山木夜討ち(その二)―歴史雑感〔37〕―

(その一)一、『吾妻鏡』の語る山木夜討ち

(その二)二、『延慶本平家物語』の語る山木夜討ち

(その三)三、山木夜討ち

(その四)四、国衙占領

二、『延慶本平家物語』の語る山木夜討ち 

 『平家物語』諸本では最古態本とされる『延慶本平家物語』第二末・十屋牧ノ判官兼隆ヲ夜討ニスル事(読み下し文。原文仮名書き)には山木夜討ちを次のように記しています。

猿程ニ十六日ニモナリニケリ。兵衛佐、北条四郎ヲ召テ宣ケルハ、日来月日ノ立ヲコソ待ツレハ、今夜、平家々人当国目代、和泉判官兼隆カ屋牧館ニアムナルヲヨセテ、夜討ニセムト思ナリ。若打損タラハ、自害ヲスヘシ。討仰タラハ、ヤカテ合戦ヲ思立ヘシ。是ヲ以テ頼朝カ冥加ノ有無ハ、ワ人共カ運不運ヲハ知ヘシ。但佐々木ノ者共カ、サシモ約束シタリシカ、未見ヘヌコソ本意ナケレト宣。時政申ケルハ、今夜ハ当国ノ鎮守三島大明神ノ神事ニテ、当国中ニ弓箭ヲ取事候ワス。且ハ佐々木ノ者共ヲモ待セ給。吉日ニテモ候、明日ニテ候ヘシトテ出ニケリ。猿程ニ、佐々木ノ兄弟十七日未時計、北条ヘ馳付タリケレハ、兵衛佐殿ハ合ノ小袖ニ、藍摺ノ小袴キ給テ、烏帽子ヲシテ、姫君ノ二計ニヤヲワシケム、ソハニヲキテヲワシケリ。是等カ来ル事見給テ、ヨニウレシケニ思シテ、イカニ、経高ハ渋屋カ不浅思タムナレハ、ヨモ参ラシト思ツルニ、イカニシテ来ルソト宣ケレハ、千人ノ庄司ヲ、君一人ニ思替参セ候ヘキニ候ワスト申ケレハ、サホトニ思ハム事ハ、トカク不及云。頼朝カ此事ヲ思立ハ、ワ人共カ卅トハシラヌカト宣ケレハ、只今卅ヲ卅ナラヌ事マテハ思候ワス。タカホトノ大事ヲ思食立ムニ、今日参リ候ワテハ、イツヲ期候ヘキト存スル計ニ候ト申ケレハ、頼朝ハ本ハ肥タリシカ、此百余日計、夜昼此事ヲ案スルホトニ、ヤセタルソ。抑今日十七日丁酉ヲ吉日ニ取テ、此暁当国目代、和泉判官平兼隆ヲ誅セムト思ツルニ、口惜モ各昨日ミヘヌニヨリテ、今日ハサテヤミヌ。明日ハ精進ノ日也。十九日ハ日次アシ。廿日マテ延ハ、還テ景親ニ襲ハレヌト覚ルナリト宣ケレハ、定綱申ケルハ、十五日ニ参ヘキニテ候シホトニ、三郎四郎ヲモ待候シ上、折節此ホトノ大雨大水ニ、思ワサルホカニ一日逗留シテ候ト申ケレハ、アワレ遺恨ノ事カナ。サラハ各ヤスミ給ヘト宣ケレハ、侍ニ出テヤスミケルホトニ、日既入テクラクナリヌ。シハラク有テ、各物具シテコレヘト有ケレハ、ヤカテ物具取付テ参タリケレハ、佐宣ケルハ、是ニ有ケル女ヲ、兼隆カ雑色男カ妻ニシテ有ケルカ、只今是ニ来ルナリ。此気色ヲミテ従二位語ナハ、一定襲我ヌヘケレハ、彼男ヲハ捕ヘテ置タルソ。此上ハタ春宮今夜ヨリテ打ツヘシト宣ケレハ、十七日ノ子尅計、北条四郎時政、子息三郎宗時、同小四郎義時、佐々木太郎定綱、同二郎経高、三郎盛綱、同四郎高綱已下、彼是馬上歩人トモナク、卅余人、四十人計モヤ有ケム、屋牧館ヘソ押寄ケル。門ヲ打出ケレハ、当国ノ住人加藤次景廉ハ、下人ニ太刀計持セテ、只一騎御宿直ニトテ打通リケルカ、是等カ打出スルヲミテ、イカニ、何事ノアルソトテ、ヤカテ打通リテ、内ヘ入ニケリ。此景廉ハ、元ハ伊勢国ノ住人、加藤五景員カ二男、加藤太元員カ舎弟也。父景員、敵ニ怖テ、伊勢国ヲ逃出テ、伊豆国ニ下テ、工藤介茂光カ聟ニ成テ居タリケリ。弓矢ノ道、兄弟イツレモ劣ラサリケレトモ、殊ニ景廉ハクラキリナキ甲ノ者、ソハヒラミスノ猪武者ニテ有ケルカ、イカ思ケム、時々兵衛佐ニ奉公シケルカ、其夜、兵衛佐ノ許ニヒソメク事有ト聞テ、何事ヤラムトテ、行タリケルナリ。サテ北条、佐々木ノ者共ハ、ヒタ川原ト云所ニ打出テ、北条四郎申ケルハ、屋牧ヘ渡堤ノ鼻ニ、和泉判官カ一ノ郎等、権守兼行ト云者アリ。殿原ハ先其ヲヨリテ打給ヘ。時政ハ打通リテ、奥ノ判官ヲ政ヘシトテ、案内者ヲ付。定綱ハ彼ノ案内者ヲ先トシテ、後ヘ搦手ニ廻ル。経高ソ前ヨリ打入ル。未搦手ノ廻ラヌ先ニ打入テ、見ケレハ、元ヨリ古兵ニテ、待ヤ受タリケム、サ知タリトテ、散々ニ射ル。敵ハ未申ニ向、経高ハ丑寅ニ向フ。月モアカリケレハ、互ノシワサ隠ル事ナシ。寄合テ戦ホトニ、経高薄手負ヌ。猿程ニ、高綱後ヨリ来加タリケルニ、矢ヲハヌカセテケリ。サテ兼行ヲハ、定綱盛綱押合テ、打ヲセツ。判官カ館ト兼行カ家ト、間五町計ナリ。敵打ヲセテ後、ヤカテ奥ノ屋牧ノ館ヘソ馳通リケル。兵衛佐ハ梃ニ被立タリケルカ、景廉カ来ヲ見給テ、折節シ神妙ナリ。景廉ハ頼朝カ于時候ヘシト被置タリ。遙ニ夜深テ後、今夜時政ヲ以、兼隆ヲ誅ニ遣ツルカ、『誅ヲセタラハ、館ニ火ヲ懸ヨ』ト云ツルカ、遙ニ成レトモ火ノミヘヌハ、誅損タルヤラムト独言ニ宣ケレハ、景廉聞アヘス、サテハ日本第一ノ御大事ヲ思食立ケルニ、今マテ景廉ニ知セサセ給ハサリケル事ノ心ウサヨト云マニ、ヤカテ甲ノ緒ヲシメテ、ツト出ケルヲ、兵衛佐、景廉ヲ召返テ、銀ノヒルマキシタル小長刀ヲ、手カラ取出給テ、是ニテ兼隆カ首ヲ貫テ参レトテ、景廉ニタフ。景廉是ヲ給テ走向。歩人一人具シタリケル、兵衛佐ヨリ雑色一人被付タリケルニ、長大刀ヲハ持テ、判官館近走テ見レハ、北条ハ家子郎等多手負、馬共イサセテ、白ミテ立タル所ニ、景廉来加ケレハ、北条云ケルハ、敵手コワクテ、已ニ五六度マテ引退タルソ。佐々木ノ者共兼行ヲハ打テ、此館ノ後ヘ搦手ニ向タルナリト云ヘハ、シタカナラム者ニ楯突セテタヘ。一宛アテミムト申ケレハ、北条雑色男、源藤次ト云ケル者ニ楯継セテ、馬ヨリ下テ、弓矢ハ元ヨリ持サリケレハ、一人ノ弓張矢三筋カナクリ取テ、楯ノ影ヨリ進出テ、矢面ニ立タル敵三人、三ノ矢ニテ射殺シツ。サテ弓ヲハ抛抛テ、長大刀ヲ茎短ニ取成テ、甲ノシコロヲ傾テ、打払テ内ヘツト入、侍ヲミレハ、高灯台ニ火白クカキ立タリ。其前ニ浄衣着タル男ノ、大長大刀ノ鞘ハスシテ立向ケルヲ、加藤次走違テ、小長大刀ニテ弓手ノ脇ヲサシテ、投臥タリ。ヤカテ内ヘ責入テミレハ、額突ノ前ニ火ヲヲコシタリ。又火白クカキ立テタリ。栩唐紙ノ障子立タリケルヲ細目ニアケテ、大刀ノ帯取、五六寸計引残テ、敵是ニ入タリト思テ、見出タリ。加藤次ニ長大刀ヲ以テ障子ヲ差開テミレハ、和泉判官ヲハ、住所ニ付テ八牧判関東ソ申ケル、判官片膝ヲ立テ、大刀ヲ額ニアテ、入ラハ切ラムト思ヒタリケニテ、加藤次シコロヲ傾テ、入ラムトスル様ニスレハ、判官敵ヲ入シト、ムストキル所ニ、上ノ鴨居ニ切付テ、大刀ヲ抜ムトシケルヲ、貫モハテサセスシテ、シヤ頸ヲ差貫テ、投伏テ頸ヲカクヲ見テ、判官カ後見ノ法師、元ハ山法師ニ注記ト云者ニテ有ケルカ、ツトヨル所ヲ二ノ刀ニ頸ヲ打落ツ。サテ主従二人カ首ヲ取テ、障子ニ火吹付テ、心ノスムトシハナケレトモ、

法花経ヲ一字モヨマヌ加藤次カ八巻ノハテヲ今ミツルカナ

ト打詠メテ、ツト出テ、兼隆ヲハ景廉カ討タルソヤト訇リケリ。判官カ宿所ノ焼ケルヲ、兵衛佐見給テ、兼隆ヲハ一定景廉カ討ツルト覚ルソ。門出吉ト悦給ケルホトニ、北条使者ヲ立テ、兼隆ヲ景廉カ討テ候ナリト申タリケレハ、兵衛佐サレハコソトソ宣ケル。景廉ハ戦功当時ニ挙ルノミニズ、専ラ名望ヲ後世ニ残セリ。

以上です。

 『延慶本平家物語』の語る山木夜討ちは次のとおりの経過となります。

 ㋑17日未刻、佐々木兄弟が到着します。定綱が、15日には到着のつもりでしたが、三郎盛綱・四郎高綱も引連れるのと洪水のために遅参した、というと、賴朝は休めといいます。㋺佐々木兄弟が準備を調えて、賴朝の前に行くと、兼隆雑色男が女の下に通うのを捕えたが、今夜に決行と、いいました。㋩子刻、北条時政・同宗時・同義時・佐々木定綱・同経高・同盛綱・同高綱以下30・40人ほどが山木館へと攻撃に向かいます。㋥加藤景廉をただ1騎で宿直に残します。㋭北条時政は、肥田原で山木館への堤の先に一郎等兼行がいるので、まずこれを攻撃すべきといい、自身は山木館を攻撃するといいます。㋭案内者が付けられて佐々木経高は後方から、高綱は前方から攻め込みます。㋬経高と兼行が戦い、経高が負傷しますが、高綱が加わり討取ります。その後、兄弟は山木館攻撃に加わります。㋣賴朝は煙が見えぬと独り言をいった時、景廉が進み出たところ、長太刀を与えて、兼隆の首を取ってくるようにと命じます。㋠景廉が山木館に駆けつけた時、時政は攻めあぐねていましたが、弓をまず射て、長太刀を持って攻め入って、兼隆等の首を打落します。㋷山木館焼亡の火を見て、賴朝は景廉が兼隆を討ったと喜んでいるところに、時政の使者が兼隆を討ったと報告してきます。

(2017.09.20)

不明 のアバター

About kanazawa45

中国に長年にわたり在住中で、現在、2001年秋より、四川省成都市の西南交通大学外国語学院日語系で、教鞭を執っています。 専門は日本中世史(鎌倉)で、歴史関係と中国関係(成都を中心に)のことを主としていきます。
カテゴリー: 日本古代・中世史 パーマリンク

コメントを残す