、甲斐源氏棟梁武田信義に面会した、ということです。

(続く)

(2016.05.10)

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しとどの窟―歴史雑感〔25〕―

 2016年4月20日(水)午後、しとどの窟に行ってきました。最寄りのバス停は湯河原駅・元箱根間の「しとどの窟」です。日に数本しか運行されていないので、事前に時刻表を確認すべきです(奥湯河原温泉までは約7kmの山道です)。停留所横には駐車場もあります。舗装された平坦な林道を進み、トンネルをくぐり出ます。ここまで約200mです。林道から離れて右に下る道があります。約400m下ると窟の前となります。谷の奥まったところがしとどの窟です。

 しとどの窟は1180(治承4)年8月23・24日の石橋山合戦に敗れた源頼朝が隠れた場所として伝承されたところで、「土肥椙山巌窟」として神奈川県史跡文化財の指定を受けています。写真1は、窟正面から見た内部です。中央には上の岸壁から水が滴り降りて小さな滝となり、下へと谷川を作ります。また、ご覧のように内部には観音像などの石造物が多数安置されています。立像および坐像が61体あり、過半が無銘ですが、幕末から大正期の銘入りもあり、庶民の観音信仰を知る貴重な資料であるとともに、この窟が観音信仰の聖地であることを示しています。

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 写真2は、内奥から外へと撮ったものです。外側は開いていますが、関東大震災で入口が崩壊して現在の形状になりました。ですから、以前はより奥まった窟の形状となります。

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 最後の写真3は、窟の案内板の設置された平地からの全景です。

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 『吾妻鏡』治承四年八月二十四日条では、頼朝が二寸観音像を巌窟に隠し安置したと記述していますが、その後、椙山陣にいたとしており、自身が巌窟に潜んだとは記していません。また、『延慶本平家物語』第二末・十三石橋山合戦事では次のように記述しています。敗走した頼朝は椙山に入り、山の峰の臥木に腰掛けていたところ、敗走してきた味方武士が集まってきましたが、人数が多くては追撃してくる大庭軍に見つかるから、各自で逃げよと指示したので、各武士は落ちて行きました。北条時政父子は甲斐国へと向かいます。そして、頼朝と行動を共にした武士は土肥二郎実平、同子息弥太郎遠平、甥新開荒二郎実重、土屋三郎宗遠、岡崎四郎義実と実平小舎人の七郎丸の6人で、頼朝を合わせて7人でした。宗遠は実平弟、義実は実平妹婿と、以上の六人は石橋山から西南に位置する土肥郷を本貫とする実平の近親者たちです。地元の地理に精通した実平が気心の知れた少数の近親者で頼朝を守ろうとしているのは肯けるところです(『源平盛衰記』では七郎丸ではなく伊豆流人時代からの側近の安達盛長を6人に含めていますが、『延慶本平家物語』方がふさわしいでしょう)。

 以上、両書を見る限り、頼朝が巌窟に隠れたといえず、土肥郷近辺の箱根外輪山中に潜んだといえます。従って、しとどの窟は谷の最奥にあり見つけがたいですが、一度発見されれば、背後は岸壁で逃げ場がなく、この点でふさわしくありませんから、しとどの窟の伝承は頼朝が観音像を巌窟に隠し安置したことから生まれたもので、事実ではないでしょう。『吾妻鏡』の記載からここが観音信仰の聖地となったとすれば、十分に肯けるものです。

(2016.04.22)

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綱島公園の桜

 2016年4月1日(金)午前、7分咲き位で満開には少し早く、曇天でしたが、土日は混むと思い、綱島公園に桜を見に行きました。この折の写真をお見せします。

 なお、フォトアルバム「綱島公園の桜」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngpkwh04p3N9Aj9rXgQです。

(2016.04.01)

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綱島古墳―歴史雑感〔24〕―

 東急東横線綱島駅の北に位置する綱島公園には古墳が現存します。綱島古墳(横浜市指定史跡)です。径約20m・高約3mの円墳で、1989年の発掘調査による出土遺物(鉄刀・円筒埴輪など)から、5世紀後半から末葉に造られたと推定されました。

 写真1は、案内板のある西側から見たものです。古墳は公園の東側のあり、綱島丘陵では最高標高地に位置します。往事は南に鶴見川、北に日吉丘陵が遠望されたでしょう。

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  写真2は、南側から見たもので、手前は小広場となっていますが、これは発掘調査以前に整備されたものです。

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 写真3は、北側からのもので、ご覧のように円筒埴輪のレプリカが置かれていますが、右側のは破壊されて残っていません。

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 最後の写真4は、西側に戻り全景を広くとらえたものです。

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 なお、2016年3月26日(土)の撮影です。

(2016.03.28)

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大倉山公園の梅花

 盛りは過ぎましたが、青空の澄み渡る2016年3月1日〔火〕午前、大倉山公園に梅花を撮影に行きました。そこで、そこの代表的な梅花をお見せします。

〔白加賀〕

〔見驚〕

〔八重寒梅〕

〔玉簾〕

〔宝鶏〕

〔一冬至梅〕

〔鹿児島紅〕

〔長寿〕

〔三吉野〕

なお、フォトアルバム「大倉山公園の梅花」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngpkZGS2WXvD_ej1rlQです。

(2016.03.03)

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山形蔵王の樹氷

 2016年2月24日(火)午後、山形蔵王を訪れました。そこで、その写真をお目にかけます。

〔ロープウェー山麓線〕

〔ロープウェー山頂線〕

〔ロープウェー山頂線〕

〔蔵王地蔵尊〕

〔ロープウェー山頂駅〕

〔ロープウェー山頂線〕

〔ロープウェー山頂線〕

〔ロープウェー山頂線〕

〔ロープウェー樹氷高原駅〕

〔ロープウェー山麓線〕

 なお、フォトアルバム「蔵王の樹氷」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngpkzSmUSNboYdDS9QAです。

(2016.02.27)

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宮城蔵王の樹氷

 2016年2月24日(水)午前、宮城蔵王を訪れました。14日の全国的な暖かさの雨で樹氷は消えてしまい、その後の雨で再び消滅しましたが、数日来の雪模様で初期状態の樹氷が見られることになりました。そこで、この写真をお見せします。

 なお、フォトアルバム「蔵王の樹氷」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngpkzSmUSNboYdDS9QAです。

(2016.02.26)

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松島の五大堂

 宮城県に行った折の2016年2月22日(火)に松島を訪れました。ここでその五大堂を紹介します。伝承によると、807(大同2)年、坂上田村麻呂が奥州遠征の際に、毘沙門堂を建立し、828(天長5)年、円仁(慈覚大師)が延福寺(瑞巌寺の前身)を創建した際に仏堂を建立し、大聖不動明王を中央に東方降三世明王・西方大威徳明王・南方軍荼利明王・北方金剛夜叉明王の五大明王像を安置したことから、五大堂と呼ばれるようになりました。この五大明王は秘仏として33年に一度開帳されます(次回は2037年)。現在の建物は、1604(慶長9)年、伊達政宗が建立したもので、三間四方(22.68尺=6.87m)の宝形造で、四方に勾欄付きの縁を巡らし、正面に向拝がついている瓦葺きの建物です。本堂は国重要文化財に指定されています。なお五大明王像は中にある家形厨子に安置されています。

 写真1は、松島湾に面した正面からの五大堂全景です。右端に写っている赤橋は本堂のあるところは島なので、陸とを結ぶ橋(すかし橋)です。

 写真2は、五大堂正面に掲げられている額(揮毫は瑞巌寺105世天嶺)ですが、ご覧のように「五太堂」となっており、これは筆の運びといわれています。

 最後の写真3は、堂四面の蟇股にはその方位に対して十二支の彫刻を配していますが、正面左側のものです。ご覧のように「未」、すなわち羊です。

(2016.02.25)

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冬の久保田城―歴史雑感〔23〕―

 関ヶ原合戦により、常陸国水戸城より出羽国へ減転封された佐竹義宣は、1603年(慶長8)5月、旭川に東面する明山に築城をはじめ、翌年8月に完成させます。これが久保田城(秋田城)です。平山城で、東南角に大手門があり、基本的に三の丸・二の丸・本丸・北の丸・西曲輪から構成されて、二の丸・本丸は千秋公園として市民の憩いの場となっています。2016年1月21日(木)、秋田市に寄ったおり、本城を訪れました。そこで、雪で覆われた久保田城の写真を少しばかり紹介します。

 写真1は、大手門跡近くから西へ見た大手堀です。奥に見える中土橋橋跡を渡り北進すると、内堀にかかる唐金橋跡を過ぎ、右に緩い坂を上り松下門跡から二の丸に入ります。

 写真2は、本丸の東側に位置する二の丸から緩い長坂を上ったところにある長坂門(二ノ門)跡です。奥に見えるのは表門です。写真に見えますが、本城は、土塁の押さえとしての石垣以外、この築城時代には一般化した防御施設としての石垣がないのが特徴です。それに天守閣も設けられていませんでした。

 写真3は、その復元された表門(一ノ門)で、門前の右横には御物頭御番所(唯一現存する建物)があります。

 写真4は、本丸です。中央奥にあるのが最後の藩主第14代佐竹義堯銅像です。

 最後の写真5は、は、本丸北土塁にある帯曲輪門跡です。帯曲輪は本丸の北から西・南側にかけて巻いて設けられています。

 なお、フォトアルバム「冬の久保田城」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngpkQCmxrsEjR_SZ8Ngです。

(2016.01.24)

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鶴岡八幡宮初詣

 日本中世史、とりわけ鎌倉期政治経済史を研究分野としている私にとって、鶴岡八幡宮は欠くことの出来ない地です。そこで、初詣の地として数十年ぶりに訪れました。当神社は著名地なので説明は加えず、その際の写真のみをお載せします。

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(2016.01.01)

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2015年度記事目次

 乙未年を終わるに当たって、2015年度(1~12月)記事目次を掲載します。なお、前回までは「『歴史と中国』https://kanazawa45.wordpress.com/記事目次(上)」(2011年10月21日付)、「『歴史と中国』https://kanazawa45.wordpress.com/記事目次(下)」(2011年10月21日付)、「『歴史と中国』2010年度記事目次」(2011年10月22日付)、「2011年度記事目次」(2011年12月31日付)、「2012年度記事目次」(2012年12月31日付)、「2013年度記事目次」(2013年12月31日付)、「2014年度記事目次」(2014年12月31日付)です。

では、丙申年がよいお年で。

01.01 大綱橋からの元旦富士

01.30 茅ヶ崎城址―歴史雑感〔17〕―

02.03 「中国人の日本語作文コンクール」支援へ

02.27 大内宿の高倉神社―歴史雑感〔18〕―

03.03 大倉山公園の梅

03.24 石橋山合戦(その5)―歴史雑感〔15〕―

五、源頼朝軍の参軍者の合戦後

04.01 三ツ池公園の桜

05.05 西安交通大学日語系創立30周年記念祝典

05.08 黄河壺口瀑布―中国雑感〔18〕―

06.10 飯田家住宅―歴史雑感〔19〕―

06.29 黒部峡谷トロッコ列車

07.15 源義経は名将か?否〔改訂〕(その1)―歴史雑感〔20〕―

07.25 源義経は名将か?否〔改訂〕(その2)―歴史雑感〔20〕―

08.05 源義経は名将か?否〔改訂〕(その3)―歴史雑感〔20〕―

08.21 源義経は名将か?否〔改訂〕(その4)―歴史雑感〔20〕―

09.05 源義経は名将か?否〔改訂〕(その5)―歴史雑感〔20〕―

09.24 再訪金沙遺址(遺跡)博物館―成都雑感〔156〕―

10.01 比企郡武蔵武士関係遺跡巡り―歴史雑感〔21〕―

10.04 在関東西安交通大学日本語学科卒業生の集い

10.20 源義経は名将か?否〔改訂〕(その6)―歴史雑感〔20〕―

11.10 源義経は名将か?否〔改訂〕(その7)―歴史雑感〔20〕―

11.23 〈『平戸記』人名総索引〉ファイルの頒布のお知らせ

11.26 修善寺の源氏関係歴史遺跡―歴史雑感〔22〕―

12.05 三ツ池公園の紅葉

12.10 2016年の中国の祝日―中国雑感〔19〕―

12.31 2015年度記事目次

(2015.12.31)

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