妙本寺―歴史雑感〔51〕―

 2019年12月15日(日)午後、日蓮宗長興山妙本寺(神奈川県鎌倉市大町1-15-1)を訪れました。開基は比企能員の末子比企三郎能本でで、文応3年(1260)の創建といいます。この地は源頼朝の乳母比企尼、すなわち比企氏の館跡でした。本寺のある谷戸を比企谷といいます。建仁3年(1203)9月2日、比企尼の甥で比企氏当主の能員は北条時政名越亭で暗殺され、次いで比企氏館は攻撃され、これにより比企氏は族滅し、2代将軍頼家の嫡子一幡(能員の娘若狭局所生)は殺害されます。以上により、頼家は廃されて、同母弟実朝が3代将軍となります。

 写真1は、「南妙法蓮華経・妙本寺」石碑から参道の奥に総門(18世紀中頃)を見たものです。右隣は八角堂で、現在は幼稚園となっています。

 写真2は、祖師堂(天保9年〔1838〕)です。

 写真3は、祖師堂右脇手前にある比企一族供養塔です。左から比企能員夫妻、比企能本夫妻とされています。露盤上に風・空輪を頂き、江戸期のものです。

 写真4は、上がったところにある能員の娘讃岐局の「蛇苦止」霊を祀る石塔です。讃岐局の霊が時の連署北条政村の娘に祟り、蛇の様をなしたと『吾妻鏡』文応元年11月27日条に見えています。

 写真5は、左が比企一族供養塔で、右上が讃岐局石塔です。

 写真6は、二天門の右脇前にある一幡之君袖塚です。比企館焼け跡から出たとされる一幡の袖が祀られています。

 写真7は、一幡之君袖塚の全景です。左の石塔には「源頼家卿嫡男一幡御廟・享和三癸亥年三月」と刻されています。

 祖師堂の左脇から上っていくと墓地に出ます。ここは頼家の娘竹御所(源媄子)の居したところとされ、死去後に新釈迦堂が建てられました。この最奥に写真8の、竹御所墓があります。竹御所は4代将軍藤原頼経正室となり、文暦元年(1234)7月27日、死産後に32歳で死去しました。

 祖師堂の左の池を巡って紅葉樹があります。本年は紅葉が遅れ、まだ紅葉の葉を見せていました。写真9は、祖師堂から見た紅葉です。

 写真10は、墓地への道から祖師堂へと紅葉を逆光で撮ったものです。

 祖師堂から戻り、本堂への方丈門左脇の道を進むと、奥に鎮座するのが写真11の、蛇苦止明神堂です。写真5の讃岐局を祀ったものです。

 最後の写真12は、総門左脇にある本寺案内図です。

(2019.12.25)

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About kanazawa45

中国に長年にわたり在住中で、現在、2001年秋より、四川省成都市の西南交通大学外国語学院日語系で、教鞭を執っています。 専門は日本中世史(鎌倉)で、歴史関係と中国関係(成都を中心に)のことを主としていきます。
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