山木夜討ち(その一)―歴史雑感〔37〕―

(その一)一、『吾妻鏡』の語る山木夜討ち

(その二)二、『延慶本平家物語』の語る山木夜討ち

(その三)三、山木夜討ち

(その四)四、国衙占領

一、『吾妻鏡』の語る山木夜討ち

 源賴朝の平家六波羅政権に対する反乱蹶起が、治承4年(1181)8月17日、伊豆国目代山木兼隆館への夜襲で開始されたことは通史等にも記されているとおり周知なことです。しかし、山木夜討ちを専論としたものは見かけません。そこで、改めて山木夜討ちについて考えてみます。山木夜討ちに関して記述されている史料は『吾妻鏡』と『平家物語』諸本です。従って、その比較検討ということになります。

 さて、『吾妻鏡』同日条全文(読み下し文)には山木夜討ちを次のように記しています。

快晴、三島社神事なり。藤九郎盛長奉幣御使として社参す。ほどなく帰参す神事以前なり。未尅、佐々木太郎定綱、同次郎経高、同三郎盛綱、同四郎高綱、兄弟四人参着す。定綱、経高疲馬に駕し、盛綱、高綱歩行なり。武衛その体を召し覧じ、御感涙すこぶる顔面に浮かび給う。汝等の遅参により、今暁合戦を遂げず、遺恨万端のよし仰せられる。洪水の間不意遅留の旨、定綱等これを謝し申す。戌尅、藤九郎盛長僮僕釜殿において、兼隆雑色男を生虜す。但し仰せられるなり。この男日来殿内下女に嫁すの間、夜々参入す。しこうして今夜勇士等殿中に群集の儀、先々の形勢に相似せず。定めて推量を加える歟のよし、御思慮あるによりてこの如くうんぬん。しかる間、明日を期すべからず。各はや山木に向かい、雌雄を決すべし。今度合戦をもって、生涯の吉凶を量るべしのよし、仰せられる。また合戦之際、まず放火すべし。その煙を覧じ欲す故うんぬん。士卒すでに競い起き、北条殿申されて云く、今日三島神事なり。群参の輩下向の間、定めて衢に満つる歟。よりて牛鍬大路を廻らば、徃反たる者、咎られるべきの間、蛭島通を行きべきもの歟。武衛報仰せられて曰く、思うところしかりなり。但し事をなすの草創、閑路を用いがたし。はたまた蛭島通おいては、騎馬の儀叶うべからず。ただ大道たるべきてえり。また住吉小大夫昌長を副えられる腹巻を着す。軍士において、これ御祈禱を致すによりてなり。盛綱、景廉、宿直に候べきのよし承わり、御座右に留どむ。しかる後蕀木北行し、肥田原に至り、北条殿駕を扣え定綱に対して云う、兼隆後見堤権守信遠山木北方にあり。勝勇の士なり。兼隆と同時に誅戮せずば、事の煩あるべき歟。各兄弟は信遠を襲うべし。案内を付けせしむべしてえりうんぬん。定綱等領状を申すうんぬん。子尅、牛鍬東行し、定綱兄弟信遠宅前田の頭に留まりおわんぬ。定綱、高綱は、案内者を相い具して北条殿雑色字源藤太、信遠宅後に廻る。経高は前庭に進む。まず矢を発す。これ源家平氏を征す最前の一箭なり。時に明月午に及ぶ。ほとんど白昼に異ならず。信遠郎従等経高の競い到るを見これを射る。信遠また太刀を取り、坤方に向かいこれに立ち逢う。経高弓を棄て太刀を取り、艮に向かい相い戦うの間、両方武勇掲焉なり。経高矢に中り、その刻定綱、高綱、後面より来り加わり、かの信遠を討ち取りおわんぬ。北条殿以下兼隆館前天満坂の辺に進み、矢石を発す。しこうして兼隆郎従多くもって三島社神事を拝すため参詣す。その後黄瀬川宿に到留し逍遙す。しからば残留するところの壮士等死を争い挑戦す。この間、定綱兄弟信遠を討つの後これに馳せ加る。ここに武衛軍兵を発するの後、御縁に出、合戦の事を想わせしめ給う。また放火の煙を見せしめんがため、御厩舎人江太新平次をもって、樹の上に昇らせしむといえども、良く久しく煙を見あたわずの間、宿直として留め置かれられるところの加藤次景廉、佐々木三郎盛綱、堀藤次親家等を召し、仰せられて云う、速く山木に赴き、合戦を遂ぐべしうんぬん。手ずより長刀を取り、景廉に賜う。兼隆の首を討ち、持参すべきの旨、仰せ含められるうんぬん。よりて各蛭島通の堤に奔り向かい、三輩皆騎馬に及ばず。盛綱、景廉厳命に任せ、かの館に入て兼隆の首を獲る。郎従等同誅戮を免がれず。室屋に放火し、悉もって焼失す。すでに暁天、帰参士卒等庭上に群居す。武衛縁において兼隆主従の頸を覧ずうんぬん。

以上です。

 『吾妻鏡』の語る山木夜討ちは次のとおりの経過となります。

 ①未刻(14時)、洪水により遅参した佐々木4兄弟(定綱・経高・盛綱・高綱)に賴朝は感涙します(今暁合戦予定)。②戌刻(20時)、女の下に通おうとした兼隆の雑色男を捕えます。③明日待たずに今暁決行と賴朝は決断し、夜討ちに当たっては放火するようにいいます。④北条時政が、本日は三島社神事で夜も人で溢れているだろうから、牛鍬大路を避けて、蛭島通を行くべきだと進言します。⑤これに対して、賴朝は、ことをなす草創だから、大道の牛鍬大路を行くべきだと決めます。⑥兵の祈祷のために住吉小大夫昌長を付け、佐々木盛綱・加藤景廉は宿直として留め置きます。⑦夜討ちに出発し、途上で、北条時政が、山木兼遠の後見堤信遠が山木の北方にいるので、兼遠と同時に討たねばまずいと、佐々木定綱にいいます。案内人を付けるというと、定綱は了承します。⑧子刻(0時)、牛鍬大路から東に行き、佐々木定綱兄弟は信遠宅の前田に至ります。ついで、定綱・高綱は案内人の時政雑色字源藤太を連れて、信遠宅の後ろに回り、経高は前庭に進み矢を発します。⑨信遠郎従が経高に挑むのを射ます。信遠は太刀を取り坤〈南西〉に向かい挑みます。経高は弓を棄てて艮(東北)に向かい、互いに戦います。経高が矢に当たった時、定綱・高綱が後方より加わり信遠を討取ります。⑩北条時政以下は兼遠館前の天満坂へと進み矢を発します。三島神事で多くが出かけて残っていた郎従が対戦します。佐々木定綱兄弟が加わります。⑪賴朝は、厩舎人江太新平次を木に登らせますが、煙が見えないので、宿直の加藤景廉・佐々木盛綱・堀親家に山木に行き加勢するように命じます。この時、手ずから景廉に長刀を与えます。⑫3名は馬に乗らずに山木に駆けつけ、盛綱・景廉は兼隆の首を挙げます。家屋に放火して全焼させます。⑬暁天に凱旋した軍士は庭に並び、賴朝は兼隆主従の首級を検分します。

(2017.09.10)

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About kanazawa45

中国に長年にわたり在住中で、現在、2001年秋より、四川省成都市の西南交通大学外国語学院日語系で、教鞭を執っています。 専門は日本中世史(鎌倉)で、歴史関係と中国関係(成都を中心に)のことを主としていきます。
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