第2代将軍の源頼家が死去し後継に弟三幡との申請により、建仁3年(1203)9月7日、後鳥羽上皇が童の千幡に諱実朝を与え、従5位下征夷大将軍に補任しました。そこで、幕府は、10月8日、実朝の元服式を執り行いました。
『吾妻鏡』同日条に元服式の記事が記載されています。戌刻(20時)に北条時政の名越邸で儀式が行われました。中原広元、小山朝政、安達景盛、和田義盛、中条家長以下の百人余が侍座に着しました。理髪役が時政、そして加冠役が平賀義信です。陪膳が江間義時・源親広、役走が結城朝光、・和田常盛・同重茂・東重胤・波多野経朝・桜井光高で、鎧等を奉じたのが佐々木広綱・千葉常秀です。以上が儀式に参加したと記述されている面々です。
ここで将軍の元服式ではありませんが、北条頼時(泰時)元服式の『吾妻鏡』建久5年(1195)2月2日条の記載を見てみましょう。夜に大倉幕府で行われました。侍座に着いたのは、一方に平賀義信、足利義兼、山名義範、加々美遠光、大内惟義、江間義時、藤原重弘、八田知家、葛西清重、加藤景廉、佐々木盛綱、一方に千葉常胤、畠山重忠、千葉胤正、三浦義澄、梶原景時、土屋宗遠、和田義盛、藤盛長、三浦義連、大須賀通信、梶原朝景、一方に北条時政、小山朝政、下河辺行平、結城朝光、宇都宮頼綱、岡崎義実、宇佐美祐茂、榛谷重朝、比企能員、足立遠元、江戸重長、比企朝宗です。加冠は源頼朝が行い、介添えが平賀義信・千葉常胤です。
頼時には当時の諸大夫門葉全員の義信・義兼・義範・遠光・惟義が、武士御家人のトップファイブである、千葉常胤・三浦義澄・小山朝政・畠山重忠・宇都宮義綱の惣領全員が参席しており、これに準じる有力武士御家人の八田知家・葛西清重・梶原景時・和田義盛・藤盛長・比企能員・足立遠元等も参席しています。これに対して、実朝ではトップファイブの内千葉胤正、三浦義村、畠山重忠、宇都宮頼綱の4人の惣領の名は見えませんし、百人が参席したとしながら、有力武士御家人の名として安達景盛・和田義盛等の他は見えません。ただ、頼時では見えなかった文士御家人では筆頭の広元が名を載せています。
こうしてみると、本来祝福されるべき第3代将軍実朝の元服式において百人もの参席者がいるとしながら、後に評定衆になるとはいえこの時点では武蔵七党の横山党出自でせいぜい中級御家人であった中条家長を含めても、武士御家人が4人しか記載されていないことは、頼時の元服式と比較して、如何にも寂しいものがあります。このことは頼家排除が実際には北条時政・中原広元との共闘によるクーデターであることは御家人達に知られており、これへの反感が底流にあったことの反映ではないでしょうか。千葉氏等の有力御家人は惣領欠席でこのこと暗に示そうとしたのでしょう。このように考えると『吾妻鏡』に主要参席者の多くが記されていないことが理解できましょう。参席者を多く記することで有力御家人の惣領級が欠席していることがあからさまになることが分かるからです。
(2022.09.26)