石橋山合戦における北条時政の逃走経路(その1)―歴史雑感〔26〕―

(その1)一、『吾妻鏡』の語る逃走経路

(その2)二、『延慶本平家物語』の語る逃走経路

(その3)三、『吾妻鏡』と『延慶本平家物語』の検討・上

(その4)四、『吾妻鏡』と『延慶本平家物語』の検討・中

(その5)五、『吾妻鏡』と『延慶本平家物語』の検討・下

一、『吾妻鏡』の語る逃走経路

 1180年(治承4)8月23日黄昏に開始されて、翌24日午前には勝敗が付いた石橋山合戦で、頼朝軍の武士は敗走していきました。頼朝は自ら弓を射て戦いますが、矢が尽きて山に逃げ込みます。一方、北条時政父子は、『吾妻鏡』同二十四日条に、

北条殿父子三人、また景親等と、攻戦せしめ給うによりて、筋力しばし疲れるや、峯嶺を登るにあたわずの間、武衞に従い奉らず。

と、頼朝に追従出来ませんでした。

 次いで、

北条殿、同四郎主等は筥根湯坂を経て、甲斐国に赴かんと欲す。同三郎は土肥山より桑原に降り、平井郷を経るの処、早河辺において、祐親法師軍兵に囲まれて、小平井名主紀六久重のため、射取られおわんぬ。

とあるように、時政・義時父子は戦場から逃れて、「筥根湯坂」を経て、甲斐国を目指そうとしました。一方、義時兄宗時は父時政とは別行動を取り、早河辺、すなわち現在の神奈川県小田原市早川で、追撃してきた伊東祐親軍の紀六久重によって討ち取られます。

 そして、

晩におよび、北条殿椙山陣に参着し給う。

と、敗走中の時政は夜に石橋山後方の椙山の頼朝の所に至ります。これ以前、

筥根山別当行実、弟僧永実を差し、御駄餉を持たしめ、武衞を尋ね奉る。しかしてまず北条殿に遇い奉る。

と、箱根山別当行実の弟永実と遇い、共に頼朝の下に行きます。ここに時政は頼朝と再会したことになります。その後、頼朝は箱根山別当行実の支援により箱根山(箱根神社)に隠れます。

 しかし、翌25日、親平家の行実弟良暹に危険を感じ、『吾妻鏡』同日条に、

山案内の者を召し具し、実平ならびに永実等筥根通りを経て土肥郷に赴き給う。北条殿は事の由を源氏等に達せんがため、甲斐国に向かわられる。行実同宿南光房を差してこれを送り奉る。くだんの僧を相伴い、山臥の巡路を経て、甲州に赴き給う。しかして武衛到着の所を見定めずば、源氏等を催し具さんと欲すといえども、彼もって許容せずか。しからばなお御後を追って参上せしめ、御居所より、さらに御使として、顔向すべきの由、心中思案せしむ。立ち還ってまた土肥方を尋ね給う。

とあるように、頼朝は箱根山を去り土肥実平等と共に土肥郷に潜伏しようとします。一方、時政は石橋山合戦の子細を伝えるため、山伏の道を経て甲斐源氏のいる甲斐国に赴こうとします。もちろん、これは甲斐源氏に応援を頼むためでしょう。しかし、頼朝の土肥郷到着の無事を確認しなくては説得力がないとして、戻って土肥郷を目指します。

 そして、『吾妻鏡』二十七日条に、

北条殿、同四郎主、岡崎四郎義実、近藤七国平等、土肥郷岩浦より船に乗らせしめ、また房州を指し纜を解く。しかして海上において舟船を並べ、三浦の輩と相逢い、たがいに心事伊鬱を述ぶとうんぬん。

とあり、時政・義時父子は岡崎義実等と共に土肥郷から相模湾に船で乗り出し、安房国を目指します。そして、海上で三浦半島から逃れ出た三浦一族と会合します。

 一方、頼朝は実平と共に、28日、土肥郷真鶴岬から船に乗り安房国を目指します。『吾妻鏡』二十九日条に、

武衛実平を相具し、扁船に棹さし、安房国平北郡獵嶋に着かせしめ給う。北条殿以下人々これを拜迎す。数日欝念、一時散開すとうんぬん。

とあるように、頼朝は安房国に到着し、時政等と再会します。安房国に逃れた頼朝は味方を募るべく、各地の武士に書状を送る一方、安達盛長を使者として下総国の千葉常胤に派遣し参加を求めます。

そして、『吾妻鏡』九月八日条に、

 北条殿使節として、甲斐国に進発し給う。かの国源氏等を相伴い、信濃国に到り、帰伏の輩は、はやこれを相具し、驕奢の族に至りては、誅戮を加うべきの旨、厳命を含むによりてなり。

とあるように、時政は甲斐源氏を味方にするため、使者として派遣されます。

 次いで、『吾妻鏡』十五日条に、

武田太郎信義、一条次郎忠頼已下、信濃国中の凶徒を討ち得て、去夜甲斐国に帰り、逸見山に宿す。しかして今日北条殿その所に到着し給い、仰せの趣を客等に示されるとうんぬん。

とあるように、信濃国伊那谷に出陣して凱旋の勝利で甲斐国逸見に戻った武田信義に時政は会見して頼朝の意を伝えました。

 上総国の豪族上総広胤の参加を得て、房総半島を席巻した頼朝は、20日、土屋宗遠を使者として甲斐源氏の元に派遣します。そして、『吾妻鏡』二十四日条に、

 北条殿ならびに甲斐国源氏等、逸見山を去り、石禾御厨に来たり宿すのところ、今日子尅、宗遠馳せ着き、仰せの旨を伝う。よりて武田太郎信義、一条二郎忠頼已下群集し、駿河国に参会すべきの由、おのおの評議を凝らしうんぬん。

とあるように、使者土屋宗遠が24日に甲斐源氏の下に到着して、頼朝の意を伝え、これにもとづき駿河国進出の軍議を開きます。当然ながら、この席には時政も参席しています。

 以上、『吾妻鏡』の伝える石橋山敗戦後の北条時政の行動は、要約すると、まず戦場から北に逃走して、その後、西の椙山に逃走した源頼朝と再会して、その命で甲斐国に赴こうとしましたが、土肥郷に下り頼朝とは別個に乗船して、安房国でまた再会し、そして、頼朝の命で甲斐源氏を味方に募るため、甲斐国に赴き、甲斐源氏棟梁武田信義に面会した、ということです。

(続く)

(2016.05.10)

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About kanazawa45

中国に長年にわたり在住中で、現在、2001年秋より、四川省成都市の西南交通大学外国語学院日語系で、教鞭を執っています。 専門は日本中世史(鎌倉)で、歴史関係と中国関係(成都を中心に)のことを主としていきます。
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