2015年11月24日(火)、修善寺温泉を訪れたので、ここの源氏関係遺跡を巡りました。そこで、これを紹介します。写真1は、修禅寺本堂です。紅葉期に入りかけたので、手前に紅葉を写し込んでいます。

修善寺から南に桂川を渡ったところが鎌倉幕府2代将軍源頼家墓です。1203(建仁3)年9月、頼家は比企氏の変(実体は舅北条時政クーデター)で将軍を追放されて、伊豆国修善寺に押し込められて、次いで翌年7月、暗殺されます。写真2が、墓正面です。中央の石碑は1704(元禄4)年の5百周忌に修善寺住職智船が建立した供養石碑です。その後方に2基の小五輪塔が残存して、これが墓とされています。

写真3は、後方から見た墓です。御覧のように五輪塔は地輪など一部が欠損しており、また上部のそれは五輪塔のものではなく、不完全なもので、後世の手が入っています。

頼家墓の西(右)の建物が写真4、指月殿です。頼家の冥福を祈り母北条政子が建立したと伝えるもので、伊豆最古の木造建築物といわれます。

修禅寺へと戻り、道を西へと上流に取り、約200m余に北(右)への小道の所に「源範頼墓」の案内標がありますから、この小道に入り上っていくと、西(左)の小路の所に「源範頼墓」の案内標がありますが、そのまま直進して急になる坂を上っていき、道路の下をくぐると、梅林への小路となります。ここを20mほど入ったところが、鎌倉幕府初代将軍源頼朝の伊豆国流人時代からの側近であった、安達盛長墓です。約250mほどです。写真5は、宝篋印塔の盛長墓とされるものです。御覧のように相輪などを欠いており、塔身は石材が異なります。隅飾の張り出しが少ないことから南北朝期まで遡ることができる作と考えられます。なお、本墓は旧範頼墓の近傍にあったのが、現在地に移転されたものです。

写真6は、盛長墓の全体で、宝篋印塔の後方には何基かの宝篋印塔と思われる残存が置かれています。盛長は武蔵国の有力武士の足立氏の一族で、埼玉県鴻巣市糠田の放光寺に南北朝期作の伝安達盛長木像があり、同寺が館址との伝承を残しており、何故に縁がなさそうな修善寺の地に墓があるか不思議なところです。ですが、次ぎに行く、源範頼墓との関係からかと思われます。それは修善寺で誅されたとされる範頼の舅が盛長(盛長と頼朝乳母比企の尼長女とが婚姻して、その娘が範頼正室)という所縁からだと思えます。範頼の死後、この菩提を盛長が弔い、盛長死後に以上の縁から、盛長の分墓が当地に設けられたのかと考えます。

道を戻り、先の案内標の所で、小路へと西(右)に歩くと、道なりに約200m行って、少し高まったところが頼朝異母弟源範頼墓です。範頼は治承・寿永の内乱で「官軍」(平家討伐軍)の大将軍として九州の地まで遠征して、その勝利に貢献しました。三河守に任官して門葉源氏の一人として鎌倉幕府で主要な地位を占めましたが、1193(建久4)年8月、頼朝の嫌疑を受けて、伊豆国に追放となり、そこで誅されとされます。ただ、修善寺に追放され、ここで誅されたかは確かな史料はなく、また死去した地に関しても複数の伝承があり、その最後は確かではありません。写真7は、墓正面からで、五輪塔です。なお、本墓は昭和初期のバイパス工事で失われて、現在地に再建されたものです。

写真8は、五輪塔を斜め左から見たものです。本塔は日本画家・安田鞆彦氏のデザインによる1932年の作です。

最後の写真9は、斜め後方から墓全体を見たものです。

(2015.11.26)
〔付記〕 富田氏のご教示により、若干の補正を行いました。記して感謝します(2015.11.27)。