2019年10月18日(金)午前、宝光寺を参観しました。2007年7月以来でした。そこで、改めて宝光寺を紹介します。宝光寺は後漢創設と伝えられ、長江四大禅林の名刹です。成都市の北郊19kmの新都区に位置しています。約10haの敷地内に、1塔5殿16院(庭)があります。舎利宝塔、山門殿・天王殿・七仏宝殿・大雄宝殿・蔵経楼です。拝観は夏季が8時から17時20分、冬季が8時から17時までとなっており、拝観料は5元です。
宝光寺は後漢創立と伝えられ、最初「大石寺」と称していました。史書の確実な記載の最初は唐代の開元元(713)年ですから、伝えはともかく、1300年あまりの歴史をもつ古刹です。唐末の黄巣の乱で、四川に逃れた僖宗が当寺を行宮として滞在し、この関係で寺と舎利塔を建て直し、中和元(881)年、寺名も「宝光寺」と改められました。宋代に最盛を迎えましたが、明滅亡の崇禎年間(1640~4年)の兵火で全山焼失し土台のみが残りました。清代の康煕9(1670)年に再建されて、その後、増改築がなされ現在の姿に到っています。
成都市内からの公共交通は、地下鉄3号線鐘楼站下車後、金光路に上がり、西に行った地鉄鐘楼站でX05・X41・X44・X45路に乗車し、5停留所目の宝光寺站で下車し、北に広がる宝光街を進めば門前に到ります。徒歩も含めて所要時間は約20分です。
写真1は、山門殿です。門の左側が入寺口です。現存の山門殿は清代後期の道光15(1835)年に建てられたもので、門内の両側左右に1体の密跡金剛力士像を捧持しています。

写真2は、天王殿です。天王殿は同治2(1863)年に再建され、また、殿裏は永楽11(1413)年に創建され同治2(1863)年に再建された尊勝幢で、このことから天王殿は尊勝宝殿とも称されます。

写真3は、天王殿屋根中央の飾です。

写真4は、天王殿中央に捧持されている弥勒仏像です。殿内の左右には四天王像を捧持しています。

写真5は、正面から撮った13層の舎利宝塔です。正面に「光明藏」の額を掲げた、高30mの煉瓦造の宝塔は、唐代の中和年間(881~5)創建で、四面に仏像が彫られていますが、時代を経て今ではご覧のように少々傾いでいます。現存する寺内建築物の最古参が宝塔で、寺のシンボルともいえるものです。

写真6は、裏面から撮った舎利宝塔です。

写真7は、七仏宝殿です。咸豊11(1861)年に再建された七仏宝殿には釈迦牟尼仏像とそれ以前の六仏像が安坐しており、殿裏には韋駄天菩薩像が捧持されています。

写真8は、中央が釈迦牟尼仏像です。

写真9は、大雄宝殿です。咸豊9(1859)年に再建された大雄宝殿は約700㎡で36本の石柱に支えられた建物で、殿内中央に釈迦無尼仏像が安坐しております。「南無釋迦牟尼佛」額が掲げられています。

写真10は、一番奥にある蔵経楼です。蔵経楼は高30m・延面積約1000㎡で、道光28(1848)年の再建です。楼2階が蔵で大蔵経336冊以下が納められています。楼1階は法堂となっています。楼の左右には東・西方丈が接しています。西方丈北側の西花園にチベット仏教ゲルク派の創始者ツォンカパ(1357~1419)を捧持した密壇があり、四川の仏教界とチベット仏教の関係が深いことが察せられます。

さて、楼前の右側に羅漢堂への通路があります。写真11は、その途上にある藥師殿の薬師仏像です。左右は日光・月光菩薩像です。

写真12は、左が羅漢堂入口で、奥の建物が羅漢堂です。羅漢堂は咸豊元(1851)年創建で、ここには577体(仏菩薩20体・祖師59体・羅漢518体)の像が捧持されています。いろいろな表情をした羅漢像を目にすることが出来ます。この羅漢像は清代後期の作で、これだけの羅漢像を一同に見ることは他では望めず、圧巻といえるもので、寺内の目玉的存在といえます。

写真13は、中央奥に捧持されている千手観音像で、両側には羅漢像が並んでいます。

写真14は、第187の大力尊者です。

写真15は、第98の法王尊者です。以上の2つの羅漢像は堂の右側に位置します。

写真16は、羅漢堂から舎利宝塔へと通じる壁道です。武侯祠や徒歩草堂に見る赤色の壁ですが、こちらの方が渋い色をしています。

写真17は、同じく壁道で、出口の門の後ろに舎利宝塔が見えます。

最後の写真18は、舎利宝塔から西に入った高僧塔林、すなわち本寺の高僧の墓所です。

なお、フォトアルバム「成都・宝光寺」はhttps://1drv.ms/u/s!AruGzfkJTqxng6QCAn3HivfQAQtN0Q?e=vGFNtYです。
(2019.10.28)