さきたま風土記の丘・上―歴史雑感〔49〕―

 2019年9月7日(土)、武蔵野文化協会・国宝史蹟研究会共催の「武蔵野古代ロマン・さきたま風土記の丘をめぐる」で、埼玉県の史跡を巡りました。9時にJR桶川駅に集合して、見学開始です。

 最初の見学地は観福寺(埼玉県行田市南河原1500-1)の国指定史跡「南河原石塔婆」です。一谷合戦での生田口先駆けで戦死したと『平家物語』で語られている私市党河原太郎次郎兄弟の供養板碑との伝承を持つ、2基の板碑が国指定となって、本寺の山門左横にある覆屋に保存管理されています。写真1は、左側の文応2年2月銘の板碑です。来迎印を結ぶ阿弥陀如来が左右に観音・勢至菩薩を従えた阿弥陀三尊像が線刻されています。台上高236cm・幅65cm・厚9cmです。

 写真2は、右側の文永2年(1265)2月銘の板碑です。脇侍を従えた地蔵菩薩が線刻されています。台上高187cm・幅58cm・厚6.5cmです。

 次いで、行田市藤原町の富士見工業団地内の八幡山公園一角を占める八幡山古墳(同町1-26-12)です。若小玉古墳群の一角にある本古墳は7世紀前半の築造と推定されており、かつては墳丘で覆われていましたが、1934年の小針沼干拓で墳丘が崩されて石室が露出しました。1977~9年にかけて石室の復原がなされて現在に至っています。本古墳は発掘調査により本来は直径80mの円墳で、周溝は存在しないと考えられています。写真3は、右側から見た本古墳で、石室が露出していることがお分かりでしょう。扉が開いているように、石室内は見学ができ、公開時間は10~6時(土・日・祝日)です。

 写真4は、左から見た本古墳です。

 石室は羨道・前室・中室・奥室からなっており、推定全長16.7m(現存長約14.7m)、奥室横幅4.8mの横穴式です。写真5は、羨道から見た前室です。奥へと中室・奥室となっています。

 写真6は、逆に奥室から中室・前室を見たものです。

 午前中の最後の見学地は忍城跡です。忍城は戦国期に成田氏により築かれたもので、小田原攻めの時に水攻めを受け、後北条氏降伏後に開城したことで知られています。その後、修復されて江戸時代には譜代の居城となりました。写真7は、再建された御三階櫓です。行田市郷土博物館(行田市本丸17-23 入館料200円・9~16時30分・休館日月曜日等)から渡り廊下で中に入れます。

 最後の写真8は、鐘楼です。

 なお、フォトアルバム「さきたま風土記の丘」はhttps://1drv.ms/u/s!AruGzfkJTqxng5o8sjiMR80M1YhAYA?e=PKa1VLです。

(2019.09.12)

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About kanazawa45

中国に長年にわたり在住中で、現在、2001年秋より、四川省成都市の西南交通大学外国語学院日語系で、教鞭を執っています。 専門は日本中世史(鎌倉)で、歴史関係と中国関係(成都を中心に)のことを主としていきます。
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