蜂神社―歴史雑感〔55〕―

 2020年6月25日(木)昼、蜂神社(岩手県紫波郡紫波町陣ヶ岡69)を参拝しました。本神社は標高136mの小丘陣ヶ岡に位置します。

今日、二品陣岡蜂社に陣せしめ給う。しこうして北陸道追討使能員、実政等、出羽国狼唳を靡かせ、参加の間、軍士廿八万騎〈但し諸人郎従等を加う〉なり。(『吾妻鏡』文治5年9月4日条)

とあるように、当地は文治5年(1189)の奥州合戦で、鎌倉幕府軍が中軍(東山道・源頼朝直卒)・東海道軍・北陸道軍の三軍が会同したところです。もちろん「廿八万騎」は虚構ですが、当時としては最大級の数万騎の軍勢が集結したことになります。この前日、奥州藤原氏当主の泰衡の首が届けられており。奥州藤原氏の滅亡が確定していたのです。すなわち、陣ヶ岡の蜂神社は歴史的な地です。最寄り駅はJR東日本・東北本線古館駅です。駅の南西に直線約1km弱です(徒歩約30分余)。

 写真1は、神社参道の南鳥居です。この先森の道を約200m弱のところです。

 写真2は、鳥居と奥に社殿です。

 写真3は、社殿です。

 写真4は、境内で、社殿左手前の「陣ヶ岡歴史公園」木柱の後方には地元の人が奉納した「源氏櫓」が立てられています。木柱にあるように、神社の位置する小丘は陣ヶ岡歴史公園となっています。鳥居前の駐車場の所から左手に藤原秀衡奉造の「月の輪形日の輪形」遺址への小道があります。

 写真5は、社殿左手前に立てられている「陣ヶ岡史跡要覧」案内板で、陣ヶ岡に関する伝承を含めて案内しています。

 写真6は、源頼義義家父子が戦勝祈願(前九年の役)に手植えしたとの杉との伝承ある古木が老朽により伐採し、この覆堂を献納(1987年)したものです。社殿の奥にあります

 写真7は、日本武尊の皇子の墓との伝承のある王子森古墳です。覆堂の奥にあります。

 写真8は、さらに奥へと森の中の小道を抜けて、北の鳥居に出たところです。舗装道の左(南)に隣接して次の目的地があります。

 写真9は、右に分岐する小道(直進すると蜂神社南鳥居に至ります)があるY字路へと伝藤原泰衡首洗い井戸を撮ったものです。道路上には何ならの表示もなく、雑草の中に埋もれています。

 最後の写真10は、井戸を撮ったもので、後方に「首洗井池」石柱が立っています。

(2020.06.30)

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About kanazawa45

中国に長年にわたり在住中で、現在、2001年秋より、四川省成都市の西南交通大学外国語学院日語系で、教鞭を執っています。 専門は日本中世史(鎌倉)で、歴史関係と中国関係(成都を中心に)のことを主としていきます。
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