山木夜討ち(その三)―歴史雑感〔37〕―

(その一)一、『吾妻鏡』の語る山木夜討ち

(その二)二、『延慶本平家物語』の語る山木夜討ち

(その三)三、山木夜討ち

(その四)四、国衙占領

三、山木夜討ち

 『吾妻鏡』『延慶本平家物語』の語る山木夜討ちは、①と㋑、③と㋺、⑦と㋭、⑨・⑩と㋭・㋬、⑪と㋣、⑫と㋠が細部は異なりますが、対応しています。従って、基本的な経過に関しては両書とも同じです。すなわち、両書の語る経緯は簡潔にいうと、遅延した佐々木兄弟が到着したので、予定通りに8月17日に山木夜討ちと決定して、出陣します。まず、山木兼隆の与党を討つため佐々木兄弟を分派して、これを討取ります。同時に北条父子等の主力が山木館を攻撃しますが、攻めあぐねます。夜討ち成功の火の手が上がらないので、賴朝は身辺警護の武士全力を急派し、ようやく兼隆を討取る、ということです。

 最初に山木夜討ちの襲撃路を考えます。これは『吾妻鏡』の示すところです。まず北条館を出た襲撃勢は狩野川を東に越えて、道を牛鍬大道(国府から修善寺へと延びる街道。現国道136号線)を北上して、「蕀木」すなわち原木(静岡県伊豆の国市原木)を経て、「肥田腹」(同市肥田)に至ります。ここで北条時政の策で、佐々木兄弟は山木兼隆与党、主力は山木館襲撃と任務分担して、ともに大道を離れて南東に向かい、山木館前に至ります。この間の経路は記していませんが、まず東に長崎(同市長崎)に至り、ここで南下して多田(同市多田)を経て至ったと推定されます。とするとこの経路の距離は約7kmとなり、夜討ち勢は徒歩の従者を連れていますから、時速約4kmで行軍したとして、約2時間弱の時間がかかり、戌刻(20時)に兼隆雑色を捕え、これにより賴朝が攻撃を決意して出撃となり、佐々木兄弟が戦端を切ったのが子刻(0時)、すなわち寝込みを襲う奇襲である以上、最初に賴朝が提案した最短路の蛭島通(約3km半)ではなく、上記の時政の提案した迂回路を取ることは、出撃準備時間も考えて時間的に適合しており、以上の経路推定に誤りはないでしょう。

 次いで、山木夜討ちに頼朝方として参戦した兵力について考えてみましょう。『延慶本平家物語』には「馬上歩人トモナク卅余人、四十人計モヤ有ケム」とあります。ここで注目されるのは兵数を人で表記していることです。一般的にこの時期の兵数は戦力主力の弓騎兵の数、すなわち騎で表記しています。例えば、山木夜討ちに続く石橋山合戦では『吾妻鏡』は「三百騎」、『延慶本平家物語』では「三百余騎」といずれも兵数を騎で表記しています。この山木夜討ちの人表記は特異なものです。このことは参戦人数の少なさの反映ではないでしょうか。とすれば、軍記物語等の兵数は一般的に誇張されていますが、この兵数はかなり実態を表していると考えます。すなわち人数の最大限を表していると考えます。そこで、少しは誇張があるかもしれませんから、少ない方の数字である30人を採用することにします。騎馬武者には従者が数名付くのが基本です。この従者を1騎に付き1・2人とすれば、騎馬武者は最大で15騎、せいぜい10余騎といえます。

 山木夜討ちに参戦したことが両史料のいずれかに見える武士は、北条時政・宗時・義時父子、佐々木定綱・経高・盛綱・高綱兄弟、加藤景廉、堀親家と北条氏雑色源藤太(次)です。山木夜討ちに最初に出撃した史料に見える武士は北条親子と佐々木3兄弟です。とすると、佐々木定綱・経高兄弟の2騎に少数でしょうが、若干の伊豆武士も加わっているでしょうから、北条氏は父子3騎を含めてもこれを大幅に上回ることなくせいぜい5騎を越える程度の勢しかなかったと推定出来ます。

 ところで、『吾妻鏡』では、堤信遠攻撃の最初、佐々木経高が矢を放ったのを、「源家平氏を征する最前の矢」と、賴朝の反乱蜂起の口火と特記しています。これに加え、信遠を討取る佐々木兄弟の奮戦ぶりが記述されています。さらに、援軍として山木兼隆を討取った武士として加藤景廉とともに佐々木盛綱を挙げています。しかも、佐々木兄弟の遅延到着により、ようやく賴朝は反乱蹶起を決意するのです。すなわち、『吾妻鏡』では佐々木兄弟の奮戦が特記されているのです。これに対して、『延慶本平家物語』では、兼隆主従を討取ることの記述で、賴朝の命令で援軍として駆けつけた、加藤景廉が兼隆と一騎打ちをしていることを描写して、さらに討取ったとの報告に賴朝が喜ぶと、一貫して兼隆討取りの主役を景廉として、その活躍ぶりが際立っています。さらに、護衛としてただ一人残された景廉が元伊勢国住人であること等を特に述べています。このように『延慶本平家物語』では加藤景廉の活躍が特記されているのです。

 佐々木兄弟は本来近江国武士でしたが、平治の乱により所領を失い、相模国の渋谷重国の下に寄住している浪人です。また、加藤父子は伊勢国が本貫でしたが、やはり国を追われて、『延慶本平家物語』にあるように、伊豆国有力在庁の工藤氏の下にいる、景廉父の景員は「婿」とはいえいわば浪人です。以上見ると、両史料では北条氏の活躍ぶりが見られないのに反して、この時点では確たる拠点を持たない浪人の佐々木・加藤氏の活躍ぶりが目を見張り、夜討ちの主力となっています。

 以上見てきたように、山木夜討ちは佐々木兄弟等の浪人を戦力として頼らざるえないほど小戦力故に、深夜の夜襲という攻撃方法をとって成功させました。しかし、山木館の警備体制がしっかりとしていたなら、これは極めてリスクの高いことであったことはいうまでもないでしょう。ですから、三島大社祭礼で山木館の人々が減り、それだけ警備が弱くなる日を襲撃決行としたのです。そして、夜襲が成功したことはやはり警備体制に抜かりがあったことを示しているでしょう。すなわち、山木兼隆は頼朝をそれほど危険視していなかったことになります。

 山木夜討ちの成功で伊豆国目代山木兼隆を討ち取りましたが、これだけで蹶起成功とはいえません。当然ながら、平家の知行国である伊豆国の中枢である国衙を制圧する必要があったはずです。そうでなければ簡単に反撃を許すことになり、結局蹶起は失敗に終わります。次はそれを述べたいと思います。

(2017.10.24)

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山木夜討ち(その二)―歴史雑感〔37〕―

(その一)一、『吾妻鏡』の語る山木夜討ち

(その二)二、『延慶本平家物語』の語る山木夜討ち

(その三)三、山木夜討ち

(その四)四、国衙占領

二、『延慶本平家物語』の語る山木夜討ち 

 『平家物語』諸本では最古態本とされる『延慶本平家物語』第二末・十屋牧ノ判官兼隆ヲ夜討ニスル事(読み下し文。原文仮名書き)には山木夜討ちを次のように記しています。

猿程ニ十六日ニモナリニケリ。兵衛佐、北条四郎ヲ召テ宣ケルハ、日来月日ノ立ヲコソ待ツレハ、今夜、平家々人当国目代、和泉判官兼隆カ屋牧館ニアムナルヲヨセテ、夜討ニセムト思ナリ。若打損タラハ、自害ヲスヘシ。討仰タラハ、ヤカテ合戦ヲ思立ヘシ。是ヲ以テ頼朝カ冥加ノ有無ハ、ワ人共カ運不運ヲハ知ヘシ。但佐々木ノ者共カ、サシモ約束シタリシカ、未見ヘヌコソ本意ナケレト宣。時政申ケルハ、今夜ハ当国ノ鎮守三島大明神ノ神事ニテ、当国中ニ弓箭ヲ取事候ワス。且ハ佐々木ノ者共ヲモ待セ給。吉日ニテモ候、明日ニテ候ヘシトテ出ニケリ。猿程ニ、佐々木ノ兄弟十七日未時計、北条ヘ馳付タリケレハ、兵衛佐殿ハ合ノ小袖ニ、藍摺ノ小袴キ給テ、烏帽子ヲシテ、姫君ノ二計ニヤヲワシケム、ソハニヲキテヲワシケリ。是等カ来ル事見給テ、ヨニウレシケニ思シテ、イカニ、経高ハ渋屋カ不浅思タムナレハ、ヨモ参ラシト思ツルニ、イカニシテ来ルソト宣ケレハ、千人ノ庄司ヲ、君一人ニ思替参セ候ヘキニ候ワスト申ケレハ、サホトニ思ハム事ハ、トカク不及云。頼朝カ此事ヲ思立ハ、ワ人共カ卅トハシラヌカト宣ケレハ、只今卅ヲ卅ナラヌ事マテハ思候ワス。タカホトノ大事ヲ思食立ムニ、今日参リ候ワテハ、イツヲ期候ヘキト存スル計ニ候ト申ケレハ、頼朝ハ本ハ肥タリシカ、此百余日計、夜昼此事ヲ案スルホトニ、ヤセタルソ。抑今日十七日丁酉ヲ吉日ニ取テ、此暁当国目代、和泉判官平兼隆ヲ誅セムト思ツルニ、口惜モ各昨日ミヘヌニヨリテ、今日ハサテヤミヌ。明日ハ精進ノ日也。十九日ハ日次アシ。廿日マテ延ハ、還テ景親ニ襲ハレヌト覚ルナリト宣ケレハ、定綱申ケルハ、十五日ニ参ヘキニテ候シホトニ、三郎四郎ヲモ待候シ上、折節此ホトノ大雨大水ニ、思ワサルホカニ一日逗留シテ候ト申ケレハ、アワレ遺恨ノ事カナ。サラハ各ヤスミ給ヘト宣ケレハ、侍ニ出テヤスミケルホトニ、日既入テクラクナリヌ。シハラク有テ、各物具シテコレヘト有ケレハ、ヤカテ物具取付テ参タリケレハ、佐宣ケルハ、是ニ有ケル女ヲ、兼隆カ雑色男カ妻ニシテ有ケルカ、只今是ニ来ルナリ。此気色ヲミテ従二位語ナハ、一定襲我ヌヘケレハ、彼男ヲハ捕ヘテ置タルソ。此上ハタ春宮今夜ヨリテ打ツヘシト宣ケレハ、十七日ノ子尅計、北条四郎時政、子息三郎宗時、同小四郎義時、佐々木太郎定綱、同二郎経高、三郎盛綱、同四郎高綱已下、彼是馬上歩人トモナク、卅余人、四十人計モヤ有ケム、屋牧館ヘソ押寄ケル。門ヲ打出ケレハ、当国ノ住人加藤次景廉ハ、下人ニ太刀計持セテ、只一騎御宿直ニトテ打通リケルカ、是等カ打出スルヲミテ、イカニ、何事ノアルソトテ、ヤカテ打通リテ、内ヘ入ニケリ。此景廉ハ、元ハ伊勢国ノ住人、加藤五景員カ二男、加藤太元員カ舎弟也。父景員、敵ニ怖テ、伊勢国ヲ逃出テ、伊豆国ニ下テ、工藤介茂光カ聟ニ成テ居タリケリ。弓矢ノ道、兄弟イツレモ劣ラサリケレトモ、殊ニ景廉ハクラキリナキ甲ノ者、ソハヒラミスノ猪武者ニテ有ケルカ、イカ思ケム、時々兵衛佐ニ奉公シケルカ、其夜、兵衛佐ノ許ニヒソメク事有ト聞テ、何事ヤラムトテ、行タリケルナリ。サテ北条、佐々木ノ者共ハ、ヒタ川原ト云所ニ打出テ、北条四郎申ケルハ、屋牧ヘ渡堤ノ鼻ニ、和泉判官カ一ノ郎等、権守兼行ト云者アリ。殿原ハ先其ヲヨリテ打給ヘ。時政ハ打通リテ、奥ノ判官ヲ政ヘシトテ、案内者ヲ付。定綱ハ彼ノ案内者ヲ先トシテ、後ヘ搦手ニ廻ル。経高ソ前ヨリ打入ル。未搦手ノ廻ラヌ先ニ打入テ、見ケレハ、元ヨリ古兵ニテ、待ヤ受タリケム、サ知タリトテ、散々ニ射ル。敵ハ未申ニ向、経高ハ丑寅ニ向フ。月モアカリケレハ、互ノシワサ隠ル事ナシ。寄合テ戦ホトニ、経高薄手負ヌ。猿程ニ、高綱後ヨリ来加タリケルニ、矢ヲハヌカセテケリ。サテ兼行ヲハ、定綱盛綱押合テ、打ヲセツ。判官カ館ト兼行カ家ト、間五町計ナリ。敵打ヲセテ後、ヤカテ奥ノ屋牧ノ館ヘソ馳通リケル。兵衛佐ハ梃ニ被立タリケルカ、景廉カ来ヲ見給テ、折節シ神妙ナリ。景廉ハ頼朝カ于時候ヘシト被置タリ。遙ニ夜深テ後、今夜時政ヲ以、兼隆ヲ誅ニ遣ツルカ、『誅ヲセタラハ、館ニ火ヲ懸ヨ』ト云ツルカ、遙ニ成レトモ火ノミヘヌハ、誅損タルヤラムト独言ニ宣ケレハ、景廉聞アヘス、サテハ日本第一ノ御大事ヲ思食立ケルニ、今マテ景廉ニ知セサセ給ハサリケル事ノ心ウサヨト云マニ、ヤカテ甲ノ緒ヲシメテ、ツト出ケルヲ、兵衛佐、景廉ヲ召返テ、銀ノヒルマキシタル小長刀ヲ、手カラ取出給テ、是ニテ兼隆カ首ヲ貫テ参レトテ、景廉ニタフ。景廉是ヲ給テ走向。歩人一人具シタリケル、兵衛佐ヨリ雑色一人被付タリケルニ、長大刀ヲハ持テ、判官館近走テ見レハ、北条ハ家子郎等多手負、馬共イサセテ、白ミテ立タル所ニ、景廉来加ケレハ、北条云ケルハ、敵手コワクテ、已ニ五六度マテ引退タルソ。佐々木ノ者共兼行ヲハ打テ、此館ノ後ヘ搦手ニ向タルナリト云ヘハ、シタカナラム者ニ楯突セテタヘ。一宛アテミムト申ケレハ、北条雑色男、源藤次ト云ケル者ニ楯継セテ、馬ヨリ下テ、弓矢ハ元ヨリ持サリケレハ、一人ノ弓張矢三筋カナクリ取テ、楯ノ影ヨリ進出テ、矢面ニ立タル敵三人、三ノ矢ニテ射殺シツ。サテ弓ヲハ抛抛テ、長大刀ヲ茎短ニ取成テ、甲ノシコロヲ傾テ、打払テ内ヘツト入、侍ヲミレハ、高灯台ニ火白クカキ立タリ。其前ニ浄衣着タル男ノ、大長大刀ノ鞘ハスシテ立向ケルヲ、加藤次走違テ、小長大刀ニテ弓手ノ脇ヲサシテ、投臥タリ。ヤカテ内ヘ責入テミレハ、額突ノ前ニ火ヲヲコシタリ。又火白クカキ立テタリ。栩唐紙ノ障子立タリケルヲ細目ニアケテ、大刀ノ帯取、五六寸計引残テ、敵是ニ入タリト思テ、見出タリ。加藤次ニ長大刀ヲ以テ障子ヲ差開テミレハ、和泉判官ヲハ、住所ニ付テ八牧判関東ソ申ケル、判官片膝ヲ立テ、大刀ヲ額ニアテ、入ラハ切ラムト思ヒタリケニテ、加藤次シコロヲ傾テ、入ラムトスル様ニスレハ、判官敵ヲ入シト、ムストキル所ニ、上ノ鴨居ニ切付テ、大刀ヲ抜ムトシケルヲ、貫モハテサセスシテ、シヤ頸ヲ差貫テ、投伏テ頸ヲカクヲ見テ、判官カ後見ノ法師、元ハ山法師ニ注記ト云者ニテ有ケルカ、ツトヨル所ヲ二ノ刀ニ頸ヲ打落ツ。サテ主従二人カ首ヲ取テ、障子ニ火吹付テ、心ノスムトシハナケレトモ、

法花経ヲ一字モヨマヌ加藤次カ八巻ノハテヲ今ミツルカナ

ト打詠メテ、ツト出テ、兼隆ヲハ景廉カ討タルソヤト訇リケリ。判官カ宿所ノ焼ケルヲ、兵衛佐見給テ、兼隆ヲハ一定景廉カ討ツルト覚ルソ。門出吉ト悦給ケルホトニ、北条使者ヲ立テ、兼隆ヲ景廉カ討テ候ナリト申タリケレハ、兵衛佐サレハコソトソ宣ケル。景廉ハ戦功当時ニ挙ルノミニズ、専ラ名望ヲ後世ニ残セリ。

以上です。

 『延慶本平家物語』の語る山木夜討ちは次のとおりの経過となります。

 ㋑17日未刻、佐々木兄弟が到着します。定綱が、15日には到着のつもりでしたが、三郎盛綱・四郎高綱も引連れるのと洪水のために遅参した、というと、賴朝は休めといいます。㋺佐々木兄弟が準備を調えて、賴朝の前に行くと、兼隆雑色男が女の下に通うのを捕えたが、今夜に決行と、いいました。㋩子刻、北条時政・同宗時・同義時・佐々木定綱・同経高・同盛綱・同高綱以下30・40人ほどが山木館へと攻撃に向かいます。㋥加藤景廉をただ1騎で宿直に残します。㋭北条時政は、肥田原で山木館への堤の先に一郎等兼行がいるので、まずこれを攻撃すべきといい、自身は山木館を攻撃するといいます。㋭案内者が付けられて佐々木経高は後方から、高綱は前方から攻め込みます。㋬経高と兼行が戦い、経高が負傷しますが、高綱が加わり討取ります。その後、兄弟は山木館攻撃に加わります。㋣賴朝は煙が見えぬと独り言をいった時、景廉が進み出たところ、長太刀を与えて、兼隆の首を取ってくるようにと命じます。㋠景廉が山木館に駆けつけた時、時政は攻めあぐねていましたが、弓をまず射て、長太刀を持って攻め入って、兼隆等の首を打落します。㋷山木館焼亡の火を見て、賴朝は景廉が兼隆を討ったと喜んでいるところに、時政の使者が兼隆を討ったと報告してきます。

(2017.09.20)

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山木夜討ち(その一)―歴史雑感〔37〕―

(その一)一、『吾妻鏡』の語る山木夜討ち

(その二)二、『延慶本平家物語』の語る山木夜討ち

(その三)三、山木夜討ち

(その四)四、国衙占領

一、『吾妻鏡』の語る山木夜討ち

 源賴朝の平家六波羅政権に対する反乱蹶起が、治承4年(1181)8月17日、伊豆国目代山木兼隆館への夜襲で開始されたことは通史等にも記されているとおり周知なことです。しかし、山木夜討ちを専論としたものは見かけません。そこで、改めて山木夜討ちについて考えてみます。山木夜討ちに関して記述されている史料は『吾妻鏡』と『平家物語』諸本です。従って、その比較検討ということになります。

 さて、『吾妻鏡』同日条全文(読み下し文)には山木夜討ちを次のように記しています。

快晴、三島社神事なり。藤九郎盛長奉幣御使として社参す。ほどなく帰参す神事以前なり。未尅、佐々木太郎定綱、同次郎経高、同三郎盛綱、同四郎高綱、兄弟四人参着す。定綱、経高疲馬に駕し、盛綱、高綱歩行なり。武衛その体を召し覧じ、御感涙すこぶる顔面に浮かび給う。汝等の遅参により、今暁合戦を遂げず、遺恨万端のよし仰せられる。洪水の間不意遅留の旨、定綱等これを謝し申す。戌尅、藤九郎盛長僮僕釜殿において、兼隆雑色男を生虜す。但し仰せられるなり。この男日来殿内下女に嫁すの間、夜々参入す。しこうして今夜勇士等殿中に群集の儀、先々の形勢に相似せず。定めて推量を加える歟のよし、御思慮あるによりてこの如くうんぬん。しかる間、明日を期すべからず。各はや山木に向かい、雌雄を決すべし。今度合戦をもって、生涯の吉凶を量るべしのよし、仰せられる。また合戦之際、まず放火すべし。その煙を覧じ欲す故うんぬん。士卒すでに競い起き、北条殿申されて云く、今日三島神事なり。群参の輩下向の間、定めて衢に満つる歟。よりて牛鍬大路を廻らば、徃反たる者、咎られるべきの間、蛭島通を行きべきもの歟。武衛報仰せられて曰く、思うところしかりなり。但し事をなすの草創、閑路を用いがたし。はたまた蛭島通おいては、騎馬の儀叶うべからず。ただ大道たるべきてえり。また住吉小大夫昌長を副えられる腹巻を着す。軍士において、これ御祈禱を致すによりてなり。盛綱、景廉、宿直に候べきのよし承わり、御座右に留どむ。しかる後蕀木北行し、肥田原に至り、北条殿駕を扣え定綱に対して云う、兼隆後見堤権守信遠山木北方にあり。勝勇の士なり。兼隆と同時に誅戮せずば、事の煩あるべき歟。各兄弟は信遠を襲うべし。案内を付けせしむべしてえりうんぬん。定綱等領状を申すうんぬん。子尅、牛鍬東行し、定綱兄弟信遠宅前田の頭に留まりおわんぬ。定綱、高綱は、案内者を相い具して北条殿雑色字源藤太、信遠宅後に廻る。経高は前庭に進む。まず矢を発す。これ源家平氏を征す最前の一箭なり。時に明月午に及ぶ。ほとんど白昼に異ならず。信遠郎従等経高の競い到るを見これを射る。信遠また太刀を取り、坤方に向かいこれに立ち逢う。経高弓を棄て太刀を取り、艮に向かい相い戦うの間、両方武勇掲焉なり。経高矢に中り、その刻定綱、高綱、後面より来り加わり、かの信遠を討ち取りおわんぬ。北条殿以下兼隆館前天満坂の辺に進み、矢石を発す。しこうして兼隆郎従多くもって三島社神事を拝すため参詣す。その後黄瀬川宿に到留し逍遙す。しからば残留するところの壮士等死を争い挑戦す。この間、定綱兄弟信遠を討つの後これに馳せ加る。ここに武衛軍兵を発するの後、御縁に出、合戦の事を想わせしめ給う。また放火の煙を見せしめんがため、御厩舎人江太新平次をもって、樹の上に昇らせしむといえども、良く久しく煙を見あたわずの間、宿直として留め置かれられるところの加藤次景廉、佐々木三郎盛綱、堀藤次親家等を召し、仰せられて云う、速く山木に赴き、合戦を遂ぐべしうんぬん。手ずより長刀を取り、景廉に賜う。兼隆の首を討ち、持参すべきの旨、仰せ含められるうんぬん。よりて各蛭島通の堤に奔り向かい、三輩皆騎馬に及ばず。盛綱、景廉厳命に任せ、かの館に入て兼隆の首を獲る。郎従等同誅戮を免がれず。室屋に放火し、悉もって焼失す。すでに暁天、帰参士卒等庭上に群居す。武衛縁において兼隆主従の頸を覧ずうんぬん。

以上です。

 『吾妻鏡』の語る山木夜討ちは次のとおりの経過となります。

 ①未刻(14時)、洪水により遅参した佐々木4兄弟(定綱・経高・盛綱・高綱)に賴朝は感涙します(今暁合戦予定)。②戌刻(20時)、女の下に通おうとした兼隆の雑色男を捕えます。③明日待たずに今暁決行と賴朝は決断し、夜討ちに当たっては放火するようにいいます。④北条時政が、本日は三島社神事で夜も人で溢れているだろうから、牛鍬大路を避けて、蛭島通を行くべきだと進言します。⑤これに対して、賴朝は、ことをなす草創だから、大道の牛鍬大路を行くべきだと決めます。⑥兵の祈祷のために住吉小大夫昌長を付け、佐々木盛綱・加藤景廉は宿直として留め置きます。⑦夜討ちに出発し、途上で、北条時政が、山木兼遠の後見堤信遠が山木の北方にいるので、兼遠と同時に討たねばまずいと、佐々木定綱にいいます。案内人を付けるというと、定綱は了承します。⑧子刻(0時)、牛鍬大路から東に行き、佐々木定綱兄弟は信遠宅の前田に至ります。ついで、定綱・高綱は案内人の時政雑色字源藤太を連れて、信遠宅の後ろに回り、経高は前庭に進み矢を発します。⑨信遠郎従が経高に挑むのを射ます。信遠は太刀を取り坤〈南西〉に向かい挑みます。経高は弓を棄てて艮(東北)に向かい、互いに戦います。経高が矢に当たった時、定綱・高綱が後方より加わり信遠を討取ります。⑩北条時政以下は兼遠館前の天満坂へと進み矢を発します。三島神事で多くが出かけて残っていた郎従が対戦します。佐々木定綱兄弟が加わります。⑪賴朝は、厩舎人江太新平次を木に登らせますが、煙が見えないので、宿直の加藤景廉・佐々木盛綱・堀親家に山木に行き加勢するように命じます。この時、手ずから景廉に長刀を与えます。⑫3名は馬に乗らずに山木に駆けつけ、盛綱・景廉は兼隆の首を挙げます。家屋に放火して全焼させます。⑬暁天に凱旋した軍士は庭に並び、賴朝は兼隆主従の首級を検分します。

(2017.09.10)

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足立遠元館跡―歴史雑感〔36〕―

 足立遠元は、源賴朝の代に宿老として遇され、武蔵国の有力御家人で、名乗りの地である足立郡を領有しました。遠元の居館として伝承される地は複数あります。この中で、中心の地であると考えられているのが、埼玉県桶川市末広2丁目8番地の桶川市総合福祉センターのあるところです。『武蔵風土記稿』(19世紀前半に幕府により編纂された地誌)巻之百四十七足立郡之十三桶川宿に本居館跡に関して、林となってこの中に無字の石祠があるだけと、記述されています。すでにこの時期には痕跡を残していなかったようです。

 さて、写真(2017年8月28日撮影)に見るように、現在では本居館跡を伝えるのはセンター横にある「伝足立右馬允遠元舘跡碑」(1983年建立)のみです。当地への公共交通は、朝日バスのJR桶川駅東口発の加納公民館経由JR桶川駅東口行(加納循環)で、5つ目の総合福祉センター下車徒歩約3分です。

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 なお、足立遠元に関しては「武蔵武士足立遠元(その1)―歴史雑感〔6〕―」(2005年11月6日付)以下を参照してください。

(2017.08.29)

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鎌倉永福寺遺址―歴史雑感〔35〕―

 永福寺遺址(神奈川県鎌倉市二階堂178)は、1983~1997年にかけての発掘調査により全貌が判明し、その後復元整備が行なわれ、本年6月公開となりました。開門時間は9~17時(11月~3月までは16時30分)です。JR鎌倉駅から鎌倉宮行バスで終点の鎌倉宮下車、徒歩約5分(瑞泉寺へ)です。

 永福寺は、文治5年(1189)の奥州合戦で奥州平泉藤原氏を滅亡させた源賴朝が平泉の二階大堂等を見て驚愕して、本合戦での死者鎮魂のため、創建した寺院です。同年12月に建立を決定し、建久3年(1192)11月25日に二階堂の落慶供養、翌4年(1193)11月27日に阿弥陀堂落慶供養、翌々5年(1194)12月26日に薬師堂落慶供養、と三つの御堂が完成しました。

 発掘調査で二階堂・阿弥陀堂・薬師堂の3御堂の他、複廊・翼廊・釣殿・橋・池等の配置・規模が明らかになりました。2007年から鎌倉市は永福寺遺址の復元整備事業を行ないました。建物遺址の上に60cmの盛土をして保護するとともに、御堂の基壇を同じ木で復元し、同時に建物の礎石を配置しました。木・石は発掘で出土したものと同一素材を使用しています。池は30cm嵩上げして復元しています。ただ、本来の池は東と南により広がっていましたが、敷地等の関係で現在規模となっています。

 写真1は、発掘調査による永福寺復元図です。南から南翼廊・南中門・釣殿、阿弥陀堂、南複廊、二階堂、北複廊、薬師堂、北翼廊・北中門・釣殿の建物群、この北に谷からの水取り入れの遣水、建物群に東面して広がる池、池の南端中に岩を組み合わせた中島、池の中央に二階堂に対面して橋となっています。

 写真2は、阿弥陀堂を南から見たものです。御覧のように基壇が復元されています。奥には二階堂の基壇が見えます

 写真3は、西南側から見た二階堂の基壇です。手前が南複廊です。

 写真4は、西正面の基壇上から見た二階堂です。

 写真5は、南東角から見た薬師堂の基壇です。

 写真6は、北の釣殿上から見た池と二階堂等の基壇です。二階堂と対面して池には橋の基盤が見えます。

 写真7は、奥から見た全景です。

 最後の写真8は、南側の池越しに見た全景です。

 以上、2017年8月23日(水)午前のものです。なお、鎌倉市の本遺址に関しての案内は、

https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/treasury/yohukuji_cg.html

で、リンク先には永福寺跡復元CG等があります。また、フォトアルバム「鎌倉永福寺遺址」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngsssy4LVEWqlu-28JQです。

(2017.08.25)

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馬場の赤門―歴史雑感〔34〕―

 横浜市鶴見区馬場2-23に所在する馬場の赤門(澤野家長屋門)は天領東寺尾・北寺尾・西寺尾・馬場4か村の総代名主澤野家が安政年間(1851年頃)に建てたものです。1991年に横浜市指定史跡となっています。最寄りバス停は横浜市営バス西寺尾建功寺前・臨港バス東高校入口です。東北に徒歩約300mです。

 写真1は、T字路に立つ右から見た赤門です。赤門の由来は紅殻柄で門を塗ることを許されたため、門が赤色をしていることからです。ご覧のように中央の門が赤色です。

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 写真2は、左から見た赤門です。

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 最後の写真3は、裏から見た赤門です、長屋門ですから、門の左右には部屋があります。そして、門の背面は小さいですが公園「馬場の赤門公園」となっています。以上撮影は2017年7月14日(金)午前です。

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(2017.07.15)

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鎌倉時代武家料理

 2017年7月3日(日)昼、鎌倉で開かれた会で振舞われた鎌倉時代武家料理を復元したものです。

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 上段の器に入った料理は右より「山の幸」(鹿肉の炙り・明日葉浸し)、「楚割」(鮭とば・床節・梅干し・燻海老)、「膾」(鯛昆布〆・鰺奈れずし)です。下段の皿に入ったのは「調味」で右からひしお・酢味噌・天塩です。そして左の盛ったのが「飯」の発芽玄米ご飯です。さらに、食事途上で、「茹物」(冬瓜・長芋・茄子)と「羹物」(浅利・赤目・すまし汁)が配膳されて、最後に「菓子」(干し柿・赤すぐり・小豆羊羹)が出ました。料理自体にはほとんど味が付けておらず、好みにより調味料を付けて食しました。もちろん菓子の羊羹にも砂糖は使われておりませんでした。「日本料理 鯛之助」(http://www.miyokawa.co.jp/koinosuke.html)の調製です。

(2017.07.03)

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城願寺土肥氏墓―歴史雑感〔33〕―

 2017年6月15日(木)午前、JR湯河原駅の北側の山麓に位置する城願寺(神奈川県足柄下郡湯河原町城堀252)に土肥氏墓を訪れました。本寺は土肥氏祖の土肥実平の創建と伝え、土肥氏歴代の墓が残されています。土肥氏は、桓武平氏良文流後裔で、相模国西部に勢力を扶植した中村氏族嫡流中村宗平の次男実平が土肥郷(湯河原町)を名字の地とした武士です。北接した早川庄(小田原市早川)をも所領化して、箱根山外輪山南麓を勢力圏としました。実平は、治承4(1180)年の源頼朝蜂起以来の武士であり、石橋山敗戦後の最も賴朝の苦しかった時期を守り切り、対平家戦では軍奉行として派遣されました。

 写真1は、墓所正面からのものです。中央の4基の五輪塔左側の5層の重層塔は最古の嘉元2年(1304)7月の銘があります。写真にも見えるように、五輪塔・宝篋印塔等の各種の墓型が揃っています。

 写真2は、墓所中央の4基の五輪塔です。形状から鎌倉期のものといえます。左側の2基が実平夫妻、右側の2基が嫡子遠平夫妻と伝えられています。残念ながら無銘です。

 写真3は、実平の五輪塔と伝えられているものです。

 写真4は、墓所左側より見たものです。墓所全体には66基の墓石があります。

 最後の写真5は、表参道を上り切った右側の寺境内に起立する天然記念木、樹齢900年の柏槙(ビャクシン)です。実平が本地に持仏堂を創建した時に手植えしたと伝えられています。

(2017.06.18)

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南方長城

一、天門山

二、武陵源索渓峪・宝峰湖

三、武陵源袁家界

四、武陵源天子山

五、武陵源索渓峪・金鞭渓

六、武陵源索渓峪・十里画廊

七、武陵源索渓峪・黄龍洞

八、鳳凰古城

九、南方長城

 25日(火)午前の観光は南方長城です。本長城は明の万暦年間(1573~1620年)に建設が開始されて、北は湘西古丈県の喜鵲営から南は貴州銅仁境内の鳳凰県黄会営までの全長190kmに、苗族などの少数民族対策として築かれたものです。現在は鳳凰県沱江鎮の西約15kmの「金勝営」が整備されています。

 写真1は、東門です。

写真2は、東城壁を上り、途上から下を見たものです。

 写真3は、東城壁中間にある砲台に据えられた大砲です。対面の山を目標にしています。

 写真4は、東城壁を上り、北城壁に至ったところから営所「金勝営」を見下ろしたものです。

 写真5は、東城壁です。

 写真6は、北城壁の望楼です。

 写真7は、北城壁です。

 最後の写真8は、西城壁を下ったところにある望楼です。

 なお、フォトアルバム「湖南・南方長城」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngssK5hBghDqfzLZXsgです。

(2017.05.16)

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鳳凰古城ー中国雑感〔29〕―

一、天門山

二、武陵源索渓峪・宝峰湖

三、武陵源袁家界

四、武陵源天子山

五、武陵源索渓峪・金鞭渓

六、武陵源索渓峪・十里画廊

七、武陵源索渓峪・黄龍洞

八、鳳凰古城

九、南方長城

 24日(月)午前、張家界から鳳凰へ高速道路経由で移動です。昼食後、午後は鳳凰古城観光です。鳳凰古城は湖南省湘西土家族苗族自治州鳳凰県沱江鎮、州都吉首市から南52kmの距離にあります。本古城は明嘉靖35年(1556)に創建されてから約400年余の歴史があります。

 写真1は、南華門(西門)から鳳凰古城内に入り、門内の筆架山公園から南華門城楼を右に置き左への城壁を撮ったものです。写真ではお見せしませんが、公園中心には大きな鳳凰像が鎮座しています。

 写真2は、東門へと続く老楽街から脇にそれた中営街です。

 写真3は、中営街にある沈従文故居です。四合院作りです。沈従文(1902~88年)は小説『返城』(1936年)で著名な作家です。

 写真4は、沈従文の居室復元です。ご覧のように蓄音機をベッド横に置いていました。

 写真5は、老楽街です。

 写真6は、北門城楼です。古城北城壁に沿った沱江南岸からです。

 写真7は、沱江にかかる跳岩です。これで川を渡れます。雨模様のため渡る人が少なく、無人の時を狙って撮りました。

 写真8は、手前から順に跳岩・木橋・雪橋・鳳凰大橋です。

 写真9は、北門城楼の沱江南岸の沱江乏舟(遊覧船)乗り場から遊覧船に乗り東へと下り、虹橋を撮ったものです。虹橋は木造二層で明の洪武7年(1374)創建です。前の舟をご覧のように遊覧船は手漕ぎです。

 写真10は、虹橋を潜り、吊脚楼群を撮ったものです。ご覧のように木柱で建物を支えていることからこの名が付きました。

 写真11は、万名塔です。沱江沙湾に位置し、塔高22.98m・一層直径4.5mの六角7層です。

 写真12は、舟から北岸に降り、船上の歌姫を撮ったものです。右上に吊脚楼と虹橋一部が見えています。

 写真13は、虹橋から見た沱江上流域です。跳岩・木橋・雪橋・鳳凰大橋が遠望できます。

 写真14は、万名塔で、その左の樹木に隠れて見える建物が万寿宮です。また、右側の川に突き出ているのが奪翠楼です。

 夜は古城夜景の観光です。写真15は、鳳凰大橋上からの雪橋です。

 写真16は、鳳凰大橋上からの沱江上流域です。ご覧のように木橋を夜でも渡っています。

 写真17は、川岸に下りて雪橋を撮ったものです。

 最後の写真18は、逆に鳳凰大橋を撮ったものです。

 なお、フォトアルバム「湖南・鳳凰古城」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngsphJXojBMRbz1aolAです。

(2017.05.14)

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武陵源索渓峪・黄龍洞―中国雑感〔28〕―

一、天門山

二、武陵源索渓峪・宝峰湖

三、武陵源袁家界

四、武陵源天子山

五、武陵源索渓峪・金鞭渓

六、武陵源索渓峪・十里画廊

七、武陵源索渓峪・黄龍洞

八、鳳凰古城

九、南方長城

 23日(日)午後の観光は武陵源索渓峪・黄龍洞です。黄龍洞は武陵源区から東に約7kmの距離にあり、総延長7.5kmもある鍾乳洞です。

 写真1は、洞に入ってすぐの所にある双門迎賓です。ご覧のような人一人が通れる空間が2つあることから名付けられました。

 写真2は、龍舞庁です。たくさんの石筍が立っています。

 写真3は、金戈銀槍です。石筍の形状からの命名です。

 さらに進むと、渡船場(啊水河一碼頭)に出ます。ここから船に乗り、洞の川を遡ります。写真4は、海螺吹天と名付けられたところです。

 写真5は、鉄樹開花と名付けられた石筍です。その後、二碼頭まで行ったところで戻りとなりました。

 最後の写真6は、もどりのものです。前方奥にこちらに向かう船が見えます。なお、洞内は暗いのでISO3200まで上げても、本写真ではシャッタースピード1/6と遅く、手前の岩は流れていることがお分かりでっしょう。

 なお、フォトアルバム「湖南・武陵源黄龍洞」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngspVYZfogGt95VnD1Aです。

(2017.05.12)

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武陵源索渓峪・十里画廊―中国雑感〔27〕―

一、天門山

二、武陵源索渓峪・宝峰湖

三、武陵源袁家界

四、武陵源天子山

五、武陵源索渓峪・金鞭渓

六、武陵源索渓峪・十里画廊

七、武陵源索渓峪・黄龍洞

八、鳳凰古城

九、南方長城

 23日(日)午前の次の観光は武陵源風景名勝区の索渓峪自然保護区の十里画廊景区です。金鞭渓~専用バスでまず移動します。徒歩道もありますが、モノレール軌道のトロッコ電車で観光です。

 往路は右側の席だったので、景勝が撮れず。終点までは眺めるだけです。写真1は、トロッコ終点の広場からの三姐妹峰です。

 写真2は、三姐妹峰を中心に撮ったものです。

 写真3は、三姐妹峰を縦位置で撮ったものです。

 写真4は、広場から三姐妹峰の反対側、下流の石峰群です。

 写真5は、その真ん中の石峰を拡大したものです。

 写真6は、帰路の電車内から撮ったものです

 写真7は、さらに下ったところです。

 最後の写真8は、すれ違うトロッコ電車です。軌道が跨座式のモノレールであることがお分かりでしょう。そして、平行して遊歩道があります。

 なお、フォトアルバム「湖南・武陵源十里画廊」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngspDiOY9VY6u62GeNQです。

(2017.05.10)

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武陵源索渓峪・金鞭渓―中国雑感〔26〕―

一、天門山

二、武陵源索渓峪・宝峰湖

三、武陵源袁家界

四、武陵源天子山

五、武陵源索渓峪・金鞭渓

六、武陵源索渓峪・十里画廊

七、武陵源索渓峪・黄龍洞

八、鳳凰古城

九、南方長城

 23日(日)午前最初の観光は武陵源風景名勝区の索渓峪自然保護区の金鞭渓景区です。本景区最下流の水繞四門まで専用バスで移動してから、前日の観光が三条からと異なり、渓谷を徒歩となります。

 写真1は、しばらく行ったところの石峰群です。

 写真2は、この拡大です。

 写真3は、本渓谷中間点で小さな広場となっている南亭の所に立っている保塔峰です。時間の関係でここから戻りです。

 写真4は、少し位置を変えて撮った保塔峰です。

 写真5は、戻りで道を変えて河原から遠望した保塔峰です。

 写真6は、下った右岸の石峰群です。

 写真7は、この拡大で逆光なので太陽を入れてみました。

 最後の写真8は、さらに下ったところで最初の石峰群を右岸から撮ったものです。

 なお、フォトアルバム「湖南・武陵源金鞭渓」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngsll-4jH4zeqjtx1UQです。

(2017.04.08)

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武陵源天子山―中国雑感〔25〕―

一、天門山

二、武陵源索渓峪・宝峰湖

三、武陵源袁家界

四、武陵源天子山

五、武陵源索渓峪・金鞭渓

六、武陵源索渓峪・十里画廊

七、武陵源索渓峪・黄龍洞

八、鳳凰古城

九、南方長城

 22日(土)午後の観光は武陵源風景名勝区の天子山景区です。張家界界景区の天下第一橋先の袁家寨で昼食後、専用バスで移動してきました。

 賀龍公園を過ぎて天子閣の先にある御筆峰が最初の観光地です。写真1は、西側に位置するこの全景です。

 写真2は、縦位置で撮った御筆峰です。奥右側の立った3本の柱群がそうです、高100m余です。

 写真3は、横位置からのものです。

 写真4は、3本の石柱群の御筆峰を見たものです。中央のは筆を置いたの「江山」に似ているとしています。右側のは差し込んだ筆を倒したとされます。

 写真5は、御筆峰の頂点部を望遠で拡大して撮ったものです。

 写真6は、御筆峰の反対側、東側にある仙女散花全景です。

 写真7は、仙女散花で、左側に小さく2つ写っている岩がそれです。

 写真8は、仙女散花を望遠で拡大したものです。岩の形が花籠を持った女性のように見えるためこの名が付き、上が姉で下が妹の姉妹です。

 天子閣から専用バスで天子山索道上站に移動しました。写真9は、上站から撮ったものです。現在の8人乗りの天子山索道は2016年2月に開通して、全長が2091mで乗車時間が6分間です。

 写真10は、下る途上から下を撮ったもので、下遠くに下站が見えています。

 最後の写真11は、逆に上を見て撮ったものです。

 なお、フォトアルバム「武陵源天子山」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngslOiIjyjS74JtXiXAです。

(2017.05.06)

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武陵源袁家界―中国雑感〔24〕―

一、天門山

二、武陵源索渓峪・宝峰湖

三、武陵源袁家界

四、武陵源天子山

五、武陵源索渓峪・金鞭渓

六、武陵源索渓峪・十里画廊

七、武陵源索渓峪・黄龍洞

八、鳳凰古城

九、南方長城

22日(土)午前の観光は武陵源風景名勝区の袁家界景区です。遅れると混雑するというので、7時半に出発しました。ホテルから徒歩距離の武陵源門票站から専用バスで百龍天梯下站下車です。

写真1は、2002年に運行界開始した運行高度326mを66秒で上る百龍天梯(エレベーター)です。「世界第一梯(世界一のエレベーター)」碑が立っています。3基のエレベーターが設置されています。ご覧のように2基が百龍天梯上站です。

写真2は、エレベーター内から撮ったものです。64人乗りで、後から乗り込んだので頭越しに撮りました。

写真3は、専用バスで迷魂台に移動して、遊歩道を歩いたところで撮ったものです。色々な石柱が立っています。

写真4は、さらに拡大して石柱をとらえたものです。

写真5は、上の写真の左側の上部が三角形の石柱をより拡大したものです。

写真6は、右側の石柱をより拡大したものです。

さらに進み、映画「アバター」のモデルとなった石柱の所に出ます。ここには「アバター」に乗った撮影場所がありますが、写真7は、ここでその石柱、すなわち乾坤柱(懸浮山)を撮ったものです。

写真8は、さらに進んで、乾坤柱全景を撮ったものです。

写真9は、上半部を拡大したものです。

写真10は、さらに進んで、天子峰を遠望したものです。

写真11は、天下第一橋です。

最後の写真12は、同じく天下第一橋です。

なお、フォトアルバム「湖南・武陵源袁家界」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngsk0vOs4r-rBRtgIQQです。

(2017.05.04)

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武陵源索渓峪・宝峰湖―中国雑感〔23〕―

一、天門山

二、武陵源索渓峪・宝峰湖

三、武陵源袁家界

四、武陵源天子山

五、武陵源索渓峪・金鞭渓

六、武陵源索渓峪・十里画廊

七、武陵源索渓峪・黄龍洞

八、鳳凰古城

九、南方長城

 21日(金)午後は宝峰湖観光です。宝峰湖は世界自然遺産の武陵源風景名勝区の索渓峪自然保護区に位置します。ここの観光は船です。

 写真1は、「宝峰湖」石碑と渡船場です。ここから乗船します。

 写真2は、前を行く船を写し込んだものです。

 写真3は、山峰です。武陵源の特徴である立った峰です。本湖で見る峰は高さがそれほどはありませんが。

 写真4は、民歌を唄う土家族の衣装の女性です。他の所では男性の歌い手もおり、観光に花を添えています。

 写真5は、湖から立つ独立石柱です。

 小島の先の岩壁を過ぎると湖が広がり、戻りとなります。写真6は、これを撮ったものです。

 最後の写真7は、戻りの時、前方近くに船を入れて撮ったものです。

 なお、フォトアルバム「湖南・武陵源宝峰湖」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngsklPrzW71DlmLnnsQです。

(2017.05.02)

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天門山―中国雑感〔22〕―

一、天門山

二、武陵源索渓峪・宝峰湖

三、武陵源袁家界

四、武陵源天子山

五、武陵源索渓峪・金鞭渓

六、武陵源索渓峪・十里画廊

七、武陵源索渓峪・黄龍洞

八、鳳凰古城

九、南方長城

クラブツーリズム主催「武陵源と圧倒の天門山 幻想の美しき鳳凰古城 絶景めぐり7日間」(2017年4月20日〔木〕~26日〔水〕)で、中国に行ってきました。本ツァーの基本旅程は、

20日(木)午後成田発上海着(東方航空) 夜上海発張家界着(上海航空) 張家界泊

21日(金)午前天門山観光 午後武陵源索渓峪・宝峰湖観光 武陵源泊

22日(土)午前袁家界観光 午後天子山観光 武陵源泊

23日(日)午前金鞭渓・十里画廊観光 午後黄龍洞観光 張家界泊

24日(月)朝張家界発 午後・夜鳳凰古城観光 鳳凰泊

25日(火)午前南方長城観光 午後鳳凰発 夜張家家界発上海着(上海航空) 上海泊

26日(水)朝上海発成田着(東方航空)

です。

 最初の観光地は天門山です。天門山国家森林公園は湖南省張家界市永定区黎坪に位置します。まず、7455mの天門山索道(ロープウェー)で上ります。約30分の行程で世界一長いものです。

 写真1は、山麓站(駅)からのものです。ご覧のように民屋の屋根近くを越えていきます。

 写真2は、前方に鉄道の張家界站を見たもので、ちょうど列車が入線中です。前方の山を越えて、いったん下り、急な上りとなります。

 上っていくと、左に天門洞が見える位置に来ます。写真3が、これです。

 写真4は、山頂站からの鬼谷桟道上から、ロープウェーを撮ったもので、左の岩壁に隠れたところが山頂站です。

 写真5は、玻璃(ガラス)桟道をガラス越しに下を撮ったものです。岩壁に沿って設置されていることがお分かりでしょう。ご覧のように、ガラス保護のため赤の靴カバーを付けます。

 写真6は、玻璃桟道を過ぎたところから玻璃桟道を少し見下ろしたものです。

 写真7は、同じところから下の七曲りの通天大道(盤山公路)を撮ったものです。天門洞下広場まで通じており、専用バス移動となります。

 写真8は、桟道が終わり、天門洞下広場への登天門エスカレーターです。近年に起きた崩落事故で天門洞は強化工事中で、階段は通行禁止のため、エスカレーター利用となりました。

 写真9は、広場右から見た天門洞です。

 写真10は、天門洞を中心としたものです。

 写真11は、天門洞を横位置で撮ったものです。

 写真12は、広場正面からの天門洞です。

 付けたりの写真13は、24日(月)朝、張家界国際大酒店の部屋から遠望した天門洞です。マンション間に見えたのを望遠で引きつけました。

 なお、フォトアルバム「湖南・天門山」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngskMQfEC6cNAhNsdrgです。

(2017.04.30)

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太尾堤緑道の桜

 2017年4月6日(金)、太尾堤緑道の桜を見に行きました。以下の写真をご覧になられば分かるように、満開には少し早く7分咲きです。

 付けたりとして、足を伸ばした新横浜堤の桜もお見せします。

 フォトアルバム「太尾堤緑道の桜」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngshqN61uE9CMy_bqzgです。

(2017.04.07)

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源義経が6男とは―歴史雑感〔32〕―

 源義経は「九郎判官」として知られているように、義朝の9男であり、このことは『尊卑分脉』第四篇に、義平・朝長・賴朝・義門・希義・範頼・全成・円成・義経の順に記載されていることからも確かめられます。

 ところが、『吾妻鏡』文治5年閏4月30日条の奥州平泉の衣川舘に藤原泰衡勢の襲撃を受けて自害した記事で、その官暦冒頭に「左馬頭義朝々臣六男」と記載されています。ここでは義朝の6男とされているのです。『吾妻鏡』治承4年10月21日条の義経の初見記事、すなわち賴朝との初対面記事では「奥州九郎」と表記されおり、以後左衛門尉に任官するまで、一貫して「九郎」の表記に変化はありません。6男とするのは上記の条のみなのです。これは不可思議な表記です、何を基準としてかかる表記となったのでしょうか。改めて考えてみます。

 義朝の男子で僧籍に入ったのは義経の同母兄の全成・円成の2人です。『本朝皇胤紹運録』(群書類従第五輯・系譜部)では法親王が設けられると、以後の系譜の男子は親王そして法親王の順で記載されています。『尊卑分脉』藤原氏では、公家系譜の男子は俗人・僧籍の順に記載されおり、武家系譜の男子では僧籍は例外的に少なく俗人の後となっています。同書清和源氏では、俗人と僧籍を混在している場合と、俗人・僧籍の順となっている場合があります。特に義家五男為義嫡男義朝流では混在となっています。そこで、『吾妻鏡』は義経自害記事においては公家に倣ったとすれば、俗人として生涯を終えた男子の順であり、義経は7男となります。

 ですがまだ一人足りません。『尊卑分脉』のみに見え、他の史料での確認が出来ず、若死にしたと考えられている義門が『吾妻鏡』執筆時期の他の系譜類に所載がなかったとしたら、一人減り6男となりましょう。そこで、『義経記』巻第二・遮那王殿元服の事で、

左馬頭殿の子ども、嫡子悪源太、二男朝長、三男兵衛佐、四蒲殿、五郎げんじ君、六郎は卿の君、七郎は悪禅師の君、我は左馬八郎とこそ云はるべきに、保元の合戦に叔父鎮西八郎名を流し給ひし事なれば、その跡をつがん事よしなし。末になる共くるしかるまじ。我は左馬九郎と云はるべし。

と義経は宣言します。ここでは義門は不在で、義平・朝長・賴朝・範頼・希義・義円・全成そして義経が8男となっています。そして、本来は八郎と名乗るところが、叔父の鎮西八郎為朝が有名であり、この跡を継ぐのは憚るので、玄人称するのだと義経は宣言します。『義経記』の成立は南北朝・室町初期とされます。すなわち、『義経記』では兄弟の順は『尊卑分脉』と異なり、かつ義門は存在せず、8男義経の認識ということになります。

 この8男義経の認識は何時生まれたのでしょうか。『吾妻鏡』が義経を6男と表記していることは僧籍の2人を除いたことで表記といえますから、6男とは8人兄弟の末弟ということになります。すなわち『義経記』の認識と一致するのです。『吾妻鏡』は何らかの史料に基づいて、義門は存在せず義朝の男子は8人兄弟と認識したことになります。すでに『吾妻鏡』執筆時時と考えられる鎌倉後期に義門がおらず男子が8人兄弟との史料(系譜類など)が存在していたことになります。ただ、『義経記』の述べるように、八郎為朝を憚って九郎と義経自身が仮名を改めたというのは、他に裏付けがなく、本当とはいえないかもしれません。いじょうで、『吾妻鏡』が義経を6男と表記したことが理解できましょう。

 ですが、摂関家九条兼実の日記『玉葉』の初見である寿永2年閏10月17日条に「賴朝弟九郎」と記載されているように、義経生存中に「九郎」と称されていたのです。いわば、義経が「九郎」であることは周知の事実であったのです。とすれば、『吾妻鏡』執筆者はこのことを当然ながら知っており、だからこそ他の記載では「九郎」と表記したのです。そうならば、何故義経自害記事の官暦に6男と記したかやはり謎です。九郎と6男との間に整合性がないからです。この点を謎として残しておきます。

(2017.03.30)

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町田市の鎌倉道址―歴史雑感〔31〕―

 2017年3月18日(土)、武蔵野文化協会主催の「町田の鎌倉道(上ツ道)を歩く」に参加しました。そこで、町田市の鎌倉道上ツ道址を紹介します。

 写真1は、七国山の鎌倉道上ツ道址です。左見える石碑には「七国山鎌倉街道の碑」と刻しています。この石碑の道手前には「鎌倉井戸」(1.5m地下に円筒形の直径70cmの井戸が原型のまま現存)で、地上に井桁を再現して保存している。ここへは神奈川中央交通バスの町田駅前発野津田車庫行で今井谷戸下車です。この地一帯は七国山緑地保全地区に都から指定されています。

 写真2は、華厳殷から野津田公園に上がっていく道の所の鎌倉上ツ道址を下へと見たところです。ここは発掘のトレンチが行なわれて、道路遺構であること確認されました。ここを上りきると、野津田公園に出ます。その右手正面奥が縄文から近世に至る複合遺跡である野津田上原遺跡です。中世遺構として5本の道路遺構が確認されています。ここへは神奈川中央交通バスの町田駅前発野津田車庫行で袋橋下車です。

 最後の写真3は、井手の沢古戦場址の「史蹟井手の澤」石碑です。1960年設置のもので、菅原神社社殿左手にあります。1335(建武2)に中先代北条時行軍と迎撃する足利直義軍との間で戦われた井手合戦を記念するものです。実際の井手の沢は神社本殿の右側(西)の谷です。ここの地で府中から多摩丘陵の起伏ある鎌倉道が鎌倉まで平坦な道となります。この意味でこの地は防衛上の要地といえます。菅原神社へは菅原神社前下車(数路線あり)です。

(2017.03.19)

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