(その一)一、『吾妻鏡』の語る山木夜討ち
(その二)二、『延慶本平家物語』の語る山木夜討ち
(その三)三、山木夜討ち
(その四)四、国衙占領
四、国衙占領
九条兼実は頼朝反乱報を知った時、「去るころ新司の使を淩礫す〈時忠卿知行国なり〉、おおよそ伊豆・駿河両国を押領しおわんぬ」(『玉葉』治承4年9月3日条)と記しています。また、東国反乱を新田義重が報告してきたことを、中山忠親が、「義朝子伊豆国をす、武田太郎甲斐国を領す」(『山槐記』同年9月7日条)、と記しています。駿河国はともかく、ここで「押領」「伊豆国を領す」とは、たんに夜討ちの成功だけではなく、国の支配権、すなわち国衙行政権を曲がりなりにも頼朝が掌握したことを示しています。以上、山木夜討ちの成功で伊豆国目代山木兼隆を討取ったが、これだけで国衙行政権の掌握、すなわち反乱蹶起成功とはいえないのです。次いで、平家の知行国である伊豆国の中枢である国衙を制圧(占領)したことになります。そうでなければ簡単に反撃を許すことになり、結局反乱蹶起は失敗に終わります。そこで、それを考察したいと思います。
伊豆国知行国主は、五月の源頼政の宇治合戦での敗死により、清盛正室時子の弟平時忠に替わります(飯田悠紀子氏、「知行国主・国司一覧」『中世ハンドブック』一九七三年近藤出版社)。平家の知行国となり、現地最高責任者である目代として山木兼隆が任じられたのです。伊豆国での平家支配を覆滅するには兼隆を討つことは当然の行為です。しかし、それだけで平家支配を覆滅できただでしょうか。上述の如く、頼朝は伊豆国を制圧して支配権(国衙行政権)を掌中にしました。
伊豆国蒲屋御厨への史大夫知親(目代山木兼隆親戚)奉行停止の下文を源頼朝は発給しました。このことを、「関東の事施行の始」と、『吾妻鏡』同月十九日条に記しています。この行為は、平家知行国の伊豆国の支配権を覆して頼朝が奪取したことの宣言であることを、明らかに示しています。山木夜討ちの二日後のことです。頼朝の反乱蹶起の最初の打倒目標は、当然ながら平家知行国の伊豆国支配の覆滅、すなわち伊豆国支配権の奪取です。これには伊豆国々衙の占領掌握は必須です。となれば、これを成し遂げたことは反乱決蹶起成功として特記すべき出来事であったはずです。そして、国衙の掌握は目代山木兼隆覆滅の山木夜討ちに接続して直ちに実行されなければなりません。夜討ち明けの十八日午前までに成し遂げられなければなりません。しかるに『吾妻鏡』同月十八日条は、今後戦場で過ごすので、毎日の勤行できないため、伊豆山の尼にこれを依頼する記事で、わざわざ経目録を記述しています。全く国衙に関しては記述がないのです。そこで、改めて国衙掌握について考えてみたいと思います。
反乱蹶起に先立ち、8月6日、参加する武士を賴朝は招き、一人一人に「偏に汝を恃む」と、言葉をかけます。『吾妻鏡』同日条に言葉をかけられた面々を、「工藤介茂光、土肥次郎実平、岡崎四郎義実、宇佐美三郎助茂、天野藤内遠景、佐々木三郎盛綱、加藤次景廉以下」と記しています。この内の佐々木盛綱・加藤景廉は山木夜討ちに参加しており、また土肥実平・岡崎義実は相模国武士で伊豆国での蹶起には参加していないと考えることが出来るので除外します。とすると、残るのは工藤茂光・宇佐美助茂・天野遠景の3人の伊豆国武士です。工藤茂光の甥が宇佐美助茂で同族です。工藤氏は茂光の子宗茂・親光が狩野と称しており、本貫が田方郡狩野庄(静岡県伊豆市修善寺周辺)です。助茂の名字の地は同郡宇佐美庄(同県伊東市宇佐美)です。山で隔てられていますが、亀石峠越えで繋がっています。そして、工藤氏は工藤介と称してるように、伊豆国有力在庁官人です。すなわち、平家方の伊東祐親と並ぶ伊豆国の有力武士であったのです。とするなら、工藤氏の動員力は北条時政とは桁が違い、少なくとも数十騎の動員力があったとすべきで、頼朝反乱蹶起の主勢力であったといえましょう。そして、天野遠景の名字の地は同郡天野郷(同県伊豆の国市天野)です。工藤氏と天野氏の位置関係は国府(同県三島市)から南に修善寺へと通じる牛鍬大道で、南に工藤茂光、北に天野遠景、と繋がります。
国衙制圧には山木夜討ち以上の兵力が必要なことは当然でしょう。かつ、山木夜討ち勢は深夜の戦闘で疲労しており、即座に国衙攻撃に参加はできないでしょう。とすれば、別の武士、すなわち兵数に於いても北条氏を凌駕する有力在庁官人の工藤氏が主力となることは、距離的に国衙に遠いとはいえ、必然といえましょう。修善寺から国道136号で三島市街までは約21㎞です。この途上に天野郷があります。従って、工藤茂光一族に天野遠景等を加えた勢が国衙制圧をなしたとすべきです。山木夜討ちが17日子刻に開始されており、国衙襲撃は遅くとも18日早朝(卯刻)には行なわれなければ、山木夜討ちの報を受けて警戒体制を取られるおそれがあります。しからば、国衙襲撃勢は17日夕方以降には狩野庄を出発して行動を起こしたとすべきです。すなわち、山木夜討ち勢より国衙襲撃勢の方が行動開始が早いのです。これは事前の打ち合わせなしに行なうことは出来ません。従って、『吾妻鏡』では佐々木兄弟の参着で山木夜討ちを決行したように記述していますが、彼等の参着の有無に関わりなく反乱蹶起は決行されることになります。すなわち、山木夜討ちも佐々木兄弟未着でも予定通り三島社神事の17日深夜に決行されることになります。そして、兵力的にいえば国衙襲撃勢が主攻で、山木夜討ち勢が助攻といえ、後者は国衙制圧後に合流することになりましょう。
さて、工藤一族は源頼朝反乱蹶起に何故に参加したのでしょうか。『長門本平家物語』巻第八・源三位入道父子自害事に、「伊豆守のかたに、伊豆国住人工藤四郎五郎とて兄弟ありけるも、落ちにけり」、と源頼政父子の瀬田合戦敗北により、工藤四郎五郎兄弟が戦場から逃れたことを記しています。すなわち、この記述に従えば、工藤氏は瀬田合戦に参戦しており、、この参戦は「伊豆守のかた」、すなわち頼政嫡子源仲綱に付したものです。要するに工藤氏は伊豆国有力在庁官人として少なくとも伊豆守源仲綱の家人であったといえます。ひいては知行国主源頼政の家人ともいえます。なお、ここで工藤四郎は存在が他史料で確認できず、実名も不明ですが、五郎は工藤介茂光の子五郎親光といえます。親光は後の奥州合戦に於ける阿津賀志山攻撃で、甲斐国の工藤小次郎行光と共に先駆けを行い、戦死しています。(『吾妻鏡』文治五年八月九日条)
ところで、8月初頭までに相模国の有力平家方の大庭景親が仲綱子息(有綱)を追討のために帰国しており、ただ仲綱子息は逃げていました。(大庭景親が平清盛の命で源仲綱子息を追討のため帰国したことと仲綱子息がすでに逃げていたことは『玉葉』治承四年九月十一日条、時期に関しては『吾妻鏡』同年八月二日条。)とすれば、源頼政・仲綱の家人であった工藤一族が次なる追討対象となる可能性は極めて高かったといえましょう。このまま座していれば工藤氏は滅亡の危機となるのです。そうであれば、工藤氏としては事の成否は別として、反乱蹶起は生き残る一つの道となります。ここに工藤氏が反乱の主体となる条件が北条氏以上にあるのです。さらに、源頼朝と同時期に甲斐源氏も反乱蹶起をしており、この両者は何らかの連携をした上での蹶起であり、工藤氏は伊豆工藤氏の茂光と甲斐工藤氏の景光の媒介として存在していました。(金澤正大氏、「甲斐源氏の蜂起」『鎌倉幕府成立期の東国武士団』2018年岩田書院)以上の如く、源頼朝の伊豆蜂起に於いて、工藤介茂光は決定的な役割を果たしたといえましょう。
深夜に行われた山木夜討ちは加藤景廉等の増派によりようやく伊豆国目代山木兼隆を討取るように、浪人を主戦力とせざるを得なかった小勢でありました。有力在庁官人であった工藤介茂光等の工藤一族を主戦力とする国衙制圧勢はこれに先立ち進発し、朝には国衙を制圧したといえ、兵力は少なくとも山木夜討ち勢より一桁上でありましょう。すなわち、国衙制圧勢が主攻で、山木夜討ち勢が助攻なのです。
しかるに、『吾妻鏡』には伊豆国蒲屋御厨への史大夫知親(目代山木兼隆親戚)奉行停止の下文を源頼朝は発給したことを、「関東の事施行の始」、と特記してるにも拘わらず、肝心の国衙制圧のことを全く記述していないのは何故でしょうか。
『吾妻鏡』が北条氏の編纂になり、北条氏、とりわけ得宗家の賛美の歴史書であることはよく知られたことです。だからこそ、特記した活躍こそ記していないですが、山木夜討ちに於いて北条時政が十分に活躍したことを『吾妻鏡』は記しています。要するに、『吾妻鏡』の読者は源頼朝反乱蹶起に時政が主要な役割を果たしたと読めるのです。しかし、工藤氏は反乱蹶起の行動に関しては全く記述されていません。
さて、当時における伊豆国に於ける両氏の位置を見てみましょう。すでに述べたように、工藤氏は源頼政・兼綱父子の家人であり、有力在庁官人として数十騎の兵力を有していたといえます。工藤介茂光の子に狩野介宗茂(『尊卑分脉』第二篇頁500)がおり、宗茂は頼朝期に伊豆国検断沙汰人といえました(伊藤邦彦氏、『鎌倉幕府守護の基礎的研究【国別考証篇】』2010年岩田書院頁33)。これに対して、北条時政は北条氏庶流であり(杉橋隆夫氏、「北条時政の出身」『立命館文学』第500号1987年3月)、兵力的にも数騎という小勢なのです。しかし、「六条八幡宮造営注文」(海老名尚・福田豊彦氏、「『六条八幡宮造営注文』について」『国立歴史民俗博物館研究報告』第45号1992年12月)に見るように、執権時頼期には狩野氏(工藤)は得宗家に圧倒的な差が付けられています。とするならば、北条氏賛美の歴史書である『吾妻鏡』にとって、頼朝反乱蹶起に於いて国衙制圧の具体的行動を記述することは工藤氏が主動的立場であり、北条氏は補助的立場であったことを示すことになり、北条氏賛美とは逆の結果となりましょう。編纂時には両氏の地位は完全に逆転し、その差も多大ものがある以上、編纂に於いて狩野氏(工藤)を無視しても問題がなかろうということになりましょう。以上、何故に工藤氏が源頼朝の反乱蹶起行動に於いて『吾妻鏡』に記述がないことが理解されましょう。
(2021.04.12)