小田原城御用米曲輪―歴史雑感〔13〕―

 2014年3月8日(土)、小田原城御用米曲輪発掘調査の第7回現地説明会が行われました。そこで、発掘に伴う戦国期後北条氏時代の遺構に関して紹介したいと思います。同曲輪は江戸期の小田原城本丸の北側に接して、南側東寄りに二の丸の北側虎口の裏御門があります。江戸期には幕府の蔵があったことから、この名称となりました。2010(平成22)年からの第2~5次調査により、後北条氏時代の池・庭園などの注目すべき遺構が発掘され、居館遺構の様を見せています。

 写真1は、東南側から見た、今回公開された発掘調査地全景です。全体が5区に区分されています。発掘調査地の左側(南)が本丸で、その後方に台地上に見えるところが後北条氏時代の小田原城の中核とされる八幡山古郭の東郭跡です。

 写真2は、東端の池遺構の全景です。調査範囲内で外周が45m以上あり、ご覧のように湾曲した造形の池となっています。池の護岸には石積み(残存部で高約190cm、13段を確認)がなされて、これには石塔の部材も使用されています。また、池は小型な上部のものと、ご覧の大きな下部のものと2段になっており、北から水が供給されて、下へと落ちるようになっています。池底から16世紀後半の「かわらけ」が出土したことから、後北条氏の造成と考えることが出来ます。

 写真3は、第二区の石組井戸遺構です。この他、井戸遺構は何か所か発掘されています。本区には石組水路・砂利敷遺構・溝状遺構なども見られます。

 写真4は、第三区の切石敷き庭園です。写真をご覧のように、3種類の石、黄色の鎌倉石(三浦半島の凝灰岩)と黒色の風祭石(箱根の凝灰岩)とを不規則に組み合わせて、これに大きな安山岩を配置しています。中央には井戸状の円形杭があり、ポイントとなっていますが、その用途に関しては不確かです。このような形式の庭園は同時代には見られず、後北条氏の独自の発想によるものと考えることが出来ます。以上、先の池遺構とともに、本遺構は居館の癒やし空間と考えることが出来、本郭が後北条氏にとって重要な居館空間であったと考えることが出来ます。本区には石組水路・石列・礎石建物・柱穴群などが見られます。

 写真5は、第四区のほぼ全景で、手前右は石組水路で、左は礎石建物です。それらの遺構は随所に見られ、本郭には多くの建物(現在のところ10棟以上が確認され、最大の建物は7間以上の規模)と、建物の周りに水路や石列が配置されています。また、奥左側には後述する石切敷き井戸遺構があります。本区には井戸・礎石建物・石組水路などが見られます。

 写真6は、第五区の玉石敷遺構です。本区には堀立柱建物・礎石建物などが見られます。

 写真7は、本丸から見た切石敷き井戸です。直径約0.8m、円礫を4m以上積み上げた石積み井戸です。写真でご覧のように、上面には井戸を囲んで切石が敷かれています。約2.5m四方です。敷石は鎌倉石と風祭石で、切石敷き庭園と同様です。他の井戸とは異なり丁寧な造作であり、特別な用途の井戸と想像できます。

 最後の写真8は、同じく本丸から見た発掘調査地全景です。今回公開された発掘調査地では、二の丸寄りの南側には東から西へと池、砂利敷きの空間、切石敷き庭園が広がり、その西・西北側には礎石建物を中心に石組水路で区画された建物群が配置されていたことになります。以上、戦国期の居館遺構としては貴重なものであるとともに、池・切石敷き庭園という他に例を見ない独自なものがあり、後北条氏独自の文化を表現したものと見ることが出来そうです。まだ、未発掘地もあり、発掘調査は今後も継続されますから、どの様な新発見があるか楽しまれます。

なお、フォトアルバム「小田原城御用米曲輪」はhttps://1drv.ms/f/s!AruGzfkJTqxngpkesAjd-hp7j2wR9Qです。

(2014.03.10)

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About kanazawa45

中国に長年にわたり在住中で、現在、2001年秋より、四川省成都市の西南交通大学外国語学院日語系で、教鞭を執っています。 専門は日本中世史(鎌倉)で、歴史関係と中国関係(成都を中心に)のことを主としていきます。
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