源義経は名将か?否〔改訂〕(その3)―歴史雑感〔20〕―

(その1)一、はじめに

(その2)二、瀬田・宇治合戦

(その3)三、福原合戦〈1〉作戦目的

(その4)四、福原合戦〈2〉『玉葉』による福原合戦

(その5)五、福原合戦〈3〉『吾妻鏡』・『平家物語』による三草山合戦

(その6)六、福原合戦〈4〉『吾妻鏡』・『平家物語』による福原合戦

 (その7)七、福原合戦〈5〉源平両軍の配置

三、福原合戦〈1〉作戦目的

 1184(元暦元)年2月7日、福原合戦(一谷合戦)は行われました。摂津国福原(兵庫県神戸市兵庫区等)に拠を構える平家軍に対して、源氏軍が攻撃し、平家軍を海に追落し、源氏軍が勝利したのが本合戦です。

 前年7月に都落ちした平家は西国に下り、巻き返しを図りました。それが着々と実り、本年初には、福原にまで進出し、東は生田森(同市中央区生田神社辺)、西は一谷(同市須磨区一谷町辺)に、山際から海へと南北に防御施設を構築して、福原一帯を中核として「福原城」と称された城郭としたのです。この後背として、大輪田泊に代表されるように海が控えていました。そして、ここを拠点として、平家は京都の再奪還を図ろうとしていたのです。

 この平家の一大拠点の福原へ、源氏軍は京から二方面軍に分かれて攻撃するのです。主力は源範頼が大将軍に大手の生田森を、源義経と甲斐源氏安田義定を大将軍とする別軍が搦手の一谷を目指すのです。すなわち、3軍編成なのです。(彦由一太氏「甲斐源氏と事情寿永争乱」『日本史研究』43号参照)

 では、源氏軍の合戦目的はなんでしょうか。平家の再入洛の阻止は、平家の都落ちに同行せず、さらに安徳帝がいるにもかかわらず後鳥羽帝を践祚させて、平家を「逆賊」とした後白河院としても、もっとも切実なものです。頼朝は後白河院を推戴することで、おのが立場を「官軍」として正当化できたのです。したがって、第1に、平家が京都の再奪還を目途としていた以上、逆に源軍はその企図の阻止ということになります。そのため、福原城を拠点とする平家軍を、海に追落して、その拠点を破砕することです。すなわち、平家軍の撃破です。

 平家は都落ちに際して、安徳帝のみならず、三種の神器も保持してゆきました。すなわち、後鳥羽帝は三種の神器なしに践祚しています。このことはその正当性が揺らぐことになります。後白河院としては、是非ともその無事な奪還は皇位継承の正当性上欠かすことのできないものです。したがって、第2に、三種の神器の無事な京都への帰還です。同様に安徳帝の無事帰還もです。すなわち、三種の神器・安徳帝の確保です。この第2のことは、後白河院にとって、平家戦における至上命令なのです。それ故、これは一谷合戦のみならず、以後の合戦においても同様なことなのです。

 作戦目的において、瀬田・宇治合戦では後白河院の保護が第1で、木曽義仲排除が第2でしたが、福原合戦では平家軍撃破が第1で、三種の神器・安徳帝の確保が第2と、優先順位が逆転しています。これは、次節述べるように平家軍は義仲軍が小勢であったのとは対称的に万を超える大軍であった事、三種の神器・安徳帝は陸上(福原)にいるにせよ、海上(船)にいるにせよ、多数の護衛に守られているとすべきで、この確保にはまず平家軍を撃破せねば成功はない以上、当然のことといえます。したがって、源氏軍の攻撃がまず平家軍の撃破を目指して行われることが必然となり、両軍主力の激突が予想されるのです。

 義仲攻めから2週間余で福原合戦が生起したことからして、鎌倉・京都の連絡期間を考えても、東国軍の上洛に際して、福原合戦は事前の頼朝指示にもとづくものです。同時に、前段でのことを考えると、それは後白河院の強い意志によるものであることが分かります。

(2015.08.05)

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About kanazawa45

中国に長年にわたり在住中で、現在、2001年秋より、四川省成都市の西南交通大学外国語学院日語系で、教鞭を執っています。 専門は日本中世史(鎌倉)で、歴史関係と中国関係(成都を中心に)のことを主としていきます。
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