(その1)一、『吾妻鏡』の語る逃走経路
(その2)二、『延慶本平家物語』の語る逃走経路
二、『延慶本平家物語』の語る逃走経路
石橋山合戦後の北条時政の逃走経路に関して、『吾妻鏡』以外に記述しているのは『平家物語』諸本で、この代表が最古態本の『延慶本平家物語』です。この第二末・十三石橋山合戦事に、二十四日の敗走後、峰の臥木にいた頼朝の下に敗走してきた味方武士が集まってきたところ、
頼朝思様アリテコソカク云ニ猶シヒテ落ヌコソアヤシケレ、格存旨ノ有カト重テ宣ケレハ此上ハトテ思々ニ落行ケリ。北条四郎時政同子息義時父子ハソレヨリ山伝ニ甲斐国ヘソ趣ケル。
とあるように、武士たちに頼朝は各自思い思いに逃走するようにと言います。これにより北条時政・義時父子は頼朝と別れて、甲斐国を目指して逃走します。
そして、頼朝は、
兵衛佐ニ付テ山ニ有リケル人トテハ土肥二郎、同子息弥太郎、甥ノ新開荒二郎、土屋三郎、岡崎四郎已上五人、下ニテ土肥二郎カ小舎人男七郎丸兵衛佐ヲ具シ奉テ上下只七騎シ有ケル。
と、土肥実平一族の少数者に守られて山に隠れます。
次いで、『延慶本平家物語』第二末・十六兵衛佐安房国ヘ落給事に、本拠の相模国衣笠城から安房国に三浦一族が落ちたことを聞いた頼朝は、
小浦ト云所ヘ出給テ、海人船一艘ニ乗リテ安房国ヘソ趣給ケル。
と、安房国に渡海します。
一方、『延慶本平家物語』第二末・十七土屋三郎与小二郎行合事に、
サテ北条四郎時政ハ甲斐国ヘ趣、一条武田小笠原安田板垣曽禰禅師那古蔵人、此人々ニ告ケルヲハ、兵衛佐知給ハテ、此事ヲ甲斐ノ人々ニ知セハヤトテ、宗遠行トテ、御文書テ遣シケリ。(中略)甲斐国ヘ趣テ、一条二郎カ許ニテソ有ノマゝニハ語ケル。
とあって、時政は甲斐国に到着して、武田信義以下の甲斐源氏に面会します。このことを知った頼朝は石橋山合戦後の現況を告げるために、土屋宗遠を甲斐国に派遣し、宗遠は甲斐国に至り、一条忠頼(信義男子)に面会して、石橋山合戦の実態とそれ以後の現況を包み隠さず告げます。
以上、『延慶本平家物語』では石橋山合戦敗走後、一度は頼朝と再会した時政は別れて甲斐国を目指して、甲斐源氏の下に至ります。この行動は頼朝の指示というより自主的なものです。時政は安房国への渡海はしていないのです。
(続く)
(2016.05.25)