2023年5月14日(日)午後、武蔵野文化協会例会の「高輪築堤の現在―海上鉄道―と泉岳寺「浅野長矩墓所」の拝観」に参加しました。今回はこの参観地を紹介します。
最初の参観地は臨済宗大徳寺派東海寺大山墓地(東京都品川区北品川4-11−1)です。写真1は、入口から上がったところの左側にある沢庵墓(国史跡)です。沢庵宗彭(1573~1645)は但馬国出石の出身で、慶長14年(1609)の京都大徳寺の住持となり、紫衣勅許事件で寛永7年(1629)に出羽国上山に流されたが、同9年(1632)に赦免され、3代将軍徳川家光に重用されて東海寺の開山に迎えられました。正保2年12月に死去し享年73です。


写真2は、同じく沢庵墓、ご覧のように墓石は自然石です。


奥の墓地に入ると、写真3の、渋川春海墓です。渋川春海(1639~1715)は暦学・天文学者で、平安時代の宣明暦長く使われたため誤差が甚だしく、改暦を幕府に建言し、貞享元年(1684)に日本独自の新暦(貞享暦)が採用され、初代幕府天文方となります。正徳5年に死去し享年77です。以後も鉄道庁長官を退官する明治26年(1893)まで鉄道行政のトップとして全国への鉄道展開の尽くし「鉄道の父」と称されています。明治43年に死去し


写真4は、井上勝墓です。井上勝(1843~1910)は長州藩士で、文久3年(1863)に伊藤博文等と英国に渡り鉄道・鉱山技術を学んだ。明治維新政府では大蔵省に出仕し、鉄道敷設推進派となり、工部省に移籍し鉄道頭として鉄道敷設を推進した。明治5年(1872)9月12日(新暦10月14日)に新橋・横浜(桜木町)の日本最初の鉄道を開業させました。明治20年(1887)に子爵を授爵します。鉄道庁長官を退官する明治26年(1893)まで鉄道行政のトップとして、全国への鉄道展開に尽くし、「鉄道の父」と称せられいます。明治43年に死去し享年66です。写真に見るように宇佐子夫人と共に葬られています。なお、井上亥六は息子です。


写真5のように、井上勝墓の脇には新幹線が走っています。


写真6は、賀茂馬淵墓(国史跡)です。賀茂馬淵(1697~1769)は遠江国の神官の出で、江戸中期の国学者です。荷田春満に学び、元久3年(1738)に江戸に出て学塾を開いた。田安宗武に仕えた。宝暦10年(1760)に隠居し、その後近畿を旅行し、この時に本居宣長が入門した。明和6年に死去し享年73です。写真のように墓の前に鳥居が立っています。


写真7は、同じく賀茂馬淵墓です。以上で大山墓地は終わりです。


本来ならば、高輪築堤を見学すべきですが、現時点では非公開のため割愛となりました。次いで泉岳寺(東京都港区高輪2-11-1)です。写真8は、山門です。


写真9は、四十六士墓の手前にある「首洗い井戸」で、ここで吉良上野介義兼の首を洗い主君浅野長矩墓に捧げたとされるものです。


写真10は、井戸の隣り奥にある浅野長矩墓です。


写真11は、四十六士の墓の奥右端にある大石内蔵介良雄墓です。以上で泉岳寺は終わりです。


写真12は、高輪大木戸跡(国史跡 東京都港区高輪2-19先)です。高輪大木戸は東海道からの江戸府内への入口に位置しました。木戸は両脇に長五間(9m)・幅四間(7.2m)・高一丈(3m)の石垣です。


写真13は、側面からのものです。


写真14は、旧新橋停留場鉄道歴史展示室(東京都港区東新橋1-5-3)です。本館は旧新橋停留場の同位置に復元した駅舎外観となっています。駅舎は木骨石張の構造で、明治4年(1871)12月に完工しました。


写真15は、再現された線路とプラットホームです。


写真16は、0標です。


最後の写真17は、新橋SL広場のC11です。土台の回りの石積みは高輪築堤跡から出土した石を再現して積んだものです。


(2023.05.18)