源義経は名将か?否〔改訂〕(その6)―歴史雑感〔20〕―

(その1)一、はじめに

(その2)二、瀬田・宇治合戦

(その3)三、福原合戦〈1〉作戦目的

(その4)四、福原合戦〈2〉『玉葉』による福原合戦

(その5)五、福原合戦〈3〉『吾妻鏡』・『平家物語』による三草山合戦

(その6)六、福原合戦〈4〉『吾妻鏡』・『平家物語』による福原合戦

(その7)七、福原合戦〈5〉源平両軍の配置

六、福原合戦〈4〉『吾妻鏡』・『平家物語』による福原合戦

 三草山合戦敗退の報を受けた平家軍は次のような防衛体制をとります。義経軍の北からの攻撃に備え、山の手口(鵯越山際)に、従前の侍大将平盛俊に加えて、平通盛・教経兄弟を増援して防衛線とします。大手の生田森口には従前通り大将軍として平知盛・重衡兄弟(平家軍最有力の武将)を、搦手の一谷口には従前通り大将軍として平忠度(彼以外は不明)を配置します。この武将配置からみても、平家軍の主力が生田森であると考えるのが至当です。

 三草山合戦に勝利した義経軍は軍を二分します。『延慶本平家物語』では、義経は7千騎を率いて鵯越を、土肥実平が3千騎を率いて山の手を目指します(よく読まれている語り本系『平家物語』では実平は一谷を目指します。兵力比も逆です。なお、『吾妻鏡』では鵯越の兵力が70騎とごく少数です)。そして、6日夜、義経は鵯越山に到達し、眼下に東に昆陽野、南に大物浜、西に一谷と全戦線を一望にします。一方、平通盛兄弟が山の手に陣取る灯りを見た範頼軍は義経軍の進出と判断して、6日、昆陽野から武庫川を渡り生田森に布陣します。(語り本系『平家物語』には以上のことは触れていません)。以上、実平の目標が山の手か一谷かで諸本により異なるのです。注意すべき点と考えます。ともあれ、両軍の配置からして、生田森が主戦場であることは明らかです。そして、6日夜、生田森では源平両軍が対峙し、それぞれの陣はかがり火で輝いたのです。

 義経軍の鵯越の途中経緯については『平家物語』諸本により細部は異なりますが、東国武士は誰も地理を知らなかったため、通案内人探しに苦労したことを一致して述べています。しかし、義経の意図や具体的進路は記していません。

 さて、福原合戦は、7日卯刻(8時)、熊谷直実父子と平山季重の一谷先陣争い後、熊谷父子の攻撃で、戦闘を開始します。熊谷・平山ともに義経に属していたのですが、山越えの悪所では先駆けができないので、単独行動で一谷正面に出てきたのです。熊谷直実は『延慶本平家物語』では西から播磨路に降りて一谷正面に出たとしますが、語り本系の覚一本『平家物語』では田井の畑という古道を経て一谷正面に出たとします。この覚一本の経路は一谷北にそびえる鉄拐山のさらに北の田井畑(神戸市須磨区田井畑)を通る古山陽道の脇道です。義経軍から分かれたのであれば、覚一本の経路が合理的といえます。この熊谷父子の先陣に対して平家方で応戦したのが平盛嗣・伊藤忠光・伊藤景清(何れも平家有力家人の一族)であると『平家物語』は記しています。この後、成田五郎に続いて、実平軍(『延慶本平家物語』でも。この点、義経軍を二分した時の説明と矛盾しています)が戦闘に加わり、一谷戦線は全面的戦闘状態に入るのです。

 一方、生田森は、河原高直兄弟の単独先陣とその戦死で、戦闘が開始されます。次いで、梶原景時父子一党が攻撃をかけ、それから全面攻撃となります。こうして、東西の戦線は全面的戦闘状態となり、両軍の死闘が続きます。しかし、『平家物語』諸本はその経緯は伝えていません。

 この源平両軍の死闘を、義経は『延慶本平家物語』では一谷北の鉢伏山(神戸市須磨区一谷町の北にそびえる鉢伏山・鉄拐山と考えられています)から、覚一本では「鵯越」から見下ろします。三浦一族の佐原義連を先頭に義経軍は逆落としに一谷の平家軍の背後を衝きます。これがよく知られた義経の一谷逆落としの奇襲です。この後、源氏軍は平家軍の仮屋に放火し、西風に乗り仮屋は延焼し、平家軍は海へと敗走となり、勝負がつきます。

 『平家物語』諸本では、この後、平家の諸将の戦死の様子を本合戦の記述において最大の量を費やして詳細に個別に述べています。この中で最も著名なのが「敦盛最後」で物語としての価値を高めています。以上で、本合戦を終えます。そこでは戦死した将と、諸本により若干の相違はありますが、その討手が書かれています。他方、先に述べたように、源氏軍は源範頼・源義経・甲斐源氏安田義定の3軍編成で、『吾妻鏡』には各軍が討取った平家軍の将の交名が載せられています。この両者をつき合わせて一覧にしたのが以下です。

〔源範頼〕  平通盛(門脇家・山の手)   佐々木源三盛綱(義経)・玉井四郎資景

       平忠度(清盛末弟・一谷)   岡部六弥大忠澄(義経)

       平経俊(修理大夫家・予備)   ?

〔源義経〕  平敦盛(修理大夫家・予備)  熊谷二郎直実(義経)

       平知章(嫡宗・生田森)    児玉党

       平業盛(門脇家・山の手)   比気四郎or土屋五郎重行

       平盛俊(嫡宗侍大将・山の手) 猪股小平太則綱(義経)

〔安田義定〕 平経正(修理大夫家・予備)  河越小太郎重房(義経)

       平師盛(門脇家・山の手)   河越小太郎重房or畠山二郎重忠(義経)

       平教経(門脇家・山の手)    ?

 平家軍の将の括弧内は出自と持ち場、討つ手の括弧内は『延慶本平家物語』による所属を示しています。

 これ以外に、梶原景時(範頼)らが平重衡(嫡宗・生田森)を生虜にしています。以上が、『吾妻鏡』・『平家物語』の伝える福原合戦です。まさしく、義経の鮮やかな奇襲の成功により源氏軍が勝利したことになっています。ここでは義経は英雄なのです。

(2015.10.20)

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About kanazawa45

中国に長年にわたり在住中で、現在、2001年秋より、四川省成都市の西南交通大学外国語学院日語系で、教鞭を執っています。 専門は日本中世史(鎌倉)で、歴史関係と中国関係(成都を中心に)のことを主としていきます。
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