後北条氏小田原城遺址(その2)―歴史雑感〔67〕―

(その1)一、八幡山古郭

(その2)二、小峯御鐘ノ台大堀切西堀・中堀

(その3)三、小峯御鐘ノ台大堀切東堀

(その4)四、三の丸外郭新堀土塁

(その5)五、八幡山古郭東曲輪

二、小峯御鐘ノ台大堀切西堀・中堀

 八幡山古郭に次いで、小峯御鐘ノ台大堀切を訪れます。県立小田原高校を左手(南)に見、さらに城山公園を過ぎると、左手(南)に小峯御鐘ノ台大堀切東堀に至ります。さらに少し進むと、小峯御鐘ノ台大堀切西堀の案内板が下にある上り道に出ます。そのまま少し進むと、「総構」と「小峯御鐘ノ台大堀切西堀」説明板の立っている所に至ります。写真1が、これです。西堀は天正18年(1590)の小田原合戦への備えとして総構と共に造られたものです。

 写真2は、西堀を北へと撮ったものです。

 写真3は、逆に南へと撮ったものです。

 写真4は、堀先から北を見たものです。本来は総構としてこの東西に堀が広がっていましたが、埋められて単なる草地となっています。

 写真5は、木に掲げている西堀図です。

 写真6は、戻り南へと撮ったもので、左が土塁となっています。

 写真7は、逆に北へと撮ったものです。中央左の木に西堀図が掲げられています。

 写真8は、西堀土塁から堀を見下げたものです。以上で西堀は終わりです。

 写真9は、西堀説明板です。以上で西堀は終わりです。

 道を戻り、小峯御鐘ノ台大堀切中堀に来ます。中堀も西堀と同じく天正10年の小田原合戦への備えとして造られたもので、東堀の西に接して掘られて、この間は土塁となっています。写真10は、少し入った所で、南へと中堀を撮ったものです。ご覧のように堀は道路として利用されています。

 写真11は、中堀の屈折部(横矢掛り)です。

 写真12は、屈折部から南へと中堀を撮ったものです。

 屈折部には東堀との間の土塁が切られて通路となっています。写真13は、奥が東堀土塁です。現在の中堀は通路よりわずかに低いですから、中堀は相当埋められていることになります。

 最後の写真14は、屈折部を北へと撮ったものです。以上で中堀は終わりです。

(2021.08.08)

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About kanazawa45

中国に長年にわたり在住中で、現在、2001年秋より、四川省成都市の西南交通大学外国語学院日語系で、教鞭を執っています。 専門は日本中世史(鎌倉)で、歴史関係と中国関係(成都を中心に)のことを主としていきます。
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