鎌倉幕府公事奉行人藤原親能の出自―歴史雑感〔102〕―

 鎌倉幕府公事奉行人の一人親能は「正五位下行掃部頭藤原朝臣親能法師」として『吾妻鏡』承元2年12月18日条に66歳で卒したとの記事が見えます。『吾妻鏡』での親能の所見は死後も含め80か日に達しています。この内で氏名を明記してあるのは4か日です(御家人制研究会編『吾妻鏡人名索引』1971年吉川弘文館では、文治3年10月29日条所収の源頼朝家政所下文の署判筆頭の「中原」を親能に比定しています。しかし、署判最後が中原広元、この前が藤原行政であることから、序列的に親能ではありえなく別人とすべきです。また、建久3年6月20日条所収の将軍家政所下文の別当歴名最後の「散位中原朝臣」を親能に比定しています。しかし、他の政所下文に「散位中原朝臣」なる歴名はなく、錯誤による追加と見るべきで、カウントすべきものではありません)。

 まず氏名が最初に見える元暦元年(1184)10月6日条の公文所吉書始で、寄人の一人として「斎院次官中原親能」とあります。少し早く、『玉葉』同年2月1日条に、「斎院次官親能者、前明法博士広季子、頼朝之近習者、」とあり、この広季は中原広季のことである故、親能も中原氏という事になり、『吾妻鏡』と氏名が一致するのです。すなわち、元暦年間には親能は中原氏を名乗っていた事になるのです。

 次は、文治4年(1188)6月28日条で、所載の文治4年6月11日付親能請文に、「散位藤原朝臣親能」の署名があります。本文書案は内容からして、地の文で頼朝が親能の弁を認めた事から、偽文書とは思えず信用して良いのです。とすると、文治4年段階までに親能は中原氏から藤原氏に改めた事になるのです。

 このことは続く建久2年(1191)正月15日条の政所吉書始記事で、公事奉行人の一人として、「前掃部頭藤原朝臣親能」と見えていることで、これを裏付けており、確かに中原親能ではなく、藤原親能なのです。そして、上述の卒去記事に於いても藤原親能であり、藤原氏として卒去したのです。

 ここで改めて親能の系譜を考えてみましょう。

 まず、『尊卑分脉』第四篇・中原略頁一六三に、広季の子として。

親能 〈十士 彳四下 掃了頭 正五下〉   

とあります。これは上述の『玉葉』と同様に、親能の父は局務を家職とする中原広季であることも記載されています。

ところが、『大友系図』(『続群書類従』第六輯上系図部頁三四八)に、参議藤原光能の子として最後に、

親能 〈正五位下斎院次官式部大夫掃部頭美濃権守法名寂忍〉〈母正四位下大外記中原広季朝臣女、初爲外祖父広季養子、後依頼朝卿命復本姓藤原、以此息等或藤原或中原相交稱之、〉

とあります。ここでは親能の実父は藤原道長六男長家流の参議藤原光能で、中原広季は養父ということなのです。                            

 改めて本系図を検討してみましょう。「以此息等或藤原或中原相交稱之」とあるのは、本系図の親能子の表記が順に、季時「姓藤原」、親実「姓藤原」、師員「姓中原」、師俊「姓中原」親家「姓中原」仲能(姓藤原)、親茂「姓藤原」、と明らかに養子である大友能直を考慮外として、確かにその通りです。全員が実子であるかは別として親能の子は藤原氏と中原氏と別の氏名を用いているのです。

 藤原光能は寿永2(1183)年2月28日に52歳で死去しており(『尊卑分脉』第一篇頁二八八)、長承元(1322)年生まれです。親能は上述の『吾妻鏡』の記載で承元2(1208)年12月18日に66歳で死去していますから、康治2(1143)年生まれです。とすると光能は数え11歳で親能を設けたことになるのです。早くとも満12歳の生殖可能年齢から考えると、これは若すぎ不可能です。とすると、系図の記載は真実ではないことになるのです。即ち親能が光能の実子であることは否定されるのです。本系図をもって親能が藤原氏とは主張できないのです。

 ところで、幕府有力文士御家人で改氏名をしたことで周知なのが大江広元です。広元の改氏名に関しては『吾妻鏡』に記載があります。まず、建保4(1216)年4月7日に、広元が都と内々に交渉内諾を得たのであろう、この日女房を通じて、将軍源実朝に許可を願い出ました(同書同日条)。次いで、建保4年6月11日付中原広元申文により改氏名を申請し、同閏6月1日付で勅裁をえて、この写しが同16日に実朝に披露されました(同書閏6月16日条)。当然ながら、広元は改氏名の申請を朝廷に行なっていますが、その前にこれの認可を将軍実朝から得ています。

 既に述べたように親能は中原広季の子として歴史に登場し藤原親能として死去します。『吾妻鏡』で見る限り文治年間に中原氏から藤原氏に改氏名したように見えます。しかし『吾妻鏡』を始めとする史料でこの件を触れたものは一切所見しないのです。広元は、

散位従四位上大江朝臣維光、依有父子之儀、已叶継嗣之理、従四位下行掃部頭中原朝臣広秀、雖蒙養育之恩、欲改姓氏之籍、

と、上述の中原広元申文にその根拠を記しています。当然ながら親能にも根拠があったはずです。

 『大友系図』の示すところの藤原光能の実子が親能ならば、これを根拠とするのは申し分がありません。しかし、これは否定されて事実ではなく根拠にできません。では何を親能は根拠としたのでしょうか。ここで改めて『大友系図』を見てみましょう。「母正四位下大外記中原広季朝臣女、初爲外祖父広季養子、」と、親能の母が中原広季の娘としており、これにより外祖父広季の養子になったとしています。もちろん親能は光能の実子ではないので親能の母が広季娘であるのは事実ではありません。また各種の系図類にも広季娘の記載はありません。『大友系図』のみです。それはともかく親能と藤原光能及び中原広季を結ぶ輪が広季娘ということになると考えることができます。では全く広季娘の記載に意味はないのでありましょうか。親能にはこの線以外に藤原氏との関係を示すものはないのです。とするとこう考えられないでしょうか。

 広季娘と光能との婚姻関係は真実性があると考えることができるとします。これを基に光能が親能を猶子として、「能」を偏諱として与え元服させたと考えるのです。それ故に諱が親能となったことが理解できます。これで親能は本来の中原氏の家業である局務として外記の昇進コースを進むことなく、関係のない斎院次官に補任されたといえましょう。なお次官は「諸大夫職」(『官職秘抄』下〔『群書類従』第五輯・官職部〕)とされていることから、親能は元暦元年以前に少なくとも従5位下になっていたことになります。以上から親能の改氏名の根拠が光能の猶子であったと推定出来るのです。

 改氏名の時期に関してはどうでしょうか。上述の通り元暦元年10月では中原親能です。それが文治4年6月には藤原親能となっています。するとこの間に改氏名したことになります。文治元(1185)年4月に平家が滅び内乱は終結しましたが、年末には源義経関係で落ちつかず翌年まで響きます。従って、元・2年の改氏名申請はないと見るべきでしょう。ところが、文治3年に入ると親能は、2月16日、貢馬を連れ使節として上洛(『吾妻鏡』同日条)、8月には広元と共に在京(同上8月19日条)、10月も在京中(同上10月28日条)と、本年中はほぼ在京中でした。また4年4月には京から飛脚を発しています(同上4年4月20日条)。すると3年に引続き在京していたことになります。以上から、文治3年中に在京して朝廷と内々に改氏名を交渉できたことになります。すると早ければ3年後半、遅くとも4年前半に改氏名を勅許されたことになります。

 光能は既に死去しており、男子の知光・光俊共に若く後背としては力不足です。では、この時期に改氏名を願ったのでしょうか。これについて考えたいと思います。残念なことに改氏名に関する史料は不見です。改めて光能周辺の人物を見てみましょう。まず親能の主人であった源雅賴(『玉葉』治承4年12月6日条)と光能とは姻戚関係はありませんから、雅賴は関与していないでしょう。ここで知光・光俊兄弟の母が武蔵国有力御家人の足立遠元娘であったことです(拙著、『鎌倉幕府成立期の東国武士団』2018年岩田書院)。しかも親能は、

幼稚の昔より、相模国住人に養育せられ、かの国より成人す、しかる間近々謀叛の首頼朝と年来知音たるによる、(『玉葉』同日条)

 とあるのです。遠元は甥の藤九郎盛長を介して比企ファミリーの一員として頼朝を支援していたのです(同上拙著)。そうならば、頼朝挙兵以前から親能と遠元は知り合いだった可能性が出てきます。また、遠元も比企の尼の甥である比企能員も藤原氏です(『吾妻鏡』建久元年12月11日条)。すなわち比企ファミリーの比企・足立両氏は藤原氏です。親能が改氏名をしたと推定される文治3・4年段階では比企の尼は健在で、尼亭の白菊を見る重陽の節として頼朝夫妻は尼亭に渡り酒宴を開き、遠元も出席しました(『吾妻鏡』文治3年9月9日条)。かように頼朝は尼を大切に待遇しています。親能自身は本来は文官ですが、壇浦海戦初頭で平家方を射殺したというエピソードがあります(『延慶本平家物語』第六本・十五檀浦合戦事)。これが事実は別として、相模国で成長したことからも武士的要素を備えていた人物と親能を見るべきしょう。とすると、文官の中原氏から武士集団である比企ファミリーの氏名である藤原氏に改めることで彼等との一体性を高めようとすると同時に武家政権である鎌倉幕府での立場を明確にしようとしたのではないでしょうか。かかることが親能が中原氏から藤原氏に改める要因ではないかと想像するのです。

(2026.02.22)

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About kanazawa45

中国に長年にわたり在住中で、現在、2001年秋より、四川省成都市の西南交通大学外国語学院日語系で、教鞭を執っています。 専門は日本中世史(鎌倉)で、歴史関係と中国関係(成都を中心に)のことを主としていきます。
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