石橋山合戦における北条時政の逃走経路(その3)―歴史雑感〔26〕―

(その1)一、『吾妻鏡』の語る逃走経路

(その2)二、『延慶本平家物語』の語る逃走経路

(その3)三、『吾妻鏡』と『延慶本平家物語』の検討・上

(その4)四、『吾妻鏡』と『延慶本平家物語』の検討・中

(その5)五、『吾妻鏡』と『延慶本平家物語』の検討・下

三、『吾妻鏡』の検討・上

 『吾妻鏡』では敗走後、時政は頼朝に再会して別れ、その後安房国に渡海して、再度頼朝に会った後、この命で甲斐源氏の下に赴いています。一方、『延慶本平家物語』では、敗走後に頼朝と再会した後、自主的に甲斐源氏の下に赴いていて、安房国に渡海した様子はありません。この『吾妻鏡』の示す時政の行動経路が通説となっていて、ほとんどの方が疑問を示すことがありません(五味文彦氏は時政甲斐国逃走説を示しています)。

 さて、この『吾妻鏡』の時政の行動に関する記述には何ら問題はないのでしょうか。まず、頼朝に追従出来なかった時政の逃走について最初に「北条殿、同四郎主等は筥根湯坂を経て、甲斐国に赴かんと欲す」と記述され、これに続いて「同三郎は土肥山より桑原に降り、平井郷を経るの処、早河辺において、祐親法師軍兵に囲まれて、小平井名主紀六久重のため、射取られおわんぬ」と、時政嫡男宗時の戦死を述べます。単独行動を取って宗時は「早河辺」、すなわち小田原市早川町辺で戦死しますが、ここに至る「桑原」「平井郷」の地名は石橋山から早川一帯にかけての範囲では見当たりません。一方、時政・義時父子は「筥根湯坂」を経て甲斐国に向かうとある、「筥根湯坂」とは箱根湯本温泉から箱根新規外輪山を西へと尾根道で箱根神社に至る古道として、平安時代以来の箱根山越えの道です(『日本歴史地名体系』第一四巻神奈川県の地名一九八四年平凡社参照)。以上、時政・義時と宗時とは別経路で逃走したように見えますが、石橋山・椙山から東北に向かい、箱根外輪山を越えて湯本に至り、その後、時政・義時は西に湯坂道を、宗時は東に早川沿いに下ったとするのが至当です。すなわち、時政は東北に逃走して箱根外輪山を越えて、湯本から湯坂道を経て甲斐国へと向かおうとしたことになります。

 ところが、『吾妻鏡』では夜に至り椙山に敗走した頼朝ところで再会します。この途上で、筥根山別当行実の派遣した弟永実と遇い、共に頼朝の下に行きます。頼朝は石橋山から箱根外輪山を西南へと逃走して椙山に至ったことになります。ということは、箱根外輪山を東北に向かい越えて湯本に至った時政が再び箱根外輪山を越えて西南に向かったことになり、進路を反転したことを意味します。しかるに、『吾妻鏡』八月二十五日条に、

家義御跡を尋ね奉り参上す。武衞御念珠を持参するところなり。これ今暁合戦の時、路頭に落とせしめ給う。日ごろ持ち給うの間、狩倉辺に於いて、相模国の輩多くもって見奉りの御念珠なり。よりて周章し給うのところ、家義これを探し出す。御感再三に及ぶ、しかして家義御供に候べきの由申す。実平先の如く諫申の間、泣いて退去しおわんぬ。

と、大庭軍の一員で相模武士の飯田家義が戦場で落とした義朝所持の念珠を持って頼朝の下に訪れます。このことは大庭軍の武士の中にも頼朝に心を寄せる武士がいたことを示していると同時に、大庭軍が敗走する頼朝軍、とりわけ頼朝の捕捉を求めて、箱根山外輪山を石橋山から土肥郷へと向かって西南へと追撃したことを示しています。とするなら、石橋山から椙山にかけて、さらにはその西南の筥根山外輪山には頼朝を捜索する大庭軍の武士で溢れていたことになります。

(続く)

(2016.09.10)

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About kanazawa45

中国に長年にわたり在住中で、現在、2001年秋より、四川省成都市の西南交通大学外国語学院日語系で、教鞭を執っています。 専門は日本中世史(鎌倉)で、歴史関係と中国関係(成都を中心に)のことを主としていきます。
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