武蔵武士熊谷直実は一谷合戦(福原合戦)で平敦盛を討取ったことで知られており、このことは『平家物語』に詳しく記述されており、物語化してです。同時に、『平家物語』(覚一本)巻第九・一二之懸において一谷口で平山季重と先陣争いをしたと記述されており、同様なことは『吾妻鏡』元暦元年二月七日条にも記述されています。しかし、これらの記述には大いなる疑問点もあり、改めて検討してみたいです。
『平家物語』諸本の最古態本である『延慶本平家物語』では熊谷直実の先陣争いについては第五本・二十源氏三草山幷一谷追落事に記述されています。これに関する全文は長文となるので、問題となる個所を以下に示します。
其後城ノ内ヨリイサ終夜悪口シツル熊谷生取リニセムトテ、越中二郎兵衛盛次、上総五郎兵衛忠光、同悪七兵衛景清、飛騨三郎左衛門景経、後藤内兵衛定綱、以下究竟ノハヤリヲノコノ若者共廿三騎木戸口ノ逆木ヲ開テ轡ヲ並テヲメイテ係出タリ、越中二郎兵衛盛次真先係テ出キタリ、好ム装束ナレハ紺村濃いの直垂ニ黒糸縅ノ鎧ニ白星ノ甲ニ白葦毛ノ馬ニソ乗タリケル、熊谷ニ押並テ組ムスルヨウニハシケレトモ熊谷スコシモ退ス、父子アヒモスカサス立タリケリ、
同様に、『吾妻鏡』元暦元年二月七日条では、
ここに武蔵国住人熊谷次郎直実、平山武者所季重等、卯剋、偸み一谷の前路を廻り、自海道より館際に競い襲う。高声で名を謁ぐるの間、飛弾三郎左衛門尉景綱、越中次郎兵衛尉盛次、上総五郎兵衛尉忠光、悪七兵衛尉景清等、廿三騎を引い、木戸口を開き、これと相い戦う。
とあります。
高橋昌明氏は平家の譜代家人が嫡宗(清盛、後に重盛、次いで宗盛)に一元的に統率されているのではなく、一門に個別に主従関係を結んでいるとされ、嫡宗(宗盛)・小松家等の何処の家と主従関係を結んでいたかを考察しています(『平家の群像』第三章内乱の中の二人2009年岩波新書)。氏に従うと、越中二郎兵衛盛次(主馬判官平盛国の孫平盛次)、上総五郎兵衛忠光(上総介伊藤忠清の子伊藤忠光)、同悪七兵衛景清(同弟伊藤景清)、飛騨三郎左衛門景経(飛騨守藤原景家の子藤原景経)、後藤内兵衛定綱等の、譜代家人の各家への所属に関しては、平盛次は嫡宗(宗盛)、伊藤忠光・景清兄弟は小松家、藤原景経は嫡宗としています。後藤定綱への記述はありませんが、同族と考えられる後藤盛長を氏は宗盛同母弟重衡の乳夫子としており、これから定綱も嫡宗と考えてよいでしょう。以上、上記の譜代家人、平盛次・藤原景経・後藤定綱は嫡宗(宗盛)、伊藤忠光・景清兄弟は小松家の所属となります。
開戦時に平家軍は如何なる布陣(軍配置)をしていたのだろうか。『吾妻鏡』には具体的な布陣は示されていません。布陣を記述しているのは『延慶本平家物語』第五本・二十源氏三草山幷一谷追落事であり、蓋然性があると考えるので、これに従います。まず、東に大手である生田口(神戸市中央区生田神社東)、西に搦手である一谷口(神戸市須磨区一谷)、そして北に山の手(兵庫区会下山)の三か所に布陣しています。大手軍の大将軍は嫡宗の平知盛・重衡兄弟です。搦手の大将軍は故清盛末弟平忠度です。山の手には最初平盛俊(主馬判官平盛国の子、嫡宗侍大将。盛俊が嫡宗譜代家人であることは高橋昌明氏前掲書)が陣しなしましたが、三草山の敗戦により、門脇家の平通盛・教経兄弟が派遣されました。以上、一谷口は嫡宗、山の手は門脇家と嫡宗家人、一谷口は忠度となり、兵力配分からは生田口>山の手>一谷口となります。三草山で敗戦した小松家軍では平資盛は淡路島へと敗走しましたが、平師盛は宗盛のもと、すなわち福原に敗走しました。とすると、師盛は戦死しており(『吾妻鏡』元暦元年二月七日条)、一谷合戦に参戦したことは確かなので、山の手の守りに加えられたとするのが至当でしょう。すなわち、山の手は門脇家を主力に小松家と嫡宗の一部が陣したことになります。残る経盛の修理家は予備軍として福原に控えたといえましょう。
以上から、平盛次・藤原景経・後藤定綱の三人は大手口の生田口の大将軍の嫡宗家知盛・重衡の麾下に、伊藤忠光・景清兄弟は山の手の大将軍の一人小松家師盛の麾下にいたとするのが至当です。とすると、両者とも搦手の一谷口には存在しないことになります。すなわち、『延慶本平家物語』や『吾妻鏡』の記述する熊谷直実と対戦した平家方の武士は一谷口に存在していないものであり、虚構の記述といわざるをえません。そして、『延慶本平家物語』に、「越中次郎盛次真先係テ出キタリ、」から続く熊谷父子・平山季重と平盛次以下の二十三騎との戦闘記述も虚構ということになります。
その後、「秩父足利武田吉田三浦鎌倉小沢横山児玉猪俣野与山口ノ党ノ者共彼ヲトラシト係入リテ、源平両家白ハタ赤ハタ相交リタルコソ面白ケレ」とある、『延慶本平家物語』の一谷口の戦闘記述も虚構といわざるをいえません。というのは、『吾妻鏡』元暦元年二月五日条と『延慶本平家物語』第五本・二十源氏三草山幷一谷追落事の一谷合戦の源氏軍交名のいずれにも足利義兼は記述されていませんから、一谷合戦に参戦していないと考えるのが至当な足利義兼、次いで、『吾妻鏡』元暦元年二月五日条の交名に見える三浦一族は一谷口の佐原義連のみであり、『延慶本平家物語』でも同様ですから、佐原義連を除いて明らかに参戦していない三浦氏、さらに、鎌倉党として参戦しているのは梶原景時父子で、生田口で戦闘していることは『延慶本平家物語』第五本・二十源氏三草山幷一谷追落事に記述されており、『吾妻鏡』元暦元年二月五日条の交名でも生田口に属していますから、生田口の鎌倉党を記載しているからです。それに対応する『吾妻鏡』の記述は、「その後蒲冠者、并足利、秩父、三浦、鎌倉之輩等競い来る、」(『吾妻鏡』元暦元年二月七日条)として、生田口の戦闘として整合性を取ろうとしています。以上、熊谷直実・平山季重の先陣争いから一谷口での戦闘に関する『延慶本平家物語』の記述は基本的に虚構なのです。すなわち創作といえるのです。
さて、上記の『吾妻鏡』記述は明らかに基本的に『延慶本平家物語』のそれを基として要約化したものです。ということは『吾妻鏡』記述自体も虚構・創作といえます。かかるように、『延慶本平家物語』、すなわち『平家物語』の熊谷直実先陣争いの記述が創作ということは、『平家物語』が物語である以上、如何に史実を下敷きにしたにせよ、創作が入るのは当然で、この一例といえます。当然ながら一谷合戦記述にはこれ以外にも虚構・創作があることを示唆しています。ひいては『吾妻鏡』も。最後に、一谷合戦最大の虚構・創作はいわゆる源義経の鵯越の逆落としと考えますが。
(2020.01.06)