(その1)一、はじめに
(その2)二、瀬田・宇治合戦
(その3)三、福原合戦〈1〉作戦目的
(その4)四、福原合戦〈2〉『玉葉』による福原合戦
(その5)五、福原合戦〈3〉『吾妻鏡』・『平家物語』による三草山合戦
(その6)六、福原合戦〈4〉『吾妻鏡』・『平家物語』による福原合戦
(その7)七、福原合戦〈5〉源平両軍の配置
一、はじめに
治承寿永内乱での活躍にもかかわらず、異母兄頼朝と対立して奥州平泉で悲劇の最後を遂げたことで、義経は中世以来現在にいたるまで悲劇の英雄として大衆の人気を博しています。それは、『義経記』があっても、『頼朝記』がないことでも明らかです。
故司馬遼太郎氏が、日本では例外ともいえる騎兵戦術の運用の才があり、天才的武将と評価していることに代表されるように、一般の方にも義経が名将であることは定説化しています。ドラマ・映画でもそう描かれ、一谷合戦はそのハイライトになっています。
しかしそうでしょうか。名将とはなんでしょうか。どう定義されるべきでしょうか。「戦(いくさ)」に強い。普通はそう考えるでしょう。では「戦」とはなんですか。複数の国が参加し千万人を越える兵力が投入された、第2次世界大戦もあれば、隣りあった家が争う数人規模のものもあります。「戦」といっても千差万別なのです。したがって、「戦」に強いといっても如何なるレベルの「戦」であるかが明らかにならなければなりません。
あらためて治承・寿永内乱における義経の立場を考えてみましょう。周知のように、東国の武士に担がれ伊豆国に挙兵した異母兄頼朝は対平家戦において自身では出陣せず、おのれと主従関係にある東国武士を主力として西国に派遣しました。その西国派遣軍の最高司令官の一人が義経なのです(もう一人は異母兄範頼)。当然のことながら、指揮下にある東国武士はそのほとんどが彼と主従関係になく、兄頼朝の預けたものです。したがって、義経は頼朝代理として出陣している以上、兄頼朝の代弁者であり、ひいては頼朝が東国武士に担がれている以上、その代弁者でもあります。そのためにこそ義経は最高司令官であることができるのです。
義経の立場が明らかになれば、その評価において、その立場において何をなさなければいけなかったことから判断を下すのが当然となります。
頼朝、ひいては東国武士は何ゆえに、反乱に立ち上がったのでしょうか。彼らの目的は何でしょうか。これに関しては歴史研究上からいえば、かならずしも一つの見解に集約されるものではなく、異なる意見があります。むしろ複合した目的があったといってもいいでしょう。この点を論じるとそれだけで大部の論文ができますので、ここでは論証を抜きに簡潔な結論のみを示します。「国は国司に随ひ、庄は預所に召し使はれ」(『平家物語』巻第四)と表現されているように、従前の京都(公家)に従属した地位を脱却しておのが自立を果たさんとするものです。平将門の夢はそのための最終地点たりえたでしょう。近来の歴史研究の成果からいえば、武士の自力救済原理の確立です。もちろん、これのみでは武士間の紛争を止めることできないです。個々の武士の上に立つ武家の棟梁がその調停・裁定者の役割を果すこと(統治的支配権)になります。頼朝を担いだ東国武士は、彼に武家の棟梁の役割を求め、かつ自力救済原理にもとづく京都に自立した権力を打ち立てんと欲したのです。むろんそれは願いであって、実際の歴史の動きの中で妥協はありえますが。
では個々の武士は何を求めたのでしょうか。なぜ頼朝に代表される武家の棟梁と主従関係を結んだのでしょうか。当然ながら「一所懸命」の言葉が表すように自己の土地に対する権利の保障を求めるからです。それに加えて、その土地の拡大を果たしてくれることです。すなわち本領安堵と新恩給与です。これを保障してくれるからこそ、武士は棟梁のために自己の命を賭す、すなわち「奉公」を尽くすのです。この「御恩」と「奉公」の関係(主従的支配権)が中世武士団の基本です。棟梁はそのためにこそ存在するのです。
かかるように、総体的に京都に独立した自力救済原理の確立、個別的には本領安堵と新恩を求めて、東国武士を中核として全国に反乱が拡大したのが治承・寿永の内乱(源平合戦)です。頼朝はその嚆矢であり、そのもとに東国武士の多くが結集したのです。
以上のように、東国武士が反乱に参加したと考えます。このことに立脚してこそ、義経の評価ができるのです。
1180(治承4)年10月、富士川合戦で源氏軍勝利直後に、義経は頼朝のもとに奥州より参加しました。その後、1183(寿永2)年7月、平家を都落ちさせて、入洛した木曽義仲は次第に孤立し、一方京の後白河院は東国の頼朝に救援を求めました。そこで、頼朝の代官としてこの冬、少数の兵を率いて上洛したのが義経です。これが義経の中央への登場の最初です。この後、宇治合戦・福原合戦(一谷合戦)・屋島合戦・壇浦海戦と連戦連勝したことは周知のことです。
そのいずれの合戦においても頼朝代理としての西国派遣軍最高司令官が義経の立場です。そこで改めて、これを基本において個別の合戦での義経の役割とその評価を考えて見たいと思います。
なお、日記類に代表される同時期史料では各合戦の経過などの詳細には触れておらず、具体的な合戦経過を知ることはできません。したがって、『平家物語』諸本をも利用するしかないのです。『平家物語』はいくつかの説話群、例えば義仲説話、からなっており、義経説話もその一環です。これらは基本的にその周囲で起きた出来事も彼一人の出来事と集約されており、かならずしも彼自身の行動と保障することはできないのです。しかもこれらには、悲劇の英雄として描く立場があってなおさらです。それですから、真の合戦の経過とそこにおいて義経がどう行動したかは『平家物語』諸本だけでは明証されないのです。この限界を心得て以下において個別合戦の分析を行いたいと思います。
(続く)
〔付記〕 『歴史と中国』「源義経は名将か?否―歴史雑感〔1〕―」(2004年12月1日付)以下を改訂したものです。今後の続きも同様になります。
(2015.07.15)